BlueRose-Extra. ロンドンデリーの歌 (本編読了推奨)


 そのライブの最中、どうしようもなく泣けてきて、私は声を殺す努力をしなければならなかった。
 薄暗い客席で、本当は顔を伏せて大声で泣きたかったけど許されるはずもなく。それに目を逸らすこともできなくて、ステージを見つめたまま両手で口を押さえて、馬鹿みたいに私は泣いた。
 込み上げる想いの名は判らない。ただ、
(よかったね───)
 それだけの気持ちで胸がいっぱいになる。
「おい、どうした」
 隣の相方が慌てたように覗き込んでくる。私は涙を流し続けている顔で、にかっと豪快に笑ってみせた。
「なんでもないよ」
「なんでもないって、おまえ」
「うっさい。ちゃんと聴いてろ」
 無理矢理ステージのほうを向かせる。
 眩しい光を放つ場所には、ふたりの男女が立っていた。そして…。
 また、涙が込み上げる。
(よかったね。ホントに。…よかった、よかったね───…)





■1
 叔母さんのことは、もうよく覚えてない。
 どんな顔でどんな声だったか、もう思い出せない。
 叔母さんの息子───私の従弟───とは、今でもたまに会うけど、叔母さんとはもう何年も会ってないから。

*  *  *

 叔母さん───ひーちゃんを思い出そうとすると、彼女は必ず唄っている。きれいな声で囁くように、息をするように唄う。料理をしながら、公園で遊びながら、お風呂に入りながら。私と従弟が眠る布団の傍らで、子守歌を唄う。
 そしてまるでそれが遺伝したかのように、従弟もよく唄っていた。喋るより唄うほうが多いくらいに。
「ひーちゃんたちって、いっつも唄ってるよね」
 幼い私がそう言うと、ひーちゃんは微笑んだ。
「おばさんがあの子に教えられるのはこれだけなの」
「うまく唄えるべんきょう?」
「ちがうちがう。そんな大変なこと、教えられないよ」
「じゃあ、なぁに?」
「いろんな歌がいっぱいあるってこと。それらを唄うのは楽しいってことを、おばさんはけーちゃんに知ってもらいたいの。こーちゃんも一緒に唄う?」
「うたうー」
 ひーちゃんが教えてくれた歌のいくつかは、今も時折、喉から込み上げる。彼女がいるのはいつも、優しい思い出のなかだった。




 ここだけの話、従弟───けーちゃんは泣き虫だった。幼稚園でもいじめられていたようで、よく泣かされて帰ってきた。
「けーちゃん、また泣いてるの?」
 幼少時の3歳差は大きい。一人っ子の私は、この年下の従弟に姉貴風を吹かせたものだ。
「こーちゃん」
「まったくもー。男の子はそんな泣くもんじゃないって、おじさんも言ってたでしょ!」
 ぽかり、と頭を叩くとけーちゃんはびっくりするほど大声で泣き出した。小さい体で、声だけはでかいんだ、この子は。
 手をつなぎ家に連れて帰ると最初に出迎えたのはおじさんだった。大声で泣き続けているけーちゃんの脳天にガン、と拳を振り下ろす。
「うるさい」
 と、その一言でけーちゃんを黙らせた。
「…」
 声を詰まらせてけーちゃんは泣きやんだ。───この父子はどこかおかしい。けーちゃんは泣き虫だけど、おじさんの力技には絶対に泣かなかった。
「そりゃ、ウチの息子だもん。赤ん坊の頃から躾てるんだよ」
 とは、おじさんの言。
「おじさんは元々、静かなのが好きなの。音楽以外の騒音は許せないタチなんだ」
「おじさんもお歌、唄うの?」
「いーや。おじさんは聴く専門。あいつらとは違う」
「あいつらって?」
「ひーちゃんとけーちゃんのことさ」
 と、子供の私を諭すように笑った。



 うちの本家は東京にある。本家、などと言っても、特別堅っくるしい家柄というわけでなく、単に家系図を上へ辿っていくと生存している人間で一番上は私のおじいちゃんになり、そのおじいちゃんが東京に住んでいるというだけの話。
 私の父はおじいちゃんの3番目の子供で、けーちゃんのおじさんが4番目の子供。
 けーちゃんのおじさんは結婚して、奥さん(ひーちゃん)の実家の稼業を継ぐために地方都市へ引っ越したんだって。そこでけーちゃんは生まれた。
 一方、私の父は仕事の特質上、引っ越しが多くて、一時けーちゃんと同じ町に住んでいた。あの家族との思いでのほとんどはそのときのもの。
 ───幼心に不満だったのは、うちの親戚筋はひーちゃんのことをあまり良く思ってないことだった。
「あんな芸人崩れと結婚しおって」
「4男があんなミーハーだとは思わなかったな。…賭けてもいい、すぐに離婚する」
 と、けーちゃんのおじさんを責める声がある。意味が解らなかったがひーちゃんの悪口を言っていることは判った。



 ある年の七夕の夜、私はいつもみたいに、けーちゃん家に遊びに行った。
「ひーちゃん、けーちゃん、おじさーん!」
 走って飛び込んでいくと、出迎えてくれたのはおじさんだった。
「いらっしゃい、こーちゃん」
「ひーちゃんは?」
「奥にいるよ、行っておいで」
「うん!」
 靴を脱いで玄関をあがり、音を立てて廊下を走り抜ける。
 居間は照明が消えていた。さらに奥のキッチンのあかりが部屋の中を照らしている。「ひーちゃ…」
 私は何故か声を抑え、足を止めた。
 2人はベランダにつながる窓枠に並んで座っていた。
 ひーちゃんはささやかな笹の枝を持っていて、それを空にそよがせている。枝には折り紙で作った飾りと短冊がぶらさがっていた。───そして唄う。
 2つ並んだ大小の背中がこちらを向いていた。ベランダの手摺りの向こうには街のあかりが僅かに漏れて見えるだけで、2人の向こう側は夜が広がっている。キッチンの照明で2人の影ができて、ベランダに伸びていた。その、鮮やかな明暗。
 ひーちゃんとけーちゃんは唄っていた。夜ということで気を遣っているのだろう、小さな声で、囁くように。顔を寄せ合い、まるで会話をするように唄う。
 時折笑い合う、交互に唄う。それがとても自然に見えて、本当に歌だけで2人は会話しているようだった。
 なんとなく、私は足をとめてしまった。
 その様子がとても神聖なことのように思えて、2人の空気を壊すことがとてもいけないことのような気がして、声をかけられなかった。
 振り返ると、おじさんはキッチンのテーブルでお酒を飲みながら2人の歌を聴いていた。2人の背中を、ひとり眺めていた。
「…ッ」
 途端に胸が辛くなる。
 意味も解らず愕然とした。
 そのときの気持ちを何て言おう。ひーちゃんに抱きつきたいのに、それはいけないことのように思えた。一緒に唄いたいのに、その空気を壊すことが怖かった。
 おじさんはひーちゃんとけーちゃんを眺め静かに微笑う。───私はその気持ちがとてもよくわかった。わかってしまった。
 回れ右しておじさんの隣の椅子に腰掛ける。するとおじさんは不思議そうに声をかけてきた。
「どうした、こーちゃん。まざってきたら?」
 声にはせずに頭を振る。泣き出しそうな表情に気付いたのだろう、おじさんは優しい声をかけた。
「じゃあ、おじさんと晩酌する?」
「する」
 短い返事に軽く笑って、冷蔵庫からジュースを出してくれた。
「…おじさん」
「ん?」
「こーこ、ひーちゃんとけーちゃんのうた聴くの好き」
 好きなものは好きと簡単に口にしてしまえる程、私は子供だった。言わずにいられなかった、おじさんも好きでしょう? 同意を求めたかったのだ。
 ぽん、と、おじさんはけーちゃんをよく叩く手で私の頭を優しく撫でた。
「おじさんはこーちゃんの歌も好きだな」
 そんなことが聞きたいんじゃない。おじさんは私の言いたいことが解っているはずなのに。
「こーちゃんはまだ自由に唄ってな。おじさんだけじゃない、ひーちゃんもけーちゃんも、みんな、こーちゃんの歌が好きだよ」

*  *  *

 従弟が泣かなくなったのはいつからだろう。
 私が東京のおじいちゃん家に引っ越した後だったから、はっきりとした時期は判らない。
 ただ同じ頃、叔母さんがあの家を出たという話を聞いた。叔母さんを疎んでいた親戚筋はそれみたことかと嘲笑う。
 2人の歌はもう聴けないのだろうか。
 それはとても悲しいことだった。







■2
「よー、香子(こうこ)、ひさしぶり。じーちゃんいる?」
 夏休み初日に玄関を開け放つなり、靴を脱ぎ廊下を走る姿があった。
「圭! あんた、中学受験するって話じゃん。遊んでていいの?」
「俺のことより自分の心配したら? 高校受験」
 減らず口を叩く従弟に昔の可愛らしい面影はもう残ってない。幼い頃はよく泣いて、私の後を着いて歩いていたくせにさ。
 圭は夏休みになると私の家(つまりおじいちゃんの家)に遊びに来る。おじいちゃんは圭を気に入っていたし、圭もおじいちゃんのことを好きなようだった。近所の子ともすぐに仲良くなって夜遅くまで帰らないことが多かった。
 よく笑い、よく喋る。口が達者でなまいきも利くけど、それが微笑ましくもある。
「男の子はいいわねぇ」
 私の両親もそんな明るい性格の圭が来ることを楽しみにしているようだった。……でも私は。
「香子、宿題教えろ!」
「それが人にモノを頼む態度か、コラ」
「教えてください」
「高いよ」
「おまえ、身内から金取るのかよ」
「お金じゃない」
「なんだよ」
「なんか唄って」
「確かに、高いな」
 頓着無さそうに笑う。
 ───何故か、このときの私はむちゃくちゃ機嫌が悪かった。
「圭、ひーちゃん、どこに行っちゃったの?」
 ひーちゃんは家を出たっていう。どこに行ったかは教えてもらえない。両親は知らないと言う。圭のおじさんと圭だけが、ひーちゃんの行方を知っている。
 圭がその話題に触れて欲しくないことは解っていた。だからうちの親もおじいちゃんも私も、圭の前でひーちゃんの名前は出さないよう結託していた。それでも私がそれを口にしたのは、圭の明るさが鬱陶しかったからだ。
「なんだよ、急に」
「平然としてないで! むかつくから!」
「なに、怒ってんだぁ?」
「───私、…ひーちゃんと圭の歌が聴きたい」
 そう言うと、圭はやっと笑うのをやめた。挑むように睨みつけると、圭は目を逸らした。
 圭は明るくなったって皆言う。でも私はそうは思わない。
 圭は泣かなくなった。そして唄わなくなった。一緒に唄う人がいなくなったからだ。
「それは無理」
「無理とか言うな!」
「…おまえ、無茶苦茶言ってるって判ってるか? いない人間と、どーやって唄えっていうんだ」
「圭はひーちゃんと唄いたいって思わないの?」
「…」
 圭は喉を詰まらせた。勝った、と私は思った。
(ほら、やっぱり)
(あんたが望まないからだ)
(願っていながら、何もしないからだ)
 圭が望めば、ひーちゃんはきっと帰ってくる。どんな理由があっても、例え一時期でも、きっと戻ってきてくれる。それなのに圭は何もしない。ひーちゃんがいないのは、圭のせいだ。
「ひーちゃん…帰ってこないの?」
「簡単には帰って来れないだろうな。自分から出て行ったんだから」
「ひどい言い方」
「ひどくないだろ、別に。…母さん、こっちにも顔を出しにくいけど、自分ちも敷居が高いんだぜ。親父に稼業を継がせておいて自分は出て行くなんて、ってあっちのじーちゃんとばーちゃんも親父に頭を下げる始末でさ、今更、どのツラ下げて───」
「圭はひーちゃんがいなくて淋しくないのッ?」
 その瞬間、圭の表情が揺れた。(あ───…)
「…ごめんっ」謝ったのは私のほう。
「ごめん、…ごめんねっ」
 手で表情を隠す圭の腕を掴んで、必至に謝罪した。自分の酷い物言いに気付いたから。
「いいって」
 こちらに向けた顔は苦笑していた。その表情に、今度は私が傷ついた。
(どうしてこの子は)
(我が侭を言わないんだろう)
 しばらくして、圭はぽつりと口にした。
「俺は唄うことをやめてないよ。やめるつもりもない」
「…でも、ずっと聴いてない」
「そりゃ、これだけ離れて暮らしてるんだし、それに子供の頃みたいに毎日唄ってるわけにもいかないだろ」
 と、苦い笑みを見せる。
(そういう、ものなのかな)
 ひーちゃんと圭はいつでもどこでも、いつまでも、唄っているように思えた。それが彼らの一部なのだと、幼い私は思っていた。
「ひーちゃん、…どこにいるの」
「遠く」
 短く、呟いた。
 そのあと、圭は小さく唄ってくれた。それは幼い頃よく聴いた歌で、圭の声も変わらずきれいだった。ただひーちゃんの声がここには無い。───そのことがやっぱり、少し悲しかった。







 翌年、恒例通り夏休みに遊びに来た圭が言った。
「俺、一週間ほど知り合いのところに泊まってくる!」
「は?」
 そのまま支度を始めた圭だが、圭を預かっている立場として簡単に受け入れられることではない。
「ちょっと待ちなさい! 誰のところ? 友達? 遊ぶだけなら泊まらなくてもいいでしょ?」
「心配いらない。できれば親父には言わないで。俺のケータイはいつでも出られるようにしておくけど、できれば連絡しないで欲しい。…あ、香子、帰ってきたら宿題よろしく」
「圭ったら!」
 結局、肝心のおじいちゃんがそれを許したので圭は悠々と出て行ってしまった。


 それから3年間、圭は夏休みになると遊びにきて、そのうちの一週間はどこかへ消えてしまうという妙な習慣ができてしまった。


「ねぇ圭、森村久利子って知ってる?」
 宿題中の圭は手を止めて、顔を上げた。
「は? …ああ、歌手だろ」
「そう! 私、最近、知ったんだけど、むちゃくちゃハマった、泣いちゃった」
 お気に入りの歌手を圭も知っていたことが嬉しくて、私ははしゃぐ。
 森村久利子はロンドンを拠点に世界的に活躍する日本人歌手。派手な活動ではないので知る人ぞ知る歌手だが、彼女をよく知らない人でも歌は耳にしたことがあるはずだ。
「すごく、きれいだよね。世界が。音楽にこんな感想抱いたの初めて」
「…」
 ───何故かそのときの、圭のはにかむような笑顔を今でも覚えている。
「俺も好きだよ、森村久利子」
「へ〜え、珍しいじゃん」
 本当に珍しいことだ。圭に好きな歌手を尋ねると「堀外タカオと山村シンジ」という世代を疑いたくなる答えが返えるのが常だし、そのときの圭はJ−POPやロックにはまっていて、森村久利子みたいなジャンルを聴いているとは到底思えなかったから。
「森村久利子が昔、日本の芸能界にいたって知ってる?」
「えっ、うそ、知らない。どのくらい前?」
「15年前」
「圭が生まれる前じゃん」
「そう。レコード漁ると結構出てくるよ」
「ふ〜ん、相変わらず、古い曲をよく知ってる」
「香子こそ珍しいじゃん。今まで聴いてたジャンルとはかなり違くね?」
「もうね、ひとミミ惚れ。聴いた途端、ぴしっとハマった。カレシにも言われた、珍しーって」
「香子のカレシはどんなん聴いてんの?」
「今はB.R.に大ハマり中」
 そこでまた、圭は声を抑えて笑った。
 B.R.(ビーアール)というのは、最近話題になっている正体不明のロックバンドである。
「そいつ、B.R.のボーカルは女だって思いこんでるんだけどさ、私は男の子だと思うんだよね。声変わり前ならあれくらいの声でもおかしくないじゃん?」
「俺も男だと思ってたな。歌詞の一人称が“僕”だし」
「私もそう言ったらね? “それは作詞作曲のKanonが男だからだ”って論破されちゃった。まぁ、正解を知ることはできないんだけどさ」
「だな」
 と、何故かそこでも圭は声を噛み殺すように笑っていた。





 ───まぁ、そんなこんなで圭が中学3年の冬、いろいろあって、いろいろバレた。そのとき、圭は少し遠い存在になってしまったけど、今でもたまに私たちは顔を合わせている。

 ただ、圭は今も、ひーちゃんのことを教えてはくれない。








■3

「あ───っ!!!」
 突然、大声を出した私に、運転席の彼は両手で耳を塞いだ。信号待ち中だったのでそれもできたことだ。
「なんだ、突然大声出して…」
 抗議してくる彼を無視して私はさらに叫ぶ。
「ラジオ!」
「は?」
「ラジオつけて、早く」
 助手席からコンソールボードに手を伸ばすけど、ボタンが多くて全然わからない。あたふたしてる私を見かねて、彼は指ひとつでラジオをつけてみせた。
「なんなんだ?」
「今日は森村久利子が出るんだよ!」
 午後11時。この時間までには余裕で帰れると思ってタイマーをかけてこなかったのだ。涙が出るくらいの失態だけど、どうにか間に合ってセーフ、結果オーライとする。
 それから30分間、私は一言も喋らないでラジオに耳を傾けていた。彼も気を遣ってくれて、その間、話しかけてこなかった。
「ふいぃぃ〜」
 と、私は盛大な溜め息を吐いた。番組は終了して車ディーラーのCMが流れていた。
「…森村久利子の喋り声って初めて聴いたぁ」
 思わず口に出てしまう。想像していたより年配の人の喋り方だったように思う。気さくに喋って、くったく無く笑う。(こんな人だったんだぁ)かなりフツーの人っぽい印象。
「いい声だな」
「ね」
 彼の呟きに短く答える。
「あっと、ライブは来週だからね、忘れないでよ」
 しかもさっきラジオで「ビッグゲストを紹介する」と予告されていた初日のチケットだ。思わずガッツポーズをとってしまうくらい嬉しい。それなのに、
「…忘れてた」
 という彼の声。
「むっかーっ! BlueRoseに付き合う代わりに、こっちにも付き合うって約束でしょ!? まさか予定入れたりしてないでしょーねッ」
「こらっ、揺らすな、運転中!」
 BlueRoseはかつてB.R.という正体不明のバンドだった。その時節、「B.R.のボーカルはぜったい女だ!」と自信満々に言い張っていたこの男。結局、ボーカルは男だと判った今もファンをやっている。
 私はというと、BlueRoseのファンと公言することはできなくなっていた。何故だろう。もちろん嫌いじゃない。けど、だからといって無条件に好きと騒げるほど舞い上がることもできない。
 ───ずっと幼い頃から、好きな歌唄いがいた。それがいきなりテレビの中で唄い始めてもピンとこない。
 複雑なのだ。



*  *  *



 彼女の歌は生で聴いてもやっぱりきれいだった。
 綺麗な景色を見たときと同じ、胸が痛くなる。とても大切なものを手に入れたような気分になる。滲み出る幸福感に、自然、微笑んでしまう。
 10人ほどのバックバンドはアコースティックギターやヴァイオリンなどの弦楽器とピアノ、フルートやオーボエの管楽器が並んで静かだけど深い音色が響き渡る。
 彼女は白い衣装を着て、祈るように両手でマイクを持ち、まるで語りかけるようにそっと唄う。40歳近いはずなのに稚い少女のようにも見えた。
 唄っているときはまるで別世界の住人のような彼女だが、MCでは軽快に喋り、おどけたりして、客席を笑わせることもあった。
「…ありがとうございます」
 ひとつ曲が終わった後、彼女は小さく頭を下げた。
 客席からの拍手が収まった後、いずまいを改める。
「えっと、じゃあ、そろそろゲストを紹介しようかな」
 と、いたずらをする子供のように歯を見せて笑った。
「って言ってもね、実はアポとってないんだけどね。まぁ、怒られることは覚悟のうえです」
 バックバンドに休むよう手振りで伝えて、彼女は客席を見渡す。
 スゥと息を吸った。
「───圭くん、いらっしゃい」
 明るいステージの上から彼女は細い手を差し伸べる。照明の落ちている客席へと。
(え…?)
 ざわめく観客席。ほとんどの客は彼女の視線を追うが、その先に何者か動く気配は無かった。
 それでも彼女は手を差し伸べたまま動かなかった。
(けい…?)
 さらに数十秒後、堪りかねたのか彼女がもう一度呼んだ。
「圭くん」
 しばらくしてアリーナの一画がざわめいた。私の席からはよく見えないけど、周囲の数人に押し出されるように客席からはみ出した人影があった。自分の席のほうへ振り返り何やら言葉を発したが聞こえるわけない。でも悪態を吐いたようにみえた。
「観念しなさい」
 彼女がマイクごしに言うと、その人影───少年のようだ───はしぶしぶといった様子でステージに近づく。
 帽子を目深にかぶった少年らしき人影が警備員の間を通り抜け、身軽な様子でステージに上がった。
 薄暗い客席から一転、眩しいステージに招かれた少年は客席からの視線に臆することなく、自らを呼び出した彼女へ近づく。
 何やら喋ったようだが、それは聞こえない。
 彼女は用意されたマイクを差し出した。何故か慣れた様子で少年はマイクを構えた。
「…聞いてねーぞ」
 苦々しい声がホールに響いた。
(あれ…この声…)
 知っている声だった。
「だって、絶対断ると思って」
「あたりまえだって」
 マイクを通しての不穏な、でも棘はない会話に客席がざわめく。その少年は誰で、一体どんな関係なのだろうと。
「どうしても紹介したかったの」
 彼女のきれいな深い声に、少年は顔を伏せた。彼女は笑った。
「ほら、帽子とって」
「…おぼえてろ」
「忘れろって言われても、忘れない」
 どうやら彼女のほうが上手なようで、少年の恨めしそうな台詞はあっけなくかわされた。
 しょうがない、といった風に少年は帽子をとった。やわらかそうな髪が揺れて、ぶすっとした顔が明るみになる。
「ケイだ!」
 と、最初に叫んだのは誰だったろう。
「えっ、BlueRoseの?」
「BlueRoseのケイだ〜ッ」
 またたく間に客席が揺れる。どわっと音が聞こえたような気がした。
 BlueRoseのケイ。彼のファンは今日の客層とはかなり違うだろうけど、普通に世間の動向に興味がある日本人なら知らないはずはない。
(圭…?)
 それとはちょっと意味が違うけど、一応、私も知ってる。
「まじで? BlueRose?」
 BlueRoseファンの隣の彼も、上ずった声をあげた。
 ステージの上の彼女は静まらない客席を見渡して、
「私よりずっと有名だもんね」
 と、笑う。
「でも紹介します」
 彼女の凛とした声に客席がぴたりと沈黙した。
 圭の肩に手を置く。
「小林圭くん。───私の息子なの」






 しん、と客席が静まりかえった。それが少しばかり長く続いたので彼女は首を傾げる。
「…あれ、反応無し? びっくりすると思ったのに」
 呑気な台詞がホールに響いた。それでも静寂は続く。次にフォローするように圭が喋った。
「あ、本当だから。この人、俺のかーちゃん」
 客席がどよめいた。悲鳴に近い声をあげる人が多数いる。その意外な関係に誰もが信じられないといった様子で並んで立つ2人を見た。
 そして。
 私はこの会場でおそらくただ一人、別の意味で驚いている。
(ひーちゃん…?)
 今更ながら思い立つ。森村、というのはひーちゃんの旧姓ではなかったか。名前は久利(ひさと)、男の子みたいな名前がイヤ、とよくこぼしていた。
(ほんとに…?)
(…ひーちゃん!?)
 どうして気付かなかったんだろう。CDから顔も声も知っていたはずなのに。
(ちょっと待って、私が森村久利子ファンだってこと、圭は知ってるはず。ということは、あの馬鹿は自分のことだけでなく、ひーちゃんのことも隠してたってこと? むかつくっ!)
 ───…ううん、ちがう、そんなことより。
(やっと逢えた…───)
 幼い記憶のなかで、いつも唄っていた人。笑っていた人。突然いなくなって、誰も何も教えてくれなくて。
 森村久利子は聴いてすぐに好きになった。でもまさかひーちゃんだなんて、ぜんっぜん思いもしなかった。
 私は、圭と一緒に唄うひーちゃんしか知らない。ベランダでひっそりと唄う、洗濯物を干しながら唄う、子守歌を唄うひーちゃんしか知らない。
 ステージで唄うひーちゃんなんて、知らなかった。
(圭のバカタレ…。何も教えてくれないで)
「もういいだろ! 紹介したんだから」
 その圭は居心地が悪そうで、早くステージから降りたいようだった。
「だーめ。一曲、一緒に唄おう」
「な…っ」
 圭は拒否の言葉を言いかけたが、その前に客席が沸いた。拍手と歓声が広まっていき、そこかしこで口笛が響いた。
「ちょっと待てって!」
 本気で慌てる圭、しかしそれでも客席は静まらない。
「あのなぁ」
 これ以上、駄々こねて、白けさせるわけにはいかないのだろう、圭は観念したように大人しくなった。
「…音響さんが大変じゃん」
「大丈夫よ、前もって言ってあったもん。このトークの間に合わせてくれてるよ」
「ハメられた…。なに唄うんだよ」
「あら。圭くんとお母さんの持ち歌はいっぱいあるじゃない」
「は?」
「アカペラで。昔はよく一緒に唄ったでしょ」


 圭が絶句したのがわかった。そのとき圭が受けたであろう激しい衝撃が私にも伝わった。
 いつかの七夕の景色が私の頭を駆け抜ける。とても懐かしい匂いを、私は思い出した。あの鮮やかな光景を。
(圭…)
 目頭が熱くなる。だめだ泣いてしまう。
 溢れてきてしまう。
(ねぇ、…願ったでしょう?)
 でも圭はそれに手を伸ばさなかった。その願いを口にしなかった。欲しいと言わなかった。それは馬鹿っていう。
 私はひーちゃんと圭の歌が好きだった。
 圭もそうなんでしょう?
 ずっと、願っていたでしょう?

 そして歌が響きはじめる。
 それはいつか聴いた歌と同じで、アイルランドの古い民謡だった。遠い昔と同じように、ひーちゃんと圭は唄う。ただ、圭の声は変わっていたけど、そんなこと気にならないくらい息が合って、それは響いた。
 客席からは物音さえしない。誰もがステージに目を惹かれ、そして耳を奪われた。光輝く場所に立つふたつの声だけが、空間を満たしていた。
(圭───…!)
 この瞬間を、私より強く、願っていたでしょう?
(…よかったね)
 並んで唄う2人に目をやるといつのまにかひーちゃんより圭のほうが背が高い。そんなことが馬鹿みたいに楽しい。私は笑ったはずなのに、涙が溢れてとまらなかった。
「…小林?」
 名前を呼ばれたけど、喉が詰まりそれに答えることはできなかった。
「おい、どうした」
 隣の相方が慌てたように覗き込んでくる。私は涙を流し続けている顔で、にかっと豪快に笑ってみせた。
「なんでもないよ」
 ───…この胸を突く幸福感を、今はまだ、言わないでおこう。
 もう少しだけ付き合いを重ねて、小憎らしい従弟を紹介するまでは。







BlueRose-Extra. ロンドンデリーの歌 END

ロンドンデリーの歌
   
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