屋上にて |
■ 日頃の物言いや学業の結果に反して國枝紫苑は頭が悪い。 と、彼の祖母である桐生院由眞は言う。 子供の頃、生傷やそれどころではない怪我を負うことが多々あった。 カッターで指を切るなんて些細なもので。 花火で火傷を負ったり、海水浴では浮き輪で流されて沖へ。 木登りで飛び降りて骨折、通学路での大通りへの飛び出し、暗闇に駆け出して頭を打つ、川に飛び込んで流されかける。など。 子供らしい、といえばそうなのかもしれない。 何しろ由眞の子育て経験は数十年も遡らなければならないし、目の前の孫の境遇は一般的とは言いづらい。 多くの人間を視てきた由眞でも、これが「普通か」は測りかねた。あまりに怪我が多いので、一時は護衛を付けようかと本気で悩んだほどだ。 けれど子供特有の柔軟性か、それとも彼の資質によるものか。 それらの事故によって川や海や山、高所が苦手になることはなかったし、トラウマになることもなかったようだ。 学習能力は人並み以上にあるようで、彼は同じ怪我は二度と負わなかった。 ある日、由眞は紫苑の足りない物に気づいた。 人は成長するほど自己防衛能力は上がる。本能的なものに加えて、経験だったり、外部情報だったりする。 そうして、それらを活かす想像力。 日常生活における危機感、行動の先にある事故、己の身体を構成する外殻の損傷、苦痛。 紫苑には想像力が欠けているのだ。 それだけでなく、勉強や運動と同じ、知りたがっているように見えた。 あるとき紫苑が3日入院の怪我を負った。由眞は医師から一通りの説明を受けた後、ベッドに座る小さな体に言う。 「自分の体で試すのはやめなさい」 その結論は正解だったらしい。 まだ小学生だった孫はきょとんとして、邪気の無い表情を傾げる。 「え。じゃあ、どうやって解るの?」 ぞわりと寒気がした。 由眞は右手を振り上げて、幼子の頬を叩いていた。 ■ 10年後───1月 國枝紫苑は屋上の手すりにもたれて景色を眺めていた。 天気の良い昼下がりということもあって、背後では多くの学生たちがそれぞれの休み時間を過ごしている。課題について相談し合っている者、クリスマス休暇の報告に盛り上がる者、読書やゲームをしている者、体を動かしている者など様々。 通常であれば紫苑も友人たちと行動しているが、今日は誘いを断って独りでここに来た。 胸の高さほどの手すりに両腕をかけて、ただ景色を眺めている。 空は青く、風が心地よい。この建物は8階建てで、景色は広く深い。目を上げれば遠くの街並みも、反対側にある山並みも望むことができた。太陽は天頂にあり、短い影が差す。気温の割に暖かいくらいで、長期休暇の直後ということもあり、周囲の学生たちも少し浮かれているように見えた。 紫苑はいま、己の思考が停滞していることを自覚していた。 課題のこと、人間関係のこと、将来のこと、最愛の祖母のこと、それから───。 すべてが遥か遠くのことに感じられる。 頭の中は驚くほどクリアだ。冴えているという意味はなく、希薄、過疎状態。恐ろしいほど、何も考えていない。 帰省しなかった紫苑の元へ、手紙が届いたのだ。 視線を眼下に移せば、30メートル下の通りを行き来する人通りが見えた。見えるはずもないのに、それらの表情は皆笑っているように感じた。確認できるはずもないのに、紫苑は少しだけ身を乗り出す。上半身が重力を感じてバランスを取るよう脳が命令したが、末端にはうまく届かない抵抗感があった。 遥か眼下の景色は模型のようで、距離感が狂う。手すりから手を放し、下に伸ばせば、地面に届くような錯覚。少しの浮遊感。 「おい」 背後から、大きくは無い強い声があった。 紫苑は我に返って、重心を戻し、振り返る。見覚えのない男が立っていた。 呼びかけはこちらの言葉だったが、男の風貌から同郷のように見えた。 男はまっすぐに紫苑を見据え、不愛想に言った。 「今はやめろ」 なにを、と紫苑は問わなかった。 男も言わなかった。 ■ 5年後─── 阿達櫻は、例によってノエルに街へ連れ出されていた。 これが英語圏でかつ治安の良い町で近所への買い出し程度であれば留守番を主張したが、状況はそうではなかった。 新しく知り合った友人に会いに行くのだという。それだけで櫻は同行を辞退したい。しかし現在滞在中の地域は日本語圏で、治安は良いのだろうが電車の乗り方も知らないノエルを一人にすることはできない。さらに、その「友人」とやらは櫻の知人でもある。あまり関わり合って欲しくないというのが櫻の本音だが、それを口にするのも面倒だった。 直面している問題としては知人に会う場所へ同行したくない、しかしノエルを一人にできない。結局は堂々巡りで、櫻は嫌々ながらもノエルを連れて目的の駅に降り立った。 人通りがそう多くない通りをしばらく歩いていたときのことだ。 「あーっ」 ノエルが唐突に声を上げる。 何を見つけたのか、進行方向を指差し、大きく手を振った。 「シオー!」 その名に、櫻も目を上げる。1ブロック先のビルのエントランス。ノエルが呼びかけた阿達史緒、それから、櫻の知らない男の姿があった。 どんな状況かは知らないが、男は史緒の腕を取り、史緒はその手を振り払おうとしているように見える。一見、絡まれているようにも見えるが、櫻は助けようとは思わない。助けを求められたら考えないでもないが、実際そういう雰囲気ではないし、そういう状況だったとしても史緒は櫻に助けを求めないだろう。 ノエルの呼びかけに、 「「え?」」 と、男と史緒、何故か二人揃って振り返る。 史緒はノエルと櫻の姿を見ると目を丸くした。 「えっ、ノエルさん!?」 ノエルは櫻のそばを離れて史緒に駆け寄った。 「ランと約束してたのー。シオも一緒に行ってくれるの?」 「いえ、私は仕事で……、って、いい加減離してください、紫苑さん!」 「エスコートしてあげてるのに。どうせ行き場所は同じなんだし」 愛想良いを通り過ぎて胡散臭い笑顔の男はどうやら史緒の知り合いだったらしい。ずいぶん距離が近い。男女問わず、仲間を含めても、史緒がこの距離を許すのは珍しい。 「シオの恋人さん?」 「そうでーす」 「違いますっ」 ノリの軽い男の声を史緒が打ち消した。 まぁ、そうなのだろうが、気軽に史緒に触れる男の存在を関谷がよく許しているものだ。 史緒はノエルの前では英語を話す。男のほうもそれに合わせてきた。男は櫻の存在に気づき、少しだけ長い時間視線を固定させると、幼い動作で首を傾げ、言った。 「あれ、ハルくんだ」 初対面で名指しされて訝しむより先に櫻の頭で検索が始まる。男の隣では史緒も初耳のようで驚いていた。ということは、史緒から伝達された情報では無いのだろう。櫻を名指しで識別した男の表情や声からは、直接関わりのあった人間に対する馴れ馴れしさがあった。 「……?」 記憶を辿っても思い当たる人間はいない。これ以上考えても無駄という境地まで来て、櫻は率直に尋ねた。 「誰だ」 「判らない? 俺の自殺未遂を止めてくれたじゃない」 「えっ」 声を上げたのは史緒。男はノエルに配慮したのだろう、「自殺未遂」だけは日本語だった。一方で、配慮されなかった史緒は、物騒な単語を耳にしてオロオロしていた。 (それは無い) 櫻は他人の自殺未遂を止めるようなことしない。目の前にいても放っておく。 しかしどのような状況であればそうするかを考えると、櫻はすぐに思い出すことができた。 「……ああ、屋上で」 「思い出してくれた?」 「じ、自殺ってなに」 史緒の情けない声に櫻は嘆息する。 自殺未遂? 「違うだろ。あれは身投げだ」 「同じじゃん」 へらへらと笑う男にイラッとした。当人も解っているくせに。 この男は自殺などしない。魔が差しても、そのような思考はしない。 飛び降りてみようとは思うかもしれないが、それは自殺とは違う。 何かしらの信念があるように見える。ただ、ネジが外れている、それだけのことだ。 「違うだろ」 男は、どこがーと追及してきたが、面倒なので櫻は口を閉ざした。しかしすぐに近い未来を推測して、もう一人のほうへ声をかける。 「史緒」 「はい」「なに?」 と、また、二人揃って視線を返してきた。史緒がうんざりした様子で男の手を振り払う。 「紫苑さん、分ってるくせに反応するのやめて」 あぁ、とノエルが心得たように指を合わせる。 「シオ? シオン?」 そういうことらしい。 櫻にとって史緒の交友関係は心底どうでも良いことだが、そこから波及する揉め事に巻き込まれたくはない。 「関谷がうるさそうだから面倒な男は選ぶな。一条のほうがマシ」 「は?」 史緒のほうも櫻が口出しするとは思わなかったのだろう。 「だから、本当に、そういうのじゃないから。って、なんでそこで一条さんの名前が出るの?」 「一条? 誰? 史緒の彼氏? 紹介して」 「イヤです!」 男のほうは明らかに面白がっているが、史緒は解っているものの無視しきれない様子だった。 そうこうしている間に、史緒はタクシーを止め、逃げるように乗り込む。しかし目的地は同じだという男も強引に同乗し、結局、言い合いながらも揃って去っていった。 ■ 國枝紫苑が最愛の祖母に手を上げられたのは後にも先にも一回きり。 折れそうな細い手に大した力は無かったはずだ。けれど思い出しても寒気がするほど痛かったことを憶えている。 いつも紫苑の前で背筋を伸ばし立つ祖母の手は小刻みに揺れて、その瞳には涙が滲んでいた。 「いい? 覚えておいて」 いつも紫苑を呼んでくれるきれいな声が大きく揺れる。 「今度、あなたがあなたにしたことを、私は私にするわ」 「────」 己の価値観に基づいて、それは到底許されることではなかったから。 紫苑はひとつ、頷いた。 ■ このまま、重心を少しずらすだけで、それは試せた。 「今はやめろ」 背後から、通りすがりの男が言う。 なにを。 男はそれ以上口を開かず、じっと紫苑を見ていた。 今はやめろ その限定的な物言いが可笑しくて、つい聞き返してしまった。 「いつならいいんだよ」 紫苑の問いかけに男は口を開きかけたが、 「ハルーっ!」 弾むような高い声に遮られた。 手を振りながら駆けてきた髪の長い女が、目の前の男の半身に抱きつく。 「教授がお話聞いてくださるって! すぐすぐ!」 女は紫苑の存在は目に入ってない様子で、はしゃぎながらもまっすぐに男の目だけを見つめる。 「行くか」 「うん!」 そうして男も、紫苑の存在を消したかのように踵を返す。仲の良いカップルは並んで歩いて行った。 「おいー」 話が途中だ、と無駄を覚悟で声をかける。そのまま行ってしまうかと思われたが男は振り返って、 「こいつの目に入らない場所でなら、いつでも」 と言った。 それだけだった。 紫苑はひとり置いていかれて、しばらく経ってから吹き出した。 「あはははっ」 周囲の学生が何人か振り返った。それを手で応えて。 空を仰ぐと太陽が眩しかった。冬の大気は澄んでいて、大きく呼吸をすると気分が良かった。 手紙が届いたのだ。 電話もあった。妹が死んだという。 たったそれだけのことで。 (ありえない) 一瞬でも、由眞のことを忘れるなんて。 その後、学内で例のカップルを何度か見かけた。 目が合うこともあったが、言葉を交わすことは二度と無かった。 |
了 屋上にて |