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08話「好きな人」 |
例えば。 三高祥子が駅から事務所へ続くこの道を好きなこと。彼女の家からならバスでも通えるのに、わざわざ電車で来てこの通りを歩く。晴天の日、街路樹の下から空を仰ぐ癖があることを知っている。そして、何より阿達史緒を嫌いなことを、史緒は知っている。 木崎健太郎は、BGMの趣味が合うというので月曜館に通っている。マスターとも気が合っているらしい。バイクが好きで、お金が貯まったら買おうとしていることも知ってる。 川口蘭の好きなもの。花ではガーベラ。あと月曜館の紅茶も。 島田三佳は事務所の屋上から見る公園の風景が好きで、寒いのによく昇っている。滅多に披露しない司のバイオリンが好きなことも知っている。それから、夜、夢にうなされているのを知っている。 七瀬司も屋上が好きで、昔、理由を聞いたら、風の音がいい、と答えた。当初、彼は史緒と同居する予定だったが、それを拒否したのは他でもない司自身だった。なのに、司は自分の部屋に帰るのがあまり好きでないことを知ってる。この矛盾の理由も、史緒は知っている。 関谷篤志。初めて会った時から思っていたけど、彼は彼の家族をとても大事にしている。自分に厳しい彼が嫌いな食べ物は炭酸飲料だった。 だから例えば、自分の好きなものって何だろうと考えた。 それから、例にも挙げたけれど、それぞれが抱えるトラウマ。史緒はその立場上、ほとんどのメンバーのそれを知っている。けど史緒自身が、周囲にそれを見せることは、きっと無い。 一番弱いところを知られてしまったら、今の自分を支えているものが崩れてしまう気がするから。 そんな、気がするから。 それは多分、弱音を吐かない、ということとは違う。もっと別の、・・・・ずるいこと。 そんな気がする。 * * * 「健さーん、こんにちはっ」 事務所に程近い喫茶店「月曜館」。その窓際の席で専門雑誌を読んでいた木崎健太郎は顔を上げ、「よっ」と声を返した。入り口から跳ねるように近寄る川口蘭と、その後ろからいつもの歩調で蘭についてくる三高祥子に。 オーダーをカウンターで済ませていた二人は、健太郎の向かいに並んで腰掛けた。 「相変わらず早いですねっ」 「六限はたいてい実習だからな。サボりだよ。ここで雑誌を読んでいるほうが勉強になるだろ」 そう言って、蘭たちには何が書いてあるのかよくわからない雑誌を上げて見せる。それはコンピュータ関連の雑誌であることは間違いないのだが、難しくて蘭にはよくわからない。 「相変わらず、暇なのねぇ」 「・・・・人の話、聞いてんのか。おまえ」 勉強してるって言ってるだろーが。そう言われても祥子は素知らぬ顔だ。窓際の植物を眺めるふりをする。 「健さんのところって情報処理科なんですよね。どんな授業があるんですか?」 興味津々で蘭が尋ねる。 「どんなって、別に普通だよ。ただパソコンのソフトいじったり、プログラム言語の授業もあるってことぐらいで」 尋ねられるほど特殊な学科でもないと思った。それでも普通科の生徒から見れば異所になるのかもしれない。そんな風潮は校内でもないことはない。 蘭がもっと聞きたそうな表情を見せるので、健太郎は先を続けた。 「進学校ってわけでもないから、先生たちが教えることって趣味に走ってるんだ。世界史の先生は歴史の裏のウラの怪しい知識を授業で熱弁したり、商業法規では『法の掻い潜りかた』とかやって、テストにも出たぞ」 笑えるだろー、と笑う。 「呆れた…。何しに学校へ行ってるのよ」 これは祥子だ。健太郎にむけて、少し突き放したような言い方をした。 しかし健太郎はけろりとして真顔で答える。 「そんなの、勉強に決まってるじゃん。学びたいことが無いのに高校なんて行くかよ」 「─────」 祥子が目を見開いたその先で、今度は蘭が口を開いた。 「健さんのところおもしろそーですね、後でいろいろ教えてくださいよー」 「おー、次のテストが終わったらいつでもいいぞ」 三人の所属するA.Co.が与する共同組合・TIAを震撼させたほどの健太郎の腕と知識を、他に広めるのもどうかと、祥子は一応、頭の片隅で思った。しかし、祥子が考えていたのはもっと別のことだった。 (この二人って、・・・どこか似てるかも) そんなふうに、祥子が心の中で頭を抱えていた時、三人のボックスにマスターがやってきた。 「お待たせいたしました」 いつも通りのやさしい笑みを見せて、蘭の前にはミルクティを、祥子の前にはココアを置いた。蘭はわーいと言って、冷たい手のひらでカップを包んだ。 マスターはトレイを右手に抱えると、 「午前中には阿達さんと関谷さんがいらしてましたよ」 そんなことを言う。 「何か言ってた?」 「いえ、30分ほどでお帰りになられました」 一礼して去っていくマスターの背中を見送ってから。 「史緒と篤志かぁ・・・。あの二人もなんか結託してるようなところがあるのよね」 スコーンをかじりながら、祥子は言う。やはりどこか否定的な口調だった。どうやら祥子は史緒に対して何が何でも文句を言わなきゃ気が済まないらしい、と一瞬思った健太郎が反論する。 「そーかぁ? オレはあまり仲良くないようにも見えるけど。まぁ、気心が知れてるってのは分かるけどな」 「それは、篤志が史緒を甘やかさないからそう見えるのよ。その辺が、司とは違うところ」 言い切る祥子の言葉に健太郎は眉をしかめた。それは祥子の言葉にではなく、祥子に対してだった。 (なんだ。史緒のこと嫌ってても、結局、興味があるんだな。・・・わかるけど) それとも嫌いゆえ、か。 思ったことは、怒られることが目にみえているので口に出さなかった。 ふと、健太郎は話好きである蘭が話題に参加していないことに気づいた。二人の会話を聞きながら、いつものように笑っているだけだった。 「蘭、おまえ、史緒と篤志のそーいう関係って、気に触らないのか」 甘やかさない関係、というのが良い意味であることぐらい、健太郎にも分かる。ちょっとしたひやかしのつもりで、意地悪く言ってみた。 「えー?」 蘭は突然話を振られて、少なからず驚いたようだった。 きょとん、と首を傾げると、 「だって、史緒さん好きな人いるし、それに・・・」 と、言いかけた。しかし、 バンッ 「なにぃ───── !!」 隣の祥子と目の前の健太郎が同時に立ち上がり、蘭の声は遮断されてしまった。 「え・・・っ? 何ですか?」 二人の声に驚いて蘭は椅子から立ち上がりかける。性格・・・、というより感性の違いというのは、こういう時に表れるものだ。蘭には、二人の叫びの意味は分からなかった。 「・・・・・?」 驚くようなことは、まだ言ってないのに。 奥の席で三人が大騒ぎしている。カウンターでグラスを磨いているマスターにも、それは聞こえていた。 「・・・・・」 もしここに阿達史緒がいたら、公衆の場で騒ぐな、と注意しただろうか。いや、それは関谷篤志の役回りかもしれない。それにしても、と溜め息をひとつ。あの事務所も賑やかになったものだ、と月曜館のマスターは思った。 * * * よく勘違いされることだが。 阿達史緒は別に家出をしているわけではない。 いや、「こんな家、出てってやる」的な暴言を吐いて来たのだから、この場合立派な家出になるのかもしれない。 父親は社長という肩書きを持ち、昔からあまり顔を合わせていた記憶はない。それが普通だと思っていたし、逆に放っておかれたことが性格形成の中で良い役割を果たしたのではないかと思っている。少しの辛かったことと、忘れられない記憶があるけど、それでもあの家にいたからこそ七瀬司や関谷篤志と出会えたこと、父親に感謝している。自分は幸せなのだと、ちゃんと知っていた。感謝している父親だからこそ、2年前のあの時の言葉を、今も許せずにいるのだ。 史緒が言うには、今の状況は親公認の(承認が必要なこと事体、彼女には不本意なのだが)名実共に自活よ、となるらしい。が、その自活と引き換えに阿達政徳は一つの条件を提示した。多分それが、家出と自活との境をわけるものなんだと思う。 それは二月に一度のこの日。 わざわざ丸の内まで出向いて、父親と顔を合わせなければならない。何のことは無い、自分の置かれている状況を再確認させられるだけだ。最後にはここに戻らなければならないのだと、言い聞かされるだけ。もちろん、史緒には父の元に帰る気など毛頭無い。拒み続けるけれど。 それならいっそのこと本当に父親の前から逃げてしまえばいい。それは本当に正論で、史緒自身そうしても全く構わないのだけど、でも、そうもできない理由があった。 あの家に縛られているのは、自分一人ではないから。 アダチ本社のビルを出た後、史緒は皇居外苑日比谷通りを歩き東京駅に向かっていた。 阿達政徳の皮肉交じりの嫌味をさんざん聞かされて、少しばかりの口答えもして、やっと外に出たのだ。少し落ち着く為に皇居前広場で休もうと思った。 いい天気だった。2月の風は冷たいけど、暖かい太陽の日差しの中ではそれすらも気持ち良い。堀を覗き込むと、水鳥が水飛沫を飛ばしていた。広場のなかでは自転車を乗り回す小学生が声をあげている。史緒も、ベンチに座って日に当たっていこう、と歩き始めたとき、背後から声がかかった。 軽い、車のクラクションの音。 「お姉さん、乗って行きませんか」 丁寧な口調だが陳腐な文句だ。史緒は目を丸くして思わず笑いそうになった。思い直して軽蔑の眼差しを送ろうかと思った。それもやめて、ふざけないでください、と言おうと思った。が、最終的には穏やかな声で振り返らずに言う。 「遠慮しておきます。どこに連れて行かれるかわかったもんじゃないし」 「ちゃんと送った後は退散しますよ。まだクビになりたくはありませんから。それに、今から電車に乗ると帰宅ラッシュに巻き込まれるのでは?」 その自信ありげにふざける言葉に、史緒はそっと振り返る。 黒のセダンの傍らに立っていたスーツの男は軽く手を振った。 お互いの目が合うと、とうとう史緒は我慢できずに、口の端を上げて嬉しそうに苦笑した。 「・・・負けました。事務所まで、お願いします」 その言葉を聞いて一条和成も笑った。そして左手で助手席のドアを音も無く開ける。 「お手をどうぞ、お嬢さん」 背筋を伸ばしそう言う姿は堂にいったものだ。しなやかに差し伸ばされた手に、史緒は自分の左手を重ねた。 史緒がシートに落ち着くのを見届けてから、丁寧にドアが閉まる。一条が車の前から運転席に回り込む間に、史緒は髪に隠れている両耳の、赤い石のイヤリングをさり気なくはずした。その何気ない動作に一条が気づくはずもなかった。 一条が運転席に乗り込み、イグニッションを回しギアをロゥに入れた。サイドブレーキを外すと、車はゆっくりと走り始めた。 一条和成は今年で28歳になる。職業は社長秘書である。誰の、とは言うまでもない。 「今日もまた、社長との交渉は決裂ですか。扉の外まで聞こえましたよ」 窓の外の景色がオフィス街から抜け出したころ、一条が前方に顔を向けたまま口を開いた。 史緒は感情を込めないよう努力して答える。 「私は交渉しに来ているつもりはないわ。断りにきているの、ただそれだけよ」 「社長の要求は、史緒さん一人の問題ではないでしょう?」 「・・・・・・」 それが問題なのよね。史緒は息をついた。 関谷篤志、そして七瀬司。彼らも史緒と同様、阿達政徳に問題を突きつけられている人間なのだ。 阿達政徳の要求は一言で済む。関谷篤志と結婚して会社を継ぐこと。 そんな時代錯誤的な発言を、戦前の絶対的権限を持つ家長のような態度で言ってくるものだから、つい史緒も言い返してしまう。 誰でも、どんな人とでも、本気で言い合うというのは疲れるものだ。それが喧嘩腰の会話ならなおさら。自分のことだけならまだしも、父親との話し合いの内容には、篤志と、それから司も関わってくる。いつもの史緒の柄ではないが、本気にならざるを得ない。 (しょうがない、か・・・) 数年後もこの場所にいる為に。 これくらいの困難は当たり前なのかもしれない。 昔、史緒は流されそうになったことがある。 篤志なら、いいか。そう思った。けどその選択は、史緒が近寄りたくもないあの家に、篤志をも縛り付けることになる。それは絶対に避けなければならないことだった。 篤志と司は関係無い。巻き込まないでほしい。 実質上、阿達政徳と関係があるのは実子である史緒だけなのだから。 そう、別の言い方をすれば、阿達政徳が重きを置いているのは続柄であると言える。子供の頃、史緒は比較的放任で育てられていた。それは、阿達政徳から見たとき実子という続柄を持つ人間が他に居たからだ。後継問題は彼らに委ねられていた。しかし彼らが居なくなったとたん、そのお鉢は史緒に回ってきた。少しの血の繋がりを理由に、篤志をも巻き込んで。 従う義務はないはず。 半端な反発ではない。父の傲慢と身勝手さに、反抗しなければならない。それに。 (あの家には帰りたくないの) ただ、それだけの理由。だけど、それが全て。 窓の外を見ていた史緒は胸が熱くなるのを感じた。少しだけ、泣き言を言いたくなったのかもしれない。小さく、口を開いた。 「・・・一条さん」 「はい」 「もしかしたら、・・・・・・。もし、私が一人だったなら、私は、父さんに従っていたかもしれない」 一条は運転中だったにもかかわらず、隣の史緒の顔を凝視してしまった。史緒は、まっすぐ正面を睨むように見つめていた。 「・・・・・・」 驚いた。 一条と同様、史緒の昔を知っている七瀬司は何とも思わないのだろうか。 この変貌ぶりに。 一人だったなら、従っていたかもしれない。 一人ではないから、従うわけにはいかない。 昔の史緒はこういう考え方をするような人間ではなかった。少なくとも一条が知る限りは。 一条和成が阿達史緒に初めて会ったのは、彼女が小学生の時だった。あの頃の彼女は本当に放任されていて、登校拒否児であった娘に対して両親は何も言わなかった。多分、登校拒否の事実さえ知らなかったのだろう。両親はほとんど家には帰らなかったから。けれどそんな時、阿達政徳は娘に世話係をあてがった。それが一条和成だった。 はじめて会った時、この子はどこかおかしいのではないかと思った。憔悴した、いつも何かに脅えているような表情、無口で、たまに爆発したように泣いていた。何が少女をこんなにしたのだろう。当時の一条には、彼が来る少し前に何かあったらしい、という程度のことしか知らされなかった。ただ、少女は、月一に訪れる異国の友人と、どこからか拾ってきた黒猫には、ぎこちない笑みを見せていた。 そんな生活から立ち直ったと思ったら、今度は勉学に励みはじめた。貪るように本を読みはじめた。ただ点数を取る為だけの勉強ではなく、そう、生きる為の、糧。けれどあれは、純粋な知識欲や向学心とは違うように一条には思えた。少女の中の何かが、切羽詰まったような感情を掻き立てているのではないか。一度だけ、一条は尋ねたことがあった。何故そんなにがむしゃらに知識を取り入れるんです? (一人で生きていくから。誰にも、頼らずに) 声を立てないように笑っている一条に目ざとく気づき、史緒はその横顔を見た。 「一条さん?」 この隣の人物がその少女のなれの果て。可愛げがない性格はそのままだが、考え方はえらい成長ぶりではないか。 史緒の勘繰りを適当にごまかすと、一条は話題を逸らした。 「確か、お仲間は6人に増えたのでしたね」 「ええ。・・・あなたのことだから全員調べてあるんでしょうけど」 「そうでもありません。一人だけ、資料が揃わない方がいらっしゃいます」 「島田三佳、ね」 「そのとおりです」 「あの子もいろいろ複雑だから。・・・確か、一条さんは会ったことがあるのよね」 「2年前でしたか、一度だけ」 なかなか利発そうな方でしたね、という言葉を飲み込んだ。素直に生意気だって言えばいいのに、と笑われるような気がしたから。 「実際、驚いてますよ。史緒さんがあんなに沢山の方々と行動していることには」 「私もよ。少なくても3年前は想像できなかったわ」 彼らと会うまでは、自分がこんなふうに誰かといるなんて、思いもしなかった。 そして、望んでもいなかったはず。 「はじめは一条さんと会う何年か前。明るい笑顔の女の子。一緒にいると本当に楽しくて、あの時は好きな人も同じで・・・。おかしいでしょう? まだ幼いのに二人とも、そんな話題で盛り上がったりしてた。まぁ、私にとっては恋にはならない相手だったけど」 「好きな人?」 純粋な好奇心から一条は聞き返した。 「あなたの知らない人よ」 史緒は苦笑して続ける。 「次に会ったのは、一条さんが連れて来た、目に包帯を巻いた一つ年上の男の子。丁度その頃は私も暗い奴だったけど、もっと無愛想な子だった。それから存在さえ知らなかった再従兄弟。家を出た後、仕事中に知り合った大人びた口をきく少女。街で偶然知り合った女子高生。うちの組合を騒がせたのに本人には全く自覚がないハッカー」 史緒は敢えて固有氏名を出さなかったが、一条には全員の名前と顔と、そして史緒の紹介文句の人間が一致していた。面識が無い人物も2人ほどいたが、それでも書類上のデータは揃っている。 「そして、史緒さんを含めた7人、ですね」 「・・・・・・」 史緒は気づかれないようにそっと一条の横顔を見た。 一条和成。彼も、史緒の理解者ではあるのだ。昔は、彼とはうまくやっていると思っていた。良い友人だとも思ったことがある。ただそれは、彼が父親の秘書として就職するまでの話だ。 立場が違うだけ。意見が異なるだけ。結局は阿達政徳もこの部類に入る。 嫌いでありたい人間のなんと多いことだろう。 第一京浜を走る車の、外の景色が見慣れたものになってきていた。日は傾き始めていた。 「司さんと篤志くんはお元気ですか」 「それはこの間の電話で言ったわ」 事務的な口調が癇に触ってついムキになって答えた。このあたり、まだ子供なんだと思う。 「・・・そうでしたね。・・・・史緒さん」 「なに?」 「先程の、蘭さんと同じ人を好きだったという、その好きな人というのは」 「ずいぶん拘るんですね」 軽く声をたてて笑う。 一条はそこで間をあけた。言うべきかどうか迷った。息を吸う。 「阿達、亨、ですか」 「・・・っ!!」 史緒はあきらかに表情を変えた。悲鳴に近い声が聞こえたような気がした。 けどそれも一瞬のことで、史緒はすぐに言葉を返した。 「驚いた・・・。意外と何でも知ってるのね」 その声には笑みさえ含まれていた。少しだけ、語尾が震えていたが。 「誰に聞いたの? 父さんは言わないと思うけど」 「・・・咲子さんです」 「・・・それも・・・、懐かしい名前ね。じゃあ、ずっと前から知ってたんだ」 一条は静かに肯定した。頷いた横顔に視線が突き刺さる。反応を返さずにいると、史緒は目を落とし、息をついて、シートにもたれかかった。 今の史緒に仲間が増えたのはいいことだと思う。守るものが多いというのも、別に悪いことではない。 だけど。 「あなたはもっと、弱いところを見せてもいいと思いますよ」 「・・・それを言う為に、二人の名前を出したの?」 「・・・・・・」 苛つきの為か、声が厳しくなる。 「次は許さない」 一条和成はそれっきり、返答しなかった。 日はもう落ちて、離れていく一条の車はテールランプが灯っていた。それが見えなくなってから、史緒は一度外したイヤリングを、両耳に付け直した。 真っ黒い空を仰ぐと、ライティングされている東京タワーが見えた。奇麗と思うか、悪趣味だと思うかは人それぞれだろうけど、史緒には奇麗だと思えた。だけどその光が、何故感傷を誘うのかはわからない。奇麗だとは思う。けど感傷というセンチメンタリズムを、史緒は嫌っていた。 それは夜景とか光とか、そういうもののせいではなく、単に自分の弱さだということも、知っているけれど。 事務所はもうすぐそこで、2階の明かりが見える。突然、その部屋の窓が開いた。 「史緒さーん、おかえりなさーい」 川口蘭が顔を出す。続いて、三高祥子と木崎健太郎も身を乗り出してきた。 なんとなく、ほっとした。それを自覚した。 2階に届く程度の声量でただいま、と言うと、返ってきたのは祥子の問い詰めだった。 「史緒っ! 史緒の好きな人って誰!?」 「・・・・・・は?」 史緒は慌てたりしなかった。素直に呆れただけだ。 「別の意味で、すっごく興味あるわっ」 「蘭が言ってたんだよ、史緒には好きな人がいるって」 健太郎も、窓枠に肘をついて面白そうに見下ろしている。 蘭は2人の後ろで、申し分けなさそうに肩身を狭くしていた。自分が思わず吐いてしまった言葉で、史緒が尋問されていることに恐縮しているのだろう。・・・・・が。 史緒は眉を寄せて首を傾げた。呟く。 「え・・・・・? 誰なの?」 奇妙な沈黙が生まれる。 「え」 1番に反応したのは蘭だった。その声には期待が裏切られたことと、反論したい気持ちと、そして(まずい・・・)という予感が含まれていた。 数秒後、祥子と健太郎は同時に振り返った。勿論、期待外れなゴシップに今日一日騒がされたことへの怒りを湛えた瞳で。 「らーんー」 祥子と健太郎は壁際に逃げる蘭に詰め寄った。 「え・・・あれ? えーと・・・ですねぇ」 はははは、とごまかしながら、部屋の中へ救いの手を求めたが、そこにいたのはコーヒーを口に運ぶ島田三佳と、その向かいで微かに笑みを浮かべる七瀬司だけだった。 2人とも聞こえないふりをしているのは一目瞭然である。 「・・・・・・?」 外に残された史緒は、何が起こっているのか分からず、とりあえず2階へと続く階段を昇りはじめた。 |
08話「好きな人」 END |
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