10話/11話/12話 |
11話「wam 前編」 wam読了推奨。読み飛ばしても問題ありません。 |
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『なーに? 三高もサボってきたわけ?』 風の強い屋上で。 青い青い空のなか、長い髪を風になびかせ、彼女は笑った。 あの笑顔は今も忘れられない。 そんな余裕も無かったはずなのに。恐くてしょうがなかったくせに。彼女は、笑った。 『三高の目的は何? 都合のいい時だけ仲良くされてもこっちだって面白くないのよっ。あんたが…何も言わないからっ』 震えながら悪態を吐いてる。 ──彼女の胸中は、痛いほど分かっていた。 本当のことを話した。 彼女のこと、それから私のこと。 彼女は理解してくれた───…受け入れてくれた。涙が出るほど嬉しかった。 『三高には夢がある? 私は小さい頃、音楽家になりたかった』 『死神に追われてるって言ったら、あんたは笑うかな』 笑わない。あなたの心が追いつめられてるのは、知ってるから。 『冗談よ…やっぱ変だわ、三高って』 『聞いてほしいの。三高に。…テスト最終日の放課後、屋上に来て』 いいの? 私で。 『あんたじゃなきゃ言えないわよっ!』 『あっ…いや、そーいうワケじゃなくてぇ…ほら、三高って妙な力あるしぃ…』 そう。私には妙なちからがある。 ─────だから自惚れてた。 彼女を救えると思ってた。彼女の心が分かる私なら、それができると思ってた。 傲慢で、馬鹿みたいに。 彼女は死んだ。 遠い夏の日。静かな霊園で。 私は、約束の日約束の場所へ行かなかった。 行けば、未来は、変わっていたんだろうか…。 |
▲1. 6月の半ば。 アパートへ帰りつくと、ポストに一通の手紙。 往復ハガキ。 差出人を確認する前に、その通信内容を察することができた。 3度目のハガキ。 頭の隅が痛んだ。額に指を添えて、ハガキから顔を背けた。 もう、そんな季節だった。 |
▲2. 2001年6月。 「アルバイト?」 A.CO.所長・阿達史緒(20歳)は、怪訝な表情で顔を上げた。 史緒が座る事務机の前には、気まずそうに照れている三高祥子(21歳)が立っていた。微妙に視線を逸らし、両手は落ち着きがなく握ったり組み直したり。 史緒のリアクションは想像通りのものだ。かと言ってそれを喜ぶわけでなく、祥子はむきになって続けた。 「そうよっ、アルバイトするの。構わないでしょっ? 別に、史緒に断わる必要もないけど、一応、私の雇い主だから報告くらいはしておこうと思って」 無意識に声が大きくなっているのは、自分の態度の不本意さの表われかもしれない。もしくは心境の変化を暴露している恥じらい。威勢はよいがどこか照れているから。 史緒はそんな風に分析しながらも、やはり少々驚いた。 「…それは構わないけど…。どうしたの?」 「どうもしないわ。単に、A.CO.の収入だけじゃ将来に不安を感じただけよ」 これは台詞(言い訳)を用意していたのだろう。祥子に建前であることを指摘するのは容易いが、簡単に本音を吐いてもらえるとは思ってない。 史緒は笑った。けれどすぐ雇用主の顔に戻って、 「いいわよ。ただし、アルバイトの連絡先と全シフト表を提出すること。それから緊急の仕事はこちらを優先すること。条件はこの2つ」 と、言った。祥子は待ってましたとばかりに机の上にメモを差し出した。 「採用はもう決まってるの。連絡先はこれ」 それを受け取り一瞥する。 「……本屋? 客商売じゃない。大丈夫なの?」 「どういう意味?」 「まぁ、祥子がいいなら、いいけど」 「いいから決めたんでしょ。用件はそれだけ。じゃあ私は帰るから」 「了解。気を付けてね」 事務所のドアがパタンと閉った。ふぅ、と史緒は溜め息をついた。 ガチャリ、ともう一度ドアが開いた。 「なんだ、祥子来てたの?」 入れ違いで木崎健太郎(20歳)が入ってきた。タイミング的にドアの向こうで祥子と対面したようだ。 健太郎の服装はジーンズにTシャツ、鋲打ちレザーのリストバンドをしている。(ファッションに拘る彼にしては地味なほうだ)大きなバッグを背負っていた。 「ちゃんと大学へは行ってるみたいね」 「おもしろいシステム作ってる研究室を見つけたんだ。最近は入り浸り。あ、これ、この間の報告書。データはアップしといた」 「お疲れ様」 十数枚ほどの報告書を受け取り、史緒はぺらぺらとめくってから机の端に置いた。後でじっくり読む為だ。実は史緒の添削により内容をつっこまれ再提出になるものも少なくはない。 「ねぇ、ケンは大学を出たらどうする気?」 「オレ? 昔はどこかの秘密結社に入ってこの技術を役立てるとか考えてたけど。今は、そーだなー、ここの仕事をやりながら、自作ソフトで印税を貰う、とか」 「意外と…ちゃんと考えてるわけじゃないのね」 「ほっとけ。何だよ、突然」 「ううん。別に」 (歩く嘘発見器も、ちゃんと自分のことを考え始めたってことかしら) そんな風に祥子のことを思った。 * * * 事務所から駅までの通りを、祥子は足早に歩いていた。明るいうちに帰りたかった。 と、言っても祥子のアパートはA.CO.の事務所から歩いて十五分である。高校卒業と同時に品川のマンションから、事務所の近くへ引っ越したのだ。母・和子はずっと入院していた病院から保養施設へと移り、別々に暮らしていることは二人とも割り切っている。「史緒さん家の近くなら安心だわ」と、引越しを促した母は言う。 (私のほうが年上なんだけどなぁ) 信用されてないわけではないのだろうけど、母の気持ちは分かる。 その史緒は「どうせなら一緒に住めば?」と言ったが「冗談じゃない」と反発したのは祥子と、史緒と共に暮らしている島田三佳だった。祥子は、史緒の性格と折り合うことは無いと分かっているし、三佳は祥子を拒んでいるわけではなく、史緒と祥子が一緒に暮らす環境に自分も身を委ねるという愚挙はできないと言った。その気持ちもよく分かる。(史緒も、そういう反応を予測して一緒に住めば? などと言ったのだ) だから十五分。付かず離れず、不即不離。そういう関係が、恐らく丁度良い。 「……」 バイトのことについて、大丈夫なの? と史緒が言ったことを思い出していた。 案じていることは分かる。 祥子は自分が持つ能力のせいで、極力人との関わりを避けていた時があった。騙る相手が恐くて、本心とは裏腹の笑顔が悲しくて、気付いてない振りをする自分に嫌気がさして、それらにウンザリして、他人との付き合いをやめてしまったことがあった。 切り捨てることができない自分の能力が何の役にも立たないことに、酷く傷ついたことがあった。 そんな祥子が、突然バイトを始めると言い出したから、史緒は心配したのだろう。 3年半前から所属しているA.CO.では、そのメンバーは全員、祥子のちからを承知し、理解している。その中で、祥子の頑なな心も少しづつ変わってきたし、自分のちからを活かせることに喜びを感じたりもした。 (でも、今のままじゃダメ) そう思うようになった。 A.CO.のメンバーは阿達史緒を筆頭に現在7人居る。昔と違って全員集まるということはあまりなく、非常勤がほとんどだ。祥子以外のほとんどは学生で、それぞれ忙しい様子。 けど、祥子だけは高校を卒業してから、この仕事に専念していた。 専念、というより他にすることがなかったからだ。 したいこともなかった。 皆は、それぞれ自分の目指しているものに努力している。 では、私は? そう考えたとき、ものすごく不安になった。 甘やかしてるんじゃないかって。 このまま史緒の下で甘えてるんじゃなくて、何か、自分の道を見つけなきゃいけないんじゃないか。 とりあえずアルバイトを始めてみるのは一刻も早く動きたかったからだ。 社会生活を満足に送ってこなかった自分が、どこまで周囲と関われるのか。 夕暮れ時の赤い空に、雲が流れてゆく。湿った暖かい風が髪の隙間を走って行った。ゆっくり歩きたいのに、その風は急かすように背中を押して、街行く人々を家路へと歩かせていた。 (…) ふと、どこか懐かしい匂いを感じた。 それは単に夏の匂いだ。湿っていて、緑と土の匂いがする、夏の風の匂い。 見渡せばそこにあるのはアスファルトと灰色の建物だけ。 それでも、変わることのない風が頬を撫でていく。 太陽はもう沈んでしまった。けれどその光は、空と雲と街とを赤く染めていた。 |
▲3. 「いらっしゃいませー」 自動ドアが開くと、元気良く挨拶をする。 アルバイト先でこれは一番始めに教わったこと。でも大声を出せるようになるには何日かかかった。照れ臭ささが先に立つ。けれど、しばらくすると、条件反射で声が出るようになった。 いつもどの店に入っても、店員はそう言うけれど、客の立場からすればあまり深く耳に止めてない。馴染みのお店のアルバイトさんも、こういう新米修行を成し遂げてきたのかもしれないと考えると、いつものお店にいくにも新鮮な感じがした。 「三高さん、レジお願いしまーす」 「はい」 祥子の仕事は本屋の、主に売り場整理とレジ打ち。大変だけど、結構充実している。 店長は少々皮肉屋のきらいがあるけど悪い人ではなく、他のアルバイトの人も何人かいるが、皆親切だ。一緒に昼御飯を食べているときなどに、ふと思うことがある。(結構、免疫ついてたんだな…)。他人と付き合うなんて、ここ数年無かったし(勿論、A.CO.の6人以外では)、高校時代もずっと孤立していたので不安だったけど。こんな風に、社会に出て働けるなんて思わなかった。 阿達史緒という存在は確かに自分を変えた。 結果的に良いほうへの転換になったのだろうが、史緒と出会うことができて良かったとは、まだ素直に認めたくない。 子供じみた意地だと、分かっているけれど。 |
▲4. 7月頭。 東京気象台、本日の予報は「晴れ」。朝のニュースでは「梅雨空も一段落、さわやかな青空が広がるでしょう」とのこと。しかし。 祥子はバイトの帰り道、通り雨に降られていた。 この季節に傘を持ち歩かないほうが愚かでもあるけれど、文句の一つくらいは言わせて欲しい。 「やだ、もー」 ちょうどバイト帰りのことだった。「さわやかな青空」に突如暗雲が立ち込め、こうして目の前では「どしゃ降り」としか形容できない雨がアスファルトに打ちつけられている。 祥子は慌てて近くの軒先に避難した。雲の流れは速く、すぐに止むものと思われる。 今日もバイトは少しの失敗と大きな充実感をもって終わらせることができた。気心の知れない他人と付き合うのは何かと気を遣うけれど、そういう社会生活の修行も必要なことなのだろう。 「ねぇ」 すぐ近くから声がした。見回すと、祥子のすぐ後ろ、軒先を拝借している店のドアから、中年の女性が顔を出していた。祥子に声をかけたようだった。 まさか、雨宿りしていることを咎められるのでは、と祥子は焦った。雨は変わらず降っていた。 振り返って改めて店の雰囲気を見ると、バーか何かだろうか、カウンターがあってその後ろにはアルコール類が並んでいた。とにかくこの時間…日中は開いてない店であることは確かのようだ。するとこの女性は、店の主人だろうか。 「時間あるんだったら、中入っていかない? そこじゃあ、寒いでしょ?」 「は?」 突然の申し出に祥子は面食らった。 当然、警戒心が働くが、祥子にはこの中年女性に悪気が無いのがわかる。素直に、単に親切な人のようだ。簡単に甘えるのも何なので、とりあえずは遠慮した。すると女性は人懐っこい笑顔を見せて言った。 「あなた、そこの本屋のバイトの子でしょう? あそこの店長、ウチの常連なの。美人がバイトに入ったって自慢してたわ」 と、いうことは祥子の顔は最初から割れていたということか。 「ね? 雨も止みそうにないし、髪くらい拭いていきなさいな。美人に風邪ひかれちゃ夢見が悪いわ」 「えっ、あの…」 ほとんど強引に、中年女性は祥子の手を引き、店の中へ連れ込んだ。その腕を無下に振り払うこともできず、祥子は観念することになった。 雨はまだ降っていた。 店の中は思ったより広かった。カウンターの他に丸テーブルが9つ並んでいて、イギリスのパブみたいなものかな、と祥子は思った。祥子はあまりこういう店に入ったことはない。 それから狭いけれど雛壇があって、片隅にグランドピアノが置かれていた。音楽演奏をすることもあるのだろう。 開店前なので客は一人もいない。従業員も、先程の女性───可憐、という名前らしい───ひとりだけ。これだけの広さの店だから、数人はいるのだろうけど。 「はい。これ使って」 奥から戻ってきた可憐は祥子にタオルを差し出した。 「ありがとうございます」 「お名前は?」 「三高、祥子です」 「そう。いい名前ね」 やわらかく笑った。陳腐な台詞であるのに、全くそれを意識させない。それに、なんだろう、安心させるような雰囲気を持っていた。 「どうぞ。サービスよ」 コト、と祥子の前にティーカップが置かれた。白い、金の模様が入ったフォーマルなカップ。あまりこういう店では使わないのではないだろうか。 「私の前で遠慮は無用! 暖かいうちにどうぞ」 有無を言わさず、とはこのことだ。叱られたような気分になり、祥子は「いただきます」というしかなかった。それはそれで好意はありがたい。 「うちの店長、常連なんですか? 今度、連れて来てもらおうかな」 祥子は自分が社交辞令を言えるとは思ってなかった。それを見抜き可憐はカラカラと笑って、 「いいのよぉ、気を遣わなくて。でも、ムサいおじさんと来るより、気が向いたら友達と来て欲しいな。若い女の子は大歓迎よ。喋ってるとこっちまで若返る気がするわ。あ、未成年はダメだからね」 ガンッ という破壊音がしたので振り返ると、奥の扉から一人の青年が飛び込んできたところだった。どうやらその破壊音はドアが壁を打った音のようだ。 走ってきたのか息が上がっていた。20代半ばくらいだろうか。ラフな格好で、黒い鞄を抱えていた。 「ごめんっ可憐さん! 5時まで練習させて」 そう言ったかと思うとずかずかと足を運び、雛壇の上のピアノへ向かった。 「どーぞ。5時からは仕事よ」 「わかってる」 可憐が答えると青年はピアノの椅子を引き、慣れた様子で座り位置を整えた。ピアノの横に置いた鞄から何冊かの本を取り出している。 その様子を祥子が眺めているのを見て可憐は説明した。 「彼ね、ここでピアノ弾きのバイトしてるの。自宅にピアノが無いから、よくここで練習するのよ。祥子ちゃんも、ちょっと聴いていって」 がたん。 ピアノの蓋を上げる音が必要以上に強く響いた。余韻が残るささやかな沈黙。 譜面台に置いた楽譜は、この時開いていなかった。 青年は鍵盤に指を乗せ、やがて、曲が流れはじめる。 空間を満たしはじめる。 馴染みが無い曲。 クラシックだろう、というくらいにしか、祥子には分からなかった。 (綺麗な曲…) どうしてだろう。何処か懐かしい。 可憐との会話も忘れるほどに聞き入ってしまう。そんな祥子の横顔を見て可憐は微笑んだ。 「どう? うちのピアノ弾き。なかなかのもんでしょ?」 「……」 ただ単純に。 何故人間の指からこんな綺麗な音が奏でられるのか不思議に思っていた。 勿論、ピアノを見るのは初めてではないし、演奏を目の前で見るのも初めてではないけど。 (それに、なんて…) なんて。 言葉では表せない、きれいな気持ち。 これは祥子にしか分からない感覚だ。ピアノ奏者の、感情が伝わってくる。その音と共に。 (ピアノ……?) その言葉に思うところがあって、黒い影が祥子の胸を過ぎった。 「……っ」 ふいに、足元が消えた感覚に陥った。突然訪れた不安。 タオルに顔を埋めた。そのまま落ちて行かないように。 思い出しかけたことを、また胸に仕舞いこんだ。 ピアノの音がやんだ。 「可憐さん、そこのお客さん」 と、青年の声がした。 「え? …あら、祥子ちゃん、どうしたの? 気分でも悪い?」 祥子の異変に気付いた可憐が心配そうに声をかけてきた。 「いえっ、ごめんなさい、何でもありません」 「どうかしたの?」 ピアノ弾きの青年がわざわざこちらへ向かってきた。何故だか、祥子は動揺してしまい、ガタンと音をたてて立ち上がった。わざわざ演奏を止めさせてしまったことも申し訳ないし、心配してくれているようだけど実は何ともないわけだし、いやそれは関係ないと思うけど、とにかくさっきのピアノ演奏を聴いてすごくドキドキした───その演奏者とまともに顔を合わせられないと思ったのだ。 「あの、私、帰ります。…あっ、雨もやんだみたいだし」 突然のその言葉に、勿論、可憐は驚いた。 「祥子ちゃんっ?」 「ごちそう様です、ありがとうございましたっ」 挨拶もそこそこに(かなり失礼だったことだろう)祥子は荷物をまとめ踵を返し走り出した。勢いでドアを開けて、街中へ。雨はまだ小降りだったが気にならない程度だった。 逃げるように祥子が去ってその店内。可憐が冷やかすように笑った。 「嫌われたわねー、慎ちゃん」 「えっ、何で? 俺のせいなの?」 ピアノ弾きの青年は訳が分からず、可憐に食って掛かっていた。 * * * 翌日。 本日のバイト時間は午後1時から7時。 祥子は本棚の整理をせっせとこなしていた。 「気のせいかもしれないけど、三高さんが来てから万引きが減った気がするよ」 と、店長が上機嫌で言う。 「あはは、それどんな関連ですか、てんちょー」 他のアルバイトの子が笑った。祥子も笑う。しかし、 (ははは…) 心の中では苦笑い。 万引きが減っている原因に、心当たりがあるからだ。 祥子は、万引きを働きそうな気配を感じると、本の整理をする振りをして、それとなく近寄って牽制する。 アルバイトとはいえ、店員のすぐ近くで万引きする馬鹿はいない。その祥子のささやかな牽制のぶん、万引きは減っていると思う。 勿論、そんなことは口に出しては言えないけど。 役に立てて良かった。 そのくらいには、満足している。自分のちからと、うまく付き合えている。 「じゃあ、三高さん。休憩入ってください」 「はーい」 休憩時間は15分。 「ふぅ」 ──昨日、アパートに帰りついてから、借りたタオルをそのまま持ってきてしまったことに気付いた。 (返しに行かなきゃ───) でも、みっともないところ見られた後だし、どんな顔で行けば…。 そのタオルは、昨晩、洗濯してきれいにたたんで、ちゃんと持ってきている。 「…………どうしようかな」 * * * 昨日と同じ店のドアを開けると、むっとするような喧燥が流れ溢れてきた。 (う…) 祥子が思わず顔をしかめてしまうのはどうしようもない。彼女が一番苦手とする状況で、今まで、こういう場所には近寄らないようにしていたから。軽い目眩を覚えた。 薄暗い店の中は賑わっていた。 もっと早い時間に来れればよかったのだが、祥子もバイトがあったので仕方がない。アフター5の会社員が何組も、アルコールを注ぎ合ってグラスを鳴らしていた。客たちの話し声が雨の音に聞える。 可憐がいるカウンターで一人飲んでいる人、友人同士、恋人同士、同僚や上司部下の関係…。 (……) やはり息苦しさを感じる。 祥子は入り口付近の壁に背を預けて俯いた。 目を閉じると、自分に向かって集まってくる感覚がある。 疲れている人、いいことがあった人、嫌なことがあった人、喜び、悲しみ、愚痴、自棄、待ち合わせ(ワクワク? イライラ?)。 たくさんの人がいる所では、たくさんの思いがある。 伝わるこの感覚を楽しめるようになったのは一体いつからだろう。耳を塞ぐことをやめたのはいつだったろう。 少なくとも、阿達史緒に出会う前では無かったような気がする。 (──あー…) 祥子は途端にウンザリして、顔を上げ、その場から立ち去ろうとした。 けれど手後れだった。 「こんばんわー、カノジョ、一人?」 薄っぺらい笑顔の若い男が二人、近寄って声をかけてきた。さっきまでテーブルで飲んでいた二人組だ。茶髪で長髪、ピアスとストリート系ファッション。祥子を囲むように二人は立ちはだかった。 この手のナンパは本当にどこにでもある。 祥子は溜め息をついて無視を決め込んだ。こういう輩を相手にする場合、大事なのは、はっきりした態度を示すこと。引っかけられる女だと、少しでも思わせないこと。 「どうしたの、こんな隅で突っ立ってさー。もっと奥へ行こうよ」 それでもしつこい男達は馴れ馴れしく腕を掴んで、強引に引っ張ってきた。 (冗談じゃないわよっ) そう思っても声や態度は荒げない。慣れている、とは言いたくないけど、祥子はきっぱりと言い放った。 「離してください。待ち合わせです」 この場合、多少の嘘も有り。それでも男達は引き下がる様子はなかった。 「あっ、もしかしてカレシ待ち? じゃ、来るまで一緒に飲もうよ、ね? 決まりーっ」 その笑顔と強引さには空恐ろしいものさえ感じる。 「や…っ、ちょっと」 半ば引きずられるように、店の中へと連れて行かれる。祥子は恐いと思うより先に怒りを覚えた。 「離してって言ってるでしょっ」 強く叫んでから、 (しまった) と思った。 こういう輩は怒らせてしまうほうが恐い。 案の定、男達の顔つきが変わった。その時だった。 「はい、そこまで。ナンパは向こうでやってくれる?」 祥子の背中のすぐ後ろから、第三者が声をかけてきた。(え?)と思い振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。タイプ的には、ナンパ男たちと似通うものがあるが、それよりも一本芯が通った感じに見える。しかしこの状況を勧めているのか、止めようとしてくれているのか判断が難しい言い回しだった。 どうやらその男性の素性を知らないのは祥子だけで、ナンパ男二人組は顔見知りのようだった。 「何だよ、シン。邪魔すんのか?」 「お前には関係ないだろがっ」 「あるさ。質の悪いナンパ野郎がいる店じゃ、女の子集まんないだろ? 可憐さん、若い女の子、好きだしさぁ。知り合いが営業妨害やってるなんてバレたら、俺もヤバイんだよね、立場上」 ニコニコと笑顔で言うが、何やら裏に響く牽制のようなものが感じられる。 ナンパ男たちは「可憐さん」という言葉に一瞬怯んだ。 「それに」 ぽん、と男は祥子の背後から肩に手をかけ、その肩越しからナンパ男二人を睨み付けた。 「この子は俺と先約があるの。ナンパは遠慮してもらえる?」 祥子からは見えないが、凄みのある笑顔だったようだ。ナンパ男たちは悪態づきながらも、すごすごと店から出て行った。 祥子は訳が分からず、その後ろ姿を見送った。 「シンちゃん、でかしたわー」と、カウンターの向こうから可憐が声をかけてきた。 (………?) 何だかよく分からないけど、とにかくしつこいナンパからは助け出されたというわけだ。 先程まで掴まれていた腕にまだ感触が残っていて、その部分に良くないものが溜まっているような感覚に陥って、祥子は少し乱暴に腕を振った。 その行動に何か勘違いしたのか、背後に立つ男はパッと腕を離し、そのまま両手を上げた。 「ごめん、余計な世話だった?」 「いえ…っ、ありがとうございましたっ」 咄嗟に振り返る。 そのとき改めて、祥子はその男の顔を見た。 髪は黒く短いけどちゃんとセットしていて、両耳にシルバーのピアス。黒地のワンポイント柄Tシャツにスラックス、綿の白いシャツを羽織っていた。ファッションに感心があるかどうかは微妙なところだろう。 助けてくれて何だけど、新手のナンパかも、と思った。が、相手から伝わってくる感覚に嫌なものはない。 祥子が礼を述べると、男ははにかむように笑った。意外と素直な笑い方だった。 「どういたしまして。でも焦ったー。喧嘩になったらどうしようかと思った。指、怪我したらシャレにならねーし」 「あの、さっきの人達と知り合いなんですか?」 「うん、友達とまではいかないけど、知り合いと言えば知り合い。俺からすれば、この店の常連なら誰でも知り合いだから。…あ。俺の都合でさっきは助けたけど、勘違いするなよ? 俺は基本的に善人じゃないから。さっきみたいのでも、誰でも助けるってわけじゃないし」 「はぁ…」 何だかよく分からない。 「君、昨日、ここで雨宿りしてた子だよね」 「あ…っ」 今の今まで気付かなかったがこの男はこの間の、 「改めてこんばんわ。ここのピアノ弾きで日阪慎也っていいます」 ピアニストだった。 |
▲5. ───二週間後。 「三高、また来てたのか」 午後7時。人が入り混じる時間帯の可憐の店。そのカウンターに、見知った人影を見つけた日阪慎也は、その人物の隣に腰掛けた。この混んでる店のなかで、彼女の隣の席が空いていたのは、もしかしたらカウンターの中にいる可憐の差し金かもしれない。 慎也の言葉に、三高祥子は苦々しく返した。 「日阪さんが寄れって言ったんでしょ」 二人はこの可憐の店で、何度か会うようになっていた。 慎也はこの店で週4回、ピアノ弾きのアルバイトをしている。祥子は本屋のアルバイトが終わった後、この店に顔を出していた。 「それにしたって今日は金曜だよ? …三高、21歳って言ってたよな? アフター5にいつも一人なのは悲しーなぁ。たまには友達や彼氏、連れて来いよ」 「そう言う日阪さんだって、友達や彼女がここに現われたことって無いじゃないですか」 「おあいにくさまー。俺の友達、けっこう顔出すよ。三高とは時間が合わないだけー」 と、意地悪く言う様を見て、 (あんなきれいな演奏してた人がこんな人とは思わなかった) と、腹立たしくも思う。でもその意地悪さはアクのあるものではなく、気の良さが伝わってくるので、結局は祥子も笑ってしまう。 「でも慎ちゃん、彼女はいないわよね」 カウンターの中から可憐が口を挟んだ。 「可憐さん、余計なことは言わなくていいよっ」 「あら。余計なことじゃないでしょ。ねー? 祥子ちゃん」 「?」 可憐は意味ありげにウィンクして見せたが、祥子には伝わらなかった。 どういう意味? と尋ねると、慎也は笑ってごまかしていた。 「慎ちゃんもいい歳なんだから、彼女くらいつくりなさいよ」 「俺はいーのっ。バイト三昧の苦学生だから」 「え? 学生なんですか?」 初耳だった。 「そう。25歳にして。薪坂音院って知ってる? 俺は現在、在学中」 さらに慎也が言うには、初めて二人が会った日に慎也が練習させて欲しいとここへ駆け込んできたのは、次の日から始まる実技試験の練習が目的だったのだという。 「聞いたことある、かも。…そっか、だからピアノ上手なんですね」 単純に祥子がそう言うと、慎也は苦笑いした。 「もっと上手な奴は沢山いるけどね」 「でも、25歳で在学中ってことは、…あれ? 音楽学校ってそんなに在期長いんでしたっけ?」 「いや。単に、俺は22歳で入学したっていうだけ。元々、別の大学にいたんだけど、昔の夢が諦められなくて今のところに入りなおした、というわけ」 「夢、って、ピアニスト?」 「そう。俺ん家、特別そういう家系って訳じゃないんだけど、きょうだい揃って音楽やっててさ。俺は13歳でピアノやめるまで、結構上の大会とか出てたし」 「13歳でやめたの?」 「16歳でまた始めたけど」 自分でも笑っちまう、と慎也は声に出して笑った。 「なんか…すごいですね」 「まあ大変だけど、遣り甲斐のある人生だとは思うよ。目標があるってのは、やっぱり楽しいよな」 その、慎也の自信みなぎる笑顔に、祥子は嫉妬にも似た感情を覚えた。 ───ここにも、目標を掲げている人がいる。 「私は、やりたいことを探してる最中なんです。今まで何もしてこなかったから」 「今の職業は? アルバイターなの?」 「え…と、一応、本職みたいなものを他にやってるんですけど」 「どんな仕事?」 うっ、と祥子は言葉に詰まった。つっこまれるとは思ってなかったのだ。 「言いたくないならいいけど」 「いえ、説明が難しいだけです」 あまり、この職業を説明したことが今までになかった。そういう役目は史緒のものだし、祥子には個人的に説明するような知人もいなかったのだ。 頭を抱えて祥子が考え込んでいると、 「シンちゃん。お話中悪いけど、ピアノお願い」 カウンターの中から可憐が申し訳なさそうに声をかけてきた。慎也はすぐに立ち上がった。 「へーい。あ、三高、何かリクエストある?」 「え」 突然の質問に、祥子はきょとんとした。 「ピアノで、好きな曲とか」 「え…、あ。じゃあ、初めて会ったときに聴いた曲」 「おっけ」 「あの曲、何て言う曲なんですか? どこかで聞いたな、と思って」 何気なく尋ねた質問に、慎也はわざわざ立ち止まり、祥子を振り返った。驚いた顔をしていた。 「それはないと思うよ」 「え?」 きっぱりと言い切られたことに祥子も驚いた。 「あれは市販されてる曲じゃないんだ。クラシックでもない。14年前のピアノコンクールで、優勝者が弾いた曲、っていうだけだから」 「──…」 てっきり祥子は、よくあるクラシックだと思っていた。CMや有線で片耳に聴いたものだろう、と。 「…それじゃあ、気のせい、ですよね」 釈然としないものを感じながらも、祥子は頷いた。 確かに、耳に残っているような気がするのに。 「何か似てる曲があるのかもしれないな。俺は心当たりないけど」 そう言うと慎也は踵を返し、人と人の間を擦り抜け、壇上のピアノへと向かう。 祥子のリクエスト、「あの曲」を弾き始めた。 (……やっぱり、どこかで) 聴いたことがあるような気がする。 漠然としたイメージだけを頼りに、思い出を手繰り寄せる。 でもだめだった。全然分からない。 特に記憶力が強いというわけでもないのに、どうしてこんな風に思うんだろう。 ピアノの曲に、勿論、縁など無いはずだけど。 (────…) そこまで思考を巡らせて、祥子は後悔した。 ふー、と深く息を吐いて、こめかみの部分をコンコンと拳で叩いた。 高校時代のことを思い出してしまったから。 一度だけ、「彼女」のピアノ演奏を聴いたことがあった。 音楽を嫌いと言った彼女、その演奏を、一度だけ聴いた偶然。放課後の、音楽室で。 音楽家になりたかったのだと言った。 でも諦めた? どうして? 死神に追われていた、と。 ≪ねぇ、聞いて欲しいの、私のこと≫ ≪待ってるから。来て≫ ≪あんたじゃなきゃ、言えない────…≫ 思い出してしまうともう止まらない。 その日、慎也のピアノを聴いて、祥子は深い悲しみへと、身を投げた。 タクシーで目的地へ着く十分前、慎也は祥子の携帯電話のメモリを拝借して電話をかけた。 リダイアル一件目。液晶表示は「A.CO.」。(会社名…?)と不安になりつつも。 事情説明をしたところ「十五分間待っててください」と言った女性は、慎也たちがタクシーで到着すると既に祥子のアパートの前で待っていた。近くに住んでいるのだろうか。 白いストールをかけて、ここまで走ってきたのか息が上がっていた。女性は阿達と名乗った。そしてもう一人、背の高い20代半ばの男性が隣に立っていた。 「みっともない…」 阿達の第一声がこれだ。 阿達───史緒はタクシーの中で酔い潰れて寝てしまっている祥子を一瞥し、苦虫を噛み潰したような表情で言った。 「篤志、祥子を部屋に転がしておいて。後は私が面倒見るから。合鍵はこれ」 「はいはい」 篤志、と呼ばれた青年は、史緒の心情を察しつつも──いや、察しているからこそ、必死で笑いを堪えている。タクシーの反対側へ周るとドアを開け、ひょいと祥子を抱え上げた。祥子の意識は完全に無く、微かな寝息を立てていた。 「じゃあ、こいつ、持ってくな」 「ええ。お願い」 篤志は祥子を抱きかかえたまま、すぐそこのアパートの階段を上っていった。あの様子だと祥子の部屋もちゃんと分かっているのかもしれない。 その後ろ姿に少しの嫉妬を感じたことを、慎也は自覚した。 史緒は待たせていたタクシーのドアから顔を突っ込んで、 「いくらですか?」 と、運転手に訊いた 「あ、俺が…」 祥子をタクシーで勝手にここまで乗せてきたのは自分だ。慎也が言いかけると、慎み深く笑った。 「いいえ。払わせてください。祥子を送ってくれてありがとうございました」 祥子と同年代に見える彼女だが、祥子とは違い、年季の入った完璧な対外用スマイルだった。 「日阪さん…だったかしら。少しお話したいんだけど、時間あります?」 「ああ」 「祥子と付き合い長いんですか?」 「いや、知り合って半月くらい」 「どんな付き合い?」 「ふつーの友達付き合い。…もしかして俺、尋問されてる?」 まさか、と史緒は笑顔を見せたが、それは否定の言葉になるのだろうか。 それから史緒は、日阪と祥子が出会った馴れ初めと、今日祥子が潰れるまでの経緯を訊いた。 祥子がアルコールに弱いわけじゃないことは二人とも承知していて、慎也は今日祥子がこんな風に潰れるまでに至ったことに心覚えがないことを、史緒に伝えた。 史緒は少しの間、考え込んでいた。 「あの、ほんとに俺は、何もしてないから」 疑われてるのかもしれないと心配になった慎也は言い訳がましいことを言った。 「祥子にホレた?」 「はあっ? …えっ、いや」 突然、直球で言い当てられて、慎也は慌てた。その反応を見て、史緒は笑う。 「顔はいいけど意固地で不器用。人見知りが激しく付き合い方を知らないくせに気が強いし…」 「史緒が言っても参考にはならないな。大体は合ってるけど」 戻ってきた篤志が横ヤリを入れる。慎也は知らないけど、普段の二人の生活を知る者なら、史緒による祥子の見解が一番アテにならないのは誰でも分かる事実だ。 とにかく、と史緒は篤志の横ヤリを打ち消すように声を強めた。 だって日阪は、祥子のことをまだ何も分かっていないのだ。 「あの子と付き合うのは、苦労しますよ」 微笑を浮かべて言った。同情や哀れみではなく、慎也を挑発するような───力量を期待するような言い方だった。単に牽制されているのだろうか。慎也は史緒に尋ねた。 「三高…さんと俺が親しくなるのが反対? それとも心配?」 「心配なんかしません。祥子はあれでも人を見るちからだけはありますから。彼女が信頼した人間なら、私は安心です。反対もしません。いえ、応援しますよ。いい加減、恋人の一人でも作ってくれないと将来心配だし」 しみじみと語る史緒はどうみても祥子と同年代にしか見えないが、まるで保護者のような口を利く。 一体、どういう関係なんだろう。 それが素直に顔に出たのか、史緒はにっこり笑うと慎也に紙片を差し出した。 「一応渡しておきます。私の名刺」 「あ、どうも。…A.CO.? …所長っ?」 その肩書きに慎也は驚いた。目の前に立つ、この二十代前半の女性が、一つの会社を背負っているというのか。 「ええ。…彼と、三高祥子は所員です」 「何やってる会社なの?」 「それは次の機会にでも」 祥子が言っていた、「本屋とは別に本業を持っている」と言っていたことを思い出した。 「───お引き止めして申し訳ありませんでした。ここからの最寄り駅は浜松町で、この道を10分くらいです」 「どうも。…あ、三高は」 「後は私が面倒見ますから安心してください。今日は本当にありがとうございました」 史緒は頭を下げて慎也を見送った。 JR山手線浜松町駅。切符を買って、ホームで電車待ちをしているとき、慎也は考え込んでいた。 (……) タクシーに揺られてこっちへ向かう途中。隣で微かな寝息をたてていた祥子の。 祥子の寝言を、慎也は聞いたような気がした。 ごめん─────、と。ただ一言。 彼女は何に、───誰に、謝りたかったのだろう。 |
▲6. 月曜館は、A.CO.の事務所から徒歩2分の喫茶店で、メンバーたちは一人又は複数でこの店に入り浸ることが多い。4年来のご近所付き合いが高じて、店のマスターとはすでに顔馴染み、それぞれの好みのメニューも暗記されてしまっていた。 A.CO.の全員がこの店に集まり、打ち合わせをすることもある。勿論、職業柄、事務所を出たら口にできない仕事内容もあるけれど、簡単なミーティングをこの月曜館ですることがあった。 そして今日は土曜日。本来ならA.CO.は休日のはずだが、今、A.CO.の5人が月曜館に集まっていた。 「ごめんなさい、休日に集まってもらっちゃって」 所長の阿達史緒(20歳)は脇に数冊のファイルを抱え、申し訳なさそうに詫びた。テーブルを囲んでいるのは現在5人。あと一人来る予定だが、彼女は遅刻だ。 「別に、暇だしな」 腕と足を組んで雑誌を読んでいるのは木崎健太郎(20歳)。 「そーですよぉ、気にしないでください」 真っ直ぐな明るい声で言うのは川口蘭(18歳)。 「実のところ、休日じゃないと全員集まらないだろ」 苦笑する関谷篤志(23歳)。 「土曜の朝から寝こけてるよりはマシだろう」 そんなこと言っても寝坊することなどない島田三佳(13歳)。 それぞれの言葉に史緒は疑わしげな声を出した。 「……この中で、暇な人っていたっけ?」 篤志と健太郎は大学生、蘭は受験を控えているし、三佳も慣れない学校生活と家事を両立させている。 彼らにこっちの仕事を優先しろとは、史緒は決して言ってない。それでもこの多忙な彼らがこうして平然と集まってくることに嬉しいやら呆れるやら。史緒の心中は複雑だ。まあ、人並み以上に要領の良い彼らのことだ、心配は無用だろう。 「今、一番暇なはずの祥子は?」 まだここへ来ていない三高祥子のことを、三佳が尋ねた。 「祥子さん、暇なわけじゃないですよぉ。アルバイト始めたって言ってましたもん」 フォローではなく、本気で蘭が言う。 「バイト? 何だそれ?」 「本屋さんですって。ケンさん、知らなかったんですか?」 「本人、来たみたいだぜ?」 篤志が店の入り口を指差した。なるほど、噂をすれば影、祥子が走って来るところだった。 「遅れてごめん」 息を弾ませたまま、メンバーが集まるテーブルまでやってくると祥子は言った。 「祥子さん、なんか今日おしゃれですねー」 と、めざとく言ったのは蘭だ。 「えっ、そんなことないよ」 ぎくっ、という態度が見えながらも祥子は否定した。 祥子は薄いピンク色の膝丈のワンピースに、白い薄手のジャケットを着ていた。同じくピンク色のヒールサンダル。よく見るとメイクもいつもと違う。 「デートでしょ」 「史緒っ!」 あっさりと横やりを入れる史緒。しかもそれが図星だったものだから、祥子は噛み付いた。 (も〜…) 史緒と篤志は日阪の存在を知っている。半月ほど前、自分が酔いつぶれたりしなければこんなことにはならなかったのに。今、こんな風に皆の前で暴露されることもなかったのに。 あの次の日、祥子は史緒から散々嫌みを言われた。若い女が酔いつぶれて男性に送ってもらうなんてみっともない、など。本当のことなので言い返すこともできず祥子はかなり落ち込んだが、日阪は全く気にしていない様子だったのが救いだった。 祥子と慎也が出会って一月経とうとしていた。 「えっ、何なにっ。祥子さん付き合ってる人いるの? 何で史緒さん知ってるのっ、ずるいっ」 頬をふくらませて蘭は抗議した。そんな素敵な情報を教えてくれないなんて、と言いたいのだ。 「そういえば、蘭とは会うの久しぶりじゃない? かなり」 「うわー、そーですよ。私、最近、仕事サボってますよねぇ」 「蘭は今試験前でしょ。仕事はあげられないわよ」 仕事を渡す立場の史緒は呆れたように言った。 「でも祥子と付き合える男がいるとはねー」 「どういう意味よっ健太郎!」 「べつにー」 祥子の睨みつける視線を健太郎は適当に躱した。 「別に、付き合ってるわけじゃないわ。友達だもん」 「でもでもー、祥子さん、そのヒトのこと好きなんでしょう?」 「…っ」 無邪気に、ストレートすぎる蘭の言葉は祥子だけでなく、他全員の動きをも止めさせた。照れも無くこんなことを言えるのは間違いなく蘭だけだ。祥子の回答に、全員が面白そうに耳を欹てていた。 正直に、祥子は否定したかった。自問してみても「好き」という感情はまだないし、本当に日阪とは良い友達という関係だから。しかし超直球と言える蘭の台詞にたじろいでしまっていた。 けれど近い将来、日阪に好意を寄せる可能性は無くも無い。祥子は、蘭だけにならそう答えたかもしれない。しかしこの状況で(中には笑いを堪えている者もいる)本音を言える程、祥子には羞恥心が無いわけではなかった。 コトン、と、祥子の目の前にアイスティーが置かれた。 「最近、祥子さんが来てくれない理由にはそんなことがあったんですね」 いつのまにか月曜館のマスターがそばに立っていてにっこりと笑った。 この人は客の会話を邪魔するようなことはしないので、もしかしたら祥子のために割って入ったのかもしれない。 「…マスターまでそういうこと言うの」 拗ねる祥子の前に、マスターは笑顔を見せて、ストローとシロップを置いた。一礼してカウンターへと退がって行く。 「じゃあ、祥子もデートなら忙しいだろうから、さっさとやりましょう」 マスターの好意を無にするわけにもいかず、史緒は傍らに置いておいた書類を取り出し、全員に配り始めた。 * 「───じゃ、今言った通り、進行中の仕事の経費伝票は来月切りで処理してください。それから9月末は決算として半年分のデータを総ざらいするから、各担当の報告書及び請求書、伝票など、修正はいまのうちにお願いします。8月末から受ける依頼の全ドキュメントは来期に持ち越し、それ以前の依頼で9末をまたぐ場合は、9月10日までに進捗と工程表を提出すること。…以上です。何か質問は?」 皆、ペンを片手に、史緒の言ったことをメモしている。ペンを紙に走らせる音がやむと、息をつく音がいくつか重なった。 「質問が無いなら、打ち合わせはこれで終わりにします。───解散」 その言葉で、緊張が解けた空気が広がる。書類を整理したり、荷物をまとめたり。この後、月曜館に残り一休みしていく者もいれば、多忙の為すぐに帰る者もいる。 前者に該当する史緒は、顔を向けないまま祥子に言った。 「早く行ったら?」 いちいち突っかかる言い方に祥子は史緒を一睨みして、立ち上がった。 「言われなくても」 「祥子さん、後で、お相手のこと、聞かせてくださいね」 蘭が手を振ると、祥子ははにかんで笑った。 「行ってきます」 その笑顔が、今まで見たことの無いような柔らかな可愛い笑顔で、本人は気付いていないが、皆、驚きの念をもって後ろ姿を見送った。店を出て、歩道を小走りで消えるまで。 「あらあら…」 史緒が呟いた。 「あれは本気ですねー」 と、感心したように蘭。 「完全に浮かれてるな」 無表情で三佳が言った。 帰りかけてきた健太郎と三佳は、もう一度椅子に座り直した。 「…んじゃ、恒例。いつまで続くか賭けるか?」 にやり、と笑って健太郎が言う。 祥子とその相手の男の付き合いがいつまで続くか、ということだ。 これは破局した場合にシャレにならないくらい悪趣味な内容だ。しかし祥子は相手を選ぶのに絶対失敗しないし、あの浮かれようから見てもしばらくは付き合うだろう、という意図が込められている。景気付けというか、前途を祈ってやるようなものである。 「いつまでって言っても、まだ付き合ってるわけじゃないんだろ?」 篤志が言った。 「相手の男のほうは分からないじゃないか。祥子が猫皮はがした時、振られるかもしれないし」 「三佳さん! 幸先悪いこと言わないでくださいよー」 「史緒と篤志は掛け金2倍な」 「え? どうして?」 「相手の男に会ったことあるんだろ? そのファクターは、でかい」 したり顔で健太郎が指をさす。史緒と篤志は顔を見合わせた。 確かに、二人は祥子の相手である日阪慎也と一度だけ会ったことがある。 篤志から視線を外すと、史緒は無表情で言った。 「最後までいく≠ノ、2万円」 周囲が呆然とする中、史緒はマスターを呼んでコーヒーを注文した。 |
▲7. 三高祥子にはどこか不思議なところがある。 と、慎也は何となく感じていた。 慎也はこんな風に言ってみたことがあった。 「三高って何か、猫みたいなとこあるな」 「猫?」 「突然顔上げて、周囲を見回すの。何か聞える?」 「───」 こういう質問をすると、決まって祥子は笑ってごまかす。もしくは、顔を曇らせて視線をそらす。 何故だろう、と思ってもそんな顔をされたら質問できるはずもない。 そういうわけなので、「不思議なところがある」としか認識できないでいるのだ。 本日の待ち合わせはS駅中央改札口前。慎也は出かけに手間取ってしまい、待ち合わせ時間ちょうどに到着することになってしまった。祥子は時間に正確なので、きっと、先に来ているだろう。 大型連休に入った学生達がひしめき合っている駅構内。いつも通りと高をくくっていたこと、これも遅れた原因の一つだ。家族連れや小中高生の一団。その中を縫って歩くサラリーマンが気の毒でならない。 慎也は、人波の中、待ち合わせ場所に立つ祥子を見つけた。いつものバイト帰りとは少し違う、可愛い(というより綺麗)な服装で、窓口のすぐ横の壁に背を預け、俯いていた。 慎也は少し思うところがあり、ゆっくりと祥子に近づいた。祥子はまだこちらに気付いてない。 しかし。 突然、祥子はぴょんと顔を上げて慎也をまっすぐ見つめた(見渡しもしなかった)。まだ距離はある。俯いていたにも関わらず、二人の間には、絶えず群集が横切っていたのに、まるで慎也が近づいたことが分かったように。 慎也の姿を目に止めて、笑った。 (やっぱ…、不思議だよなあ) 視線を感じる力は誰にでもある。けど祥子の場合はそれだけでは説明できないような正確さがあるのだ。 初めのうち、耳がいいのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。 「ごめん。遅れた」 「ううん。こっちもさっき来たばっかりだから」 今日は一緒に映画を見に行く。 慎也は貧乏学生であるが故に金と時間はあまり無い。けれど今日は学校が夏期休暇に入ったので時間は沢山できて、さらに慎也の好きな小説が映画化されるというので生活費に特別予算(笑)を組み込ませてあったのだ。 祥子は映画をよく見ているようだが、いつも一緒に行っている友達が試験前で誘うことができず、こうして二人のスケジュールが合ったというわけだ。 公害的混雑の為、駅から外へ出るだけでも一苦労だった。慎也は祥子の手を引いて、人波を掻き分けた。 「───いた」 唐突に、祥子は呟いた。 本当に前触れ無く、しかも脈絡も無かったので慎也は「は?」と返す外無かった。 祥子の顔には安堵からくる喜びが表れていた。 「ごめんなさい、ちょっと待ってて」 そう言うと、慎也の手を離し、祥子は人の壁の中を割って入っていた。 「おい、三高っ」 人波に潰されるのではないかという心配と、何よりはぐれてしまいそうだったので慎也は祥子の後を追った。 人口密度がほんの少しだけ減少した壁際。祥子は一人の女性に声をかけた。(知り合いなのか?)と慎也は思った。 その女性は何やら不安と焦燥が表情に表れていた。それは慎也にも分かった。 祥子はこう言った。 「あの、もしかしてお子さんが迷子になってるんですか?」 突然、見知らぬ人間に、そう声をかけられた女性は目を見開いた。はじめは訳が分からなかったようだが、祥子の笑顔に安心したのか、こくりと頷く。 「え、…ええ、はいっ。そうなんです」 「駅員さんのところに預けられてるみたいですよ。そこの窓口のところ。放送連絡もしてたんですけど、この雑踏で聞こえなかったんでしょう」 「本当っ? あ…ありがとうございますっ」 泣き出しそうな顔で女性は頭を下げると、慎也たちが待ち合わせ場所にしていた駅員窓口のほうへ走っていった。 きっとこの混雑の中、子供とはぐれてしまいどうしようかと慌てていたのだ。 その女性の後ろ姿を見送って、祥子は満足そうに息をついて、踵を返した。 「…わっ」 すぐ後ろに慎也が立っていたので祥子は飛び上がって驚いた。 「どっ、どうしたの日阪さん」 映画始まっちゃうよ、と、慎也の腕を引き、先を促す。 「よくあの人が子供を捜してるって分かったなー」 素直に、感心して慎也は言った。自分たちと、あの女性との距離はけっこうあったと思うけど。 祥子は何故か、微妙に視線を逸らせて、気まずい表情をした。 「迷子の放送なんてしてたっけ?」 「その放送は3回くらいしてたよ」 やっぱり祥子は耳がいいのかもしれない、と慎也は思った。 が、祥子は駅員室に迷子がいると知っていたから、その放送を意識的に聞くことができたのだ。そうでなければ慎也や先程の女性のように、構内放送など耳まで届かなかっただろう。 祥子はその放送を聞いていた。それは事実だ。駅員室に迷子がいること、それからさっきの女性が迷子を捜していたことが祥子に分かったのは、また別の問題であるけど。 「───…私、勘がいいって、よく言われるの」 前髪を掻きあげて、祥子は苦笑した。そして、 「その勘の良さを役立てられたらって、いつも、心がけてるんだ」 と、言った。 その横顔には強い意志が感じられた。祈り誓うような、力強さがあった。 慎也はその横顔を見つめていた。 「…何かよくわからないけど」 そう、どうも祥子の不思議なところや不可解な言動、勘がいいということについても、自分はまだ何も知らないのだろうけど。 「えらい」 ぽつりと呟いて慎也は祥子の頭を撫でた。祥子は目をパチクリさせた。 本当に、心から感心してしまった。自分の能力をよく把握していて、それを役立てようとする心持ちは立派だ。役立つ能力を持っていることがすでにすごい。 慎也は自分のことについて考えた。一度就職した会社を飛び出して、ピアニストになるという漠然とした夢の為に、今は音楽学校に通っている。果たしてこれは、将来、誰かの為になるのだろうか? 何か周囲の役に立つのだろうか? 「三高は偉いなー」 「やだ、日阪さんたら」 頭を撫でられて、祥子はくすくすと笑った。 「三高、やりたいこと探してるって言ってただろ? その勘の良さを使えることにすれば?」 「……」 祥子は黙って微笑んだだけだった。 「日阪さんは、私のちからを分かってないよ」 とは、言えなかった。 しかし祥子自身、将来のやりたいことを探していたものの、このちからを使おうなどと夢にも思ってなかった。慎也の言葉に(そうか、そういうことも有りか)とさえ思っていた。 一方、慎也のほう、目の前に立つ人物に更なる興味を覚えていた。 もっと知りたいと思った。三高祥子について。 「三高、今度の8日、暇?」 「え?」 慎也の申し出に祥子は手帳を取り出し、確認して言った。 「今のところ予定はありませんけど」 「うちの店で貸切パーティあってさ。三高も来ない?」 「貸切パーティ?」 「と、言っても俺はBGMのバイトのほう。たまにピアノ弾くだけで、余った時間することもないし、三高がいてくれたらいいなーと思って。俺が演奏してる時は暇にさせちゃうけど、可憐さんもいるし」 どう? と祥子の顔を覗きこんだ。 その仕種がなんだかかわいく見えて、祥子は笑いながら頷いた。慎也はパチンと指を鳴らした。 「じゃあ、一応、チラシ持っていく? 帰りに俺ん家寄ってくれれば渡せるけど」 「日阪さん家?」 「そう。大崎の駅近く。あと、三高がこの間言ってたCDもあるよ」 そんな会話をしていた矢先のこと。 「慎也」 すぐそばから、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。 人波に目を走らせると、よく知った人物が二人、近寄ってきた。一見してカップルと分かる二人に、慎也は手を振った。 「よ。偶然だな」 「夏休みに入ってまで会うとは思いませんでしたね」 「私も。少なくとも一月は会わないだろうって思ってたのに」 男のほう───やたらと言葉遣いが丁寧なこの人物は山田祐輔という。 女のほう───表情に動きがないくせに、口は辛い、こちらは本村沙耶だ。 二人の嫌みったらしい台詞を聞いて、慎也は刺々しく言った。 「俺も、おまえらと会うとは思わなかったよ。だいたい祐輔、おまえ帰省したんじゃなかったっけ?」 確か彼とは、先日「休み前の顔の見納め会」と銘打って飲みに行ったはずだ。 祐輔は殊更めく沙耶の肩を抱いて言った。 「沙耶とデートしない、とは言ってないでしょう? ───それにしても」 祐輔は、慎也のとなり、祥子に視線をうつした。 「珍しいですね。慎也が女性同伴というのは」 「山田くん、ほら、例の…」 「ああ。この人が噂の慎也と付き合ってる美人≠ナすか」 わざと区切って言ったのは、そういう噂があることを祥子に聞かせる為だ。 「おまえなーっ」 祥子は祐輔の発言に驚いているようだった。「噂の」とはどういうことだろう、と。 少し前になるが、可憐の店で祥子と会っているところを沙耶に見られていたらしい。それがそのまま祐輔に伝わって、「休み前の顔の見納め会」の時も慎也はそれをネタにからかわれたばかりなのだ。 さらに慎也は、祐輔に「彼女とは付き合ってるわけじゃない」という失言をかましてしまい、今度は片思い(?)をネタにからかわれることになった。 「三高、この二人は、俺の友達、と妹」 「どうも。山田祐輔です」 「沙耶です」 「あ、三高祥子です」 それぞれが名乗ると、慎也はちょっとごめん、と言って祐輔と何やら言葉を交わし合っていた。学校のことらしい。 気を遣ってくれたのだろうか、沙耶が話しかけてきた。 「慎也、迷惑かけてない?」 「いえ、私のほうこそ、いつもお世話になってるんです。…あの、沙耶さんは日阪さんの妹さん、なんですか?」 「そう。正真正銘、きっちり血のつながった妹。そしてあっちが、慎也と同じ大学でクラスメイトの、親友。…っていうより、悪友、かな」 と、沙耶は連れの男性───祐輔を指差した。 「でも気を付けてね。山田くんは私以外の気に入ったヒトには、すごく、イジワルだから」 沙耶のその台詞に、二人が仲の良い恋人同士だということが伝わってきて祥子も微笑んだ。 「沙耶、聞こえてますよ。───ところで慎也、8月に特別講義があるのは知ってますよね」 「えっ、…あっ、忘れてた。それって何日だっけ?」 「8日です」 「げ。嘘っ」 その日はちょうどバイトが抜けられない日だった。先程祥子にも言った通り、貸切パーティのBGM係をすることになっている。 慎也は少し考え込んでから、がしっと祐輔の両肩を掴んで言った。 「祐輔、悪ィ」 「何です?」 「代返頼む」 「了解しました。見返りは考えておきます」 「たまには代償無しでやれって」 「無償の親切は、後の借りになるだけです。利子を付けたいならどうぞ」 「ひでぇ」 友人のあんまりな台詞に慎也は口を歪ませた。「おまえはいつもいつも〜」と始まった抗議にも彼はそこ吹く風だ。その隣で沙耶は肩を竦めた。 「こういう人なの」 沙耶が眉尻を下げて耳打ちする。祥子は自然と笑顔がこぼれた。 「ええ。いい人ですね」 は? と。慎也、祐輔、沙耶は目を見張って振り返った。 祥子の笑顔は皮肉ではない。 3人の視線を一斉に浴びた後で、遅まきながらも祥子は慌てた。 (しまったっ) 咄嗟に口元を両手で塞いだ。が、勿論それで発言がひっくり返せるはずもなく。 ───確かに、祐輔の台詞はちょっとキツいものだった。 (…でも) 祥子は横目でそっと見た。慎也の友人、沙耶の彼を。 丁寧な口調でひどいこと言ってる。でもその本心は。 伝わってくる。 天邪鬼というか素直じゃないというか。この彼も相当複雑な性格のようだ。 それなのに文句を言っている慎也も、そして沙耶もそれを分かっているみたいだし。 3人のことを、良い関係だな、と思って、「いい人ですね」と言ってしまったのは、ごく自然な流れなのだけど。 祐輔の台詞から、初対面の人間がそれに気付くことはまずないだろう。 久々の大ポカだった。 祥子はどうにかその場をごまかすのに苦労した。 人と関わるのは大変だ、と思った。 それから、A.CO.メンバーの存在の貴重さも、再認識した。 |
▲8. 映画を見て食事をして、その帰り。慎也の家へ寄ることになった。実家を離れて一人暮らしなのだという。 慎也の家は2階建ての木造アパートだった。駅から徒歩10分程度。 その、201号。 カンカンと足音が響く鉄の階段を昇る途中、先を歩く慎也が言った。 「あんまり軽々しく他の男の部屋に入るなよー」 「日阪さんが寄れって言ったんでしょ」 何気なく言った台詞が、可憐の店で二人がよく交わす会話と重なり慎也は軽く吹き出した。 「てきとーに座ってて」 「はーい」 三和土を上がると、すぐに台所。間取りは1Kで、6畳間が奥に続いていた。 慎也は冷凍庫から氷を取り出していた。意外…と言ったら失礼かもしれないけど、シンク周りがきれいに片づけられている。祥子は部屋を見回しながら、奥へと足を運んだ。 「わぁ…」 部屋に入ってまず驚いたのは、壁一面を埋めるスクラップの数々。新聞や雑誌の記事の切り抜きが、壁に直にピンでとめられていた。その中には縮小コピーした楽譜もあった。慎也は結構マメな性格かもしれない。 そのスクラップの数に目を丸くしながらゆっくりと、祥子は足を踏み入れた。 ベッドとテーブルと、テレビとオーディオ、本棚、それから小さなキーボードが一つ、6畳間にひしめき合ってた。楽譜が書かれた本がいくつか散らばっているが、その他はきっちり片付けられている。 「結構…きれいにしてるんですね」 やっぱり意外そうな声で響いてしまったのか、台所から慎也の笑い声が聞こえた。 「散らかってたら上げないよ。でも、俺って片づけ癖あるから。実家が男所帯だったせいもあるけど、放っておいたらすぐに足の踏み場がなくなるし」 「男所帯…って、沙耶さんは?」 今日、街中で出会ったカップルの一人。慎也の妹だと言っていたのに。 「うちの親、かなり昔に離婚してるんだ。母さんが沙耶を連れて出てってからは親父と男二人。母さんのほうは他の男とすぐに再婚して、沙耶とは名字も違うよ」 と、あっけらかんと言う。 「はい、オレンジジュースで構わなかった?」 「あ、ありがとうございます」 テーブルに合い向かいに座った。改めて部屋の中を見渡すと、慎也に丁度良く馴染んでいるように感じた。 「さらに俺が家を出たから、親父は一人なんだけど、最近は彼女がいるみたいだから、ま、淋しくもないだろ」 「沙耶さんとは、結構会ってたんですか?」 「ほとんど会わなかったな。親が離婚したのは俺が12歳の時だから、22歳になるまでの10年間で数回しか会わなかった。で、どういう因果か、今、沙耶とは学校が同じなんだ」 「え!」 「本当に偶然。入学式で顔を合わせた時はお互い目を丸くしてたもんな。それでも学科は違うからいつも顔を合わせるってことは無かったんだけど、今度は沙耶が俺の友達───ほら、今日会った祐輔、と、付き合うようになって、何故か今では3人でツルむ間柄になってしまっている」 何故だろう、と眉間に皺を寄せる慎也を見て、祥子も笑った。 「三高のほうは?」 「え」 何を尋ねられたのか、咄嗟に分からなかった。 「阿達史緒さんと、それから篤志って人とは会ったけど。いつから知り合いだったの? 他にも仲間がいるわけ?」 (仲間……?) 祥子にとって何となく抵抗感のある言葉なのだが(単に、あの連中をストレートに「仲間」と言えない僻者…)すぐに否定できない自分が悲しい。 ぽりぽり、と頭を掻く。 「…私、高校卒業するまでずっと友達いなくて、いつも孤立してるような子だったんです」 慎也は首を傾げた。これは尋ねたことの回答になるのだろうか。 「そうは見えないけど」 慎也はそう返した。祥子は苦笑する。 それが本心かどうかは怪しい。慎也と知り合ってからの短い間も、祥子は十分、人との付き合い方を知らない非社交性を見せ付けていたはずだから。 「ずっと、一生、そういう風に生きていくんだろうなって、思ってたんですけど、高2の冬に史緒と知り合って、少しづつ、変わっていった、かな、と。史緒とは昔から喧嘩ばかりで、折り合い悪くて、………だって、すごく性格悪いし、悪巧み働くし、頭がキレるからさらに質悪いし」 いつのまにか祥子は手の平を握って、語調が強くなっていた。そんな祥子の力説を聞いて、慎也は口元を歪ませて苦笑する。 「…でも、尊敬すべきところと、感謝すべきところもあるし。───憎たらしいけど、付き合わずにはいられない相手」 「素直じゃないなぁ」 ついに慎也は声をたてて笑い出した。祥子は口を尖らせて、 「それも、自覚はあるんです」 と言った。 「それから篤志と、他に4人、長く付き合ってる人達がいます。…そうですね、やっぱり、昔では考えられないことだな」 5年間も付き合ってる仲間がいること。 それから、その本音を、こんな風に話せる男の人がいることも。 昔の、いつも一人で孤立していた頃の自分からは想像もできないだろう。 「良かったな。史緒さんと出会えて」 「───…」 祥子は答えに迷った。 でも自分の本当の気持ちは、もう分かってる。やっぱり史緒本人の前では言えないけれど。 「ええ」 と、祥子ははにかむように笑った。 「あ、チラシとCDだったよな」 祥子がここへ来た本題である。慎也は本棚からファイルを取り出し、目的のものを探し始めた。 祥子は一息ついて、壁に貼られたスクラップに目をやった。 ものすごい数。それのほとんどの記事は紙の色が黄ばんでいた。どうやら古いものが多いようだ。 記事の見出しから、それらが音楽関係のものだと分かった。 ≪審査員、絶賛。≫ ≪音楽界期待の新鋭!≫ ≪7歳の少女、その音楽性≫ などなど。 ≪神童、光臨≫ などという、ちょっと笑ってしまうような仰々しいものまである。 祥子は音楽界のことはさっぱり分からないが、見出しを読む限り色々と事件があり、大変な世界らしい。(それとも報道が大袈裟なだけだろうか?) 「……?」 ふと、祥子はひっかかるものを感じた。 (なに…?) 祥子は記事の内容は読んでいなかった。ただ目を走らせていただけだ。 それだけなのに、視界の片隅に、知っている単語が映ったのが分かった。 (なんだろう?) 何という単語なのかもすぐに分からない。でも知っている文字が視界に入って、一瞬だけそれを見た。 祥子はそれが何なのか気になり、一つの記事に当たりをつけ、その内容を読み始めた。 「!」 答えはすぐに分かった。 カクテルパーティ効果、という言葉がある。混雑している人波の雑踏の中でも、たった一人の声が浮かび上げ聴き取ることができるという心理的聴覚効果のことだ。 それと同じようなことが、視覚効果として祥子に働いたんだと思う。 沢山の文字の中から、無意識にそれは飛び込んできた。 記事の中には、知っている固有名詞が書かれていた。 「……なに?」 無意識のうちに呟いた声は、信じられないほど震えていた。頭痛を起こす程の激しい驚愕のせいだけじゃない。 思い出したくない過去。否、思い出さずとも、その記憶はいつもここにある。 (その、名前)(聞きたくない) (どうして新聞に?)(どうして日阪さんの部屋で) (単なる同姓同名)(あたりまえ)(わかってる) (わかってるけど、どうしてここで) (私に、見せるの────?) 胃が上下に跳ねた気がして、吐き気が胸から込み上げた。 「……っ」 咄嗟に口元を押さえる。 その苦さに涙がにじんだ。 同姓同名の他人と分かっても、前触れ無くその名を目にするのはやはり辛い。 「三高? どうかした?」 「あっ、いえ、日阪さん、これって…」 無理に笑顔を見せたこと、気付かれなかったようだ。 慎也は祥子が指差す先、壁へと目をやった。 もう何年も前、自分がまとめたスクラップに目を止め、懐かしがるようにそれを眺めた。 「ああ、その記事は」 そのうち一枚の新聞記事の写真を、指差した。 女の子がトロフィーを抱いて笑っていた。無垢な微笑み。 「これは、俺が尊敬するピアニストの記事」 「!」 (ピアノ───?) その単語一つで祥子は愕然とした。 『私は小さい頃、音楽家になりたかった』と、彼女が言ったことを覚えている。 (まさか) ただそれだけのことで、彼女とこの記事を結び付けるのは馬鹿げている。 (でも同姓同名) 祥子は不安になった。 動悸が上がって、目の前の小さな記事を読むことができなかった。 (まさか…) 自分の想像してしまった可能性をせせら笑う。 分かってる。当然。あたりまえだけど。 慎也の尊敬するピアニストが彼女であるはずがない。 数ある記事の内容は全て、ある少女のことについて書かれていた。 天才ピアニスト。 わずか7歳の少女が、トロフィーを掲げ笑っている。記事は絶賛の嵐、当時のクラシック界を震撼させた若手新鋭。年不相応な表現力。人々を引き付ける音楽。数々の受賞。 『私は小さい頃、音楽家になりたかった』と。 ああ、それから、誰もいない音楽室でピアノを弾いていた。 『嫌いなの、音楽が』。そう言ってたくせに、流れるような指でピアノを弾いていた。 写真の中で笑う女の子。その少女の十年後の姿を、祥子は知っている。 慎也は感慨深げに、懐かしそうに呟いた。 「中村結歌、か」 「───」 心臓が、止まるかと思った。 日阪慎也の口からその名前が出るとは、夢にも思わなかった。 中村結歌。 ここ六年、耳にしなかった名前。口にしなかった名前。 でも、心の中では、苦い思いとともに何度も叫んだ名前だった。 慎也は指差した記事について語り始めた。 「今も昔も、ずっと尊敬してるピアニスト。中村結歌っていって、確か三高と同い年だったかな。俺が11歳のときのピアノコンクール優勝者で、彼女は当時7歳だった。彼女の演奏を聴いたのは後にも先にも一回だけだったけど、…すごかったよ、あの子は。ほら、例の曲。あれの作曲者」 祥子は目を丸くした。慎也が初めて会ったときに弾いていた曲、尊敬していると言った音楽家の曲。…その作曲者が「中村結歌」だったとは。 「で、でも、たった7歳の女の子なんでしょう?」 「音楽と数学の才能の開花時期は際限なく早いよ。一を教えれば十も百も知る天才というのは、確かに存在する。…でも彼女の場合、両親揃って音大出で、そういう環境ではあったらしいけど」 そのあたりの情報は雑誌のインタビューから。 「…今は、何してるの? この女の子」 「それが、1987年12月13日のコンクールから、中村結歌は姿を消してる。音楽界からいなくなった。このことは業界一部で大騒動になってたよ。…でも、きっと今もどこかでピアノを弾いてるだろうって、俺は思ってる。彼女の行方をずっと追ってるんだ。手がかりも何もないんだけど、一生のうちにもう一度、彼女の演奏を聴きたい」 それはファン心理を超えて、生きて行く上での目標の一つになってしまっている。 「俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ」 壁一面のスクラップにまるで誓うように、慎也は真っ直ぐな瞳で言った。 11歳の時から14年間。一度諦めた音楽への道を再び歩き始めたのも、中村結歌という存在が忘れられなかったからだ。彼女の曲を弾き続けているのも、その存在を探し続けるという目的への戒めかもしれない。自分へ、その誓いを忘れない為の。 慎也は壁のスクラップに目をやっていたので気付かなかった。 その隣で、祥子の表情が凍り付き、青くなっていったことを。 「───日阪さん」 「ん?」 「ごめんなさい。今日はこれから用事があるので帰ります」 バッグを持って腰を浮かせる。 「そう? 送ろうか?」 「いえ、大丈夫です。───わ……きゃっ」 わき目も振らず急いだあまり、祥子は室内のほんの少しの段差に躓いた。膝をついてしまい、ついでに両手をも床についた。髪が肩から落ち、祥子の顔を隠した。 「おい、大丈夫か?」 慎也が苦笑して、祥子の腕を持ち上げた。肩を支え、立たせてやる。 祥子はうつむいたまま、顔を上げようとしなかった。 「どこか…────三高?」 祥子の顔を覗きこむ。慎也は見た。その両眼には涙が滲んでいた。 「え? …どうした?」 「…さよならっ!」 祥子は踵を返し、走って、靴を履いて、ドアを開けた。 「おいっ! 三高!」 走った。振り返れなかった。自分がどんな顔をしてるか分からなかったから。 今の自分の顔を見たときの、慎也の表情を見るのが怖かった。 (俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ) その台詞を聞いたとき、頭から爪先まで、血の気が引いた。 ───怖い、と思った。 中村結歌を知る慎也と、この先も付き合っていくことを。怖いと思った。 慎也の声が追いかけてきそうな勢いだったので、祥子はアパートの外に出るとすぐにタクシーを拾った。 「浜松町、大門! 急いでくださいっ」 そう叫んだ後、息を吸うと、ひゅーと喉が鳴った。一旦、息を吸うと、今度は声を漏らさないように息を吐かなければならなかった。 何がこんなに苦しいのか分からない。 息苦しい。頭痛。吐き気。痛い。苦しい。 …だめだ。 (思い出してしまった) あの、遠い夏の日を。 祥子は頭を抱えて、泣いた。 つづく |
11話「wam前編」 END |
10話/11話/12話 |