181. 虜囚(GrandMap/蘭) 蘭は物憂げな気持ちで姿見の前に立つ。 いつも上げている黒髪を今日は丁寧に背中に下ろしている。いつもと違う慣れない感触が肩と横顔にかかって、その少しの温かさになんだか慰められているような気がした。 服は昨日急いで手配したドレス。正装。堅苦しくはないけど、品の良い黒。着心地も良いしデザインも素敵だけど、こんな気持ちで袖を通した服、二度は着ないと思う。 いつもと違う髪。いつもと違う服。 でも最も違うのは、鏡に映る自分の表情。 笑みはなく、不安げで、一日は始まったばかりなのにどこか疲れたよう。わかっているけど、いつものように笑うことができなかった。 その表情を振り払うように、蘭は頭を振る。 でもそれでなにが変わるわけでもなく、蘭はむなしい気持ちで乱れた髪を手でとかした。 どうか、今日一日は、たとえどんなに嬉しい偶然でも、みんなに会いませんように。 そう祈った。 アパートの部屋の中、ひとり。 眩しい朝日が差し込む静かな部屋で。 その人が後から入室し、蘭はゆるく膝を折り最敬礼をとる。 ややあって、頭上からおおらかな声が聞こえた。 「よく来てくれたね。嬉しいよ、蘭」 「こちらこそ、お招きいただき光栄です、───」 声を掛けられたことが、頭をあげてよい合図。 蘭はゆっくりと姿勢を正し、目の前に立つ人物を見上げた。 「──兄さま」 蓮晋一。蘭の実の兄。現在では、実家の事実上の実権者。態度が堅苦しくなるのは本当なら当然のことだ。 普段、彼が蘭に見せる顔は気さくで明るく、なにもしがらみの無い態度で接してくれる。そう、他に人がいないときは。 でも今は違った。室内には兄と蘭の他に、兄の付き人がいて、護衛が2人いる。これは兄妹の気安い待ち合わせなどではなく、蓮家の当主への接見なのだ。 蘭はそういう席で自分が取るべき行動を理解しているし、納得もしている。幼い頃からずっと。 兄がいつも見せてくれる明るさが彼の本性で無いことも、ちゃんと解っていた。 着席の許可が下り、蘭は儀礼に従って椅子に腰掛ける。日本に来てからほとんど意識しないのに、子供の頃に叩き込まれたものは意外と体が覚えているものだ。 「高校卒業おめでとう。そして大学進学おめでとう」 「ありがとうございます」 「優秀な成績じゃないか。兄として自慢できるよ」 「光栄です」 「他の どこか空々しい会話も、今室内にいる第三者から見れば違和感のあるものではない。 一昨日、兄から呼び出しがあり、彼らも同席すると聞いてから蘭は気が休まらず緊張していた。そのせいで祥子との約束をひとつ反故にしてしまったほど。申し訳なかったけどしょうがない。蘭は蓮家の兄弟のひとりだから。 「僕が今の君くらいの年齢のとき、君が生まれたんだよ」 兄は懐かしそうに目を細めて笑う。 「そういえば───」 と、言葉を切った。 「弟妹の中で二重国籍を持つのは君だけだね」 「…はい」 やはりその話題になった、と蘭は頭が痛い。 「確か、 なにを、とは言わずもがな。 「……」 解っていたことだけど、蘭は言葉に詰まった。 蘭は家を出たいわけじゃない。兄姉や父と喧嘩別れしてまで日本人になりたいわけでもない。どちらも手放したくなくて、はっきりせずに今まで来てしまった。その温くやさしい時間のリミットが、あと3年。 「どうしても日本国籍を取りたいというなら君の意見を尊重しよう。ただし、二度と本家の敷居を跨がせない。客としてでもだ」 「…兄さまっ」 堪えきれず声を上げてしまう。 兄は冷たく言い放った後にやさしく笑った。 「蘭。帰ってくるつもりはないのかい? 法務はこちらにだってあるよ」 蘭は法学部に進む。日本でその道の職業に就くには国籍が必要になる。それも蘭を迷わせている要因のひとつだった。それに、それだけではなく。 「兄さま…あたし、」 「そんなにここに固執するほど史緒のことが好きかい?」 「好きです」 「関谷篤志は?」 「──…」 「即答はできない、と」 「できます! あたしは、篤志さんのこと…っ」 「蘭」 声を荒げた蘭を宥めるように手を上げる。 兄は蘭をまっすぐに見つめ、すべてを見透かすように喋った。 「君が史緒のことを好きなのは知ってる。幼い頃からずっと。わかるよ、あの子は不幸な子供だったからね。同情して、気に掛けていたんだね」 「ちが…っ、違いますっ」 思わず立ち上がる。そのとき、護衛の人たちが微かに動いた。兄は手を払ってそれを 「ねぇ、蘭。僕や父、弟妹たち、みんな君のことを愛している」 「…」 蘭は頷いた。 「そうだね、君は幼い頃からそれを知ってる。──愛されてるという自覚があることは美点だ。人間として洗練されている。それに気づけないでいる者は不幸で愚かだ」 どこか遠くを見るように兄は言う。 「同時に、愛する者がいる人間もそう。単純に、好きなもの、熱中しているものを持つ人間は芯があり、強い。でも本末転倒はよくないな」 含みのある間があって、うかがうように見ると、兄と目が合う。 「ねぇ、蘭。自分が強くあるために、誰かを好きになるのはもうやめないか」 顔が真っ赤になるのが判った。 無礼を承知でこのまま走って出て行きたかった。 兄に指摘されたことは蘭も考えたことがあった。それを見抜かれて、恥ずかしさのあまり声をあげそうになった。 「…っ」 誰かれ好意を振りまいて、公言して。 そうだ、幼い頃から知ってた。愛されていること。恵まれていること。幸せであること。 誰かを好きになる気持ちが自分を支えること。 だから、篤志への思いを疑ったこともあった。でもそうじゃない。そうじゃないのに、兄に、胸を張って答えられなかった。 「残念ながら、関谷篤志は、我が家にとって、 「兄さま…」 「もっと言えば、君がいつまでも日本に留まり、蓮家の一員である責務を放棄していることは感心できない」 「……」 蘭だって、家の重みは十分に解ってる。気の良い家族が、その反面でとても重い責任を負っていることも知っている。 いつだったか、この兄がこぼした言葉も、今も憶えてる。 「金の奴隷、権力の奴隷、正義の奴隷、人権の奴隷、平和の奴隷…────、人間が皆、なにかの奴隷だというなら、僕はこの姓の奴隷だね」 でもそれらの奴隷をやってる本人は悪い気分じゃないんだ、と静かに笑った。 「蘭。同情でも仮初めでもなく愛せて、そして君の家の重みも受け止められる男に出会えたら連れておいで」 返事を要求された物言いだった。蘭は、はい、と答えるしかなかった。 「愛しているよ、蘭」 「私もです。兄さま」 少しだけ涙が滲んだ。 でも、本心だった。 エレベータの中、ひとりになると、どっと疲れが押し寄せてそのまま座り込んでしまいそうになった。 ひどく疲れていた。帰り道を思うとひどく億劫だった。面倒で、その道のりは拷問のようだとさえ思った。 このまま近くのホテルに部屋を取ってしまえばいい。そうしたら一日中ベッドで寝ていよう。きっと夜までにはアパートに帰宅するだけの力が湧いてくるはず。 そうしようと心に決めて、エレベータを降り、1Fホールに出たときのことだった。 「どうして……」 蘭の足が止まる。 日当たりの良い吹き抜けのホール。その広々とした、多くの人が過ぎゆく空間の向こう側に。 篤志がいた。 椅子に腰掛け、行き交う人たちを眺めている。 (どうして!?) 確かに、今日は仕事は休みのはず。篤志はスーツを着ていたけど、それは仕事着ではなく私服だ。ノーネクタイで、くつろげている。 スーツを着ているのは場所を考慮したからかも、と思ったら胸が熱くなった。 (なんで? まさか、あたしのこと、迎えに来てくれた、のかな) それは自惚れだろうけど、蘭は舞い上がるほど嬉しくなって、さっきとは違う気持ちで涙が滲んだ。 篤志はこちらに気付いていない。あぁ、でも、もし目が合っても、今日の恰好では判らないかもしれない。 それに蘭はいつものように笑えなかった。さっきまでの気持ちが素直に表れているであろう表情を見られたくなかった。 (どうしよう…、どこか別の出入り口…っ) (でもせっかく篤志さんいるのに) (あぁ、こんなコトならもっとかわいくオシャレしてくれば良かったっ) 蘭は行き場をなくして挙動不審になってしまう。 「おい」 「ひにゃっ!?」 すっとんきょうな声を上げてしまって振りかえると、いつのまにかすぐそばに篤志が立っていた。 「あ、篤志さん…」 (…あれ? ちゃんとあたしだって、判ってくれたんだ) 蘭の様子から篤志はなにを読みとったのか、微かに表情を曇らせる。 「ジンさん、来てたのか」 「えっ、ど、どうして」 「“蘭を迎えに行け”って、祥子が。そんな恰好してるし、相手はジンさんしかいないだろ」 「え…っ、あ、あぁ、そうですよねっ」 「なにか言われたのか?」 「……」 肯定できるはずない。でも、否定もできなかった。 「もう、話は終わった?」 「あ、はい」 「じゃあ、帰るぞ」 手を引かれて歩き出す。 蘭は気付かなかった。蘭の頭の上で、篤志が睨みつけた先に、こちらをみている兄がいたことを。 「わー」 外に出て、思わず声を上げる。 来るときには気付かなかった気持ちの良い空が頭上に広がっていた。 「すごーい、きもちいいー」 髪のあいだを心地良い風が通っていく。くすぐったくて、これならたまには髪をおろしてもいいかな、と思った。しかも、今は篤志と手を繋いでいる。気分が上向きになるのも無理なんてなかった。 並んで歩く篤志の横顔を見上げる。今、こうしていられることに自然と笑みが浮かぶ。幸せな気持ちを何度も思い出す。できるなら、ずっとこうしていたいと思う。 「どうした?」 視線に気付いた篤志がこちらを向いた。 「あのね、あたし…、」 篤志さんが好き。 そう言おうとしたけど、ただそれを誇示したいだけの空しい響きを持ってしまうような気がして、蘭は口を閉ざした。 「なに?」 「…えっと、その」 少し迷って、蘭は別のことを口にした。 「篤志さんは、あたしのこと好き?」 「好きだよ」 「えっ」 まさかそう返って来るとは思わず顔を上げると、篤志はすまなそうに苦笑していた。好きには種類がある。それを示唆するように。 それでも蘭は満足だった。少しも残念とは思わない。 今はこうやって手を繋げる関係でいられるなら、それで充分だった。 でも。 ──本末転倒はよくないな 兄の言葉を思い出し、蘭は体が冷えるのを感じた。 「あたしは、」 喉が干からびる。 「…──わからなくなりました」 「うん」篤志はあっさりと頷く。「いい傾向じゃないか?」 重苦しい気持ちで言ったのに、意表を突かれて蘭は反応が遅れた。 「ど、どーして?」 「俺との関係をちゃんと考え始めたってことだろ」 「…?」 「いいんだよ。で、他には? 気に掛けてること、あるんだろ?」 「あの、…ね」 「うん?」 「3年後に、選ばなきゃいけないんです」 「…あぁ、国籍?」 「ジンさんはなんて…──、言ったかは判るな、だいたい。蘭は? どうしたい?」 「あたしは、今のままがいい、です」 「でも、それはできない」 「ええ」 篤志の手を強く握り締める。今は。今だけは、吐き出すことを許された気がするから。 「みんなのそばに、いたいです」 「うん」 「大学もちゃんと卒業したい。お仕事もしたいです。でも、家のこと、放棄したいわけじゃなくて、あたしは兄さまも父さまも好きだし、みんな好きだし、嫌われたく、ない、です…」 じわりと涙が溢れて、我慢しても声が震えてしまう。 「あたしは名前の重さ、ちゃんと知ってます。兄さまが、家に入れてくれないって言うのも、わかるんです。でもそんなのやだぁ……」 声が割れてしまった。 「だけど家に帰ったら、こっちに来られなくなるし──。…どうしよう、怖いです、あたし。ただ、わがまま、言ってるだけなのに、どれも、引けなくて」 ぽん、と頭に篤志の手が置かれて、やさしく撫でてくれた。 「いいんだよ。まだ3年もある。考える時間はあるさ」 「篤志さん…」 蘭の手を引いて、篤志はまた歩き始める。 「今からそんな思いつめた顔してたらもたないだろ」 「うぅぅ」 「できれば笑っててほしい。いつもみたいに」 「え?」 「いや、なんでも」 蘭の望みをすべて叶えられる手段を篤志は知っていた。 でも、今はまだ、それを口にできる覚悟は無かった。 END |