323. もういいよ。(GrandMap/史緒、篤志、櫻/49話読了推奨) ■ 史緒は空港から特急に乗り、約1時間後にひとつ乗り換え、今はもう窓の外の見知った景色を、慣れた電車に揺られながら眺めていた。 季節の割には温かく(というより日射しのせいで暑く)感じられるほどの陽気で、車内は冷房が効いている。でもそれも、にぎやかなひといきれの中ではあまり役に立っていなかった。 史緒は右手で手摺りに掴まりながら、左手で耳の上のあたりに触れる。 (…まだ痛い) ひりひりずきずきする頭を撫でた。 つい一刻ほど前のやりとりを思い出す。 ──悪かったな って。 (それよりこっち(※髪ひっぱったこと)のほうを謝って欲しいわ!) 純粋な怒りが込み上げて思わずこぶしを握った。 (篤志に殴られたからって) (なんで今更) (…いまさら) ふと、窓に映る自分を見る。 背中まで伸びる長い髪。 なんとなく、その一房を指に絡めて、毛先を眺めてみる。 「その長いだけの髪もどうにかしようよ。見てるほうが暑苦しい」 と、誰かに(ずけずけと)言われた気がする。ずっと前に。 「そんなグロくないじゃん。服だけでも十分隠れるよ」 とも。 なんとなく、首の後ろで、軽く髪をまとめてみる。 揺れる電車の中、窓に映る自分。襟が高いので火傷は見えない。 ぱっと手を解くと、背中に髪が広がった。 (……重い) 初めて、そう思った。 長い髪。 櫻の言葉。 火傷。 (隠すというより、守りたかったような気がする) 守るってなにを? (よくわからない) 「……」 史緒はいつもの駅で降りなかった。そのひとつ先の駅で降りた。 決意なんかない。 ただ、なんとなく。 * * * 「ぅえええぇえ!??」 と、鏡の中、史緒の背後に立つ女性スタッフはのけぞって頭を抱えた。 ついでにその周囲にいた馴染みのスタッフも悲鳴に近い声をあげた。 「まじで?」 「切るの? 切っちゃうの?」 「うわぁ、あの阿達さんが」 いつも髪を切ってもらってるお店にて。 そんなに驚かなくても。でも、今まで何度も勧められて、その度に断ってきた。その史緒が自分から言い出したのだから、店員の反応も無理ないのかもしれない。 「はぁ。よろしくおねがいします」 「うわぁ、テンションひく〜ぃ。もっとこう、切るぞっ、ていう意気込みは無いの?」 「無いです」 「そうかー。て、本当に? 短くしちゃっていいの? どういう風の吹き回し?」 「ええと、…なんとなく」 「あっはは〜。頑固に切らなかった阿達さんが、なんとなくで切っちゃうんだ。いいねぇ」 「いい、ですか?」 「うん。ずっと残してきた スタッフはニコニコしながら史緒の髪に霧吹きを掛けていく。 いい意味で心境の変化? それはあまり認めたくない。 「自棄になってますよ」 「あれ? そうなの?」 「今日、ある人に髪をひっぱられてものすごく痛かったから。また同じことをやられるくらいなら、いっそ短くしたほうがマシだと思って」 その口調から正しく思いを受け取ったのか、受け取ってくれなかったのか、「なにそれ。どこの小学生?」スタッフはからからと笑って、史緒の髪に鋏を入れた。 ■ アダチ社内にて。 篤志が遅い昼食を摂ろうと食堂に向かうと、ばったり一条和成に出くわした。相変わらず、同じ部署にいながら顔を合わせることは少ない。元々、あまり仲が良いとは形容しづらい相手だ。世間話をするような気安さもあるような無いような。けれど、このときは近況報告もかねて一緒に昼食を摂ることになった。 「司くん、今日、出発だったんでしょう? 時間をもらって見送りに行けばよかったのに」 時間をもらって、のあたりは本心ではないだろうけど、和成は気を遣うように言った。 もちろん、最初は篤志もそうしようと思っていた。けれど、司は「そういうの苦手だから」と見送りを一斉に断った。代表として史緒が行くことで、司もしぶしぶ頷いたようだけど。 それを言うと、和成は司らしいと笑った。 「───ぁ」 と、和成が声を上げたのは食堂に着いたとき。 「なに?」 篤志が振りかえると、和成は驚いたように言う。 「髪、切ったんですね。今、気付いた」 「あぁ」 そう、篤志はいつも束ねていた髪を、数日前に切っていた。正面から見ただけではあまり変わらないので気付きにくいようだ。 「 「それだけが理由なら、もっと早く切っていたのでは?」 「確かに」 「そういえば、初めて会ったときから髪をしばってましたよね。この時期に切ったのは理由があるんですか?」 ここ数ヶ月はその理由になりそうなことが沢山あったし、と和成は暗に言う。 「当たらずとも遠からず、といったところです」 「へぇ?」 「単純ですよ。髪をしばっていたのは、櫻との印象を変えるためだったから」 和成はその意味を考えるのに少し時間がかかったようだ。でもすぐに納得したように笑う。 「じゃあ、もし、櫻が眼鏡を掛けてなかったら、君が伊達眼鏡を掛けてた?」 「そうそう、最初にそれを考えました。視力が落ちたらコンタクトにしなきゃならなかったな」 櫻が眼鏡を掛け始めたのは篤志がまだ亨だった頃だ。櫻が「変わってしまった」時期と同じ頃だった。 篤志として対面したときも、まだ眼鏡を掛けていた。そして今も。 注意深く見れば、眼鏡に度が入っているか無いかは判る。 櫻が眼鏡を掛けているのは、視力が悪いせいじゃない。 そのことを篤志は気に掛けていた。 ■ 櫻は、気を落ち着かせてから戻ってきた三佳を送り返した後、車を返してホテルへ戻った。 エントランスに入る前に、なんとなく足を止めて空を仰ぐ。 とくに気に留めるものはない。 一瞬、両眼を細めただけで、櫻は視線を戻す。 フロントで鍵を受け取ってエレベータに乗る。そして部屋に辿り着いたところで───青くなった。 「…っ」 櫻は思わず腕時計を確認する。まだ昼過ぎだ。なぜ。 『ハルの嘘吐き!』 部屋の中にノエルがいた。仁王立ちで、少しも抑えようとしない怒りを表して。 『今日は一日部屋にいるって言ったじゃん!』 確かに、朝、別れるときはそう言った。 『悪かった。急用ができたんだ』 『せっかく早く帰ってきたのに!』 『ごめん』 『…』 素直に謝る櫻に気を削がれたのか、ノエルは口を噤んで頬を膨らませる。いつものことだ。 ノエルの次の出方は見当がついてる。櫻は黙ってそれを待った。 『…なんでも言うこと聞く?』 結局それで許してしまうことを本人も自覚しているのか、ノエルは悔しそうな表情で言った。 『聞くよ』 『ほんとに?』 『あぁ』 『ごはん食べにいこ』 『なんだ、それだけか』 『そのあと、ハルのお母さんのお墓参りに行きたい』 『───』 『あれ。…だめ?』 心配そうに覗き込んでくるノエル。 その自分がどんな表情をしているかなんて考えたくもない。 見られたくなかった。 でも目を逸らすこともできないのは、ノエルの瞳の色から目が離せなかったから。 そこにたくさんの思いや記憶を見てしまうことを恐れて、櫻はきつく目を閉じた。 『いいよ。行こうか』 『やった! じゃあ、着替えてくる! 待ってて!』 『…そのままでいいだろ』 『だめーっ、こういうのは大事なのー』 振り向きもせずにノエルは自室にこもってしまった。 昼食を摂ると言っていたけど、出発は一時間後になるかもしれない。 櫻は溜め息を吐いて、煙草を吸うためにベランダに出た。 ENDEND |