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01話「過去」 ※読み飛ばしても問題ありません


 都内に事務所を構える「A.CO.」所長・阿達史緒(あだちしお)、1998年現在17歳。
 戦後発展を遂げた、電機・貿易・銀行などで活躍する総合グループ「ADACHI」の社長・阿達政徳(あだちまさのり)の娘。
 母親は1994年に病死。

 彼女には嫌いなものが3つあった。

 実家。煙草。そして桜。






  *

 1988年5月。

 ───目が覚めたとき、自分は死んでいた。

 春のやわらかな日差しをうける病院の一室。白い室内に漂う薬の匂い。窓の外には青青とした新緑、抜けるような空、鳥の声。
 聖域。
 穏やかな空間だった。
 ベッドに横たわる12歳の少年は、ひと月ほど前に負った怪我のせいで上半身を起こすことさえまだできないでいる。
 背───右肩からななめに走る傷は、幸い治療が(はや)かったこともあり跡は残らない。しかしそれでも半年間の入院、その後の何年間かの通院とリハビリが続くことは言い渡されていた。
 包帯が覆う痛々しい体をいたわるように、付き添いの女性がその名を呼んだ。
「その名前も捨てるよ」
 少年は抑揚のない声で呟く。しかしその声には明らかに、何らかの意志───決意が込められていた。
 傷つけられた体は全快の兆しを見せていない。それなのに少年は、その、もっとずっと先のことを眺め、すでに歩き始めている。
「…史緒をお願いします。僕は必ず戻るから」
「───」
 女は嗚咽を洩らさないよう歯を食いしばり顔を伏す。この12歳の少年の思いの強さに、泣いた。
 力強くその目的を吐くと少年は窓の外をまるで睨むように眺める。
≪たどりつく為に≫
≪あの場所へ帰る為に≫
 再び出会う為の、別離。
 女は左手の薬指から指輪を抜き、少年の手のひらで握らせた。
 二人、微笑み合う。
「次に会った時ははじめましてって言うわね。この名前で呼ぶのはこれで最後よ…」
「さようなら、咲子(さきこ)さん」
 咲子は少年の頬に優しくキスをして、その耳元へその名を静かに囁いた。
 それが最後だった。






  *



 利己的な復讐。






  *

 1994年。

「櫻を恨まないで。大丈夫、あなたを守ってくれる人が現われるわ。…そういう約束なの」

 自室のベッドの上、母は苦しそうに、だけど笑顔を向けてそう言った。






  *

 1988年2月───香港。

 その水晶玉は蒼かった。
 ゆらめく光。
 海のように。風のように。
 未来を映しだす。

 繁華街の片隅、雪が降っているにもかかわらず、その小さな少女は道端に座り込み、食い入るようにその水晶を眺めていた。背後では雑踏がうごめき人々は帰路を急ぐ。街灯がともり、9年後に返還を控えた英国直轄植民地のこの国に、この街に夜が来ようとしていた。
「お嬢ちゃん。なかなか高価(たか)そうな服を着てるねぇ。もしかしていいお家の子かい?」
 自称占い師の老婆はしわだらけの顔で優しく笑った。
「…わかんない。お父さまはいい人よ」
 5歳くらいかと思われる幼女は真剣な顔で無邪気な返答をする。
 しかし実際、幼女の服───毛皮のコートと同じ配色の帽子、ブーツといった格好、それに行儀の良さは一般家庭の育ちではなさそうだった。
 名は蓮蘭々という。
 占い師は水晶に手をかざす。何やらぶつぶつと唱えると、水晶はかすかに光った。ように見えた。
「ほぅ…。お嬢ちゃんは一風変わった人生を生きるよ」
「どうしてわかるの?」
「水晶が教えてくれるのさ。ほら、言ってる。お嬢ちゃんは一生のうち、たった一人だけを愛するってね」
「アイスルって何?」
「口では説明しにくいけど、その人のことを好きってことだよ」
「蘭々、みんなのこと好き」
 何と言ったらいいものか、老女は困惑してしまう。
「特別に一人…近くにいると幸せな気分になったり、嬉しくなったりする。胸がどきどきしたりすることさ」
「……」
 今度は蘭々が黙り込んだ。文字通り胸に手をあてて考え込んでいる。
 老女は苦笑して、蘭々の頭を撫でた。
「そのうち逢えるよ。その運命の人にね」
 その言葉とはうらはらに、蘭々はすでに心の中で一人の名前を呟いていた。
(亨さんだ)
 運命のただ一人のひと。
 そう考えると蘭々は嬉しくなって、幸せな気持ちになって思わず微笑んだ。
 多少強引ではあるが、その名前は蘭々の中で揺るぎの無い地位につくこととなる。
「そう、それからね、珍しいことにね」
「え?」
「お嬢ちゃんは、その人と、2度、初めて出逢うことになるよ」

 ただ一人、愛するひと。






  *

 1997年1月。

 罪。






  *

 1997年3月18日。
 東京晴海。
 桐生院由眞(きりゅういんゆま)により、4人の男女が招集された。

 的場文隆(まとばふみたか)御園真琴(みそのまこと)阿達史緒(あだちしお)。そして國枝藤子(くにえだとうこ)


 同27日。

「最初に言っておくが、國枝藤子」
 再び4人が集まったとき、的場文隆は苦々しい声で言った。
「なーに?」
「おまえとは付き合いたくない。顔を合わせるのは桐生院の前だけにしてもらいたいな」
 厳しく吐き出す文隆の台詞を、藤子は顔の筋肉一つ動かさないで聞いた。
 真琴と史緒の二人は、文隆をなじることも、藤子を庇うこともしなかった。文隆がそう言うだけの事情は知らされていたから。
「別に構わないわ。一緒に仕事することなんて、ありそうにないし」
「あたりまえだっ!」
 表情を変えない藤子に憤りを感じて、つい怒鳴ってしまった。しかし後悔なんてしてない。藤子は「嫌な奴」なのだ。
 文隆は二人に向き直って尋ねた。
「史緒たちは?」
「ま、僕もあまり仲良くしたくないとは思うよ」
 真琴が答える。
 史緒は少し考えてから、遠慮がちに呟いた。
「私は…違う。いろいろ話してみたい。仕事以外のことも」
 この言葉を聞いたとき、滑稽にも他の3人が目を見合わせた。史緒は笑っている。


 その後、時間をかけた話し合い(?)のすえ、4人の奇妙な人間関係が確立した。







01話「過去」  END
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