07. Martha


 最初に白髪の紳士が言った。
「主人はあなたを受け入れるでしょう。そして主人からあなたを切ることはおそらくありません」
 まるで脅されているよう。低い声、威圧的な物言い。
 契約を交わした直後にそんな言い方をするなんてマナー違反ではないか。
 “主人からあなたを切ることはない”? 何故。
「ですから、主人に対する忠誠心が維持できないと思ったら、あなたから言ってください。できるだけ早く。いいですね。───ではこちらへ。主人がお待ちです」
 そして大きな扉が開かれる。



 忠誠心(ロイヤルティ)
 そんなものは、初めて会ったときから無かった。






「マーサ、とめてっ!」
 リアシートから首を絞められるように腕を回されマーサはうめき声をあげた。
 車は急停止。その勢いでノエルはヘッドレストに鼻をぶつけたようで短い悲鳴が聞こえてきた。文句を言われる筋合いはない。自業自得だ。しかし、次に悲鳴をあげることになったのはマーサのほうだった。
「ノエル! 飛び出さないで!」
 停止した車のドアを開けてノエルは走り出し車道を横切る。
 運良く車と接触せずに済んだノエルは、そんな幸運に気を止めることも、マーサの悲鳴に耳を傾けることもなく、深緑の公園のほうへ走っていく。
 残されたマーサは震える息を吐いて座席に背中を預けた。
「なんなの…」
 寿命が縮むかと思った。本当に勘弁して欲しい。
 ノエルの行動の意味はすぐに解った。
 公園のベンチにはハルがいた。ノエルはめざとくその姿を見つけ、マーサに車を止めさせたのだ。ノエルとハルはいくつか言葉を交わしたあと、見つめ合い、抱き合う。
(…やれやれ)
 馬鹿馬鹿しくて溜め息がでる。
(どうせ別れたりしないんだから、ケンカなんかしないで欲しいわ)
(その日は仕事にならないんだから)
 今朝、マーサが迎えに行くと2人はなにやら言い合いをしていた(と言っても、うるさく言っていたのはノエルだけだったけど)。ともかくそのケンカのせいで今日のノエルは絶不調。仕事にならず、結局、早く上がるはめになった。
 客先は苦笑しつつ許容してくれていたが、内心までは判らない。マーサはノエルの優秀性を認めるし、仕事をくれる客たちも認めているだろう。でも、いくら実力主義のビジネスの世界の中でも、どこまで我が侭が許されるかは判らないのだから。
(明日はしっかりやってもらわなきゃ)
 マーサは車を走らせて自分のホテルへ向かった。せっかく貴重な時間ができたのだから、無駄にする手はない。エステにでも行ってくるとしよう。







 まだハルがいないときは本当に大変だった。
 すれ違い、摩擦、ノエルをうまく扱えない(、、、、)ストレス。あの頃は日常的に疲労が体を支配していた。
 四六時中、ノエルと2人きりだ。今では考えられない。
 危なっかしくて一人でホテルに預けるわけにはいかなかった。だからと言って同じ部屋に泊まるのは勘弁して欲しい、そこまで面倒見られない。妥協案として、同じホテルの隣りの部屋で生活していた。それがぎりぎりだった。
 ノエルは朝起きられない。叩き起こして食事させるだけでも一苦労。夜、いなくなったと思って捜せばベランダで受信機(アンテナ)を構えてコンソールを楽しそうにいじっていた。遠い国に来て、遠い国の電波を拾おうなど笑わせてくれる(遠距離の短波を聞くには夜のほうが適しているのだ)。おまけに風邪をひいていた。
 外に出れば、物珍しそうにふらふら出歩いて、メモを持たせなければホテルの名前も覚えられない、ひとりではバスにも乗れない。
 馬鹿なのだ。
 一度、誘拐されかかったことがあった。人懐っこくて対人危険回避能力はゼロ、何事も無かったから良かったものの、流石にマーサはキレた。
 ホテルから出ない。他人についていかない。むやみに話しかけない。外では名乗らない。
 うるさく言い続けて監視するような生活がしばらく続いたある日、ノエルは泣き出した。
「もぉヤだ。こんな生活ヤだ。おうちに帰る」
 マーサだってこんな娘の相手は「ヤだ」。
 子供の付き添いをやってるわけじゃないんだ。
「えぇ、じゃあ帰りましょうか。ノエルが仕事を辞めると言うなら、残りの事務処理の後、私も辞めさせていただきます。ホーキンズさんにもそう連絡しましょう?」
「ヤだよぉおぉ」
 場所も人目も気にせずボロボロ泣くことに抵抗が無い。周囲の事情を察することもせず、自分の要求を口にする。───この甘ったれが。
 マーサは真剣に考える。新しい仕事を探したほうがいいかもしれない。ホーキンズ氏に連絡しようと何度電話を取ったことか。
「だって、あたしがお金をもらえるのはコレしかないんだよ?」
 よく解ってるじゃないか。それについては反論の余地がない。この娘に別のことができるとは思えない。
「お金をもらえなきゃ、あたしはあの家を守れない」
 そのとおり、守りたいもののために仕事を続けるのも、また、辞めるのも、ノエルの自由だ。
 勝手にすればいい。
「マーサ、あたしのこと嫌いなのっ?」
 嫌いです。そう言ってやりたいのを何度抑えただろう。
 鬱積したストレスはマーサがノエルに気を遣う余裕も失わせる。それがさらにノエルの機嫌を悪くする。まさに悪循環の泥沼状態。

 本当に、あの頃はどうなるかと思った。

 そんなときに、ノエルがハルを拾ってきた。
 これはかなり良い拾い物だったと、今でも思う。
 仕事以外でのノエルの面倒を押しつけられるし、なによりノエルのお気に入りで、彼女の精神面も安定している。基本的に他人を疑ってかかるハルの性格はノエルと行動させるにはちょうど良い。憎たらしさでお釣りがくるけど、それくらいの負債なら充分許容範囲。えぇ、本当にむかつく男だけど。
 かくしてマーサは多くのプライベートタイムを手に入れ、ノエルは存分に甘えられる男を手に入れたというわけだ。気持ち悪い。







 次の日、ハルとのケンカが収まって上機嫌のノエルは約束(?)通り無事仕事を終わらせた。ちゃんとできるなら最初からやってくれと言いたい。
 マーサはさっさとノエルを連れて帰り、ハルに押しつけて、ひとりで飲みにきていた。
 新しい街に入ってまず最初にすることはお洒落で落ち着きのあるバーを見つけることだ(バーといっても国によって赴きは違うけど)。
 一日の疲れを翌日に持ち越さずその日のうちにリセットさせることは本当に重要なこと。そのためには心身共に休める場所と時間が必要で、マーサはどこに行ってもそれを実行してきたし、もちろんこの街も例外ではなかった。
(はー。生き返るわ)
 控えめな照明の中に浮かび上がる鮮やかなカクテルの色。流れている音楽は場所によって大きく違うけれど、それでも頭を休めてくれる。至福の時。
(これが至福なんて、私も安上がりになったものだわ)
 苦笑が込み上げる。
 若い頃は仕事が終わったら派手に遊び回っていたものだが年をとったということだろうか。今は身の丈にあった休暇が心地よい。
「やぁ、こんばんは。ハクスリー女史」
 すぐそばから声を掛けられた。顔を上げると、立っていたのは笑顔の男。私服なので一瞬判らなかったが、ここ一週間、毎日顔を合わせていた、客先のチームの1人だ。
「打ち上げですか?」
「…独り酒なんて、イヤなところを見られてしまいましたわ」
「ご一緒してもいいなら、独りじゃありませんよ」
 なに言ってんだこいつ。
 とは、もちろん口にしない。
 仕事は今日で終わった。ここで気まずくなっても後腐れは無い。もしかしたら次の仕事につながるかもしれないし、業界の面白い話が聞けるかもしれないし。
 マーサは営業用の笑顔を作る。
「そうしてくださると嬉しいわ」
 言っておくけど、マーサはその夜限りの男漁りなんてしない。恋人は多いけど相手は選ぶ。飲みの席で男に勘違いさせる隙を見せるほど若くはない。どうせ喋らせるなら情報を吸い上げてやる。
 カウンター席の隣りを進め、男のオーダーの後、マーサも一杯頼んだ。そして乾杯の後。
「今日のエヴァンズ嬢は昨日と打って変わって絶好調でしたね」
「耳が痛いわ。昨日はご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」
「いえいえ。ハクスリー女史が謝ることではありませんよ。うちのほうも皆、気にしていません。あれだけの天才肌を間近で見られるだけでも貴重な体験ですからね」
(……)
 いい気はしない。けど、解ってはいる。仕方のないことだ。
 ノエルは外と中ひっくるめてああいう娘だから、現場では物珍しがられている節がある。肝心の仕事の能力も解ってもらえているはずだけど。
「そうそう、エヴァンズ嬢の噂はいろいろと聞いてましたが、噂以上ですね」
「どんな噂かしら。ぜひ伺いたいわ」
「そうですか? マネージャーである女史を前にしてなんですけどね〜ぇ」
(あ。こいつ酔ってる)
 まだ一杯も飲んでない。おそらく、ここに来る前にどこかで飲んでいたのだろう(あちらも打ち上げだったか)。まぁ、そのほうが口が軽くていいけれど。
「こんな席ですもの。仕事のことは忘れて、忌憚無くどうぞ」
「そうですね。仕事中のエヴァンズはおもちゃを手に入れた子供のようだ、っていうのはよく聞きますね。ま、職人ってのはそうじゃなきゃ困る。実際、彼女いいですよ、熱心だし、話術はイマイチだけど、確かに頭の回路は速い。…たまに速すぎて付いていけなくなることもありますけどね」
「ご謙遜を」
「でも有名なのはそれだけじゃないでしょう? この業界の現場はまだ男のほうが圧倒的に多い。その中であんな少女みたいなのが入ってこられたら注目はされるでしょう。可愛がられるでしょうし、ちょっとしたアイドルだ」
「まぁ、それは確かに」
 こういう生の声が聞けるのは本当に貴重だ。悪い噂ほど本人には届かない。この男が酔っていたことには感謝しなければならない。
「少女みたいって言っても、彼女、20台半ばでしょ? あの外見は得してますよ。10代の天才少年少女がいるプロジェクトチームもありますけど、そういう子は結構大人びてます。エヴァンズ嬢は中身がアレですからね。いや、失礼、彼女の業績は認めますよ。でも父親の七光りもあるんじゃないかなぁ」
「それもあるかもしれませんわね」
 馬鹿馬鹿しい、七光りで飯が食えるエンジニアがどこにいるというのか。けれど少なからず、ノエルに父親の名がついて回っていることは事実だろう。
「エヴァンズ嬢が連れて歩いている男がいるというのは本当ですか?」
「……」
 下世話な話になってきた。マーサは席を立ちたくなる。
 噂になってるのは知っていた。でも面と向かって訊いてきた人間は初めてだ。
「それも、噂になってます?」
「えぇ、まあ。一部でね」
「同行者に男性がいるのは事実です」
「へぇ。やっぱりエヴァンズ嬢とデキてたり?」
「ご冗談を。ただのナニー(manny)です」
「ははは。さすがのハクスリー女史もベビーシッターはできないというわけですか」
「ええ。ご遠慮願いたいですわ」
「でも、噂じゃエヴァンズ嬢はそのナニーにべったりって話じゃないですか」
「はぁ、まぁ」
「聞いてますよ、しかも若い男。ツバメやらせるにはおあつらえ向きだな」
「……」
「エヴァンズ嬢もかわいい顔してよくやる…」

 ぱしゃ

 男が黙るのを見届けて、マーサは美しく微笑む。
「すみません、手が滑りました」
 モスコー・ミュールを頭からかぶって目を丸くし言葉を失くしている男にハンカチを差し出して席を立つ。
 カウンターに多めの紙幣を置いて、店を後にした。



 外に出ると辺りの街並みはまだ明るかった。にぎやかな街はまだ眠りそうにない。これならホテルまで歩いて帰っても危険はなさそうだ。
 マーサは体をほぐすように大きく伸びをする。
 冷たい夜風が心地よい。深呼吸すると胸が軽くなった。
「やだ、最悪。あのハンカチ、ジバンシィのお気に入りなのに」
(まぁいいか)
 来週の仕事先にはマーサの恋人がいる。たまにはねだってみるのもいいかもしれない。







※manny=nanny(乳母)に対して男性の保育係のこと