08話/09話/10話
09話「関谷篤志2」


 その日は、別に悲しい日でもないし、悼む日でもない。
 誰にでもあるアニバーサリー。
 むしろ喜ばしい日。
 ただ、素直に喜ぶこともできない。

 そんな日だった。



 この年のその日の朝、A.Co.の事務所で、所長である阿達史緒はこんな呟きを漏らしていた。
「え・・・・・?」
 訝しげな表情。眉をしかめたのは気分を害したからではなく、目の前に立つ関谷篤志の言葉の意味が、すぐに理解できなかったせいだ。
「いや、・・・だから、そういうこと」
 篤志はバツが悪そうに、珍しく言葉を濁した。
 関谷篤志。現在21歳。180cmを超す長身の持ち主で、肩にかかる髪はきっちり結わえている。服装にはこだわらない性格で、深緑のジャンパーを無造作に羽織っていた。
 一方、彼と対峙する阿達史緒はストレートの髪を背中まで伸ばし、その間から覗く耳には赤い石のイヤリングが光っていた。タートルネックの白いワンピース。彼女の普段着は大抵こんな感じだった。
 史緒は遅まきながら篤志の言葉を理解すると、固まっていた自分の体を解放し、息をついた。
 力を抜いて、背もたれに体を預ける。
「・・・・・・高雄さんには?」
「今朝、電話した」
「何て?」
「大笑いされた」
 冗談ではなく、本当にそういう反応をする人物だということを、史緒も知っている。それでも少しだけ言葉を失ってから、もう一人の名を口にした。
「和代さんは?」
「"両立できないなら、大学なんて早く辞めなさい"、だってさ。うちの親の性格は知ってるだろ?」
 一人息子をネタに、どこか遊んでいるような・・・・と、言うと大袈裟かもしれないが、笑いの種ぐらいにはしている父親と、何でも好きなことをさせているようで、その中に程よい厳しさを含んでいる母親(厳しさの方向が普通とは異なるように思えるが)を持つ関谷篤志は肩をすくめて見せた。
「お二人にはしばらく会ってないけど、相変わらずみたいね」
「あの性格は変わらないよ」
 目を細めて苦笑する史緒に、篤志も笑って答えた。
「そういうわけで、これからちょっと行ってくる」
 軽く手を振って背を向ける。史緒は何か言いかけて、引き止めようとして、やめた。言葉が見つからなかった。けれど、篤志がドアノブに手を掛けた瞬間、史緒は言葉を声にしていた。
「篤志、あの・・・」
「謝るつもりなら、迷惑だ」
 厳しくならない程度に、篤志は言い切った。史緒は言葉を飲み込んで、うつむいた。
「・・・」
「何ども言ってるけど、これは俺が望んだ生活だから」
 だから、謝られるのは困る。迷惑だ。
 そんな捨て台詞で、篤志は扉の向こうに消えた。
「・・・・・・・・っ」
 史緒は一人部屋に残されて、唇を震わせていた。そして小さく呟いた。
「ばか・・・」
 謝罪が迷惑なら、礼を言う時間くらい与えてくれてもいいのに。
 いつもは気が回るくせに、こんな時ばかり突き放されてしまう。
(・・・・・・)
 深い深い深い溜め息をついて、史緒は机に伏した。



 阿達史緒は今日が何の日かを知っている。けど彼女の場合、特別何かをするということはない。
 たまに仕事の手を休めて、窓の外を眺めて、考え込む時間が増える。
 ただそれだけだった。







 そこは、名門私立大学の十本の指くらいには数えられる大学だった。
 常緑樹で囲まれた敷地内には、いくつかの棟が立ち並んでいる。建物はどれも古く、それらは歴史がある、というよりは年季が入っているという言葉のほうがよく似合っていた。4万3千人が集うこの大学に置かれているのは、社会科学部、人間科学部、教育学部、文学部、政治経済学部、理工学部、法学部、商学部と、多岐にわたっている。節操がない、とも言うが、それなりに優秀な人材を輩出しているからこそ、名門大学と称されているのだ。
 関谷篤志は、その構内を歩いていた。
 何故と問われるなら、篤志がここの学生であるから、としか答えようがない。それが事実だ。もう少し言わせてもらえば、関谷篤志は理工学部経営システム工学科の3年生で、この大学に入学したのは阿達史緒率いるA.co.が設立される以前のことである。今は仕事が中心の生活であるけど、しっかり学生生活を送っていたこともある。
 篤志が今日、久しぶりにここに来た目的は、事務局で手続きを済ませ、いくつかの書類を受け取ると達成されたはずだった。
 しかし篤志は意味も無く構内を歩き回っていた。
 すぐに帰ろうとした篤志の足を止めさせたのは、本人に自覚はないけれど、やっぱり、懐かしさ、なんだと思う。
(挨拶くらいしていったほうがいいか)
 そんなふうに自分を納得させて、篤志は「挨拶すべきところ」に向かい始めた。


 時間的に各教室では講義が行われていて、廊下には人気が少なかった。
 それでも色々な音が漏れてくる。
 抑揚のない声で蘊蓄をたれる教授の声。黒板を叩くチョークの音。生徒たちの討論、無駄話、情報交換。
 人が沢山いるのに、ひっそりとした空気。
(・・・・・忘れてたな。こんな感覚)
 学校、という場所から、いつのまにかこんなにも遠ざかっていた。
 もしかしたら、自分は結構普通ではない人生を送っているのかもしれない。
 今頃こんな風に思うのは、篤志の自覚がないせいでもある。
 既に理工学部の行動範囲内にいた。人と通り過ぎる度にびくびくしている自分に気づくと、篤志は我に返って自問した。何を怖がっているんだ。
 少し考えて、知った顔に会うのを恐れていることに気づく。
 きっと、この大学の人のよい仲間たちは、久しぶりに会う篤志を歓迎するだろう。お祭り好きの彼らは、数時間以内に企画・実行して一席設けてしまうかもしれない。
 何を怖がっているのかって?
 興味ある学問を教わり、個性ある人々との付き合い。
 けれどそれらは、篤志がこの大学に入学した理由にはならない。
 この大学に入ったのは、自分の目的の為に大変都合が良かったからだ。
本当に、それだけだから。
 自分を慕ってくれる彼らを裏切っているようで、少しの後ろめたさを感じる。
 確固たる意志があるけど、目的とは別の場所にいる人とも完全に決別できない。
 それはまぁ、当然のことだろう。
 重要なのは、自分がどちらを選択したかということ。
 普通の学生生活なのか。それとも阿達史緒に協力するか・・・。
 選択を迫られたとき、こたえを出すまでの時間はほんの数秒だった。
 今の生活は、篤志の目的により近いのだ。悩む必要などあるわけもない。
 自分の判断は間違ってないと思っているし、今の生活にも満足してる。
 なのに、そんな生活を、篤志の周りの人たちは必要以上に心配しているようだ。
 それは篤志が自分の目的を、両親以外の誰にも話していないせいだろう。
 目的。
 両親には言ったことがある。一度だけ、幼い頃に。
 あの時以来、話題にしたことはないのに、二人は覚えていて、そして好きにさせてくれている。
 将来、自分の人生が特異なものに思われるのも自慢できるものになるのも全て、理解ある両親のおかげということになるのだろう。
 彼らがいなければ、「関谷篤志」は存在しなかったから。




(ここか・・・・)
 部屋の位置に記憶間違いは無いはずだ。
 果たして何ヵ月ぶりになるのか。とにかく本当に久しぶりに訪れる某研究室の教室の前に立ち、一つ深呼吸をする。それは、少しの緊張と、ちょっとした懐かしい気持ちと、苦労を覚悟した意味が込められていた。
 コンコン。
 二回ほどノックして、篤志は教室のドアを。
 開けた。

 パーンっ。
 クラッカーの破裂音。
「・・・・」
 少しの沈黙。
 細い紙屑が篤志の頭から落ちた。
 篤志はうんざりした顔で、無言で教室内を見渡す。
 室内にいた六人の学生は口々に叫んだ。
「留年決定、おめでとうっ」
「留年、おめでとおっ」
「ほんっとーに、久しぶりだなー。関谷クン」
「君を残して進級する我々を許してくれたまへ」
「おおっ、そんなに髪が伸びるまで学校サボって山篭もりを・・・っ」
「え? 道場破りじゃなかった?」
 ちなみに篤志は入学したときから長髪である。
 嬉しそうに涙に暮れる演技をする彼らに、篤志は怒りを抑えた溜め息で以って返答とする。
「おまえら・・・・」
 この連中に懐かしさを感じないでもないが、今は込み上げる怒りのほうが優先だ。
 見ると、流石というかやはりというか、狭い室内の机の上には缶ビールとお菓子が積んであった。耳が早いのか、行動が速いのか、一体どれを皮肉って誉めればよいのだろう。
「関谷、先輩にむかっておまえとは何だっ」
「まだ、同年だ」
「今のうちに先輩ヅラしておかないと、次にいつ来るかわからんだろ。おまえの場合」
「・・・そういう問題か?」
 相変わらずノリわりィなーっ、と背中を叩かれる。篤志のほうが背が高いにも関わらず強引に肩を組まれたので、ほとんど頭を抱えられる体勢になった。
「ま。マジ、久しぶりだな」
 耳元に改まった声で、そんな風に言われる。
 素直じゃねえなぁ、と笑う。
 相手の腕を掴み、体勢がプロレス技に変わる前に、篤志は器用に肩を外した。
「ああ。この部屋の位置を忘れるほどじゃないけどな」
「今日、時間あるならちょっと飲んでけよ。積もる話もあるってもんだ」
「どうせ留年ってのがネタなんだろ」
「御明察」
「先生は?」
「講義中。関谷を適当にいじめとけ、っていう御触れが出てる」
 うんうん、と全員が頷いた。
 そのあと、無理矢理椅子に座らされて、目の前には酒とつまみが並べられ、小宴会が始まった。
 建前の名目は「関谷篤志、留年決定記念会」、だという。



*  *  *



「とうとう関谷も留年かー。入学した頃は教授たちの期待だったのにねぇ」
「でも普通、理工学部の3年で留年するほうがおかしいんだぜ」
 やはりこういう話題になるのは避けられない。篤志はすぐに帰るつもりだったが、諦めて付き合うことにした。
「去年、ギリギリで進級したときから、四年で卒業するのは諦めてたよ」
 周囲が意外に思うほど、篤志はあっけなく言う。
「卒業する気ないのか?」
 一人が尋ねた。これは別に責めているわけではなく、篤志の意向を聞いたのだ。このあたりの価値観は似通っているので、篤志は相違なく受け取った。
「・・・・卒業しておきたい、とは思う」
「体面、気にするような奴だっけ? おまえ」
「体面張らなきゃならない相手がいるからな」
 大変だねー、と誰かが言った。
(・・・・・)
 認めさせておかなければならない相手がいる。それは仲間でも両親でもなく、・・・ただ一人の人間。
 篤志は表情には出さずに笑って、そうでもない、と応えた。
 机の上に空缶が転がり始めた。
 この時点で既にできあがっている者一名、居眠りモードに入っている者一名。それらを横目で見て、篤志も缶に口をつけた。
(そーいや、こいつら弱かったな)
 一年前の、研究室の新入りコンパでのことを思い出した。基本的に皆あまり強くない。でも騒ぐのが好きな連中で、飲み会は多くても2次会に突入したことはほとんどなかった。
 今回、篤志がネタにされているが、その実単に騒ぎたかっただけでは? ・・・そう考えると複雑な心境だ。
「吸う?」
 煙草を差し出される。
「いや、いいよ」
 篤志が断る仕種をすると、相手は慣れた手付きで煙草を咥え、火をつけた。
「前、吸ってたよな。やめたの?」
「一緒にいるやつが嫌がるんでね」
「・・・・一緒にいるやつって、・・・・・・おおーっ!! まさか彼女かぁっ!?」
 ぶはっ、と篤志は吹き出した。
「えっ? なになに? 関谷の彼女っ?」
「おまえー、大学サボって何やってんだよー」
 こういう話が好きな連中だということも、篤志は今、思い出した。
「ちがうっ! 仕事仲間だっ」
 室内が一瞬静まった。
「・・・しごとぉ〜?」
「おまえ、今、何してるんだよ」
 留年とは別の方向に興味を抱いた数人が尋ねてきた。
「バイトか?」
「金、稼いでんの?」
 勤労学生は沢山いるが、アルバイトに時間を取られ留年しては元も子もない。
 篤志は自分の特異な生活を再認識して、少し迷いながら言う。
「この場合、何て言えばいいのかわからないけど、取りあえずバイトじゃない。普通に働いてる」
「どんな仕事?」
「分かりやすいく表現すると探偵、正確に言うと何でも屋ってところだ」
 余計わからない気がする、と誰かが言った。
「仕事仲間ってどんな人間?」
「どんなって。別に普通」
「関谷が学校サボってまで一緒にいる連中が普通とは思えないけどな」
 誰かが言った。
 室内が一瞬静まって、その空気に驚いてから、篤志は笑った。
「確かに、そういう意味では普通じゃないな」






 そして同様に、その日は社会的にも内輪的にも平日だったので、都内にある私立京理学園中等部では、当然、普通のカリキュラムを行っていた。
 この学園は開校が明治で、歴史と伝統と風格というものがあった。女子校である。お定まりのように全寮制だった。
 名門の名と伝統を重んじる一方、帰国子女や外国人留学生を多く受け入れることでも有名で、そのあたりの、理事長の柔軟な考え方も評価されていた。
 俗に言う「お嬢様学校」だが、現代において、そんな単語はすでに死語と化している。矛盾した表現かもしれないが、「少しだけ国際的で、少しだけ閉鎖的」な部分を除けば、どこにでもあるようなごく普通の学校だった。
 その3年1組に、川口蘭は在籍していた。



「きゃーっ、・・・・・・蘭っ、何してるのよっ!」
 午前10時。一限目が終わった休み時間、3年1組の教室に悲鳴があがった。
 その悲鳴で教室にいた全員が、窓の外へ視線を集中させた。
 なんと女生徒の一人が、教室の窓から外の樹木に飛び移ったのだ。ここは2階である。
 女生徒はそのまま太い枝に掴まり、木の窪みにうまく足をかけ、反動をつけると、ぴょんぴょんと中継地点2個所で地面に着地した。重力を感じさせない軽快な動作だった。
 その間、たった3秒。
 2階の窓から飛び降りた女生徒は、ぽんぽんと制服の裾を払っている。背中の鞄をしょい直すと、おだんご頭の少女は頭上の窓に向かって手を合わせた。
「ごめーん、委員長。今日は帰らせて」
 申し分けなさそうに頭を下げるが、委員長にとっては、あまり意味がなかった。
「それはいいからっ、ちゃんと玄関から帰りなさいっ。危ないでしょっ」
「今日は急いでるのー。本当に、ごめんね」
 2人のやり取りを面白そうに聞いていたクラスメイトが、窓の下の蘭に声をかけた。
「らんー。次の日曜日、あいてない? たまには遊ぼうよ」
「お誘いは嬉しいんだけど、休みの日はだめなの」
「答えは分かってた。いじわる言ってごめん」
「こっちこそ。理解ある友達でうれしいよっ。ほんとに、ありがとう」
 そう言うと、川口蘭は踵を返し、校門に向かって走り出す。背後からは、まだ、委員長の声が聞こえていた。それをたしなめるクラスメイトの声も。
 1時限目が終わったら帰る予定なのに、1時限目をきっちり出席しているところが川口蘭の性格なのだ。
 彼女のそういうところと、彼女のずば抜けた運動神経は、クラスの誰もが知っていた。



*  *  *



「はい、A.Co.」
 電話に出たのは、島田三佳だった。
 史緒が出るとばかり思っていた篤志は、少しだけ驚いて、自分の名前を告げる。
 そうしたら、三佳の容赦のない、呆れたような馬鹿にしたような(もしくは両方かもしれない)声が返ってきた。
「篤志? 一体、何なんだ、おまえらは」
「ガキにおまえ呼ばわりされる言われは無いっていつも言ってるだろう」
「用件を言え」
 篤志の言葉を当然のように無視する。言い返すのも馬鹿らしくなって、今から帰る旨を篤志は伝えた。三佳は篤志の用件がそれだけであることを確認してから発言を続けた。それには無視したはずであったガキ呼ばわりされたことへの報復が、当然のようにさり気なく、しかも意図的に、言葉に表れていた。
「今さっき蘭から電話があった。おまえの居場所を尋ねられたから、篤志なら留年が決定して、ほんっっとうに珍しく大学のほうへ行ってる、と答えておいた。多分、そっちに向かってるんじゃないか?」
 留年、そして決定という二個所にアクセントがついていた。
 川口蘭から事務所に電話があり、関谷篤志の居所を尋ねられた。そしてその当人からタッチの差で連絡が入る。三佳としては馬鹿馬鹿しいと思うのは無理も無い。
 それを察してはいるが、篤志は苦々しくなる声色を抑えることはできなかった。
「・・・何で知ってるんだよ」
「一応、言っておくが、史緒からは何も聞いてない。ただ、今年こそ留年するかどうか賭けてたもんだから。・・・この時期に大学に呼び出されると言ったら、それしかないだろう」
「いくら稼いだのか聞いておきたいんだが。ついでに何人参加したのかも」
「やめたほうがいい。人間不審になりたくはないだろ」
「・・・司っ、そこにいるんだろっ。頼むからこいつを黙らせてくれ」
 半分、泣き付く勢いで、篤志は声を強めた。
 あいかわらずの饒舌な毒舌は歳不相応。この少女が史緒に連れられてA.Co.に来たとき、当時のメンバーは所長である阿達史緒と七瀬司、そして関谷篤志の3人だった。あの時は大人しい奴だと思っていたけど、一皮むけた本性がこれだ。
(やはりあの2人はあまり良くない意味で影響しあってるな・・・)
 顔をしかめて、篤志はそう考える。その気持ちの8割は被害妄想だとわかっているけれど。
 三佳、その辺でやめときなよ。三佳の声のさらに後方から、"もう一人"のそんな言葉が小さく聞こえた。よく考えると、この当人も賭けに加わっていた一人なのだ。きっと。いや、必ず。
「もしもし? 僕だけど」
 受話器の向こうの声が、若い男のものに変わる。七瀬司だ。
 その用件を聞く前に、篤志は逆に問い掛けた。
「司。おまえは賭けに勝ったのか、負けたのか、どっちなんだ」
「勝ったよ。もちろん」
 悪びれもせず言う。
 と、いうことは、篤志が留年するほうに賭けたのだ。当然、三佳も同様だろう。意外と怒りは覚えなかった。ただ、どっと疲れを感じた。
 篤志、と改まった声がした。
「蘭のことだけど、本当にそっちに向かってると思うから、ちょっと待っててあげてよ」
「・・・・・・」
 前髪をかきあげて、少しの間考え込む。
「あいつ・・・、今日、普通に学校ある日だよな? 何か言ってた?」
「別に、篤志の居場所を聞いただけだったよ」
 今日の夕方には、事務所に行くことを彼女は知っているはずだ。
 腕時計の指す時刻は12時23分。昼真っ只中。
(特に約束はなかったはずだし)
 うーん、と、もう一度考え直してから、
「わかった。こっちの駅で少し待ってる」
 そう言って、電話を切った。







 大学の最寄り駅付近はちょっとした広場になっていて、サークルの集い・勧誘、学内の団交、昼食、レポート書きなる光景が毎日のように見られる。繰り返すがここは学内ではなく、駅前である。それでもこの広場の人口は常に8割以上が大学生。多種多様な学部生徒が入り乱れることに関しては、近郊の喫茶店に勝るとも劣らない貴重な場所だった。
 篤志はその広場の一角にあるベンチに腰を下ろして景色を眺めていた。
 通り過ぎる何人かは顔見知りで、相手は珍しい人間がここにいることに驚いたりする。同じような会話を2、3人と交わして一息ついて、篤志はまた、目の前を行く人々に目を向けた。
 時間を潰すためのものは何も持ちあわせていなかったが、篤志は時間を潰す事に関してはある種の才能を持ちあわせていた。とくにこのような場所では。
 時計台の下でそわそわしている学生、地図を見ながら駅に滑り込む人、芝生の上の昼寝、メモを取りながらの談義。
 関谷篤志は人を見るのが好きだった。何をして、どこにいくのか、想像するのが既に趣味と化していた。
 非生産的である趣味を敢行していた矢先、目の前を小学生二人が、走って通り過ぎていった。
(・・・・・っ!!)
 それだけで、篤志ははっとして目を見張った。
 そして思い出した。
 今日の日付を。
(・・・・・・・・・そうか)
 篤志は空の一点を見つめたまま、右の拳を、強く、握り締めた。
(今日は、2月26日だ)
 それは当たり前というか、変えようの無い事実であるけれど。
 胸が痛んだ。
 この日付に特別な感情を持つ理由は、関谷篤志には無いはずなのに。
 しかし、その日付に気づけば、川口蘭が今日、篤志を探している理由もわからなくはない。
 2月26日。去年のこの日、篤志は蘭から理由のないプレゼントを受け取っている。一昨年も、さらにその前も。すでに毎年恒例になっていて、蘭の性格から今年も例外でないことは推測するに難くない。
(・・・)
 頭上では澄んだ青空が広がっていた。気温はまだまだ冷たいけれど、風がどこか暖かく感じた。
 そんな季節の日だった。
「篤志さん」
 突然、目の前が陰る。視線を前に戻すと、そこには予測通りの人物が立っていた。
「こんにちは。良いお天気ですね」
「蘭・・・・」
 制服姿で、おだんご頭の川口蘭が、いつもの明るい笑顔でそこに立っていた。その背後には、相も変わらずの人だかり。篤志はそのうちの一人。これだけの人の中から、蘭はどうやって篤志を見つけたのだろう。
「お隣り、座っても構いませんか?」
「ああ」
「あ、昼間からお酒飲みましたねっ」
 篤志自身は大して飲んでいないはずだが、匂いでわかったのだろう。
「敏いな」
「あと煙草っ! 史緒さんに怒られますよ」
「俺は吸ってないぞ」
「そんなこと、わかってます」
 同じ部屋に喫煙者がいれば、嫌でも匂いがつく。蘭に言われなくても、篤志は一度自分の部屋に戻り、着替えてから事務所に行こうとしていた。
 何といってもあの再従姉妹は、少しの煙草の匂いでも途端に機嫌が悪くなるから。それは蘭もよく知っていた。
 篤志はふと思い立って、蘭が学校をサボってまでここに来たことを諌めようとしたがやめた。制服を着ているということは、何コマかの授業は受けてきたということだろう。代わりに口に出たのは全く別の質問だった。
「・・・・・今日で何回目だっけ?」
 蘭は目を丸くした。
「覚えてたんですか? 毎年忘れてるのに」
「いい加減、覚えたよ」
「今回は私と篤志さんが出会ってから4年目なので、4回目ですね」
 はい、これ。そう言って蘭は持っていた袋を篤志の前に差し出した。
 篤志はそれが何か知っている。両手で軽く持てるくらいの、小さな鉢植え。縦長のビニール袋の中で、ささやかな緑の葉は、その手を折りたたんでいた。
 毎年、この日になると一つ増える篤志の部屋の観葉植物。
 それらは全て、川口蘭からのプレゼント。
「・・・・蘭。おまえ、俺の部屋を植物園にする気か?」
「それくらい長く付き合えたら、素敵だと思います」
 笑顔でそう言われると、さすがに篤志は何も言えなくなる。けど照れているのではなく、これは呆れているのだ。
 それに、素直に喜ぶこともできない。
 篤志は毎年恒例のこの日の蘭からの贈り物の意味を知らなかった。
「・・・毎年同じことを尋ねるようだけど、何故、今日、この日、俺に?」
 蘭もその問いを待ち構えていたかのように、間髪入れずに応える。
「毎年同じ答えで申し訳ありません。ご迷惑ならやめます。でも、もし、そうじゃないなら、受け取ってもらえませんか?」
「いや、俺は嬉しいけど」
「喜んでもらえて、あたしも嬉しいですぅーっ」
「だーからっ! 抱き着くなって」
 首にしがみ付く蘭を引き離して、篤志は襟元をただした。蘭は隣で小さく、けち、と呟いた。嫌味にならない程度の蘭のむくれ顔を横目で見て、嘆息。
 慎重になり過ぎない声音で。
「俺の誕生日は6月だぞ」
「知ってます。今年はおっきな花束にしようかな」
「・・・かなり恥ずかしい」
 蘭はくすくすと笑った。それにつられて、篤志も声を立てて苦笑した。
 一区切りつくと、蘭はベンチから立ち上がって篤志の真正面に立った。
「ねぇ、篤志さん」
 まっすぐに目を見て、蘭は口を開く。
「必ず在ると分かっているものを探すのって、気分的にすごく楽だと思いませんか?」
 珍しく彼女にしては抽象的なことを言う。表情はいつもと変わらず笑っているけど、でもわかる。これは真剣な話なのだ。
「・・・・何の話だ?」
「あたしは、あなたがこの世界のどこかに居るって、知ってました」
「・・・・・・」
 『知っていた』。
 蘭はそんな言い方をした。自信があるとかないとか、そんな次元の話ではなく、確信? ・・・・本当に当たり前のことのように、蘭は言い切った。
「だから後は、探しに行くだけだったんです。世界中。一生かかっても、しわしわのお婆ちゃんになっても探す気でしたし、一目で分かる自信もありました」
「その自信の根拠は?」
「それはもちろん、あなたはあたしの、『運命の人』ですから」
 茶化さずに、真っ直ぐな瞳で、蘭は篤志と対峙した。
 ある意味、盲目的とも言えるその思い込み。それが個人のたわ言であるだけなら自滅的だが、その思い込みが真実ならば、これ以上に強いものはない。
 何故、今日、この日、俺に?
 その答えが、先ほどの蘭の自信の根拠と同じであることに、篤志は気づいた。蘭が遠回しに篤志の疑問に答えたことに、気づいた。
 川口蘭は周りが思うよりずっと大人なのだとわかった。ひとつの真実を、その身に仕舞い込める程。
 篤志は言葉を返せず、やっと視線を外せたのは5秒後だった。
「・・・負けたよ。おまえには」
 蘭が言いたいことは、篤志に伝わった。
 呆れて、そして何故か諦めに近い表情で篤志は苦笑する。
 この少女を侮ったことは一度もないが、ここまで手強いとは。
 篤志は勢いよくベンチから立ち上がった。蘭は篤志が怒ったのかと心配になって、弱気な表情で篤志を見上げた。
「あの、怒らないでくださいね。あたしは篤志さんの目的も理解しているつもりです」
「… っ」
 今度こそ、篤志は目をみはった。蘭の双眸を見つめる。
 今の篤志の心境は純粋な驚きで、ただ本当に、この少女の洞察力に敬服した。
「・・・・おまえ、あのじーさんの娘なだけあるな」
「光栄です」
 蘭は本当に嬉しそうに笑った。
「全面的に誉めたわけじゃないからな」
「なんですかー、それー」
 歩きはじめる篤志の背中を捕まえるように、蘭は手を伸ばす。一度追いつくと、篤志が歩幅を合わせてくれることを蘭は知っていた。
「毎年同じこと言うようだけど、昼メシまだなんだろ? どっか入るか」
「やったーっ、もちろん奢りですよねっ?」
「いくら何でも中学生にたかれないだろう」
「年の差は開きませーん」
「・・・・ま、蘭が成人した頃には返してもらうさ」
 苦笑する篤志の腕に蘭はしがみついて、二人は駅の方へと向かった。


 暖かい日。
 けど、桜が咲くのは、まだ、先のこと。







09話「関谷篤志2」  END
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