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≪1/1≫

 草の褥に寝ころんで、12歳の少年は赤い空を見た。
 快晴だった。
 360度、まるで彼を避けるように雲が拓けている。
 大きな赤い空が天上にあった。
(これを異常だと自覚できるのは、本来の色を知っているからだ)
 と、彼は冷静に分析する。
 左腕を掲げて針を読む。
 午後2時7分。
 ───空が赤いはずない。




 彼と同一の遺伝子を持つ存在がいる。
 それが実在する理由はひとつしか無い。彼には一卵で生まれた兄もしくは弟がいるということだ。その通り、彼には一卵性双生児で弟がいた。自然なクローンだ。
 厳密に言うと、同一の遺伝子を持つ人間が実在する原因はまだもうひとつあって、それは赤の他人。ただし、天文学的数字の確率の上に成り立つ。
 事実上それは不可能だ。何故なら、世界人口が天文学的数字ではないから。
 割合ではなく確率をヒットさせるためには少なくとも同数のサンプルが必要になる。現在60億の人口が2011年に70億。2050年に90億。例えばこのままy=5千万xの伸び率で人口が増えたとしても、天文学的数値に達するまでオリジナル(=彼)は生きられないだろうし、その前に地球が溢れるだろう。しかし人口密度の問題より先に浮上するのは食料問題であることは間違い無い。霊長類の増加による生態系の歪みとどちらが先か、予測できる材料はまだ無い。
 ───そこまで考えて彼は思考を停止させた。
(ばからし)
 思考が本筋から逸れてきた。
 同一の遺伝子は稀少だということだ。
 細胞や内臓も含め、一卵性双生児の先天による相違はあり得ない。二卵性は偶然同時に生まれてきたに過ぎないが、一卵性は物理的に完全に同形であると言える。
(けれどそれも生まれ落ちる瞬間までの話だ)
 その後の形成変化に比べたら、先天的な形など些細なものでしかない。
(それが俺とあいつの違いを決めたものなんだ)





「わ…。櫻くん!」
 外界からの高い声に思考を妨げられた。一番安楽なときを邪魔されて、まるで汚いものを眼前に突きつけられたような気分を味わう。
 彼は舌打ちした。でも熱はすぐに冷めた。怒りをぶつけてやる程、価値のある相手じゃない。
 溜息をひとつ、草から背中を引き起こす。面倒臭く思いつつも高い声を発した人物に顔を向けた。
 彼が寝ていたのは海辺に面した丘の上だった。眼前には空が広がっていて、海は崖の下。そして反対側には深い林があり、その向こう側に別荘がある。
 林の小径から現れた7歳の少女を睨みつけた。
「この辺りには近づくなって真木が言ってたろ」
「違うの! かくれんぼしてたら迷っちゃって…、ぅ…ぁの、マキちゃんには言わないでっ?」
 叱られると思っての台詞だろうが、その程度のことを何故そんなに恐れるのか彼には理解できない。しかし叱られたことを嫌われたと勘違いする思考パターンは子供にはよくある。それを追うことはできた。
「あいつはどうした」
「わかんない…オニだったから」
 “あいつ”のことを気にしたわけじゃない。少女の面倒を見ていたあいつに、早いところこの少女を連れ去ってもらいたいだけだ。
「櫻くん…戻らないの?」
「おまえはとっとと帰れ」
「道…わかんないし」
 元の場所まで送ってやるつもりは無い。かといってここに居座られても迷惑でしかない。
 ふと、思い立って、彼は少女を手招きした。なにか面白いことがあるのかと、少女は無防備に駆け寄る。
 彼は少女の細い腕を掴むとそのまま引き寄せて、彼の身体の反対側───海へ繋がる崖下を覗かせた。
「わっ」
 短い悲鳴が聞こえた。
「やだー、こわいよー」
 途端に掴んだ腕から拒む力が伝わる。
 崖下は100メートル、そして海。今日みたいな日和でも、波が岩を叩く音が痛々しく響いてくる。その音が鳴るたびに少女は首をすくめた。
(本能的な恐怖はやはりあるんだな)
「櫻くん、戻ろうよ…」
「落ちたら浮かんでこれないな」
「え。そしたら息できないよ?」
「息できなかったら、どうなると思う?」
「苦しいよー」
「それから?」
「……?」
(このレベルか)
 考えれば解るでも無いだろうに、少女は彼の言葉に頭をひねらせていた。



「史緒!」
「しおさんっ」
 小径から現れた2人に史緒はパッと笑った。
「亨くん! 蘭!」
 立ち上がり、2人に駆け寄る。蘭々もトテトテと走って史緒に抱きついた。
「しおさん、捕まえたー」
「きゃー。あははは」
 じゃれ合う史緒と蘭々の高い声に櫻は耳を塞いだ。
「櫻、こんな所にいたのか」
 亨が歩み寄る。
「おまえらが煩いからだろ」
「せめて本読むのやめたら? せっかく来たんだし」
「俺の勝手だ。───……それより蓮家の、来てたのか」
「うん、1時間くらい前」
「別荘にいるって知らせたのは今朝だろ」
「もう5時間経ってる。来られない時間じゃないよ」
「あの行動力は血筋だな」
 飽きもせずじゃれあっている史緒と蘭々を、櫻は変わらず煩いとしか思えないが、亨は楽しそうに眺めている。その亨はふと時計を読むと、
「そろそろ戻ろう。マキさんが待ってる」
 史緒と蘭に声をかけた。
「うん! おやつ作ってくれるって言ってたもんね!」
「わーい」
「櫻も。行こうぜ」
 振り返った亨が腕を振り上げる。
「そーだよ。櫻くんも行こー!」
 史緒は大きく口を開けて笑った。
「いこー」
 蘭がそれに倣う。その後に無邪気な笑い声が響いた。
 その深くも浅くも無い純粋な明るさに自分が何も感じていないことを彼は自覚した。
 彼は立ち上がり、かなり遅れて3人の後をついていった。






 赤い林の中を歩いていく。
 それはまるで大きな動物の口の中へ入っていくようだった。大きな牙を超えたら飲み込まれてしまう。
(ばからし)
 自分の発想の幼稚さに失笑する。
 そもそも色なんて大した問題じゃない。彼にとっては些細なことだ。
 彼をときどき苛立たせるのは、そんなことじゃない。
「しおさん、どうかしました?」
 蘭々が振り返る。史緒は足を止め、木立の隙間から見える空を仰いでいた。眩しそうに目を細めながら。
(母親のことを考えた)
 その少しの間と表情で彼は見抜けてしまう。
 ほぼ同じタイミングで、前を歩いていた亨が史緒に声をかけた。
「帰ったら咲子さんのとこ行こうか、おみやげ持って」
 彼は目を見開いた。史緒は笑って頷いた。馬鹿な証拠だ。
(───確かに…)
 解っているつもりでも、時々驚くことがある。
「櫻、…目、またおかしいのか?」
 わざわざ道を戻って来て亨が覗き込む。差し伸べられた手を彼は払った。
「何でもねぇよ」
(…確かに、こいつと俺は同じものなんだろう)
 ときどき思い知らされる。
(ならば何故)
(亨は別のものを見ているんだろう)
 それは嫉妬だった。






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