/薬姫/sphere
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 強い、風が吹いた。

 髪を揺らし、季節の風が頬を擦りぬける。
 高い高い空、頭の上を、雲が流れて行った。
 空の色は紫に近い深い青。遠くの空は赤い。雲までも、赤く染まる。
「───…」
 少女は呼吸を忘れて、そこに立ち尽くした。
 無限の空間で取り残されたように、立ち尽くしていた。
 どこまでも続く、鮮やかに色づく空。遠い景色。隔たりの無い空間。「外」の匂いがする。
 建物が並ぶ街。人々が住まう世界。人工物の隙間、落ちてゆく、赤い赤い夕日。
 眩しい光が、遠くのビルの形を鮮やかに浮かび上がらせていた。
 二次元の色じゃない、光の素粒子。
 強い風を感じた。暖かい風に吹かれた髪が頬に触れる。服の裾がなびく。
 ただ、風が強くて。
 足をふらつかせるほどの風に、胸が熱くなる。

 少女は5年間、空を見なかった太陽を見なかった風を感じなかった。
 初めて、世界を目にした瞬間だった。




 地平線が見えるような荒野の真ん中に一人立っているようで、少しの不安と孤独を感じた。
 手の届かない空だけ残して、強い風の中に取り残されたようだった。
 この大きな世界に、なんて小さな体。
 視界を埋める景色に飲まれて足が震えた。足の感覚さえ無くなってきた。
 今、ここで、この足で、5年間、狭い世界しか知らずにいたこの体が、ちゃんと立てている?
 苦しいほどの不安に泣きそうになった。淋しさを感じていた。
 そのときのことだった。
「!」
 追いかけてきた音が再び耳に聴こえた。




 そこには一人の青年が、手摺りに腰掛けていた。左手には木色の奇妙な曲線の箱を抱え、右手の弓が軽やかに動いている。
 少女はそれがバイオリンという楽器で、音を奏でるものだということを知らなかった。しかし青年がその音を生み出していることだけはわかった。
 夕日に照らされてひとり、音と戯れるその姿はとてもきれいだった。



 ふと、音が止む。
 楽器を下ろし、青年が少女のほうへ顔を向けた。
「シオ?」
 その目は間違いなく、こちらを向いているのに。
 後ろにシオという人物でもいるのかと、少女は思わず振り向いてしまった。
「アツシ? ───誰?」
 答えが返らないことに少しの警戒心を向けられた。
「…っ」言葉が喉まで出かけた。
 にもかかわらず、それは声にはならなかった。
 喉が動かなかった。
 もどかしい。声の出し方を忘れてしまっているようだ。
 でも。
 例え思い通りに声が出たとしても、少女は何を言っただろう。少女自身、それはわからなかったに違いない。
 この「外」の風景の中、夕暮れの赤い光が街を染める景色の中、はじめて出会った人にどんなことを言えばいいのかわからなかった。
「…もしかしてシオが言ってた女の子?」
 その言葉は疑問ではなく確認だった。警戒は解かれ、おだやかな笑顔が、少女に向けられる。
 青年は弓と楽器をまとめて左手に持ちかえると、右手を少女に向けて差し出した。
「悪いけど、目が見えないんだ。ここにきて名前を教えてくれないかな」
 笑顔で、そんなことを言う。
 少女はその手をとるために、ゆっくりと足を踏み出した。ふらふらと、危なっかしい足取りで。
 8歩と半分の距離を15秒かけて歩き、やっと2人の手が触れた。瞬間、少女の膝から力が抜け、バランスを崩した。
 青年は「おっと」と軽い仕草でそれを支えた。思いのほか、強い力だった。
 膝をつき、すぐそばで声が発せられる。
「僕はナナセツカサ。君は?」
「……」
 少女の視界がぼやけた。涙があふれ、流れたのがわかった。
「三佳」
 そう声にした自分の言葉に、さらに激しく感情を揺さぶられた。
 胸が熱くなり、叫んでしまいそうだった。
 自分が自分の名前を忘れていなかったことに、酷く感動した。この5年、口にすることも呼ばれることもなかったのに。
 父親がつけてくれた名前を、少女は忘れていなかった。
「───…島田、三佳」
 長い間、語ることのなかった自分の本名。
「三佳?」
 青年の声が自分の名前を口にする。少女はそれを耳にした。
 低すぎない、心地よい声だった。
「…ぅ」
 たまらなくなって、少女は大声で泣き出した。
 熱い想いが溢れ出して、体が軽くなるような気がした。
 高く広い空は、その想いすべて、包んでくれそうな気がした。






「これって…アレだな」
 その様子を出入り口のところで見ていた篤志は何とも言えない複雑な表情で言う。
「待って。私も同じことを思った」
 篤志の隣で見ていた史緒が言う。
「刷り込み(インプリンティング)」
 2人の声と、笑いが重なった。
 その視線の先には、泣きやまずにいる島田三佳と、それをどうにか宥めようと珍しく慌てふためく七瀬司がいた。





薬姫-Stratosphere 了
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