薬姫-extra. ティル・ナ・ノーグ |
side:恵 深い森のなかのおうちで、ホリーは暮らしていた。 野菜を育てて、鶏と犬を飼って、静かに暮らしていた。ときどき町に出て、パンを買って、町の人と少しのお喋りを楽しむ。そんな生活を続けて半世紀ほど。ホリーはいつも心穏やかに過ごしていた。 その日は清々しく晴れていた。背の高い木々の隙間から光が差し、緑がキラキラと光っていた。空気は澄み渡り、どこかで鳥の鳴き声がする。 とても美しい日だった。 「そんなに苦しいなら、アタシが殺してあげる」 ベッドに沈むホリーの細い手を両手で握りしめて、 「これは、私が望んだ終わり方じゃないわ。とても辛いの」 ホリーの歪んだ表情はその白髪と同じくらい白い。ホリーはもう痛みを口にしなくなっていた。ただ思い通りじゃない今が辛い、と。 「だから…ッ。ネェ! 苦しませたりしないから!」 手を強く握るとホリーは僅かに顔を向けた。それだけで苦しそうなのに白い顔は微笑う。 「メグ。罪を犯したら、天国へ行けないのよ」 「アタシはもう、 「私自身のために、メグに私を殺させた私の罪はどうなるの?」 ホリーは震える手をのばし、恵の頭を撫でた。 白い顔は優しく微笑んで、目を閉じた。 side:薫 二人組の女子大生が電車に乗っていた。 手すりにつかまってお喋りをしていたが、突然、そのうちの一人が気分が悪そうに膝を付き、座り込んだ。 「大丈夫? 貧血?」 連れのほうが心配そうに声をかける。しかし、胸を押さえて苦しそうに 「おいっ! そこの会社員っ」同時に横目で車両番号を確認する。「車掌に言って、次の駅に救急車を回させろ、3番車両、急げっ」 こんなとき、素人ができることは限られている。患者を楽な体勢させること、持病の有無、携帯薬のチェック、身元確認。乗り合わせた乗客の協力もあって、三佳はそれらを行うことができた。患者は喋れる状態ではなく、相づちで三佳に応えた。 患者を寝かせるために席を空けた会社員、動揺してしまっている患者の連れをはげましている主婦、駅に着くとすぐに担架を誘導し始めた男子高校生。三佳も知り得た限りの情報を救急隊員に伝えることができた。 「あのっ、ありがとう」 最後に、背中から声をかけられた。 「───」 はじかれたように振り返ると、連れの女子大生が小走りで担架を追いかけるところだった。三佳はそれを見送り、長い時間、その場に立っていた。 ありがとう。その言葉は電車に乗り合わせた全員に向けた言葉だ。その一端を、受け取らせてもらうことにする。 (よかった) (役に立つことができた) ■1 「相席、構わない?」 すぐ近く、頭上から明るい声が聞こえて 司は顔を上げても相手の顔を認識することができない。しかし健常者の相手からすればこれが普通の反応になる。自分の視力を気取られないよう、彼のこういった動作は無意識のうちに行われていた。 声は女のものだった。推定年齢20歳前後。自分より年上だろう。記憶している声と一致するものは無し。 他人だ。 さらに司はアンテナを広げ、周囲の雑踏から店内の人口密度を計った。 測定が済むと、声が発せられた高さへ司は笑顔を向けた。 「遠慮してください。───僕に用があるなら別だけど」 店内の人口密度は40%以下。席が無いわけじゃない。 この時点で、女は不審人物になった。店内は空いているのに相席を求めてきた───声をかけてきたその意図は? 「ツレナイなっ。こんな若いコがナンパしてるのにサァ、もぉ!」 素直な怒気を含んだテンションの高い声を聞いて、司は少しの安堵と大きな失望を感じた。安堵というのは、少なくとも害意があるわけではなさそうだということ。失望というのは、知的な (なんだ、ただの馴れ馴れしい人か) 「おいくつなんですか?」 「乙女にトシ訊くなんて失礼だよ」 と、窘められて、司は苦笑する。 (さて、どうやって追い払おうか) ただのナンパなら長居はして欲しくない。 「僕の彼女はもっと若いよ」 あはっと女は笑う。 「10歳くらい? …じゃなくて、もう11歳になったんだっけ」 司は笑わなかった。わずかに身構える。 「───僕に用があるなら、先に名乗って欲しいな」 ただの変人だなんてとんでもない。この女は司を知っていて、狙って声を掛けてきたのだ。(誰だ?)司が言った「彼女」のことも知っている。 「あ。アナタ、目が見えないんだ」 「!」 司はさらに驚いた。女は司の目のことを知らなくて、たった今気が付いたのだ。そのことに驚いた。 「と、ごめんなさい。アタシ、クチが悪くて。いつも怒られてるんだ。さっきみたいな言い方、ヤだった? 目が不自由? 視力が弱い?」 「…どれも、少なくとも差別用語じゃないけど」 司が指摘したいのはそんなことじゃない。「どうしてわかったの?」 「ん? なにが?」 「目が見えないって」 さっきまで読んでいた点字本は閉じているし、杖もしまってある。盲目であるような素振りはしてないはずだ。どこか自分に落ち度が? そんなことは無いはずだ。 女が事前に知っていたということはない。先ほどの台詞からそれは読みとれた。 「あ、それ? 答えはカンタン」ふふふ、と女は笑った。「アタシの左腕ね、んーと、えっと、薬師如来の刺青があるんだ。大抵のヒトはビックリするから───…プッ、あははすげー、刺青だって」 自分の台詞に自分で笑っている。その笑いが収まるまで少し時間が必要だった。 つまるところ、刺青云々は嘘なのだろう。 盲目であることを見抜かれた理由を問いたかったのに、答えを曖昧にされて司は面白くない。 すとん、と女は図々しくも司の向かいに腰を下ろした。じゃらじゃら、と、キーホルダーかアクセサリーが鳴る音がした。 「あの子の連絡先、教えて?」 初めからそれが言いたくて、近寄ってきたのだろうか。 「あの子って?」 「アナタの彼女。この間、ここで一緒にいるの、見た」 「知り合い?」 「アタシのこと、薫が忘れてなければ」 そこまで聞いて、司は脱力感と疲弊感を覚えた。 「そういう名前の人物を、僕は知らない」 単なる人違いか。しかし女は退かなかった。それどころか、 「うあっ、えぇえ? じゃあ、今は何て名乗ってる?」 とまで言ってくる。思いこみが激しいのではないだろうか。 「誰かと勘違いじゃない?」 「ずるい、教えてくれたっていーじゃん!」 「人違いだって認めたら?」 司は考えていた。 目の前の女が言う「薫」と、司が今待ち合わせをしている「彼女」が、同一である可能性を。 その可能性が高いのか低いのかさえ判らない。 もし全くの勘違いなら、この勘違い女を説得して追い返すための労力が必要になる。それを思うと今から疲れた。 もし同一人物だとしても連絡先を教えるつもりはさらさら無い。ただ「彼女」に、この女を会わせるほうがいいのか、会わせないほうがいいのかという疑問はある。 「彼女」は、それを望むだろうか。 「薫の本名、アタシ、知らないの!」 その台詞を聞かなくても、司は気付いていた。もし同一人物なら、「彼女」は、以前(もしくは現在)、偽名を使っていた(使っている)ことになる。ともかく、同一人物かどうか決定しないことには話は進まない。 (そろそろ別の手がかりを口走ってくれないかな) こちらから不用意に喋ることは無いのだから。 「あ、でも…あのヒトの娘だから、“ どうだ! と自信満々で言われた。 (また別の名前が出た) これは勘違いのほうかな、と司は嘆息する。 「…っと、それは名前だっけ。えーとえーと…」 と、また悩み始める。 司は呆れた溜息を吐いたついでに、冷めたコーヒーを口に運んだ。 「わかった!!」 女が叫ぶ。今度は何だろう。 「“島田”」 * * * 待ち合わせのファミレスが見えた交差点で、三佳は足を止めた。 車道の向こう側、歩道に沿う窓際の席に座る司の姿が見えたからだ。でもそれだけじゃない。 司の向かいに若い女が座っていた。若い、と言っても三佳のような子供ではなく、10代後半、司と同世代の女だ。 (誰…?) 理由のわからない焦燥感が胸を締め付けた。 早足で横断歩道を渡ると、笑いながら司に話しかける女の顔が見えてきた。 腰までのびたウェーブの茶髪、白地に赤い花柄のワンピースを着ている。化粧をしているが、両肘を付いて手のひらに顔をのせて、両足をぶらぶらさせている仕草はどこか子供っぽい。左腕に十個近いリングを重ねたブレスレットを付けていた。その左腕を見て、瞠る。そしてまた顔を見て、三佳は後頭部を殴られるような衝撃に思わず声をあげた。 「ぁ───」 * * * 「そうそう、シマダなんとか。…あれ? シカダだっけ?」 司がどう返すべきか迷うより先に、女はひとりで勝手に考え込み始めたので取り繕う手間が減った。島田と聞いて一瞬は息を止めたものの、司はすでに平静を取り戻している。(さて、どうするか)と一息吐いた、そのとき。 「めぐみッ!?」 店中に響き渡った大声に、司は口を開けてしまうくらい驚いた。突然の大きな声にびっくりしたわけじゃない、彼女───三佳が、公衆の場で叫ぶなんて通常では考えられなかったからだ。 「うわぁ、薫だっ」 と、司の前に座る女が、感嘆詞をつけた割にのんびりした声で言う。それから、三佳が駆け寄ってくる足音。 三佳はテーブルの端を掴むなり言った。 「恵…? なんでここに? …どうして司と?」 「ナンパしてた」 「司っ?」 「ナンパされてた」 「何か聞いたのかっ?」 意外なほど鋭い、切羽詰まったような声。その声から必死さが伝わって、どうやら自分に聞かれたくないことをこの女は知っているのだろうと理解する。 「聞いてないよ、何も」 宥めるようにやわらかく笑ってみせると、三佳は我に返ったようで、 「───ごめん」 と小さく呟いた。 向かいの席から不満げな声が割り込む。 「薫ぅ〜。ヒサビサに会ったのにアイサツもナシってなんだ! ぷん!」 「恵…」 三佳の声は古い知人と再会した喜びや驚きよりも戸惑いを表していた。 「3年ぶりかな。おひさしぶり」 「…本当に、久しぶり───って、おい。だから、どうして司と?」 「さっき言ったじゃん。ナンパ」 「ふざけるな」 「やだ」 よくわからないが、説明するのが面倒くさいとういことだろう。 「ね、薫」 「その名前で呼ぶな」 「だってアタシ、薫の本名、知らないもん。 「私は」 「あ、本名知らなくても不自由無い。それよりこっちのヒトにアイサツしていい?」 こっちのヒト、というのはやはり自分のことだろう、司は表情をつくってみせた。 それにしても今の会話から、この2人が仲が良いのか悪いのか判断付かない。そして三佳がこの再会を望んでいたのか望んでいなかったのか、も。それが読めないことには司はどう振る舞っていいのか判らないのだが。 「恵でっす。薫の昔のどーりょー」 「七瀬司です」 「薫のカレシさんだよネ」 「おい、恵…」 三佳はらしくなく口が重い。恵と司の会話をハラハラしながら聞いているようだ。おそらく、恵が余計なことを言わないか警戒していて、けれど三佳自身も司がいるせいでうかつに喋れないのだろう。 席を外そうか? と言いかけたとき、恵が先に声を発した。 「ねぇ、ちょっと薫貸してよ」 「ちゃんと、返してくれるのなら」 「あはは。ノシ付けてね。───じゃ、行こっか、薫」 「え? あ、…うん」 「僕が出るよ?」 「あ、ううん。アタシ、外、出たいから」 そう言うと恵は席を立つ。じゃらん、とまた金属音がした。 「外、歩きながら話そう?」 ■2 三佳は空を仰いだ。 空が青い。雲は白い。7月に入り、梅雨明けが近い。もう夏だ。低湿度の心地良い暑さに確かな季節を感じて、自然と微笑んでしまう。 目的地があるのかないのか、恵はスキップしそうな足取りで歩道を歩いていった。三佳はその後を付いていく。 前を歩く恵は白いワンピースを着ている。昔はツナギばかりだったので、ずいぶん印象が変わった。それだけじゃない。三つ編みをしていた髪は解かれ、ゆるいウェーブの髪が腰まで流れている。化粧もしているし、指先の爪はきれいに整えられていた。いつも手放さずにいたナイフと熊のぬいぐるみはもう無い。それはふたつとも恵があの部屋に置いていった。恵のへらへらした笑顔は相変わらずだが、少し突けば爆発しそうな気性の危うさは今は無い。ずいぶん穏やかになったように見える。 本当に変わった。3年も経っていれば当然かもしれないけど。 「薫とこんな明るいトコロ、一緒に歩けるなんて夢みたいだね」 澄み渡る晴天のした、恵が振り返って笑う。 昔、恵と三佳がいたのは薄暗い地下施設だった。恵は4年、三佳は5年、そこにいた。一度も外に出なかった。恵の言うとおり、こんな風に青空の下を歩けるとは、あの頃のふたりには想像も付かなかっただろう。 「むぉー」 恵は両手を上げて大きくのびをした。左腕のブレスレットが二の腕まで下がる。その腕に生々しい無数の傷跡が見えて、三佳は目をそらした。恵は自傷癖があって、以前は腕が乾くことが無く、いつも不器用に絆創膏が貼られていた。今は白い腕に傷跡だけが残っている。「死にたいんじゃないよ。生きるために切るの」とかつて言われた恵の台詞は、今も理解できない。 「それ、隠さないのか。目立つだろ」 隠そうとしない恵に少しの非難を向ける。 「ん? これ? 隠してるつもりなんだけど」 十数個のリングを連ねたシルバーのブレスレットを振ってみせる。じゃらじゃらと音がした。 「まだ切ってるのか?」 「んーん。今は切らなくても平気。なんでかな。あの頃は切らなきゃ息できなかったけど、今はそんなことない」 「今までどこにいたんだ?」 「心配した?」 「…あたりまえだ」 「ナナオくんに付いてって、あっちこっち」 「誰だよ」 「国薬連のおねーちゃん」 「!」 それは予想もしてなかった、と三佳は驚く。国薬連は矢矧義経が地下に潜る前に在籍していた連盟だ。 「ナナオくん、ちょーコワいの。仕事ミスると怒鳴るし、ごはん残すと耳掴むし、床で寝てたら踏むし、門限破ったら平手。でも、矢矧の追っ手から隠してくれた」 最後のひとことで三佳は笑うのをやめた。恵が地下施設から失踪した日、三佳は矢矧に恵を追うことをやめさせたが、やはりそれを聞く矢矧ではなかったということだ。 「ねぇ。アメリカのどっかの州で安楽死が法的に認められたの、知ってる?」 今日の天気を話すときのような気軽さで、恵は言った。しかも会話の流れを完全に無視した唐突な内容。 三佳は軽く息を吐いた。恵との会話に脈絡を望んではいけないことを思い出したのだ。 「…確か、2人の医者に余命一月と診断されたら、行政から薬がもらえるというやつだな」 「そう」 ヒトの生死が問題なだけに法はもっと複雑だが簡単に説明すると、まず医師の診察を受け余命一月と診断されたとする。次に別の医師の診断を受け同じような結果が出た場合、その2枚の診断書と引き替えに行政から安楽死の薬をもらえる。医師による自殺幇助「尊厳死法」。 飲む飲まないは自由。いつ飲むかも本人の自由だ。 この法律が可決されたとき、この州は他州から反感と非難を浴びせられたという。どんなかたちであれ、安楽死などさせるものではない、ということらしい。 「アタシのオトモダチ、末期癌だった。50歳くらいのおばあちゃん。とても優しいヒト」 「…?」 「ミセス・ホリーは薬を欲しがってた」 恵は足をとめて、ゆっくり空を仰いだ。 「一枚目の診断書はすぐに書いてもらえた。それくらい、ボロボロだったから。でも2人目の医者は、ミセス・ホリーを殺す書類にサインはできないって言って診ずに帰っちゃった。そのヒトはミセス・ホリーの知り合いじゃなかったし、情が移ったわけでもない。ただ、自分のサインがヒトを死なせてしまうことが恐かっただけなの。ミセス・ホリーは苦しみながら死んだわ、“望んだ終わりじゃない”、って」 「…」 「ミセス・ホリーは穏やかに死を迎えたかったんだって。ココロ静かに神サマに祈りながら、アタシにサヨナラを言いたかったんだって。法律はミセス・ホリーのお願いを叶えてくれようとしたけど、医者のほうがそれを受け入れられなかったんだ。アタシは、ミセス・ホリーの意を汲んであげられないこと、すごく悲しくて、ばかみたいで、苦しかった。 生まれてくるのはどうしようもできないけど、死ぬことだけは自由だわ。アタシは昔からそれだけが希望だった。病気にも事故にも他人にも時間にも殺されたくない。アタシが死ぬときはアタシが決めたいの。それを望んでた。それが一番幸せなことだって、アタシ知ってたよ? ───でもそれはとてもゼイタクな願いだったみたい」 空から目を離して、次に恵は街の景色を眺める。 「あの日。ひつじを置いて『外』に出たけど、そこはすばらしい世界じゃなかったもん。あそこにいるのがイヤでイヤでしょうがなくて逃げ出したのに、そこはちっともすばらしくなんかなかった。 外へ出てみたら、毎日、ヒトが死ぬニュースばっかり! アタシ、ガクゼンとしたよ。耳を塞ぎたかった。なんて残酷な世界だろう、事故に巻き込まれたり、誰かに殺されたり。望みもしないのに死んでいく人達がいっぱいいるの。恐くてしかたなかった。───あぁ、アタシは矢矧に守られてたんだなぁ、こんな恐い世界を知らずにのほほんと生きてたんだなぁ、あのまま矢矧といたら事故や他人に殺されることはなかったんだろうなぁ、望み通りの死に方をしてたんだろうなぁ、って」 街の景色から目を外し、恵は三佳の視線を捉えた。 「ティル・ナ・ノーグ、知ってる?」 「ネバーランドだろう」 「うえぇっ!? ウソっ、ピーターパンなんて読むんだ?」 「外に出たときに、一通り読ませられたんだ」 「へぇ。びっくり。そういうジャンルはさっぱりなのかと思ってた」 ティル・ナ・ノーグ(tir nan og)とはケルト神話における楽園、遠い西の海の彼方にあるとされる常若の国。光り輝く国とされ、病も苦しみも老いも死も無く、人間たちが永遠に夢見る理想郷である。 「矢矧のトコにいたら、アタシはアタシが願う通りの死に方ができた。───でもね、そんな夢のような場所に長くはいられないんだ。いつかはティル・ナ・ノーグから外に出て、オトナになって、残酷な世界を受け入れなきゃいけないんだなって。そう、ここで生きてるヒトみんなみんな、アタシたちといっしょなの。楽園から逃げ出してきたヒトたちばかりなの。楽園の暮らしがイヤになって逃げ出して、こっちの残酷な世界で楽しく生きてるんだろうね」 「ミセス・ホリーが欲しがってたクスリ、後になってから実物を見る機会があった」 「へぇ?」 純粋な興味から三佳は先を促す。 「カプセルなんだけど、赤いの。それ」 「───」 三佳は足を止めた。否が応でも引きずり出される記憶。 間違いなく人生最大の汚点となる自ら造った薬。それも赤かった。 唇を噛んだ。どれだけ時間が経っても、その記憶は少しも薄れないし、そのやるせなさに泣かずにいられない。 どうにか堪えてゆっくり視線を上げると、恵の静かな両眼に捕まった。 「そのクスリを見たとき、薫のこと思い出した」 「……」 「ケーサツが来たっていうのは、日本に帰ってきてから聞いた」 かつて恵と三佳がいた施設はもう解体されている。それは恵が施設から失踪して1年が経った頃。そのときのことが脳裏をかすめて気が遠くなった。それを振り払おうと三佳は頭を乱暴に振った。 「ねぇ」 「…ん?」 「矢矧。死んじゃった?」 あまりにストレートな訊かれ方に三佳は苦笑する。 「生きてるよ」 「どこにいるの?」 「ドイツ」 「え? なんで?」 「矢矧は学生時代に留学してそのまま帰化してたらしい。少しの勾留期間後に強制送還された」 警察が踏み込んできたという、その前後のことを、三佳はあまり覚えてない。明るい部屋のベッドで目覚めて、屋上で司と出会った日までに何日経過していたかも判らない。矢矧の現状も、他人からの受け売りなのだ。今となっては深く知ろうとも思わなかった。 「そっか。マルとかセンセとか、もう、あそこにはいないんだ」 恵は懐かしそうに笑った。マル、というのは恵の部下だった丸山のことだろう。 「先生? だれ?」 「名前知らない。いーよ、そのうち会うかもしれないし。今日、薫と会えたみたいに」 あははは、と恵は軽いステップでくるくると回る。初夏の風に髪がなびいて気持ちよさそうだった。 「いいかげん、その呼び方やめろ。私は」 「ぶぶー。いまさら、新しい名前なんか覚えらんない。教えてくんなくていいよ」 「おまえな」 「それに、軽々しく名前を出さないほうがいいと思うよ? コレ、ちゅーこく」 「…なに?」 「芳野博士と矢矧は今でも有名人だよ。芳野博士のムスメさんの存在も有名。変な目で見られたくないでしょ?」 恵は小走りで駆け寄って、三佳の目の前にしゃがみこんだ。白いワンピースが地面をかすめても気にせず、恵は三佳の目を覗き込む。 「薫、まだ小さいもん。いいじゃん。ゆっくりおいで」 「…恵も、そこにいる?」 「いるよ。みんながね、死にたくなる前に死ななくて済むように、いろんなクスリをつくるの」 ■3 七瀬司は公園のベンチに座って点字本を読んでいた。木陰であっても初夏の気温と湿度で背中が汗ばんでくる。でもそれを不快と感じないのは乾いた風が吹いているからだ。司はときおり顔を上げて、その風を楽しんでいた。 公園の人通りはあまり多くない。けれどそろそろ正午になるので、昼休みの会社員が溢れ出すだろう。 (昼ご飯どうするか) 三佳はすぐ戻ってくるのか遅くなるのか判らない。さてどうしよう、と考えていた矢先、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。知っている足音だった。 声をかけてくるだろうと思いきや、予想に反して足音は司の前を素通りした。 「恵、さん?」 「ぐはっ! なんでわかった!?」 相変わらずふざけた物言いで恵は振り返る。 「その金属音。キーホルダー?」 「んーん、ブレス。そんだけ?」 「あと足音。スキップするように歩いているから。左右のバランスがすごく悪いし」 「あー、ひつじがいないからかなぁ」 またわけのわからないことを言う。 「このまま逃げられたら、やっぱあーげないって思ってたんだけどな。ちぇー。しゃーないか」 どうやら恵は自分自身で賭をしていたようだ。司の前を素通りできるかどうか。そういう風に自分を試されるのは不愉快だが、相手は他でもない三佳の知人だ。表情には出さないでおく。 「これ、薫にあげて。約束してたノシ代わり。たぶん、あのコは欲しがると思う」 そう言うと恵は紙幣大の紙片を司に握らせた。硬い紙、おそらくハガキか写真だろう。 あとね、と恵は低く笑う。なにか企んでいるらしい。 「薫のカレシくん、いじわるだったから、アタシからもひとつお返し」 「なに?」 「ツカサ、芳野博士に似てるよ」 「…それが、いじわるのお返しになるの?」 「さあ? 薫に訊いて。おナカ減ったから帰るね。じゃあね、さいなら」 言いたいことだけ言って、恵は駆けていった。ブレスレットの金属音が遠ざかっていった。 三佳は恵と別れたあと、歩道をとぼとぼと歩いていた。 恵と会えて嬉しかったはずなのに足取りは重い。頭のなかで恵とのやりとりを反芻していた。 実を言えば、恵が言ったことの半分は理解できてない。 そもそも根本的に考え方が違うところがあるのだ。三佳は死が自由とは思えないし、自分の意志で死にたいとも思わない。けれど。 (みんながね、死にたくなる前に死ななくて済むように) 恵と自分の食い違いの多くは、単に、捉え方の違いなのだろう。 赤ん坊を抱いた女性とすれ違う。三佳は気付かれないように目で追った。 (この世界は残酷だろうか) 仰ぐと青い空がある。風が吹いている。多くの人が楽しそうで、幸せそうに見える。目覚めた日の夕暮れは泣いてしまうくらい綺麗だった、優しい人たち、手間のかかる奴ら、少しの悲しみや憤りはあるけど、それでも残酷とは思えない、居心地の良い場所。 地下で生活していたときも我慢できないほどの不満はなかったが、それはこの世界を知らなかったからだ。 そう、なにも知らなかった。なにも解ってなかった。自分がどんな場所にいるのか、なにをしているのさえも。父の教えも忘れたまま。 父の顔は今も思い出せない。自分の記憶力が恨めしい。 せめて残してくれた言葉、教えてもらったことを忘れずにいよう。 「───…」 待ち合わせ場所だったファミレスの裏の公園で司の姿を見つけた。それだけで、言いようのない幸福感がじわりとやってくる。 三佳は気持ちを切り替えるために頭を振って、駆け出した。 「待たせてごめん」 そう言うと司は笑って手をさしのべた。それを取って、司の隣に座る。 (ああ、いつもの空気だ) 恵と再会したことで昔の息苦しさや地下の空気を思い出したけど、こうして司の隣に並ぶとそれらは遠い過去のことだと身体が納得したようで、そこには懐かしさだけが残った。 「三佳、芳野博士って誰?」 「え!? …あ、恵に訊いた?」 「うん、ついさっき、ここを通りかかったときに」 「あぁ、そう。島田芳野、私の父親だ」 「───ふぅん」 司は神妙に顔を歪めた。そこに不穏なものを嗅ぎ取って三佳は慌てる。 「え、恵、なにか言ってた?」 「いや、別に」 「…なら、いいけど」 「あと、あの子の左腕に刺青あった?」 「は? …え? 刺青!?」 「ないよね」 やっぱりね、と頷いてから、司は恵に視力を見抜かれた経緯を説明した。 「入れ墨がなんとかって言ってたけど、要はそれと並ぶくらい派手な特徴に僕が反応しなかったからってことだろ?」 「……」 三佳は言葉に詰まった。恵の左腕にある特徴、それは入れ墨でもブレスレットでもなく───。 司の「眼」になるときは嘘を吐かない。三佳は自分にそれだけは厳しく律していた。一度でも嘘の景色を言って、それを見抜かれてしまったら、司は二度と三佳の言葉を信用しないだろう。信用される眼であるために、どうしても嘘は言えない。 けれど本当のことも、今は口にできそうにない。 言葉に詰まって長い沈黙をつくってしまっても、司は何も言わずに待っていてくれた。 「あの」 「ん?」 「…嘘吐く」 「うん、じゃあ、騙されるよ」 と事も無げに笑う。三佳は泣きたくなった。 (甘えてるんだ、私は) 司は三佳の事情をなにも知らない。訊かないでいてくれて、聞かない振りをしてくれる。それなのに調子のいいときだけ慰めてもらおうなんて、虫が良すぎる話だ。でもそれでも三佳は、「恵の左腕には凄惨なリストカットの痕があって、司がそれに目を止めなかったからだ」とは言えなかった。 「…派手なブレスレットを付けてたから。それのせいだと思う」 「そっか。そういえばそんな音がしてた」 と、頷いて、宣言通り司は騙されてくれた。 「もうひとつ、これ」 司は三佳のほうへ紙片を差し出す。 「…なに?」 「三佳に渡せって」 それは古い写真だった。 (そうそう、写真があったんだよ。芳野博士と矢矧さんと、それに恵と薫が写ってたはずだ) 見たい、と三佳は言った。 (その写真は恵に譲ったんだ) そう言って謝った人は、今はもうこの世にいない。 けれど写真は巡り巡って、今、三佳の下へ。 写真を見て叫びそうになった。 それには思い出せずにいた父が写っていた。幼い三佳を抱き上げて、穏やかに笑っている。 (おとうさん…!) 父の隣には不敵に笑う矢矧、そして熊のぬいぐるみを抱く恵。 この写真を撮ったときのことなんて覚えてない。けれどこれは父と三佳、矢矧と恵、4人が揃って顔を合わせていた時期があったという確かな証拠だ。今はバラバラになってしまった4人にそんな時代があったと思うと途端に感傷が押し寄せる。憶えていないことが悔しかった。現在の生活を棄てられはしないけど、二度と戻れない時間があると思い知らされて胸が痛くなった。 「三佳…?」 「ごめん。5分、待ってて」 泣くな、と自分自身に命じても、語尾が震えてしまった。司は気づいただろう。それでも何も言わずに、隣にいてくれた。 あの頃───なにも知らないでいた時間を楽園と呼ぶなら、それはなんて虚しい楽園だろう。恵の言う通り誰もが楽園からの脱走者なら、それは誰もが世界を知りたがった結果だ。楽園での幸せな生活を棄ててまで。 今なら、恵が地下施設から失踪した理由が解る。 三佳も、恵より先にこの写真を手にしていたら、きっと同じことをした。外に出たいと言って矢矧を困惑させたに違いない。 写真は、抜けるような青空の下で撮られていた。 |
薬姫-extra. ティル・ナ・ノーグ 了 |