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06話「こんな日」 |
家庭学習期間。それは高校三年生に与えられた、最後の長期休暇のことである。 その休暇。受験勉強に励むか、はたまた人生最後の長期休暇になるかは、その人の進路によって大きく左右される。さらに選択肢はもう一つ、受験勉強もなく人生最後の長期休暇でもない場合もある。進学の内定をもらっている、もしくは進学も就職する予定もない者がそれだ。 ちなみに三高祥子の場合、一番最後の項目があてはまる。 と、まあそんなことはさておき、突然だが今日は土曜日だ。普段なら休日である。 そして先に述べた家庭学習期間、それには登校日というものもある。遠回しな言い方だが、長期休暇中の唯一の登校日が、通常休日であるはずの土曜日とブッキングしたのが今日という日だった。 つまりそういうこと。 都立佐城高等学校。 「おっと、三高さんだ。バイバーイ」 はた、と昇降口で靴を持つ三高祥子の手が止まる。 ホームルームも終わり、帰ろうとしていたところで、後ろから明るい声がかかった。 少しの時間、本当に自分にかけられた声なのか考えて、かなり遅れて上体を上げる。正直驚いた顔で声の方向を見た。そこにはクラスメイトが一人、笑顔で立っていた。 返す言葉はかなり遅れたはずなのに、無視されたとも思わないで、そこで待っていてくれた。 「・・・・・・・・・あ、さよなら」 ようやくそれだけ、ほとんど無意識のうちに呟いた。 校内で祥子に声をかける者はほとんどいない。それは今までの祥子の態度を考えれば無理もない。 だから祥子は驚いた。それは当然のことといえる。 しかしその後、どういうわけか挨拶をしたクラスメイトのほうも、目を丸くしている。 「うわー・・・」 その呟きにどんな意味が込められているのか見当もつかず、祥子は眉をしかめた。 「え? なに?」 「三高さん、挨拶返してくれたの、初めてじゃない?」 (──────) 取りようによっては失礼に聞こえなくもないが、声をかけた人物はそう思わせる人柄ではなかった。祥子は出しかけていた靴を下に置く。 「・・・そう?」 「そうだよっ。最近雰囲気変わったなーとは思ってたけどさ。何かあったの?」 (・・・・・・) もちろん、クラスメイトは誉めたつもりなのだろうが、祥子は複雑な心境だった。 本人にも、自分が変わったという自覚はあるのだ。 阿達史緒たちと出会ってから。 にもかかわらず、祥子はその性格から、学校での態度を突然変えることなどできないでいた。エサのいらない猫をかぶるしかない。 「じゃあね、三高さん。また卒業式に」 走り去るクラスメイトに軽く手を振る。心なしか顔も笑っていた。 「・・・」 昇降口に残された祥子は、その自分の手をじっと見つめる。 こんな些細な動作さえ、一年前はできないでいた。 誰とも関わらないようにしていたから。 どこへ行っても排他的な人間は孤立するだけだ。その意味で、今の自分のほうが人間的に良い方向に向かっているのはわかる。けれど祥子の心の中には、史緒に対する感謝の気持ちは生まれていなかった。それには史緒の祥子への態度に対する反発も含まれているが。 (史緒以外の人達には、感謝してるけどね・・・・・・少しは) 素直じゃない自分への指摘を打ち消そうとする自分を否定する。乱暴に頭を振って、昇降口を出た。 この季節にしては、気持ちの良い空が広がっている。足を止め、空を仰ぐ。 いつからか、ここを出る時に空を見るのは祥子の癖になっていた。だけどここからの景色も、もう見れなくなる。 少しは、あの夏のことを思い出さなくなるかもしれない。 (・・・卒業、か) そういえば、と祥子は足を進めながら思った。。 (そろそろ、一年経つのか。史緒たちと会ってから) * * * A.co.は基本的に土日は活動しないので、緊急時以外、仕事は入らないことになっている。故に休日なのだ。ほぼ毎日顔を合わせているメンバー達とも、休日ばかりは見納めである。と、思ったら大間違いである。 例えば先週の日曜日。 元来仕事虫な性質なのか、阿達史緒は平日と変わらぬ事務作業を行なっていた。内部での処理はパソコンを使うが、最終的に提出する書類はパソコンからのハードコピーだけでなく、伝票や領収書それに依頼書など証拠書類が添付される。2度手間とも言えるかもしれないが、パソコンのデータを参照しつつ、書類を揃えるしかない。史緒の仕事が多い由縁でもある。 土日は誰もいないし、集中してできるかな。 と、史緒のそんな思惑が外れたのは、今回が初めてではなかった。 「・・・・・・」 どういうわけか、事務所には仕事が無いはずのメンバーが集まっている。 していることと言ったら、いつもの雑談やカードゲーム、他いろいろ。 皆いい若者なんだから、休みの日にすることくらいあるだろうに。 そんな目の前の景色を見て、彼女は大きな溜め息をついた。 所長である阿達史緒はこう考える。 (要するに、皆、暇を持て余しているわけね) 「それ・・・。ずいぶん情緒の無い意見だと思うよ、僕は」 ティカップを持ち上げて、半ば呆れながら、御園真琴が呟いた。 「史緒らしいけどな」 さらに的場文隆も頷いて賛同する。 心理学をかじったと聞いた覚えがあるが、それは記憶違いではなかろうか。いつもはクールな彼女だが、ときどき妙に間の抜けたことを言う。 二人から白い目を向けられて、阿達史緒は居心地の悪い空気を味わった。しかしその視線の意味が分からないのでは、対処のしようがない。 「どういう意味よ」 そう言い返すのがやっとだった。 三人は、東京都晴海の某ビルにより近い建物の一階で、少し早めの昼食をとっていた。出窓に植木が並んでいる為、店の中は少し薄暗い。レストランとも見えない雰囲気だが、昼時になれば、近隣のビルからやってくるビジネスマンで溢れるのだ。 外の景色は三色。建物の灰色、街路樹の緑、それに空の蒼。見上げるほどのビルが立ち並ぶ通りで、ここへ来る途中すれ違うのは、背広の上にコートを羽織った人間ばかりだった。しかし昼休み前のこの時間、あまり外を出歩く人はいない。下手すればゴーストタウンのように見えるのではないだろうか。 そのビジネス街で、三人の若者が昼飯を食べていれば目立つことこの上ない。と、思われるかもしれないが、実際は違った。三人はなかなかうまく、この街に同化していた。 三人の中で、的場文隆が21歳で最年長。そのせいか彼らが集まった時は、自然と彼を中心に話がすすむ。次に20歳の御園真琴。二人ともスーツを来ていて、その年齢の低さを感じさせなかった。阿達史緒は現在17歳。タートルネックのシャツにブレザー、タイトスカートといういつもの格好だ。そして赤い人工石のイヤリング。幼さは抜けきれないが、その表情には落ち着きが備わっていた。 月一の会合。 それは3人が所属している協同組合Tokyo Infomation Managementとは何ら関係を持たない。的場文隆、御園真琴、阿達史緒、そしてもう一人を傘下に持つ桐生院由眞への、早い話が業務報告の日なのだった。 テーブルの上には付箋をつけた書類が散らばっている。それに、3人は最後のチェックを入れる。協力して片付けた仕事、一部仕事の要請を出した仕事は、お互いのサインが必要だった。一応付け加えておくと、散らばっている書類は、全て当たり障りの無いものだ。不用意に外に出せない資料などは、鍵付きのアタッシュケースの中にある。 「國枝藤子はどうした」 それからやっぱり、こういう話題になる。 集まるべき人数が一人足りない。会いたくもないが、文隆が不機嫌な声で言った。そして当然のように、史緒が顔をあげて答える。 「今日は仕事だって。来れないって言ってた」 「はっ。仕事ね」 失笑と共に文隆は言葉を吐き出した。本当はこのあと罵倒してやりたいのだが、國枝藤子と付き合いのある史緒の前で言うほど無神経ではない。 史緒のほうは、文隆の気持ちを感じ取り、静かな苦笑を見せるしかなかった。 二人のやり取りを無表情で眺めていた真琴が呟いた。 「もしかしてあれじゃないかな」 視線は、壁ぎわの大きな液晶ヴィジョンに向けられている。真琴の言う「あれ」が、そのテレビであることは間違いない。 TVは昼のバラエティー番組を映していた。今が旬のタレントがマイクを片手にスタジオで喋っているのが見える。 「え? どれ?」 司会者のジョークに会場がどっと湧いた時のことだった。 ぽーん、と音が鳴り、画面の上の方に白い文字で「緊急速報」と出た。 それが消えると、二行ほどにまとめたニュースが同じく白い文字で現れる。 3人は声もなくそのニュースを読み、その表情を凍らせた。 誰も何も言わなかった。 その間も文字の下で、番組はスタジオ内の一般客の笑いと共に、何ら変わりなく続いている。 「緊急速報・終わり」。その文字を最後に、番組と何の関係も無いニュースは終わった。ほんの少しの沈黙の後、文隆が口を開く。 「・・・史緒。あれか?」 「・・・・・・多分」 國枝藤子の話題になると、この三人の間の空気は穏やかでなくなる。あの人物に対する見識が違いすぎるからだ。 「いい加減やめろよ。あいつと付き合うのは」 「そういうわけにもいかないわ」 「どうして?」 史緒は指を組みうつむいて、悲しそうに見えるけど、でも笑って小さく呟いた。 「私は、藤子のこと好きだから」 文隆と真琴が、藤子のことをよく思ってないことは知っている。だから堂々とは言わない。 でも、本心だ。 史緒が黙り込むと二人は何も言えなくなってしまった。 的場文隆は当の本人にも公言できるほど、國枝藤子に嫌悪感を抱いている。それは彼女の職業のこともあるが、何より文隆からのよくない感情さえネタにして、笑顔で話しかける感性が文隆は嫌いだった。 御園真琴のほうはもう少しクールで、無関心というか関わりを持ちたくないという気持ちがあった。藤子のことをよく思ってないのは文隆と同じだが、彼女の性格に振り回されたくないので、あまり近づかないようにしている。しかし真琴の性格から、もし藤子と対面したとしても邪険な態度はとらないだろう。 沈黙の穴を埋めるべく、文隆はわざとらしいほどの溜め息をついて、話題を他へと移した。 「それにしてもアダチの社長は、どう考えてるんだろうな。大事な跡取りがこんな所にいるのに」 冷やかすような視線を史緒に送る。史緒は苦手なはずの実家の話を持ち出されても、平然とした表情でその視線を受けとめた。文隆に悪意がないことはわかっている。 「それを言うなら、文隆さんのところも同じでしょ」 「うちは話し合ったよ。決着はついてないけど、むこうはもう諦めてる」 「そうなんだ」 「それにアダチは今、上層部の抗争が激しい。そろそろ後継者問題が浮上してくる頃じゃないか?」 文隆の言葉に史緒は笑った。しかし吐かれた台詞は完全なる皮肉だった。 「内部のことならすぐ納まるわよ。優秀な秘書がついてることだし」 「ああ、一条さんね」 ふんふんと頷く真琴に、史緒は苦々しく言う。 「それに父さんが口を出さないのは、まだ私たちが手のひらの上にいると思ってるからだわ。本当に必要になった時は容赦なく連れ戻す気でいるのよ」 必要になった時、というのは、利用される時という意味だ。個人的な感情であるが、どうも史緒には父親を無情な人間としてみる傾向が強い。実際、そう思わせる態度をとるのだから無理もないのかもしれないが、史緒は父親に微かな敵意さえ抱いていた。 ・・・いや、実際は敵意を持っていたい、嫌いでいたい相手・・・というのが正しい。 「大変だな、一人ってのも」 文隆の台詞はわかりにくい言葉だったが、相違なく伝わった。 二人の息をついた同情に、史緒は笑う。 「あら、兄弟がいても長男なら、大変なのは同じだわ」 思わぬ逆襲を受け、文隆と真琴は目を合わせて苦笑した。 本来ならば、この後三人で桐生院のところに赴かなければならないのだが、史緒は仕事の為、ここで引き上げる。本当なら休日なのだが、どうしても都合のつかない依頼があったのだ。 二人の了承はあらかじめもらっていた。 腕時計に目をやる。史緒はざっと帰り道の所要時間を計算して、腰をあげた。 「じゃあ悪いけど、私、先に帰るね」 「桐生院に出す書類はこれだけでいいのか?」 「ええ、よろしく」 今日は私の番だったよね、と史緒はレシートを持って立ち上がる。ショルダーバッグを片手に、手を振ってレジへと向かっていった。 残された二人は、史緒が窓の外の歩道を歩くのを見送って一息つく。 「それじゃ、僕たちも行く?」 もちろん桐生院由眞のところへだ。そろそろ約束の時間だった。 しかし文隆は立ち上がろうとせず、少し考えてから真琴のほうを向く。 「・・・煙草、吸っていっていいか」 「どうぞ。僕の前では遠慮なく」 文隆は胸ポケットから煙草の箱を出す。慣れた手つきで一本取り出し、ライターで火をつけた。それを深く吸い、大きく吐き出す。 白い煙が空を舞った。 真琴は急がせないよう、のんびりとそれを待つ。静かな時が流れた。 阿達史緒の前では煙草は禁物なのだ。 この二人を含め、A.co.のメンバーら全員、それを心得ていた。 どういう理由からは公にされていないが、史緒は極端に煙草の匂いを嫌う。目の前で吸っていたりしたら、すぐその場から立ち去ってしまうだろう。それはわがままとも言えるが、史緒との信頼関係を継続させる為に、喫煙を遠慮するのは必要なことだった。 しかし愛煙家の文隆もそれを苦に思うことはない。要は彼女の前で吸わなければいいのだから。 「実際のところ、どうなると思う? 史緒の実家のこと」 短くなった煙草を片手に、真琴に話をふる。真琴は軽く視線を向け、少し間をあけて口を開いた。 「何とも言えないけど・・・このままの状態が長く続くことはないだろうね。いつか来るよ、本当に」 「大変だな。篤志も・・・司もか」 これは同情とは違う。傍観を決めこむ意図が含まれているが、二人は現状が維持されることを望んでいた。史緒たちが家のこととは無関係でいてくれることを。 それでも結局は、本人たちが解決しなければならいことだと、誰もがわかっていた。 最後の煙を吐き、煙草をもみ消す。銀色の灰皿に少しの焦げめを残して、ジュッと音をたてた。それを合図に二人は立ち上がり、店を後にした。 * * * 待ち合わせは乗り換え駅の、跨線橋沿いにある雑貨屋。午後1時半。 三高祥子は久しぶりに学校に行った後、ここで川口蘭と合流する約束だった。 この雑貨屋は2人とも気に入っていて、事務所に迎う途中の乗換駅にあることもあって、待ち合わせの時によく利用している。アクセサリー類やちょっとした小物など、ゆっくり見られる数少ない機会なのでつい見入ってしまう。 祥子がここに着いて、十五分が経過した。 キャラクター物のティカップを手にとって見ていた時、ふと、祥子は顔をあげた。 (・・・蘭?) 近づく気配がする。 これが祥子の特異なちからのせいなのか、それとも遠く蘭の声が聞こえたのかは判断できない。昔ならひどく気にしたかもしれないが、今ではどちらも自分の「感覚」だと、祥子は開き直っている。 落とさないよう、丁寧にカップを什器に戻し、店の外に出た。 「あ、祥子さん」 人波をかいくぐって見慣れたおだんご頭の少女が近づいてくる。いつもの明るい笑顔の蘭を見て、祥子も笑って手を振る。が、蘭の隣にもう一人、見知った人物を目にすると、その笑いはおさまった。 「なんであんたもいるのよ、健太郎」 蘭の隣にいたのは、同じA.co.のメンバー、木崎健太郎だった。グレーのロングコートに白いイヤーマッフル。派手な服装は好まないが、なかなか今時の高校生をやっている。 「そこで蘭に会ったんだ。行き先は同じなんだから一緒に行こうと思って」 「でも奇遇ですねー。健さんもこの駅で乗り換えなんて」 「いや、今日は例外。買い物に行ってた」 「なーんだ、安心」 「祥子、おまえなー」 健太郎と祥子のじゃれあいに蘭はからからと笑っている。 三人は少しだけ目立ちながら(無論、自覚はないが)、乗り換えのホームに向かっていった。 「蘭、何か落ちたよ」 途中、階段を降りている時、蘭のポケットから何やら落ちるのを見て、祥子は数歩戻った。もう少しでサラリーマンに踏まれるところだったのを、急いでかがんでそれを拾う。 蘭の趣味にしてはおとなしめの焦茶色のパスケース。 「定期入れ?」 「え? あ、ああぁーっ!!」 すっとんきょうな大声をあげて蘭が振り返る。その声には当の蘭だけでなく、まわりを通り過ぎる人々もかなりの割合で振り返っていた。とにかく駅の構内に響きわたるほどの声量だった。 当然一番近くにいた健太郎にとっては、耳をふさぐほどのものだった。 「・・・なんつー声出すんだ、おまえはっ!」 「だってだって・・・、ありがとうございます祥子さん。それ、すっごい大切な写真が入ってるんですっ」 「写真? ・・・まさか篤志じゃないでしょうねぇ」 祥子は持っているパスケースに複雑な視線を向け、体から遠ざける。一応礼儀は心得ているので、勝手に見たりはしない。 「あははー。見てもいいですよ」 「どれどれ?」 健太郎は祥子の隣に並び、パスケースを覗き込んだ。突然背後に立たれて祥子は、あんまり近付かないでよ、と立ち位置をずらす。健太郎は慣れてきたのか、祥子の邪険な態度をあまり気にせず、パスケースを開くよう、視線で促した。 祥子は軽くあしらわれたことに、一瞬だけむっとした。しかし写真への興味が上回り、健太郎の希望通りにする。 その写真はすぐ目に飛び込んできた。 健太郎も目を近付けてそれを見る。 「・・・誰? これ」 二人は同時に呟いた。 写真には四人の子供が写っている。女の子二人の後ろに少年が二人。 少年二人は小学生か中学生かきわどい年齢で、これは双子だ。そう言い切れるほど、二人は似ている。しかしその区別は明白だった。一人は前に立つ少女二人の肩に手をかけ、微笑んでいる。もう一人はつまらなそうに、無表情でそっぽを向いていた。前者の少年のほうが、良い印象を与えているのは当然だろう。 右側の女の子は小学校低学年くらい、おかっぱで、かしこまっている。それより二、三歳年下かと思われる笑顔全開の少女・・・。 「わかった。これが蘭だろ?」 「・・・ほんとだ。変わってない」 左側の少女を指差して健太郎が言う。祥子もすんなり納得した。 「あたりでっす」 祥子からパスケースを受け取り、蘭は写真の中と同じ笑顔を見せる。 「これが、そんなに大切な写真なの?」 「ええ。この三人がそろっている写真はこれ一枚しかないんです」 愛しそうに写真を眺める蘭の表情の素直さに健太郎は肩をすくめる。だけど蘭のその表情は、少しだけ彼女らしくない気がした。 三人は電車乗り換えのためにコンクリートの階段を昇る。今日が土曜日だということを忘れていたわけではないが、少し気を抜くと、駅構内の人の多さにはぐれそうになった。 駅の中の店舗では競って冬物バーゲンをしていて、そこでは中年の女性が群がっているし、中古ゲーム屋にも若者がたむろしている。それは健太郎の分野でもあったが、中古に食指は動かない。立ち止まることはしなかった。 (それにしても・・・) 改めて、健太郎は東京の人の多さに嘆息する。これは健太郎が地方出身者であるせいもあるが、あまり遊び場とは言えないこの駅でこれだけの人がいるということは、遊び場と言える駅ではどうなっているのだろう。 「あ、健さん」 「・・・その呼び方やめろって」 蘭の呼び掛けにうんざりしながら振り返る。が、そこにいるはずの祥子の姿が見えない。 「祥子は?」 「あそこです」 蘭が指差す方向を見やり、健太郎は何が起こったかを悟った。そして息をつく。 「あーあ、気の毒に」 歩いてきた経路の少し後ろでは、祥子がストリート系の若者二人に絡まれていた。絡む、と言うよりあれは純粋なナンパだ。本人たちは愛想がいいと思い込んでいるらしい趣味の悪い笑顔で、祥子に詰め寄っている。 三高祥子と外を歩いていると、大抵1回はこういうことが起こる。ナンパされやすい顔、と言ったら本人は激怒するだろうが、美人という部類に入る容姿だということは、健太郎も評価していた。しかし真面目とまで言わなくても、祥子は今どきの遊んでいる若者のようには見えない。男たちはひっかけられるとでも思っているのだろうか。相手を見て声をかけろと注意したい気持ちだった。 健太郎が気の毒に思ったのは祥子ではない。相手の男たちのほうだ。 「相変わらず、モテモテですねぇ。祥子さん」 「知らないっていうのは自滅的だな。オレはあの性格でお釣りがくると思うぞ」 あの程度の相手なら、手助けしなくて大丈夫。それがわかっているので、二人はあえて傍観を決め込んでいた。 しばらくすると、祥子は男たちに何やら厳しい声を浴びせ、手を振り払い、ずんずんと勇ましい足取りでこちらに向かってきた。 「何、見てるのよっ」 「べーつにー」 「健太郎っ、そーいえばあんただって、あいつらと同じ人種じゃない。よりによって史緒をナンパしたんでしょうっ?」 強引な展開で八つ当たりされて、健太郎は「うっ・・・」と言葉につまった。 「すごい度胸ですよねー。それは」 「蘭、おまえも変なところで同調するなっ」 この二人にタッグを組まれてはどうしようもない。もっとも、この二人が意見分かれすることなど、お目にかかったことはないが。 蘭と祥子が顔を合わせ声をたてて笑うのを、健太郎は息をついて見ていた。 * * * 十分ほどさかのぼる同駅。たとえばこんな日もある。 「あれ、篤志」 関谷篤志は背後から自分の名を聞いた。 「珍しいな、こんなところにいるなんて」 券売機の前、路線表を見ていた篤志が振り返ると、そこには見知った人影が二つ立っていた。。少しの驚きとともに顔を見合わせる。 篤志に言葉を投げたのは、的場文隆と御園真琴だった。この二人のほうこそ、こんなところにいるのは珍妙なことだ。 それを指摘しようとしたが、今日が会合の日だったことを思い出し、それを口にするのはやめる。 この二人は史緒がA.co.の所長であるのと同様、それぞれ事務所を構える人物であり、篤志もそのへんの事情は把握していた。 「お久しぶりです。俺はちょっと実家のほうへ行ってたんです」 「篤志の実家って横浜だっけ?」 御園真琴の記憶力に舌を巻く思いで、篤志はそうですと答えた。 文隆と篤志は同じ年齢である。真琴はそれより一つ年下だが、篤志は二人に対して同じように丁寧語を使う。それは篤志の上に立つ史緒と、この二人が同じ地位にいることの敬意を表しているからであって、決して他人行儀というわけではない。 「史緒はどうしました?」 一緒にいたはずだが、その姿が見えない。篤志は二人に尋ねた。 「急ぎの仕事が入ってるらしくて、先に帰ったよ。僕たちが代わりに桐生院に書類を出しに行って、今はその帰り道」 「なるほど」 そういえばそんなことを言っていたような気がする。 文隆と真琴は篤志が切符を買うのを待っていた。降りる駅はそれぞれ違うが、乗り換えのホームは同じなので揃って歩き始める。 しかし端から見ればこの三人組は異様に映ったかもしれない。同年代ではあるが、二人がスーツで篤志はGパンにジャンパーという格好だったから。 そういうことには全く気にしない真琴が、ふと思い立って篤志を振り返った。 「少し前に組合のほうで噂になってた・・・木崎くん、だっけ? 史緒に聞きそびれたけど、結局A.co.に入ったんだろ?」 結構騒がれた事件だったので、今もよく覚えている。篤志は笑った。 「そう。これで御園さんのところに、あまり頼らなくてもいいようにしたいんですけど」 もう一月以上前のことだが、TIA本部のデータバンクに侵入者がが入った。しかしこの事件の実害は一件も報告されていない。 実にハッカーは「入った」だけだったのだ。 犯人を割り出すところまで成功したものの、その処置に本部は困惑していた。被害は無かったのだから放っておく意見もあったが、大半の委員はその人間を見過ごすわけにはいかないと思っていた。次に侵入した時に何もしないという保証はないのだから。 それを鶴の一声で、犯人をメンバーに入れるという大胆な行動に出たのが、阿達史緒だった。 「うちにしてみれば、商売がたき登場ってとこか。どんな奴なんだ?」 「後で挨拶に行かせますよ。まりえさんにもよろしく」 まりえ、というのは御園真琴の事務所の情報処理担当者の名前だ。健太郎が来る前、A.co.は真琴のところから情報を買っていた。しかし木崎健太郎が入ったことにより、難解な情報仕入れもA.co.でできるようになり、その外注もなくなるだろう。 構内階段を昇ったところで、篤志は番線指示のある電光掲示板を横目で確認する。 「・・・っ!」 が、それを確認するだけではすまされなかった。 これだけの人の多さだ。そこいらで若者が騒いでいても、大して目立たないだろう。現に、掲示板のすぐ下で三人の男女が何やら言い合っていても、振り返る人間はごくわずかだった。 しかし、それは赤の他人の場合である。 篤志は見知った人間が、天下の公道(?)で騒いでいるのを見て、軽いめまいをおぼえた。 「どうかしたのか? 篤志」 文隆の声で我に返る。あまりこの二人に見せたくない風景だが、避けては通れないだろう。 「すごい偶然なんですが、どうやらあそこでたむろしている三人・・・うちのメンバーです」 「おまえら、公然の場で何やってんだよ」 声をかけると、蘭の表情がぱっと明るくなり篤志のほうに顔を向けた。他の二人も蘭とは明らかに別の意味の表情で振り返る。 「篤志さんっ」 「あれー、篤志」 「何やってんのよ。こんなところで」 三人三様。六個の視線を受けて篤志は肩を落とす。文隆や真琴にみっともないところを見られたことからもあるが、手間のかかる弟妹の面倒を押しつけられたような気持ちになるのはどういうことだろう。確か自分は一人っ子だったはずだが、と篤志は嘆息した。 後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。身内ではないほうの二人の意図を感じ取り篤志は苦笑するしかない。 しかしその苦笑も次の瞬間には真顔に戻った。 篤志は振り返ると同時に、牽制するように、その名前を呼んだ。 「祥子っ」 しかしもう遅い。祥子は彼女が阿達史緒に送るものと同等の視線を、篤志の後ろに立つ両名のうちの一人、御園真琴に送っていた。受ける側が決して気持ちの良くないそれを、祥子は隠そうともしない。 「お久しぶり、祥子さん」 一方、真琴のほうは、祥子からの悪意ある視線をあまり気にしていない様子で挨拶をする。下手に返答しても、火に油を注ぐようなものだ。 「・・・こんにちは」 「こら、祥子」 低く刺々しい声で、形だけの挨拶を返す。篤志の諌言は役にはたたなかった。 その様子を端で見ていた健太郎は、訳が分からず隣にいる蘭に耳打ちする。 「誰なんだ? あれ」 「祥子さんに睨まれているほうが御園真琴さん、もう一人は的場文隆さんです。・・・えーと」 説明の仕方に迷っていると、当の的場文隆が一歩前に出て、蘭の言葉を継いだ。 「君のところの史緒と同じ立場にいる者だ。つまり同業者だよ」 「・・・・・・? いてっ」 訝しげな目を返していたら、篤志に頭を小突かれた。何すんだよっ、と振り返ると、逆に睨まれてしまった。 「ちゃんと挨拶しろ、これから世話になるんだから」 「わかったよ! ・・・・・・どーも、木崎健太郎です」 半ば自棄になって、健太郎は短い自己紹介を終わらせた。 ・・・しかし。 (世話になる・・・?) 関係を把握していない健太郎の表情を読みとり、文隆はさらに続けた。 「名前はさっき蘭ちゃんが言ったな。つまり、俺とそこにいる真琴、史緒の三人は仕事上で同じ人物の下に着いている。そういう意味では身内ということになるんじゃないかな。それぞれ仕事の個性があるから、お互い協力し合っている部分もあるんだ」 儀礼的にならない程度の文隆の説明に、健太郎は下手に遠慮せず、質問を続けた。 「つまり、仕事をくれる出所は同じってことか?」 「そういうこと。組織体系はそう複雑じゃない」 ここにいる全員、頭となる人物は同じだということだ。 好奇心が旺盛ではないと言ったら完璧な嘘になる健太郎は、その人物の名前を尋ねたかった。しかし健太郎が初めてA.co.に来た時もそうだったが、こういう話になっても、その人物のことを詳しく教えられたことはなかった。秘密にしていることなのかは知らないが、ここで軽く尋ねて場の雰囲気を崩すこともないだろう。 健太郎は別の疑問を口にした。 「で? 祥子がその人を良く思ってない理由は何?」 「この人のせいで、私は史緒につかまったのよ」 不機嫌さはそのままに、少しの皮肉を込めて祥子は言った。この人、というのは、健太郎に説明してくれた人物ではないほう、御園真琴のことだ。 「健太郎は知らないかもしれないけど、あんたが来る前、史緒はこの人のところから情報を買ってたの。私がどこの誰で、学校名や家族構成、それらデータを史緒に渡したのがこの人。その情報の売買がなければ、私はただの街中で通り過ぎた他人で、史緒と関わることもなかったのに!」 全ての諸悪の根源はあんたよっ、とはさすがに口にしないが、代わりに目がそう語っているのを健太郎は見てとった。 「まぁまぁ祥子さん。もし祥子さんがA.co.に入っていなかったら、私は祥子さんと出会えなかったんですよー」 私は祥子さんと会えて嬉しく思ってるんですから。 蘭は真顔でそう付け足した。 その言葉に祥子の勢いは収まり、ばつが悪そうにうつむく。かなり小さな声で呟いた。 「・・・。後から蘭が入ってきてくれて、私もよかったと思ってるけど・・・」 祥子の言い分を聞いた健太郎は、次に真琴のほうにくるりと向き直った。 「じゃあ、オレは礼を言わなきゃならないかな。どーせオレの情報も、史緒はあんたのところから買ったんだろう?」 「当たり」 健太郎は自信ある笑みを、その顔に浮かべた。 「オレは祥子と違って、こいつら妙な連中と出会えてよかったと思ってるからな」 親指を篤志たちメンバーに向けて、健太郎は堂々と言った。 「・・・・・・」 その言葉がそこにいる全員を黙らせたことに、健太郎本人は気づいていない。 これが、TIA本部を騒がせた人物、木崎健太郎だ。的場文隆と御園真琴は当人を前にして、少なからず驚いていた。本部のデータバンクハック事件は悪意のあるものではなかったのだ、と理解する。 この存在が、阿達史緒にとってどんな影響をもたらすのか、想像は難しい。 「ちょっと! 妙な、ってどういうことよ」 健太郎の台詞の気になる修飾を、祥子は指摘する。 「見たまんまだろ。見てて飽きないし」 「一緒にしないでよっ」 ギャーギャーと、真琴と文隆の前で見苦しい言い争いが再開されても、篤志は今度は止めなかった。その気力がなかった、というほうが正しい。 文隆と真琴はその様子を笑って見守っていた。篤志に一言、囁いたのは文隆のほうだった。 「にぎやかになってよかったな、篤志」 「正直にうるさいって言って下さい・・・」 自虐的な返事とともに、篤志は今日幾度目かの溜め息を、大きくついた。 * * * いつも事務所に居てあまり外出しない阿達史緒は、月一の会合に出掛けている。関谷篤志は用があるとかで、朝からここには来ていない。三高祥子は学校帰りに、川口蘭と木崎健太郎は昼すぎに顔を見せると言っていた。 いくら休日とは言え、いつ桐生院由眞からの緊急の連絡が来るかわからない。事務所を空にするわけにはいかなかった。勿論、そんなところに抜け目ある阿達史緒ではないが。 事務所の中央にあるテーブルを挟むようにして、二人はソファに体を沈めていた。 「E6はクラブのキング・・・とA8、ハートのキング。当たり。それから、C1がダイヤの3、D7がスペードの3。当たり。F3ダイヤの9、E4・・・あっ!」 E4の位置にあるカードをめくって、島田三佳は顔をしかめた。 「E4はクラブの7・・・・・・だろ?」 七瀬司は得意気に三佳の台詞を代行してみせた。組んだ手を組んだ足の上にのせて、いつも通りその表情は崩れない。対照的に三佳は悔しさを顔に出して、最後にめくった2枚のカードを裏返しにもとに戻す。テーブルの上に並ぶカードは残り12枚。勝負は決まったようなものだった。 「じゃあ僕の番。さっきのF3、ダイヤの9・・・とB9がスペードの9」 まぶたを閉じたまま司はすらすらすらと、その目に見えないはずのテーブルの上のカードを正確に言っていく。司の言う位置のカードを三佳がめくる。2枚のカードは彼の言葉通りのものだった。 「当たり」 「次。A5が ・・・・・・・・・」 三佳はすでに相づちを打つ気力さえない。言われた通りのカードをめくり、それは次々と司の前に重ねられていった。 めくった二枚のカードの数字が同じならば、そのカードはテーブルの上から降ろされる。七瀬司は、一度めくられたカード、すでにそこに無いカード、残っているカード、それら全てを把握しているのだ。 「・・・A3クラブの8・・・で、最後かな」 「お見事。・・・通算3勝21敗。相変わらず驚異の記憶力だな」 「三佳もなかなかのものだよ」 苦い声で称賛されても司は涼しい顔である。はぁ、と三佳は聞こえよがしに溜め息をついて、テーブルの上のカードを揃えている。 二人がやっているのはトランプゲームの定番、神経衰弱である。司と三佳の二人で神経衰弱をやる場合、一定のルールが定められていた。 ジョーカー2枚を含めた54枚のカードを、縦9枚、横6枚に並べる。縦は1から9、横はAからFの番地を付ける。司はカードを見分けられる視力が無いので、口頭で言ったカードを、代わりに三佳がめくる、というシステムだった。ここで高度なのは、2枚のカードの数字を合わせるだけでなく、マークも名言しなければならないところにある。これは司の、記憶の齟齬を無くす為でもある。 「って言っても、この数字の差は・・・」 3勝したと言っても、偶然のことだったような気もする。三佳は慣れた手付きでトランプを切り始めた。小さな手の中でカードが踊る。 (もしこれが史緒やケン、篤志とかだったら、勝てる自信はあるのに) 司は窓を背に笑う。 「まぁ、こういうのは記憶力だけじゃないからね」 「記憶力だけじゃない?」 「そう。その使い方が必要。・・・つまり経験かな。その点では負ける気はしないよ」 穏やかで平静、そしてどこか自信家。だけどそれは本当のことだ。司は自分の感覚に対して絶対の自信を持っていた。 それがどんな過去から来ているものか、三佳は知らない。 「経験ねぇ・・・」 ふう、と上目遣いで息を吐く。とっさに尋ねようとした言葉を、三佳は飲み込んだ。プライベートに干渉するのはどうかと思うし、聞かれたくないことだったら余計な気を使わせてしまうだろう。 しばらく悩んでから、遠慮がちに三佳は言った。 「答えたくなかったら答えなくてにいいけど・・・司ってどこでどういう生活してたんだ?」 「あれ、三佳にも言ってなかったっけ?」 意外そうに言葉を発して上体を起こす。特に動揺も見えない。別に言いにくいことでもないらしい。 「三佳は、史緒の実家に行ったこと、あったよね?」 「一度だけ」 本当に一度だけ。三佳は自信をもって頷いた。 「僕は十一歳の時、阿達家に引き取られたんだ」 「────」 三佳は息を飲む。司はいつもと変わらぬ表情で続ける。 「はじめの二年間は、目の療養の為に違う場所で暮らしていたけど、それ以後はあの家で生活してたよ」 七瀬司の過去を初めて聞かされた。まばたきを忘れて、三佳はそれを聞いた。 「・・・・・・」 阿達史緒、関谷篤志、そして七瀬司。彼らが古くからの知り合いであることは、三佳も知っていた。それでもA.co.設立以前のずっと昔から、史緒と司は一緒に暮らしていたのだという。はっきり言って、この二人の幼少時代の姿など想像できるものではない。 「・・・じゃあ、篤志は? 史緒の従兄弟っていうのはわかったけど」 「正確には再従兄弟。あの二人は6親等離れているからね。父親同士が従兄弟らしいよ。交流がなかったらしく、史緒も篤志の存在を知らなくて・・・。初めて会ったのは僕が帰ってきてからで・・・同じ時だったっていうし」 A.co.のメンバーの中、初めの出会いは史緒と司。(もう一つの出会いも三佳は知っているが、それとどちらが時期的に早かったかはわからない)。次に史緒と司の二人と、篤志。どうやらそういう順番になるらしい。 「学校に行ってた時期もあったけど、得るものは少なそうだからやめた。おじさんもすぐ了承してくれた。 ・・・自分のちからをわきまえている“他人”には寛大なんだ、あの人は」 「・・・おじさん、って?」 「史緒の父親。三佳も会っただろ?」 「うん・・・」 ここで会話は中断することになった。ふと、司はドアのほうへ顔を向けた。三佳は司のその動作だけで、目で見えないところで何が起こっているのかを悟った。 「誰が、帰ってきた?」 司は遠くの足音を聞き、それが身内であることを感知していたのだ。到底三佳にはできない芸当だが、司の反応を見て、三佳は読み取ることができるようになっていた。阿達史緒に比べれば付き合いの年月は少ないかもしれないが、一緒にいる時間は誰より長い間柄だった。 「誰が・・・っていうのは難しいんだけどね」 と、司は遠回しな言い方をする。その台詞には笑みが含まれていた。 「?」 ばたん、とけっこう派手な音をたてて、ドアが外側から開かれた。 「こんにちはーっ」 蘭を筆頭に、ぞくぞくと大した人数が部屋に入ってくる。蘭、篤志、祥子、健太郎・・・・・・つまり史緒を除いた全員が、この部屋に揃ったことになる。 一気ににぎやかになった。今日は休日であるにもかかわらず。 篤志はともかく、理由を尋ねたら、皆何と答えるだろう。祥子は、学校が終わった後の中途半端な時間を潰しに、とでも言うかもしれない。蘭は篤志が目的だろうし、健太郎は正直におもしろいから、と答えるだろう。 「おっ、トランプやってんのか? ポーカーでもする?」 「やめとけ、おまえじゃ相手にならない」 容赦ない三佳の言葉の後、健太郎は何やら憤慨していたが三佳は耳をかしていない。そのちょっとした騒ぎに、司は、篤志や祥子の溜め息や、蘭の笑い声が聞こえてきそうだった。 「じゃあ、いつもの賭けも加えて皆でやりましょう。それなら三佳さんも異存ないでしょ?」 「のった」 「同じく」 結局、全員が参加することになる。テーブルを囲んで、メモとペンをひっぱりだす。掛け金と倍率の計算が始まる。健太郎は手慣れた手つきでカードを切り、全員の前に配り始めた。同時にそれぞれのカードが開かれ、それぞれ別の意味の表情を浮かばせる。とくに健太郎は右手でこぶしをつくり、よっしゃ、と呟いた。 目の前で展開されるトランプ大会。司はいささか複雑な心境で、その雰囲気に身を任せていた。 ・・・ほんの数年まえ、自分がこの仲間たちといることを想像できただろうか。 司はそんなことを考える。 しかしその発想をこれ以上発展させないよう自制する。今、考えるべきことでもないはずだ。 (・・・それに) 多分、ドアの向こうにいる人物も、同じことを思っているだろうから。 事務所に入るドアの外側に背をもたせ、阿達史緒は立っていた。 文隆たちと別れた後、仕事── 依頼主への調査報告── を終え、帰ってきてみると、事務所の中では 他の仲間たちが和気靄々している。その雰囲気を邪魔してしまいそうでノックするのにためらいを感じ、史緒は中に入れないでいた。たとえ入室したとしても、あの輪の中に史緒が入ることはない。だから史緒は、ドアの外側で耳を澄ましていた。 しばらく中の会話を聞いていた。健太郎は場の盛り上げ役、祥子も史緒がいなければこういうことには参加する。篤志は無意識に場の雰囲気を考える性格だし、三佳は冷静に見えて実は負けず嫌い。 そして司は・・・。 (そうか) ふと、史緒は視線を落とした。 史緒がここで立ち聞きしていることを、きっと司は気づいている。それに感づくだけのちからを、彼は持っている。そして多分、それをみんなに言わない。史緒に気を使っている。 中の騒動を耳にして、史緒の表情が緩んだ。本当にたわいもない日常の会話だったが、史緒には大切に思えたのだ。 少しの幸福感から、静かに微笑んだ。 祥子あたりには絶対に見せない表情だった。 「・・・・・・」 史緒はもう少しだけ、中の会話を聞いて、上の階の自分の部屋に戻ろうと思った。 室内にいる司は、史緒がここにいることに気づいているだろうし、急用があれば呼びにくるだろう。トランプ大会が一段落ついたころ、登場するのもいいかもしれない。 少しだけ、誰かと話たくなった。 史緒は國枝藤子の携帯電話のナンバーを思い出しながら、自分の部屋に続く階段を昇り始めた。 |
06話「こんな日」 END |
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