薬姫-extra. 無落日


「ちょうだい」
 ぽつり。芯の通った声で恵は呟いた。
「…これほしい。ね? いいでしょ?」
 西山は苦笑して、それを取り上げた。
「だめ」
「どうしてっ」
「ネガ無いんだよ。見たいときはいつでも見せてやるから」
「やだ!」
 ひつじを抱えたまま、西山の手にあるものを取り返そうとする。
「ちょーだい、ちょーだいッ!! ほしい!」
「こらっ、恵」
「やだっ、ぜったい、もらう!」
「だめだって」
「ぜーったい、ほしい!」





■1
 とん、と目の前にコーヒーカップが置かれた。
「……は?」
 何が起こったのか判らなかった。書き物をしていた9班副班長の丸山は、背筋を走った寒気の激しさに恐怖すら覚えた。まるで目の前で時限爆弾をセットされたときのように顔を引きつらせた。
 同時に、室内の空気が凍る。作業中だった他の班員は、無言で、それぞれ試験器具を手にしたまま、丸山から放射状に避難した。
 それもこれも、丸山の前にコーヒーカップを置いた人物が、9班班長の柳井恵だったからだ。
 恵はいつも大きな熊のぬいぐるみを抱えている。それを右手に抱えて仁王立ちし、座っている丸山を見下ろした。 ふたつの長い三つ編みが揺れて丸山の肩を叩いた。
「アタシがいれたの。呑みなサイ」
「え…?」
 ひとり逃げ遅れた丸山は恵の命令をうまく聞き取れなかった。…いや、聞きたくなかった。
「呑め」
 さらに恵の口調に強みが入る。
「ちょっと待て。…え? どうしたんだ、急に」
「いーから!」
 びしっと強く言われて、丸山はそこで初めて手元に置かれたカップの中を見た。カップの中はどうやらコーヒー、…の……ようだが、混ぜ切れていない螺旋状の分離層が見てとれる。それが白色ならばミルクだと思い込むこともできるが、この場合、なんと緑色だった。見るからに怪しいそれを呑めと言う上司。この現実から丸山は逃避したかった。
「…ヤバいもん、入ってない?」
 確認せずにはいられない。というより、見るからにヤバくないはずがない。なによりヤバい薬だらけのこの職場ではシャレにならない。
 恵は少々気分を害したようで「むか」と意味不明な言葉を呟いた。
「じゃ、アタシが毒味しよっか?」
「いや、おまえじゃ意味ないし…」
 恵は体質的に毒が効かないのだ。
 恐々とカップを見つめるだけの丸山に頭にきたのか、とうとう恵がキレた。
「もーッ! 呑むのか呑まないのかはっきりしなサイ!」
「…できれば呑みたくない」
「じゃ、ハンチョー命令」
「結局呑ませるんじゃないか!」
「マル!!」
「…」
 譲歩を知らない班長としばし対峙した副班長は諦めの境地で溜息を吐いた。
「早まっちゃダメ! 丸山さん!」
「丸山さんがいなくなったら、オレら困るんですけど…」
 部屋の離れたところから、物騒なことを言われる。(いなくなったら、ってなんだ…)
 丸山はさらに深い溜息を吐いた。
「骨は拾ってくれ」
 そう言い遺して、丸山は震える手でカップを取り、その見るからに怪しい飲み物を。
 呑んだ。

 机に伏す。
 その瞬間に、気を失ってしまいたいと願った。
「………まずい」
 そう言いたかったが、口の中に広がる言葉では表せない味に舌を動かすことができなかった。
「呑んだ? …呑んダ!?」
「おまえ…本当になにも盛ってないだろうな…」
 まず甘いのか苦いのかすら知覚できない。舌が灼ける、というのは覚えがあるが、舌が融解しそうだった。
「呑んだよねッ!!??」
「…ああ」
「じゃ、あと一週間、毎日ね」
 と、カップを持って踵を返した恵。
「はっ!?」
 恐ろしい言葉を耳にして丸山が振り返った。
 そのとき。
 恵がなにもないところで躓いた。「ぎゃん!」派手に転んで、ぶんと空を飛んだカップからは、ぴっと飲み残しが飛び散り、びしゃっと試験中の机の上に飛び散った。ごとん、とカップは割れずに落ちた。
「うわぁぁぁあ!」
「きゃーっ!」
 離れていた班員が一斉に頭を抱え悲鳴をあげる。試験管やシャーレのなかに琥珀色の染みが広がっていく。そのなかにはひと月かけて面倒を見ていた試験体もあり、それまでの苦労が無に帰した班員は卒倒しかけた。
「う…わ、これ、明日が納期だったのに!」
「こっち、パソコンにもかかった!」
 地獄絵図と化した室内のあちこちで事の甚大さを語る被害報告が叫ばれる。
 当の恵は床からむくりと顔を上げ、
「ひつじはっ!?」
 と、空気を読まない声をあげた。
 果たして恵が空気を読んだことがあっただろうか。
 班員の厳しい視線は恵を刺すことさえできなかった。








■2
 3日後。
「西山さん…」
 丸山は医務室を訪れた。(恵の淹れたコーヒーの「ような」飲み物に当たったわけではない)
 医務室のヌシは西山という。所内の最古参のひとりで、丸山から見れば、所長の矢矧義経と同様、気軽に喋れるはずもない立場の人だ。けれど、医務室という一人しかいない部署で、長年、上下関係を意識せずにいた西山は、丸山が気後れするほど気安い。今では丸山も慣れて、たまに世間話をする程度の仲になっていた。
「丸山? 珍しいな、怪我でもしたか?」
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「おう」
「恵になにか言ったでしょう?」
「…言った」
「なに言ったんですか?」
「恵のやつもう吐いたのか。この取引は無しだなー」
「取引?」
「聞いたんじゃないのか?」
「恵はなにも言ってませんよ。でもあの子になにか入れ知恵するとしたら、矢矧さんか薫か、西山さんくらいでしょ?」
 所内では他に恵とまともにしゃべれる人間がいないのだ。
「取引って言いましたよね。早く折れてください」
「なんで?」
「業務に支障があります」
「支障? 俺は、『1週間、丸山に茶淹れろ』って言っただけだよ?」
「それが弊害なんです!」
 声を荒げてしまった。少しバツが悪くなり、声を細めた。「…淹れてきましたよ、ものすごく不味いのを」
「それくらい我慢したら。おまえの上司なんだし」
「ええ、俺の上司は恵ですよ、それが現実です。上司なら、部下の仕事の円滑な遂行に助力するのは当然なことですよね。それなのに茶を淹れては毎回こぼして、回転中の分離器(セパレータ)や取り分け中の試験管にぶちまけられました。パソコンも2台壊れました、買替予算申請中です。班員からも苦情があがっています」
「……」
「西山さん」
「…わかったよ」
 観念したようにホールドアップした。西山は書類が散らばっているデスクに戻ると、引き出しを掻き分けて、取り出した紙を丸山に差し出した。
「これ、恵に渡しておいて」
 そうしたらお茶汲みはなくなるから、と。
「…写真?」
「ああ」
 見ていいのかと視線で問うとOKが出たので、丸山は写真を受け取った。
 古い写真だ。
「これは───、…貴重ですね、すごく」
 その写真に写っているのは4人。
 おおきなぬいぐるみを抱く三つ編みの女の子、その両脇に白衣の男性がふたり。そのうちひとりは小さな女の子を抱き上げている。
 丸山はその4人とも、名前を挙げることができた。
「薫を抱っこしてるのは、島田…芳野、博士ですか? 俺は直接面識はありませんけど」
「そうだ」
 西山は煙草に火を点けながら答えた。
「矢矧さんも恵も若いな」
「4年前だからな」
「…天気がいいですね。どこで撮ったんです?」
地上(うえ)のときの、研究室の屋上だな」
 西山は懐かしそうな目で笑う。「まるで家族みたいな4人だったよ」
「芳野博士の写真なんてほかに無いだろうな。だから恵も、それに興味を持ったんじゃないか?」
 だから俺も手放したくなかったんだけど、と付け加えたあと、西山は煙を吐き出した。


 西山に礼を言って医務室を出たあと、丸山はもう一度写真を取り出した。
 青空を背景に写っているのは4人。島田芳野、薫、矢矧義経、そして柳井恵。
 丸山は目を細めて写真に見入る。
 西山は気付かないのだろうか、この写真の違和感に。 
 恵はこの写真を欲しがったという。
 その理由は、よく解る気がした。
 島田芳野、過去の薫、過去の矢矧、過去のひつじ、過去の自分。───恵が欲しがったのはそんなものじゃない。



 今はまだ、写真で満足していても、いつか、恵は望んだものを求めるかもしれない。
 おそらく、そう遠くないうちに。




 日が沈まない世界があったと仮定しよう。
 やわらかな常光に住まう人々に闇の存在を聞かせたら、彼らは闇を望むだろうか?

 その逆は有り得ると、こんなにも簡単に想像できるというのに。







薬姫-extra. 無落日 了