06. eyeball-BLUE


 マーサは一年中、ノエルについて行動している。マーサの仕事がノエルの秘書だからだ。雇い主の気性にかなり難はあるが、仕事に遣り甲斐もあるしなにより金がいい。ただ、プライベートはほとんど無い。
 ハルが同行するようになってからは、仕事以外でのノエルの面倒を押し付けることができたのでその不満は少し軽減された。そしてその不満をさらに軽減するために、マーサは大抵、ノエルと別のホテルに泊まる。毎日、送り迎えする必要があるが、手のかかる雇い主から離れられる貴重な時間を得る代償と思えば些細な手間だ。
 その日の朝、マーサがノエルの泊まるホテルに迎えにいくと、
「ハルのばか!」
 雇い主がなにやら怒鳴っていた。
 整えたであろうはずの薄茶の長い髪を乱し、大きな青い目を怒りに震わせている。一方、黒髪黒眼の男は部屋のすみでいつもと変わらない仏頂面をマーサの雇い主に向けていた。
 ノエルとハルは同じ部屋に泊まっている。同じ部屋と言っても、長期滞在用のホテル(それなりに格はある)で、手狭だが2K、寝室は別。
「ハルはいっっっつも、そう! あたしのことなんて見てないんだ」
 この2人の喧嘩は珍しくない。ときどきはある。ちなみにマーサはノエルと喧嘩になどならない。マーサが相手にしないからだ。
 ノエルとハルの喧嘩の原因は(知りたくもないがノエルが勝手に愚痴る)生活習慣の違いから些細な言葉の角まで。驚いたことにカップルの喧嘩の要因としてはごく普通。だけどやっぱりマーサの理解の範疇を超える意味不明な原因や、どうしてそれで喧嘩になるのかと問いたいようなしょうもない原因もあって、マーサを悩ませた。けれど、それこそ2人の問題だ。放っておくに限る。
 ノエルの一方的な癇癪かと思えばそうでもなく、ハルが意地を張って譲らないこともある。あのノエルと対等に喧嘩をするなど、ハルも子供である証拠だ。そう、2人とも頭でっかちの子供。
 数年前にノエルが拾ってきたハルは、礼儀知らずで根性ワルで減らず口で、始末が悪いことに口は巧いは頭は切れるはで言葉も態度も嫌みったらしいことこの上ない男だが───ノエルにだけは別だ。そしてノエルも(これもマーサは理解に苦しむのだが)ハルのことを気に入っているらしく、連れて歩き、手放す気はないらしい。かなり無理して私情を抜いて客観的に見れば、お似合いのカップル。まぁ、たまの喧嘩も人間なのだから健全だと言えるのではないか。
 もちろん、仕事との割り切は大前提。
「はい、そこまで」
 声をかけると、ノエルは驚いた顔を向け、ハルは気まずそうに顔を逸らした。マーサの存在に気づいていなかったらしい。
「続きは夜にして? もう出る時間よ」
「マーサ」
「早く支度してください」
「…」
 言い訳を許さない強い響きを持った声に、ノエルはこぶしを握って視線を落とした。
「どうせハルなんか」
 抑えるような声。
「ハルなんか、あたしの目から眼球が転がり落ちたら、眼球のほうについていくくせに!」
「───」
 ハルは言葉を失った。仏頂面は変わらずだがあきらかにノエルの発言に動揺した。
 マーサだけが意味が解らず、その発言の有効性に戸惑う。というより呆れる。
(なんで眼球っ?)
 ノエルのほうを見ると、ハルの反応に怒りで声も出ないといった様子。でも声にする。
「あっ、反論しないっ。そうなんだ? やっぱりそぉーなんだっ? もぉいーよっ! いこっ、マーサ。ハルなんかどっかいっちゃえ!」
 本人は真剣なのだろうが実年齢にそぐわない子供のような捨て台詞でノエルは部屋を飛び出した。ノエルにしては機敏な動作に、マーサは遅れを取る。すぐに追おうとしたが思い直して、未だ、眼球発言にショックを受けている様子のハルに言葉を残す。
「いつもの癇癪よ。あの娘のは病気だって知ってるでしょ? 本気にして、いなくならないでね」
「気味悪ぃな。慰めかよ」
「ずいぶんカワイイこと言うじゃない。もしかして落ち込んでるの?」
「うるせぇ」
「あんたがいなくなったら、誰があの娘の面倒見るのよ!」
 マーサにとっては切実な問題だ。




 ご大層な捨て台詞で男の前から去ったはずの女は車の中でぐちぐち言い通しだった。
「ハルのばかー。ぶあいそうー。めがねー。たらしー」
 相変わらずの語彙が貧困な物言いに、マーサは雇い主の選択を改めて後悔していたが、最後の言葉に思わず噴出した。
「ノエル、あまり変な言葉を覚えてこないで。私がホーキンズさんに叱られます」
「マーサから伝染したんだよ!」
 八つ当たりもいいとこ。
「ハルは、あたしのことなんてどうでもいいんだ。あたしの眼のほうが大事なんだ」
「いや、あのね、だからなんで眼球?」
「ハルは眼が悪いの!」
 マーサは眉根を寄せた。もちろん、訳が解らないから。
 ハルは眼鏡を掛けている。視力が弱いからだろう。それを言うならマーサだって眼鏡だ。
 眼が悪いから、ノエルよりノエルの眼のほうが大事? 訳が解らない。マーサは今まで何度も諦めてきた。ノエルとの意思疎通に。そして今回も諦めることにする。そういう付き合い方はノエルにストレスが溜まる。そのために、ハルがいるのに。
「ハルは、あたしのこと好きじゃないんだ」
 未練がましくうだうだと愚痴るノエルにマーサは溜息を吐いた。
「それでも男に貢ぐために働きにでる、と」
「貢いでないもん!」
 何故か不服そうに言う。
「ハルはあたしに、貢がせようとも思ってくれないんだ」
 それは卑屈になりすぎだ。
 たしかに、ハルはなにかをねだったりしない。無駄遣いもしない。必要最低限の経費だけを渡しているがそれで充分なようだ。金銭目的でノエルの側にいるわけではないことは判る。
「たまにはハルに稼いでこさせてはどうですか」
「それはだめっ」
「なんで」
「ハルは仕事しようと思えばなんでもできちゃうもん」
「だから、それで」
「そうしたらあたしについてきてくれないかもしれない。その場にいついて、きっともう一緒に来てくれない」
 ノエルにとって幸いなことに、ハルは仕事をしたいとは言い出さない。たまに、ノエルの仕事を手伝っていることはあるが、それ以外はほとんど街をぶらついているだけらしい。なにを目的にノエルについてくるかはわからない、マーサにとっては不審な男でしかない。
「どうでもいいけど、ハルを捨てるときは前もって言ってくださいね」
「捨てないよ」
 その声は強く響いた。
「捨てないもん…」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。
 マーサは運転しながら、それを冷めた思いで聞いていた。
 ノエルの男性観になど興味はない。
 ただ、暴力をふるわれても男を捨てられないような馬鹿な女にはなって欲しくないとは思う。ハルは手を上げない。例えの話である。




*  *  *




「ノエル…」
 マーサの渋い声が響く。
「仮にも社会人なんだから、プライベートの不満を仕事中に顔に出すのはやめてください。先方も困っていたでしょう?」
 仕事が早く終わって、もう帰るところだ。早く終わったのは順調だったわけではなく、ノエルの調子が悪くて仕事にならなかったからだ。
「聞いてるの?」
 ノエルは無視していた。
 車窓から見える空はいい天気だった。澄んだ空は透きとおるようで、やわらかい風が髪を撫でてくれる。
 こんな日はこの世界が神様に愛されていることを感じずにはいられない。
(……ハル)
 とたんに胸騒ぎがした。
 空。きっとハルも、今頃、空を見上げている。とても辛そうな顔をして。
 ノエルを見て、その顔が安堵にゆるむのを何度も見てきた。
(ハルに会わなきゃ)
(あたしを見てもらわなきゃ)
「早く帰ろ! ホテルまであとどれくらい?」
「ノエル〜、ちゃんと聞いてください。明日こそ」
「わかったから! 早く!」
 もしかしたら偶然ハルが歩いてるかもしれない。そう思ってノエルは窓の外を見張りながら逸る気持ちを抑えていた。
 ハルの眼が普通じゃないことは知ってる。それが彼を悲しませていることもノエルは知っている(ノエルにとってはどうでもいいことだが、ハルが運転免許を取れない理由も同じだ)。
 悲しいのに、それでもハルは空を見る。ノエルはそれがすごく嫌だった。
 気づくと、車は公園の横を通り過ぎていた。ホテルはすぐそこだ。
「───マーサ、停めて!」


 ハルは公園のベンチに座っていた。木陰もひさしも無いその場所で、晴れ渡った空を見上げていた。目が焼けてしまうことも構わずに、きっと、長い時間。
「ハルっ」
 抱きつきたかったけど、それはせず、ノエルはハルの膝に乗りあがる勢いで、ハルの目を覗き込んだ。
 突然視界を狭くした顔を見て、ハルは目を見開く。ノエルの瞳を(その色を、ということをノエルは知ってる)見て、ふわりと笑った。
「ノエル」
「…」
 その笑顔に見惚れている場合じゃない。ノエルは軽く首を振って、視線を逃がすまいとまたハルの目を捕まえた。
「イヤなのに、…どうして見上げるの?」
「イヤじゃないよ」
 目と目を突き合わせたままの問答。
「うそっ、いつもイヤそうな顔してる」
「そうかな」
「どうして?」
「さぁ。どうしてだろう」
「なにかあるの?」
「とりあえず、なにも無いみたいだな」
 声が潰れるくらい、ハルは仰ぐ。空には、空しかない。
 眼鏡ごしに空を見る瞳はとても遠くを見ている。空なんかよりずっと遠く。
「…ハルのばか」
 朝の繰り返しだ。
 そこにはなにも無いと言いながら、ハルはそこになにかを見ようとしている。まるでとても大事なものが、そこにあって欲しいと願うように。
(なにを見たいの?)
 ノエルはそれがイヤなのに。
「ハルが言いたくないことは言わなくてもいいよ、でもね、あたしといるときは知らない遠くを見ないで、青い空なんか見上げないで、あたしのほうを見てよっ!!」
 ノエルの怒鳴り声が響き、ハルのびっくりしたような顔が向けられる。その顔が失望に歪むのが怖くて、それを見たわけではないのにノエルは視線を落とした。
「…ごめんなさい」
「ノエル」
「嫌いにならないで」
「ならないよ」
 ハルの手が伸びて抱き寄せてくれた。ノエルもハルの首に両腕を回し、黒髪に指を絡める。
「どこにも行かないで」
「行かない」
 無表情で無感動な声が耳元から聞こえる。ノエルは腕に力を込めた。
(どうしよう、嬉しい)
 ノエルはいつもこの感動について考える。
 抱き合うという行為はすごい。それだけで泣いてしまう。なにもかも許されたような気持ちになって。
「もしノエルの目から眼球が転げ落ちたら」
「うん?」
「俺の眼をやるよ」
「…ハルの眼?」
「壊れてるのは俺の頭のほう、眼球はたぶん平気」
 だから心配しなくていい、という口調が癇に障って、
「いらない」
 ぷぃ、とそっぽを向く。
「それは残念」
 ハルは声に笑みを乗せる。
「…眼球が転げ落ちたら」
「うん?」
「拾いに行くから、手を引いてね」
「いいよ」
 離れて、手をつなぎ、隣りに座る。
 公園には多くの人がいて、大きな空の下を行きかう。ハルはもう空を見ていなかった。公園の景色を見ていた。
「こうやって手をつないでね」
「あぁ」
「仕事もしないとマーサが怒るから、そのときは手伝ってね」
「わかった」
「眼を落としちゃった、なんて言ったらホーキンズが怒るから、一緒に叱られてね」
「…嫌だな」
「あ、ずるい」
 ノエルが上体を起こして隣りを見ると、ハルと目が合った。
 ちゃんと、見てくれていた。