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 1988年5月。

 ───目が覚めたとき、自分は死んでいた。

 春のやわらかな日差しをうける病院の一室。白い室内に漂う薬の匂い。窓の外には青青とした新緑、抜けるような空、鳥の声。
 聖域。
 穏やかな空間だった。
 ベッドに横たわる12歳の少年は、ひと月ほど前に負った怪我のせいで上半身を起こすことさえまだできないでいる。
 背───右肩からななめに走る傷は、幸い治療が迅(はや)かったこともあり跡は残らない。しかしそれでも半年間の入院、その後の何年間かの通院とリハビリが続くことは言い渡されていた。
 包帯が覆う痛々しい体をいたわるように、付き添いの女性がその名を呼んだ。
「その名前も捨てるよ」
 少年は抑揚のない声で呟く。しかしその声には明らかに、何らかの意志───決意が込められていた。
 傷つけられた体は全快の兆しを見せていない。それなのに少年は、その、もっとずっと先のことを眺め、すでに歩き始めている。
「…史緒をお願いします。僕は必ず戻るから」
「───」
 女は嗚咽を洩らさないよう歯を食いしばり顔を伏す。この12歳の少年の思いの強さに、泣いた。
 力強くその目的を吐くと少年は窓の外をまるで睨むように眺める。
≪たどりつく為に≫
≪あの場所へ帰る為に≫
 再び出会う為の、別離。
 女は左手の薬指から指輪を抜き、少年の手のひらで握らせた。
 二人、微笑み合う。
「次に会った時ははじめましてって言うわね。この名前で呼ぶのはこれで最後よ…」
「さようなら、咲子(さきこ)さん」
 咲子は少年の頬に優しくキスをして、その耳元へその名を静かに囁いた。
 それが最後だった。

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