BlueRose-Extra. BlueRose |
それはむかし さけぶ声も言葉もまだ無く 両手を広げることさえ知らない 幼い 月のきれいな夜でした その時間だけはいつも希玖の世界だった。 夜3時。 暗い闇が続く病院の廊下を希玖は歩いている。自分の影と足音を従えて。 目的があるわけじゃない。ただ歩き回るだけ。最近、希玖はいつもこの時間に目が覚める。昼間はほとんど起きていられないのに、この時間だけは自然と目と頭が冴えて、一日の中で最も身体が活動的になる。───当たり前のことだが、人間は起きているときしか歩き回れない。何故歩いているのかなど愚問である。 そっと足を止めると、足音がやんだ。そうすれば世界が無音になることを希玖は知っている。ここでは自分ひとり、他には何も、誰も存在しないから。 希玖は笑った。 希玖にとって、その「足音を止めた瞬間に無音になる」ことが楽しい。だから少し歩いてはわざと足を止める。また歩き出して、また足を止める。その繰り返し。 昼間に起きるとすぐに検査に回される。そのときの機械の音がうるさく耳障りで、希玖は検査が嫌いだった。それに比べたら、この夜の世界は、この無音そのものが心地良い。 それなのに、 「!」 この無音を打ち破る音が、窓の外、遠い闇から近づいてきた。背筋が寒くなり、立ちつくす。無駄だと判っていても逃げられる場所があるか探してしまう。───耳を瞑れないのは何故? 目を瞑ったら何も見えなくなるのに、耳を塞いでもその音が聴覚に届いてしまうのは何故? その音から逃れることより、先生から逃げるほうがどんなに簡単だろう。 希玖は独り廊下で、硬く目を瞑り、無駄だと判っていてもやっぱり耳を塞いだ。 (壊さないで) 苦しい胸を押さえたかった。けれど両手は耳を塞いでいるのでそれはできない。仮に胸を押さえられたとしても、ちっとも楽にならないと判っていた。 (その音は苦しいんだ) そのまま独り廊下にうずくまっていると、その音はまた闇へと遠ざかっていく。それを聴覚の限界まで聞き届けてから、希玖は自分を奮い立たせるように立ち上がった。 今日はこれ以上出歩く気にはなれなかった。病室に戻ろうと、希玖は歩き始める。今度は足音を止める遊びはしなかった。 階段を降り、昇降口を通り過ぎようとしたとき、希玖はぎょっとした。 そこに、椅子に座る人影を見た。 「…だれ?」 希玖が呟くと、それが届いたのか人影はぴくりと動いた。ぎこちない動きで、何故か、椅子ごと振り返る。希玖は一瞬、驚いたがすぐに理解した。人影が座っていたのは車椅子だった。 希玖よりいくつか上だろう。12,3歳の少年は、立ちつくしている希玖をみとめると歯を見せて苦笑する、本当は禁止されている夜間徘徊を共有する仲間へと。一方、希玖は、この夜の世界ではじめて遭遇した他人に驚き、見開いた両眼で少年をじっと見つめた。 「こんばんは」 先に声を発したのは少年のほうで、「どうした? こんな遅くに」慣れてない動作で車椅子を操る。 夜の廊下で人の声がある、すべてが凍り付いたように眠る空気のなか、そのやわらかい笑顔は酷い違和感があり、希玖は戸惑いを覚えた。 「お、おにいちゃんこそ。どうしたの?」 「僕は月を見てた」 「月?」 ほら、と希玖を促して窓の外に目を向ける。それに倣い、見ると、棟の高みに満月が浮かんでいた。 希玖は息を飲む。それは思わず目を細めるくらい、眩しいものだった。夜空の雲さえ、鮮やかに染めるほどに。さらに窓に近づいて下を覗けば、中庭の樹木がくっきりと、影を芝に映している。振り返ると、自分の影が廊下に伸びていた。ずっとそこにあったはずなのに、まるで突然黒いおばけが現れたように希玖は驚いた。本当に自分の影なのか確かめようと手足を動かしてみる。やっぱりその影は希玖と同じように踊る。 病室を出たときに影が落ちているのは気付いていた。それなのに希玖は、たった今、月が夜空に浮かんでいることに気付いた。 「僕の部屋からじゃ、ちょうど見えないんだ」 と、少年は言う。 「見えないのに月が出てるってわかったの?」 「だってこんなに明るい」 月そのものが見えずとも、その光はいたるところに降り注いでいる。 「おかげではじめて一人でコレに乗れたよ」 と、苦笑しながら車椅子の肘掛けを叩いた。「そっちは?」 「ぼくは…サイレンが聞こえたから」 希玖が答えると少年は首を傾げた。 「救急車? そういえばさっき鳴ってたね」 「ぼく、あの音、嫌いだ」 (だって、あの音を聞くのは苦しい) (どうしてあんなサイレンを、わざわざ鳴らすのだろう) 「ねぇ、名前は?」 「キク」 「いくつ?」 「8さい」 「キクは救急車が走ってるのみたことある?」 「…ない。だって、ぼく、ほとんど外に出ないもん」 言い訳するような希玖に、了解したように少年は頷いた。 「知ってる? 救急車が走るとね、他の車が全部道を空けてくれるんだよ」 「え?」 子供でも知っている一般常識である。しかし希玖にはそれがどういうことなのか解らなかった。救急車はもちろん知ってる。ここは救急病院では無いのでサイレンを鳴らした救急車が乗り込んでくることは無いが、知識としてその役割は解っているつもりだった。 「他の車がよけるの? どうして?」 「もちろん、早く病院へ行かせるため」 「え? それでみんなどいてくれるの?」 「そう。救急車のために、みんな道を譲るの」 「うそだぁ」 「ほんと。はじめて見たときびっくりした。きれーに車がよけてくんだ。───これってすごいと思わない? 救急車で運ばれていく人のために、みんなが協力してるってことだよね。見知らぬ他人がだよ?」 「うん、…すごい!」 「たくさんの車が、救急車にがんばれ〜って言ってるみたいだった。普段はたまたま同じ道を並んで走ってるだけの他人の車だけど、そのときだけは一緒になって助けようとしてるみたいで、ほんとにびっくり」 その様子を想像して希玖は呆然とした。 実は希玖も一度、救急車で運ばれたことがある。いつもの発作だ。そのときもやっぱり、たくさんの人の協力があったのだろうか。それを思うと胸が熱くなった。 「キクは救急車の音が嫌いなんだ?」 「う、うん」 ついさっき言ったことだったので希玖は頷く。けれど、今の話を聞いたら、嫌いと言ってしまうのは何だか善くないことのように思えた。 「なんで、嫌い?」 「すごく、嫌な気持ちになるから」 「どうして?」 「えっと…」 少年のやわらかい追求に希玖は言葉に迷う。 「だって…」サイレンの音を思い出した、それを振り払うように頭を振る。(ほら、やっぱり嫌な気持ちになった) 「あれが聞こえたら、ぜったい、誰かが苦しんでるってことでしょ? ぜったい、誰かが痛がってるんだ、そんなの聞きたくないよ」 「あのサイレンが聞こえたから、救急車が来るのが判って、みんな協力してくれるんだよ」 「……そうなんだ」 希玖は釈然としない。けれど、あのサイレンはただ鳴らしてるだけではないことを理解する。それじゃあ、仕方無いんだと思う。 「キクは、嫌な気持ちになるだけ?」 「だけ、って?」 「苦しんでる誰かに、他に何か思う?」 「…」 そのサイレンは苦しんでいる人を運ぶ音だ。 胸を痛めているであろう家族。助けようと、車の中ででも動き回る人たち。それに協力する人たち。遠くその音を聞いて───その状況を想像して、耳を塞ぐ自分。 希玖は目を閉じた。 それはとても優しい世界に思えた。 「キク?」 「うん───…早く、よくなればいいな、って」 希玖は前を向いたまま呟く。少年は破顔する。 「救急車の音を聞いた人たちがみんなそう祈ってるとしたら、それってすごい力だ。ねぇ、その音にキクが苦しむことない。いつも通り、辛い思いをしてる人が早くよくなりますように、心配してる人が早く安心できますようにって祈ればいいんじゃない?」 「おにいちゃんも?」 「もちろん、僕も。それからもっとたくさんの人たちも。…すごいだろ?」 どこか得意げに言う少年に、希玖は力強く頷いた。 「すごい」 見えない力を確かに感じた。希玖はこの小さな病院のなかしかほとんど知らないけれど、もっと広い世界ではたくさんの人がいて───そのほとんどは他人だけど、それでもたくさんの想いが見知らぬ他人にも向けられている。 「こんなにいっぱいの人が祈ってるんだから、苦しんでる人も、きっとよくなる」 「すごいね! …ぼくはここから出られないけど、外はとっても、たくさんの人たちが思い合ってるんだね。外はそんななんだね」 少年の顔が歪んだ。 「キクはどんな病気?」 そう問われて、希玖は頓着無く答える。まるで他人事のように。 「ぼくもよくわかんない。でも、すごく疲れやすくて、起きてられない病気なんだって」 実際、希玖は生まれて8年経っても自分の病気をうまく理解できないでいた。両親や医師は大仰に言う。確かに、時々、意識を失い倒れることもあるけど(これを発作と言うらしい)、他の病気の子のように苦しむことも無いし、身体が痛いと感じることも無い。 「起きていられない?」 「他のヒトより、たくさん寝てるみたい」 そう、ただそれだけのことだ。 「みたい、って」 「だってぼくはぼく以外の身体を知らないもん。自分が他人とどう違うか、なんてわかんないよ」 少年の声に非難が含まれたのを敏感に聞き取って希玖はむきになった。 「ガクって、からだの力が抜けることがなくて、お外が明るいうちずっと起きてるなんて、そっちのほうがおかしい」 黙って聞いている少年にさらに言葉をぶつける。 「そういう人たちは、ぼくが発作を起こしたらびっくりするし、慌てたり、心配するんでしょ? だから、ぼくはここから出ないほうがいいんだ」 「キクさぁ」 「ん?」 「救急車の音を聞いて、早くよくなればいいなって、思うだろ? さっき言ったよね」 「うん」 「運ばれていく人は、ひどい怪我なのかもしれない、事故に遭ったのかもしれない。痛く苦しいかもしれない。…心配だよね」 「うん」 素直に頷く希玖に少年は優しく笑ってみせた。 「キクが見もしない外の人たちを心配してるんだ。外の人たちがキクを心配してもいいだろ?」 「───」 希玖は息を止め瞠目する。 「キクが発作を起こして倒れたら、まわりの人はびっくりして、慌てたり、心配すると思うよ。なにか病気なのかもしれない、大丈夫だろうか、…早くよくなればいいな、って」 希玖は泣きそうに顔を歪ませた。 「でも」 「ここと、外は、違わないんだ。キクも同じなんだ、助け合ってる大勢の人たちのうちのひとり」 「…」 「どうしてだろう、キクはまるで自分が違う世界に住んでるような物言いをするね」 「だって、…違うもん」 「何が違う?」 「…ここと外は違うよ、ここは───ぼくは、ぼくの身体は不自由だもん」 「何と比べてるの? キクはキク以外の身体を知らないんだろ?」 「!」 痛いところを突かれてかカッとなった。そのまましばらく、笑っているのか怒っているのか計れない表情の少年と向き合う。気まずくなって希玖は目を逸らす、その瞬間、希玖は少年の笑顔に目を奪われた。 「願ったことは叶う。キクはキクの好きなことを、やりたいことをやっていいんだ」 「……」 希玖は、さも不思議なことを言われたというような表情を見せる。 「願ったことって?」 「そんなことも他人に訊いてるようじゃあ、まだまだだなぁ」 「願うって、なにを?」 「例えば、毎週月曜に裏のコンビニに立ち読みに行くとか、毎日1時間、外を散歩するとか」 「は?」 「大人になったら学者になるとか宇宙飛行士になるとか」 希玖は呆れた。次に馬鹿にしてるのかとそっぽを向く。 「…そんなの、ぜったい無いよ」 少年はくすりと笑った。 「ブルーローズ、というやつだね」 言葉が聞き取れなくて、希玖は訊き返した。 「…なに?」 「ブルーローズ。そのまま日本語にすると───青いバラ」 「青いバラなんて見たことないよ?」 「うん、無い。だから、あり得ないっていう意味があるんだって」 「アリエナイ、って?」 「さっきキクが言った、ぜったい無いってこと」 青いバラ───ぜったい無い? 希玖は首を傾げた。想像してみると、なんとなく有りそうな気がしたから。 そんな希玖の心中を察したのか少年が言う。「実は見つけてないだけで、どこかにあるかもしれないよね」 「あり得ないものなんて無い。できないことなんて、無い。…だって、そんな未来は無いって、どうやって証明すればいい? 今、できなくても10年後にはできるかもしれない。その未来のために今何か始めることは無駄じゃない。───無いことより、有ることを証明するほうがずっと容易いんだから」 迷いの無い目が、ついと希玖へ向く。 「…僕にそう教えてくれた人は、生まれつき病気で、キクみたいにずっと病院にいる人だった」 「病気だったの?」 「うん、今も病院にいる。…その人は、幼い頃の願い事はぜんぶ叶ったって言ってた。いろんな人と出会えたから頑張れたし、諦めずにいられたって」 「ぼくは、…誰かと知り合うってこともあんまりないし」 「それはキクの気持ち次第じゃない? この病院の中にだって、数十人はいるだろ?」 希玖は首を横に振った。 「昼間はほとんど寝てるもん。起きても検査ばっかし」 「…僕はキクの病気のこと知らないから勝手なことを言うけど、同じ病室の子と話す時間もないの? それ、先生に相談できない?」 「なんて相談するの?」 「そうだな。今、こうやって夜中に起きてる代わりに、昼間に起きるにはどうしたらいいの? とか」 「そんなの、どうもできないよ」 希玖が言うと少年は吹き出した。呆れ半分、感心半分で眉を顰める。 「卑屈だなー、キクは」 悪く言われたのがわかったので、希玖は頬を膨らませた。 「どうにかできる、できないは、先生に訊いてみれば判る。そうだろ?」 そんな簡単なことさえやらなくてどうするの? 言外にそう問われて希玖は軽く自己嫌悪した。さらに少年は笑いながら言う。 「この病院だけでも数十人もいるんだ。おじいちゃんおばあちゃんから、キクくらいの子まで。それだけの人と出会う機会がある」 「…そうしたら、おにいちゃんの友達みたいに、お願いが全部叶うのかなぁ」 「叶うよ」 「…」 希玖は窓の外を見た。そこには月がある。この夜の、希玖の世界に当然のように存在し、世界を照らす。それは手を伸ばしても届かない、それは解ってる。 (もしかしたら、こんなひとりの世界を楽しんでる場合じゃないのかな) 手を伸ばせば届くものは沢山あるのかもしれない。例えば、いつか聞いた女の子だって。 「…ぼくね、同じ歳のイトコがいるんだ」 「うん?」 「会えるかな」 「会ってみよう」 「うん…」 それが何へ繋がるかは、まだ判らないけれど。 今、確かに、少しだけ未来が見えた。何でもできる気がした。未来は自由だ。───けれど自由とは、足場が無いこととも同義である。 「でも、わかんない…、なにができるのかもわかんないし、なにがしたいのかも、わかんない」 「じゃあ、キクはこれからブルーローズを見つけるんだ」 「…なに?」 「花を見つけたら、それを摘むことはできる。…ぜったい無いって思われてるその花を探し出すことのほうが、きっとずっと難しい」 少年は重ねて言った。 「夢を叶えることより、夢を見つけることのほうがよっぽど難しいのかもしれないね」そして微笑む。「キクもその花を早く見つけられればいいけど」 「ブルーローズ?」 「そう」 青い薔薇。 「……ブルーローズ」 希玖はもう一度、呟く。それは小さく、力強い声だった。 月はもう見えない 東の空から、まばゆい光が世界を照らし出したので * * * 「おにいちゃん、なまえ、なんていうの?」 希玖がそう尋ねると少年は、あぁ、と何気なく応えた。 「僕は今、名前が無いんだ」 「なまえが無い人なんているの!?」 「実は、おばけなんだ」 「えっ」 「だから名前も無いんだよね」 うんうんと神妙に頷く少年に、希玖は恐る恐る訊く。 「死んじゃったの?」 「そう」 「ほんとに? ぼく、はじめておばけの人と話した!」 「僕も、こんなに喋ったのは本当に久しぶり」 「じゃあ、死ぬ前はなんて名前だったの?」 しつこく名前を訊く希玖に、少年は困ったように笑った。 「──…亨(とおる)」 |
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