ノエルとハル


 その街の郊外にリサーチパークがある。リサーチパークとは、複数の企業の研究施設や工場が集まった地域のことだ。食堂(ダイナー)やカフェも隣接し、他社の同業者が集まることで交流が生まれる。情報が流動し産業が活性化することが多く目的とされている。
 そんなリサーチパークの一角、白い建物のエントランスに一風場違いな女が所在なげに佇んでいた。場違いと思わせたのはまず服装。淡い黄色が基調のフリルのついたワンピース。スーツや作業着の周囲から完全に浮いていた。その他にも、薄茶色の柔らかそうな髪は腰まで流れて、上背の無いことを強調している。大きな目は青く、落ち着きなくそこかしこをさまよっている。まるで子供のような女は実際は22歳、けれど5つは若く見えた。
 エントランスに車が着くと、女はその場を離れ、車に駆け寄った。


 リアシートに腰を落ち着かせると車はすぐに動き出した。
「おつかれさま、ノエル」
「マーサも」
 ドライバシートに声を返して、ノエルはひとつ息を吐いた。
 マーサは35歳(と本人は言う)、スーツに眼鏡、ダークヘアをきっちりまとめたキャリアウーマン然とした女性だ。彼女は慣れた手付きでギアを切り替え、車の速度を上げていった。
「ここでの仕事も今日で一段落ですね」
「最後の締結はマーサの功績よ。すごかったわ」
「恐れ入ります」
 アスファルトの上、揺れる車のなかで、ノエルは疲れているのかシートに背を預けてぐったりとしている。ミラー越しにそれを見たマーサは取り急ぎの事務項目を確認した。
「明日の祝賀会(セレブレーション)ですけど、同伴者はどうします? お世話になった技術者でも誘いますか? 部長とか」
「いいよ。ハルを連れていくから」
「…」
 気のないノエルの返事にマーサは表情を曇らせた。
「なぁに?」
 不穏な沈黙を感じ取ったのかノエルが顔を上げる。マーサはこほんと空咳をしてから控えめに言った。
「あまり彼を連れ出さないほうがいいと思いますが」
「どうして?」
「ノエル・エヴァンズには情夫がいると噂になっています」
「あはは。どうしてそこで恋人じゃないのかな」
「あなたの年収に詳しい人間が多いということです」
「あたし、そんなに稼いでないよ。ほとんど出張費で消えちゃうし」
「あなたが持つ特許にも詳しい人間が多いのよ。一方で、ハルはどこの馬の骨とも判らない無名の男で、ノエル・エヴァンズの腰巾着。周囲が邪推するのも仕方ありませんね」
 マーサの科白からはマーサ自身の悪意が読みとれたがノエルは気にしなかった。ただルームミラーに映るマーサの目と眉の形が歪むのを一瞥しただけだ。
 窓の外に見知った景色が見えてくる。2ヶ月前にチェックインした長期滞在用のホテルが、そろそろ見えてくる頃だった。
「ねぇ、今夜3人で食事にいかない?」
「ご辞退申しあげます」
 マーサはにべもない。ノエルは頬を膨らませて不服を訴えた。
「たまにはいいじゃない。一年中、3人で旅行しているようなものなのに、マーサは付かず離れずなんだもの」
「仕事とプライベートを混合したくないので」
「でも…」
「ノエル」マーサの声に苛立ちが灯る。「あなたも知ってるでしょうけど、私はできる限りハルと顔を合わせたくないの」
「……知ってるけど」
「それは結構。じゃ、今日は2人でディナーでもなんでもしてちょうだい。私は自分の宿泊先へ戻ります」
現地夫(げんちづま)のところ?」
「な…っ!」
 急ブレーキで車が止まった。クラクションをいくつか鳴らされたが追突はなさそうだ。
「……マーサ、あぶないよ」
「誰っ? あなたにそんなこと言ったのは!」
「ハル」
「あの男…っ」
 マーサは苦虫を噛み潰したような表情でハンドルを握りしめた。
「どうなの?」
「プライベートですっ!」
 車はまたゆっくりと動き出した。
「でもね、心配なのよ。一年のほとんどを、あたしが連れ回しちゃってるでしょう? マーサは結婚もしてないし、このまま付き合わせていていいのかなって」
 余計なお世話、と言いかけてマーサはそれを飲み込む。
「お気遣い無用です」
「ホントに?」
「……あなたと契約している年俸で私は満足しています。そのうえで私がプライベートライフをどう過ごすかは、ノエルには関係無いことでしょう?」
「それって…。ちょっと淋しい」
「ほら、ホテルに着きますよ」
 車はホテルのロータリーに滑り込んだ。厄介払いしたいのかマーサは急かすように言う。
「では、明日は15時に迎えにきますから」
「えっ、早くない? パーティは19時からでしょう?」
「……それなりのお支度がありますので」
「めんどくさい」
「わかりましたか」
「はーい」
「それから来週は移動ですよ。ホテルの撤収準備もしておいてくださいね」
「……」
 来週は移動、という言葉にノエルは途端に不機嫌になった。そのことに気付いたがマーサにとってはもう時間外だ。不満はハルに聞いてもらえとばかりにノエルを車から降ろすとマーサはホテルを後にした。





 部屋のベルを鳴らすと、ややあって扉が内側から開かれた。
 痩せた長身の男が顔を出す。髪と目の色は黒。顔を隠すように前髪は長く、眼鏡を掛けている。
「ただいま、ハル」
「おかえり」
 ハルはノエルを軽く抱き寄せて、その青い双眼をじっと見つめた。いつものことなので、ノエルも慣れた様子でハルの黒い瞳を覗き返す。5秒後、そのままノエルの頭を抱き寄せて髪にキスすると、ハルはノエルを部屋に招き入れた。
「おつかれさん」
 部屋はリビングと寝室がふたつ。そのうちのひとつにノエルは入って、着替えを済ませて出てきた。
「ごはん、食べに行こ?」
「どこがいい?」
「この辺りのことはハルのほうが詳しいでしょ? オススメは?」
「車を呼ぼうか?」
「遠いの?」
「いや、歩いてもいける」
「じゃあ、散歩もかねて」


「今夜はご一緒にお出かけですか?」
「あぁ。仕事で忙しい奥さんをこの街で一番のレストランへね」
「よい夜を」
「ありがとう」
 フロントマンと社交辞令を交わすハル。その気安さは馴染みがあることを思わせた。ノエルが仕事をしているあいだ、ハルはホテルの従業員と毎日顔を合わせ、挨拶だけでなく世間話でもしているのかもしれない。
 フロントを離れ、2人は歩き始める。
「ハルは相変わらず、毎日、人間観察?」
「そんなようなものだ」
「この街で友達はできた?」
「ランチで顔合わせる程度の知り合いはいるよ」
 ホテルを出ると、薄暗がりの街に明かりが灯り始めている。夏になるとはいえ冷えた夜風が通り抜けた。
 ハルは煙草に火を点けた。そうなると手をつなげない。ノエルはしぶしぶハルの袖をつまんで隣りを歩いた。慣れた煙の臭いがした。
「そうだ、このあいだの解析レポート」
「どれ?」
「"Thermal Simulation Report for Real Opportunity in the High Mountain Provinces"」
「あぁ」
「評判良かったよ」
「ふぅん」
「ハルの名前を出さないで、本当に構わなかった?」
「俺はノエルに食わせてもらってるんだし、ノエルの仕事に役立つならなんでも」
 石畳の歩道に2人の足音が響く。
「…ハルがあたしの仕事仲間(パートナー)になってくれればいいのに」
「興味ないな」
「ひどい」
「マーサで充分だろう。あいつに不満があるなら切って捨ててやる。新しい付き人が見つかるまでなら、俺が代わりにやってもいい」
「もお。彼女は優秀な秘書よ? そう邪険にしないで」
「ノエルがそう言わなかったら、横領が発覚したあのときにとっくに切ってるさ」
「…あたしは気にしてないよ」
「しろよ」
 はぁ、とノエルは肩で息を吐く。
「あたしにとっては3人で家族みたいなものなのに。…うまくいかないわね」
「マーサにとってノエルは食い扶持。俺もノエルのことは家族だとは思ってない」
 ノエルは泣きそうになった。
「そうなのぉ?」
「そうだよ」
 短く答えた後、ハルはノエルの足音が無くなったことに気付いて振り返った。3歩後ろで足を止めているノエル。けれど、ハルが煙草を消して、ほら、と手を差し伸べるとそれに飛びついてきた。
 手をつなぎ、指を絡める。
「えへへ」
「…なに?」
「好きなの」
「俺が?」
「ちがーう。手をつなぐのが!」
「それは残念」
「スキンシップって、相手と自分のカタチを確かめ合う行為のことよね。ハルと手をつなぐの好きよ。自分の両手を組んだときとはまるで違う、手の大きさの違いや、指や爪が違うことが判る。そうやって自分のカタチを知るのは気持ちが良いことだわ」
「そういうものか」
「そうよ!」
 手をつないだまま再び歩き始めると、ハルが言った。
「俺は他人に触れなくても、自分のカタチが判ったよ」
「え?」
「目の前にいたんだ。もうひとり。自分が。……子供の頃の話だ」
「…え? それってどういうこと? 鏡? ドッペルゲンガー? ヤダ、それって怖い!」
「怖くはなかったな。ただ苛ついた」
「苛つく?」
「鏡が自分と違う動きをしたら苛つくだろう?」と、薄く笑う。「だから壊してみたんだ」
「ハル…?」
 ハルはノエルの手を引き寄せる。そしてまた瞳を覗き込んだ。街灯の僅かな明かりでもわかる、鮮やかな青。
「今は、ノエルと話すことで自分のカタチがわかるよ」
「あたし?」
「相手との違いで己が解る。ノエルと同じだな」つないだ手を持ち上げる。「ノエルと話すのは、悪くない」
 それだけの言葉が、ノエルには嬉しかった。
 マーサにもそう。ときおり確認せずにはいられない。自分の我が侭に付き合って無理をしていないか。定住しない生活に疲れていないか。本当は離れたいんじゃないか。
 一緒にいたい、家族でありたいと思ってるのは自分だけではないか。
「…次の仕事が決まったの」
 不安を隠しきれない声でノエルは言った。
「ハルも行く?」
「どうした?」
 ハルは不審そうに声を落とす。今までそんな風に訊かれたことがなかったからだ。仕事柄、各地を転々とするノエルに、当然のようにハルも同行していた。知り合ってから3年と少し。それが2人(とマーサ)の日常だった。
「……」
「邪魔ならマンチェスターで留守番してる」
「そうじゃない! いつもどおり一緒に来て欲しいよ!」
「ノエル?」
「ね、次の、さらにその次の仕事にも、ついて来てくれる?」
「あぁ」
「ホントに?」
「くどいよ」
「…次は、トーキョーなの」
 そこで沈黙が生まれた。ノエルはそれが怖かった。
「───…そうか」
「ハル…っ」
 見上げるとハルは、
「3年振りだな」
 と、遠い目をした。
 ノエルが不安になっている理由など、きっと解っていない。







了  ノエルとハル