326. 追跡(BlueRose/誰かと誰か)



 時々、目的を見失うことがある。
 涙が出るくらい不安で苦しくて弱気になって。自分に自信がなくなって。
 気が付くと大きな溜息を吐いていて、周囲に鬱々とした空気を撒き散らしている。

(私、ここで、なにやってるんだっけ)

 根本的な問題にまで遡ったりして。

 なにが悪いわけじゃない。考えたって無駄なのは分かってる。
 本当に、時々、そういう時期があるだけ。
 なにもかもうまくいかない日々が通り過ぎるのを待つだけ。


 ここから逃げ出して、家に帰りたくなってしまう自分を慰めるのに必死になりながら。







 どういうわけか、目の前には牧歌的な風景が広がっている。
 圧倒される視界の広さがそこにあった。一面の牧畑は息を飲むほどやさしい色をしている。あちこちに転がるロールベールはまるでジオラマのよう。その中にいる、私。
 遠くで水辺が光っているのが見えた。
 人の手が加えられてない樹木の整列があって、その枝からあたたかな光が射す。赤土の小径を照らす。小さな虫が列をつくって、石の下に潜っていった。
 とても静か。
 無音ではない。鳥の声、水の音、風の音。けれど、意識しなければそれらは音ではなかった。景色の一部だった。
 毎日、騒音の中で暮らしていたことを自覚させられる。
 立ちつくしているのに疲れて、でも今そこにある風景から目が離せなくて、そのまま草の上に腰を下ろした。
(地面があたたかい)
 そんな当たり前のことにも感動してしまう。
(そっか。地球ってあたたかいんだ)
 いい歳してなに馬鹿なことを。頭の片隅で冷静さを残していても、とても敵わない大きなものがそこにあることを、体は知っていた。
 やさしい時間。やさしい景色。大気が心地よい。溶けてしまいそう。
(このまま溶けちゃってもいいかな。…あぁ、ダメダメ)
(会いたいな)
(───…帰りたいな)



「え。うぁ」
 数時間ぶりに人の声を聞いた。
 その、意味をなさない言葉、でも確かにすぐそばで聞こえた声に振り返ると、大きな目を大きく開いた女の子が立っていた。女の子といっても10代の後半くらい、Tシャツにジーンズという軽装で手荷物はなかった。近所の子だろうか。
「びっくりしたぁ! 妖精が唄ってるのかと思ったの!」
 そう言われて、いつのまにか口ずさんでいたことに気付く。またやってしまった。これでいつも、「真面目にやれ」って上司から怒られてるのに。
「こんにちは。あなたこそ、そこの森に棲む妖精じゃないの?」
 この景色の中でならそう言われても信じてしまいそうなくらい、身丈の割りに無邪気な雰囲気を持つ娘だった。両手を口に添えて笑う仕草もかわいらしい。
「ふふふ。ううん、あたしはこの道をまっすぐ行ったところのお家に住んでるの。人間だよ」
「あら、残念」
 つられて笑うと、彼女は人懐っこく近づいてきて、すぐ隣り、草の上に座った。
「きれいな声。歌もステキね」
「ありがとう」
「あっと、ごめんなさい。あたし、じゃましちゃった?」
「そんなことないわ。誰かとお話したいと思ってたところよ」
「ほんと?」
「ええ。あなたは散歩中だったの? いい天気だもんね」
「ううん。家族と喧嘩して、家を飛び出してきたの」
「まぁ」
「向こうから謝りにくるまで許さないつもり!」
「いいの?」
「いいの!」
 彼女は素直に怒気を表しふくれっ面を見せる。その仕草がかわいくて思わず吹き出してしまった。
 華奢な手足とか、ふわふわの髪の毛とか。
(いいな〜。女の子も欲しかったな〜)
「お姉さんは? この近くの人?」
 お姉さんという歳でもないのだけど。
「いいえ。バカンスで」
「この辺、なにかあるっけ?」
「目的があって来たわけじゃないのよね。仕事仲間の一人がすぐそこにコテージを持ってて、今、6人で来てるの。ちょっとした社員旅行」
「へ〜」



 ここに来たのは2日前。
 そして3日前に───仕事場から追い出された。
「調子が戻るまで帰ってくるな」
 普段、あまり感情を荒げない上司はやっぱり静かな声で、でも重い言葉を投げた。
 生活のほとんどを占めていたものを奪われた、絶望感で泣きたい。
(ここでの私には、これしかないのに)
 追い出された表通りで本当に泣きそうになったそのとき、どういうわけか他の仕事仲間も仕事場から転がり出てきた。同じく、追い出されたのだという。
 そして、これまたどういうわけか、誰かが、
「じゃあ、このままみんなで旅行に行こうぜ」
 と、言いだし、
「あ。うち、最近、別荘買ったの。みんなで行かない?」
「おー! 行く行くー」
「最近、詰めてばっかだったしなぁ」
「やったー! 羽根伸ばそー!」
「じゃ、今夜、集合。よろしく」
 と、口を挟む隙すら無く話がまとまってしまった。
「え。待って。だって」
 仕事場に残ったのは上司一人だ。みんなの仕事も止まってるのに。
 私が、うまくできないから。
「いいの、いいの。たまには休まなきゃ、いいものは作れないよ」
 結局、半ば強制的に車に押し込められ、その日のうちに街を発った。

 上司も、私に休ませるつもりだったのかもしれない。
 みんなは、元気づけようとしてくれてるのだろう。

 ありがたいけど、やっぱり情けなくて、少し涙が出た。


* * *


 いつも都心に住んでいるので、目の前の自然に体が驚いている。
 地方とはいえ、すぐそこは大きな工業都市がある。けれど、一歩郊外に出ればこれだ。本当に、人間が支配したつもりになっている土地など僅かでしかない。
 高い建造物に囲まれて暮らしている私が、こんな平坦で広大な景色の中にいるなんて、なんだか現実離れしている。そして、若い女の子と並んで草の上に座っているのも、やっぱり現実離れ。
「じゃあ、お姉さんは、仕事場から追い出されてここに来たの?」
 物怖じせずにはっきり言われるのはいっそ清々しい。
「そうなのよ。いつまでいるかも決まってないの。行き当たりバッタリ」
「お仕事って、なぁに?」
 質問に答えると、彼女は少し驚いた様子だった。でもすぐに納得したように頷く。
「へー! ステキだね」
 その後、彼女と、すぐそばに生えている草の話になった。そして小さな花。鳥。虫。彼女は詳しかった。
「だって、ここは私が生まれ育った土地だもん」
 そう言って、整えられた指先で、躊躇なく土をいじる。

(私も帰りたいな)
 生まれ育った土地に。仕事場でもマンションでもない、遠い海のむこう側。
 なにもかもうまくいかない、この日々を捨てて。









 あの時、私は、どんな言い訳で自分を走らせたんだろう。
 「彼ら」と離れていい理由なんか、なにひとつ無いのに。


「なんのためにいるのかなーって、考えちゃうのよね」
「なんのため、って。お仕事のためでしょ?」
 率直なのか単純なのか。彼女の明快な物言いに苦笑い。
「う〜ん、…それはそうなんだけど」

 あの時。
 また仕事したいと言ったとき、夫は反対しなかった。
 奨励もしなかった。
 いつもそうであるように、悩んでいる私の判断を辛抱強く待っていてくれて、私の意思を尊重してくれた。
 そう。自分の意志でここまで来たはずなのに。
「うまくいかないときだけ、家に帰る理由を捜しちゃうの。帰ってもいい理由。逃げてもいい理由。言い訳ばっかりで、今は自己嫌悪中」
「あ。それは解る」
「そう?」
「うん。あたしもね、今は久しぶりに帰ってきてるけど、普段は仕事で、ここにはたまにしかいないの」
 ちょっと驚いた。彼女の外見は若いけど幼いとは言えない。それでも働いてるようには見えなかったので。
「よく怒られるの。甘えただし。泣き虫だし。失敗もするし。ぜんぶヤになって、ここに帰りたくなる。───だって、ここは優しいもの」
「……」
「ぜったい、あたしを肯定してくれるって、判っちゃってるのが、問題」
 彼女は初めて憂いのある表情を見せた。
 言葉の意味はよくわかった。
「…そう、ね。おんなじだね」
「ね」
 彼女の言うとおり。
 私も、自分を裏切らないと判っている場所を逃げ場にしている。
 「彼ら」がいる場所をそんな風にしたくないのに。
 もっと掛け替えの無い価値が、そこにはあるのに。


「おーい」
 道の向こうからうちのスタッフが歩いてきた。そういえば、言伝もなくひとりで出てきてしまったので、もしかしたら捜させてしまったかもしれない。
「サカモトもこっちに来たってさー」
「はーい」
 草の上から腰を上げ、裾を払う。行くの? と見上げてくる彼女の視線に笑って返した。
「あなたも来ない? お茶くらいなら出せるわ。おみやげにお菓子もあるかも」
「いいのっ!? わーい。いくいくー」
 飛び上がるように彼女は立ち上がり、あたしの手を引いて乾いた土の道を歩き出す。道の向こうでスタッフが手を振っていた。

 坂本くんは半月前から帰省で留守にしていた仕事仲間(スタッフ)の一人。私たちが旅行に出ていることを知らなかったらしい。
 コテージに戻ると、坂本くんは玄関口で大きな荷物をおろしていた。
「もー、なんでみんないきなり旅行とかしてるんすか。仕事場に行ったら、デニスが一人でいるんだもん。怖かったよー」
 と、くたびれた様子でぼやく。
「おっかえりー」
「みやげは?」
「ありますよー」
「食べ物?」
「萩の月(仙台)買ってこいって言ってたでしょ。俺、東京なのに」
「どうせ空港で買えるんだろ?」
「お茶いれるね」
「カップ出してくる」
「すげぇ荷物だな」
「アパートにも戻ってないんすよ。空港から直接スタジオ行って、また空港にとんぼ返りですよ? デニスがおっかない顔でここに行けって言うから〜」
「そのおかげで、俺たちは土産が食えるわけだし」
「感謝、感謝」
「あれ、この子は?」
「近所の子。私が連れてきたの」
「うわ、すげ。誘拐?」
「そう」
「あれ。これって誘拐だったんだ?」
「そうよ? 身代金をどうするか一緒に考えましょうか」
「じゃあじゃあ、マーサのバースディケーキ一緒に作ってくれなきゃ帰さないぞーって言って! そのせいで喧嘩したの」
「わかったわ。それでいきましょう」

 悪ノリもたまにはしてみるものだ。
 とりあえず、彼女の家に電話をしようと電話番号を訊ねると、
「え。あ、んっと。…わかんないや」
 という。けれどスタッフの一人が「ああ、あそこの大きな家でしょ」と、電話帳からすぐに調べられた。
 彼女とスタッフたちがお喋りをしているあいだに電話を掛ける。
 すぐにコールはやみ、落ち着きのある男性の声が名乗った。少し掠れて聞こえる。初老の紳士という感じ。年季のいった丁寧な対応にこちらまでかしこまってしまう。彼女の名前を出すと「お待ちください」と言われ、やけにクラシカルなメロディの後、若い男性の声に変わった。彼女と知り合って家に招いていることを伝える。それから、一応本題であるはずの、彼女からのかわいらしい要求も。すると、電話の向こうは黙ってしまった。
(あれ。…う〜ん、ジョークの通じない人だったのかな)
「ごめんなさい、夕方までには送りますので心配なさらないでください」
 と付け加えると、大きな溜息の後、
「今から迎えにいきます」
 と疲れたような声が続いた。


「もうひとつおみやげなんすけど」
 と、坂本くんが言った。
「なぁに?」
 差し出されたのは音楽CD。
 ぱっと見た限りではジャンルを推測しづらい。アルバムの名前は英語、アーティスト名はアルファベット2文字。ジャケットは人物ではなく風景写真だ。
「今、向こうで話題のバンドなんすけど、なかなかイイですよ。聴いてみませんか」
「わぁ、聴きたい。流して流して」
 リビングにはオーディオデッキとスピーカがある。坂本くんはそこにCDをセットし、音量を調整した。
 そして曲が流れ始める。
 アップテンポの元気の良いオケ。ドラム、ベース、ギター、シンセ。
 そしてボーカルが重なった。よく通る澄んだ声。聖歌隊にいてもおかしくなさそう。でもつい笑ってしまうくらい元気がよくて、楽しそうで、教会より街にいそうな親しみやすさがあった。
「───……え」
 なにかが、頭の中を通り過ぎていった。
 反射的に体中の筋肉が飛び跳ねて。
「…これっ」



「わお」
「たっかい声!」
「てか、これ、何語?」
「若い子かな、なんとなく」
「だとしたら、なっまいきな歌いかただなー」
「技術はまだまだ」
「でも楽しそう! 聴いていて気持ちいいよ」
 スピーカからの歌声にスタッフたちの批評が重なる。
「なんか…似てる?」
 私の目の前で彼女が呟いた。なにに、とは問えなかった。




 息を止めて愕然とする。私は、怖かった。
 怖かった。


(来た)
 調子が悪いなんて嘆いてる場合じゃない。行きずりの女の子に愚痴ってる暇なんて無かった。
(知ってたはずなのに)
 忘れてたわけじゃない。この子がいること。いずれこの世界に来ることも。
 でもまだ幼い子供だと思っていた。最後に会ったときと同じ、友達と遊び回って、泥だらけになって帰ってくるような。
 私は、油断していたのだ。───恥ずかしい。
(もう、来た)
 足音がする。それは近づいてくる。振り返らなくても判る。それが、誰であるかなんて。
 簡単に追いつかれるわけにはいかない。みっともない背中を見せるわけにはいかない。

 なんのために、私がここまで来たか?
 あの子がかつての私と同じ仕事をしたいと言った。
 幼い子供だったけど、真剣に、まっすぐに。
 いつまでも私の隣りにいてくれるわけじゃない。隣りで唄っててくれるわけじゃない。
 いつかは背を向けて、離れていってしまうんだ。
 そんなのやだ!
(私は、あの子の目標で居続けたいの!)

 そのために、私は。



 足を止めてる時間なんて無い。
 置いてきたものが、なにもしてないわけじゃない。

 どうして。
 離れている大切な人が、別れたときのままでいると思いこんでいたんだろう。


「……」
 自然と口元が緩む。
 最高のライバルが出てきた。その高揚感に。


「坂本くん!」
「はい」
「このCD、もらえないかしら」
「いいですよ。どうせこっちでも買えるし」
「ありがとう。宝物にするね」
「そんな大げさな」
 戸惑う坂本くんをよそに、デッキに駆け寄り、停止ボタンとイジェクトボタン。スピーカから流れていた歌は曲半ばで消えた。
「あー!もっと聞きたいのに」
 後ろからの抗議も無視してCDを自分のポータブルに格納。ささやかな独占欲が満たされて心なし気持ちが落ち着いてきた。
 次になにをすべきかは解っていた。
 柱の横にある電話を取り、暗記しているナンバーを押す。
「デニス? 私よ、───ええ、すぐ帰るから待ってて!」
 がちゃぎり。
 荷物をまとめなきゃいけない。その前に彼女を家まで送って行って、お礼を言って。飛行機の手配と、あぁ、そう、ポータブルのバッテリは充電しとかなきゃ。
「えっ、帰んの?」
「あと数日はのんびりしてこーよー」
「先に帰るわ。みんなはゆっくりしてきて。本当に、勝手でごめんなさい」
 そのままバッテリを取りに2階へ行こうとしたら、何故かスタッフも立ち上がる。
「あーあ」
「うちの姫さんが行くったら、行くしかないでしょ」
「ここにいても、どうせすぐ魔王から呼び出しかかるだろうし」
 嫌みのない諦め。文句を言いながらもみんな動き始める。
「せっかくお友達になれたのにごめんなさい、行かなくちゃいけないの」
 彼女は新たな発見をしたかのように嬉しそうに笑った。
「よかった、元気になった?」
「ええ!」
 彼女につられて笑う。おそらく数日ぶりに、心から。
「おーい。お嬢さんの迎えが来たよー」
「はーい。あ! ちゃんと、要求飲むか訊いて! あたしは誘拐されたんだから!」
「はははっ、“やだよ”だってさ!」
「むか〜! もぉ! 来週にはこっちに来るんだよ! いーかげん観念しなさい!」

 彼女は玄関に向かって走り出す。
 私も、行かなきゃ。

「ねぇ! お互いがんばろうね!」
「うん! 負けないよっ!」

 私だって負けられない。
 なによりも、背後から追ってくるあの子に。







ENDEND

20080415 20080503