Drops |
■1 「結局、なんで眼鏡かけてるんだ?」 「──はぁ?」 会話の切れ目に何気なく訊くと──実際、会話と表せるほど言葉のやり取りがあったわけではないが──櫻は苛立ちと鬱陶しさを目と声に乗せて篤志を睨みつけてきた。 しかしその程度のリアクションに臆する篤志ではない。それどころか全く意に介さず、櫻の次の反応を待つ。 「視力が悪いわけじゃないんだろ?」 「おまえに関係無い」 嫌悪ではなく、「どうしてそんなつまらないことを訊くのか心底解らない」という呆れを以って虫を払うように話題を閉じられる。 「うるさいから話しかけるな」 取り付く島も無い。櫻は手元の本に視線を落としてしまった。 そんなことを言うなら篤志がいるこの場所から出て行けばいいのに。──などと思いつつも、篤志は櫻が席を離れられない理由を知っていた。それを利用して先ほどから話しかけていたのだが、そろそろ仕舞いのようだ。 「ハルー! おまたせー!」 ロビーの向こう側からノエルが走ってきた。彼女が所かまわず声を上げるのはいつものことで、名指しされた櫻も諦めたように息を吐くだけだった。本を閉じ、席を立つ。ノエルは櫻の元まで来ると腕に手を回して寄り添う。仲睦まじいことだ。 一見、櫻はノエルに好きにさせているだけで、そこに気遣う素振りは見せないので一方的な関係のように見えるが、実はそうでは無いことは見ていれば判る。 「うあ、アツシもいたんだ」 ノエルは篤志を認識すると条件反射のように顔をしかめた。今更、傷つきはしないが、一体自分の何がノエルの不興を買っているのか未だに解らない。それでもノエルの不機嫌が長く続かないことは知っている。今も、すぐに櫻に目を戻した。 「さっきコンビニ寄ってきたの。飴、買ったからあげる」 「いらない」 「だめ! ここ乾燥してるんだもん。はい、ハルはこれね」 ノエルは包装紙に包まった飴玉をひとつ、櫻の手のひらに押し付けた。 「アツシにもあげるよ。どーぞ、どれでもいいよ?」 差し出されたノエルの右手に乗る飴玉はぜんぶ包装紙の色が違った。篤志は適当に取りやすいひとつを摘み上げる。 「ありがとう」 「どういたしまして。明後日、蘭とお出かけするの。よろしく言っておいてね。あ、ねぇ、やっぱりハルも行こうよ」 「嫌だ」 「じゃあ、おみやげ買ってくる。なにがいーい?」 2人は出口に向かって歩く。その後ろを篤志も付いていく。 前を行く2人を無意識に観察する。幼い頃は誰より理解していた櫻と、現在では何を考えているかよく解らない櫻と誰より近くにいる、ノエルを。 (まぁ、簡単に答えてもらえるとは思ってなかったけどな) 櫻の眼鏡についてだ。 気軽に尋ねたが、櫻の口の重さを除外しても気軽に返ってくるはずが無い話題であることは理解していた。篤志自身、長い時間をかけて考えていることだった。 櫻が眼鏡を掛け始めたのはまだ亨がいた頃、櫻が決定的に変わった日と近しい。 櫻の性格を考えると、その決定的な変化だけで眼鏡を掛けるようになったとは思えない。彼の合理性は眼鏡というアクセサリを邪魔だと考えるだろう。精神的な自己防衛のためでも無い。もっと実用的な理由のはずだ。 度が入ってないことは最初から知っていた。あの頃、目が痛むのか苦しそうに手のひらで両眼を押えていた。時折、目の周りに掻き傷を作っていたことも、篤志は憶えてる。 成長するに従って、櫻は自身で感情を処理したのかもしれない。人前で態度に表すようなことはしなくなった。再会してからもそう。櫻が目の不調を見せたのは出会い頭のその時だけだった。 けれど、観察していれば見えるものがある。 ほら、今もそう。大きな窓がある通路に出ると、櫻は無意識に窓の外──青い空を見上げる。癖なのだろう。自分から目をやっておきながら、その表情は硬い。 そうすると決まって、隣にいるノエルが櫻の腕を引く。空に奪われた櫻の視線を取り返すような仕種。腕を引かれた櫻が目を戻し、ノエルの顔を見て、ほんの少しだけ笑う。篤志は何度か、2人のこの流れを目撃していた。 そんな時は決まって、櫻はノエルの顔を覗き込む。けれどそれは話し相手に向けるような視線ではなく、至近距離のそれは不自然で、まるでそこに何かを求めるような必死さが見えた。愛情からくる距離感でも無く(愛情が無いわけ無いのだろうが)、お互い口に出さずとも通じる、ひとつの儀式のようにも見えた。 (眼鏡……、なんだろうな) 篤志は倣って窓の外に目をやる。 ビルの隙間に見える空は清々しいほど青く、屋外の気温の高さを思わせた。 ■2 ホテルの部屋のチャイムを鳴らして、そこから誰が出てくるかなんて判りきっているのに、史緒は本能にも近い拒否感から肩を揺らした。 ガチャリ 「……」 「……」 声も無く扉をあけた人物──櫻は、一瞬呆けた後、奇妙なものを見たように眉をひそめた。 扉の前にいた史緒、そしてその隣の、涙で顔をぐしゃぐしゃにしてぐずる、ノエルを見て。 ノエルと櫻が泊まるホテルに辿りつくまでの間、ノエルは史緒の腕に強くしがみ付いて一言も喋らなかった。タクシーを使ったとはいえ、嗚咽するノエルを連れて歩きフロントで部屋を訊きチャイムを鳴らすまでにはずいぶんと時間がかかった。 気配を感じたのかノエルは顔を上げると、 「わぁぁあああああん、ハル〜!」 声をあげて泣き出し、両手を伸ばしてハルの胸に飛び込んだ。史緒の腕には開放感が残った。 ノエルの体を受け止めた櫻は、無言のまま視線を移動させて史緒を睨みつける。それはノエルを泣かせたことを責めるものではなく、「面倒なもん持ち込みやがって」と雄弁に語っていた。 (そんなこと言われても) 責められても困る。ノエルを送りに来たのは史緒だが、面倒を作ったのは史緒ではない。 しかしこの状況で言い訳も変だし、ホテルの廊下で言い合いも避けたい。なにより、史緒の仕事は終わりだ、これ以上、櫻と顔を合わせる理由はない。 「あ、あの、じゃあ私はこれで…っ」 と、踵を返したところで、 「おい」 「……!」 背後から声がかかり、足が止まる。 「何か言うことはないか?」 「……えーと」 「下で待ってろ。いいな」 有無を言わさない厳しい声に後、櫻とノエルは扉の向こうに消えた。 (や、やっぱり、そうなるか) 史緒は泣きそうになりながら肩を落とした。 * * * 史緒はホテルのロビーの喫茶店に入り腰を落ち着けた。人が出入りする時間なのか、フロントには少しの列ができている。長期滞在用のホテルということもあるのだろう、外国人の割合が多かった。ノエルと櫻もそうだ。 彼らのもう一人の同行人であるマーサは別のホテルに滞在しているらしい。何故わざわざ別にするかは謎だがいつもそうしているとのことだった。 今日はノエルがオフの日なので、蘭がノエルを連れ出して買い物に出ていたらしい。それがどういうわけか、史緒が泣くノエルを連れ帰ってきたので櫻も驚いたのだろう。いや、怒っていたか。 ──何か言うことはないか? 先ほどの櫻の言葉を思い出す。当然の言い分だとは思う。だから史緒はここで待っているのだが、でも。 (私も、よく分からないんだけどな) 1時間前のことだ。 今日、史緒は篤志との用事があり共に出かけていた先で、蘭とノエルと会った。所用を終え、4人で駅に向かっていたのだが。 何がきっかけか、史緒は判らない。 篤志とノエルの言い合いが始まっていた。それはいつものノエルの一方的なものとは少し違った。ノエルはいつもと違い、感情的ではなく、強く静かな声で篤志に相対する。そして珍しく篤志も引こうとしなかった。そうして驚いたことにノエルが優勢だった。 史緒は仲裁に入ろうにも彼らが何を言い合っているか判らなかった。2人の言い合いには前提があるようだが史緒には解らない。蘭も同じようで、声を挟むこともできなかった。 やがて、気が高ぶったノエルの目に涙が滲む。 「ノエル……」 そこに手を伸ばした篤志の手を、ノエルが叩き落とした。 「ハルを暴こうとしないで!」 ノエルは篤志を睨みながら涙を流す。そこに蘭が立ちはだかって、篤志をかばった。実際にはかばったわけでは無いかもしれないが、篤志の前に立ち、篤志の代わりにノエルの視線を受ける。そのままこちらに声をかけた。 「史緒さん、お願い、ノエルさんを送って行って」 「えっ、私が?」 誰の元に、と考えただけで恐ろしい。けれど、篤志は蘭に任せるべきだろうし、この状態のノエルを一人で帰せるわけもない。 そうして、史緒は泣き止まないノエルを宥めながらホテルに辿りついた。まだ、ノエルの声が耳に残っていた。 ──ハルを暴こうとしないでっ! (……) 正直、篤志とノエルのやりとりはちっとも分からなかった。ただ、二人は櫻について話していた。それだけだ。 ノエルは低い声で篤志を責めていた。篤志もうまくかわせばいいのに、らしくなく、むきになって言い返していた。 2人の言い合いの元になったのは櫻。 その櫻が、店に入ってきて、史緒の目の前に座った。 もう清算されているはずなのに、櫻が目の前に座ったとき酷い抵抗感があった。 このまま席を立ちたかった。それを見透かしたように、櫻の視線が退席を許さない。 「………」 結局、史緒はここでこれから、櫻に今日のことを報告しなければならないのだろう。そんな諦観を見て取ったのか、櫻は無意識に煙草を取り出し、咥えた。 「ここは禁煙席よ」 自分でも驚くほど鋭い声が出た。それ以外の意図も通じただろう。櫻はしぶしぶと煙草をしまった。 「で、誰?」 史緒じゃないことは判っているのだろう。櫻は開口一番に言った。 「……篤志」 「関谷ぁ? ノエルが何かしたか」 自分の連れ合いに対して随分な言い分だ。篤志のほうが信用があるらしい。 「──…」 「黙るな」 「わ、私も、よく分からないんだけど……」 今日の篤志とノエルのやりとりを思い返す。史緒はそのほとんどを理解できなかったけれど。 「たぶん、──篤志が悪い、と思う」 この答えも意外だったのだろう。櫻は不可解を表情にした。 * * * 「櫻──…ハルの、眼のこと、なにか知ってる? 眼鏡を掛けてる理由とか」 跨線橋の上で足を止めて景色を眺めているノエルの背後から、篤志は声をかけた。 眼下には線路と、もう少し先を見ればビルに囲まれた街並みが広がっている。世界中を移動しているとはいえ、ノエルにとって異国の景色は珍しいのかもしれない。 道行く人混みに流されないよう、ノエルを捕まえて歩くのは大変だった。櫻の、……いや、櫻が一緒ならノエルはくっついて歩くので、櫻に同じ苦労は無いのだろうな、と考える。蘭と史緒は少し送れて歩いてくる。ノエルが足を止めたのは蘭たちを待つ意味もあったのかもしれない。 「うん、知ってるよ〜」 と、ノエルの背中が軽い調子で答える。 篤志からの質問、櫻についての返答だと少し遅れて気付いた。 「え、本当に?」 「嘘言ってどうするの」 答えながらも、ノエルは手摺りに体重を預けて、身を乗り出すように景色を眺めている。 櫻の眼については、櫻と再会してからずっと考えていたことだった。何か抱えていることがあるのは判るのだが相手はあの櫻だ。数日前に会ったときもそう、話題にすらさせてくれない。 「教えてくれないか」 そう言うと、ノエルはくるりと振り返って、にっこりと笑った。 「──イヤ」 その声は明瞭に響いた。 ノエルは先ほどまで街並みに向けていた目を、篤志にまっすぐに向ける。青いそれは射抜くように大きく真っ直ぐで、思わず篤志は一歩引いてしまった。 「口止めされてる、とか?」 「No」 「じゃあ」 「だって、アツシがそれを知ることで、ハルに何か良いことあるの?」 首を傾げるノエルに、篤志はすぐに言葉を返せなかった。 侮っていたわけでは決して無いけれど、自分の不用意さを後悔する。 「……無い、かもしれない」 「それならあたしは喋らないよ?」 あたりまえでしょ? と目を細めて笑う。──あぁ、と遅まきながら気付く。怒らせてしまったかもしれない。ノエルは笑っているものの、それは目や口の形だけで、気配は敵対者に向けるそれだった。 「ねぇ、もしかして、ハルにも言った?」 「……あぁ、似たようなことは訊いた」 「答えてくれた?」 「いや」 「じゃああたしなら喋ると思った?」 畳み掛けるノエルの言葉に篤志は口を閉じるしかない。 「それはあたしに対する侮辱だし、ハルにも失礼だよね」 「違うっ、そんなつもりは無い」 咄嗟に答えたものの、言い訳にしかならないことは自分で解っていた。そしてノエルにも見透かされていた。 「俺は、櫻に対して負い目があるから」 昔、幼い頃、櫻が変わってしまったときに何もできなかったこと。その後も一緒にいたのに救えなかったことも。 幼い自分にはその力が無かったことも。 「ノエルの言うとおり、櫻は良しとしないかもしれない。でも、勝手かもしれないけど、俺は櫻を知りたい。子供の頃、櫻に起こったことや苦しみを理解したいから」 篤志はいつもそうしてきた。相手を見て、理解し、そうしてようやく助けられる。櫻だってその例外では無い。 「自己弁護はもういいよ」 水を差すノエルの声に苛立たしさが混じる。 「結局、あなたはあなたのために、ハルの知らないところでハルの本心を知ろうとする。卑怯だと思う」 指をさされて息が止まるかと思った。蘭と史緒が視界の端に映ったが気に掛けられなかった。ノエルに視線を掴まれているよう、断罪されているのに目が離せなかった。 「ハルを救おうとしてるんでしょ? でもそれすら思い違い。だってあなたのそれは大局を知りたいだけだもの。あなた自身の記憶を補間したいだけの好奇心で、あたしにそれを喋れと言う。──分かってるのかなぁ」 変わらず見上げてくる青い瞳にじわりと涙が浮かんだ。 「その傲慢な好奇心でハルを暴こうとしないで。傷を治すために傷を見ようとしないで。治せるなんて勘違いで無神経に踏み込まないで。あたしが、どれだけ」 声が揺れて、ノエルは俯いてしまう。いつのまにか息が荒くなり、肩で呼吸する。 「いまハルの隣にいるのはあなたじゃない、あたしだもん」 「ノエル……」 振り絞るような声に篤志が思わず手を伸ばすと、気配を感じたのか白く細い指で振り払われる。 乾いた音が、やけに空間に響いた。 「ハルを暴こうとしないで! あなたがやろうとしたことを、あたしができないって決め付けるな!」 ■3 篤志は櫻と向かい合って座っていた。 朝から気持ちの良い天気で、2人がいるガラス張りのラウンジからは窓の外を笑顔で歩いていく通行人が見えた。屋内の空気も清々しく、篤志と櫻の間にも穏やかな時間が流れ──るわけも無かった。勿論。 「言いたいことはあるか?」 今日、会うことになったもののその主旨は明確にされていなかった。そしてこうして顔を合わせた後、櫻は呼び出した側なのに曖昧な切り出し方をする。 あれから数日、呼ばれた理由はもちろん判っていたし、ここに来た自分がどうすべきかも解っていた。 「悪かった」 「何に対して?」 「ノエルを泣かせたこと」 その答えに納得したのか、していないのか、櫻は溜息を吐いて視線を外した。 「俺から言いたいのはひとつだけだ、面倒おこすな」 「……」 櫻は、あの日のやりとりをノエルから聞いただろうか。それを除いても、以前から篤志が櫻に対して気に掛けていることを、櫻は分かっているだろう。 「咲子さんに訊いたことがあるんだ。櫻が変わった理由」 「──へぇ」 カップを取る手が止まる。そこに焦りはない。表情は微かに笑う。その結果を予想できたのかもしれない。 「でも謝るばかりで、なにも教えてくれなかった」 櫻はとくに反応を示さず、冷めてしまったコーヒーを含んで不味そうにカップを戻した。何気ない仕草で腕時計に目をやる。こちらの話を聞いているのかも怪しい。 「櫻、俺は……っ」 言い訳をしたいわけじゃない。でも目の前の兄は、今でもどこか危うげで心配なのだ。 強い声で篤志が食い下がると、櫻は煩そうに不快な顔をした。眼鏡の奥の両眼は「心底どうでもいい」と語る。そのとおり、櫻にとっては興味の範囲外なのだろう。けれど篤志にとってはそうではない。 いつまでも篤志が引く気配を見せなかったからか、櫻は根負けして、椅子に背を預けた。 「わかった、いいよ。ひとつだけ質問に答えてやる」 「は?」 投げ遣りに発せられた言葉の意味がすぐには解らなかった。 「その代わり、今後、一切深追いするな」 面倒そうにな物言いでも、意図は明確だった。篤志は呆けてしまったが、すぐに、その言葉の重要性に気付く。 「ひとつだけ?」 「あぁ」 瞬間、痛くなるほど頭が働き出す。 無意識だった。己の意志より速い。どの感覚より早く、頭の奥が熱を持った。 難解なパズルを見たときに似ている。 しかし今回は、今までの自分を試されるパズルだ。 子供の頃、一緒に笑っていたのに、変わってしまったあの日に何があったのか。 咲子が関わっているのか。咲子が謝るのは何故か。 眼を庇うのは何故か。眼鏡をかける理由。 何らかの障害を負ったのか、何を見ているのか。 本心。家族のこと。互いのこと。 Yes/Noで済ませられる訊き方ではいけない、具体的に、詳細を語らせなければこの機会の意味がない。 櫻だけじゃない。篤志だって、子供の頃から長い長い間、様々な想いと願いを持ってここにたどり着いた。 大事な人たちのことを知りたいと思うのは当然のことだろう? ──ハルを暴こうとしないで!! (……っ) ハッと我に返り顔を上げる。 陽当たりの良い窓際のテーブルは、街路樹から木漏れ日が射し、やわらかな光がグラスの影を作っていた。 向かいの席では櫻が窓の外に目をやり、つまらなそうに欠伸をしている。その緊張感の無い空間にどっと力が抜けた。急激な弛緩に頭が痺れる。忘れていた呼吸を再開すると、それに気づいた櫻がこちらを見て、視線で質問を促した。 いま、櫻は目の前にいて、その眼に篤志を捉えている。一年前は想像できなかった状況が、当たり前のようにここに、手の届く場所にある。 「……なんだよ」 いつまでも口を開かない篤志に櫻は眼鏡の奥の目を細める。 こんな些細なやりとりだって、かつての自分が熱望し、叶ったことだ。 ノエルの言うとおりだ。 櫻は目の届く場所にいて、十分幸せそうだ。今更、過去を知る必要は無い。残した傷があるならノエルに任せればいい。 こうして向き合っている現在、そして、これからの未来は共有できるのだから。 「なに?」 やっぱりやめる、と口にすると声が小さすぎたのか櫻が聞き返してきた。もう一度言おうと息を吸ったところで、急にポケットの中にあるものを思い出した。 「いや、──そうだな。じゃあ質問。なんでも答えてくれるんだろ?」 こんなひとつの締めくくり方もあるのだろう。 「どっちがいい? やるよ」 篤志がテーブルに並べたのは、包装紙に包まった色違いの飴玉、2つ。 * * * 先刻、篤志は一足先に、ノエルに謝りに行った。櫻は外しており、篤志の付き添いで来てくれていた蘭といるところに声をかけ、頭を下げた。 「いいよ、許してあげる。あたしも、叩いたこと、ごめんなさい」 意外にもノエルはさっぱりと篤志の謝罪を受け入れる。 「しょうがないよ、家族だもん」 と、ノエルは付け加えたが、何が「しょうがない」のか、篤志には判らなかった。 「ハルはラウンジにいるよ、待ちくたびれてるかも。そうだ、これあげる。ハルと分けてね」 ノエルはバッグから飴玉を2つ取り出し、篤志の手のひらに落とした。それは前と同じ、コンビニで売っている普通の飴で、包装紙の色はそれぞれ赤と緑。 ハルはこっちのだから、と指差すもそれは後ろ手で、ノエルは遠くで手を振る蘭のほうへと走って行ってしまった。 * * * 関谷篤志の問いかけに櫻は目を見開いた。 ひとつだけ答える、などと、過去の自分から見れば尋常ならざる譲歩だ。けれど今後の関谷を黙らせる好機、さらに質問の内容によって奴の程度も計れる。さぁ、なにを訊く? 櫻はどこか楽しんでいた。 油断していたのだ、この距離が近づくことなど無いと。 追求を断つための撒き餌をしただけだと。 ──テーブルの上に、飴玉が2つ。 関谷からの質問は何パターンか予想していた。約束どおり、訊かれたことには本当のことを無難に答えるつもりだった。だからこそ関谷の質問は重要だった。──それを。 「櫻?」 「……っ」 不自然すぎる沈黙を作ってしまった後に、ようやく櫻は我に返った。 「え? ……なんで黙るんだよ」 その声は単なる探りではなく、関谷自身の直前の問いかけを疑う色がある。なにか拙いことを言ったのかと、関谷は考える。そうして櫻の反応を追いかける。 ──まずい、たどり付かれてしまう。 関谷からすれば、櫻への追求をやめて、妥協してこの場を流すための質問だったのだろうに。 それなのに櫻は返答に詰まってしまった。 関谷は図らずも、核心を突いた。形状で判別できないものを選べと言われたら、櫻は答えられない。 しまった、と遅まきながら失態に気付く。 適当に、何気なく、どちらでも選べば良かったのだ。それなのに無駄に働く櫻の思考は余計なことを考えてしまった。 この飴はノエルが持ち歩いているものだ。関谷はノエルから渡されたのだろう。その際、いつも櫻に与える飴の色を、ノエルは喋ったかもしれない。 確率は二分の一。櫻が選択を誤ったら関谷は余計なことに気付くかもしれない。 しかし後から考えれば、例え外したとしても、「適当に答えた」で済む、どうとでもかわせた。 飴なんてフレーバーの違いがあるだけで、みんな砂糖の味だ。どちらでも選べば良かった。それだけで、関谷は気付かなかっただろうに。 どちらでも構わなかった。 どうせ、櫻は見分けられないのだから。 2つ並んだ飴玉にいつまでも手を伸ばせない櫻を見て、関谷の表情がゆっくりと変化する。 テーブルに並べた飴玉に目をやり黙ってしまった。 思考が回り始める音が聞こえるようだった。 「あーっ、ハルにあげてって言ったのにっ」 雪崩れ込むようにノエルがテーブルに上体を預けてきた。櫻と篤志の間の空気を軽々と壊して、緊張が断ち切られた。 テーブルに置かれた飴玉のうち片方を手に取り、櫻に渡す。 「はい、ハルはこっちね。もう行こうっ、おなか減った、ごはん食べて行きたい」 そう言って、櫻の手を取り引っ張った。促されるまま立ち上がる。手のひらにあるノエルから渡された飴玉を握り締めた。 背後を窺うと、関谷はテーブルに残されたもう片方の飴玉に目をやったまま顔を上げない。 関谷は気付いただろう。満点で無いにしても、答えの方向を。 「……おい。もう、いいか」 関谷の頭に投げた言葉は、意識していたはずなのに声が弱くなってしまった。 うつむいたままの関谷から声だけが返る。 「──あぁ」 この合意の重要性を関谷は理解しているはずだ。 ひとつだけ答える、という約束をした。ノエルに助けられたものの櫻が答えたことを、関谷は認めた。 関谷はもう追ってこれない。 狙った状況なのに、達成感は無かった。中途半端な結果を残した自分の失態を悔いた。 「ノエル」 席を離れようとしたとき、背中から関谷に呼び止められた。 「んー?」 隣りでノエルが頓着なく振り返る。 関谷は立ち上がって数歩近寄り、ノエルの顔を覗き込んできた。普段より近い距離で、その両眼を見つめる。 (やっぱり、気付いた) 「え、なに……気持ち悪い」 無言で目を合わせてくる関谷から逃げるように、ノエルは櫻の背に隠れる。 関谷は傷付きながらも苦笑して、 「なんでもない。──2人とも、またな」 吹っ切れたような笑顔で、手を振った。 |
了 Drops |