/GM/紫苑
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 1.
 明滅する非常階段。人工的な明かりと大きな黒い影が交錯する。たくさんの黒いオバケが揺れ動きながら追ってくる。振り返る余裕はない。右手を掴まれ、引っ張られて、引きずられるように走ることに必死で。
 大きな黒いオバケは不気味に歪む。
 まだ幼い僕と妹を連れ、父は逃げていた。僕らは追われていた。
 甲高い足音が耳を劈(つんざ)き頭を撃ち続ける。擦れた呼吸はまるでヤスリのように肺を磨り減らす。心臓が破裂しそう。苦しくて涙が滲む。声をあげて泣くには息が足りない。呼吸さえも間に合わないほどに。
 それでも僕らは走り続けていた。父は左手に僕を、右手に妹を掴み、コンパス差を考慮しない速さで、転ぶことすら許さない強さで、他にはなにも持たずに、走り続けていた。
 狭い通路のフェンスにあちこちぶつけた。じんじんと痛む手足を気にしていられない。ときおり父は僕と妹を気遣うけど、声を掛けることも、あやすこともしなかった。
「いたぞ!」
 背中を刺すような声と、いっそう眩しい光を当てられた。父が息を呑んで振り返る。その動作で、僕と父の手はほどけた。次の瞬間、
 がんっ。顎を打った。骨を伝って体中に寒気が走る。
 ざりっ。アスファルトに皮膚をこそげられた感触。
 壁に叩きつけられたと思ったらそれは地面だった。頭部を打ち、平衡感覚さえ失くした体は痺れて動かない。視界が霞む。揺れ動く光の世界で、父の手を無くした体が孤独と恐怖で震えた。
 名前を呼ばれた。けれどその声も遠い。
「ぉ…お父さん」
 無意識に手を伸ばす。大きな光のなか、少し離れた場所に並ぶ、大小ふたつの影。大きいほう───父が戻ってきた。(戻ってきてくれた!)手を差し伸べられる。名前を呼ばれる。それに応じて手を伸ばす。指先が触れるまであと少し。けれど、
「こっちだ!」という声に呪をかけられたように父の足が止まった。
 地面を伝わり大勢の足音が聞こえる。近づいてくる。それに掻き消され、懸命になにかを叫ぶ父の声が聞こえない。
「…お父さん」
 僕の声も、きっと届かなかった。
 父が叫ぶ。それより早く手を取って欲しいのに。
「お父さん…!」
 伸ばした手を、大勢の足音が追い越していった。大きな怪獣に足から飲み込まれたようで、僕は悲鳴をあげた。
「止まれっ、警察だ」
 父は妹を抱き上げて走り出した。
「お父さん!?」
 僕は? どうして置いていくの?
 あとは雑踏に紛れて聞こえない。遠くの光へ向かう、父の背中を見たのが最後だった。
「お父さん!!」
 黒いオバケたちが、それを追いかけていく。


 その日が、夏だったのか冬だったのかも憶えてない。
 ただとても寒かった。
 湿った夜風が吹き、半袖を着ていたけれど。
 その夜はとても寒かったのだ。

 名乗るなと、日頃から教えられていた。けれどその日、知らない大人にやさしく名前を訊かれて唇が凍り付いて動かなかったのは、それだけが理由じゃない。



 それでも、すぐに小さなアカリは灯された。
「あなたが紫苑?」
 初老の女性が覗き込む。びっくりするほど近くで、皺の多いきれいな顔は微笑んだ。
「私にはもう10年以上会ってない息子がいるの。急にその子が電話してきてね、紫苑を頼む、って」
 ふわりといい香りがした。
「本当に、困った息子ね」
 やさしく強く抱きしめられる。
 置き去りにされた痛みは消えない。けれど寒さが少しだけ和らぐ。
 雪のうえにひとつ灯された、小さなロウソクのように。

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