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 ───…音。

 ふと、少女の両眼の焦点が合った。
 ピントを合わせる時間は必要無かった。ふっと視界が拓けたようだった。
 少女の視床下部は、両眼が捕え急速に流れ込んできた情報を処理し始めたのだ。脳の奥に心地良い疲労を感じ、少女はそれを自覚した。
 両腕が背中側に沈む重力を感じて、仰向けに寝ているのだと理解した。ベッドの上だとわかった。
 初めに目に留めたものは天井の照明具、その垂れ紐だった。
 薄暗い視界。照明は灯っていない。それなのに垂れ紐が確認できるくらいだから、どこかで別の照明が点いているのだろう。少女は漠然とそう思った。ただ視界に入る唯一のそれを、少女は見つめていた。それは数秒だったかもしれない、それとも数分、数時間だったかもしれない。何も動かない空間は時間の流れを感じさせなかった。
 少し頭を動かせば、他にも何かあるのだろうが、少女は動かなかった。動かそうとも思わなかった。
 動けなかった。まるで人形に自分の精神が宿っているような感覚だった。手足を動かすための神経を失くしてしまったようだ。
 天井から垂れている紐は遠近感をうまく感じさせず、手を伸ばしたら届きそうだった。
 そのとき、はじめて自分の身体を感じた。
「………」
 次に少女が目にしたものは、自分の右手だった。



 まず、垂れ紐に伸ばそうとする、右手の甲が見えた。
 小さく、白い手だった。
 自分の手はこんなだっただろうか。思い出そうとしたが、何を思い出せばいいのか分からなくなった。
 手の平を向ける。ちゃんと自分の意志通りに握るこぶしに、現実感が戻る。
(どこ? ここ)
 そう考えたのは、思考が働き始めた証拠だ。
 頭を動かすと、自分が寝ているシーツが白色だということを認識した。身につけている服も白い。
 さらに視線を巡らせる。
 壁の一部分に布が掛かっていた。それはクリーム色だった。
 何故、布の向こう側が明るいのだろう。壁に蛍光灯でも貼り付いているのだろうか。
 でもそれは、電気の明かりとは違い、もっと柔らかい光に思えた。
 その光の名前を、知らないはずなのに、知っている気がした。
 柔らかいのに、こんなにも明るい、光。
 天井に取り付けられている照明など必要ないような明るい窓。
 部屋の中の白さに影響されて、頭の中も真っ白になっている感覚。
 と、そのとき。
 ぴくん。三半規管が引っ張られたように、耳の奥が熱くなった。
 数秒、その熱を味わってから、少女は理解した。
(……何かきこえる)
 音がする。足音とかガラスがぶつかる音とか、そんなノイズではない。
 初めてきく音だ。



 上体を上げると、体が鉛のように重かった。節々の鈍い痛みがあった。
 それでも少女はどうにかベッドから下りる。しかし足に力が入らず、ぺたんと両手を床に着いてしまった。
「…っ」
 ベッドに掴まりながらすぐに立ち上がる。
 何かに導かれるように、少女は重い足を前に出す。裸足で、冷たい床の上を歩き出す。
 自分がどこへ向かおうとしているかなど解りはしなかった。
 ただその音に、駆り立てられるように。
 出入り口と思わしきドアを開けると、部屋の外はもっと明るかった。こんな眩しい照明があるなんて知らなかった。
(どうして…?)
 そう疑問に思いはしたが、少女の向かう先を知らせる耳が、今は感覚の絶対優先だ。
 光刺す明るい廊下を、少女はまた歩き始めた。すぐに開けっ放しのドアがあって、それをくぐる。
 左へ続く廊下と、上へ上がる階段があった。
 しばらく迷った末、階段を上り始める。
 すぐに息が上がってきた。汗を掻き、肺が悲鳴をあげる。
 少女は片手で胸を押さえ、もう片方の手で壁にもたれながら、上へ、上へと上り続けた。
 階段は長く続いていた。踊り場に着いても、目指すものはまだ上にあった。
(何をしてるんだ…私は)
 そう考えた。それに答える声はない。
 階段は長く続いていた。その間、沢山のことを考えたはずなのに、自分の今、この状況を説明することはできなかった。
 ただ、目指していた。耳にした音を。

 目の前に黒い大きな扉が現れた。
 音は扉の向こうから聴こえる。
 視線より少し高いところにノブがあって、少女はそれを持ち、回した。

 重い扉を押し開ける。
 音を立てずに、扉は開かれた。
「───…」
 開けきらないうちに、少女は風を感じた。
 ふわっと、乾いた風に背を押され、扉の向こう側へ足を踏み入れた。
 そして前髪が揺れた。


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