/GG/1年6月
≪1/n≫


 季節は数えて五つ目、梅雨、真っ直中。時刻は5時半、放課後、昼間に比べ、いくらか熱が冷めたような気がする校舎の中。
 渡り廊下は南北を通るので西の空がよく見える。怪しい雲行きの間から、少しだけ夕陽が見えた。校舎の影が伸びて、校庭の運動部が影踏みをしている。彼女らを見れば判るとおり、今、雨は降ってない。でも、頭上を覆うどんよりした雲を見れば、近い未来は簡単に予測できた。
「ううぅぅううううぅぅぅ…」
 生憎、自己の主張を胸に留めておける性格ではない。だからこの呻き声も、ごく自然に胸を通り抜け、口から出てきた。
「じめじめじめじめじめじめ…、もぉ〜、蒸し暑い!」
 窓は全開なのに風は少しも入ってこない。その代わり、湿度が高くどこか川の匂いがする空気が肌にまとわりついてきて、気持ち悪いことこの上なかった。
「そういう季節でしょ」
「口にしたら余計に蒸す気がするからやめて」
「さすがのみすずも湿度には勝てないかぁ」
 一緒に廊下を歩いていたクラスメイトたちは理解があるのかないのか、みすずの突然の大声ではなく、内容に突っ込みを入れてきた。
「だって、暑いんだもん」
 晴れてるわけじゃないのに気温が高くて、さらに湿度も高いなんて、不快指数上昇、文句のひとつも言いたくなる。おまけに、学校指定の鞄は重いし、セーラー服も汗で貼り付きそう。今日が金曜じゃなかったら暴れてたかもしれない。
「どこか寄ってく?」
「ううん、早く帰ってシャワー浴びたい」
「それは同感」
「明日は晴れるって」
「それって、今日、雨が降るってことじゃん」
「家まで保つかな。打ち合わせ、来週にすれば良かったね」
「まぁ、でも、今日だけで、色々まとまったから、いいでしょ」
 6限終了から今まで、この面子でグループ研究の打ち合わせをしていたのだ。その一回目、思っていた以上のはかどり具合に、先の見通しが立ったこともあって、みんな、気を良くして教室を出たところだった。
「にしても、私たちの班、ある意味最強じゃない?」
「言えてる〜」
「いくら名簿順とはいえ、他の班のコたち、ブーイング起こしてたもんね」
「そうそう」
「みすず、発表やってくれるんでしょ?」
「うん! やるやる、やらせて! アタシがやるからには完璧にこなしてみせるよっ」
「頼もしいことで」
「───島田っ」
 一番後ろを歩いていて、さっきから一人だけ口を開けてないヤツにみすずは呼び掛ける。クラスメイトであり、同じグループの一人、島田は窓の外を見ていたらしく、視線をゆっくりとこちらに向けた。
「あんたも、ちゃんと協力するのよ? グループ活動は協調性も評価されるんだから」
「あぁ」
 一言返して、また、窓の外に目をやった。
「むか…っ。テンション下がるな〜」
「まぁまぁ。せっかく仲直りしたばっかりなんだから、抑えて抑えて」
「仲直りなんてしてない!」
「あー、はいはい」
「島田さんがいるのは心強いよ。現社のレポート褒められてたよね」
「というか、アレは先生、ヒいてなかったか?」
「みすずは他人のこと言えないでしょーが。ゴン爺に嫌われて、担任がフォロー入ってたじゃん」
「授業が遅れたのは爺がアタシの質問にちゃんと答えなかったからでしょ? アタシのせいじゃないね」
「手加減しなよー」
「加減という文字はアタシの辞書にはない!」
「出たっ、この自信家」


 昇降口まで降りてくると、外から細い音が聞こえ始めた。雨だ。さらに、雨以外の音も聞こえて、───みすずは足を止めた。
「うわ、家までどころか外に出るまで保たなかったね」
「でもまだ小雨だし、今のうちに帰ろー」
「あれ、どうしたの? みすず」
「傘、忘れた? 駅まで入れてくよ?」
 一人、遅れをとっていたみすずにクラスメイトたちが振りかえる。みすずは陽気に笑って返した。
「いい。ありがと。───ちょっと、用あったの思い出したから、先、帰ってて」
「なーにー? 先生に呼び出されてたとか?」
「この超優等生のみすずさんが呼び出されるのは表彰モンの活躍をしたときだけよ」
「あはは」
「じゃあ、先行くねー」
「おつかれっしたー」
「おぅ、おつかれ」
 みんな、小雨の中を傘を差して出て行く。
 最後に島田が振り返ったような気もするけど、そんなの構ってられない。みすずは踵を返し、廊下を走り出した。


(1−Aクラス委員で頼れるしっかり者と評判のアタシがこんな姿見せられるか!)
 みすずは廊下を走って、別棟の図書館に駆け込んだ。時間的に閉館間際なので生徒は少ない。カウンターの図書委員は後かたづけをしているようだった。みす ずはカウンターの前を突っ切ってAV棚へ。適当なCDを引き抜き、手近なデッキに入れて再生、ヘッドフォンを頭につけて、椅子に座って、机に突っ伏す。そ のまま寝たふりをする。
 呼吸が乱れていた。ヘッドフォンから聴こえてくる音楽より自分の鼓動のほうが大きい。
(うぅぅ…)
 ぱっと空が光った。
「…、……っ」
 伏せているのに分かった。
 それほどに眩しい光。
 がぅん、と空が鳴る。それを追うように、まるで街がなぎ倒されるような音があって、全身が総毛立つ。
(もぉ、やだ〜)
 世界が外側から攻撃されて、ぐしゃぐしゃに壊れてしまいそうな雷の音が、みすずは子供の頃から苦手だった。
 それに光も。夜でもはっきりと影が浮かび上がる。太陽とは違う。冷たく硬い明るさ。雨も強くなってる。
(これがほんとに電気なら、利用できる技術を開発して、エネルギー問題解決するんじゃないの? 太陽よりずっとパワーがありそう、あ、いや、でも、エネルギーに変換するのに別のエネルギーが必要なら本末転倒…って、わぁ!)
 意識を紛らわせるために思考を働かせてみたけど、結局、轟音にひっぱたかれた。体が縮み上がる。
 停電にならないのが唯一の救いだ。
 そのとき、カタンと音がして、同じ机に誰かが座る気配がした。
「…? ……っ!!」
 顔を上げてみすずは驚いた。
 向かいの席に座るのは、帰ったはずの島田だった。
(え、なんでっ!?)
 すました顔で本を開いて、最初のページから読み始めている。
「な、なにやってんのよ!」
 ヘッドフォンをむしり取って、声を抑えて怒鳴る。でも、島田は視線も上げない。本に目を落としたまま答えた。
「読書してるように見えない?」
「帰ったんじゃないの?」
「借りたい本があったのを思い出した」
「じゃあ、さっさと借りて帰りなさいよ」
「この雨の中、帰れって?」
 ポツポツだった雨が、ゴォゴォと校庭の土を叩いている。今、外に出れば、傘を持っていようがいまいが結果は変わらないだろう。
「……」
 みすずは言い返す気力も無くして、ヘッドフォンを付け、再び机に伏した。
 島田はなにも言わなかった。
(「用っていうのは、CDを借りること?」とか訊かないのかな。それに、わざわざ同じ机に座らなくてもいいじゃない、他にいくらでもあるんだから。アタシたち、仲悪いんだからさぁ)
 同じ姿勢のままなんとなくヘッドフォンを少しずらすと、本のページをめくる音が聞こえた。みすずのほうを気にしている様子も無い。
(へんなヤツ…)
 なんの本を読んでるんだろう、と確認しようとしたけど、興味を持つことがなんだか悔しい気がしてやめておいた。
 いつのまにか窓の向こう側の嵐の音が遠ざかっているような気がした。


「閉館でーす」
 図書員の号令が掛かって、図書館にいた生徒たちは退室を余儀なくされた。みすずもしぶしぶと後かたづけをして図書館を後にする。
 窓の外を見ると空は少し明るくなっていた。けど、雷はまだ、遠くで鳴ってる。
「家まで送ろうか?」
 昇降口まで来たとき島田が言った。予想もしなかった言葉にみすずは不覚にもうろたえてしまった。
「え…、ばっ! …ななな、なんでっ??」
「余計な世話ならいい。じゃあな」
 と、本当に容赦なく、寸分の躊躇もなく、島田は踵を返し歩き始める。雨が上がったばかりの曇り空の下へ、まだ遠く鳴る空の下へ。
「…ちょっとぉ」
(いろんなところに気が回るくせに、アタシが強がってるだけとか考えないわけ?)
 島田は振り返らないどころか、みすずのほうを気に掛ける気配すらない。
「……っ」
 このままここにいたらまた鳴り出すかもしれない。見回りの先生が来たら校舎からも閉め出されてしまう。
 ───帰るなら今。
 みっともないところを見られるにしても、島田はもう気付いてるんだから今更だ。それに、他人に言いふらすことはしないと思う。
「待って!」
 声を掛けると、島田は足を止め、ゆっくりと振りかえる。
「ウチにごはん食べに来ない?」
 と、言うと、島田は間抜けな顔で目を丸くする。ややあって、吹き出すように笑った。
「迷惑でなければ」
「アタシが招待してあげてるんだから、四の五の言わずに来るべき!」
「はいはい。じゃあ、せっかくの招待、喜んで受けさせていただきます」
「そうそう、その調子」
 相変わらず蒸し暑いけど、雨がやんでどこか清々しい空気。
 夜が迫って、頭上の雨雲は紫がかった黒。だけど西の空だけがかろうじて赤く、夏を感じさせていた。



とりあえず おわり
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