11話/12話/13話 |
12話「wam 後編」 wam読了推奨。読み飛ばしても問題ありません。 |
|
▲1. 本日は土曜日なのでA.CO.は休業。 午前中、月曜館にてメンバーとの打ち合わせを終えた後、阿達史緒は私用で外出していた。 久しぶりに買い物へ出かけ、両手…とまではいかないが、片手いっぱいの荷物を抱えて、A.CO.の事務所へと向かう駅からの道を歩いていた。 共に暮らす島田三佳は、夏期講習に向けての説明会に参加している。帰りは遅いだろうから、必然的に夕食当番は史緒ということになる。食材も買い込んできて抜かりは無いけど、史緒は料理が得意ではない為、三佳が帰ってきたら小言を言われるのは目に見えていた。それもまあ仕方のないことだ。 夕食のレシピを頭に思い浮かべながら、事務所のドアの鍵を取り出しつつ階段を昇った。 (…?) 事務所のドアの前に人が座り込んでいた。はた迷惑な。でもそれが誰なのか、史緒にはすぐ分かった。 折った膝に顔を埋めて、両手はその膝を抱え、小さくしている影。特に怪我をしている様子でもないので、史緒はそのままのリズムで足を進め、その姿の直前で止まり、声をかけた。 「何やってるの?」 「落ち込んでるのよっ、見て分かんないのっ!?」 顔を上げないままの、三高祥子の千切れそうな叫び声が返ってきた。近付く足音が史緒のものだと気付いていたようだ。 八つ当たりにしか聞こえない台詞に、史緒は溜め息をついて答えた。 「分からないわよ。…祥子じゃないんだから」 とは言っても、まるきり分からないわけでも、ない。 落ち込んでいる、という言葉を使った祥子の語彙の貧困さを声に出して指摘しないあたり、史緒なりに気を遣っていると言える。 祥子との付き合いは短くない。こういう時に心配すると、余計に強がらせてしまい、祥子に更なる負担をかけることを知っている。史緒はわざと突き放した言い方をした。 「それにあなたの感情表現は歪んでるから」 「史緒に言われたくないっ」 祥子は顔を上げた。 泣いているかと思ったがそうではなかった。ただ、顔が青かった。 史緒は短く嘆息して、祥子を立たせる為に手を差し出した。 「そんなことより、…早く中へ入って。何か冷たいものでも飲みましょう」 意外にも祥子は素直に史緒の手を取った。これはかなり重症だ。史緒は事務所へ入り、とりあえず祥子をソファに座らせると作り置きの緑茶を出した。それから荷物を3階に置きに行った。戻ってきた時、祥子のグラスはまだ手が付けられていなかった。 「は? 泊まる?」 事務所のテーブルに腰を下ろし、自分のグラスを取った史緒は怪訝そうな声をあげた。 その向かいに座る祥子は視線を外して言いにくそうに言葉を濁した。 「家に帰りたくないの。毛布一枚貸してくれれば後は迷惑かけないわ」 「それはかまわないけど…。何かあった?」 「関係ないでしょ」 「簡単に答えてくれるとは思ってないわ」 「じゃあ、訊かないでよ」 いつもの険悪なムードになってしまう二人。史緒は苦笑いした。 「本当に祥子って友達いないのね。私の所なんて、来たくもないでしょうに」 ただ家に帰りたくないだけなら、何も史緒の所でなくてもいい。他に頼る友人が、彼女にはいないのだろうか。 祥子は図星を指されて尻込みした。 「…だって。蘭は寮住まいで今は試験中だし。お母さんの病院は看護宿泊するには事前の手続きが必要だし…」 「祥子、今日デートだったのよね? 痴話喧嘩だったら関わりたくないわ、さっさと仲直りしなさいよ」 「違うッ」 ばんっ、と祥子はテーブルを叩いた。史緒は眉一つ動かさずに、次の言葉を待った。 祥子の手は震えていた。その震えは声にも伝わって、 「…そんなんじゃ、ない」 と、小さく呟いた。 苛めてしまったかもしれない。 「祥子」 「うるさいっ!」 その様子をじっと見ていた史緒は空々しい溜め息をついた。 「まあいいわ。3階に客間があるから、そこを使って。それから───」 * 夕食の支度、手伝って欲しいの。と、史緒は笑顔で言った。 「あーっ史緒っ、お鍋吹いてるっ。弱火にしてっ」 「こっちは?」 「しばらく水に浸けてっ、あっ、ちょっと待って! あんた料理したことないの?」 …祥子は史緒の家事能力レベルを知らなかった。 キッチンは戦闘状態。手伝って欲しいと言ったはずの史緒は、はっきり言って使い物にならなかった。 さすがに、米を洗剤で洗うような真似はしなかったが、灰汁抜きや煮物の調味料など基本的なデータが入ってない。(どういう食生活してたのかしら)。それは意外な気がした。何でも難なくこなすと思っていた阿達史緒にこんな弱点があったとは。 「人間一つは苦手なことがあるわよ」 抜け抜けと言う。しかも微塵にも気にしていない様子で。 「いつもは三佳が作ってるの」 「三佳が結婚でもしたらどうする気?」 「そうね。その時は司もここに住んでもらおうかしら」 (───…) 史緒の台詞に、祥子は包丁を動かす手を止めた。隣で、鍋の様子を見ている史緒の横顔を盗み見る。いつも通りのポーカーフェイス。けれど。 分かってしまった。 「淋しいなら、そう言えば?」 突き放すような祥子の台詞に、史緒は笑ったようだった。 「今のは、完全に読まれたわね」 淋しいのはいつか三佳が離れていくことではなく、今ここに七瀬司がいないことだ。 祥子の台詞に思いやりが含まれているのは分かった。───こんな風に、祥子のような能力を持たない人間でも、他人の言葉の裏にある心情を読み取れることも、ある。 「三佳には言わないでね」 「分かってる」 そんなことを確認し合う。 七瀬司は事情があって今ここにはいない。誰よりも淋しいと感じているのは、三佳のはずだから。不用意に司の話題を持ち出すのはお互いの為にならない。 「祥子も相手ができたことだし、いつ結婚するか分からないじゃない? 今のうちに色々教わっておこうかな」 「日阪さんはそういう相手じゃないってばっ!」 「日阪さんだなんて言ってないけど」 「…」 使い古された手に引っ掛かるとは、史緒も思ってなかった。くすくすと笑い出す。 「史緒っ! あんんたねぇっ」 祥子は真っ赤になって、史緒を睨みつけた。 ───そんな風に騒ぐ二人を、背後のドアから白い目で見つめる視線があった。 「……何ともまぁ、異様な光景だな」 何とも言えない複雑な心境を表した声がかかった。 セーラー服姿にバッグをしょって、島田三佳が立っていた。 「お帰りなさい」 振り返った史緒に、ただいま、と返す。そう答えておいても、三佳はまだ自分の目が信じられなかった。 あの二人が───史緒と祥子が並んでキッチンに立っているなど、一生にあるかないかの珍事だ。きっとこれが見納めになるに違いない。 * 「痴話喧嘩か?」 食卓について夕飯に箸をつけながら、三佳は言った。祥子が今夜ここに泊まると聞いた後に。 そのことについて三佳は嫌な顔をしなかったが歓迎したわけでもなかった。前にも言ったが、三佳は祥子が嫌いなのではなく、祥子と史緒が顔を合わせるその場所に、自分も身を置くというのが嫌なのだ。 会話はいつも(祥子の一方的な)喧嘩腰、さらに史緒はそれを煽っている節がある。それでいてお互いの心根が分かっているような関係だから、端から見ていると馬鹿らしいことこの上ない。 素直じゃない。二人とも。 昔に比べればマシになったものの、やはりこの二人とは関わりたくないという思いが三佳にはある。 当然、祥子の痴話喧嘩にも関心は無い。ただ、祥子と付き合える男、というのには少しだけ興味が湧いた。 祥子がすんなり答えるわけないので、三佳は史緒に振った。 「史緒は? 祥子の相手と会ったことあるんだろ?」 「あるけど」 「どんな男なんだ?」 「三佳っ」 祥子が噛み付いてきた。無視した。知られたくないならここへ来なければいいのだ。 史緒ほど、三佳は甘くない。 その史緒は平然と、差し障りの無いことを答えた。 「別に。普通の人だったわよ?」 祥子に気を遣ったのか、それとも本当に普通でしかなかったのか。(最も何を普通と呼ぶかは意見の別れるところだが。そしてそれが良いのか悪いのかということも) 「祥子より年上だけど、あれは社会に出てる人間じゃないわね。学生? …そうね、健太郎みたいなタイプかしら、うちのメンバーで例えると」 「へー」 「全然、似てないじゃないっ」 「三佳に分かり易くタイプ別しただけよ。──それから、私が会った時の彼は、祥子のことをよく知らないようだったけど」 史緒は勿論、言外の意を込めて言った。三佳はすぐに気付いたようで、箸を止め、祥子の顔をちらりと伺う。 祥子も史緒の言いたいことは分かった。 この力──他人の喜怒哀楽や、より複雑な感情を受信してしまう祥子のことを、彼女と付き合う人間が了解していなければ、所詮は上っ面だけの関係ということだ。 祥子はしばらく呆然として、 「……言ってない」 と、小さく答えた。そういう問題もあることを忘れていたかのように。 では、少なくとも祥子の力のことで、日阪から逃げているわけではないのだろう、と史緒は目星をつけた。それだけ分かれば今は充分だ。 祥子をこれ以上落ち込ませない為と、食事をまずくしない為に、史緒は別の話題を口にした。 「三佳のほうはどうなの?」 まあ、史緒が今日の天気の話題など持ってくるはずがない。三佳にお鉢が回ったようだ。 「何が」 「三者面談の日程が決まらないって言ってたでしょう。担任の先生からも手紙が来てたし」 「それは昨日、提出した」 「結局、篤志に行ってもらうんでしょう? 私が行っても良かったのに」 「…それはいや。なんとなく」 「どうしてよ。───どうかした? 祥子」 祥子が眉をひそめて三佳と史緒の会話を聞いていたからだ。名指しされて驚いたのか、少々取り繕う間があってから、空咳を一つ。意外さを隠し切れない様子で祥子は言った。 「いや、本当に保護者やってるんだなぁと思って」 3年半前、祥子がA.CO.に入った時、すでにこの二人は一緒に暮らしていた。当時、三佳は10歳になる年で、史緒が親代わりだったのは知っている。 二人の私生活にはあまり関わってこなかったので、改めて目の当たりにすると驚いてしまった。 しかし、三佳は大きく異論があるのか祥子を一睨みすると力説を始めた。 「馬鹿言え、面倒見てるのはこっちだ。いい年して家事能力ゼロだし、放っておけば事務所で寝てるし、不摂生の自覚が無くて、なまじ体がタフだから倒れるまで気付かない馬鹿。…昔から甘やかしてたのが悪かったんだろうが。私のほうが保護者気分だ」 不機嫌さを隠しもせず溜め息をつく三佳の言葉に、史緒は肩を竦めて苦笑した。 「はい、すみません」 これではどちらが子供だか分からない。 祥子は、日阪のことを忘れて笑うことができた。 * * * 毎年この季節に送られてくる往復ハガキは、高校の同窓会の知らせだ。 東京都立佐城高等学校1998年度卒業3年3組。恒例「7月会」。 今年で3回目。 祥子は一度も出席したことがない。それでも、毎年ハガキはやってくる。 『三高さん、いい加減顔出してよ! 待ってるからね! 今年の幹事:松尾・北川』 『会費制。飛び入りもOK!』 ハガキの隅に、手書きの文字。 何故よりによって7月に? ───理由はある。知っている。 『今年も有志でG県K市に行くの。三高さんも行かない?』 3年3組は同じメンバーによる2年3組の持ち上がりクラスだ。 2年3組────その、7月。 一人のクラスメイトが、亡くなった。 彼女は、明るくクラスの人気者で、面倒見が良くて勉強もできて…。 7月に同窓会を行うのは、そんな彼女を、皆、悼んでいるからだ。 悲しい出来事だった。 中村結歌───。 「俺はずっと、中村結歌を探し続けるよ」 慎也が言った言葉が、頭の中で繰り返されている。 (同姓同名の他人) (きっと、そう) 史緒が用意した客間のベッドの中で、祥子はきつく目を閉じた。 暗闇の中で、自分の鼓動だけが鳴り響いていた。祥子はそれに耳を傾けた。だってそうでもしないと。 何か他のものが、音をたてて近づいて来そうな気がして。 時間とともに薄れていた罪の意識に、心臓を掴まれそうな気がして。 (違う…) 歯を食いしばると、顎が震えているのが分かった。 ───この子は、僕の尊敬する演奏家 ───今頃何をしてるんだろ (違うっ、別人に決まってる) 枕を掴む腕が、まるで痙攣しているかのように揺れた。 (別人───…のはず、ない) 同姓同名の他人だと思いたいのに、同一人物だと確信してしてしまっている自分がいる。 慎也の部屋のスクラップだって、写真の女の子が、彼女の昔の姿だとは限らないのに、慎也が追い続ける少女が中村結歌だとは限らないのに。 けれど分かっていた。 ピアノ、…音楽。ただそれだけで。 慎也は11歳の時からずっと、あの中村結歌を探し続けているのだ。 「…なんで?」 こんなところで、その名前が出てくるとは思わなかった。 彼女はもういない。4年前に死んだ。 (…私のせいかもしれない、のに) 口に出して言ったことはない。 しかし4年間ずっと、祥子にはその負い目があった。 あの日、祥子が約束の場所へ行けば、きっと何かが変わっていた。変わっていたはずだ。 あの日、母の和子が倒れ、朝から病院に駆け付けていた。祥子は結歌と会うことはなかった。 (私のせいかもしれないのに…っ) ───どうして慎也の部屋から逃げ出したりした? どうして、言えなかった? 彼女はもう居ないって。本当のことを。 同一人物だという確証がない? 馬鹿みたい、分かってるくせに。 違う。そんなことじゃない。 慎也が結歌の名前を口にしたことは勿論驚いたけど、それだけじゃなくて。 まだ4年。 まだ4年しか経ってない。あの悲しい出来事から。 彼女を失ったこと。自分ができなかったこと。 彼女が残した言葉の数々。 あの夏の暑さ、空の青さ、アスファルトに落ちる影の濃さとか、風や街路樹の色。それら全て。 まだ、口になんてできない。 4年経つ今でも、一人泣いてしまうことがある。 彼女の名前だって、簡単に言葉にできない。耳にするのだって辛い。 まだ思い出にならない、過去だから。 同日、深夜。 事務所で仕事の残処理をしていた史緒のところに三佳が現われた。 「あら、まだ起きてたの」 パソコンのキーを叩く手を止め、眼鏡を外して顔を上げる。 時間は日付を変えていた。三佳は着替えてもいない。史緒の事務机から一番近い、応接用のソファに腰を下ろし、足を組んだ。 「忘れてないと思いたいが、私は学生で、テスト期間中だ。そんなに早く寝てどーする」 「無理しなくても単位を取れないわけじゃないんでしょう? ほどほどにしておけば? 無駄な努力ほど無駄なものはないわよ」 「まともな学生生活を体験したことの無い人間が言っても説得力が無いな」 三佳の皮肉を、史緒は笑顔で躱した。 三佳の言う通り、史緒は過去に「まともな学生生活」を送ったことがない。 「それに、どうせ試験を受けるなら上位成績を目指してるんでね」 「つまらない意地」 「主観の違いだ」 「私の父も、そういうのは気にしないと思うけど」 ぐっ、と三佳は言葉を飲みこんだ。 「…見抜かれてたか」 と、照れたような気まずい表情を見せる。 本音を、史緒が見抜いているとは思わなかった。 島田三佳の後見人は事実上、阿達政徳───史緒の父親である。三佳がそれを必要としたときに阿達史緒が未成年だったせいもある。 数年前の取り決めから、島田三佳が大学を卒業するまでの学費は、阿達政徳が出資するよう約されていた。史緒は父親の世話になるのを快く思っていなかったが、何より三佳がそれを望んでいたので何も言えなかった。 三佳にしてみれば、結果のみを報告しなければならない後見人に、恩からくる意地を見せたいのだろう。 「───祥子のことだが」 三佳が何か話をしに、事務所へ来たことは分かっていた。それが祥子の事というのは少々意外だったけれど。 「あれはかなり参ってるわね」 「本当に単なる痴話喧嘩なら、ここで他人が心配してても意味ないだろうが」 「まだ喧嘩できるような仲じゃないと思うわ。祥子も、あまり自分のこと話してないようだし」 「話しても、付き合っていられるような男なのか?」 それが問題だ。 「見込みはあると思ったんだけど。日阪さんは祥子に好意を持っていて、祥子もそれを分かってて何度も会ってるわけだから、満更じゃないとは、思う」 「祥子のこと、調べるのか?」 「どうかしら。この状況が長く続くようなら、日阪さんに聞いてみようとは思うけど。…でも、いい加減、自分で解決するくらいの手腕は見せてもらいたいわね。祥子にも」 「よく言う。散々甘やかしてきたくせに」 三佳は冷やかすように笑った。 |
▲2. 都内D大学、理工学部情報電子工学科。 木崎健太郎は構内片隅のサークル室でパソコンと向き合っている最中だった。 卒論制作中…と言いたいところだが、その合間にやっていたはずの自作プログラム制作時間のほうが幅を利かせてきていて、卒論はそっちのけという状況だった。 プロトコルを簡単にまとめたノートから、コーディング(言語打ち込み)をしている。アルファベッドと数字が羅列する画面が休みなく流れて行き、見る人が見ればその頭の回転の速さに驚嘆したことだろう。 「木崎っ! ケータイ鳴ってっぞ」 そう言われて初めて、健太郎は手元の携帯電話が着信しているのに気がついた。液晶のバックライトが煩いほどの色の多さで点滅し、「北酒場(細川タシカ)」を奏でている。パソコン画面に集中する余り、着信音が耳に入らなかったのだ。 集中、転じて熱中していたところを邪魔されて、少しだけ不機嫌になりつつも通話ボタンを押した。 「はい、木崎」 『私だけど』 健太郎は器用に頬と肩で携帯電話を挟んで、両手はパソコンのキーボードへと戻し、打ち込みを再開させた。 「誰だよ、私って」 とは言っても、電話を受ける前に名前を確認してある。意地悪で言ったのだ。向こうもそれを察しているようで、尖った声が返った。 『祥子よっ』 「何か用か?」 『今、パソコンの前にいる? 調べて欲しいことがあるの。検索でひっかけるだけでいいから』 ははあ、と健太郎は目を細めた。この、祥子の頼み事は、かなり都合の良い頼み事だ。 祥子の言うレベルの調べ事なら、事務所や図書館のパソコンで簡単にできる。自分でやれ、と言い返すこともできるが、健太郎の場合「まぁいいか。大した手間じゃないし」というように思考が働く。 「キーワードは?」 問うと同時にパソコンのブラウザソフトを開く。インターネットにアクセスし、健太郎はまずディレクトリ型検索エンジンサイトを開いた。 電話の向こうで祥子が短く呟く。 『“中村結歌”』 ナカムラユカ。 健太郎はすぐに打ち込もうとしたが、その手が止まった。 「何それ? 名前? ナカムラは中の村だよな? ユカは?」 『結ぶ、歌』 カタカタとキーボードに指を走らせる。検索ボタンを押す。 ややあって、検索結果が表示された。「該当件数0件」。 まあ、これは予想していた。ディレクトリ型検索において、氏名がひっかかるのは著名人くらいだ。 健太郎はすぐに、ロボット型検索エンジンサイトへとアクセスする。 同様にキーワードを打ち込み、検索ボタンを押した。さっきより少し長い間があって結果が表示される。「該当件数0件」。ロボット型の場合、同姓同名の他人がひっかかっても良さそうなものだが、珍しい名前なのでそれも無いのだろう。 「祥子、中村結歌というキーワードでは、ヒット無しだ」 『…ごめん、じゃあ、もう一つ。“1987年12月”と、AND検索で“コンクール”で、お願い』 今度はすぐに打ち込むことができた。 AND検索とは、1つ以上のキーワードを同時に検索するときに使用する。A AND Bで「AとBという単語が使われているサイト」を検索するわけだ。同じくOR検索があって、A OR Bで「AもしくはBという単語が使われているサイト」ということになる。大抵の検索エンジンでは、キーワード同士をスペースなどで区切ることが多い。 ディレクトリ型検索は、登録希望のサイトを募りジャンル別にスタッフが整理して手作業で登録されている検索エンジンのこと。手作業で登録が行なわれる為に情報数はロボット型検索に比べると少ないが、ホームページの内容は濃い。公式のホームページや人気のホームページを探すにはこれ。 ロボット型検索は、ネット上のホームページから機械を使って情報を収集して自動的に登録されている検索エンジンのこと。自動登録の為に情報量は膨大。ただ情報が膨大な為に自分の必要な情報を探すのに苦労する事がある。 2回目に祥子が言ったキーワードでも該当件数は0。健太郎はその旨を祥子に伝えた。 その後も祥子はいくつかのキーワードを提示したが、思わしい結果は得られなかった。 何をどんな目的て調べているのか教えてくれたら、他の調べ方の適切なアドバイスができる。健太郎がそう申し出たところ、祥子は回答を拒否した。調べている内容を知られたくないのだ。 祥子との電話を切った後、健太郎はそのままA.CO.の事務所へと電話をかけた。 きっちり3回のコールの後、案の定、阿達史緒が出る。 …祥子にバレたら裏切り者扱いされるかもしれないが、口止めしなかった祥子のツメが甘いのだ。 「俺、木崎。祥子が何か嗅ぎまわってるけど…」 「へーえ」 史緒は事務所で仕事をしていた。その手を休めて、健太郎からの電話に耳を傾けた。 祥子が何か嗅ぎまわってる? 史緒は含み笑いを漏らした。 結構。ちゃんと自分から動いてるじゃない。 今、祥子が健太郎を頼ってまで調べ事をするなんて、それは自分の問題でしかないはずだ。 『何について調べてたか、聞かないのか?』 健太郎が言った。 「別に。知りたいとも思わないし、…それにケンだって、そこまで教えてくれるつもりはないんでしょう?」 『まーな』 「それから、ケンが祥子に協力するのはいっこうに構わないんだけど」 史緒は一応、釘を刺しておくことにする。 「必要以上の深入り調査はルール違反よ。大人しく手を引きなさいね」 A.CO.では、お互い、無断にメンバーのプライベートを探るのは禁止されている。これは入所した時に一番に約束させられたことだ。 健太郎は少しだけムキになった。 『協力要請してきたのは祥子だぜ? 最後まで調べさせないなんて、こっちも気になるだろ!』 それは単に好奇心とも言う。 「ルールを承知していて、祥子に協力したのはあなたよ」 『史緒』 「いいわね、手を引きなさい」 有無を言わせない迫力に、健太郎はしぶしぶ了解するしかない。 祥子は「後でお礼する」と言っていたが、おもいっきり高く付かせようと、健太郎は心に誓っていた。 * 「ありがと。後でお礼する」 祥子は健太郎との電話を終わらせた。駅の改札から、電車に乗るところだった。 悩みまくっていた夜から一晩明けて、祥子は心機一転していた。 原因の一つは、慎也からの電話。朝になってから3回かかってきて、祥子は3回とも無視していた。まともに話なんてできないだろう。 でも、このまま逃げ回っているわけにも行かない。そう、思い立った。 もうそれは突然で、祥子を行動へと駆り立てた。 (そうよっ!) まず、慎也の言う「中村結歌」と、祥子のクラスメイトだった中村結歌が同一人物であるか確かめよう。別人である可能性は低い。それでも、祥子は確認せずにはいられなかった。確証が欲しかった。 同一人物であるという事実を知ってどうする。慎也に言うのか? わからない。 でも。 祥子は鼓動が速くなり、手足が熱くなるのを感じた。頭の中が急に澄み渡り、自分が興奮しているのが分かった。 ───中村結歌のことを知りたい。 そう思った。 そうだ、彼女のことを知りたい。 慎也と祥子が知る中村結歌が同一人物なのか。 また、そうだとしたら将来を嘱望されていたピアノを何故やめたのか。 音楽家になりたかったと言っていたこと。 高校生の彼女が、誰にも言わないで、一人で恐れていた「何か」。 祥子に聞いて欲しかったという、結歌自身のこと。 …死んだ理由。 (知りたい) 今更、何をしても彼女は返らないけれど、彼女のことを知りたいと思った。ううん、知らなきゃいけないと思った。 今まで目を逸らしていた中村結歌のこと。 ちゃんと向き合って、解決しなきゃいけない。自分の為に。 今までずっと考えないようにしてきた彼女のことを、深く調べることになるなんて。 そういうわけで、手始めに一番手っ取り早いインターネットを使った方法で調べることにしたのだ。健太郎を利用させてもらったのは否定しないけど、後でお礼をすることで自分と健太郎を納得させる。 けれど収穫ゼロ。 祥子はまず、慎也の部屋にあった記事と同等の情報を手に入れようとした。かろうじて祥子が覚えていたのはコンクールの日付だけで、その他に「中村結歌」の出身地や生年月日などを知りたかった。 コンクール主催者のホームページがあって、歴代受賞者の名前が載っていることを期待したのだが甘かったようだ。インターネットが普及する前のクラシックコンクールのホームページなど一つもなかった。かろうじてコンクール名が書かれているのは、音楽家個人のホームページの経歴に載っているくらいだ。もしくは最近の新聞雑誌社のトピックス。 簡単に見つかるとは思ってなかったけど、期待していなかったと言うと嘘になる。 祥子は踵を返して改札をくぐった。 慎也の言う「中村結歌」を調べる手段は、まだ、ある。 祥子はM区にある、某新聞社へ来ていた。 一般外来用の受付で必要な手続きを済ませ、縮刷版閲覧室へと向かう。 ここには、この新聞社が発行した過去1年以上経つ新聞記事が、縮小版として保存されているのだ。 ある一定のキーワードをもとに記事を探したい場合は、同様に保存されているCD−ROMやマイクロチップなど電子データのほうが有効だが、今回祥子が調べたい記事は日付が限定されている。 1987年12月13日にあった出来事を調べたいので、1987年12月14日の新聞。 そういうわけで、電子データではなく縮刷版の閲覧手続きを祥子は取ったのだった。 ───このあたりの手際はA.CO.の仕事で培ってきたことだ。史緒の下で仕事をしていることに、一瞬だけ感謝した。一瞬だけ。 1987年12月14日の新聞はすぐに見つかった。 結歌が出場したというコンクールの記事が載っているとすれば芸能欄だろう。祥子は新聞を手に取り、部屋の隅にあるテーブルの上に広げた。 この日、1面には大きく飛行機事故が取り上げられていた。千歳発、羽田行きの国内線で墜落事故、生存者不明。この事故は13日に起きたもので、翌日のこの新聞には詳細は載っていなかった。 (…そういえば、こんな事故もあったっけ) 当時は祥子も7歳だ。ニュースを見ていたわけではないけど、後々の特番などで、この事故のことを知ったような気がする。 何にせよ、痛ましい事故だ。 けれど、他の数ある歴史的惨劇と同様に、祥子にとっては遠い出来事でしかない。こんな風に新聞やテレビで映されなければ、思い出すようなこともないことである。 祥子は芸能欄が27面であることを確認して、新聞をめくった。 (…あったっ!) トップニュースに押され、本当に小さい記事だった。 ささやかな見出しと、コンクールの結果が載っているくらいのものだった。多分、慎也の部屋に貼ってあった詳細な記事は、新聞ではなく音楽雑誌のものなのだろう。 全国音楽コンクール ピアノ部門C 優勝 中村結歌(G県出身) たった、それだけ。 祥子は拍子抜けした。こんな簡単に見つかってしまうなんて。 この記事から分かるのは、慎也の言う「中村結歌」の出身地くらいだけど、事実を確認するにはこれで十分だった。 結歌の生まれがG県であることは予想がついている。死亡現場のG県K市塚原霊園にはG県出身の両親の墓碑があるからだ。 本当は生年月日や血液型も確認してみたかったが、ここで得られる情報ではない。 (私は何が知りたいんだろう…) ふと、祥子は思った。 慎也の言う「中村結歌」と同一人物であることを確かめたかった。 …確かにそれもあるけど。 でも、もっと。…もっと違うこと。 『聞いてほしいの。三高に』 そう言った彼女の、結局聞くことができなかった真実。 もう今となっては知ることは不可能かもしれない。調べても無駄かもしれない。 (でも…) 改めて知りたいと思った。 中村結歌について。 「………っ」 結歌の家へ行ってみよう───。祥子は新聞社を飛び出していた。 |
▲3. 健太郎との電話を切った後、事務所で一人業務をこなしていた阿達史緒は意外な訪問者に驚いていた。 いや、気の毒がっていた。 (惜しい、あと一時間早く来れば会えたのに)と、思っても口には出さない。慰めにはならないだろうし。 ドアのノックの音の次に現われたのは、日阪慎也だった。祥子が出て行ってから一時間後のことだった。 「いらっしゃい、日阪さん。今日はどんなご用件で?」 愛想良い笑顔を向けながらも、史緒は内心で(どうして彼がここに?)と考えていた。 (そうか、名刺渡してあったっけ───) 祥子も、日阪がA.CO.の場所を知らないと思って、自分の部屋へは帰らずここへ逃げ込んだのだろうが、盲点だっただろう。一度、日阪と会っている史緒が名刺を渡さないわけないという可能性さえ考えないのは浅はかというものだけど。 もしかしたら明日…早ければ今夜には、二人の山場が見られるかもしれない。 史緒にとって所詮は他人事。巻き込まれるのなら楽しませてもらおう。そして最後には賭けに勝ちさえすればいいのだ。 慎也は問いただすように言った。 「三高がアパートに帰ってないようなんだけど」 「そうみたいですね。でも寝泊まりしている場所は分かってますから、心配する必要はありませんよ」 わざわざ祥子がここに泊まったことは教えてやる必要はないだろう。 「じゃあ、ここには顔出してるんだ?」 「ええ。今朝も来ましたけど。すぐに出かけました」 「俺のこと、何か言ってた?」 ということは何かあったということか。史緒は本人に気付かれない程度に白い目を向けた。 いや、何かあったということは、祥子が泊めて欲しいと言ったときから…いや、ドアの前に座り込んでいたのを見たときから分かっていた。 「…それは私が訊きたいです。何があったんですか?」 逆に問い掛けると、さらに日阪は質問を返してきた。 「三高の様子は?」 史緒は溜め息をついて答えた。 「本人の言葉を借りるなら、“落ち込んでる”そうですよ」 その後、日阪は、先日祥子と何があったのか話し始めた。 「…俺も訳が分からないんだけど、話の途中で突然帰るって言い出して」 用事があるので帰る、と言っていたがあれは嘘だ。日阪は気付いていた。 「話って…。どういう話をしてたんですか?」 日阪はちょっと考え込んでしまった。色々他愛も無い話をしていたはずだけど、別に気を悪くさせるような話題は無かったはずだ。逃げられてしまうようなことも、した覚えはないけど。 本当に、何故祥子があの時逃げ出したのか、日阪は分からないでいる。 今度付き合ってもらうパーティのチラシとCDを渡す為に部屋に寄ってもらって、そこでいろいろと話をした。 日阪の家族のこと。祥子の仲間関係のこと。 「それだって、別に暗い話じゃなかったし」 と、日阪は言う。それからー、とさらに記憶を辿る。史緒は大人しく耳を傾けていた。 「そう、それから、三高がスクラップのこと聞いてきたんだ」 「スクラップ?」 「俺の部屋、新聞や雑誌の切り抜きがごちゃごちゃ貼ってあって…───」 黙って聞いたいた史緒は、突然、弾かれたように、日阪へ目をやった。 そして次のように言った。 「どうして日阪さんが中村結歌を知ってるんですか?」 驚いた史緒の台詞を聞いて、日阪も目を見開いて驚いた。 「え…っ、そっちも?」 そして祥子がここにいたら、史緒が「中村結歌」の名を口にしたことに酷く驚いたことだろう。祥子は4年前からその名前を口にしていないし、史緒と出会った3年半前からその話題を出したこともない。 ───史緒はほんの少しの事実だが、知っていることがあった。中村結歌というその名前と、祥子と同級生であったこと、それから彼女の今現在について。 「史緒さんも知ってるのかっ?」 日阪は史緒に詰寄った。まさか史緒の口からその名前を聞くとは思わなかったのだろう。 「落ち着いて下さい。…まず、日阪さんが知っている中村結歌について教えていただけませんか」 何故、祥子のかつての同級生が、新聞雑誌の記事になりスクラップされるような人物だったのか。ただの女子高生ではなかったのか。 その辺りの、自分の認識の齟齬を修正する為に、史緒はまず日阪に尋ねた。 日阪は、中村結歌について語り始めた。 天才ピアニストと騒がれていた7歳の少女がいたこと。14年前に音楽界から消えていることなどを。 「そっちはっ? どうして知ってるんだ?」 日阪は真剣な顔で叫んだ。 (……) 史緒は内心で頭を抱えていた。どうも、自分が把握していた中村結歌と、日阪の言う人物像は噛み合っていないようだ。 けれど、日阪の言う7歳の中村結歌と、祥子の同級生である17歳の中村結歌を同一人物と見なすことに、否定する材料はない。勿論、確証も無いわけだが。 「……回答しかねます」 確信のないことは口にしない主義。しかしそれ以前に、ここで「祥子の同級生だった女子高生です」などと答えたら、後から祥子に殺されそうな気がする。(勿論、比喩だけど) 「頼むよっ、俺は、ずっと、彼女を探し続けて来たんだっ」 「……え?」 史緒は眉をひそめた。 「探して、どうするんですか?」 「会ってみたいと思ってる。…できればだけど」 (中村結歌と、会う?) そんな馬鹿な。 (そうか) 日阪は7歳の頃の中村結歌しか知らないんだ。彼女の現在を、知るはずもないのか。 史緒はやっと、祥子が日阪のもとから逃げ出した理由を悟った。 (──…これは) 珍しく史緒は、心から、祥子を気の毒に思った。 「史緒さんっ、頼むっ、彼女について知っていることを教えてくれっ」 「───それは、うちへの依頼と受け取ってよろしいですか?」 は? と、日阪は面食らったようだった。 けれど史緒は事務的な声で続ける。 「この間、名刺を渡しましたよね。A.CO.───うちは興信所業務を行っているんです」 今まで気付いていないことだったが、日阪は祥子(延いては阿達史緒)の「本業」なるものの詳細を知らなかった。 興信所? 日阪は思わず室内を見回してしまった。 そして目の前に立つ阿達史緒は所長だという。年齢を尋ねたことはなかったが、祥子と同年代には違いない。20代前半の女性がトップを努める組織とは一体どんなものだろう。 「日阪さんの言う中村結歌という人物について、こちらで調査し、その結果を日阪さんに報告致します。依頼内容に間違いありませんか」 「あ、でも。そういうのって、家族とかじゃなきゃ受けられないんじゃ…」 「興信所が個人の調査をその家族でなければ引き受けないのは、プライバシーだけの問題です。今回は特別に引き受けてもいいですよ」 「……史緒さんが、今、知ってることだけでもいいんだけど」 「こちらも情報業ですので、簡単に口にはできません」 プロとしての表情で史緒は断わった。 「でも俺、そんなに金持ってないよ。貧乏学生だから」 「今回は無料です。…どうせあなたと祥子がくっついたら賭けの配当が入るし」 「は?」 「いえ、なんでも」 こほん、と空咳をして史緒は話を切り替える為に雰囲気を改めた。 「祥子のことは───…もう少し放っておいてあげてくれませんか。私がこんなことを言える立場でないことは分かってます。でも祥子にも、色々と事情があるようなんです。祥子は必ず、自分で答えを持ってくるから」 こんな台詞、祥子の前じゃ絶対口にしない。史緒はそれを自覚しているけど、嘘でも建前でもなく、これは本心だった。 日阪は少し不服そうな表情を見せて、何か言いかけたが結局黙り込んでしまった。 史緒はピンと思いついたことがあって、それをすぐに日阪に訊いてみた。 「これは例え話ですけど、もし、今、中村結歌と三高祥子の居場所をどちらかだけ教えるとしたら、日阪さんはどちらにします?」 意地悪な質問であることは承知しているが、本心を計るいい質問だと思う。 「三高だ」 日阪は即答した。史緒は眉を上げて少しだけ驚いた。 「どうして?」 「別に、ただ優先性を考えた結果というか。…三高が逃げた理由を、まず知りたい。俺が何か気に障ることをしたなら謝りたいし、史緒さんが言う通り何か事情があるなら、それも聞かせて欲しい。こんなことで、付き合いが終わるのは嫌なんだ」 日阪の返答を聞いた史緒は、視線を逸らし目を細めた。 何と言うか、どうも言葉が足りないようだけど。 (まぁ、合格かな) と、史緒が思ったことは勿論日阪は知らない。 日阪は帰りがけに「あ」と振り返った。 「何ですか?」 史緒が言うと、日阪は笑った。 「俺も一つ聞きたいんだけど、史緒さんは三高と付き合ってて苦労することがあるわけ?」 「ありません」 と、答えてしまってから、史緒は(しまった)と後悔した。迂闊だった。 日阪はこの回答は予測していたようだ。そしてその答えに満足したように、したり顔で、 「それなら俺も、苦労なんてしないで、三高と付き合えると思うな」 と、言った。 初めて会った時、史緒は「祥子と付き合うのは苦労しますよ」と忠告めいた発言をしていたのだ。それを覚えていたのだろう。それに先程の史緒の意地悪い質問と同様、日阪は史緒の本音を計る質問をしたのだ。 侮れない…という史緒の不穏な視線に気付かないまま、日阪は帰って行った。 |
▲4. 中村結歌が住んでいたマンションは、祥子たちが通っていた高校から歩いて10分の所にある。 当時のクラスメイトのほとんどは、そこを訪れたことがある。中村結歌の葬儀は外の葬儀屋で行われたがその後もマンションの方へ焼香に訪れたからだ。マンションということもあり、一度に大勢で来るのは迷惑になるだろうから、わざわざ数名ずつ日を分けて。 皆に慕われていたことがよく分かる。 けど祥子は一度もここへ訪れたことがなかった。 一部のクラスメイトがそんな祥子を非難していたことは知ってる。生前の数ヶ月、結歌と祥子はつるむことが多く、仲が良いと思われていたからだ。仲が良かったのに葬儀にも現われないで、何事も無かったかのように平然と学校へ通う祥子がそんな風に思われるのも無理はないけど。 でも祥子は、遺影の中で笑う彼女に、手を合わせることなどできなかった。 (…怖かったんだ) 目の前の結果を招いた自分の責任を、頭から否定することができなくて怖かった。 自分にはできることがあった。自分にしかできないことがあった。 彼女の話を聞いてあげて、彼女が持つ「恐れ」から解放してあげることができたかもしれないのに。 自惚れかもしれない。でも誰かにできるとしたら、それは祥子でしかなかったはずだ。 後悔という言葉では表せないほどの、深い深い気持ち。 今まで、ここに足を向けることができずにいた。 そして今日。祥子は初めて、このマンションへ来ていた。 部屋は3階の一番、奥。 祥子はそのドアの前に立っていた。表札は「中村茅子 結歌」とある。結歌の名前は消されてなかった。 さっき一度だけチャイムを押したが応答は無し。腕時計を見ると時間は5時半。この中村茅子が仕事へ出かけているとすると、そろそろ帰ってくるかもしれない。それとも夜遅くかもしれない。…ああ、でも、予約もなく突然押しかけてきた祥子を迎えてくれるとは限らないし、もしかしたら何日も帰らないかもしれない。 (……少しだけ、待ってみよう) こっちには時間は沢山あるのだ。祥子はドアから通路を挟んで反対側、手摺りの向こうに広がる街並みに目をやった。 この辺りは住宅街で、似たようなマンションがいくつも見受けられる。典型的なベッドタウンというやつだ。そのマンションの間から遠く微かに見える都心のビル群。スモッグで霞んでいる。この時間でも空は明るく、眼下に見える小さな公園には子供たちが遊んでいた。 夏を感じさせる湿った風が吹き込んできた。もう7月も終わりだ。これからぐっと暑くなる。 (…) ふと、祥子は思った。 中村結歌は毎日のようにこの景色を見ていたのだろう。 振り返ると、結歌が毎日開け閉めしていたはずの、ドア。彼女はいつも遅刻ギリギリで登校していたから、きっとこの通路を走っていたに違いない。 同じ景色を見ている、という不思議な感覚が祥子を包んだ。 「何か御用?」 「え」 出直そうかなと考えていた矢先、すぐ近くから声をかけられた。高く可愛い声で、祥子が振り返ると、いつのまにかそこには髪の長い若い女性が立っていた。タッパーを持っていた。どうやら中身は炒め物のようだ。 誰? と咄嗟に思ったが、この女性が中村茅子でないことは分かった。中村茅子は結歌の伯母にあたる人物だ。親子くらい年齢が離れているはずで、目の前に立つ女性はどう見ても同年代だったから。 女性は愛想良く笑った。 「茅子さんはもうすぐ帰ってくるけど。茅子さんの…うーん、結歌ちゃんのお友達かしら?」 結歌ちゃん、という単語がポンと出たことに、祥子はドキッとした。 「はいっ、私、佐城高校の卒業生で結歌さんとは…」 怪しまれない為に本当のことを言う。しかし最後まで名乗る前に相手のほうが嬉々とした声をあげた。 「結歌ちゃんのクラスメイトの子!? あ、お焼香に来たの? そうかー、あ、茅子さんはほんとにすぐ帰ってくるはずだから、一緒に待ってようよ」 勢いのある陽気さに圧され断わることもできず、祥子はこの女性とご一緒することになった。せっかくここまで来たのだから断わるつもりもない。 「あの、…ご近所の方なんですか?」 「そう。結歌ちゃんとは幼馴染みというヤツよ。年はちょっと上だけど。今日は不摂生な茅子さんに差し入れに来たんだ」 と、持っているタッパーを指差して見せた。 「それにしても結歌ちゃんのお友達が来るなんて久しぶりー。あ、でもそうか。そういう季節だもんね」 そういう季節、というのは、今は夏で、命日が近いという意味だ。 そんな風に言われても、祥子は季節も何も関係なく初めてここに来るのだから、笑顔で適当にごまかす。 祥子の隣で、この女性も眼下の景色を見渡していた。 「結歌ちゃんの、死因って、知ってる?」 快活なこの女性は少しだけしんみりして、祥子に尋ねてきた。 中村結歌の死因。祥子は当時の新聞を読んで知った。 「突然死症候群…って新聞で読みました」 「そう。…でも突然死って、それってつまり原因不明ってことだよね?」 G県の霊園で、両親の墓前で、結歌が倒れているのが発見された。証言によると発見時に既に息はなく、周囲にも人はいなかった。貴重品を盗られた形跡は無し。警察の発表によると、外傷は全く無し。毒も検出されない、とにかく致命傷となるものがなかった。言うなれば心不全。心臓が止まった、ということだ。 「私ね、結歌ちゃんが亡くなる数日前、すぐそこの公園で結歌ちゃんが倒れるところ見ちゃったの。その時は不摂生な生活による貧血かなって勝手に決め付けちゃったんだけど、…どこか、体を悪くしてたのかもしれない、突然死なんてもの、それに至る何か。……あの時ちゃんと病院に連れて行けばよかったのかなって、今もちょっと、後悔してるの」 「……」 女性の、懺悔にも近い言葉を、祥子は黙って聞いていた。 気付かれないようにゆっくりと息を吐いて、空を仰いだ。 (ああ、ここにも…───) と、思った。 ここにも、中村結歌の死を忘れられずにいる人がいる。 しかし結歌が病気だった、というのはあり得ない気がする。 祥子と関わっていた数ヶ月の中、病を感じさせる言動は無かったし、それにもし病気なら死後行われた解剖で分かるはずだ。 ああ、でも、結歌が言っていた「死神に追われてる」という発言で、もしかしたら「病」を「死神」に例えていたのかも、と考えるのはあまり不自然ではない気がする。そうすると結歌が祥子に言っていた「聞いて欲しいこと」というのは病気のことだろうか。でもそうすると「死神(=病)」のせいでピアノをやめたというのはどういうことだろう? 祥子は結歌の健康体を見てきていることもあり、やはり病気説は考えにくい。 「あ、茅子さん帰ってきた!」 女性が、壁に預けていた背中を持ち上げた。 「おかえりなさーい」 手を振るその先に、エレベーターホールの方から近付いてくる人影があった。 中村茅子、その人である。 祥子とは初対面になる。中村結歌の伯母・茅子の風貌は祥子が想像していたよりずっと老けていた。 「おや、菖蒲ちゃん、いらっしゃい」 顔の節々に皺を寄せて笑う。白髪が混じる髪は丁寧に束ねてあって、化粧はほとんどしてないようだった。祥子が見る限り60歳くらいに見える。…本当は何歳なのだろう。 「この子、結歌ちゃんの同級生だって」 と、その女性(菖蒲、と呼ばれていた)は、中村茅子に祥子を紹介した。祥子は慌てて頭を下げた。 「はじめまして。三高祥子です」 「いらっしゃい、三高さん。よく来てくれたわ。さ、上がって上がって…菖蒲ちゃんは?」 「私は今日は失礼します。茅子さん、はい、コレ。ちゃんと食べてくださいね」 「いつもありがとう」 菖蒲からタッパーを受け取り、茅子は苦笑した。 * * * 祥子は初めて、結歌に線香を上げることができた。 ささやかな仏壇の中央に、思い切り笑ってる結歌の遺影。高校の時のものか、と一瞬祥子は思って、次に苦笑した。写真が高校の時のものなのは当たり前だ、彼女の時間はその時に止まったのだから。 遺影を見上げ、祥子は目を細めた。 何もせずに、4年間も過ごしてしまった気がする。 初めの頃は彼女の死を受け入れられなかった。死因は不明だし、何故、突然G県にいるのか、それまでの経緯が分からない。G県に両親の墓碑があるのは知ってる。しかしそこで死に至ったというのは、どこか不自然ではないだろうか。そんな風に理由を探してばかりいた。 次に自分を責めた。約束の日、約束の場所へ行かなかったこと。話を聞いてあげられなかったこと。 それから4年間、何もしなかった。墓参もせず、こうして遺影の前に立つことさえせずに、ただ目を背けていただけで、何もしなかった。そう。このまま忘れていこうなんて思ってたんじゃない? このまま時間と共に忘れていけばいいと、思ってたんじゃない? そのまま4年も過ぎてしまった。 そして慎也と出会った。慎也と出会ったことで、今まで目を背けていた結歌のことを、今こうして深く知ろうとしている。 この思い出と決着を付けようと思うことができたのは、慎也と出会ったおかげだった。 「あの、結歌さんのこと、お聞きしたいんですけど」 茅子がお茶を出してくれて、そのテーブルに向かい合った時、祥子は切り出した。 「いいわよ。何でも聞いて」 落ち着いた、優しい笑顔で茅子は笑った。 「結歌さんは初めから東京に住んでたんですか?」 両親の実家がG県であることは分かっている。ただ結歌が生まれたのが東京かG県か、これは重要な点だ。慎也の言う「中村結歌」は少なくともコンクールに出た7歳まではG県にいたはずだから。 茅子は首をかしげた。何故、結歌のクラスメイトがこんなことを聞くのだろう、と思ったのかもしれない。でも答えてくれた。 「いいえ。生まれはG県よ。うちの実家はそっちでね。結歌の両親が亡くなって、こっちで働いていた私が、結歌を引き取ったの」 「それはいつ頃でしたか?」 「えーとね。んー……。…ほら、14、5年前に東北で飛行機事故があったの覚えてない?」 「はあ」 突然何の話? と思った。 でもピンときた。 今日、新聞社の縮刷版で見た一面記事。あれは飛行機墜落の報道ではなかったか。 「え…、もしかして87年の…?」 「そう、それ。結歌の両親、あれに乗ってたのよね」 茅子は影を落として苦笑した。 「87年ってことは、結歌は7歳だったかな。…そう、7歳の時よ、結歌がこっちに来たのは。私が引き取ったの」 「──…」 結歌は「G県出身」だということだ。 祥子は諦めにも近い溜め息をついた。 (…あれ?) 次に全く別のことで閃いたことがあった。 結歌の両親があの飛行機事故で亡くなっているのだとしたら、それは結歌の最後のコンクールと同じ日だったはずだ。 「え…っ、じゃあ…。あの、もしかしてちょうど同じ日に、中村さんは音楽コンクールに出てたわけですか!?」 思わず叫んでいた。 結歌がピアノを弾いていたことをまだ確認していないのに。 祥子のこの台詞は、全てを認めてしまっている内容だった。 茅子は驚いたようだった。 「よく知ってるわねぇ。こっちに来てからはピアノの話題を出すだけで不機嫌になってたのに。あの子、自分のピアノの話なんてしたの?」 「…え、ええ。まぁ」 曖昧に頷く。恐らく、結歌がピアノを弾いていたことなど、クラスの誰一人として知らないだろう。 「そうよ。沙都子さんと智幸は…あ、結歌の両親ね。結歌のコンクールの為に北海道から帰ってくる途中だったのよ。私は結歌のピアノの腕前をよく知らないんだけど、全国大会に出るくらいだったのよね。でもそれもその時までで、こっちに来てからはぷっつりやめちゃった。…やっぱり、両親のことが尾を引いてたのかしら」 結歌がコンクールで優勝した日。両親は飛行機事故に巻き込まれていた。 その後、結歌はピアノをやめ、東京へ。 祥子はその事実を知って愕然とした。 「あ。写真見る? 一枚だけ残ってるのよ」 茅子が腰を浮かせた。 (写真…?) 何の? 茅子はテレビの上の敷物をめくると、一枚の写真を手にとった。 「これよ」 差し出された写真を、祥子は受け取った。 古い写真だった。 (ああ…) 目を瞑った。 女の子が、トロフィーを抱いて笑う写真だった。それは間違いなく、慎也の部屋のスクラップと同じ少女だった。 ここにきても1パーセントの疑惑が残っていたが、こうして物証を突きつけられるともう認めるしかない。 胸から込み上げてくるものがある。 それは結歌の幼い頃の写真であるにも関わらず。 (また逢えたね) そんなことを思った。 |
▲5. 『三高には夢がある? 私は小さい頃、音楽家になりたかった』 『死神に追われてるって言ったら、あんたは笑うかな』 笑わない。あなたの心が追いつめられてるのは、知ってたから。 『冗談よ…やっぱ変だわ、三高って』 『聞いてほしいの。三高に。…テスト最終日の放課後、屋上に来て』 いいの? 私で。 『あんたじゃなきゃ言えないわよっ!』 『あっ…いや、そーいうワケじゃなくてぇ…ほら、三高って妙な力あるしぃ…』 教室には他に誰もいない。夏の晴れた日で、床に映る窓枠の影が色濃かったことを覚えている。 二人して、笑った。 目が覚めた。 「………え?」 ベッドの上、夢から目が覚めた。寝ていたというのに、祥子は自分の心拍数が上がっていることに気付いた。理由は分かってる。理由は簡単で、そう、夢を見たからだ。 祥子は深く呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻そうとした。 部屋の中は暗かった。枕元に置いた携帯電話を手探りで引き寄せ、キーを押しバックライトを点灯させる。 デジタルの表示時間は深夜、2時だった。 「…」 ズキズキ痛む額を、左手で押さえた。 (久しぶりだなー…) こんな風に、あの時のことを夢に見て、夜中に目が覚めるなんて。 昔はよくあったことだ。でも時が経つにつれ、やがて夢を見る間隔が少しずつ長くなってきていた。そうやって少しずつ忘れていくのだろうとも思っていた。 けれど、思い出したかのように、夢は繰り返されている。 4年経った今も。 数日かけて調べて、分かったことといえば、同一人物という裏付けだけだ。 結歌が「聞いて欲しい」と言った内容、それ以外にも、分からないことだらけ。 (…日阪さんに言わなきゃ) 祥子はごろんとベッドの上で丸くなる。 慎也は14年も「中村結歌」を探し続けていた。その演奏を再び聞く為に。ここで祥子が言わなければ慎也は報われないし、祥子も慎也とまっすぐ向き合うことができない。 (でも日阪さん、中村さんはピアノを弾いてなかったよ) ピアノをやめた理由。何かを恐れていた、その正体。死神。 祥子は、目を閉じた。 聞いてあげられなくて、ごめん。 コンコン。 「……っ!」 祥子は飛び上がった。何の音が一瞬分からなかった。 それはドアをノックする音だった、と思う。 (…気のせい?) 今は深夜だ。静寂に包まれている室内に耳を澄ましていると、もう一度、ノックが鳴った。 「祥子。…起きてる?」 史緒の声だった。ドアの向こうから。 「…っ!! な、なによ、こんな夜遅くに」 非難めいた発言をしながらも、驚きを隠せなかった。 「ちょっと事務所まで来てくれる? 見せたいものがあるの。落ち着いてからでいいわ…三十分後くらいに来て」 「は?」 うん、とも、やだ、とも言ってないのに、史緒の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。 「ちょっと! 史緒っ?」 ドアの向こうに叫ぶが返事はない。 (見せたいもの?) こんな夜中に叩き起こしておいて(いや、起きてたけど)、一体何?。 仕方なく祥子はベッドから這い出した。服を着替えて、髪は適当に整える。メイクは省略。 廊下に出ると照明が灯っていた。史緒の気遣いは分かったけど、(電気がもったいない)と反発してしまうのは祥子の可愛くないところだ。 足音がやたらと響いた。いくらテスト中とはいえ三佳はもう寝ているだろう。できるだけ音をたてないように、祥子は階段を降りていった。 「来たわよ。何の用?」 事務所に入ると、史緒は書類棚を整理しているところだった。深夜にやることでもないだろう、と思ったが、整理していたわけではなく、もしかしたら何か探していたのかもしれない。どちらにしろ、祥子は史緒の業務内容を理解しているわけではなかった。 祥子がソファに座ると、史緒もいくつかの書類を抱えたまま、合い向かいに座った。 「ありがと。…でもその前に」 史緒はスゥと息を吸った。 「三佳! あなたは早く寝なさい」 強い口調に祥子は驚いたが、パタパタパタと廊下に足音が小さくなっていった。どうやらドアの向こうで三佳が立ち聞きしていたらしい。祥子は全く気付かなかった。 三佳の足音が去ると、史緒は何でもなかったかのように話し始めた。 「まずはこれ。本題とはちょっとずれるんだけど、ざっと目を通してくれる?」 史緒はピンで留められている書類の束を、ポンと投げてよこした。 訝りながらもそれを受け取る。何気なくページをめくって、祥子はぎょっとした。 「…これっ」 2ページ目に表題があった。 「三高祥子に関する身辺調査報告書」 目を見開いて、さらにページをめくる。祥子は理解した。 「御薗さんのところの…?」 「そう。3年半前の記録。あなたがここに入る時に、調べさせたものよ」 3年半前。祥子がこのA.CO.に入る時(正確には入る前だが)、史緒は同業者の御薗真琴に祥子の身辺調査を依頼したのだ。(当時、木崎健太郎はまだいなかった)3年半経つ今まで、祥子はこれを見たことがなかった。こんなものの存在さえ知らなかった。 そして史緒も、誰にも見せたことがなかった。勿論、メンバーにも。 史緒は何故今になって、祥子にこれを見せる気になったのだろう。 「……」 祥子はさらにページをめくった。 3枚目の左上に、4年前の自分の写真があった。…まだ、髪が長い。 「三高祥子に関する身辺調査報告書 1998年1月現在」 三高祥子。都立佐城高等学校2年3組女子15番。部の所属は無し。成績は中の上。社交性、協調性が無し。入学以来誰とも付き合いが無く孤立している…(中略) 東京都品川区在住。マンションの名義は三高和子(続柄:実母)。三高和子は97年7月から港区R病院に入院している。他に部屋に出入りする人物はなし。…(後略) 「…ほんと、よくもまあ…。御薗さんはどこから調べてくるんだろ」 祥子は自分のこんな情報が出回っていることに対し、怒りを通り越して呆れた。特に、祥子の学校生活のことなど、これは学校の生徒達に聞き込みしなければ得られない情報だろう。 「あ、7項目を読んでくれる?」 史緒が口を挟んできた。 (7項目…?) ページをいくつか進めた。 7項目。それは祥子の学校生活の詳細が書かれていた。 それに目を通すと、祥子は顔を歪ませた。 「……どうして特記事項に中村結歌の名前があるの?」 自分でも驚く程、低い声だった。そう、その項目には、その名前が書かれていた。 そして口にしてから祥子は気がついた。ということは、この書類を手にした3年半前から、中村結歌の名を史緒は知っていたのだ。 史緒は諳んじてみせた。 「中村結歌。都立佐城高等学校2年3組女子12番。部の所属は無し。成績は優秀、但し音楽は例外。性格は明るくて人当たりが良くクラスの誰とでも仲良く喋る存在。97年5月頃から三高祥子が執着していた人物。97年7月、故郷であるG県K市の霊園で死亡しているのが発見される。死因は突然死…───」 「やめて」 「夏休み中の葬儀はクラスメイトが全員出席…、───三高祥子を除いて」 「史緒っ!」 ガタンッ。祥子は勢いよく立ち上がった。睨み付ける祥子の視線を、史緒はまっすぐに受け止めた。 「私は何も知らないわよ」 史緒のその台詞が事実だとしても、史緒は3年半前から、少なくとも中村結歌の名前だけは知っていたことになる。その事や、今までそれを黙っていたことには怒りは覚えなかったけど、史緒が結歌の名前を簡単に口にするのは気分が悪かった。 「まだ用件は残ってるわ。座りなさい」 「いちいち命令しないでっ」 それに…そうだ。今、この時期に、祥子にこんな書類を見せるのは、中村結歌の名前を引き合いに出すのは───…祥子が今、結歌について調べているということを、史緒が知っているからではないか。 史緒は今度はA4大の封筒をテーブルの上に置いた。 「そしてこれは、その、中村結歌さんの身辺調査。今日、御薗さんの所から届いたの。2日で結果を出せって要求したから、祥子が最近調べてたことのほうが、もしかしたら詳しいかもしれないわね」 (中村結歌の…身辺調査?) 「史緒っ!! …あんた勝手に何やって…っ」 「言っておくけど、私は読んでないわよ」 しれっと史緒は言った。 は? と祥子は訳が分からなくなった。 「…?」 「あなたにあげる」 史緒にしては歯切れの悪い物言い。こういう時は大抵、何か演出(悪巧み)を狙っているのだ。今までの経験から、祥子はそう直感した。 史緒に対する怒りはおさまってしまった。 「史緒…?」 恐る恐る、聞いてみた。 「実は日阪さんから中村結歌さんについて調べるように依頼されてるの」 「…っ! 日阪さんっ?」 「依頼主への結果報告はあなたに頼むわ。中身をしっかり確認してから、日阪さんに渡して。お願いね。これは正式な仕事よ」 「な…っ」 慎也が自発的にこんな依頼をするはずがない。興信所に頼むなら、もっと昔にやってたはずだ。 じゃあ、史緒が差し向けたわけ? 中村結歌を追っている私たちに、本当のことを教える為に? それに。 《中身をしっかり確認してから、日阪さんに渡して》 見え透いた気遣い。 私の口から、慎也に事実を知らせる為に。 「史緒…」 「いい加減、ケリつけなさい。…おやすみ」 言うだけ言うと、史緒はそっけなく会話を終わらせて立ち上がり、部屋を出て行こうとした。 祥子は書類の束を呆然と見つめていた。 しかし。 「待ちなさいよ」 短く、史緒を引き止める声。振り返った史緒に、祥子は不敵な笑みを見せた。 「───私が、あんたの力を借りなきゃ解決できないと思ってた?」 祥子は史緒の視線を捕らえた。短い時間見つめ合う。 史緒は目を細めた。 「思ってたわ」 と、短く答えた。ガクッと祥子は肩を落とす。 「あ…っ、あのねぇ! 私のことどう思ってるわけ?」 「だって今までの祥子じゃ、絶対、彼女のことを自分から調べようとはしなかったもの。───安心して。私の中の祥子の記録もちゃんと書き換えておくから」 つまり、史緒の中で今までの祥子の評価は、自分のことを自分で解決しようとしない人、となっていたわけか。…事実だけど。 「…ぜひ、そうしてよ」 祥子は苦笑しながら、史緒の背中を見送った。 それは厳封してあった。 A4の茶封筒。表には宛先としてA.CO.の住所と阿達史緒の名前。裏には「御薗調査事務所」の社印。手書きで「まりえ」という署名。 もう一つ、「依頼#200307036-YNについて」とあった。 ナンバリングの規則は祥子も知っている。 頭4桁は西暦、続いて2桁は月、続いて3桁はその月の仕事数の通し番号だ。「YN」というのは、多分、中村結歌のことだろう。 封緘方法はきっちり糊付けと三ヵ所の封印。まだ閉じられたまま。史緒が読んでいないと言ったのは嘘ではないらしい。 それに調査に健太郎ではなくわざわざ御薗さんの所に頼んだのは、身内に身内のこと調べさせない為───メンバーのプライベートを探るのは禁止、というルールを守る為だろう。 史緒が持たせてくれてペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。 祥子はベッドの上に仰向けになった。 書類一枚目、左上の写真に懐かしい顔が写っていた。 |
▲6. 『もしもし? 中村茅子ですけど、分かるかしら』 翌朝、出かけようとしていた矢先に、祥子の携帯電話が鳴った。 中村茅子。意外な人物からの電話に祥子は驚いた。 「あ、はい。先日はお世話になりました」 『こちらこそ。…あのね、ごめんなさい、今日会えないかしら? 実は私のほうも訊きたいことがあったの…』 申し訳無さそうに告げる茅子に、祥子のほうは特に断わる理由もないのでそれを了解した。 そういうわけで、祥子はまた中村茅子のマンションへお邪魔することになったのだ。 「いらっしゃい。ごめんなさいね、何度も足を運ばせちゃって」 訪れた祥子を、茅子は丁重に迎えてくれた。電話と同じく呼び付けたことにもう一度謝って、前回と同じ、祥子を居間へと案内した。 (…あれ) 居間には先客がいた。 茅子と同年代(多分)の女性。こざっぱりとしていて、若葉色のスーツを着ている。座卓の前に正座していた。 「あ、彼女も私が呼んだの。紹介するから、気にせず座って座って」 茅子は祥子の肩を軽く押して、先客の合い向かいに座らせた。 何が何だか分からないけど、茅子が祥子を呼び出したのは、この女性と引き合わせたかったからだろうか。「訊きたいことがある」というのは一体何だろう? 先客の女性は、何故かさっきからこちらをじろじろと見ているし。ふつと女性と目が合って、祥子はぎこちない愛想笑いを向けた。 「あー、知ってる知ってる。この子、三高祥子でしょ」 「は?」 祥子は驚いた。突然、名前を呼ばれたからだ。 「…え? あの」 茅子が先に名前を教えていたわけでは無いようだし、「知ってる」と言ってるし。しかも呼び付けされてしまった。そんなこの女性に、祥子は見覚えが全くない。 (誰?) お茶を持って別室から表れた茅子が笑った。 「さすが、よく覚えてるわねぇ。それって職業病?」 膝をついて祥子の前に湯飲みを置くと、茅子は祥子の隣に座った。 「あの…、初対面、ですよね?」 おそるおそる祥子が切り出す。 「もー、これだもん。教師っていう職業も報われないよねぇ」 「えっ? 教師っ?」 祥子は目を見開いて驚いた。この女性が祥子のことを知っているということは、過去、祥子が教わったことがある教師だということだろうか。 祥子は高校、中学、小学校…と溯って思い出そうとするが、この女性に教わったという覚えはない。最も、祥子は教師の顔などあまり記憶に留めない質なのだけど。 「あの、ごめんなさい。分かりません」 「それもしょうがないかな。…ほら、佐城高で。あなたが2年の時だと思うけど、音楽の臨時教師やってたの、私。もっとも4ヶ月だけだったから印象少ないと思うよ。それに三高さん、結構サボってたしね」 「音楽…?」 2年といえば、ちょうど結歌とのことで色々あった時期だ。祥子自身よく覚えていないが、この人の言う通り、授業をサボっていたのかもしれない。 それにしても、そんな人物とこの場所で再会するとは思わなかった。 「改めて、こんにちは。お久しぶり、巳取あかねです」 「巳取ちゃんはね、結歌の両親とは同級生だったの。小さい頃の結歌のことをよく知ってるのよ。三高さん、結歌のこと色々訊いてたじゃない? 巳取ちゃんなら色々知ってるから、訊いてみたら?」 * 「結歌は才能あったよ。全国で優勝して将来を期待されてた…」 そんな結歌は、両親の死後、茅子のところへ行くと言い張ったという。地元には両親の実家もあるのに、わざわざ東京へ行くことを望んだのは結歌自身だった。 「私はてっきり、東京でピアノを習うつもりなのかなって思ってたの。コンクールで有名になってたから、その手の誘いは引く手数多だったしね。そう、私も納得してた。でも後から聞けば、ピアノをやめたって言うじゃない。驚いたわよ。ピアノをやめる為に東京へ逃げたんだって思ったら、怒りさえ覚えたわ」 ある時、あかねは結歌を探し始めたのだという。 音楽をやめた理由を問いただす為。説得する為。 (日阪さんと同じ…) と、祥子は思った。あかねも結歌を探してきた一人なのだ。 あかねが結歌の居場所をつきとめたのは、結歌が高校2年のときだった。 「一発ひっぱたいて、私が言いたいことは言うことができたから気は済んだけど、夏休みに入ってすぐに、あの事件でしょ? …あれには、…参ったわ」 深い深い溜め息が響いて、少しの沈黙が生まれた。 祥子にも、覚えがある。 夏休みに入って数日目のこと。突然のクラスメイトからの電話。 祥子は、電話の前に立ち尽くした。 何を言われたのか分からず、それを理解するのには時間が必要だった。 あかねはあの悲しい知らせをどうやって聞いたのだろう。 「…そういえば巳取ちゃん。智幸の手紙がどうたらって言ってたわね」 沈黙を埋める意味もあったのだろう、茅子が口を挟んだ。 「あーあれねー。結局、見つからないまま。何が書いてあるのか興味あったんだけどな」 「え? 何ですか?」 「私ね、結歌の父親から手紙を預かってたの。結歌に渡すように」 「結歌の父親っていうのは、つまり私の弟よ」 と、茅子が付け足す。 「…でも、ご両親は確か」 「そう。もうとっくに亡くなってるけど、その手紙を渡すように頼まれたのは、なんと結歌が生まれる前なの。“子供が大人になったら渡してくれ”って。その子供が生まれる前によ? 変な奴よね〜」 「巳取ちゃん。私の弟だってこと、忘れないで発言してね」 ジロッと茅子に睨まれて、あかねは慌てた。 「そ、そんな冗談ですよぉ、茅子さん」 あかねはその手紙を、結歌に渡すことができた。計算すると、15年間、あかねはその手紙を預かっていたことになる。そして15年後、無事、結歌はその手紙を受け取った。 しかし。 「どこにも無いの。その手紙」 「え…」 「結歌は確かに読んだはずよ。でも部屋にも、バッグの中にも無い。結歌自身も持ってなくて、後から隅々まで探したんだけど、結局見つからず終い」 父親が娘に宛てた手紙。 娘が生まれる前に認められた手紙は、娘が受け取った時、父親はすでに死んでいた。 (……何か) 祥子はふと思った。けどその思いが不謹慎であることを承知していたので、声には出さない。 何か、その手紙の経緯を考えると。 結歌の父親は、自分が死ぬのを分かっていたかのようだ…。 どんな手紙だったんだろう。 何が書いてあった? 結歌はどんな思いでそれを読んだんだろう。 受け取ったはずの手紙が消えたということは、結歌が処分したと考えるのが妥当だろうけど、それは何故? 捨てたのか、誰かに渡したのか。誰かが持ち去ったとか……これは無いだろうけど。 「三高さん?」 「え…、あ、はい!」 「そろそろ本題に入ってもいいかしら?」 「え? 本題って…」 「いやーね、“訊きたいことがある”って言ったでしょ?」 「あ」 茅子は確かに、電話でそう言っていた。訊きたいことがあるから、来て欲しいと言っていたのだ。 「あのね、結歌、死ぬ前の晩、楽譜を書いてたみたいなの」 と、茅子が切り出した。 「え?」 何の事だろう? と思ったが、祥子は茅子の発言に素直に驚いた。 (楽譜を書いていた?) それは想像し難いことだった。何故なら、結歌はピアノをやめただけでなく、音楽をやめていたのだから。 その結歌が楽譜を書くなんて、物凄い心境の変化があったとしか思えない。 「理由は分からないけど、結歌の机の上に5線紙が散らばっていたの。書き損じは無かったけど、ノートが破られてたから、書いたページはどこかへ持って行ったのね。それも、結局見つかってないわ」 あかねは既に知っていることなのか、口を挟まずに黙って聞いていた。 死ぬ前の晩に書いたということは、書いた楽譜を両親の墓前まで持って行ったと考えるのが妥当ではないだろうか。それとも行く途中にポストに投函したとか、これまた誰かに渡したとか。 それにしたって、何故、結歌は突然楽譜を書く気になったりしたのだろう。 「部屋に残っていたほうの5線紙にね、その中の一枚の裏に、書き置きがあったのよ」 「───…え、書き置きって、…中村さんの!?」 「そう。でも私にはさっぱり意味が分からなくって。来てくれたお友達にも聞いてるんだけど、誰も分からないみたい。一応、三高さんにも訊いておこうと思って」 本当は昨日言えば良かったんだけど、忘れちゃった。と、茅子は苦笑した。 「書き置きっていうより、単にメモね。咄嗟に思い付いたことを近くにあった紙に書いたって感じ。持ってくるから、ちょっと待っててね」 (…) 祥子は自分の胸がざわついていることに気付いた。 多分、それは中村結歌が人生最後に残した言葉だったはずだ。 結歌は最後だなんて思わなかっただろうから、何のことはないくだらない内容かもしれない。全く意味の無い内容かもしれない。 祥子が期待するような、「祥子に聞いて欲しかったこと」であるはずはない。誰にも言えないから、祥子に聞いて欲しかったのだ。こんな風に書き残すはずない。 じゃあ、何? 意味を成さないメモかもしれないのに、祥子はどこか期待してしまっている。 そんな事あるわけないと思っても、馬鹿みたいにほんの少しの希望を持ってしまう。 (どうか…) 祈りさえ込めて。 ピアノをやめたことや、音楽を嫌わなければならなかった理由、恐れていた「何か」、死神…───。父親からの手紙、楽譜を書くことになった理由───何でもいい。 ───…どうか、あなたの苦しみが少しでも分かる内容でありますように。 茅子が渡してくれた紙片は、きれいにクリアケースに収められていた。 表は5線紙。5線の上には何も書いてない。 そして裏を見る。 結歌の字だった。数行のメモ書き。 祥子は一度目を通した。よく意味が分からなかった。 二度目。ゆっくり読んだ。 読んだ。 祥子は、叫んでいた。 |
▲7. それは単に独白でしかない。 誰に宛てたでもなく、誰に読ませるものでもない。 でも。 残された人間のうち、ただ一人だけ。 祥子だけが分かった。 中村結歌からの、メッセージ。 夕方5時を回っていた。 大分傾いてきているものの、太陽はまだ確認できる位置に浮かんでいる。 夏至はとっくに過ぎたのに、それでもまだ日が延びているような、そんな錯覚に陥るのは何故だろう。 夏至は過ぎても、夏はこれからなのだ。 日阪慎也は三高祥子に電話で呼び出されていた。 電話があったのは4時を少し過ぎた頃。場所を告げただけで、祥子は電話を切った。慎也は先日の、祥子の逃げた理由を問いただしたかったが、その時間は与えられなかった。 指定された場所が慎也の行動範囲外の上、ちょっと遠い。移動に時間を取られていた。 祥子が指定した場所は都心から少し離れた郊外。 都立佐城高等学校。正門前。 祥子はそこに立っていた。 門に背を預け、俯いていた。 そしてやはり慎也が声をかけるより先に、祥子は顔を上げて真っ直ぐにこちらに目をやった。 「日阪さん…。来てくれてありがとう」 眩しそうに笑う。けれどどこかぎこちない笑顔だった。 「それは、いいけど。…」 「こっちに、ついてきてください」 慎也の台詞を打ち消すように強く言って、祥子は背を向けて歩き始めた。校門の中へと。 拒否させない迫力があって、慎也は黙って祥子の後に続く。 校庭には誰もいなかった。夏休みと言え部活動くらいあるかと思ったが人一人いない。校舎の中にも人影は見当たらなかった。 祥子は先をどんどん歩いて、校庭の端を通り、校舎まで近付く。 「どこまで行くんだ?」 「そこの階段から屋上まで昇れるんですよ。ごめんなさい、そこまで付き合ってもらえますか?」 二人は校舎片隅の非常階段を昇った。 すぐ隣に建つ棟はその中がよく見えた。どの部屋も机がずらりと並んでいて、そこが教室だと分かる。こちらの棟とも4階で、4階ぶんの階段を昇って、二人は屋上へと出た。 コンクリートのタイル張りで、かなり広い面積には何も置いてなかった。 そして壮観だった。近くに高い建物が無いので街並みがよく見渡せる。 夕暮れの風が、汗かいた体を通り抜けていった。 祥子は手摺りに手をかけたところで、振り替えって言った。 「ここ、私の母校なんです」 それは慎也も想像がついていた。 「一時期、よく授業をサボってたことがあるんですけど、その時は大抵ここに来てました。隣の校舎で授業をしている教室を眺めたりして。…それに、このすぐ下、音楽室があるんですよ。毎時間、色んな音楽が聞こえてくるんです」 慎也は祥子の言っていることに、何の意味があるのか分からなかった。 当然、祥子にもそれは分かっている。 でも祥子は、胸が詰まりそうなこの既視感を、もう少し味わいたかった。 今、祥子が立っているところには、昔、彼女が立っていた。そして振り返る。慎也が立っているところには、昔、祥子がいたのだ。 「三高」 何か言いたいことがあったのではないか。慎也は促した。 祥子は笑った。慎也に近付いて、一枚の写真を見せた。 「これ。真ん中の子、見て下さい」 それは女子高生が3人並んだ写真だった。それぞれがポーズをつけて、楽しそうな写真だった。 真ん中の女の子は髪が長く、親指を立て、歯を見せて笑っていた。 「誰? 三高じゃないよな」 「4年前だから……97年、かな。私が高校2年の時のクラスメイトです。今日、彼女の家でこの写真を借りてきました」 祥子は中村茅子に無理を言って、茅子の姪が高校生の時の写真を借りてきたのだった。祥子と彼女が共に写っている写真は一枚もないから。 「明るくて、皆からも好かれてて、勉強もできて、…普通の、女子高生でした。音楽が嫌いだって言ってた、音楽の授業はいつもサボってました」 「…?」 慎也は祥子の言いたいことがよく分からない。祥子の元クラスメイトが一体何だと言うのだ。 「音楽が嫌いだって言ってたくせに、授業をサボる時はいつもここにいた。…音楽室から聞こえる音楽に、きっと耳を傾けていた。……」 好きなものを好きと言えない。そんな事情の背景には何があったのか。 祥子は次に言うべき言葉が中々出てこなかった。口が、開かなかった。唇を噛んだ。 「…三高?」 「その子が、中村結歌です」 弾かれたように、言ってしまっていた。 その時ばかりは慎也の顔が見れなくて、祥子は俯いた。 風が通りぬけた。その匂いすら懐かしくて、祥子は泣きたくなった。 「───…え?」 かなりの沈黙の後、慎也は呟いた。 「その写真の真ん中の子が、中村結歌です。日阪さんが探していた、中村結歌です…っ」 「ちょっと、待って。…え? 三高の同級生?」 驚愕。その次に半信。…そして多分、期待。 そんなものが含まれた慎也の声は、祥子を一層苦しめた。 「三高…っ」 慎也の問い掛けがくるのは予測できた。それより素早く、祥子は封筒を慎也の前に差し出した。 「これは史緒から。中村結歌に関する調書です。……読めば分かると思いますけど」 それでも、祥子は自分から言わなければいけなかった。 もう覆すことができない、現実を。 「彼女は亡くなりました。97年の夏に」 目を見開いて声を出せないでいる慎也に、祥子はさらに用意していた資料を差し出す。 「当時の新聞記事です。…97年、7月のことでした」 慎也はそれを受け取り、見開いたままの目でそれを読んだ。 「……っ。…そんな馬鹿なっ!」 それは祥子が今まで聞いたことがない、慎也の吐き捨てる声だった。わなないていた。痛ましかった。 慎也にとって、中村結歌は14年間探してきた人物で、彼女と再会することは人生の目標とも言えることだったのだから。 こんな風に、彼女がもう存在しないことを告げられて、絶望にも近い気持ちを抱いたかもしれない。 祥子も、そんな慎也を目の当たりにするのは本当に辛かった。 でももう一つ、祥子は言わなければならなかった。 「…彼女はピアノを弾いてませんでした。音楽も嫌いだって、言ってました」 「───まさか」 「中村さんは、ずっと…『何か』を怖がっていた。夏になると特に酷くて…誰にも言わずに、たった一人でそれに怯えていた。すごく苦しんでた。すごくすごく、こっちが息苦しくなるくらいに。…想像でしかありませんが、その『何か』のせいで、中村さんは音楽をやめていたのかもしれない。結局、その正体は、最後まで分かりませんでしたけど」 祥子はそこで区切って、慎也に聞いてみた。 「…日阪さん。分かります? どうして私が、中村さんのそんな心情を知っていたか」 顔を歪ませて…今にも泣きそうな表情を、祥子は慎也に向けていた。 「どうして…って。中村結歌が、三高に、打ち明けたんだろう…?」 「この間も言いましたけど、私、ここに通ってた時は、誰とも仲良くしないで、ずっと孤立してたんです。…親しい人なんていなかった。そんな私に、中村さんが相談を持ち掛けるわけないじゃないですか」 祥子は肩を揺らして失笑していた。右手で顔を押さえ、くすくすと笑いだした。 「じゃあ…」 祥子は指の間から顔を持ち上げた。低い声が響いた。 「言ったでしょう? 私、勘がいいんだって」 「!」 慎也はただ素直な驚きを表情に表した。そして次に発する言葉。 「……三高?」 その声に表れているのは、疑惑。 祥子は堰を切ったように喋りはじめた。 「史緒が私を雇っているのは、私に特殊な能力があるからです。…私、分かりますよ。日阪さんが、今、どんな気持ちでいるのか。嘘をついても、顔に出さなくても。喜怒哀楽や、もっと複雑な感情…! 小さい頃から、当たり前のようにこのちからはあった! 自分が変なんだって気付いた時から、私は他人と付き合うのをやめました。嘘をつかれるのが恐かった、本心とは裏腹の笑顔を見るのが悲しかった、気付いてない振りをして笑う自分が嫌だった! …───そして何より、このちからがバレたとき、拒絶されるのが怖かったんです。…ちからがバレたとき、私自身を否定されるのが、怖い。…その気持ちが、私を孤独にさせていたんです」 慎也は、黙って聞いていた。 「史緒は私のちからを利用することで受け入れてくれてる。そんな関係でも私は納得してる。───…わ、…私は、日阪さんと付き合って行きたいと思ってました。でも! 私のことを知ったら、日阪さんは離れていくかもしれない。黙ったまま過ごすことも、できそうに、なかっ…た」 祥子はとうとう俯いて、泣き始めた。 そして言った。 「私は日阪さんのことが好きです」 自然と言葉にすることができた。 「…日阪さんは全くそんな気無いのかもしれない。そして何より、私のことを知って、私を否定して、離れていくかもしれない。…それは仕方ないと思います。最後に、聞いて欲しかったんです。それに───…っ!」 それに。 その先を言う前に、祥子は慎也に腕を引かれ、慎也に抱き締められていた。 「───っ」 咄嗟に離れようとすると、慎也の腕が祥子の肩を押さえてびくともしなかった。 「…日阪さんっ?」 男の人がこんなに力があるなんて知らなかった。 目の前に慎也の胸がある。…こんなに他人と近くにいるのは、生まれて初めてだった。暖かかった。 「仕方ないって何だよ」 耳のすぐ近くで声がした。 「俺のこと好きなら、もっと食い下がれよ。根性無いのな、三高って」 祥子は慎也の顔を見ようとした。でも慎也の腕の力は緩むことがなく、声しか聞くことができない。 「前に言ってただろ? 勘のよさを役立てられるように心がけてるって。俺は、それを聞いて、三高のこと偉いって思った。役立てられる能力を持ってること、尊敬してた。…どうしてっ、俺が三高から離れてくんだよ」 抱き締められている腕に、力がこもる。 祥子の目からまた、涙がこぼれた。 「日阪さん…」 「俺も、祥子のこと、好きだ」 これを吐きだしたら、 きっと、私は私になる あんたも、素直にきいてあげて。 きこえないふりしないで。 私以外でも、わかるヒトがいるって! こんど、私のピアノきかせてあげるよ 私はやっと私になる。これを吐き出すことで、私は「彼」を捨て「中村結歌」になれる。 殺し続けてきた自分の中に響く音を、受け入れることができたから。それは、…あんたのおかげ。 だからあんたもちゃんと自分を受け入れてあげて。 聞こえないふりしないで。 私たちが聴く、耳にすることができない声。 素直に聞いてあげて───…。 あんたを分かる人間は、私以外にもいるから。 今、日阪慎也という人間を前にして、祥子は結歌の最後のメッセージを思い出していた。 メッセージと言うにはかなり不完全で、伝わりにくいものだったけど。それは三高祥子へのものだった。 祥子はここ数時間の間に、結歌が最後に吐き出したという「これ」の正体を、何となく気付いていた。 彼女は最後に曲を書いたのだ。 そしてこれは祥子の願望にも近いのだけど、結歌はその曲を書くことで「恐れ」から解放されたのだと、祥子は信じたかった。彼女は最後に救われたのだと、ただ祈りたかった。 真実は誰も分からない。ただ、そうでありますように、と。 中村茅子からその紙片を受け取る前、祥子はその書き置きの内容が「結歌の抱えていた苦しみが少しでも分かるものであるように」と思っていた。 けれど思惑は全く外れて、結歌は祥子を諭す言葉を残した。 祥子はそれを読んだ途端、泣いた。けれどそれは悲しみの涙ではなかった。 「あ…」 ふと、思い出して、祥子は自分の荷物の中から手の平に乗るくらいの包みを取り出した。 「なに?」 慎也が覗き込んでくる。 「今日…中村さん家に行ったときにいただいたんだけど」 結歌の書き置きを読んで、祥子が落ち着いた後に。 巳取あかねに渡されたのがこの包みだ。 「結歌の書き置き、これの、“あんた”さんに、渡したかったの」 と、言った。 「まったくもう、またメッセンジャー役しちゃったわ。4年間もね」 とも、言っていた。 中村茅子も巳取あかねも、クラスメイトたちも結歌の書き置きの意味が分からなかった。このメッセージの受取人にこの包みを渡したかったのだと、巳取は言った。 「なんだろう?」 慎也にすべてを話すということに気が回っていて、これの存在をすっかり忘れていた。 祥子はその包みを解いて、中身を取り出した。 慎也も興味深そうにそれを見ていた。 「カセットテープ…?」 祥子の呟き通り、それはカセットテープだった。ケースにすら入ってない。 どうやらかなり古いもののようだ。プラスチックに擦りキズが沢山付いていた。テープ自体のメーカー名はよく聞くものだけど、今ではめったに見られないモノラルのテープだった。 「?」 何気なくテープをひっくり返すと、そこには擦れた文字のラベルが貼ってあった。 《1987/12/13》 慎也と祥子は同時に目を見開いた。その日付には、覚えがある。 「嘘。これ…、まさか」 「あ、俺、ウォークマン持ってる」 そう言うと、慎也は慌てて自分の荷物を荒らし始めた。 音大生というものは、大抵ポータブルの録音媒体を持ち歩いているものらしい。普及率ではMDとテープが半々くらいで、慎也は両方持ち歩いているようだった(友人と交換するときなど、どちらでも対応できるようにする為らしい)。最近ではCD-Rやメモリスティックなどもあるがこれらはまだごく少数しか出回っていない。 ウォークマンにテープをセットして、二人はイヤホンを分けて耳にあてた。 再生ボタンを押す。 耳を傾けると、曲が流れ始めた。 自然と、二人は目を合わせる。 テープに録音されている曲は、想像通りのものだった。 祥子にとっては、慎也がよく弾いていた曲。慎也にとっては、14年前に耳にした曲。 14年前の、中村結歌の演奏だった。 「…」 目を閉じると、そのときの光景が見えるようだった。舞台の上でピアノを奏でる少女。演奏されているのは、この曲、…演奏者は7歳の中村結歌。数百人の聴衆はこの音楽に魅了される。 呼吸を忘れていたのか、慎也は深い深い溜め息をついた。 「…また、聴けるとは思わなかったな」 胸がいっぱいになっていることが分かる。涙が滲んだ。 <今度、私の演奏聴かせてあげる> 祥子は俯いて、その音楽を聴いていた。 (聴いたよ。私。あなたの演奏を) 「ありがとうな、三高」 「え?」 「中村結歌のこと、教えてくれて。…ありがとう」 (─────…) 今、はじめて、許されたような気がした。 救われたような気がした。 この4年間、悩み苦しんだこと。いっそ忘れてしまいたかった───でも忘れずにここまで生きてきたこと。 無駄じゃなかった。 結歌を探し続けていた慎也に、彼女のことを伝えることが自分の役目だったとしたら、今までの何もかも、ちゃんとここまでの自分の一歩になっている。 そう思うことができた。 「あの日のことは結構覚えてるよ」 駅に向けての帰り道で、慎也は言った。 時間はちょうど帰宅ラッシュで、駅方向からやってくる会社員や学生で歩道は人の流れができていた。2人は人波に逆らう方向へ歩いているわけだから、真っ直ぐに進むのはちょっと困難だった。慎也は祥子の手を引いて、できるだけ通行人とぶつからないように道を選んで進んだ。 「あの日…?」 「14年前、コンクールの日」 中村結歌が音楽家として演奏した、最後の日のこと。 「俺も含めて大半の出場者は、出待ちの時間、ものすごく緊張してるわけだ。子供とはいえ多大なプレッシャーがかかってる、…どうしてかって言うと、全国大会にまで伸し上がってくるのは少なからず英才教育を受けてる奴等で、一丁前に自信とプライドを持ってるからだ」 他人の緊張というのはこちらにも伝わってくる。 「同じ楽屋の中にいるから、息苦しくて仕方ない、ほんと。それにステージママってのが本当に何人もいて、そういう人達がさらに空気を悪くするわけ」 そんな空気に嫌気がさして、慎也は廊下へ出た。静まり返った建物内をしばらく出歩いていると、ガラスの扉の向こう、中庭のベンチに女の子が座っているのが見える。その女の子はステージ衣装を着ていたので、コンクールの出場者だと分かった。 「後から分かったんだけど、彼女が中村結歌だったんだ」 皆、楽屋の中で必死に緊張に耐えているのに。 なのに、中村結歌だけは、寒くても天気の良い陽の当たる場所で日向ぼっこしてた。空を見上げ、笑っていた。地面に着かない足をプラプラと振りながら。口元が動いている…───。 歌っていた。 澄んだ空気、青い空、日の光の中で。 なにものにも縛られず、ただ思いついた歌を。 「人が呼びに来るまで、彼女は歌ってた。その後、俺は彼女の演奏を聴いて、…驚いた」 “ああこの子は、俺達には聴こえない音楽を聴いてるんだ”と。 そんな存在がいるのだと、驚いた。 神に愛されていた。 そんなことを信じさせる程に、彼女の音楽は純粋で澄んでいた。 「その後、俺はすぐにピアノをやめた。確かな才能を持つ人間がここにいる、俺が何をしても自己満足にしかならないと思ったから。…結局は諦められなくて、今、こうしてピアノを弾いてるわけだけど」 けれどそんな才能を持つ少女に、運命は味方しなかった。 たった17歳でこの世を去ってしまったのだから。 ───とある宗教で、こんな考え方がある。 若くしてその生命を終わらせる者は、神に愛されている。愛されているからこそ、現世での生を早くに終わらせ、神の元へ召還されるのだ、と。 もしかしたら彼女も、そんな存在だったのではないか。 それは慰めにもならないけれど、不思議と温かい気持ちになる。 「…三高も、同じだよな」 慎也は言った。祥子はつないでいる手に、力を込められた気がした。 「え?」 「中村結歌と同じ、君は聴こえないはずの他人の心の声を聴いてる。人って、中々自分の本音を言えなかったり隠したがるものだけど、でも本当はどこかで“聞いて欲しい”って思ってるところがあると思うんだ。三高はそれを聴いてくれている。…もしかしたら、中村結歌と同じで、それは才能というのかもしれない」 祥子は慎也の顔を見た。彼は笑っていた。 「はじめて言われた…。そんなこと」 慎也の言葉は真剣に本音で、言葉と一緒に気持ちも真っ直ぐ伝わってきて、祥子は口元に空いているほうの手をやった。泣けてきたからだ。 「えっ! …三高? 何で泣くのっ?」 慎也はぎょっと立ち止まって、祥子の顔を覗き込む。その慌てぶりがおかしくて破顔した。声をあげて笑った。そして一度笑ってしまうと涙も止まらなくなって、さらに慎也はうろたえていた。 混雑している歩道で、手をつないでいる男女が何をやっているのだ、と物珍しそうに振り返る人が何人かいたが立ち止まる人はいなかった。人波の中で立ち止まっているのは二人だけだった。 もう一つ、慎也は言った。 「そりゃ、俺は三高に知られたくないこともあるし、やむを得なく嘘をつくこともあるかもしれないけど」 「いいよ」 祥子はそれを遮って、 「日阪さんの嘘なら、騙されてあげる」 二人は目を合わせて、それから二人して吹き出して、声をあげて笑った。 ───多分、これから長い間。辛い嘘や優しい嘘があって、知られたくない心の痛みが沢山あるだろうけど、例えそれらを隠し苦しんでも、「わかってくれている」という思いで心が軽くなる。そんな気がする。 全て、とは言わないから。ほんの少し、口にしなくても、この思い、伝わっていることが救いになると思うから。 きっとこれから喧嘩もして、行き違いがあったりするだろうけど、きっと長く付き合っていく。 愛しいと思う。 共通の存在を心に抱いてきた、もう一人のことを。 1987年12月13日。 名前が語り継がれることは無い。 十年前の、あの奇跡のような演奏を聴いた百数十人のうち、どれだけの人間が覚えているだろう。 あの「神童」を。そして演奏を。 歴史に刻まれること無く、一人の音楽家は消えた。あの時あの空間にいた者は全て、たった瞬間だけでも、その音に対する感動で拍手を送ったはずだ。あの、ステージの上の少女に。 そう。やはりあの中の数人は、忘れないまま死んでいくのだろう。 神の音楽を魂に刻み込んだまま。生まれ変わっても、忘れないために。 そして三高祥子も、その音楽を聴いた。 どうしてピアノをやめたの? お父さんとお母さんが亡くなったことと関係してるの?(最後のコンクールと同じ日だった) 死神って何の事? どうしてわざわざ東京へ出てきたの?(死神から逃げる為?) どうして死んだの? 何故。 あの夏の日、遠く離れた、静かな霊園で。 病気? それとも───…。 …何があったの? 死神に追われていたというあなたは、誰? 結局、何も分かってない。 調べることも出来ないでしょう? 今となっては誰も、真実を知り得ないのだから。 ────あなたがもういないという、現実を外に置いて。 |
▲8. 7月最後の日曜日。月曜日の週間天気予報では曇りになっていたが、それは昨日修正されて、その修正通り雲一つ無い空が広がっていた。遅かった梅雨明けもどうにか越して、夏本番が近付こうとしている。 「日阪さん」 朝、祥子が慎也の部屋に顔を出した時、慎也は洗面台の前で歯ブラシをくわえていた。 「おー、三高。もーちょっと、上がって待ってて」 「はーい」 遠慮なく、と祥子は靴を脱いで上がらせてもらう。 (あれ?) 奥の部屋へ足を踏み入れると、以前来た時と違う違和感を感じた。その違和感の正体はすぐに分かった。 「…スクラップ、取っちゃったんですね」 壁一面をあれほど埋めていた新聞雑誌の切り抜きが、今はきれいにはがされている。よく見ると白い壁は画鋲によってあけられた穴の跡が数多く残っていて、その名残を感じさせた。洗面所のほうから慎也の声が返ってきた。 「ああ。一区切りできたし、もういいかなと思って。今はファイリングしてあるから、見たいとき見ていいよ」 本棚の片隅にそのファイルは挿し込まれていた。そのファイルの厚さが彼女の存在感そのものを表しているような気がして、それが慎也の部屋に置いてあることに、祥子は少し複雑になったりもする。 ま、仕方ないか。 納得してしまうのは、祥子自身にとっても彼女の存在が大きいことには変わりないからだ。 ふと見ると、壁に一枚だけ、ピンで留められた写真があることに気がついた。 祥子ははにかんだ。それは慎也と祥子が並んでいる写真で、ついこの間一緒に出かけた時に撮ってもらったものだった。 (……) まず一枚。そんなことを思う。 もっと増えていけばいいな。それは贅沢な願いだろうか。 「三高? そろそろ行くかー?」 「あ、うん」 そして二人は青い空の下を歩く。 今日は、佐城高1998年度卒業3年3組同窓会「7月会」に行く。 慎也も一緒に。そしてその後、G県K市、中村結歌の墓参もするのだ。 「結局、三高は何やりたいんだ?」 アルバイトを始めたのは、自分の将来を探すためだった。慎也のその質問に、祥子は回答に窮することはなかった。 「ちょっと考えたんだけど」 「お?」 「カウンセラーって、何か資格が必要なのかな」 先日、阿達史緒にも同じようなことを答えたところ、「その能力に適性は合っても、あなたの性格には合わないわね」と手厳しく言われた。 カウンセラーに必要なのは、相談者の気持ちを理解する能力ではなく、相談者が悩んでいることを相談者本人に気付かせる能力なのだと、史緒は説明していた。他人とのコミュニケーションが不足している祥子では無理だと、暗に言いたかったのだろう。 もう何年も前になるが、祥子は仕事で警察に連れて行かれ、犯罪者の自供を別室から見ていたことがある。勿論、嘘発見器として働く為だ。同じ部屋には史緒と、史緒と懇意にしている刑事がいた。祥子はすぐに気分が悪くなって部屋を飛び出して、吐いた。 それでも、そういう使い方が、祥子の能力を活かす方法としては最適なのかもしれない。でも。 「人のために役立てられたらって思うの」 この手に持っている能力の無力さに歯痒さを感じている自分がいた。何の役にも立たないことに絶望を感じたりもした。 でもそれを過去のものにするために。 「史緒は無理だって言ったけど、…やってみたいの、私」 力強い呟きをもらす祥子の横顔を見て、慎也は微笑んだ。 慎也の右手が、祥子の頭をぽんぽんと叩く。 「いいんじゃない? 史緒さんだってどうせ、三高を煽るためにそんなこと言ったんだろ」 「えっ! どうして分かるのっ?」 祥子でも(もしかしてそうなのかな)程度にしか分からないのに。 「あの人、あれで結構三高のこと気に入ってるよな。顔に出ないからわかりにくいけど」 「……」 慎也に言われると無下に否定できないので、祥子は複雑な表情で黙り込んでしまうしかなかった。 でも、そう。史緒との関係にしても、それから自分自身のことも。 3年も前に比べると、何もかもが変化してきている。 4年前まで、ずっと独りだった。 中村結歌と会って、自分の無力さを知った。 阿達史緒。本人の前では言わないが、理解者の一人であることは確かだ。 そして日阪慎也。受け入れてくれた人。 …きっと、想像もしなかったような未来が広がっている。 もし、震える足で孤独を抱えていた過去の自分がどこかにいるなら、会えるなら、…いや会わなくても。 エールを送る。 がんばって、ここまで生きてきて。あなたを迎えてくれる人が、ここには沢山いるから。 この青い空に誓って。 |
▲EPILOGUE その少女が、十七歳の夏───最期の瞬間に祈ったこと。誰も知らない。 たった一人、あの孤独な友人に。 仲間や恋人、…理解者が現われて欲しいと、祈った。 切実に。 近い未来、あなたと出会う誰かへ。 願いが届いて欲しい、と。 最期に祈ったこと。 誰も知らない。 |
12話「wam後編」 END |
11話/12話/13話 |