/GM/お題014

【天体】

 はじめて、雨になった。
 朝からずっと、水の粒が空から落ち続けている。ばしゃばしゃという痛そうな音が絶えない。地面に墜落した水は、アスファルトの上をすべって、どこかしらへ流れていく。ふしぎなことに、もう何時間も降り続けているのに、道路が水没することはなかった。
 もう1時間以上、三佳は雨の街を眺めている。
「…司」
「なに?」
 三佳が窓の外に見入っているあいだ、司は同じ部屋のなかでCDを聴いていた。スピーカーから聞こえてくるのは音楽ではなく、英語の読み上げ。端々の単語から、教養ものだろう、というくらいにしか、三佳には判らなかった。その三佳が呼びかけると、司はすぐにCDを止めた。「なに?」
「どこかにすごく大きな水溜まりでもある?」
「どうして?」
「…なんとなく」
「雨がどこへ行くのか、っていう話?」
「どちらかというと…、どこから来るのか、のほう」
「ああ」司は思い立ったように言う。「“a logician could infer the possibility...”というやつかな」
「え?」
「いや、なんでも。───そうだね、あるよ」
 自分の予測どおりの答えに、三佳は熱っぽく聞き返した。
「どこに? どれくらい?」
「雨がやんだら行ってみようか」
「え? そんな近くにあるの?」
「駅のむこうがわ。しばらく歩けば着くよ」
 今度は予測どおりの答えではなかったらしく、三佳は首を傾げた。
 司は本棚に近づくと、「じゃあ、予習として」手探りで一冊の本を抜き取る。
「はい」
 と、その本を渡された。1センチほどの厚さの、ハードカバーの本だ。
 表紙は文字に重なるように小さな丸がデコボコしている。視覚障害者用の点字本だが、文字やイラストもあり、三佳にも読むことができた。
 「WORLD ATLAS」と書かれている。
「じゃあ、表紙をめくって」
 司の指示どおり本を開く。
 見開きで奇妙な絵があった。カラフルな色遣いで、パッチワークのように(まだら模様にも見える)図形が描かれている。まんべんなく描かれているわけではなく、大部分は背景なのか薄い青色で塗りつぶされていた。さらに、ページ全体に等間隔で縦横の線が引かれて、細かい数字が書かれている。
「それがなにか知ってる?」
「知らない」
「これはね、地図っていうんだ」
「ちず?」
「座標はわかる? うーん、マトリクスは? ほら、元素周期表の縦横のこと、なんて言ったっけ?」
「周期と族」
「そうそう。周期と族を指定されれば、ひとつの元素が示せるよね。その考え方と同じ。ええと、元素周期表の原点は左上だったっけ?」
「水素」
「そう。これの原点は、たぶん、その地図だと左のほう。地図を上下に分ける中央の横線が“赤道”、左右に分ける縦線が“本初”、ふたつの線の交差点が(0.0)の原点」
「あった」
「赤道から平行に上に書かれる線を北緯、下に書かれる線を南緯というんだ。同じように、本初から右へ東経、左へ西経。こっちはそれぞれ180°進んだところまで。あ、ページの右端と左端はくっついてるからね」
 一分後。
「わかった」
「じゃあ、北緯35°東経140°。その付近、なんて書いてある?」
「Tokyo?」
「そう。僕らが住んでるところ」
 10秒後。
「───…ここ?」
 司が説明していたことがやっと形になった。
「それじゃあ、次に、北緯20°とちょっと上、東経115°」
「HongKong」
「そこが、来週、僕らが行くところ。蘭はそこに住んでるんだよ」
「……けっこう、近く?」
 司は苦笑した。
「直線距離で約2,500km、たとえその距離を車で飛ばしても1日以上かかるよ」
「え。だって、こんなにすぐそばなのに」
「それだけ世界が広いってことかな」
「せかい?」
「それはまた後で。…でね? 最初の質問に戻るけど」
「うん?」
「地図のほとんどって青く塗ってない? 水色かもしれない」
「ああ。大部分が水色で塗りつぶされてる」
「そう。それが全部、水」
「───」
 30秒後。
「……。…わかった」
「それはよかった」
 司は微笑って立ち上がった。
「じゃ、雨もやんだことだし、大きな水溜まりを見に行こうか」


END

/GM/お題014