紫苑(44話読了推奨) |
■1 明滅する非常階段。人工的な明かりと大きな黒い影が交錯する。たくさんの黒いオバケが揺れ動きながら追ってくる。振り返る余裕はない。右手を掴まれ、引っ張られて、引きずられるように走ることに必死で。 大きな黒いオバケは不気味に歪む。 まだ幼い僕と妹を連れ、父は逃げていた。僕らは追われていた。 甲高い足音が耳を それでも僕らは走り続けていた。父は左手に僕を、右手に妹を掴み、コンパス差を考慮しない速さで、転ぶことすら許さない強さで、他にはなにも持たずに、走り続けていた。 狭い通路のフェンスにあちこちぶつけた。じんじんと痛む手足を気にしていられない。ときおり父は僕と妹を気遣うけど、声を掛けることも、あやすこともしなかった。 「いたぞ!」 背中を刺すような声と、いっそう眩しい光を当てられた。父が息を呑んで振り返る。その動作で、僕と父の手はほどけた。次の瞬間、 がんっ。顎を打った。骨を伝って体中に寒気が走る。 ざりっ。アスファルトに皮膚をこそげられた感触。 壁に叩きつけられたと思ったらそれは地面だった。頭部を打ち、平衡感覚さえ失くした体は痺れて動かない。視界が霞む。揺れ動く光の世界で、父の手を無くした体が孤独と恐怖で震えた。 名前を呼ばれた。けれどその声も遠い。 「ぉ…お父さん」 無意識に手を伸ばす。大きな光のなか、少し離れた場所に並ぶ、大小ふたつの影。大きいほう───父が戻ってきた。(戻ってきてくれた!)手を差し伸べられる。名前を呼ばれる。それに応じて手を伸ばす。指先が触れるまであと少し。けれど、 「こっちだ!」という声に呪をかけられたように父の足が止まった。 地面を伝わり大勢の足音が聞こえる。近づいてくる。それに掻き消され、懸命になにかを叫ぶ父の声が聞こえない。 「…お父さん」 僕の声も、きっと届かなかった。 父が叫ぶ。それより早く手を取って欲しいのに。 「お父さん…!」 伸ばした手を、大勢の足音が追い越していった。大きな怪獣に足から飲み込まれたようで、僕は悲鳴をあげた。 「止まれっ、警察だ」 父は妹を抱き上げて走り出した。 「お父さん!?」 僕は? どうして置いていくの? あとは雑踏に紛れて聞こえない。遠くの光へ向かう、父の背中を見たのが最後だった。 「お父さん!!」 黒いオバケたちが、それを追いかけていく。 その日が、夏だったのか冬だったのかも憶えてない。 ただとても寒かった。 湿った夜風が吹き、半袖を着ていたけれど。 その夜はとても寒かったのだ。 名乗るなと、日頃から教えられていた。けれどその日、知らない大人にやさしく名前を訊かれて唇が凍り付いて動かなかったのは、それだけが理由じゃない。 それでも、すぐに小さなアカリは灯された。 「あなたが紫苑?」 初老の女性が覗き込む。びっくりするほど近くで、皺の多いきれいな顔は微笑んだ。 「私にはもう10年以上会ってない息子がいるの。急にその子が電話してきてね、紫苑を頼む、って」 ふわりといい香りがした。 「本当に、困った息子ね」 やさしく強く抱きしめられる。 置き去りにされた痛みは消えない。けれど寒さが少しだけ和らぐ。 雪のうえにひとつ灯された、小さなロウソクのように。 ■2 つないでいる手が逆だったら? 妹がもっと大きかったら? 父が左利きだったら? 捨てられたのは、妹のほうだったろうか。 「どうしてお父さんは僕を置いていったの? 妹は連れて行ったのに。なんで? ねぇ、なんで?」 中学を卒業するまで繰り返した質問に、祖母は辛抱強く付き合ってくれた。そのたびに見せる悲しそうな表情に気づいていたけど、それを汲めるほど大人にはなれなかった。 どうして捨てていくの? 答えを知りたいわけじゃない。知るのは怖い。けれどやめるのはもっと怖かった。その問いに体の内から喰われてしまいそうで口から出し続けていた。 後になってみればそれも、事実を認めるのが怖かっただけの子供のヒステリーだと納得できたけれど。 「お父さんと妹が、幸せに暮らしているといいわね」 と、祖母は言う。 「そんなのやだよ。僕だけのけ者?」 「あの2人がどんなに幸せに生きていたとしても、紫苑が一緒のときのそれに比べたら劣ってしまうのよ? でも紫苑はここにいるから2人に一番の生活はあげられない。だから紫苑がいない淋しさを乗り越えて、少しでも幸せでいてくれるよう、祈ってあげましょう」 「…いやだ」 「幸せじゃなければいいと思うの?」 「わからないよ! 3人でいることが一番いいなら、連れてってくれればよかったじゃないか」 「あのとき、3人では逃げ切れずに捕まっていたわ。そうしたら家族3人とも離れ離れになってしまっていたのよ?」 「僕が離れ離れになった!」 「でも、私に託してくれた。ねぇ、紫苑のお父さんのお母さんである私も、あなたの家族でしょう? 紫苑は私が幸せにしてあげる。ちゃんとそれを見越して、お父さんはあなたを私に託したの。あなたの幸せを願っていたのよ?」 「そんなの…わからないじゃないか」 地球上のすべての川は海へ繋がるらしい。 狭いこの国の地形では川の長さなどたかが知れている。それでもどこか高地で生まれたひとしずくが、さまざまな風景のなかを漂ってくる。いつ辿り着くかわからないまま、海という終着点を目指して。 視線を上げると遠く都心のビル群が見えた。その隙間に夕日が堕ちていく時間。西日が港を照らし、この時間だけは海も赤く染まった。 その夕暮れのなかで、川が海へ繋がる。とても短い一日がまた終わる。 背後のドアが開く音。それを合図に笑顔をつくって振り返る。ノックも無しにこの部屋へ入れる人間は一人しかいない。 「おかえりなさい、由眞さん」 いつもより少しだけめかしこんだ祖母が入ってきた。こちらが制服なのが少し残念だ。 「ただいま。待たせてごめんなさいね」 祖母のオフィスは壁一面がガラス張りで見晴らしが良い。ここからの景色は昼も夜も気に入っていて、放課後や休日など時間があるときは寄らせてもらっている。このオフィスに常駐している祖母の秘書とは気が合わないが、相手は無口な人間なので、祖母を心配させるような衝突はなかった。無視しても空気を壊さない人種というのは楽でいい。 「高校卒業おめでとう」 小さな花飾りを渡される。 「ありがとう。由眞さんのおかげだよ」 「あなたの力でしょう」 「うん、それもある。それより、約束忘れてないよねっ? 今夜は約束どおり2人でディナー」 勢いこんで言うと祖母はくすくすと笑う。 「ええ、予約は取ってあるわ。…お友達と約束はないの?」 「仲間内の卒業パーティは後日盛大に。留学仲間もいるし、まだまだ顔合わせる連中ばかりさ」 「出発は半年後よね」 「そうだけど?」 そこで祖母は口を閉じた。うつむき、言葉に迷う。 「…紫苑」 「なに?」 「あなたの父親と妹を捜そうと思うの。どう思う?」 歯ぎしりが、もしかしたら聞こえてしまったかもしれない。どうにか笑顔は崩さずに済んだけれど。 「とぼけるのはやめようよ。もうずっと捜していたくせに」 「……」 「見当がついたんでしょ? だから僕に切り出した。違う?」 祖母は答えない。しかしその沈黙こそが答えだ。 声が険しくなってしまうのはどうしようもなかった。 「向こうの状況は?」 「…まだ判らないわ」 「でもさぁ、相手方にとっては迷惑かもよ? せっかく 「紫苑…」 心配そうな声が余計癪に触った。 「由眞さんには僕がいるじゃないかっ。どうして奴らを捜す必要がある!?」 隣りの部屋から祖母の秘書が顔を出す。祖母はそれを抑え、なにか言おうとした。聞きたくない。 「あのとき由真さんは言ったじゃないか。“紫苑には私がついてる、だから2人のことは諦めろ”って。その由真さんが、僕がいるのに、あの2人を望むのかっ!?」 出張という名目でたびたび海外へ足を運んでいた祖母から電話が入ったのは、留学先へ出発する半月前のことだった。 「妹が見つかったわ」 予測できていた報告ではあった。最近、祖母が外出がちだったのは、ようやく絞れてきた情報を元に父親と妹を探し回っていたからだということも知ってる。わざわざ祖母が自分で足を運ぶこともないのに。 「あの後、2人はすぐに海外へ逃げていたの」 高飛びというやつだ。失笑を堪えるのに少々苦労した。 「それでね…」 そこで言葉が濁る…いや、翳る。 「どうしたの? なにかあった?」 「いいえ、大丈夫よ。…ええ、それでね、紫苑。あまりよくない報せなのだけど」 「うん?」 「2人が海外へ行った後、すぐに、父親は暴動に巻き込まれて亡くなったそうよ」 見えない誰かが幸せでいると、どうして思い込んでいたんだろう 妹とはふたつみっつしか離れていないはずなのに、祖母に引き合わされた妹はガリ痩せで体格も小さく、15歳くらいのはずなのに12歳くらいにしか見えなかった。栄養失調だという。現代の日本ではなかなか聞けない単語だ。 肌や髪はどこか薄汚れて、指先の爪は割れ土が擦り込んでいる。祖母が用意した服を大人しく着てはいるが、着心地が悪そうにもぞもぞと手足を動かしていた。言葉は思い出しきれてないのか挨拶もない。それどころか声も出さない。目を合わせようとしない。 顔を覗き込むと、途端に総毛立って警戒した。まるで猫のよう、というかわいらしいものではない。手負いの獣だ。 「迂闊に手を出さないでね。怪我するわよ」 祖母の科白は可笑しかったが、妹のこんな姿を目の前にしては笑うこともできない。 「昨日も大変だったのよ。毛布を掛けようとした刑事を投げ飛ばして…。その刑事は腰を打って病院送り」 こんな痩せ細った少女に投げ飛ばされ、3日間入院となった気の毒な刑事の名は木戸といった。 置いて行かれた自分を不幸だと思っていたのは、幻想だということ 他の人間から距離を取り、部屋の隅で丸くなると妹は大人しくなった。休むならソファを使えと毛布を与えられているのに横になろうとしない。一体、どこでどういう生活を送ったらこんな風になるのだろう。近づくと牙を剥くので、部屋の対角からその姿を観察してみる。祖母はまだ手続きが残っているとかで席を外していた。 どうやら、これがあの夜に別れた妹であることは間違いないらしい。それまでは一緒に暮らしていたはずだ、警察に追われるような父親と3人で。どんな風に名前を呼んでいたか、どんな話をしていたか。仲は良かったのか悪かったのか。まるで思い出せない。声や表情さえ憶えていない。 あの夜、一緒に走って逃げていたという記憶だけだ。 「おい」 一歩近づくと、小さな体はまるで電気が走ったように反応を示した。試しにもう一歩近づいてみると、顔を上げ腰を浮かせる。さらにもう一歩。背中に火が点いたようにこちらを威嚇した。 なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。 元の壁際に戻って腰を下ろす。それが2人の距離。 「由眞さん、…判るだろ?」 再び距離が生まれたために警戒は閉じられている。呼び掛けにはとくに反応を示さなかった。 「由眞さんはさ、家族が欲しいんだよ」 2人きりの部屋に、声は乾いた響きを持った。 「夫をなくして、息子もなくした。だから俺を引き取った、おまえを捜し当てた。ずっと独りだった由眞さんは血縁が欲しいんだ。由眞さんにとって残った身内は俺らだけなんだよ」 育ててもらった恩がある。祖母が望むなら、ずっとそばにいよう。 留学期間は数年。気がかりなのはそれだ。 「俺が帰るまでは由眞さんのそばにいろよ。あの人が、淋しくないように」 やはり返る声はない。表情もない。それではだめなのに。 癇癪を起こして祖母を困らせてばかりいた自分も、いつからか身に着けた処世術。 「なんでもいいから笑え。明るく馬鹿みたい笑ってろ。大抵の人間はそれで騙せる。笑うことで由眞さんを安心させられるなら安いもんだろう?」 「!」 でも、はじめて目を合わせた。 大きな黒い双眸に刺される。熱を発しているような力強い瞳。 「…なんだよ」 強すぎて、それがかえって不安を誘った。 どこを見据えているのか。その瞳はこちらを見ているものの、さらに透かしてずっと遠くを睨んでいるようだ。 強い意志を持って。 その見据える力を妨げるのに、他人のどんな ■3 寮に戻るとポストに手紙が入っていた。エアメール。(由眞さん?)気持ちが上がって手紙を取るも筆跡が違った。英語表記の住所と宛名のあと、漢字で「國枝紫苑 様」とある。こちらはおもわず力が抜けるような丸文字。(一体、誰だよ…)手紙をひっくりかえして差出人を読むと驚きのあまり息が止まる。そこに書かれていたのは妹の名前だった。 祖母に引き合わされた日からこっち、会ってないし話してもない。あれから何年も経っている。手紙も初めてのことだ。 (なんのつもりだろう) お互い言いたいことなど、なにもないだろうに。 封を開けると手紙は3枚。内容は日本語で、やはり読み辛い特徴ある丸文字で書かれていた。 − 前略 紫苑くん − ごめんなさい。紫苑くんがコレを読んでるということは、あたしは紫苑くんとの約束を守れなかったということなの。本当にごめんなさい。それを謝りたくて、手紙を書いてみました。 − ごめんね。 (約束…?) − それからもういっこ。 − これは本当は会って直接言いたかったけど、あたしは今でも、紫苑くんとどうやって喋ればいいか判らないから。あのね、お父さんのこと。 (───…っ) − 3人で走って逃げた夜のことを覚えてる? 警察に追われて、お父さんはあたしと逃げたでしょ? その後ずっと、お父さんは泣いてた。泣きながら走ってた。何度も、紫苑くんに謝ってた。置いてきてしまったことを、最期まで後悔してた。おばあちゃんと(←由眞さんのことね)幸せでいてくれるといいねって、いつも2人で祈っていたよ。 − 弱い人だったの。うまく言えないな。お父さんは、親にも社会にも迎合できない、弱い人だったの。 その後も、興味のあることやないことが書き連ねてある。最後まで読み終わって、封筒に手紙を戻した。 そして破り捨てる。火を点けたかったが近くにライターがなかった。 そのとき電話が鳴って、取ると、それは祖母の秘書からだった。 妹が死んだと告げた。 祖母に替わるよう言うと秘書はあからさまに拒否した。食い下がっても渋るので、苛立って怒鳴る。 「あんたに用は無いッ、由眞さんに替われって言ったんだッ!」 少しの後、ようやく祖母の声を聴くことができた。 「はい、由眞です」 悲しみを隠し切れない祖母の声に胸が痛くなる。 「紫苑です、こんばんは。…って、そっちは朝か」 「ええ、おはよう。あまりうちの秘書を苛めないで欲しいわ」 「ねぇ、由眞さん」 「なぁに?」 「卒業したら帰るから。そうしたら、また、一緒に暮らそう」 「……」 電話の向こうで声が詰まるのがわかった。 「…いやだ、その言い方」笑っているのか泣いているのか声が震える。「まるで、プロポーズみたい」 「あれ、そう聞こえなかった?」 おどけて言うと祖母はようやく笑ったがすぐにそれはフェードアウトした。 長い沈黙のあと、搾り出すような声。 「……私、間違ってたの?」 「間違ってないよ。由眞さんに見つけてもらったこと感謝してるって、藤子は言ってたから」 そういえば一度も聴くことがなかった、妹の声。 受け取った手紙に当てはめる声を、僕は知らない。だからといって聴きたいとは思わない。 妹の刺すような強い目を見た、あの日あの部屋で、僕らは部屋の隅と隅にいた。言葉を交わさない、それが2人の距離だ。 − 追伸: − 約束を守れなかったあたしが言うのも勝手だけど、今度はあたしからお願い。由眞さんを独りにしないで。紫苑くんの言うとおりだね、あの人は本当に、淋しがり屋だから。 1999年12月22日 あなたの妹 藤子より |
了 紫苑 |