180. スウィート (ノエルとハル/ハルと誰か/ちょっとパラレル)



「……うわぁーお」
 男は間の抜けた声を発した。
 さして期待も感動も無く、いつものように数人の部下に囲まれて会場入りしたときのことである。
 そんな男の声をかき消すように、男の周囲で下品にならない程度のざわめきが起きた。それもやっぱりいつものことで、男は男が持つ肩書きに擦り寄ってくる他の客たちに囲まれた。だが、そのことに驚いたわけではない。
 カクテル・ビュッフェ・パーティなので食べ物の匂いが鼻に付く。取り立てて豪奢ではないが趣のある広間に、カナッペやオードブルが並べられている。そのテーブルの向こう側、会場の奥。多くの人たちに紛れ、顔を寄せ合って声を交わし合う男女。間の抜けた声を発した理由。




*  *  *




 ノエルはショーケースの中に並ぶ宝石のようなそれらを前に目を輝かせていた。
「ステキ……っ」
 胸の前で組んだ腕が小さく震えている。
 ノエルの前には、照明を受けてキラキラと光る色とりどりのケーキが燦然と整然と並んでいた。イブニングドレスを着ているにもかかわらずノエルは腰を落として、恍惚の表情でショーケースに張り付いている。周囲から奇異なものを見る視線を向けられてもノエルは気にしない。というより解っていない。
 このようなパーティでは、通常、食べ物はテーブルに並べられ、飲み物はスタッフが運んでくるものを選ぶ。今日はデザートだけがショーケースに収められていた。スポンジやクリームの乾燥を防ぐためだ。ノエルはスタッフに声をかけて、物色していたケーキのうちいくつかを取ってもらった。
「あと、こっちのチョコのやつも!」
「ベリーのも!」
「おいしい!」
「うわ〜ん、しあわせ〜」
 ノエルは言葉どおりの表情でフォークを握りしめる。
 その率直な言葉と態度に、スタッフは眉を下げて笑い、さきほどの周囲の人たちも顔をゆるませて苦笑していた。

 あまりこういう場が好きではないノエルも今日は上機嫌だった。
 どこから入手したのか、マーサは今日のパーティの招待状をマジシャンのように指先で広げ、「営業活動よ」と言ってノエルを連れ出した。よくわからないまま(ショップ)に連れて行かれ、黒のイブニングドレスを着せられ顔と髪をメイクされて車に乗せられた。その途中、ノエルは駄々をこねたのだが、マーサはそんなのお見通しのようで別経路でハルを呼び出していた。かくして大人しくなったノエルとうんざりしているハルを連れ、自身もドレスアップしたマーサは嬉々としてこの会場に乗り込んだというわけだった。
 その後、意外にも、ノエルが挨拶させられたのは主催者だけで、あとは適当にしていればいいとマーサから許可が出た。いつもなら延々と挨拶回りが始まるところだ。同業者が集まるものとは違い、今日の顔ぶれは多種多様な人たちが集まっているらしい。当然、ノエルの顔や肩書きは誰も知らないので、正装はやっぱり肩がこるけど、気を張らずに行動できることが嬉しかった。
 マーサはと言えば、相変わらずたくさんの人たちと談笑している。営業活動なんて言ってたけど、マーサ自身のコネを作りたかったのかもしれない(あちこちにいる恋人も含め、マーサは人脈作りに熱心だ)。
 ハルはさっきまで一緒にいたけど、スタッフに呼び出されて行ってしまった。ノエルたちが宿泊しているホテルから連絡が入ったとか。
(早く戻ってこないかな〜)
 といっても、ハルはケーキ(甘いお菓子)を食べられない。だからこの幸せを分かち合うことはできないのだけど。それでも伝えたいのに。
 もう一口。ノエルが生クリームとラズベリーをいっしょに口に入れたとき、ざわめきが起こり、それは来た。

「やぁやぁやぁ! かわいいお嬢さんがいるねっ、こんにちはっ」

 背後からクラッカーを当てられたのかとノエルは思った。それくらいの衝撃を背中に浴びて、一歩のめってしまった。
「……?」
 フォークをくわえたまま振り返る。するとそこには声の衝撃波を放った当人と思われる人物、白いスーツの男が立ち、背中で手を組んで、細い目でにこにこと笑っていた。どうやらノエルに声を掛けたようだった。
(あ、ハルと同じ)
 男の顔に見覚えはない。ただノエルが咄嗟に思ったことは、男の肌と髪と瞳の色がハルと同じだということだった。
 年齢はノエルよりは上に見える。30代くらいだろうか。細めの体格と人懐っこい笑顔が、たぶん、余計に若く見せているのだろうけど。
「……あの? …えっと、こんにちは」
 口の中にあったケーキを飲み下してから、とりあえず返してみる。
「うん、声もかわいいっ」
 男は両手を広げ、はつらつとした様子でまた笑う。歩を進め、ノエルのすぐそばまでやってきた。周囲にいた他の人たちは男を避けるように道を開けたのだが、ノエルはそこまで気づかない。
「やぁ、失礼なことを訊くようだけど、お嬢さんはおひとりかな?」
 ノエルの目の前で、男は大きな動作で首を傾げる。声はびっくりするほど太く大きいけれど不思議と威圧感はなかった。癖のない英語。ノエルは男がかなり上等なスーツを着ていることに気付いた。
 パーティで男性に声をかけられることはよくあるが(それが礼儀だから)、目の前の男には形式ばった様子がまるでなく、たぶんストリートストールの前で会っても同じように声を掛けるんだろうな、とノエルは思った。
 その気安い雰囲気にノエルは気を楽にして首を横に振る。
「ううん、今は外してるけど、ひとりじゃないよ」
「そっか。こんな場で女性を一人にするとはダメな男だな。どうだろう、お嬢さんの彼が来るまで少しお話しても構わないだろうか」
「どうして?」
「お嬢さんの彼の代わりに虫除けになろうと思って」
「虫? 虫なんていないよ?」
 キョロキョロと自分の体を見回したノエルに、男はうーんと唸って苦笑した。大きく手を振り上げこめかみを掻く。
「いや、そうじゃなくてね。うん、僕がお嬢さんとお話してみたいんだ」
「いいよ、どんなお話?」
「そうだな、例えばそのケーキについて、なんてどう?」
「これ?」
「そう。おいしそうだね。僕もひとつもらおうかな」
 男は慣れた挙動で軽く手を挙げてスタッフを呼んだ。ノエルは慌ててショーケースの中を指し示す。
「あのね、これがおすすめ」
「どれ? チーズのやつ?」
 ノエルと並んで男もショーケースを熱心に覗き込んだ。
「そっちはお酒が強いの。あ、でもそういうほうが好き? こっち、イチゴのもおいしいよ」
「せっかくのおすすめだからイチゴのほうにしよう! それを頼む」
「あたしも!」
「本当だ! おいしいね」
「でしょでしょ!?」
「甘いものって不思議だねぇ! 幸せな気持ちになるよ」
「そうなの! とくにケーキは並んでるのを見るだけでも幸せ!」
「わかるわかる!」
 2人は興奮して熱の入った言葉で盛り上がる。取り皿を持っていなかったら飛び跳ねていたかもしれない。
「そうだ、お名前を伺っても良いかな」
「ノエル!」
 普通は苗字を答えるところだがノエルは深く考えずいつものように答えた。男はにこやかに笑い、大きく頷くと、ノエルに合わせて名乗った。
「僕はジンだ。よろしく、ノエル」




「僕はね、今日やっとこっちでの仕事が終わって、これが終わったら家に帰るんだ。そうだ! このホテルのケーキを買っていこうかな」
 さすがにパーティ(ここ)でテイクアウトプリーズなんて言えないからねっ、とジンは耳打ちして、ノエルを笑わせた。
「おうちの人におみやげ?」
「そうだとも!」
「奥さま?」
「うん、それと一緒に住んでいる弟妹たちに。今は一番下の妹が家を出ているけどね。他にも結婚したり仕事で飛び回ってるのもいるけど、その家族がみんな近所に住んでるんだよ。ほとんど一緒に暮らしているようなもので、かなりの大所帯なんだ、ノエルが来たら絶対びっくりするぞ!」
「あはっ。いいね。にぎやかで、楽しそう」
「うん、僕にとっては自慢の家族なんだ!」
「本当にいいね! ステキだね!」
「ノエルは?」
 よくぞ訊いてくれました! とばかりにノエルは胸を張った。
「あたしの家族はいつも一緒だよ! マーサとハル!」
「どんな人たち? よかったら教えてよ」
「マーサはあそこにいるよ」
「ん? どの人?」
「柱のところでお話してる、ピンクのドレスの」
「おぉ! あのマダムかっ」
「一応、独身」
「おっと失礼」
「マーサはね、口煩くて怒ってばっかりで、あたしはいつも叱られてるんだけど、でもそれってあたしのこと気に掛けてくれてるってことでしょ? たまに大っ嫌いになるときもあるけど、やっぱり、大好きな人!」
「うん。いいね」
「ありがと!」
「うん!」
「もう一人、ハルはね、…ん〜、なんでか勘違いされやすいんだけど……、そりゃ仏頂面だし愛想も無いし酷いことも言うしケンカになったら容赦ないし自分にも他人にも社会にも厳しいから他のヒトとよく衝突するし」
「えーと」
「でも、やさしいよ」
「ふぅん、───そういう男なんだ」
「ジン?」
 ノエルはジンの顔を覗き込んだ。
 突然、ジンの声のトーンが落ちたような気がして。
 ノエルからの視線に応えてジンはにっこりと笑った。その笑顔はさっきまでと少し違う違和感があって、ノエルは笑い返すことができなかった。
「ノエルの彼、ハルっていうんだ?」
「…うん」
 無意識のうちに一歩離れた。わからない。見えない気配に取り込まれそうな感覚。
「いつから付き合ってるの?」
「───」
 どうしてそんなこと訊くの? 聞き返すことはできない。
 ジンの口調にはさっきまでは無かった確かな威圧感があった。
「…ずっと前、だよ」
「長い付き合いなのかぁ」
「そう」
 ふぃ、と視線が逸れた。奇妙な開放感があって、ノエルは息を吐く。そこで初めて緊張していたことに気づいた。
「ハル…、ハルね。ふぅん、意外と捻りがないなぁ」
「ジン?」
「おっと失礼」
 ジンはノエルのほうに向き直って、またにっこりと笑った。どうしてか怖くなって、逃げ出したくなった。
「知ってる? 僕のおとなりの国ではね、ハルは春(Springtime)という意味なんだ。ちょうどその季節にその国で一番愛されている花が咲くんだよ。僕は地味な花だと思うんだけどね。ノエルは見たことあるかい?」




*  *  *




 ハルが戻ってきたとき、ノエルと別れた場所には数人の人だかりができていた。
 騒ぎが起きているわけではないようだが、あきらかに目的を持つ視線がその場に集まっている。
(…まさか)
 嫌な予感を覚えてハルは人だかりの中へ分け入った。予感は的中して、そこにノエルの後ろ姿があった。なにかやらかしたのかとハルは眉を顰めたが、そこに特に注目されるような様子はなかった。
「ノエル?」
 呼びかけると、ぱっと花開いた顔が振り返る。
「ハルっ!」
 いつものように駆け寄って、ハルの腕を取った。その感触を確認するようにノエルは力を込める。まるで縋るように、守るように、失わないように。
「どうした?」
「もう帰ろ?」
「え?」
 ノエルはハルの腕を持って歩き出し、ハルはそれに引きずられた。
「早く行こ!」
「おい…、ちょっと待て」
「あたしはもぉ帰りたいの! ハルだって、こんなトコ来たくないって言ってたじゃん! バスでも電車でも歩きでもいいから帰る。ここから出たいの」
「なにがあった」
「マーサは? 先に帰るって言ってくるね。ハルは先に行って。早く行って!」
「ノエル?」

「やぁ、ハルくん! ずいぶん久しぶりだっ」

 背後からクラッカーを当てられたのかとハルは思った。それくらいの衝撃を背中に浴びて、その声について考えるより先に振り返ってしまった。
「ハル! だめっ!」
 ノエルの悲鳴を背中に聞く。
「……?」
 そして振り返った先には声の衝撃波を放った当人と思われる人物、白いスーツの男が立ち、細い目でにこにこと笑っていた。左手には食べかけのケーキ皿、右手はハルに向けて子供のようにひらひらと振っている。
「それとも“はじめまして”、かなぁ」
 顎に指を当て、眉根を寄せて、考え込む仕草。わざとらしいまでに大袈裟な素振り。
「───ぁ」
 思い当たるものがあってハルは短い声をあげた。
「あんたは」
「だめっ、ジンと話しちゃやだ! 早く行こっ?」
 ノエルが手を引いてくる。
「ジンなんか放っておいて! 一緒に帰ろ? ね?」
 懇願するようなノエルの言葉にも、ハルは応じられなかった。すぐそこに立つ男───ジンから目を離せなかった。
 そのジンは眉尻を下げて苦笑する。
「う〜ん、どうやら僕は嫌われたみたいだなぁ」
「嫌いだよっ。最初からハルのこと聞き出すつもりであたしに近づいたんだっ」
「そうだとも! ノエルが評したとおり、仏頂面で愛想無しかつ毒舌家で自分と他人と社会に容赦なくケンカを売る大人げない性格のハルくんがどんな娘と付き合ってるか見てみたかったからさっ」
 ジンはハルに向き直ってさらりと。
「あ。これは僕からの評価じゃないよ。ノエルが言ったんだから」
「……」
「ちがっ…、あたしそんなこと言ってない! しかも一番重要なトコが抜けてる!」
 何とも言えないハルからの視線にノエルは必死で言い訳をする。真っ赤になってジンを睨みつけた。
「ジンは誰なの!? ハルをどうするつもり? ───……ハルのこと、…知ってるの?」
 息巻いていた声が小さくなって、ノエルはうつむき、ハルにしがみついた。
 ジンは肩をすくめる。
「僕はジンだってば。ハルくんをどうこうするつもりはないよ。懐かしい顔を見かけたから声をかけたくなっただけさっ。でも驚いたよ。ねぇ、ハルくん?」
『君、死んだんじゃなかったの?』



 ノエルはぎょっとしてジンを、そしてハルを見た。
 その意味に驚いたわけじゃない。ノエルには意味のある音として聞き取れなかった。だけど同じ音を聞いたハルの表情で、それがジンとハルのあいだでは確かに通じた言語であることが解る。
「……っ」
 両肩を押しのけられるような疎外感があって、ノエルはハルを庇うように立つ。まるでオモチャを取られないように威嚇する子供のようだった。
 ジンはその様子を面白そうに眺めて、よく回る舌でさらに言葉を続けた。同じ、ノエルには理解できない言語で。
『僕は先週からこのシティに来ていてね。誤解のないよう言っておくけど遊び(バカンス)じゃないよ? 仕事(ビジネス)だよ? それはそれは大きな仕事(ヤマ)だったけど、もちろんそつもむだも無くこちらに有利に終えてきたよ、あぁ内容は企業秘密だけど。というより、今は関係ないか。ともかく! その大きな仕事を終わらせてさぁ帰ろうと思った矢先になんだか知らんがパーティの招待状が届いたわけだよ。僕が滞在していることを知った主催者(ホスト)が、是非、顔を出してくれというんだ。と言ってもハルくんも知っているとおり、この場合要求されているのは僕の顔ではなく(なまえ)だ。まぁ、それもいつものことだから、今はどうでもいい。しかしこの招待、タイミングが悪すぎる。せっかく出張を終えて最愛の家族が待つ(ホーム)へいざ帰りなんというときにだよ? 信じられるかい? 何のために僕がスケジュール通りに働いたと思っているんだ、無粋もいいとこだ! だけれども、この姓を名乗る以上、やることはやらなきゃいけない。しぶしぶ姓だか顔だかを出しに来てみたところで、羨ましいことにかわいい娘さんと仲良く喋っている幽霊を見かけたというわけだ、ハルくん』
「……」
 ハルは小さく溜め息を吐いた。
 呆れたのだ。
 意味が解らないはずのノエルもジンの熱心な切れ目ない科白にぽかんとしていた。
 そのとき、
「2人とも、なにやってるのっ」
 と、尖った声でやってきたのはマーサだった。パーティ会場の片隅で大声を出しているノエルを叱りにきたのだろう。
「ハル、あんたが付いていながら…」
 と言いかける。しかしその場にいるもう一人の人物の顔を見るとマーサは飛び上がった。
「え、ちょっと、やだ、その人、香港の…」
「───マーサ、ノエルを連れて行け」
 ハルは腕からノエルは引き剥がし、マーサに引き渡した。
「え?」
「ハル…っ」
 不満を言い掛けるノエルを宥めるように、
「帰るんだろ? すぐ行くから、ロビーで待ってるんだ」
「やだ…っ」
 マーサに手を握られながら暴れだす。
「離れていかないで、おねがいっ。 …マーサ、離して、わぁあん、ジンのばかっ!」
「ちょっと、ノエルっ。…一体なんなの?」
 マーサは訳が分からないままでもノエルの手を離さない。これ以上、この場を荒らさないためにはハルの言うとおりにすべきと判断したのだろう。
「心配しないで。僕はハルを奪ったりしないよ」
「そんなの、アテにできないよっ。ジンなんか嫌いだっ」
「それは残念だなっ」
「マーサ、早く連れて行け」
 ハルはもう視線も合わさずにジンのほうを見ていた。ノエルは唇を噛む。
 声も届かないくらい離れたあとに、ハルも嫌いだ、と呟いた。




*  *  *




 少し辺りに目をやれば、ジンの部下と思われる黒服が数人、他の客に紛れてこちらを窺っている。そしてやはりジンの(なまえ)に惹かれた客たちも数人、興味深そうに視線を向けていた。
 ハルはやれやれと溜め息を吐く。
 このやたらと目立つ男の周辺で騒ぎを起こせば、耳や鼻の利く人間が嗅ぎ付けてなにを触れ回るか分からない。厄介は避けたいのに。
 ハルは表向きは記憶喪失ということになっている。初めて会ったときハル自身がそう説明した。これから先もそれを否定する予定はなかった。
 過去と再会せずに済むならそれが一番面倒がない、むしろそれを望んでいた。もしかしたらいつかは、過去の誰かと会うこともあるかもしれない、とは考えていたけれど。
 だから、それがこうして現実になったとしても、ハルは驚かなかった。しかし。
(よりによって…)
 運が悪い。
 こうして出会ってしまった「誰か」は、しらを切ったり無視したり、その他ハルが得意とする小細工が通用する相手ではなかったからだ。
 今日、ハルはジンに対してまだなにも言ってない、言葉が解らない、人違いだと突き放して去りたかった。
 けれどジンはもう、確信をもって、ハルにハルの国の言葉を投げつけてくる。にこにことしか表現できない表情をこちらに向けて。
『変わった娘と一緒にいるね。ああいうのが好みだったとは驚きだ』
「……」
『ずいぶんハルくんに懐いてるみたいだったし。微笑ましいなぁ』
「……」
『あぁ、ノエルを怒らせてまで僕から逃げなかったのは正解。だって口止めしておかなかったら、あちこちで「ハルくんに会ったよ〜」って言い触らすかもしれないからねっ』
「……」
『ところで、昔、ハルくんと僕がよく顔を合わせていたのもこういう社交の場でだったよね。ハルくんはまだ10代(ティーン)でお父さんと一緒で。いや〜、ほんと懐かしいなぁ!』
「……さっきの電話はあんたの部下の仕業か」
 ジンの独り言を無視してハルは言った。
 さっき、ハルはスタッフに声を掛けられた。宿泊しているホテルから連絡が入っていると耳打ちされ、ノエルを残してスタッフが案内するフロントで電話を取った。すると、受話器から聞こえてくるのは機械的な音のみ、通話は切れていた。スタッフに言えば平謝りするばかり、念のためホテルに掛け直してみると特に連絡事項は無い、もちろん電話もしてないという。そしてノエルの元に戻ればジンがいた。あの電話が、ノエルとハルを引き離す意図があったのは明白だった。
『えー? なに〜? 英語じゃわからないな〜』
「ノエルになに言ったんだ」
『だから、わからないって。ノリ悪いなぁ』
 らちが明かない。この時点でハルのほうは大声を出したいくらいだが、それが何の効果も無いことはジンの余裕を見れば明らか。
 ジンはハルにその言語を喋らせたいのだ。折れない限り一向に話は進展しないだろう。
『ノエルになに言ったんだ、(ジン)さん』
 ハルが母国語を苦々しく口にすると、ジンはしてやったりと笑った。
『あっはは。そういえばハルくん、うちの弟妹のことは数字で呼ぶくせに、僕のことは名前で呼んでくれてたよね。嬉しいなぁ』
 わざとらしい、とハルは舌を打つ。
 ジンに対する態度に敬意を付け忘れると、ジンの弟妹(末っ子は除く)から総攻撃を受けるはめになる。それにいちいち応戦するのが煩わしくてハルは屈したのだ。その経緯を本人も知っているはず。
『おっと、せっかく訊いてくれたんだから答えなきゃね。ノエルにはなにも言ってない、安心していいぞっ』
『それはどうも』
『あ、でもひとつだけ教えたかな。どこかの国ではハルくんの名前の季節に、地味な花が咲くんだよって』
『…おい』
『花の名前は言ってない』
『…』
『あの様子じゃ、ノエルはハルくんの身元を知らないのかな』
『あんたには関係ないよ』
『───ハルくん』
 ジンは相変わらずの笑顔のまま声だけを硬くした。その声だけでばっさりと流れを切った。
『あんたっていう二人称で呼ぶのやめてくれるかな? ハルくんが以前の名前と立場を棄てたからといって、ハルくんと僕が対等になったわけじゃない。敬語を使わないのは許すとしても、あまり礼儀を欠いた態度は僕の(なまえ)を軽んじられているようで不愉快だ』
『……』
 そういえばこういう人だった、とハルは思い出した。
 初めて会ったときのジンは、今日よりずっと穏やかな笑顔と今日よりずっと少ない口数で、「絵に描いたような立派な」青年であり、それぞれクセのある弟妹たちを従えていた。仲が良いとは思えない弟妹たちもジンの言葉には逆らえない。畏れではなく、彼が持つ「長男」という肩書きとそこにある人格に忠誠心を持っているかのようだった。家名意識が強いのだ。
 といっても一歩外に出れば、今日のような口数で周囲を振り回していたけど。その変わり身の鮮やかさには嫌味すら返せなかったほどだ。
 それを言うと、ジンは口調を戻して笑う。
『こっちが地なんだよ。家の中ではしょうがないんだ。あの一癖も二癖もある弟妹を押さえなきゃいけないのと、それ以上にあの子らの母親を黙らせないといけないからね。大きすぎる組織をまとめているのに、中枢(うち)で内紛なんか起きたら統率が執れなくなる。そのためには身内であっても、足元を掬おうものなら蹴飛ばして返し、下克上を企てようなら完膚無きまでに叩き潰す。僕は万人に認められて、文句の付けようがない跡取りとして君臨してなきゃいけないわけさっ』
『……ずいぶん殺伐とした家庭環境だな』
『そう! 稼業のある長男は誰しもエキサイティングな立場なわけだよ! 君のところもそうだったじゃないか』
『…っ』
 まさか振られるとは思っていなかった話題にハルは表情を崩した。しかもジンが言外に匂わせたのは非公式な事件だ。どこから知り得たのだろう。
『晋さんのところとは、…事情が違う』
 しかしここで掘り返す必要もないことだ。ハルが収束方向へ言葉を流すと、ジンはにやにやと笑っていた。

『で? 僕はハルくんに会ったことを黙っていたほうがいいのかな』
 からかうだけからかって気が済んだのか、ジンがそう切り出したとき、ハルは重い疲労を抱えていた。
『……そうしてくれ』
『ハルくんもそうだけど、僕も長男なんだよね』
『…?』
 唐突になんだ、とハルが顔を上げると、ジンはやっぱりにこにこ笑ったままこちらを向いていた。
『生まれたときから今の地位を約束されていたし、僕の家はこんなだから、それを守っていく重い責任もある。僕だけじゃない、僕の弟妹は例外なく、その()を持つことの誇りと重責を知っている。生まれたときから縛られ、その恩恵を与えられ、決して傷つけてはならないものだ。僕という存在から切り離せるものではないし、僕が抱えているもののなかで一番重いものだろう』
 ジンは笑みを消して、ハルに言った。
『だから僕は、自分の名を気安く捨てられる人間は最低だと思う』
『……』
『君の家とは付き合っていかなきゃいけないけど、君が戻るつもりがないならハルくんと付き合う意味も暇もない。───いいよ、黙っててあげる』
『…それはどうも』
『といっても』
 と、ジンは肩をすくめておどけた。
『君の後釜に入った男もその最低の人間なんだよなぁ───』[ほんと、君ら兄弟はよく似てるよね]
『…?』
 後半は聞き取れなかった。発音で、ジンの国の言葉だと判ったが意味は解らなかった。訊き返そうとしたが、それより早くジンが手を挙げてお開きを示す。
『ノエルによろしく。今度会ったらデートしようって伝えておいてくれ』
(ジン)さん、結婚してるだろうが』
『若くてかわいい娘と出歩いちゃいけない理由にはならない』
 あの親にしてこの息子、血筋だな、とハルは思う。声には出さない。侮辱として受け取られるだろうから。
『誰かの妹のせいで、うちの末妹が家出してるんだ。若い娘とふれあう機会がないんだよ! ちょっとは責任感じて融通してくれたっていいじゃないか!』
『お断りだ』
 ジンの末妹は確か中学生、いやもう高校生だろうか。
『それに、ノエルはああみえて俺より年上だよ』
「は…?」
 蓮晋一(レンジンイー)は目を見開き、顎を落とした。




*  *  *



 パーティはまだ続行中。ロビーはしんとして人気(ひとけ)が無い。時計の音が聞こえてきそうな静かな空間で、ノエルとマーサは丸テーブルに座っていた。
 ノエルは化粧が崩れるのも気にせず、テーブルに伏している。マーサは一度注意したが、ノエルは聞かなかったので諦めた。暴れたせいで髪もぐしゃぐしゃになっている。どうせもう、会場に戻ることはないし、構わないだろう。
「いきさつは解ったけど…」
 伏したままのノエルに声をかける。
「あの人がハルを連れて帰るって言ってるわけじゃないんでしょう? ハルはすぐ行くって言ったんだから、素直に待ってたら?」
 は〜ぁ、とマーサは息を吐く。もう冷めてしまった紅茶を口に運んだ。ノエルのカップは一口も付けられていないままだ。
 実際、ノエルは余計な心配のしすぎだとマーサは思う。
「ノエルだって、ハルの記憶喪失は嘘だって気付いてるんでしょう?」
「…っ」
「事情は知りたくもないけど、ハルが自分の立場を棄ててノエルといることを選んでるならそれでいいじゃない」
「…ちがうよ」
「え?」
「だってハルはまだ未練があるもん。なにか、捜してるもん」
 伏したまま籠もった声でノエルは不満げに呟く。
 けれど遠くから足音が近づいてくると、ノエルは勢いよく立ち上がった。
「ハルっ!」
 静かなロビーにノエルの声はよく響いた。歩いてくるハルに向かって駆け出し、そのまま抱きつく。というより単にぶつかりにいったように見えた。
 その様子を見て、マーサは溜め息を吐く。
「待たせたな。帰るか?  マーサはまだ顔売りたいなら残ってていいぞ」
「そんなことより、ハル、蓮家と繋がりがあったの?」
「あったとしても、マーサの人脈作りの役には立たないな」
「ハナから期待してないわよっ」
「どうだか」
「ハルっ!」
 いつもの憎まれ口の応酬を中断させたのはノエルだ。ハルにしがみついたまま、強い声をあげた。
 ハルがその頭を撫でる。
「…なに?」
「これからも一緒にいてくれる?」
 ハルは、思い掛けないことを訊かれたという表情で息を止めた。そこには「なにをいまさら」という思いが読みとれて、マーサは(勝手にやってなさい)ノエルとハル、両方に呆れる。
 マーサは肩をすくめて、片手を振って、なにも言わずに会場の方へ戻って行った。

「邪魔なら離れてるけど」
「そうじゃないっ!」
 噛みつくような勢いで顔を上げ、ノエルはハルを睨み付けた。
「邪魔とか離れててとか、あたし言ってないじゃん! どうしてハルってそう、自分にも他人にも逃げ道つくるような言い方するの?」
「先に逃げ道を作る質問をしたのはノエルのほうだよ」
「…っ」
「…なにを不安がってるか知らないけど、俺は今の生活から離れる気はないよ」
「…ほんとに?」
「あぁ」
「うん。…じゃあ、いい」
 なにがいいのか、やはりハルには判らなかったがノエルの気が済んだならそれでいい。
「帰るか?」
「うん!」
 自然に手が繋がれる。
「ケーキ食べていこっ」
「ちょっと待て。さっきまで食べていたものは一体なんだ」
「まだ食べたいのたくさんあったもん。ホテルの近くにも、目を付けてるお店があるんだ、そこに行きたいの!」
「……」
 ハルは諦めの溜め息を吐き、強引に手を引くノエルに、大人しく引きずられていった。








END
20070626/20070708/20070710