キ/wam/CHOR
≪9/9≫
校舎の屋上に黒い人影があった。
屋上の手摺りに腰掛けているその方向を、誰かが偶然見たとしても、何も意に介するようなことはなかったであろう。何故ならその人影を目に映すことができるのは、この構内に二人しか存在しないからだ。
中村智幸。鈴木沙都子。
「すべて筋書き通り…」
「ツカイ」は独りごちた。誰に向けて言ったわけでもないが、口にしてみて何故か苦笑してしまう。
本当にこれでうまくいくのだろうか。運命の輪は廻り始めている。
全てを終わらせる為に。
「…」
西の空に目をやると、ちょうど日没だった。建物が立ち並ぶ街に夕陽が落ちていく。空と雲と街とを赤く染めながら。
この景色の中にどれだけの人間がいるだろうか。そしてその内のどれだけの人間が、この景色に目を止めただろう。
望んだのは繁栄。世界を手にするちから。
気付いたときには遅すぎる。もう後戻りはできない。
「ツカイ」は膝の上で組んだ自分の両手に顔を埋めて呟いた。
「…きれぇ」
その時、背後から高い声がかかった。
「灰色の人工物がそんなに感動的か?」
「ツカイ」は目を見開く。妙に聞き慣れた声。
(…何でここにいるの?)
「ゆきのっ!!」
振り向きざまに叫ぶ。
白い服と白いマント、白い髪を耳の上で二つに縛り、空に立っている。右手には手袋、輪が象られた錫杖を握っている見慣れた姿がそこにはいた。偉そうな態度と口調だが体は小さい。人間の年齢にすると小学生ぐらいに見える。両腕を組んで「ツカイ」を見下ろしていた。
いつものことだが機嫌が悪そうだ。
「…喋りすぎたんじゃないか?」
「え?」
少し間をおいて、「ツカイ」は、その台詞の目的語に「中村智幸」が当てはまることに気付く。
「…見てたのねっ!?」
「全部な」
中村智幸との会話を。あまりの憤りに「ツカイ」は何か言い掛けるが言葉にならない。
それを無視して、ゆきのは錫杖の先を「ツカイ」の目の前に突き付けた。
「ところで」
鋭い目を「ツカイ」に向ける。
「あの男の子供の生死は、おまえの一存では決定できないはずだな」
「ああ、『殺すかも』ってヤツ? …冗談よ。そうなるかもしれないってこと」
ゆきのの視線も「ツカイ」は軽く受け流した。ゆきのが錫杖を引くと、「ツカイ」は空を見上げて伸びをする。
でもね、と視線はそのままで口を開いた。
「たとえそうなったとしても、中村智幸にはどうすることもできないよ」
自分の子供を守ることさえも。
ゆきのは意外そうに「ツカイ」のほうを見る。しかしその表情からは何も読み取れない。 「ツカイ」は意味無くそんなことを言ったわけではない。確信があるのだ。
「…何故わかる」
ゆきのの直接的な疑問に「ツカイ」はうつむいて苦笑した。
「わかってよ」
(だって彼は)
「…私の管轄のことなの」
(あと十年のうちに───)
下を向いて黙り込む「ツカイ」の横顔を、無表情で見やる。ゆきのは合点がいったようだった。
「…へぇ」
それだけ言って、これ以上の追求はしなかった。
(しかし)
いつものことだがゆきのには心配が絶えない。どうしてこの目の前にいる相棒は、必要以上に人間に感情移入するのだろうか。まさしく百害有って一利無しだ。
沈黙を埋めるようにゆきのが口を開く。
「こちらも、報告がある」
「…?」
「今日の会議で決定した。三年後の十二月五日だ」
文法を考えないゆきのの物言いには慣れている。この言葉の主語となる単語はすぐに分かった。それよりもその日付に「ツカイ」は呆れた声を返す。
「十二月五日…ねぇ。よりによって、命日に生まれるとは…」
『彼』が来る。もう一度この大地へ。そして…。
「今度こそ大丈夫だろうな。二百年前に続き、二度目の失敗を許す程、『聖』は寛容ではない」
「───わかってるわ」
もう、後がない。
自然に、二人は下に広がる景色を見渡す。夕陽は完全に沈み、街に夜が来ようとしていた。
人間は知らないだろう。いつか、朝が来なくなる日があることを。それが遠い未来ではないことを…。
「W・A・モーツァルト。百八十九年ぶりの翔来…ってとこか」
「…だね」
ゆきのの言葉に「ツカイ」はゆっくりと立ち上がる。眼下では校舎に明かりが灯り、学生たちは明日の準備に忙しそうだった。しかし構内に中村智幸の気配は感じられない。
「───」
(音楽って、人に教えるものじゃないと思うんだ)
目的があってここに来たのに、智幸のあの一言が「ツカイ」を黙らせた。後にそれは重要な意味を占めることになるのだが、「ツカイ」もまだそれは知らない。
最後に、息を吸って、まるで何かを決意したかのように、「ツカイ」は太陽の最後の光を見つめた。
「…今度こそ還してもらう。宇宙へ──────」
1791年。7月。
夏の初めのある夜、音楽家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが家でひとりで作曲をしていると、突然、扉が強く叩かれた。
「主人の“使い”の者ですが…」
開けてみると、扉の前には灰色の服を着た人間がが立っていて、呆然としているモーツァルトに用件を告げた。
「あなたにレクイエムの作曲をお願いにあがりました。依頼主の名は訳あって言えません。お引き受け下さるのでしたら、今、謝礼の半金を差し上げます。残りは曲が完成した時に…」
─────当時、モーツァルトは既に体調を崩しており、貧困に悩まされていたので、すこぶる不安定な精神状態にあったが、そのため依頼主のわからないレクイエムを注文されたことで、自分の死が迫ったことを確信した。
誰の為の<レクイエム>なのか
どの死者の為のミサ曲なのか
依頼主を知らされないモーツァルトは、今はもう、この曲を自分の為のものだと思っていた
あの灰色の服の人物は死神の使いで、ぼくに最期の時が迫っているのを知らせにきたんだ
死神の使いが、早く自分の為の<レクイエム>を書くように───。
end.
≪9/9≫
キ/wam/CHOR