夏の日の (BlueRose☆GrandMapコラボ)

 1. 日辻篠歩
 2. 日阪慎也
 3. 三高祥子





■1 日辻篠歩

 冷房の効いた部屋の中にいても、体から吹き出るような熱は残っていた。蒸し暑い炎天下をここまで歩いてきたのだ、冷めるまでには時間がかかるのだろう。テーブルの上に出されたグラスからは水滴が落ち、コースターを濡らしていた。それにしても暑い。
 季節は夏だった。
 日辻篠歩(ひつじしのぶ)は、とある事務所に来ていた。訪れたとき、そこにいたのは一人。ショートの髪のあいだから見える赤いイヤリングが印象的な女性だ。冷房対策なのか、ゆったりとしたスカーフを首に巻いてた。
「あの、本当にあなたが、所長さん…ですか?」
「ええ」
 目の前に座る女性は書類から目を離さずに答える。難しい表情をしているが、それは篠歩の質問が気に障ったからではなく、書類の内容に対してのものだ。その証拠に、彼女は篠歩が持ち込んだその書類を見るなり表情を曇らせ、大きく溜め息を吐いたところだった。
「私が所長です。それがなにか?」
「あっ…え、いえ。お若い方だなと思って」
 おっと失礼だったかな、と口を塞いでも、当の本人は「よく言われます」と、涼しい顔だ。
 おだてられたわけではないことは本人も解っているらしい。それくらい、所長という肩書きを持つには若い。目の前の女性は篠歩よりずっと若かった。まだ20歳そこそこだろう。
 先ほど受け取った名刺には「A.Co. 所長 阿達史緒(あだちしお)」とある。
 篠歩は職場の上司にこの事務所を紹介された。上司が世話になったというのは3年前だというので、少なくとも3年前からこの事務所はあるはずだ。ああ、そうか。もしかしたら、この若い所長は2代目なのかもしれない。ところがどっこい。
「私は4年前からここの所長をしています」
「は?」
「この業界の中ではまだまだ駆け出しですが、少しは実績があるつもりです。けど、もし、若い所長がご不満ならどうぞお帰りください」
「いえ、…そんな」
「どちらにしろ今回はお役に立てませんから」
「え?」
 ぱさっ、と書類がテーブルに流れた。それはついさっきまで阿達が読んでいた依頼書である。
「去年から時々いますよ、あなたと同じ依頼に訪れる人」
「やっぱり!?」
「うちだけでも、あなたで6人目です」
 6人。
 それが多いのか少ないのか、篠歩には判らない。
「うちだけ、というのは?」
「ひと月に一度、30社くらい集まって情報交換をするんですけど、やはりどこもこの依頼を一度は聞いているようです」
「それって、すごく。多い、ですよね?」
「ええ。私が知るなかでも、ここまで過熱状態な案件は初めてですね」
「わぁ…。やっぱり、どこも捜してるんだ」
「もう3年目、でしたか。これまで多くの調査機関やマスコミが動いてきているはずですが実のある報告を噂でも聞きません。わかります? それだけの組織が動いているのにもかかわらず、すべて無駄足で終わっているんです。───ですから、私たちのあいだでも不文律に」
 阿達は睨み付けるような視線を篠歩に向けた。
「“『B.R.』には手を出すな”」







■2 日阪慎也

「え? 祐輔、行かないの? 来週の鎌倉」
 日阪慎也(ひさかしんや)は目の前の旧友に向かって声を強くした。
 目の前の旧友───山田祐輔(やまだゆうすけ)は、このクソ暑い日にコーヒーをホットで飲んでいる。貧弱な冷房の店の中、見ているほうが暑くなるハタ迷惑な注文(オーダー)だった。それなのに本人はいつもと変わらず涼しい顔で、視線だけで頷く。
「幹事には最初から断りを入れてありますよ」
「てっきり、行くもんだと思いこんでた。なにか用事でもあるのか?」
「もちろん仕事です」
 音大時代に同級生だった祐輔は今はピアノ教室を営んでいる。この性悪に子供の相手が務まるのか甚だ疑問だったが、性悪であることと同じくらい器用でもあるので結構上手くやっているらしい。
 それから同じく同級生だった男が留学先から帰国し、地元の鎌倉で小さな演奏会を開くという。それが来週の日曜日。同窓会もかねて集まろうという話になっていた。
「土日は教室(そっち)も休みだろーが」
「あれ。鎌倉の話も週末だったんですか?」
「おまえ、まともにメール読んでないだろ」
「安心しました。集まる十数人全員が平日の昼間から仕事もしてなかったら、同級生として気が滅入りますからね」
「おい…」
 笑顔でキツイ物言いはいつものこと。慣れているつもりでも慎也は絶句してしまった。
「ていうか話を逸らすな。最初から行く気が無かったんだな? ただでさえ付き合い悪いんだから、こういうときくらい顔出せよ」
「すみません。夏場は出掛けるのが億劫なので」
「年寄りみたいなこと言うな」
「さすが年寄りが言うと重みが違いますね」
 同級生といっても慎也のほうが3つ年上である。またも返答に窮したのは慎也のほうだった。
「……沙耶と予定があるとか?」
「だから、用事は無いと言ってるじゃないですか。…まだ、ね」
「じゃあ」
「暑いのは苦手なもので」
「だったらホットなんか飲んでんじゃねー!」
 どこまで本気か判ったもんじゃない。なにひとつ本音など喋っていないのかもしれない。もしかしたら、慎也を相手に遊んでいるだけなのかもしれない。山田祐輔はそういう人間なのだ。
(俺、なんでこいつの友達やってんだろう…)
 そう思うこともしばしば。
「大声出さないでください。閉め出されますよ」
 誰のせいだ、と言いかけると、祐輔は窓の外を指で示した。「我らがお姫様たちの登場です」
 店の外の通りを見知った2人が並んで歩いてくるのが見えた。元村(もとむら)沙耶(さや)三高祥子(みたかしょうこ)。2人ともこちらには気付いていない。なにを話しているのか、楽しそうに笑い合っていた。と、思ったら、やはり祥子がこちらに気付いて手を振る。慎也はそれに応えた。
 沙耶は慎也の実妹で、祐輔の恋人だ。そして祥子は慎也の恋人だった。沙耶と祥子を引き合わせたのは慎也だが、2人とも「社交能力」に関してはある意味欠陥があったので、こうして並ぶ姿を見るのは不思議な感じがした。
「あの2人があそこまで仲良くなるとは思わなかったな。とくに、沙耶は人見知りするほうだし」
「沙耶は他人に興味がないだけです。どちらかといえば、人見知りは祥子さんのほうでしょう」
「容赦ねぇな」
「違いましたか?」
「いや、合ってる」
 やはり余所目にもそう見えるのか、と慎也は確認した。
 祥子の人見知りは、彼女が持つ特殊な能力が一因となっていることは間違いない。2年にわたる付き合いのなかで、その能力が少なからず原因となったすれ違いや喧嘩もあった。それでも今もそばにいられるのは、お互いが寄り合おうと意識した結果だ。そしてそれはお互いの根幹にいる共通の人物のおかげでもある。それらの幸運に、慎也は感謝していた。


 軽い挨拶のあと2人は席に着いて、そろってアイスティーを注文した。
「山田くん、早かったのね」
「私たちより遅いだろうって、話してたんですよ」
 沙耶と祥子が笑い合う。沙耶の喋る速度は遅い。祥子と比べるとその異様さが余計目立つが、本人同士はウマが合っているようだ。
「来たのはついさっきです」祐輔はすまなそうな顔をして言う。「祥子さん、今朝は突然電話してすみませんでした」
「いえ、私も午前中は買い物する予定だったから。沙耶さんと色々回れて楽しかったです」
 今日は昼食を4人でと、12時に集合予定だった。祐輔と沙耶は早くに落ち合う予定だったが、祐輔に急用が入ったのだという。
「私、慎也と会うのは久しぶりな、気がする」
 沙耶が言った。
「そうだっけ?」
「お母さんがたまに訊いてくるの。慎也は相変わらずか、って」
 沙耶は実妹だが両親が離婚したために籍は離れている。沙耶を連れて出て行った母親とも、そういえば久しく会っていない。
「そう、慎也は相変わらずの巡業生活ですよね」
「うるせーな。…あ、三高まで」
 祐輔の冷やかしに祥子までも笑っている。
 慎也の主な収入はピアノ弾きのバイトだ。バーやレストラン、大きなところではショッピングモールのホール、遊園地のイベントなどもある。都内だけでなく近隣の県も回って慎也は仕事をこなしている───つまり、巡業だ。
「それにしても、圏内とは言え、そんな転々とする仕事では、付き合ってる祥子さんも大変ですね」
 さっさと見捨てても構いませんよ、という響きで祐輔が冷やかす。祥子は軽く笑って返した。
「そうでもないですよ。私のほうは時間に融通が利く仕事だから」
「でも、このあいだは休み取れなかったじゃん」
「あのときは長期の仕事が入ってたの」
 その会話を聞いていた祐輔が口を開いた。
「祥子さんって、なんの仕事をしてるんですか?」
「確か、本屋のバイトはやめた…って」
「うん、本屋は辞めました。本業のほうが忙しくなったから」
「本業?」
 祐輔が訊くと、祥子は少し迷った様子を見せた。
「調査事務所、のようなところです。説明が難しいんですけど」
「リサーチ会社?」
「ええと、研究(リサーチ)というよりは、代行とか仲介に近いかな。7人しかいない、小さな事務所ですよ」
 沙耶も初耳だったのか、その話を聞いて首を傾げた。
「私、うまくイメージできないんだけど、所長さんとかいるの?」
「うん。最近はちょっと不機嫌なのが」
 そう言って頷く祥子は何故だか楽しそうに見えた。犬猿の仲である「所長」が珍しく不調なことが小気味よいのだろう。
「阿達さん、なにかあったんだ?」
 これは祐輔と沙耶はまったく知らない話になるので、慎也小さく尋ねた。
「最近、同じ依頼がいくつもくるって、イラついてるの」
「依頼って?」
「それは言えません」
 祥子はやわらかい仕草で人差し指を立てた。これも仕事柄なのだろう、一線以上は喋らない、そういうところはしっかりしている。
 その祥子がぴくりと反応して、ちらりと慎也を見た。  そのような挙動はもう日常のこと。なので、いつもなら2人とも流すところだが、目が合ったので慎也は読まれた(、、、、)ことを素直に白状した。
「もうこういう季節だなぁ、と思って」
 天井に指を向ける。
 祥子は慎也の示すものに気付いたようで、あぁ、と相槌を打った。
「『B.R.』?」
 店内のBGMに、ちょうど一年前に発売された曲が流れていた。『B.R.』はすでに夏の風物詩、多くの人がその存在を知る人気バンドだ。
「よくリクエストされるから、全部覚えちまった」
 慎也もCDを買っているし、耳コピで弾いたりもする。指が自然に、曲に合わせてテーブルを叩いていた。
「うちの生徒にもいますよ。これ弾きたいって言ってくるコが」
 と、祐輔。
「うちのオケでも、たまに話題になる。やっぱり今年も出てくるのかな」
 『B.R.』は多方面に影響を及ぼしている。年に一度しか曲を出さないというのに世間での話題は尽きない。バンドメンバーが一切顔を出さないこともその一因だろう。
 ふむ、と息を吐いて慎也は祐輔の顔を覗き込んだ。
「『B.R.』ってさぁ、実はおまえだったりしない?」
「違いますよ」
 冷ややかに馬鹿にするような表情を向けられ、慎也は怒鳴り返した。「冗談だって!」
「───ぇ?」
 と、その場に針を落とすような、小さく呟く声。

 祥子は大きく目を開き、祐輔を見た。その視線に気付いた祐輔と目が合う。
「…ッ」
 すぐに視線を外す。けれど遅かった。たとえ一瞬でも、目は口ほどにものを言う。
 顔を逸らしても、祐輔の目がこちらを向いていることが判った。
(しまった)
 と思ったのは、このときは祥子だった。

「どうした?」
「え…ぁ、…ううん。えーと」
 慎也が声をかけると、祥子はあわてて言葉を探す。またなにか見つけたか、と慎也はとくに気に留めなかった。それ以上は疑問に思わなかった。
「そ、そう。雨が降りそうだな、と、思って」
「あ、本当。私、傘持ってきて、ない」
 祥子の言うとおり、外は怪しい空模様になっている。祥子は不自然な挙動でその空を見上げていた。
 まるで他のなにかから、目を逸らすように。

 食事を済ませて席を立ったときのこと。
「───祥子さん」
 祐輔の低い呼びかけに祥子は飛び上がった。「…な」
「なに? 山田さん」
 一対一ではさすがに顔を背けるわけにはいかない。祥子はおそるおそる祐輔に向き直った。
「さっきの、冗談ですよ?」
 苦笑混じりの表情。ただ声はそれと判るほど慎重な響きだった。
 祐輔の科白は予測していたもので、祥子は胸を撫で下ろす。この場合の対応も用意していた。
「え? さっきの、って…なんでしたっけ?」
 軽く笑って返すと、まるで表情が伝染したように祐輔の表情が動く。
 笑顔で対峙する2人。しかしその場には言い知れない緊張感があった。
「どうかしたか? 2人とも」
 慎也が振り返ると、
「な、なにも」
「なんでもありません」
 祥子は祐輔を避けるように視線を落とし、祐輔はそんな祥子に射るような視線を向けていた。







■3 三高祥子

「……ばか?」
 頬杖をついて上目遣い。史緒は呆れ切った様子で深い溜め息を吐いた。
 事務所へ帰るなり、テンパりながら、しどろもどろに説明した後のことだ。
 沙耶たちと別れた後、祥子は慎也と出掛けたけれど最初から最後まで上の空だった。送ると言ってくれた慎也の申し出を断り急いで戻ってきた。
「何年、それ(、、)、持ってるのよ」
「だ、だって」
「あとね、その話を私に聞かせてどうしろっていうわけ? そのネタを売れとでも? 特別手当でも出しましょうか? かつてないくらいイイお金になるのは確実だし」
「それはダメ!!」
 山田は知られては困るだろうし、沙耶も慎也も知らないようだし、友達の隠し事を暴露するようなマネできない。
 史緒は肩をすくめる。
「でしょう? ひとりで秘密を抱えてるのが苦しいからって、こっちに片棒担がせないで欲しいわ」
「ごめん…。でも、信用して言ったんだから」
 信用?、と史緒は滑舌良く復唱し、きれいに笑って、芝居がかって言った。「その科白、私の目を見てもう一度言って」
 それは無理。祥子は素直に視線を逸らした。
 確かに、興奮のあまり史緒に漏らしてしまったのは自分の落ち度だろう。けれど、ここ数年、日本中を騒がせているものの正体、その糸口。大きな秘密ほど、抱えるのは苦しい。
「まさか本当に売る気じゃ…ないよね?」
「あのねぇ」史緒の声に怒気が灯る。「私は、B.R.の話なんか聞きたくないの。知りたくもないし、扱いたくもない」
「え…? あれ…?」
 史緒の反応は予想外だった。祥子は途端に弱腰になる。
「どうして? 売ればイイお金になるんでしょう? だからって売られても困るけど」
「B.R.はもう、私たちが想像できないくらい大きな案件(ヤマ)なの。おおよそ情報屋と名のつくところは、どこも一度はトライしてるでしょうよ。それこそエサに群がるピラニア状態。そんなところで本物のエサを出してごらんなさい、喰われるのはこちらのほうだわ。目を付けられて、その後が遣りにくくなるだけ」
 史緒は机に八つ当たりする勢いで吐き捨てる。
「B.R.の依頼の数にはうんざり。なにがイヤって、“できません”って答えなきゃいけないこと。腹立たしいのよ。さっさとどこかがカタをつけてくれればいいのに───って、思ってた矢先にコレ」
 じろり、と睨まれる。史緒の苛立ちが伝わって祥子は一歩退いた。
「で? どうするの?」
「どうするって…」
 そうだ、山田は勘付いている。確信まではなくても疑惑は生まれていた。今日、B.R.の話題が出てから別れるまで、山田はこちらを注視していた。
(次に会うとき、どんな顔で会えばいいの!?)
「どうしよう…?」
 期待の目を向けてみるが、史緒は笑いながら拒否を口にした。
「さっきの話は聞かなかったことにするわ。あなたの友人関係は知ったことじゃないし、ともかく私を巻き込むのはやめてね」
「薄情もの〜…」
「なにを今更」

 ふと、祥子は振り返る。
「なに?」
「誰か来た。お客さん?」
「今日はもう予定はないはずだけど」
 史緒が言い終わらないうちにノックが鳴った。祥子が知覚してからドアが鳴るまでが予想以上に短かった。対象者は走ってきたのかもしれない。
 コンコン
 しばらく目を合わせた後、史緒は顎をしゃくってドアを示した。この場にあっては史緒は祥子の上司だ。既に染みついている役回りで、祥子はドアを開けた。
「はい」
 と、仕事(ビジネス)用の声と表情で客を確認───…すると、心臓が飛び跳ねた。「き」
「キャーっ!!」
「祥子さん」
 腕を掴まれる。
「や…山」
 そこにいたのは山田。山田祐輔だった。
「どうしたのッ?」
 祥子の悲鳴を聞いて史緒は腰を上げる。ドアに隠れた来訪者が不審人物かと危機感を持ったのだろう。祥子は誤解を解くために、首を振ってみせた。
「ち、ちがうちがう。この人は慎也さんの友達」
「なんだ」
 史緒はほっと息を吐いて椅子に座り直した。(「なんだ、つまらない」と聞こえたのは祥子の気のせいのはずだ)
 山田は一歩進んで事務所に足を踏み入れた。後ろ手でドアを閉める。祥子の腕は掴まれたままだった。
「あの、ど、どうしたんですか? 山田さん」
 平静を保とうとしたが声が裏返ってしまった。山田が射るような視線を向けてくる。祥子は5秒と保たず目を落とした。これでは後ろめたいことがあると言っているようなものだ。
「あぁ、さっき(、、、)の…」
 状況を察した史緒が言うと山田に緊張が走る。祥子は史緒を睨みつけた。けれど史緒は知ったこっちゃないと言わんばかりに肩を竦める。
 山田が深く息を吸った音が聞こえた。おそるおそる顔を上げると、山田は祥子に文庫本を差し出した。
「これ、沙耶から」
「え?」
 意気を削がれて力が抜けた。
 そういえば今日、沙耶と約束した。次に会うときに貸してくれる予定だった本。山田に渡された文庫本はそのタイトルのものだった。わざわざ持ってきてくれたのだろうか。
「あ、ありがと」
 史緒が盛大な溜め息を吐いた。
「…祥子。いい加減、懲りたら?」
「え?」
文庫本(それ)はカモフラージュ。もしくは間を埋めるための小道具。あなたの反応を見に来たのよ」
「えっ!?」
 山田はそれと判るほど表情を歪めて史緒を見た。
 本来、山田は人の良さそうな表情を崩さず、余裕が有り、取り乱すことがない人間だ。わざと刺々しい言葉を選んだり、挑発的な物言いもするが、それだって己を崩さず相手をコントロールしているに過ぎない。───だから、祥子の能力に触れることなど今まで無かったのに。
 今日、B.R.の話題が出るまでは。
 だからこそ分かってしまう。山田にとってのB.R.の重要性。危険を冒してA.CO.(ここ)まで来た理由も。
「とりあえずその手を放してください」
 史緒に言われて気付いたのか、山田はやっと祥子の手を放した。血流(けつりゅう)が再開されたような開放感があった。すみません、と小さく山田が言った。
「……」
 やりにくいな、と祥子は手を撫でながら思う。
 これが知人ではなく、慎也の友人ではなく、沙耶の恋人ではなかったら、もっと気楽でいられた。史緒に任せておけば程なくして来訪者を退場させただろう。でも山田は祥子にとって仲の良い知人で、この先も付き合っていく友人でもある。禍根を残したくない相手だ。
(そのへんのところ、考慮してくれてるかな〜)
 史緒のほうを(うかが)うと、その横顔はやりあう(、、、、)気満々だ。───期待できないかもしれない。
 窓を背にする机と、廊下側のドア。部屋を二分(にぶん)する位置で、史緒と山田はお互いの目から意図を吸い出そうとする。しかし優劣は明らかだ。
「なにを知っているんですか」
 山田は慎重な声で言った。
「あなたが知られたくないことを」史緒は口端に冷笑を浮かべる。「苦しいですね。何を知られたか見当はついてるのに、確証はないから自分からは迂闊に口にできない。かといって真偽を確かめずに弱みを握られるのも滑稽な話です」
「史緒」
「なによ。もともとは祥子のせいじゃない」
「だって、B.R.よ!? びっくりしちゃって…───あ」
 失言に気付いたが既に遅い。
「馬鹿」
 史緒は額に手を添えて天井を仰ぐ。今度は疑問形ではなく確定、しかも漢字だった。
「度し難いとはこのことね…。その軽率さは査定に響くわよ」
「そんな」
 仕事とは関係無いじゃない、と言い訳しようとしたが、現状において重要なのはそんなことではない。
「どうして…」
 困惑の表情で山田は史緒と祥子を見比べた。
 どうして分かったのか、と。
「あ、あの…」
 祥子はなにかを言い掛けるがその後が続かない。その代わり、祥子の科白を埋めるように、かたん、と音がした。
 史緒が椅子から立ち上がる音だった。
 机を回り込んで、その端に浅く腰を掛ける。
「遅ればせながら…私は阿達といいます。ええと、山田さん? …運が悪かったですね。このコは、少しばかり勘がいいんです。Y/N(イエスノー)回答の真偽ならエラーはありません」
 山田は疑惑の目で祥子を見た。それ以上の説明はしたくないし、史緒にしてもらいたくもない。だから問われる前に祥子は降参を示した。
「あの、心配しないで…ください。なにがあっても、ばらさないから」
 史緒がぼそっと横槍を入れる。「私に喋ったくせに」
「どっちの味方なのっ!?」山田さんの前で余計なこと言わないで、と泣きそうになる。
「祥子の味方って、決まってるわけじゃないでしょ?」
 史緒は相変わらず知らん顔だ。

「それで? 山田さん。A.CO.(ここ)へは何しにきたんですか?」
 史緒は鷹揚に尋ねた。
 答えは判りきっている。要は山田が、それを認めるか認めないかだ。
「…ここは、興信所かなにかですか? 祥子さんからは調査事務所のようなもの、と聞いてますが」
「ええ、そんなようなものです。最近の流行(はや)りは“B.R.の正体について”。どんな些細な情報でも、こちらの言い値で買い手に不自由しません」
「参考のために聞いておきたいんですが、相場はどれくらいですか」
 山田が何故そんな質問をするのか祥子にはわからない。けれど史緒は「そうきたか」と言うように薄く笑う。
「取引します?」
「そうは言ってません。相場を訊いただけです」
「…そうですね。警察が情報提供者に出す報奨金額と似たようなものかしら。でもこの場合は相場なんてアテになりませんよ。世間を騒がせたい職業の人間は、金額なんてどうでもいいんです」
「それは困りますね」
 山田は自嘲気味で、答え方に迷っているようでもあった。
「そういえばまだ答えてもらっていませんが。山田さんがなにしにきたのか」
「そう。僕は…口止めに来ました」
「山田さんが困るんですか? それとも他の? やっぱり所属事務所の偉い人に怒られたりするんですか?」
「気になります?」
「少しは」
 皮肉のつもりだったのだろう、けれど史緒は楽しそうに笑ってそれをかわした。
「僕も困りますが、それ以上に戸惑う仲間がいます。まぁ、事務所も少しは慌てるでしょう」
「あら。じゃあ、私たちに口止めするつもりなら事務所の人間を連れて来たほうが話が早いのでは? 口を塞ぐ対価を支払うのに山田さんでは役者が不足だと思いますけど」
「……っ」
「またと無い書き入れですから、売り先は慎重に選ばせてもらいます。そちらがどう出るかは、それまでゆっくり待ちま」
「いいかげんにしてッ!」
 我慢ならずに祥子は飛び出す。祐輔を(かば)うように立ちはだかった。
 史緒は眉一つ動かさず、祥子に視線を転じた。
A.CO.(うち)はゴシップ屋じゃないはずよ。人の弱みに付け込んで脅すなんてサイテー、情報(ネタ)を巡って取引なんて、らしくないじゃない。お金がよくても、同業から注目されるようなことはしたくないってぼやいてたのは誰?」
 史緒は止めようとも言い返そうともしないので祥子はさらに続けた。
「大体、B.R.には興味ない、扱いたくないって言ってたのはついさっきよ? 舌の根も乾かないうちになにを…」そこまで言って祥子は我に返った。「───…って、アレ?」
 そうだ、史緒は最初に言った。B.R.のネタは扱いたくない。どこかがカタをつけてくれればいいのに、と。
 山田が現れたからといって史緒が意見を翻す理由はない。
(……まさか)
 改めて史緒を見るとその表情は数分前から少しも変わっていない。しかし祥子と目が合うと史緒はくしゃりと歯を見せて笑った。
「ま、そういうわけなんです。山田さん」降参を表すように両手を上げる。「いじわる言って、すみませんでした」
「は?」
 祥子の背後から、山田の気の抜けた声が聞こえた。体勢を整えたのは祥子のほうが早かった。
「史緒、あなたねぇ!」
 最初から言っていたとおり、史緒はB.R.の情報を売るつもりなんて無かった。
 おそらく八つ当たりも兼ねているのだろう、腹いせに山田を、そして祥子をからかっただけだ。挑発するような態度も、脅すような物言いも、ぜんぶ。
「性格悪いにもほどがあるよっ」
「それは祥子が一番良く知ってると思ってたけど」
 悪い冗談をやらかした後なのに史緒は涼しい顔だ。
「───ということは、黙っていていただけるんですか」
 まだ少し緊張が残る声の山田。
 けれど流れを無視して史緒はあっさりと否定した。
「いいえ。私は見返りなく口止めされるのは不愉快です」
「史緒」
「だから今日ここで聞いたことは忘れることにします。───私は山田さんに、この約束を保証することはできます。そう言う私を信じられるかは山田さん次第ですけど」
 史緒は山田を見て不敵に笑う。
「私が約束するのは私のことだけです。祥子のほうへは個別に口止めするなり交渉するなりしてくださいね」


*  *  *


 祥子と山田は駅までの道を歩いていた。
 一連の出来事に祥子は足にくる疲労を感じていたが、山田もどこか疲れた顔をしている。2人が事務所を出るときに見送っていた史緒の涼しい顔が恨めしい。
「なんだか久しぶりに一方的にやられた(、、、、)という感じです」
 と、山田は苦笑する。
「本当にごめんなさい、失礼なことして」
「いいんですよ。僕も首が繋がりました」笑うのをやめて、山田は少し考え込む仕草をする。「ところで祥子さん」
「はい?」
「阿達さんと僕がやりあってるとき、庇ってくれたじゃないですか」
「庇ったっていうか…あれは、史緒があまりにひどいこと言うから」
「でも、あれが無かったら、例え同じ結果になっても、僕は祥子さんに対して疑念が残ったと思います」
「えっ」
「約束してくれても、僕の知らないところで祥子さんたちがなにを画策するか判らないし、慎也たちと4人で会っていても祥子さんの言動にヒヤヒヤしていたと思います。でもあのとき怒ってくれたことで祥子さんの本質は見られましたし」
「そう、…ですか?」
「そういう禍根を僕らに残させないためにわざと、阿達さんは祥子さんを怒らせるようなことを言ったのかもしれませんね」
「……」
「あれ? そういう気遣いをする人物じゃないんですか?」
「違いますっ。あれは単に性格が悪いだけですっ」
 むきになる祥子を見て、山田は声をたてて笑う。
「そういえば祥子さんの口止めもしなきゃいけないんですけど」
「あ。それはもちろん、ご心配なく。本当に、口外しません」
「それを聞いて安心しました。祥子さんと気まずくなると、沙耶や慎也のほうにも影響ありますし」
「やだ、それを言ったら私のほうが影響大ですよ。付き合いの長さを考えれば断然不利です」
「そうでもないでしょう。慎也とはなにか因縁があるそうじゃないですか」
 そういえばそれも、この季節のお話。
 祥子は笑って返した。
「それはまた、別の話です」
 見上げれば、梅雨明けを示す高く青い空。
 こんな夏の日の匂いには、B.R.の歌がよく似合うだろう。







了  夏の日の