一条和成(和成,咲子/34話読了推奨) |
昼時に訪れると、中庭はいつもどおり大賑わいだった。 やわらかい日差しが当たる芝生のうえで、パジャマ姿の子供たちが遊んでいる。元気いっぱいのその姿は、本当に病気なのかと疑わずにいられない。杖を突く子も車椅子の子も、大声を出して軽快に動き回っている。その笑顔はとても健康的で、こちらも思わず笑わずにはいられなかった。 「あー! カズくんだ!」 そのうちの一人に見つかった。9歳の男の子が駆けてくる。 「やぁ、ミチタカ。元気にしてるか?」 「元気じゃねーよー。午後から検査、うざー」 「アイス買ってきたから、機嫌なおしてよ」 「ほんと?」 「検査終わって、 「やったー。みんなー、カズくんがアイス買ってきたってー!」 プチ騒ぎ。その子供たちの輪のなかから、子供ではない女性が手を振った。 「もちろん、あたしのぶんもあるのよねー?」 顔馴染みの彼女は30半ばのはずなのに、どう見ても20代に見えてしまう。それは彼女の仕草が子供っぽいからだ。 「無いと咲子さん怒るからね」 「やったぁ」 と、手を叩く姿も少女のように見えてしまう。 「ねぇ。それにしても、ご無沙汰じゃない? 和くんと会うの久しぶりよね」 「いなくなってたのはそっちでしょ? 病院抜け出して2週間も行方暗ましてたって聞きましたよ」 「へへへ。ちゃんと 「どこ行ってたの?」 「ちょっとね。家の用事で」 「ねぇねぇ、サキちゃん」 子供たちが咲子の裾を引いた。 「ん? なぁに?」 「最近、シオ、来ないね」 「トールも!」 「なんで来ないのー?」 「また来るって言ってたのにー」 と、子供たちのプチ合唱に、咲子は困ったように笑ってみせた。 「ええと、ごめんね。みんなが呼んでたって伝えておくね」 「シオとトール? だれ?」 その名前に聞き覚えがなかった。 「そっか。和くんとは時間が合わないか」 「そんな子、いたっけ?」 「違う違う。 咲子にしては歯切れが悪い物言いをする。 「あ。…それがさ」 歯切れが悪いのはこちらも同じだった。 「学校辞めて地元へ帰ることになったんだ」 「どうして!?」 「それが、知らないうちに実家がヤバいことになってて」 「ヤバいって…」 「うん、まぁ。直面してる問題としては、学費を切られるんだ。ほら、うち、私立だから無理させられないし。今すぐ働けとは言われてないけど、どうせ学校辞めるなら、地元に帰って就職しようかと思って」 「和くんのご実家って…たしか岡山じゃない」 「そう」 「経営の勉強して、家業を手伝うって言ってたじゃない。どうするの?」 「その家業が倒産しました」 「え」 「元々、小さい会社だしね。後始末も終えて、今は落ち着いてるらしいからそんなに心配はしてない。俺としては、家業でなくてもそっち方面に進みたいけど、でも学校を辞めることは避けられないし、また別の方法を探すよ。他にやりたいことも見つかるかもしれないしさ」 「そんな…」 「うん、だから今日は咲子さんに挨拶に」 「───学費が問題なのよね?」 「は?」 「ご実家のご両親が、和くんに帰ってもらわなきゃ困るとか、どうしても帰らなきゃいけない事情があるわけじゃないのよね」 「う、うん」 「じゃあ、こうしない? あたし、和くんに頼みたいことがあるの。それをきいてくれるなら、学費はあたしが出す」 「は…?」 「ね。そうしようよ。和くんがいなくなるなんて嫌だもん」 「ちょ、ちょっと待って! 俺はそういう話をしに来たんじゃない!」 「なによ! 和くんだって、できるなら大学辞めたくないんでしょ!?」 「それは、そうだけど。…待ってよ、だいたい、学費っていったって数百万はかかるんだ。そんなの出してもらうわけにはいかないよ」 「だいじょうぶ、あたし、こう見えて、けっこうお金持ちなの」 「いや、そういう問題じゃなくて」 「ちょうど、史緒の先生してくれる人を探してたんだ。和くんなら安心だし」 「だからシオってだれ?」 和成の言うことを 「…梶くん? 咲子です、こんにちは。…そう、政徳クンに。時間があるようだったらお話したいんだけど、だめかな? …へいき? よかったぁ、じゃ、お願いします。 ───あ、政徳クン? お仕事中にごめんなさい、今、だいじょうぶだった? あのね、学費を出してあげたい子がいるの、かまわないかなぁ。…うん、大学生の男のコ。…あたしの友達なの、そのへんは保証する。その代わりってわけじゃないんだけど、史緒の先生やってもらおうかと思って。…あ、いい? ありがとう!! …ちょっと待っててね。 ───いいって」 「…咲子さん、あのね、どっちにしろ今のアパートからも出なきゃならないし、やっぱいいよ。やめよう」 「あ、政徳クン? どうせなら住み込みでやってもらおうと思うんだけど」 「咲子さん!!」 「いい? 櫻はあたしから説得する。うん、じゃあ、そうする。ありがとー。お仕事がんばってください。でも無理しないでね」 「史緒の先生になってもらいたいの。あ、もちろん、和くんの学業に影響でない程度でいいから」 「だから…、シオってだれ?」 「あたしの娘」 「えっ、咲子さん、子供いたの!?」 「知らなかったっけ? ちなみに、さっきのはあたしの旦那様」 「だって、一度もみたことないよ。ここに来たことあるっけ?」 「子供たちは和くんが来る時間とは合わないのよね。政徳クンはお仕事が忙しいから本当にたまにしか来ないし。アダチっていう会社の社長さんなの。知ってる?」 「───は?」 和成は咲子が社長夫人だと知らなかった。 しかもその社名は、知らない人間を捜すほうが難しいくらい、有名な企業である。 和成がこの仕事を受けたとき、咲子は息子をひとり亡くした直後だった。 そのことを和成はずっと後になって知った。 * * * 「どうしたの和くん。浮かない顔して」 「あ。そういう顔してる?」 「うん」 「自分では、意外と沈んでないな、と思ってたんですけど」 「沈んでないけど浮かんでもない。潜ってるかんじ」 「実はフラれました」 「…あらら」 「しょうがないんですけどね。時間取れなくて付き合い悪かったし。あんまり気を遣ってあげられなかったし。ちなみにフラれ文句はこう、“あたしより8歳の娘のほうが大事なの?”」 「──…それはぁ…。あ、あの、和くん? 史緒の世話を頼んだのはあたしだけど、そんな義務感、感じなくてもいいのよ? 和くんの学校生活も大事よ?」 「もう遅いです」 「うわぁぁあ、ごめんなさーい」 「ははっ、冗談だよ、咲子さんのせいじゃない。いいんです、今は史緒のほうも放っておけないし」 「いっそのこと史緒と付き合ってくれてもいいのよ」 「あのね。あなたの娘さんは何歳ですか」 「10年後に18歳です」 「そーじゃなくて。…ったく」 「だって、未来を語れるのは 「はいはい。じゃあ、史緒がいい男を掴まえられるように教育しておくから、10年後を楽しみにしててくださいよ」 「うん。楽しみにしてるね」 * * * 実際、阿達史緒という女の子は目を離せない子供だった。 そこに幽霊でも見えるのかと思うほど、いつも怯えていた。震えていた。夜中にうなされて奇声をあげていた。 近くにいて宥めていないと、まるで自分で自分の体を削っているような呼吸をいつもしていた。 おそらく問題は、史緒が、抱えている気持ちを吐かないことだと思う。 年の割に口は利けるほうだ。だから言えないんじゃない。言わないんだ。 何かに怯えた瞳と真っ直ぐ目が合うことがある。 すると史緒は、訴えるように口を開く。しかしそれは声にならない。史緒はそれを伝えられないもどかしさに一瞬くやしそうな顔をして、それを諦めた。 いつもそう。いつも、諦めてしまっていた。 * * * 「ねぇ───和くん」 「はい」 「子供たちのこと…ううん、史緒のことお願いね。次に史緒を守ってくれる人が現れるから、それまでは、お願い」 「まるで決まってるような言い方だね」 咲子はただ笑う。 「だって、約束だもの」 * * * 「あんたはもう手を引いていい」 咲子の葬儀の日、目の前に現れた関谷篤志が言った。 ───なにから? * * * 和成がアダチに就職して以来、社長の阿達政徳はときどき思い出したように口にすることがある。 「咲子からなにか預かってないか?」 最初に訊かれたのは、阿達咲子が亡くなった直後だった。 それから約5年。 「いえ? 心当たりはありませんが」 「なら、いい」 そう言って、阿達政徳は背を向けるのだった。 * * * 「あたし、酷いことをしてる」 生前の咲子が和成に言った。 「酷いことをしてると解っていても、黙ったまま死ぬわ。今、こんな風に和くんに吐き出しているのは…ほんと狡い、…あたしは、懺悔してるつもりなんだわ」 咲子がなにをしたか。 和成は薄々と気づき始めている。 それが正解かどうかは確かめようがない。咲子はもういない。そして櫻もいなくなった。 咲子が本当に黙って死んだなら、政徳や史緒はなにも知らないはずだ。 咲子がなにをしたか。その「なにか」は、残っていると和成は考える。 そしてそれを指し示すことができる。しかしそれはしない。 咲子が残した「なにか」が、動き始めるのを待つだけだった。 |
了 一条和成 |