06話/07話/08話
07話「feel」


 東京足立のTグランドホテルといえば、一応名の知れた星付きホテルである。
 都内でも比較的高台にある為、最上階十八階スィートルームからは、たとえビルばかりの東京でも地上を一望できた。まぁ、一泊数十万円もするスィートを一日でも独占できる者はごく限られているけれど。
 その日、一階南側、ガラス張りのラウンジでホール係として働く高山は、正午過ぎに現れた三人組をひどく気にかけていた。
 まず最初の一人。上座に腰掛けたのは、老人と形容してもいいほどの年齢で、痩せた白髪の男性。背広に社員証らしいバッジを付けていることから、現役の会社人間だろうと推測される。あの年齢で現役ということは、実業家なのかもしれない。黒檀の杖を持っていたが、その足取りには少しも危うさがなかった。
 白髪の老人の向かいに座ったのは、少し腹の出た壮年の男性。こちらはいかにも中間管理職、もしくは中小企業の社長といった風貌で、自分がやり手だということを誇示しているような態度だった。しかし、老人に対しては大袈裟なほど腰が低くい。汗掻きな体質なのか、左手から白いハンカチが離れることはなかった。
 この時点で、二人の上下関係は一目瞭然だ。
 商談なのだろう。別に珍しくもない。
 高山はそう思った。
 しかし最後の一人。高山はその存在に頭をひねらせていた。
 三人目は唯一の女性。老人の隣に静かに腰を下ろす。グレーの落ち着いたスーツを着ている為、年齢は読みにくいが、かなり若いのではないだろうか。二十代前半・・・いや、もしくはそれ以下かもしれない。自然なウエーブの髪を清潔にまとめ、淡い赤色のリボンが、モノクロの洋装のなか、女性らしい華やかさをもっていた。なかなかの美人であるが、その表情に愛想は無く、逆にきつい印象を与える。
 老人の秘書だろうか。それとも付き添いの娘とか孫とか、その類だろうか。
 席についても、落ち着き払っている老人と早口の壮年男性との会話が進んでいくだけで、その女性は口を挟もうとしない。たまにメモを取る以外は、このラウンジ特製のミルクティーを口に運ぶだけ。あまり熱心には見えない表情で、二人の話を聞いているように見える。
 あの女性は一体、どんな役割を持つキャストなのだろう。
 高山は一度だけ、灰皿を取り替える為、そのテーブルに近づいた。
 まだ二十代の高山だか、ホテルの従業員として熟していなくてもプロはプロ。この三人が座るテーブルに興味を示していることを表情に出すことなど、決して無い。
 しかし。
「!」
 きっ、と睨まれた。・・・気がした。
 その、三人目の女性に。
(・・・・き、気のせい、だよな)
 もちろんこれも顔に出さずに、高山は器用にも冷汗を掻く。
 内心、「やばい・・・」と表情を歪ませながら(重ねて言うが、顔には出してない)、足早にならぬよう、取り替えた灰皿を調理場まで運んだ。
 一流ホテルの従業員に粗相があっては、一流の名に傷がつく。あの女性が何故、高山を睨んだのかは知らないが、どんな理由にせよそれを根に持つ性格でないことを、高山は祈るばかりであった。


*  *  *


 二時間後。
 三人はホテルのエントランスで別れ際の挨拶を交わしていた。
 勿論、壮年男性は次のようなことを付け加えることも忘れない。
「ところで、今回の契約はお受け下さるのでしょうか」
 老人はそれを聞くと、にっこりと落ち着いた笑みを見せる。その問いに答えるべくは老人ではない。
 老人の後ろに立つ女性のほうだった。
「一週間以内に正式書類を送付致します」
 高い声の返答を聞くと、壮年男性は少なからず驚いたようだった。老人に付き添ってはいたが、一言も言葉を発しなかった女性が、この重要なことを発言する立場にいるとは。 この女性が老人にとって何者なのか、彼には知らされていない。
「・・・いい返事を期待しています」
「もちろんです」
 普通、このような席では相手に対して笑顔を絶やさないものだが、とうとう女性は一度も笑わなかった。
 対照的に、老人はにこやかな笑みと共に、別れの言葉を口にする。
「では、失礼するよ」
 見計らっていたタイミングで、二人の背後に黒塗りの車が滑り込む。
 黒い制服の運転手が降りてきて、白い手袋をはめた右手で後部席のドアを開けた。当然のように老人はシートに身を沈める。ドアが再び閉められたことを見届けて、女性は車の向こう側へ回りこみ、自分でドアを開けて老人の隣に座った。
 窓の外では、壮年男性が何回も何回も頭を下げていた。
 老人は軽く手を振る。その隣の女性は見向きもしなかった。
 車が走りだす。壮年男性を置いて、車はぐるりとホテルのロータリーを半周して、東京の街並に消えていった。






 中堅機械メーカー社長という肩書きを持つ新居誠志郎は今年で63歳になる。
 この歳になっても、その役職を明け渡さないのは単に後任がいないからだ。いや、後継を企てる輩は両手では数えきれない人数に上がるのだが、その誰にも、新居は自分が築き上げた会社を渡したくはなかった。いずれは、その誰かに奪取されるのだろうけど。
 新居はこの仕事が好きだし、何より人間を見るのが趣味だった。隠居生活など考えたくもない。
 一見、絶えず笑顔で優しそうな老年だが、その柔らかい視線はまるで重箱の隅を楊子でほじくるように、相手の内面を厳しく見つめている。
 年寄りは侮るなかれ。
 長生きをしていれば他人の言動を見る目は自然養われる。下克上を成功させられる力量の持ち主に、新居はまだ出会ってない。一城ではあるが、自分の天下はまだまだ続きそうだった。
 例えば新居の隣に座っている女性は、若くして人を視る能力を兼ね備えている人物だが、その例外ではない。考え方や行動はまだまだ未熟だ。
 さきに述べたような能力を有していることもあり生意気なところもあるが、そんなところも踏まえて、新居は彼女を気に入っていた。

「どうだった? 今回の相手は」
 ホテルを後にして五分後。視線は前に向けたまま、新居は隣に座る人物に言う。
 外の景色を眺めていた女は、素直にその声に振り返った。
「結論から言うと、今回の取引はやめたほうがいいと思います」
「ではその結論を導いた過程を聞こうか」
 座り心地の良すぎるシートに座り直し、女は胸元から手帳を取り出した。ホテルの座談でメモをとっていたページを開くと、一通り目を通してから要点を口にした。
「まず、彼はこの取引を必要以上に急いでるわ。尋常じゃないくらい」
 何か裏がある、と言いたかった。新居には語弊無く伝わったようだった。
「何故、急ぐ必要がある?」
「さあ・・・。何か後ろめたいことでも、あるんじゃないですか?」
「こちらに不利なことで」
「でしょうね」
 テンポの良いやり取りが始まる。
 いつものことだが、いつのまにかディスカッションになるのは、取り引き相手の真意を導き出す為だ。言い合うことで、お互いの意見を追求していく。
「新居さんだって気づいてたでしょう? なかなか強情そうな狸だったじゃない」
「年をとれば誰だって強情になる。それに商売人は狸しか生き残れない」
「・・・・嫌な業界ですね」
 しれっときつい言葉を吐く新居に、失礼にならない程度の素直な意見を返した。さらなる言葉が発せられないうちに、それから、と付け加え、会話を進めた。
「収支は本当に調べたんですか? 新居さんが仕事の様子を尋ねた時、反応があったようだけど」
「過去一年半の経常利益に変動は見られない」
「経済のことは専門外です。私は感じたことを言っているだけです」
「わかったわかった」
 ふむ、と新居は考え込んだ。
 今回は向こうから焚き付けてきた取り引きである。これを断ってもこちらに損はない。まぁ益もないわけだが。
 取り引きを結んだとする。もし相手方が破綻を生んだ場合、こちらも影響を受けるのはごく当然のことだ。取引相手はまず第一に経営状態が信用できる相手でなければならない。
 利益を生み出さない取引はあり得ない。それが取引というもの。失態は以ての外だ。
「それから最近の人事異動も見ておいたほうがいいと思います。…あ、退職者とその理由も」
「・・・わかった。それらの件の調査は全て、A.co.に依頼する。正式書類は明日中に発送する。期限は一週間だ」
 新居の、一段落を表すその言葉で、場の緊張が少しだけほぐれた。
 女性は、ふぅと溜め息をついて、窓の外に視線を移した。
 東京タワーがすぐ近くに見えた。A.co.の事務所に向かっているのだ。
「・・・・・承りましたぁ」
 小さな声で形だけの返答をする。
「ご苦労さま。祥子」
 新居が静かに言った。
 スーツに身を包むその女性の年齢は実は18歳。名は三高祥子。こんな格好をしていても正真正銘の現役女子高生だった。
「疲れたかい?」
「別に。・・・ただ、世の中汚いなーと思って」
「大丈夫。そう思ってる祥子も十分染まってるから」
「新居さんと話してると、ときどき大人になるのが恐くなるわ」
 強ばった顔で、でも余裕を見せる為に祥子は笑った。そんな皮肉を当てられても、新居は微笑んでいた。どうやっても表情を崩せる相手ではないと、祥子も分かっているのだけど。
「・・・いいですけどね。新居さんは私があそこに入ってからの、お得意様だし」
 ほとんど投げ遣りに吐かれた言葉は嘆息混じりで響いた。
 あそこ、というのはもちろんA.co.のことだ。阿達史緒率いる合計7人のメンバーが興信所というか便利屋まがいの仕事をこなしている。その7人は一人を除いて全員未成年だった。
 そして、今回のように新居誠志郎が三高祥子を雇うのも初めてではなかった。祥子がA.co.に入って初めての仕事の相手が新居だったのだ。数えてみれば1年近くの付き合いになる。
 新居は祥子のちからを理解している。
 仕事上の取り引きの場に立ち合わせ、信用に値する相手かを判断させているのだ。せこいしずるいとも思っているが、新居は仕事では利益を優先させていた。

 それについて、祥子はいつも思っていることがあった。
「もし、私のちからが間違っていたらどうするんですか?」
 信用できない相手をそうではないと判断してしまったら?
 そのミスは取り返しがつかない。
 虚偽をはたらくのは祥子の人格のせいにできるが、祥子のちからそのものが間違っていた場合、新居はいったいその原因を何に置くのか。
 新居の返答は至って平静だった。
「どうもしない。人間、誰だって間違いはある」
「そうじゃなくてっ」
 同じ台詞を取引相手には絶対に許さないくせに。
「・・・そうだな。払った金の半分を返してもらうくらいはしようかな」
 経済界のお約束だよ、と笑って付け加えた。
 祥子は真剣な疑問をうまく躱されたものと勘違いし、少しの憤りを感じたがそれを押さえ付けた。
「・・・・私のちからを信用してるの?」
「君のちから、じゃない。君を信じてるのさ。祥子が祥子のちからを信用している限り、私は君を雇うよ」
 祥子は目を見開いた。
 すぐには理解できない言葉を、とりあえず繰り返す。
「私が・・・私のちからを?」
「そう。だから祥子が自分の感覚を信じられなくなったらすぐに言ってくれ。“お得意”の名簿から外させてもらうから」
「・・・・」
 祥子が祥子のちからを信じられなくなる。
(そんなことあるはずない)
 祥子は断言する。
 取って付けたような器官ではないのだ。目に映るもの、耳で聴く音、肌で触れる物。それらと同じ、当たり前のように存在する感覚。ヒトの感情の波動、空気を導体にして伝わってくる心。信用するしないの問題じゃない。このちからは、祥子そのものなのだから。
 祥子を理解してくれている新居だが、この感覚だけはわからないだろう。わからせようとしても、言葉では無理な話だ。
「疑心暗鬼になって人を疑うのは、もう疲れたんだよ。相手を疑うのは心苦しい。同時に、裏切られるのも辛い。そういう経験は日常生活で十分だ。仕事のほうにあまり人情を割きたくない」
 だから祥子を雇っている。暗にそう言っているのだ。はたしてこの意見は合理的というのだろうか。
 ある意味正直とも言える新居の言葉に、祥子は苦笑した。
「つまり私は、仕事面のことであまり疲れないよう、利用されているわけね」
 祥子は新居の言葉を気にしていなかった。かえって裏表のない関係にさっぱりする。
 こんな風に、祥子のちからのことについて、少しの遠慮もなく話せる相手はそういない。ビジネスで成り立っている間柄であるが、そんな関係を、祥子は気に入っていた。
 新居の取引相手を数多く見てきた祥子だが、その中には悪事を企む人間も少なくなかった。そんな人たちにはそれ相当の処置を行い、正当な取引相手とはお互いに利益を追求し合う。
 ただ、その二つの場合のどちらも、はじめに会うとき、新居は等しく疑ってかかっているのだ。祥子を雇うということは、そういうことである。
「もし、取り引きの相手が新居さんの友達だったりしたら? それでも私を雇うの? それって失礼にあたるんじゃないですか?」
 祥子はかまをかける意味でも、少々意地悪な質問をしてみた。しかし。
「言ったはずだ。仕事に情は挟まない」
 即答だった。祥子にはそれが少々意外だった。
「意外と、冷たいんですね」
「仕事と友情は別だ。・・・まぁそれでも、友人の会社とはなるべく取り引きをしたくないと思うよ。金銭取引は利益が第一だ。友情に亀裂を生む場合もある。それに、付き合いの長い会社との取り引きに祥子を連れていったことは一度もないだろう? ある程度の信頼関係ができているからだ。初めて取り引きをするところが要注意なんだよ」
 そこで息をつく。
 新居は顔をあげ、祥子の目をみて問う。
「祥子は友達が何人いる?」
「──── 」
 祥子は一瞬だけ息を止めた。新居は答えを強要しなかった。
「その友達が、十年後には何人になってると思う? 状況によって周りの人間は変わる。自然消滅や喧嘩別れ、歳を取るとこの世から去る友人もいた。だからこそ、この歳になっての友人は悪いところも良いところも、よく知っているやつばかりだ。死ぬまでの仲になる。お互い分かっている。だからこそ、少しでも裏切りの要因となるような駆け引きはしたくないものなんだ」
「降ろしてください」
 必要以上にはっきりとした声が響いた。祥子のものだった。
「祥子?」
「とめてください」
 運転手は新居のお抱えだったが、車はハザードランプを点滅させて道の左側に寄った。祥子の言うことをきいたわけではなく、迫力に押されたという感がある。
 祥子はバッグとコートを抱えて、既に左手はドアのロックを開けたところだった。
「祥子?」
「ここで降ります」
「何か気に触ったかい?」
「ええ。でも個人的なことですから」
 ドアを開け放ちアスファルトに降り立つ。その間、祥子は新居と顔を合わせようとはしなかった。
「祥子」
 後に言葉が続く呼びかけだった。祥子は車内に戻りはしないものの、ドアにかける手を止めて、次の言葉を待った。
「今、信頼できる仲間がいるなら、大切にしなさい。そういうことだよ」
 その声は厳しかった。その厳しさに、祥子は顔を曇らせた。
「さよなら」
 バンッ!
 激しい音をたててドアを締める。
 祥子はその場から駆け出した。




 車を降りたときに熱かった胸は100メートルも歩くうちに冷めていた。
 ゆっくりと一定のテンポで、履き慣れないヒールがアスファルトを叩く。
 通りに人影はなかった。ただ、少し離れた大通りからは車の音が絶えない。冷たい空気の中、少しだけ排気ガスの匂いが鼻についた。
 祥子はゆっくりと歩いていた。
 新居の言葉に動揺(きっと、そういうこと)した感情も、もう冷めたはずだった。
 それなのに、
(どうして?)
 少しだけ、目が滲んだ。
 原因がわからないまま、祥子は髪をまとめていたリボンをむしり取った。ウエーブの髪が落ち、うつむいた祥子の顔を隠す。
 足を止める。落ち着いて考える。
 私は泣いてない。
 なのに何故、涙が出るのだろう。
 理由のない現象。
『この世から去る友人もいた』
 もう友達なんていらない。そんなことを思えるほど、もう子供ではない。
 思い出に変わらない過去は、今も、胸を刺した。



*  *  *



「・・・・げ」
 祥子がA.co.の事務所の扉を開けた時、よりによって室内には阿達史緒一人しかいなかった。
 窓を背にした指定席に座り、パソコンと向かい合わせていた顔をあげる。
「お帰りなさい。ごくろう様」
 ストレートの黒髪が肩まで流れている。首を隠す薄茶のウールのワンピース、地味というわけでもないが、落ち着いた印象を受ける。17歳にして所長を務める。いや、祥子がここの人間たちと関わりを持つようになって一年が過ぎようとしている。一年前、つまり阿達史緒は16歳のとき既に、所長という肩書きを掲げていたのだ。それ以前のことについて、祥子はあまり興味を持ちたくない。
「蘭は?」
 史緒相手に無駄口を叩きたくないので簡潔に切り出す。そんなあからさまな態度を露にした祥子の言葉にも、史緒は冷静に返した。
「少し遅くなるって。伝えておくよう電話があった」
「じゃあ月曜館にいるわ。蘭が来たらそう言って」
 祥子の足はすでに扉へと向かっている。しかし、その足を止める声がかかった。
「待って」
 祥子は振り返らなかった。ただ次に発せられる内容を、どんな言葉で拒否しようかとその一瞬で考えていた。人の感情は読めても思考を読める能力など持ち合わせていない。ただ史緒の用件なら全てを拒否してもいい。祥子はそう思っている。
「この仕事、手伝っていっても、暇つぶしにはなると思うけど」
「嫌よ。あんたと二人でいても、不愉快になるだけだもの」
 気の効いた嫌味のつもりはない。これは本心だ。
 史緒はそんな言葉も意に介せず、作業中だった手元の書類を手に取ると、ひらひらと祥子に振って見せた。
「先週切りの祥子の報告書、遅れたせいで忙しくなってるんだけどな。借りは作りたくないんでしょう?」



 ぴりぴりする、というのはなかなかよくできた言葉である。
 体内に電気が蓄まっていて、放電しきれない。八つ当りすべき導体が見つからない。そんな感じだ。目の前の人物には、どうやっても八つ当りは空振りしてしまうので、導体には成り得ない。だからこそ、ぴりぴりしてしまう。
 史緒のデスクの隣に座らされ、祥子は整理されたファイルにペンを走らせていた。
 その作業効率は本来の祥子の能力の7割といったところだ。あまり捗っていないのは、隣にいる人物のせいである。間違いなく。
(無視してればいいのよ)
 そんなことを自分に言聞かせても、内心、祥子は史緒の気配が気になってしょうがなかった。過去、二人きりになって、史緒が祥子を怒らせなかったためしはないのだ。
 逆に、史緒は史緒で、一度書類に目を戻すと、祥子の存在など忘れているかのように仕事を再開する。机の上のキーボードを叩く音と、ペンを走らせる音が交互に響いた。
 普段、7人揃うことがある部屋だ。狭くはない。一度、顔を上げて空間を見渡すと、祥子は史緒と二人でいることに息苦しさを感じずにはいられなかった。
(「史緒は心の中までポーカーフェイスなの」)
 少し前、史緒のことを、そう評したことがあった。
 でもそれは少し違う。史緒は決して無表情と呼べる人柄でもなかった。
 祥子以外の仲間に見せる和やかな笑顔、少しの憤り、応接用の愛想笑いも。
 人並みに表情は動いてる。
(でも感情の起伏はない)
 祥子が驚く点はそこだ。・・・そして、嫌悪して止まないところでもある。
 別に、史緒の、感情が読めないところが嫌いなわけじゃない。(支配欲を満足させてくれる相手としか付き合えないほど、馬鹿ではないつもりだ)
 ただ。
(本気じゃないのよ)
 何に対しても。特に、祥子に対する挑発するような嫌味な口調までも。
 他人を怒らせたり、からかったりするのも本心からじゃない。本音をぶつけてくるわけじゃない、史緒のはただ、他人を操作しているだけだ。
 そういうのは嫌だ。祥子はそう思う。
 史緒という人柄は気に入らないけど、認めている部分も少なからずある。
 対等な喧嘩をしてくれるなら、こんな嫌悪感は抱かずにすむのに。
 祥子は知っている。
 そんな史緒の挑発するような言動の的になっているのは、自分だけだということを。
(つまり史緒は私を嫌いなのね)
 では何故一緒にいるのかというと、お互い利用できることがあるからなのだ。
 今、思えば第一印象はまだマシだった。第二印象は最悪の2文字以外では語れないけれど。
(そりゃ、初対面のとき声をかけたのは私の方だけど・・・)
 「人生最大の汚点」。その時のことを、祥子はそう位置付けている。
 はああぁぁぁ、と、大きな溜め息を漏らした。
「祥子、手が止まってる」
 パソコンの画面から目を逸らさずに、史緒は言った。
「考え事してたのよ」
 これはさすがに理由にはならないかな、と祥子は自覚した。それより祥子は無視すると決め込んでいたはずの相手に言葉を返してしまったことに気づかなかった。この辺り、まだ修業が足りない。
 祥子の理由にならない理由に対しては、史緒の声は返ってこなかった。
「史緒って友達いないでしょ?」
 唐突だった。祥子は考えるより先に口に出していた。
 車の中で新居と交わした話題を思い出したのだ。本当に、突如思いついた質問、その声に嫌味を乗せる暇もなかった。この質問は「嫌味」ではなく「失礼」にあたった。
 キーボードの音が、はた、と止まり、少しの沈黙が訪れる。
 本当に、心底驚いたような表情で、史緒は顔をあげた。珍しいことだ。
「・・・・祥子に言われるとは思わなかったわ。そのセリフ、そのままそっくり返すわよ」
「な・・・っ!」
 驚いた表情は確かに珍しい。しかし次の言葉は間違いなく祥子の知る史緒の「史緒らしい」言葉だった。
「私の話はしてないでしょう! 挙げ足を取らないでよ」
「・・・・いるわ」
 一言。史緒の声は大きくなかったが、祥子を制するには十分すぎる重みを持っていた。
「え?」
「友達、いるわよ」
「ええ──────っ!!」
 ばん、と思わず立ち上がる。本人、決して大袈裟とは思っていない叫びを、史緒は複雑な表情で聞いた。
「そんなに驚かなくても・・・」
「ちょっと待って、的場さんと御園さんは別よ! あの二人は仕事仲間でしょ」
「・・・あの二人も友達だけど」
「だめっ、それ以外! もちろん、ここのメンバーも抜きにして」
「女で一人」
「うそっ!」
 あっさりと否定されて、史緒は嘆息した。さらに祥子は続ける。
「どうして史緒と友達付き合いができるの、信じられないっ」
 椅子から立っている為、祥子の視線は史緒を見下ろすかたちになっている。史緒は肩をすくめてみせると、祥子の目をみて言った。
「相当、嫌われてるのね。私。祥子に」
「ここに初めて来たときも言ったはずよ」
 何を今更、と言わんばかりに祥子はさらりと返した。そのまま踵を返しキャビネットへ、コーヒーをいれに行く。
 史緒は祥子の後ろ姿を見て一瞬だけ、懐かしそうな表情を見せた。
「・・・そうだったわね」
 その声は祥子には届かない。



「祥子は、誰かを憎んだことがある?」
 はじめ、祥子は突然の史緒の質問に軽く答えた。
「それに近い感情は、あんたに対して抱いているかもね」
 コポコポとコーヒーがカップにそそがれる。祥子は振り返らなかった。
 その姿を見つめ、史緒はさらに続ける。しかし、その言葉は祥子の返答を無視していた。
「本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感・・・。それから、少しの殺意」
「・・・・・」
 祥子は眉をしかませた。いくら嫌いと豪語している史緒にでも、そこまでの感情は抱いていない。いや、そんなことよりも、突然何を言い出したのか・・・・、何を言いたいのだろう、史緒は。
「他人に特別な感情を抱くのは、何にしろ疲れるものだと思わない? 誰かに執着するなら、その人を好きでいるほうがよっぽど健全で、楽だわ」
 祥子は黙り込む。次に発する言葉をまとめた。史緒の言っていることは、つまりこういうことなのだ。
「・・・だから、あんたは人を嫌いにはならないって言うの?」
「そうよ」
 祥子は吐き気をおぼえた。
 それは史緒がそう答えることに、何の疑問も抱いていないからだった。史緒の本心なのだ。祥子にはそれがわかった。
「それって・・・」
 何か違う。そう言いかける。けど史緒の言葉が重なった。
「だからね、祥子も、私を嫌うことになんか力を使わないで、もっと他のことに使えば? ってことよ」
 雰囲気を一変、明るい声で史緒はそんなオチをつけた。もちろん、祥子はキレた。
「あんたのそーいうところが嫌いだっていうのよっ! 私を怒らせてるのは、史緒本人だってことに気付いてないの!?」
「自覚はないわ。単に意見が合わないだけじゃないの?」
「あんたねぇ・・・!」
「こんにちはーっ!」
 開け放たれたドアはそれなりの音をたてたが、同時に響いた声のほうがはるかに大きかった。
 部屋に入ってきたのは川口蘭。ここのメンバーの一人である。おだんご頭で活動的な服装の少女は、跳ねるような足取りで、史緒と祥子のほうへと歩み寄った。
「遅れてごめんなさい、祥子さん」
「蘭」
「史緒さん、こんにちは」
「こんにちは」
「・・・祥子さんかっこいー、お仕事だったんですか? その格好」
 祥子のいつにないフォーマルな服装を見て蘭が感嘆の声をあげた。
「あ・・・・着替えるの忘れてた」
「上の空き部屋、使っていいわよ」
 史緒が人差し指で天井を指すと、祥子はバッグを抱えて急ぎ足で行動を開始する。上の階にいく為に部屋を出ていこうとする。が、先ほど蘭が入ってきたドアを開ける直前で振り返った。
「そうだ。史緒、新居さんから伝言。例の会社の調査、引き続き頼むって」
 先ほどの言い争いを忘れたわけではない。しかし祥子にとっても、あまり気分の良くない史緒との喧嘩より、蘭と一緒に出かけるほうが大事だ。
「わかったわ」
 事務的な会話が終わると、祥子はドアの向こうへ消えた。
 史緒は、ふぅ、と軽く息をついて椅子から立ち上がる。窓の外に目をやると、寒そうな灰色の空が遠くまで続いていた。
「今日は? 買い物にでも出かけるの」
「ええ。史緒さんも行きます?」
 祥子が聞いたら冗談じゃない、と低い声で言いそうな言葉だ。史緒は苦笑して答えた。
「それは祥子の心労を増やすだけよ」
「史緒さん」
 二人は顔を合わせていなかった。蘭はいつものようにはっきりとした、でも少しだけトーンを落とした声で言う。
「あんまり、祥子さんをいじめないでくださいね」
 史緒は窓に映る自分の顔を見て答えた。
「・・・そのことについての自覚はあるわ」
「私は祥子さんのことも好きなんですから」
 蘭は微妙な言い方をした。
 史緒は何も答えない。蘭はいつもの彼女らしくない、憂いの含まれている言葉を、そっと口にする。
「あたしがA.co.に入った本当の理由を知ったら、・・・祥子さん、怒るでしょうね。きっと」
「そうね。でも安心して。怒るとしても、それは私に対してだわ」
「・・・だから、心配なんです」





「蘭、お待たせ」
 さっきの服装とは打って変わって、年相応、カジュアルウエアの祥子が現れる。蘭は物音を聞きつけた猫のように顔をあげて笑った。
「じゃ、史緒さん。いってきます」
「いってらっしゃい」
「もし篤志さんが来たら、待っててくれるように言ってくれます?」
「わかった」
 何か約束があるの? 祥子がそう尋ねた。いいえ、ただ会いたいだけです、と蘭は答える。
 そんなやりとりを交わしている二人は、事務所から出ていった。
 遠ざかる会話。階段を降りる音。
 一人部屋に残された史緒は、窓の下を歩いていく二人を見送った。
 彼女はこういう少しの孤独を、楽しむことができる性格だった。
 こん、と指で窓ガラスを叩く。窓は外からの冷気が伝わって、少々水滴がついている。
 史緒はその水滴を指で拭った。
「私も・・・、祥子のことは結構気に入ってるんだけどな」
 そんなふうに、呟いた。







07話「feel」  END
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