SeventhDay'sMoon(史緒,藤子/36話読了推奨)


■1
「外、見て」
 3回目のベルで受話器を取ると、相手の開口一番は名乗りもしなかった。
 たった一言、意味の分からない、というより意図の分からない一言。それを聞いて、A.Co.の所長である阿達史緒は対応すべき言葉を忘れた。
「……え?」
 マニュアル通りの電話対応も忘れ、史緒はやっとそれだけを返す。
 “失礼ですがどちら様でしょうか”、“こちらA.Co.です。ご用件をどうぞ”。
 …ビジネスマナーとしてお約束の返答はいくらでもあったのに。
 あまりの反常識的な態度にすぐに反応できないのは、型通りの常識しか身に付けてない修行不足のせいだろうか。
 しかしそれ以前に、彼女が巧いフォローもせず、こんな失態に甘んじたのは電話の相手の名前を知っているからだけど。
「藤子なの? ……一体なに?」
「いいから。西の空」
 突発的で物事を順序立てて伝えようとしないのは、國枝藤子にすればいつものことだ。
 有無を言わせない口調に、史緒は仕方なく有線電話のケーブルを引っ張って窓際に近づく。受話器を肩と頬で抑えたまま、ブラインドを引いて窓を開けた。生温い風が流れてきた。
 もう外は暗い。日没直後らしく、空はほんの少しの明るさだけを残していた、ネオンの明るさが建物の輪郭を教えてくれる。暗闇になることのない街に夜が訪れる。
 史緒は半ば儀礼的に西の空を見て、藤子に聞こえない程度に軽く息をついた。
「何なの?」
「月」
「……」
 もう一度、史緒は窓の外を見た。
 西の空。少しの明るさを残した空に。
 まだ低い位置に七日月。
「キレイだね」
「────」
 凛と耀く欠けた月。
 史緒は空を見上げ、それに見入った。
「………そうね」
 かなり遅れて、呟いた。
 だからなに? そんな応え方をしても、藤子は怒らなかったはずだ。でも、史緒は藤子の言葉を素直に受け取った。素直に頷いた。
「けどさぁ、反射板ってあるでしょ? 自転車の車輪とか道路の標識やセンターラインにあるやつ。あれって月の光と同じ原理じゃない? そう考えるとロマンもへったくれも無いね」
 史緒は吹き出した。
「それじゃあ、ぶち壊しだわ」
 史緒は時間を確認する為に、室内の壁時計に目をやった。
 もうすぐ7時になる。
 窓のほうへ視線を戻すと、やっぱり月が見えた。ふと、藤子と2人、別の場所で同じ月を見ながら電話していることに気付き微笑う。
「今、どこにいるの?」
「東京タワーに来てるよん」
 えっ、と少しばかり驚いて窓の外に目を向けると、ライトアップされた東京タワーがはっきりと望める。史緒は笑った。
「なんだ、そんなに近くに来てるなら呼び出してくれればいいのに」
「史緒ったら。あたしがこんなデートスポットに一人で来てるわけないでしょ」
 ったくもー、野暮なんだから。含み笑いと共に付け加える。
 史緒はふと思い立ち、
「そっか。北田さんが一緒なんだ」
 と、納得した。
「あたり」
 晴ちゃん、史緒なんだけど、なんか喋る? と、小さく聞こえる。すぐに声の遠近感が戻って、
「あ、史緒ー? 晴ちゃんから。“こんばんわ”だって。それだけ。もー、そっけないんだから」
 と、言う。
「彼らしいよ」
 そう口にした後で、史緒は、藤子のほうがよく知っている人物についてこの言い方は失礼かもしれないと考えたが、藤子は特に気にしていない様子だった。
「話変わるけど。この間の会合、行けなくてごめん。いくら仕事だったとはいえ、由眞さんにも注意されちゃった。あの2人も、怒ってたでしょ」
「まぁね」
「ていうか、あの2人はあたしと会いたくないだろうから喜んでたかな?」
「藤子」
「いじわるな質問でした。ごめん。とにかくこの電話の主旨は、月のことなわけ。もし仕事中だったなら邪魔して重ね重ねごめんなさい。あ、そーだ。今度いつ会える?」
「同じこと訊こうと思ってた」
「あははは。んじゃ、また連絡するよ」
「わかったわ。北田さんにもよろしく伝えて」
「はーい。晴ちゃん、史緒がよろしくだって。史緒ぉ? 伝えたよー」
「はいはい。それじゃ、また」
「じゃねっ」
 電話を切ってからもう一度、史緒は暗い夜を仰いだ。
 街の光の遥か高みに小さく輝く、七日月。
 史緒は口の端で笑った。
(………気付かなかったな)
 一度、窓の外を見たはずなのに。藤子に言われるまで気付かなかった。
 月の存在なんて。
 今はこんなにもはっきりと望める。
 そこにあるはずのものが視界に入らないのも。気にかけられないのも。
「…私らしい、か」
 風が冷たくなってきた。
 少しの未練を残した視線を空に送って、史緒は窓を閉めた。







■2
 茶色がかった髪に軽いウェーブパーマ、ひまわりが咲いたキャミソールにタイトスカートの少女。その隣にはグレーのTシャツにジーンズパンツの背の高い青年。一見して恋人同士だと判る2人がいた。
 名前は國枝藤子と北田千晴という。
 藤子はくすくす笑いながら電話を切ると千晴を見上げていった。
「晴ちゃん。ホラ、月がキレイね」
「さぁ」
 無表情で素っ気無い返事だけを返す。
「素直じゃないなー。史緒はきれいだって、言ったよ?」
「いい加減つまらないことで呼び出すのはやめろよ」
「つまらないことじゃないよ」
 まっすぐに見つめる藤子の言葉にも、千晴の表情は筋肉一つ動かなかった。
 あたしね、と藤子は続ける。
「キレイな景色って好きよ。見つけたら誰かに言いたくなる。同じ感動を共有したいから」
 今日、「高いところに行きたい」という理由から、千晴は藤子に呼び出された。1時間ほど眼下の景色を堪能したあと、月が出ていることに気付き今度は史緒に電話したのだ。
「キレイな景色のなかに住む人間も好き」
 千晴の後ろの人通りを一瞥して、藤子は目を細めて笑った。
「嫉妬とか欺瞞とか、憎悪とか愛情とか。そういう醜く汚い綺麗な感情。とても人間らしいと思う。あと我が侭な人も好きかな。意志が無いよりよっぽどマシだから」
「阿達もそういう人間なのか」
 千晴からの問いかけはかなり珍しい。藤子は目を丸くして、次に微笑んだ。
「史緒は我が侭だよ」
「…」
「史緒のことは好き。なんか可愛くって」
 どんなところが? などという気の利いた相槌を千晴がするはずもなく、藤子は勝手に先を続けた。
「自分が周囲の人間を大事にすることで自己満足してる。見返りを求めてない、って言ったら褒めすぎかな。いや、褒めてないけどね。そういう人間は端から見てるとムカつくよ、見返りを求めてないっていうことは、周囲の人間はいなくても構わないってことだもん。…ま、実際、いなくなったら史緒は慌てるだろうけど。でもやっぱり、追いかけたりはしないと思う。───大切にしている人達は沢山いるくせに、自分が大切にされてるなんて考えもしない、感じることもできない。あははは、史緒を好きになる男は大変だー。絶対、口で言わないと解らないもん。口で言っても解らないかもね。つまりは頭でっかちの子供。そういう意味で、可愛い」
 何故か嬉しそうに、藤子はそんな風に史緒を評する。
「晴ちゃんがあたしの知り合いの名前憶えてるなんて、由眞さんの他には史緒くらいだよね」
「おまえが友達だなんて紹介したのは、阿達だけだからな」
「意外? あたしに友達がいること」
「当然だ」
「史緒は友達だよ。あたしのこと、解ろうとしてくれてるもの」
「その割には散々言ってるな」
 藤子は笑った。
「本人の前でも同じこと言ってるの」



「行くぞ」
 前触れもなく、千晴は背を向けて歩き始めた。そんな態度にもさして驚かず、藤子は後を追う。しかし2歩進んだところで、藤子は立ち止まった。
「晴ちゃん」
 先を歩く千晴を呼び止める。
 面倒くさそうに振り返った千晴に。
「キス、したいな」
 首を傾げてそんな風に言う。
 千晴は藤子に近づき、身をかがめて、自分の唇を藤子の唇に落とした。
 3秒後、触れているだけの唇を素っ気無く離して、千晴は変わらぬ表情のまま背を向けて歩き始める。
 そんな態度にも藤子は満足そうに笑った。
 そして駆け足で追いついて、千晴の左腕に自分の腕を通す。はっきりした声で、藤子は言った。
「好きよ。死ぬまでそばにいて」
「ああ」
 5秒で終わる会話をして、2人は出口へ向かった。
 残ったのは、公衆でイチャつく2人を非難するような、幾人かの視線だけだった。







了  SeventhDay'sMoon