09話/10話/11話 |
10話「re...」 |
1995年9月。 少女は、約一年ぶりにその地に降り立った。 「・・・もぉー、何でこんなに混んでるの」 その声は何故か嬉しそうだった。 人、人、人。人に押しつぶされながら、駅の改札を抜ける。 ここが通路であることが疑わしい程の、混雑した喧騒をくぐりぬけると、足を止め、嘆息した。そして、おのぼりさんよろしくキョロキョロと首を振ると、少女はにんまりと笑う。 駅としては、少女が知っている中でもかなり広い。広いはずなのに、この人口密度はいったい何だろう。今、来た場所を振り返ると、ホームから降りてくる階段にも人があふれている。デート中のアベック、休日なのにもかかわらず営業中のサラリーマン、急いで駈けてゆく学生・・・。 これだけの人数を同時に眺められるのは、「駅」という特殊な場所ならではかもしれない。 だから、少女は嬉しくて笑ったのだ。 少女はジーンズに花柄のカーディガンという服装で、唯一の荷物は背中のナップサックだけだった。年齢は12歳。髪は耳の上で二つに結んでいるが、それでも長い直毛が肩にかかっていた。 混雑に対する愚痴をこぼしながらも、その表情は明るく嫌味がない。 この少女も、沢山の人間を見ることが好きな性格だった。 まだ残暑が残る日差しの強い、暑い日だった。 目的地であるその家は都心から少し離れた住宅地にある。 駅から徒歩30分(少女はその距離を歩いた)、駅前の商業地を通り過ぎて店先の看板が見えなくなった頃、そこは見えてくる。 緩やかな坂を上ると、あまり広くない道の左右には一軒家が立ち並んでいる。少女は通り行く人に挨拶しながら進み、その家の前で止まった。 大会社の社長宅にしては、かなりささやかな家だ。 門柱には「阿達」と書かれていた。 ぴんぽーん。 前触れもなく、門の向こうの玄関ががちゃり、と音をたてて開いた。てっきり、インターフォンでの応答があると思っていたのに。 茶色の扉から現れたのは、咥え煙草の背が高い青年。右手でノブを押し、左手の上の分厚い本に目を落としたまま、声だけをこちらに投げた。客を迎えようとする態度ではない。 「どちらさん?」 本に集中していて顔を上げようとしない。本を読むのか、応対するのかどちらかにしてほしいのだが。 その足が敷居から外に出ようとしないのは、陽の光が眩しいせいだろう。 少女はその青年を知っていた。 背が高く、不健康なまでに痩せた体つきで、手足はその長さより細さが際立つ。それでも「華奢な好青年」に見えるのは、顔がある程度整っているせいかもしれない。髪は短くそろえているが、前髪だけは長く目にかかっていた。読書用の眼鏡は縁なしのミラショーン。本のタイトルは日本語でも英語でもなかった。それだけは少女にもわかった。 この青年の名は阿達櫻。歳は現在19歳。大学生である。 「あ、あの・・・」 対応に困り、少女が声をかけると、そこで櫻は初めて顔をあげた。本を読むのを邪魔されて、明らかに不機嫌な表情を見せる。少女の姿を認識すると、櫻は目を細め、抑揚のない声で言った。 「なんだ、蓮家の末っ子か。しばらくぶりだな」 「・・・・・・・・・お久しぶりです」 蓮蘭々。それが少女の名前だ。 「親父どのは元気か?」 「ええ、おかげさまで」 「"探しもの"は見つかったか?」 「櫻さんは?」 「まだだよ」 「あたしも、同じです」 そう答えると櫻は用が済んだらしく、蘭々がここへ来た用件を尋ねた。 「史緒なら別に帰ってない。何の用だ」 冷たく突き放すような言い方に、蘭々は一歩退いた。わざと人を傷付ける人間は存在する。 天真爛漫、誰にでもすぐ懐いて人見知りしない彼女だが、唯一苦手とする人間が存在した。それがこの阿達櫻だ。 その表情にはいつも落ち着きと自信がある。それを持ち得るだけの知識と教養も、彼は有していた。ただ他人の言動を見透かしているような目つきと、他人を見下している物言いは気持ちのいいものではない。 この阿達家の子供は、何故か皆、歳不相応なほどに頭が良かった。しかしそのうち、ひとつ教えれば、十も百も理解するような天才肌はこの櫻だけで、他のきょうだいは英才教育も手伝っての努力の賜物という感があった。 「・・・今日は司さんの様子を見に来たんです」 上目遣いでむくれたような蘭々の言葉を聞くと、櫻は肩をすくめて皮肉を込めて笑った。 「それでわざわざ香港からか。ご苦労さん」 櫻は玄関から出てきて門を開ける。蘭々に中に入るよう、動作で示した。 蘭々は一礼して櫻の前を通り抜ける。その瞬間、思わずむせそうになった。 (すごい匂い・・・・) 本人にすでに染み付いている櫻の煙草の匂いだ。 彼の妹はこの匂いを嫌っていた。 本当に久しぶりにこの家の玄関に入ると、蘭々は懐かしさで胸がいっぱいになった。 櫻がスリッパを廊下に置く。 「あ、ありがとうございます」 蘭々はそれに足を通し、膝をついて、脱いだ靴を揃えた。日本人でもないのに、このあたりの作法は身についていた。 床の上、あらためて櫻と並ぶと身長差はかなりある。それは蘭々がまだ成長途中であり、櫻は成長期が過ぎた男性であることもあるが、彼は日本人の平均身長よりかなり長身だった。 「七瀬なら自分の部屋にいる。・・・ついでに新入りも見ていけばいい」 二階へと続く階段を指差して言う。しかしその目はすでに手元の本へと移行していた。 「新入り・・・?」 「あぁ、七瀬と一緒にいる奴がそうだ。うちの親父も気に入ったようだし、これから長い付き合いになるかもな」 あまり良くない意味の笑いと共に、櫻は言った。 広めのリビングとキッチン。洋間が3部屋と和室が1部屋。それにバス・トイレ。この家の一階の間取りはこんなものだった。そのうち洋間1室は櫻の個人部屋で、基本的に本人以外は立入禁止になっていた。 他にはめったに帰ってこないこの家の主人・阿達政徳の部屋は家具はほとんど無く、物置代わりになっている。それから政徳の秘書である一条和成の部屋も、この家にあった。 リビングに消えた櫻の後ろ姿を見送った後、蘭々は階段を上り始めた。 一段一段、この家の感覚を思い出しながら。 ふと、踊り場を過ぎたあたりで、蘭々はあることに気がついた。 一年前に来た時とは、雰囲気が全く違う。華が無い。 理由は知っている。 落ち着いたお洒落が好きで、この家の模様替えや家具の位置などの全権を握っていた笑顔の絶えない女性は、昨年、亡くなった。この家を飾る人間はいなくなった。 今、ここに住んでいるのは先程の阿達櫻と、七瀬司である。前述した通り阿達政徳と一条和成はめったに帰らない。 そして櫻の妹は現在海外留学中で、数か月ここには帰っていない。 (・・・帰りに、史緒さんのところに行ってみようかな) 帰路とは逆方向だが、蘭々にとってはそんなことは問題にならない。たとえそれが、世界地図上の話であっても。 ちりりん、と、どこかで鈴の音がした。音源を察した蘭の表情がぱっと明るくなる。 「ネコっ!」 軽い足音とともに、二階から黒猫が駆け降りてきた。鈴は首輪に付けられているものだ。 蘭々が手をのばすと、ネコはぴょんとジャンプして、蘭々の腕の中に収まった。 「やー、久しぶりー。元気だった?」 ネコはにゃあと鳴くと、蘭々の体に顔を擦り寄せた。 ネコ、とはこの黒猫の名前だ。もう七年もこの家にいるので、体もそれなりに大きい。全身の毛は見事なまでに真っ黒で、目を閉じると表情が見えなくなるほどである。この家の・・・というより、現在この家にはいない阿達史緒が飼っている猫なのだ。 かりかり、とネコが蘭々の首筋を引っ掻いた。 「なあに?」 引っ掻くといっても爪を立てているわけではない。そこに何かあるかのように、その何かを掴もうとするように、小さな手を伸ばしていた。 (そっか・・・) 思い出した。ネコは阿達史緒の腕の中にいるとき、よくそんなふうにしていた。 「ネコも史緒さんがいなくて淋しいの? 年末には帰ってくるって言ってたけど・・・」 あてになる約束ではない。 「司さんは元気?」 やわらかい体を優しく撫でて、蘭々はネコを抱えたまま、階上に昇った。 こんこん。右手で軽くノックをすると、中から「どうぞ」という聞き慣れた声がした。 「司さん、お久しぶりでっす」 ドアを開けるなり蘭々は弾んだ声で言った。驚かそうと思ってのことだったが、返ってきたのはいつもながらの落ち着いた声だけだった。 「やあ、蘭」 机に向かっていた少年が振り返って笑った。蘭、というのは蘭々の愛称である。 七瀬司。現在15歳。成長しきってない体格で、「少年」の域はまだ出ていない。 目は開かれているが、それがよく機能しないことを蘭々は知っている。彼が普通の生活に戻れるよう、訓練していた経過を蘭々は見てきたのだ。ある時期からみれば、比較するまでもなくその落ち着いた性格は、まるで別人のようでもある。 彼は阿達家と血縁はないが、長い間ここで暮らしている。世間的には阿達政徳が引き取った形になるが、籍は入れていない。養子ではなかった。その中途半端な関係を不思議がる者も多いが、表立って率直に尋ねる人はいなかった。それは七瀬司が、社会的に見ると「障害者」という枠に収められ、あまり良くない意味の訳有りなのだと、勝手に解釈してくれる人が多いからだ。 「半年ぶりくらいだっけ?」 「7ヶ月ぶりです。どーして驚いてくれないんですかー、久しぶりに会いに予告無しで来たのにー。父さまもたまには顔出せって言ってましたよっ」 蘭々が部屋に入ると司は立ち上がり、部屋の隅のキャビネットに向かう。その上に置いてある保温状態のコーヒーを、カップに注いだ。 「あ、私がやります」 「いいよ、座ってて」 そう言う司のカップを持つ手は、少しも迷ったり震えたりしていない。見えていないはずなのに。 余計な家具を一切置いてないこざっぱりしたこの部屋も、司の行動に支障を出さない為のものだと分かる。改めて蘭々は司の動作に、感嘆の吐息を漏らした。 蘭々の腕からネコが飛び出した。司のほうへと駆け出す。 「あ、ネコ?」 司はネコが近寄る足音を聞くと、急いでキャビネットにカップを戻した。 突然飛びかかられて、カップを落としてしまう危険性もある。そうしたら熱いコーヒーがネコにかかってしまうかもしれない。 一瞬のうちにそんなことを考えたことはおくびにも出さず、司はその場に腰を下ろし、足にじゃれるネコを撫でた。 蘭々は司に促され、先程まで彼が座っていた椅子に座る。カップを受け取りそれを口に含んだ。 「誰かいるんですか?」 ベッドに腰掛け、同じくコーヒーを飲んでいる司に尋ねる。 首を傾げた蘭に、司は驚いたようだった。 「あ、わかった?」 「いえ、さっき櫻さんが新入りがどうのって」 七瀬と一緒にいる奴、と言われても、この部屋には誰もいない。 「ああ。・・・おーい、篤志ー」 司はよく通る声で叫んだ。 (アツシ・・・?) すると、ウォーキングクローゼットのほうで物音がした。この部屋と続いている広めの間・・・・確か司が書庫として使っているはずだが。 「・・・・?」 蘭々の呟きの後で、何やらガタガタという音が響く。しばらく沈黙があったかと思うと、突然ガラッと引き戸が開いた。 そして低い声。 「つーかーさー・・・・・・・」 疲れた様子の長身の男が現れた。恨みがかった声で司の名を口にする。その手には数冊の雑誌が抱えられていた。 蘭々は突然現れたその人物に驚いた。 床に座っているのでよくわからないが、体は大きめだと思う。髪が長い。ひとつに結わえていた。 男のその態度を予想していたのか、司はおもしろそうに声をかけた。 「レポートの資料になるような本は見つかった?」 男は息を吸い、司に何か言いかけた。が、あまり意味の無いことだと思い至って、言葉を飲み込む。溜め息をついて、呟いた。 「・・・一時間無駄にした思いだよ」 「役に立つ本は、いっぱいあるはずなんだけど」 「そうだな。俺に点字が読めたらな」 嫌味がこもった台詞は、司には効かなかった。 書庫、といってもその中に収められている本は、普通の人には読めないものがほとんどだった。昔、司が目の療養中に読んでいたもの・・・・点字である。 レポートの資料を借りに来た男は、この結果を予想していなかった自分の浅はかさに落ち込んでいた。本を床に置いて立ち上がると、その男は司より顔ひとつぶん背が高く、かなり長身だということがわかる。 片や黒猫を抱いた少年、片や大柄で長髪の青年。 この二人が並んだ姿は、どう見ても奇妙だった。それもどうやら司のほうが発言力が勝っているようだ。 蘭々が呆然とした目で見ていると、男はようやく少女の存在に気づいたようだった。 「あれ・・・?」 「前に言ったよね。僕がお世話になってた蓮家の・・・・」 「ああ。蘭々か」 合点がいったように笑う。 「蘭、彼は関谷篤志。櫻たちの再従兄弟だよ。横浜に住んでるんだけど、たまに遊びにくるんだ。歳は・・・えーと、17 だっけ?」 レポートが大変らしいよ、と笑う。篤志は司に睨み付けるような言葉を返す。 篤志は蘭々に向き直って。 手を差し伸べた。 「はじめまして、蘭」 「え・・・?」 気になったのは、きっと、台詞回し。それから多分、笑顔。 蘭々は手を返すことも忘れ、篤志の顔を見入ってしまった。 差し出された手のひら。そしてその言葉、その声さえも。 愛しいと思った。 感傷にも似た思い、懐古と郷愁。 胸がこんなにも痛いのに、嬉しいと感じた。 出会えた。 ・・・・そう、感じた。 落ち着いて、落ち着いて、深くゆっくり息を吸う。 胸が熱い。叫んでしまうほど。 蘭々はうつむいた頭の下でにっこり笑うと、振り切るように顔を上げた。 圧倒されるほどの勢いで篤志の手を両手で握り、そのまま自分の胸元へと引き寄せる。 そして叫んだ。 「あたしっ、篤志さんに惚れましたっ!」 唐突、としか言いようがない。 蘭のその台詞は、この家にいる全員の耳に届いた。 滅多に動揺しないはずの司は不覚にも飲んでいたコーヒーを吹き出した。 さらに、下の階から質のよくない笑い声が聞こえた。これは櫻だ。 そして当の関谷篤志本人はというと、蘭と目を合わせたまま、 「────── は?」 と、奇妙に顔をゆがませて、よくわかってないような呟きだけを口にする。 それが、蓮蘭々と関谷篤志の出会いだった。 |
10話「re...」 END |
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