08.


「セックス、したいな」

 そのとき、ハルはベッドの上で本を読んでいた。
 いつものようにそれを邪魔しにきたノエルはベッドの脇に腰を下ろして両腕をシーツの上に投げ出し、ハルの肩をとんとんと叩いて、まるで「おなかすいた」とでも言うような調子でそれを言った。ハルはいつものようにそれを無視したようで、特に反応を示さなかった。
 ただ、ページをめくる指が止まったことを除いて。
「ハル?」
 返事が無いことに気を悪くしたノエルがハルの顔を覗き込む。とくに色の無い、いつもどおりの表情。
「…………誰と?」
 やっぱり本から目を離さないハルから声だけが返る。それでも満足したのか、ノエルは指名された生徒のように背筋を伸ばし、大きくゆったりと片手を上げた。
「ハルとー」
 ノエルの呑気な声にハルは抑えた息を吐く。頭痛を堪えるように額に指を当てながら。その長い長い呼吸の間に彼の思考がどう働いたのか、それは誰にも判らない。
 ハルは読んでいた本を閉じて傍に置き、腰の位置を改めるとノエルの意図を訊いた。
「子供が欲しいのか?」
 行為の結果だけを考えればそういうことになる。
「ん〜」
 ノエルは軽く首をかしげてから、
「将来的には欲しいけど、今すぐってわけでもないよ」
 と頓着なく笑った。
「ノエルは処女じゃないだろ」
「あ、そういうの気にする?」
「そうじゃなくて」
 ハルはあくまで淡々と答える。
「経験として既に知っていて、必要(子供を作る為)でもないなら、する意味はあまりないだろ。特に女はさ」
「それが聞いてよ、エルヴィーネがね!?」
「…エルヴィーネ?」
 ノエルと同年代の口煩い女の顔が思い浮かぶ。確か、マーサの友人だったはずだ。
「この間、一緒にランチしたとき訊かれたの。ハルとどーなのって。あたしはハルのこと好きだし、ハルだってあたしのこと好きでしょ? それで一緒に暮らしてるのにセックスレスはおかしいって。もー、エルヴィーネってばうるさいの、ハルに言ってみろとか、絶対浮気してるとか、あ、あたしはそんなの疑ってないよ?」
「気にする必要ないだろ、からかってるだけだ。それにあいつは──」
「そう言うエルヴィーネはナンパしては自宅に連れ込んでるとか、信じらんないそんなの自慢になんないし! そりゃ、美人でかっこいいから、モテるのはわかるけど」
「…ノエル、エルヴィーネと会うときはマーサもいるときにしろ」
「なんで?」
「いいから」
「…? はーい」
 首をかしげながらもYESを口にするノエル。ハルは疲れたように大きなため息を吐いた。
 すると、突然ノエルは立ち上がり、「えいっ」と、ハルの肩を押し倒す。不意打ちを受けてハルは腰かけていたベッドに転がった。
「……おい」
 不機嫌な声で天井を見上げるハル。その視線を奪うようにノエルは上から覗き込み、さらにハルの肩と腕をベッドに押しつける。
「どけ」
「やだ」
 ノエルは楽しそうにハルの体に馬乗りになる。長い髪がハルの顔の上にも流れた。それを透いてあげながら、
「“本当にハルのこと好きなの?” って。疑われたのが悔しかった」
「………」
 黙ったままのハルからそっと眼鏡を取り上げてその瞳を覗きこむ。ハルも、まっすぐに視線を返してくれた。
「だめ?」
「この家では嫌だ」
 今、2人が滞在しているのはいつものように出張先のホテルではない。現在は休暇中であり、ノエルの生家に戻ってきていた。家の中は2人きりではない。
「…ちぇー」
 むくれてすねるように、でもくすぐったそうにノエルは笑う。ハルを捕えていた腕を解いて、ベッドの上、ハルの横に寝転んだ。
「あ、ふかふかー。今晩、ここで寝てもいい?」
「ホーキンズに怒られるぞ」
「だいじょうぶ、夜中に忍び込むから!」
 2人はそのまま並んで眠ってしまった。夕食の支度ができたと、ホーキンズが呼びにくるまで。







*   *   *


 マーサは南の島のビーチにいた。
 この休暇のためにジムとエステを欠かさなかったのだ。その甲斐あって、新調した水着とそれに合わせたパーカー、サンダルやアクセサリー、己の身体も含めてその仕上がりには大満足だった。久しぶりの長期休暇、何よりお荷物な2人もいない。羽を伸ばす、とはよく言ったものだ。本当に体が軽くなったような気分でマーサはバカンスを満喫していた。──しかし。
 マーサは桟橋の上で携帯電話に耳を傾け、うんざりとしていた。心地よい海風が髪をさらい、青い空白い雲、この世の楽園かというほどの素晴らしい景色が広がり、聴覚にさえ穏やかに騒ぐ潮の音が満ちていくのに。その空間にあってマーサの周辺だけが曇っているよう、その表情は剣呑としていた。
 遠慮なく気持ちを表す、この場にあってそれを許したのは、マーサは今サングラスを掛けていて、愛想を振りまかなければならない他人が傍にいないからだ。連れ合いはクルーザーの準備をしている。電話を聞かれる距離ではないのでマーサは憚ることなく声にも気持ちを乗せた。

「──で?」

 あぁ、煙草が無いのが辛い。電話の向こうの相手の指先には当たり前のようにそれがあるのだろうと考えると、余計に苛立ちがつのる。電話の向こうからの声はいつも通りの不機嫌さを含んでいた。
「マーサだって、あの女の性癖と嗜好は知ってるだろ。金輪際、ノエルに近づけるな」
 休暇中にわざわざ電話をかけてきたハルは、どう考えても理不尽なことを言う。さもマーサが悪いとでも言うように。
「本当に手を出したら文句を言うくせに、妙なこと吹き込ませるな」
「──…」
 マーサは口にするのも億劫な気持ちを心の中だけで叫んだ。

(ばっかじゃないの!??)

 電話を受けて、最初は話の方向性が判らず混乱していたマーサだが、話の筋が見えてから余計に混乱した。
 本当に。おおよそハルらしくない、程度の低い内容だ。
 こんな馬鹿な男だっただろうか。
(この子らって20代半ばだよね? 一応、恋人同士だよね? ホテルで同じ部屋取ってるよね?)
 マーサにとって子守りをしなければいけない対象はノエル一人だったはずだが、いつのまに二人に増えたのだろう。
「…ハル」
 本当に勘弁して欲しい。マーサは反論を開始した。
「まず、あんたから私の交友関係に口出しされる筋合いは無いわ。エルヴィーネがノエルに手を出そうが、あんたがそれを阻止しようが、私には関係無い、どうぞご自由に。──大体、女同士なんだから、なにか(性行為)あったってなにも(子供)できゃしないわよ、心配ないじゃない? 大丈夫、エルヴィーネは病院通ってるから、伝染されるような病気は無いわ」
「そういう問題じゃないだろ」
「どういう問題なのよ? なにを心配してるの? 先に手を出されること? それはハルの甲斐性の問題でしょ」
「そうじゃない」
「あのね? 私は仕事上、あの子の子守りはするけど保護者じゃないの。あんたが手を出したって文句なんか言わないわ、勝手にセックスでもなんでもやってなさいよ。むしろ、まだ何もしてないってことのほうがびっくりだわ」
 この場合、プラトニック(爆笑)という単語があてはまるのだろうか。いやそれ以前に、お互い恋愛感情があるのかも怪しくなってきた。そこまで立ち返らなければいけないとは、この二人を知る人間には驚愕モノだろう。
「あんたの事情は心底どうでもいいけど、せいぜい浮気されないように気をつけなさい」
 ハルの心配などしていない。もしノエルに浮気されようものなら、ざまぁみろと言ってやる。ただ面倒なのは、ノエルの新しい男(女?)の素性調査が必要になること。そういう意味ではハルとくっついてくれたほうが世話が無いのは確かだ。
 ハルにとってノエルが「女」じゃないならそれはそれでいい。楽しい家族ごっこを破綻するまで続けていればいいだけだ。
 ただ、それでノエルが納得するだろうか。
(どっちかっていうと逆に見えるんだけどなぁ)
 マーサは空を仰ぐ。
 ノエルは“家族”が欲しい。一方、ハルは“家族”という枠組みには否定的だ。(少なくとも、言葉ではそう言っている)それでもノエルの傍にいることがハルの意志なら、ハルは一体どんな関係を望んでいるのだろう。
(…あぁ、やめやめ)
 頭を振って思考を中断させる。
 せっかくの休暇中なのに、この二人のことで頭を悩ませたくない。さっさと電話を切ろうとしたが、まだ言い足りなかったので繋がっている電話に意識を戻した。
「ああでも、子供ができたら100%あんたのせいだから。社会的責任を取るのは当たり前だけど、仕事への影響もちゃんと考えてよ? 子供を作りたいなら、せめて1年前には相談してちょうだい。安定期に入ってから妊娠報告なんてことしたら、殴るだけじゃ済まさないから」
 ただでさえ不安定な仕事、急なキャンセルは深刻な信用問題に直結する。違約金で済めばまだマシだ。ハルの頭もそこそこ使えるけれど、ノエルの代わりにはならないのだから。
「大体、男女平等って言ったって、生理休暇を取るにも嫌な顔されるのに、妊婦なんか現場では煙たがられるだけなんだから。所詮、機能が違う別の生物なのよ、男に女のことなんて解らないの。なのに、同種のはずの女どもは嫉妬とやっかみ、こっちは身重で孤軍奮闘。体調が悪くったって弱みを見せたら最後、仕事と客を取られる始末。産後の復帰だって前と同じ待遇ってわけにはいかないわ。両立に苦労しても、半端者って先入観で厄介者扱いなんだから。あんたもそのへん考えて──…って、もしもし? 聞いてる?」
 気がつけば自分ばかり喋っていた。ハルに相槌など期待しないが無視されるのは癪だ。
(…?)
 しかしすぐに少しの違和感を感じた。
 あの男は電話口でわざわざ無視するくらいなら電話を切るだろう。酔狂でもマーサの一方的な話を黙って聞くことは無いはずだ。
「……ハル?」
「マーサ」
「…なによ」
「子供がいたとは知らなかったな」
 いつもどおりの、熱の無いハルの声。断定。少しの驚きも疑念も無い。マーサが失言を自覚するより、ハルの頭の回転のほうがずっと速かった。そこから導き出されたであろう推測による軽蔑や冷やかしも含まない声。己を「覗かれて」しまった恐怖が背筋を駆け上がる。
「…っ」
 マーサは動揺のあまり、反論もせず電話を切った。大丈夫、口止めしなくてもハルはノエルに言わない。
 眩しい太陽の下、冷や汗をかいている。波の音が聞こえる。
 マーサは携帯電話を強く握り締めた。
「…あんたたちには関係無いわよ」
 小さく呟いた声は誰にも届かない。