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13話「爆弾と私」


 一生のうち、死にかけるなんて、よくあるもんじゃない。
 私、久野鈴子が人生で4度目に死にかけたのは、19歳のときで、山手線の電車の中だった。
 て、ゆーと、皆、大抵笑うんだよね。これが。

 でもそれは本当のこと。
 大学からの帰り。友達と銀座寄っていこって、私たちは電車に乗っていた。昼下がりで、電車の中は朝みたいな殺人的混雑には至ってなかったけど、特別空いてたってわけでもなく、私たちは手摺りに掴まって立っていて、いつも通り下らない会話をしていたんだ。
 一緒にいた友達は中嶋絵里。こいつは大学に入ってからの友達。嫌な子じゃないんだけどね、カワイイし、素直だし、頭もイイよ。でもどこかポワ〜としていて、鈍いところがある。短気でサクサク行動しないと気が済まない私は、時々、絵里のトロさに、苛立つことがある。たまにね。
 そんな彼女と、混んでも空いててもいない電車の中での、ことだった。
(まずいなー)
 って、嫌な予感がした。
 少しずつ、段々と、鼓動が早くなってくるのを、私は感じていた。
(まさか来たか、4度目の発作が)
 と、考えていた時でさえ、それが本当になるなんて、私は思ってなかった。
 決定的だったのは、秋葉原の駅での、発車音。いつも通り、何でもない音楽なんだけど、それは私の心臓が抱える爆弾に火を点けたんだ。
 どくん、どくん、どくん、どくん。
 心臓がどんどん鼓動を早めていく。早めていく、際限ない程に。不安も広がっていく。
(どうしよう)
「……っ」
 私は苦しくなって、その場に崩れた。
 突然座り込んだ私に、周囲の視線はそれは不審げだったよ。
「くの? 大丈夫? 貧血?」
 絵里はびっくりした様子で、私の隣に座り込んで様子を訊いてくる。でも私は声も出せない。
 違うの、いつもの脳貧血じゃないよ。
 こういう時、咄嗟に動ける他人って、あんまり見たことない。遠巻きに見ているか、心配そうな表情を投げてくるだけ。大抵の場合、これは何の役にも立たない。
 大体、心配そうな表情してる奴なんて、こっちが「大丈夫です、何でもありません」って言うのを待ってるだけなんだ。体面的に、人情的に、心配そうにしているだけなんだ。
 絵里もそう。オロオロするだけで、解決する方向へ持っていこうとしない。
 どくん、どくん、どくん。
 鼓動が早くなってる。胸が熱くなる。
(これはヤバい…っ!)
 私はふと父を思い出した。
 父は狭心症だった。だからいつもニトログリセリンを持ち歩いていた。いや、そうしなければならなかったのに持ち歩かず、数年前に外で発作を起こし救急車で運ばれたときには「あと5分遅ければ死んでいた」と言われた。九死に一生を得た父は、翌朝、減量にも試合にも失敗したボクサーのように、全身を弛緩させてベッドに伸びていた。力のかぎり握り締めていたという両方のてのひらには、爪痕がくっきりと残っていた。
 幸い、父の狭心症が私に遺伝したって事は無かったんだけど、私は別の爆弾を心臓に抱えていたのだ。
 人生4度目の発作。最悪にも電車の中でやって来るとは。
 父のてのひらとは違い、私の両手にはまるで力が入らない。足にも力が入らない。
 心臓はもはや、両方の耳と口から三つに分かれて飛び出しそうなくらい、ガンガンと鳴り響いている。
 私は思った。
(今度こそ死ぬかも…)
 そんな私の胸中なんて知るはずもなく、
「くの〜」
 友人の泣きそうな声。
(だから、その呼び方やめろって! 苦悩って聞こえんのよっ)
 3度目の発作は3年前だ。出会って1年しか経たないこの友人に事情が分かるはずない。結構親しくしているはずなのに、発作のことを話しもしなかった。私は今それを、激しく後悔していた。
「おいっ! そこの会社員っ」
 絵里とは別の高い声がすぐ近くで叫んだ。
「車掌に言って、次の駅に救急車を回させろ、3番車両、急げっ」
 どうやら私を助けるために誰かが指示を出したらしい。とてもありがたい。
「えっ…はっ、はいっ!」
 突然指名された会社員(と、思われる)は、一瞬、立ち尽くしたようだが、すぐに行動に移ってくれたようだ。
 さらに高い声が続けた。
「そこ席を空けてくれっ、この女を横にさせるんだっ」
(この女ってなんだ、おい、こら)
 私が心の中でそんな抗議をしているうちに、近くにいた数人が、私を椅子の上に寝かせてくれた。
「おまえっ、この女の友達か?」
 今度はどうやら絵里に話し掛けたらしい。
「う…うん」
 動転しているのか、絵里の声は震えていた。
「持病のこととか、聞いてないか?」
「わ、わかんない。病気なんて知らないよ」
 あたりまえだ。私は絵里に話したことはない。
「こいつの荷物の中から身分証明書と、薬と、病気の申告カードを探してくれ」
 少女は言った。
 身分証明書と薬はポーチに入ってる。でも申告カードなんて持ち歩いてないなぁ。
 絵里は私のバッグの中をかき回しているようだった。
「おい、大丈夫か。意識はあるかっ」
 そしてさっきと同じ、高い声が私の顔を覗き込んできた。
 私は両目の焦点を合わせるのにすごく苦労した。心臓が今にも爆発しそうで、目さえうまく使うことができなかった。でもどうにか上から見下ろす顔を見る、と。
「…」
 その時、私、すっごく驚いた。
(子供っ?)って。
 だってさっきからテキパキと場を仕切ってる人がだよ? 今、私の顔を覗き込んでいるのは間違いなくその人で、…小学生の女の子なんだ!
 褐色かかった髪で服装は普通だけど(小学生のファッションなんて知らないけど)、利発そうな表情だけど、どう見ても小学生。
 心臓が爆発しそうな私が、さらにびっくりしちゃった。
 そしてその少女は、私の頚動脈に指を当てた。まさか脈を診てるわけ?
 小学生にそんなことできんの? まあ、そんなことも思ったけど、問題は別の所にもあった。
 少女は時計を見ながら数を数えているようだけど、
(無理だよー、心拍数150は超えてる)
 これは私の経験によるもの。
 普通、病院では140以上になると機械で測るのだそうだ。
 だけど、少女は手慣れた様子で言ったんだ。
「…160…、いや200近いか。触診じゃ計れないな」
(何で、分かるの?)
 驚いている私をよそに(最も、息も絶え絶えの私が驚いてても誰も分からないだろうけど)、少女は私に向かって大声を出した。
「狭心症か? 過呼吸症か?」
 大声を出したのは、私の意識を確認するためだろう。
(声が出ないんだよ! もうっ!)
 でも私は悟った。今はこの子に頼るしかないんだ。
「あ、薬があった!」
 と絵里が叫んだ。ポーチの奥深くに突っ込んであった錠剤を見つけたらしい。
「貸せっ」
 少女は絵里から薬を引ったくった。
「……ワソラン?」
 普通、錠剤のパッケージに薬の名前は表示されてない。(何で分かるの!?)しつこいようだけど、私は心の中で叫んだ。
 そんな私をよそに、少女はワソラン、ワソラン…と薬の名前を繰り返し呟いてから、何か閃いたようで、少女は叫んだ。
「おまえ、WPWかっ?」
「!」
 びしっと病名を言い当てられて、私は目を見開いた。心臓の爆音は少しも静まらないけど、この時ばかりは少しだけ遠ざかった気がした。力を振り絞ってどうにか頷くことができた。
 WPW症候群(ウォルフ・パーキンソン・ホワイト・シンドローム)は、何の前触れもなく、ある瞬間から突然心拍数が上がる病気だ。一般に一分間に140から160の心拍数になると頻脈発作と呼ぶ。それが私の場合は、発作を起こすと簡単に200を越えてしまうのだ。(健常者の平均は60から70)心拍数が急上昇すると心臓が止まってしまうこともあるらしいけど、過去3回の発作では幸い止まることはなかった。この病気の患者の中には、心拍数が140で意識不明となり、そのまま心不全で亡くなる人もいるらしい。
 少女は私の口の中に薬をポイッと突っ込んで、鼻をつまんで、乱暴に無理矢理飲み下させた。
「……っ」
(ちょっとちょっと〜、もーちょっと労ってよーっ)
「水が無いんだ、唾液で飲み込め」
 しれっと少女は腕時計に目を落としている。何なの一体!
 そうよ、だいたい、この子何者? まず生意気だしっ! 外見は小学生にしか見えないのに、やたらと手際が良いし。心拍数150以上を人間が計れるか? 何で薬の名前が分かるのよ? 何でこんなマイナーな病名知ってんの?
 どーして?
「車掌に連絡した、すぐ救急車が来るそうだ」
 先程、この少女に顎で使われてた会社員が帰ってきた。少女は軽く頷いて返した。
「ねぇ。薬飲んだんだから、もう大丈夫なんでしょ?」
 絵里が弱々しい声で尋ねた。
「この薬は即効性じゃないんだ。どちらにしろ病院に行くまで安心できない」
「そんな〜」
 少女は私の頚動脈に指を当てて、一度、舌打ちした。これは私にも分かった。速くなっているのだ。
 鼓動が。
「おい、まだ頷ける余裕があるか?」
 はっきりと、区切って言う。私に向けた言葉だと理解するくらいはまだできた。
 私はこの少女に余裕を見せびらかしたかったので、ニヤっと笑ってみせた。少女も私の表情を見て、不敵な笑みを返す。
「上等。最後に発作があったのは何年前だ? 1年前?」
 これは誰でもそうだと思うけど、首を横に振るのは縦に振るより何倍もの力が必要になる。私は「違う」と言いたかったけど、首を動かすことができなかった。
 少女もそれを分かっているようで、すぐに次の言葉を発する。
「2年前……3年前、3年前か? いつもだいたいその周期で起こるのか?」
「……っ」
 心臓の音で少女の声も聞こえなくなりそうだった。私は必死で頷いた。
 それと同じ要領で今回が何度目の発作なのかを伝えた。そして丁度その時だった。
「駅に着いたぞ!」
 誰かが叫んだ。電車が止まる感覚があって、ぷしゅーとドアが開く。
「救急車が来てる!」
「よしっ。2、3人手伝えっ。ホームに運び出すんだっ」
 少女の一声で、すぐに数人の男の人が集まってきてくれた。
 この少女の声には、人を動かすちからがある。
 サラリーマンや学生さん、年配の人までが協力してくれていた。視界の端では動転している絵里を励ましてくれている主婦がいた。それから、救急隊員を誘導している人、私に声をかけてくれている人(残念なことに鼓動が煩くてよく聞こえない)。
 ああ、なんか。
 ありがとう、って、言いたい。
 声が出ないのが悔しい。
 見知らぬ人達の優しさが、身に染みた。
「患者はこちらですかっ?」
 救急隊員が誰にともなく叫ぶ。即座に少女は事情を説明した。
「WPW症候群だ。心拍数200近い状態が7分以上続いてる。2分前にワソランを1錠飲ませた。3年周期で今回が4度目の発作らしい。患者に意識はある。呼びかけを理解できる程度で、喋れる状況ではない。身元はこれだ」
 私の運転免許証を差し出した少女の適切な回答に救急隊員は面食らっていたが、伝えた通りのことを無線で本部に連絡した。
「君は一体…」
「関係ないだろ。…おい、おまえこいつの友達なんだろ。一緒に行け」
 少女は絵里に向かって叫んだ。絵里はどうにか平静を取り戻したものの、心細いのか不安そうな声を返した。
「え…来てくれないの?」
「もう大丈夫だろ。心拍数140で意識不明になる奴もいるのに、そいつは200近くても笑ってた。元が頑丈なんだ」
(余計なお世話だー)と、私は言いたかった。さらに少女は続ける。
「おまえは病院についたら後は医者に任せて、そいつの家族に連絡してやれ」
「う、うん」
 絵里は頷いて、私と一緒に救急車に乗り込む。
 あ、待ってよ。このままあの子とはオサラバ? これで終わり?
 その私の思いが届いたわけじゃないだろうけど、少女は最後に救急車の中に顔を覗かせて、言った。
「このまま死ぬには惜しい根性だぞ」
 …誉め言葉と受け取っていいんだろうか。
 私の顔にはすでに呼吸器が当てられていたけど、分かってくれただろうか。私は、笑うことができた。
 あのまま放っておかれたら、きっと私は死んでた。4度目の発作で、花の19歳という若さで死んでた。あの少女が同じ車両に乗ってなかったら…。
 ありがとう、って言いたかったんだけど。声にできない。
 きっとここでこの少女と別れたら、もう会うことはないかもしれないのに。
「あのっ、ありがとう」
 絵里が、少女に向かって言った。
「───」
 言ってくれた。
 私は命の恩人の少女と、それから絵里に、ありがとうって心の中で叫んだ。

 これが、私が人生の中で4度目に死にかけた時の話。







「ただいま」
 島田三佳(10歳)はA.CO.の事務所のドアをくぐった。
「やぁ、お帰り」
 中央の応接ソファには七瀬司(18歳)が腰を下ろしていた。来ているとは思わなかったので、三佳は駆け寄り、司の隣に座った。特に理由はない。司の隣にいると、何となく落ち着くのだ。
「遅かったわね。何かあったの?」
 阿達史緒(17歳)が尋ねる。
 今日は秋葉原にある峰倉という馴染みの薬品卸売店に顔を出していた。そこからだと帰るのに1時間もかからない。けれども三佳は帰るコールを入れてからここに着くまで2時間半もかかってしまった。
「電車の中に忘れ物して、回収するのに手間取ってたんだ」
「忘れ物? 三佳にしては珍しいわね」
「私だって忘れ物くらいするさ。…同じ車両に乗ってた会社員が次の駅に預けておいてくれたんだが、荷物の中身が薬品だった為に不審に思われて、簡単に返してもらえず、わざわざ峰倉さんに連絡して身元証明してもらって、やっと解放されたんだ」
「それは…災難だったね」
 隣で司がクスクスと笑う。
 三佳は溜め息をついてそれを肯定しようとしたが、やめた。
 確かに、今日は色々な出来事と遭遇したけれど。
「…そうでもないさ」
 三佳が複雑な表情で笑ったのを、もしかしたら司は声だけで気付いたかもしれない。
「三佳?」
「月曜館、行かないか? 久しぶりに大声だしたら喉がガラガラ。紅茶飲みたい」
 月曜館とはすぐ近くにある喫茶店のことだ。三佳たちは既に常連になっていた。
「大声って、…そんなに駅員と揉めてたの?」
 史緒が尋ねた。まあ、そんなところ、と三佳は答える。司が立ち上がり、三佳もそれに続く。
「史緒は? 一緒に行く?」
「私は留守番。事務所を空にするわけにはいかないわ」
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 そして史緒は仕事に戻り、三佳と司は月曜館へと向かった。





13話「爆弾と私」  END
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参考:薬のウラがわかる本/栗藤 豊之