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34話「傷」 |
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彼女に怒鳴られたのは後にも先にもあの時しかなくて、 「もういらない、早く出ていって! 顔を見せないで、二度と来ないで!」 でもその後も普通に顔を合わせているのはある意味幸運なのだと、最近になって自覚した。 人間の成長過程を見届けるのはとても興味深い。笑顔を見ると、つい自分も微笑んでしまう。それに気づくと咄嗟に口元を隠す、少しの気恥ずかしさ。それが意外と心地良いから。 ▲Prologue 7月の終わり。 季節は四季のうちどれでもない梅雨。 上空へ生えるビルの間、空からはかろうじて雨は落ちてきていない。しかし濁った沼色の空と、アスファルトに映らない影が、通りを歩く人間にある予感をさせた。人々はその予感に従い、足を速めたり傘を携帯したりした。 時間は昼の12時を回った。高層ビルが建ち並ぶオフィス街のとある雑居ビル、その一階のレストランには、いつ落ちてくるか分からない雨をできるだけ避けようと、近隣のビルから集まった会社員で満席になっていた。その中にはアダチの社員証バッヂを胸に付けた人間も多く見られる。 このレストランの正面のビルは「アダチ」本社だった。 レストランの一角に、アダチの総帥・阿達政徳の第2秘書である人物がいた。そのことにランチ中のアダチ社員たちは珍しがった。さらにその秘書に同席している女性がいるとなっては噂にならないほうがおかしい。本人たちに気付かれないよう好奇の視線を送る。 しかし、その同席者が社長令嬢だとは誰一人知る者はなかった。 「この間は、どうもありがとう。蔵波さんについて調べてもらって」 ランチの後のコーヒーを飲む前に、阿達の一人娘・阿達史緒が目の前の人物に言った。 彼女はアダチの社員ではない。周囲が制服やスーツを着た社会人ばかりのこの場所でも、18歳という若さの彼女が違和感なく馴染んでいるのはその落ち着いた仕草のせいだろう。 「どういたしまして。あのくらいでしたらいつでも」 阿達の第2秘書・一条和成。仕事では見せない柔らかい笑顔───を、見せたことに店内のあちこちがどよめいたのだが和成と史緒は気付くことがなかった。 家を出た史緒は定期的にアダチ本社へ呼びつけられている。そのおかげで家を出る前より父親と顔を合わせる回数が増えた。最悪だ、と史緒は思っている。しかしそれが家を出る条件だったのだから仕方がない。 そして父親に会うということは一緒にいる一条和成とも会うということだ。昔の自分をよく知っているということもあり、史緒にとってあまり対面したい人物ではなかった。 「その蔵波周平ですが、先週、異動になりました」 「───」 それを聞いて史緒は右手のカップもそのままに10秒間沈黙した。 その後、結局カップには口を付けずテーブルに戻し、一瞬眉をひそめた。 「───…、司ね?」 「ご明察」 「一条さんにそんな末端の人事に口出しできる権限があるの?」 「まさか」軽く肩を竦める。「ですから、司さんには社長に直談判していただきました。直接は伺っていませんが、結果を見ればその要望が通ったことは明らかですね」 「…」 (司が蔵波を異動させた?) その、本来なら大声を出して驚くべきことを聞かされても、史緒はそれをしない自分を当然のように受け止めていた。 少し前になるが、その蔵波周平が起こしたちょっとした事件があった。史緒の同居人である島田三佳が蔵波に誘拐された。表面的には冷静を装っていた司だがその内心は推して知るべし、こうなることは分かっていた。 (それにしても) どうして司は和成ではなく自分を通さなかったのだろう、(一条さんのほうが頼りになるってこと?)と史緒は少し不満だ。しかしすぐに(…そうか)司の意図は見えた。 司に頼まれれば史緒は父親への仲介を引き受けるだろうけど、本来なら父親を頼るのは彼女の本意では無い。だから司は阿達政徳への仲介に和成を選んだのだ。 だからと言って、何も知らせずにいられては史緒だって面白くない。 「それから」和成は続けた。「異動になる直前の3日間、蔵波は入院の為、有休を取ってます」 「!」 今度は史緒も眼を見開いた。 日付を問いただすと、三佳の誘拐事件とちょうど繋がった。とすると入院の原因は…。 (やりすぎるなって言ったのに!) 司と三佳の証言はともかく、篤志の「適度な報復で済んだ」という報告を鵜呑みにしていたのは良くなかったかもしれない。 (それを入院って…) 下手すればこっちが危うい立場に陥る。どうやって蔵波の口を塞がせたのかは知らないが、やはり司は大人しくはしていなかったということだ。 「……はぁ」 史緒はうなだれて深々と溜息を吐いた。 「司さん、何かあったんですか?」 「まぁ、…ちょっと」 司に協力してくれた和成には悪いが、身内の狼藉をむざむざ晒すことは無い。史緒は適当に言葉を濁した。和成はそれ以上追求しなかった。 「僕がアダチに入社したこと、少しは良かったと思ったでしょ?」 その代わり、唐突に和成はそんなことを訊いた。 「…どういう意味?」 「“嫌いな父親”の会社に僕が入ったこと、昔から怒ってたようだから。…有益な情報を提供したわけですし、少しは感謝してくれてもいいのでは?」 「借りができたわ」 苦々しく史緒が呟く。 「史緒さんに貸し付けるのはちょっといい気分ですが、丁度、返していただける機会がありますよ───つまり頼みたいことがあるんですが。お願いできますか」 「どうぞ。私にできることなら」 「本当は僕が新居社長から頼まれたんですけど、史緒さんに代わりにお願いしようと思って」 思いもよらなかった人物の名前が出て史緒は眉をひそめた。 「…新居さん? …え? 連絡取ってるの?」 「時々は」和成は涼しい顔で答える。 「仕事で?」「まさか」 その答えは予想できていた。 新居の会社はアダチと直接取引するような企業ではない。確かに、新居の会社は海洋船舶系の技術部門を抱える中小企業で、貿易会社を持つアダチの職種と関連が無くもない。しかしあまりにも規模が違いすぎる。 もしかしたら下請けの下請け、つまり孫会社レベルでの繋がりはあるかもしれない。けれどそもそも父親が新居の会社を使うとは史緒は考えられなかった。 (父さんも新居さんも、公私混合を嫌がる質だし) 「史緒さんと新居社長の関係を三高さんに説明してください」 ぱちり、と史緒は眼を見開いた。 「───…祥子?」 「ええ」 「…ちょっと待って、どういうこと?」 「3月に三高さんが辞めるかどうかで揉めたことあったでしょう? その時に新居社長が後で教えると約束したそうですよ。新居社長と史緒さんの関係を」 「…っ、そういえば! 一条さん、祥子に何か言ったの?」 「あれ、三高さんから何か聞きました?」 「か…、───」 勢いでそのまま答えそうになるが、史緒は思いとどまった。興味津々な和成から顔を逸らす。その逸らした顔は少しばかり赤くなっていた。 和成の言う通り前の3月、三高祥子と一揉めあり、それが一段落したときに、 「かずくんがよろしく、だって」 祥子はそう言って笑った。史緒は驚いて言葉を失った。 かずくん、というのは一条和成のことだ。それは分かる。彼がよろしくと言ったというのなら、祥子は史緒の知らない所で和成に会ったのだろう。でも史緒はそれに驚いたわけじゃない。 問題は祥子がどうやってその呼称を知ったかということだ。 (“和くん”って…) 思い返すと赤面してしまう。史緒はかつて和成のことをそう呼んでいた。それを知っているのは仲間内では七瀬司だけ。けれど、司はめったなことでは昔の話を口にしない。 ということは、和成が祥子に喋ったとしか考えられなかった。 「大したことは話してませんよ」 「…信じていいんでしょうね」 「それに対する僕の答えを、史緒さんが信じられるなら」 睨みつけてくる史緒に和成は笑顔で答えた。 「詭弁…というより、それじゃあ責任転嫁よ」 「それなら…」 ぷるるるる。ぷるるるる。 和成の携帯電話が鳴り、和成の台詞は中断された。 胸ポケットから携帯電話を取り出すと、液晶の表示をちらりと確認する。急に真顔に戻ったので、それが仕事関連の電話だと史緒は察した。 「ちょっと失礼」和成は椅子から立ち上がる。 「ごゆっくり」 店内での会話はマナー違反。それ以前に、仕事関連の電話をこんな場所で受けられるはずない。和成は史緒を置いて店の入り口のほうへ向かった。 一人残された史緒はその後ろ姿を見送って、「ふぅ」と息を吐く。 (こんなにくだけて一条さんと喋ったのは久しぶりかも) ───“嫌いな父親”の会社に僕が入ったこと、昔から怒ってたようだから (…確かに) 昔、和成と喧嘩別れした経緯にはそんな理由もあったと史緒は思う。 (裏切られたような気がしたのよね) 和成が離れていくことが。 (…子供だったなぁ) 赤面して少しの笑いを漏らしてしまうような過去だ。 そんな風に昔のイタい過去を山ほど知る和成と対面するのはできれば避けたい。でも。 (たまにはいいかな) 窓の外を見ると相変わらずの曇り空。降り始める前に帰りたかったけど、どうやっても無理なように感じられる雨の気配。湿度の高い電車に揺られる覚悟はしなければならないだろう。 「あの、ちょっとごめんなさい」 頭上から高い声がかかった。 「はい?」 史緒が反射的に振り返ると、そこにはアダチの社員証をつけた女性が不安そうな面持ちで立っていた * * * 和成は店のエントランス横にある公衆電話のコーナーで携帯電話での通話を終え、胸ポケットに電話を滑り込ませた。 相手は一応上司というべき人物、アダチ社長の第一秘書・梶正樹。内容は午後の会議用資料の確認だった。和成はそれにそつなく答え、ついでに帰社予定時刻と現在地を伝えた。 秘書課は業務部にして業務部にあらず。和成が配属されている秘書課はそう言われるくらい特殊な部署で、それ故に所属する11人全員が本社の社員ほぼ全員に名前と顔を覚えられていた。総会の役員より実質的に社長に近い場所にいる。下手な噂話など聞かれたら自分の立場が危うい。暗黙のうちに社内に伝わる「顔を覚えなければならない要人ランキング」上位に全員が名を連ねていた。 もうひとつ特殊な点として、秘書課には課長という役職は無い。強いて言うなら第一秘書である梶が課長にあたるのだろうが、課内ではもっぱら「さん」付けで呼称する。そして「社長秘書」という呼称はこの梶を差す。「第2」が付加されると和成のことになる。 (顔が割れすぎてるのも問題あるな) と、最近よく実感する。 この役職に惹かれてか、別部署の女性社員にアプローチされることが実はよくあった。エレベーターホールで話しかけられたり、わざとらしく偶然を装ったり、あからさまに誘ってきたり。実際、交際を申し込んできた女性社員は3人いた。 はっきり言うと邪魔なのだが、彼女らにしてみればこの役職は恰好のブランドなのだろう。 大抵は、和成に脈無しと判ると離れていくのだが、ひとり、しつこく粘ってくる女性社員に最近和成は悩まされていた。 しつこい、と言うと言葉は悪いが、天然というか未熟というか、あまり空気を読まないタイプの女性。 ───その女性社員が昼食にこの店をよく利用することを、和成は調べていた。 その問題の女性社員が史緒のテーブルから離れるのを見計らって、和成は席に戻った。 「お待たせしました」 史緒の向かいに座った途端、じとっと睨め付けられた。 「…一条さん」 「はい」 さらりと笑って返事をする。ごまかすつもりはないが、自ら白状する必要はない。 史緒の表情が一瞬ぴくりと歪んだ後、にこりと笑った。 「もしかして、厄介払いに私のこと利用しました?」 その笑顔は演技だが、怒っていることが伝わってくる凄みのある表情だった。 「すみません」 和成はすぐに折れる。 はぁ、と史緒は溜息を吐いた。 「…おかしいと思った。食事に誘っておいて社員御用達の店でランチなんて、あなたらしくないもの」 「実は僕もここで食事することは滅多にありません」 「ちょっと気分悪いわ。ここ、奢ってくださいね」 「今まで僕が史緒さんに払わせたことありましたっけ」 「ないけど」 史緒が立ち上がるのを見て、和成もそれに倣う。 「駅まで送ります」 「すぐ近くですから。それにさっきの電話、梶さんに呼び出されたんでしょう?」 「まだ昼休みです」 「秘書課に昼休みなんて無いくせに」 と、史緒は苦笑した。それでも和成の意図は分かっているらしく、 「背中の視線が気になる?」「少しは」「じゃあ、お願いします」 レシートは和成が持ち、その後ろを史緒が付いていく。史緒は和成に気付かれないよう、こちらを見ている先ほどの女性社員の方へ躊躇いがちに頭を下げた。 それもこれも「社員では無い社長秘書の連れ」という演技だ。 「一条さんとどういう関係なんですか、ですって」 2人、駅に向かう途中、史緒が言った。 「あぁ、…さっきの」 「そんな台詞、よく言えるわね」 悪意は無い。史緒は素直に感心している。和成は苦笑した。 「史緒さんは言いませんね」 「ええ、言わないわ。自分の優位性が崩れるもの」 (かわいくないなぁ…) 「で、何て答えたんです?」 苦々しく思いつつ、先を促す。和成にとってはその返答のほうが重要だ。 「“私の口からでは、はっきりと申し上げることができません”」 「はっきり言ってくれてよかったのに」 「どっちの意味ではっきり言うの?」 「…」 「でもその答え方で、一条さんの期待する勘違いをしてくれるでしょ」 「ありがとうございます」 恋愛の駆け引きができるなら史緒もずいぶん成長したもんだ、と一瞬感心したが、この娘がまともな恋愛をできるとはまだ思えない。史緒が言ったことはそのままビジネスにも転用できるし、多分、そっち方面の知識だろうな、と和成は考え直した。 「お礼に…三高さんへの伝言の件。嫌なら他のことでもいいですけど」 「そちらにさせてください」 あまりの即答に和成は苦笑する。 「そんな…別にいいじゃないですか、史緒さんのお爺様なんだし」 「私が事務所を構えた途端にビジネスだ、って無理難題吹っかけてきたのはあの人のほうよ? いまさら祥子に仕事以外の関係を教える義理無いわ」 「無理難題…って、単に孫の仕事振りを見ていたい爺馬鹿の言い訳に聞こえなくもない…」 「……否定しないけど」 照れた顔を隠すようにそっぽを向く。 その横顔と、史緒の感情を乱してしまうことを覚悟して和成は訊いた。 「どうして櫻を恨んでいたんですか?」 意外にも史緒は冷静さを崩さなかった。 「───次はそれ? 祥子への伝言の代わり?」 「ええ」 「忘れちゃった」 「史緒さん?」 「忘れました。…でも思い出そうとは思わない。私は復讐をして、思いを晴したわけだから。もう忘れたんです」 「復讐って…それの?」 和成は史緒の首筋を指さす。 史緒は一瞬目を丸くして、次にくすくすと笑い出した。 「やだ、私はこんなの気にしてないです。……って、一条さんには何度も言ってる気がするんですけど?」 「…そうですね」 「誘導尋問は効きませんよ?」そこでふと遠い目をする。「…本当に、忘れたんです」 (櫻が死んで───、…殺して) (私は傲慢な達成感を得た) (復讐を果たしたから。それは忘れるための正当な理由になる) (私はもう、櫻に怯えていた理由を覚えてない) ▲01.史緒 11年前─── 夜中、家中に響き渡る悲鳴に、一条和成はベッドの中で目を覚ました。 「……ぇ!?」 最初は大きな「音」としか認識しなかった。しかしそれが「声」だと判ると、和成はベッドから飛び起きた。 ドアを開けると、廊下は暗い。しんと静まりかえっている。先ほどの悲鳴の余韻は感じられない。 高い声だったように思う。声はこの家の中のものだ。 どうするべきかと迷った一瞬、和成の部屋のさらに奥の部屋のドアが開いた。 逆光のなかから12歳の少年が重たい足取りで顔を出す。 「───あんたの仕事は、まずコレをどうにかすることだよ」 「“これ”?」 「安眠妨害だ。…ったく」 そう言いながらも少年に寝ていた形跡はない。昼間と同じ服装で、片手に本を持っていた。読書用の眼鏡の奥から鋭い視線を向けている。 この家の長男、阿達櫻だ。 櫻も、さっきの悲鳴を聞いたのだろうか。 「今の…」 そう問いかけると、 「あいつ以外に誰かいンのか?」 そう言い捨てて、櫻はドアを閉めた。 * 一条和成が阿達家の長女の家庭教師兼世話役として雇われてから4日が過ぎた。 和成がここにくるまでの経緯は長くなるので割愛。就中切実だったのは、訳あって住んでいた場所を離れなければならなくなり、慌てて住み込みのアルバイト(しかも大学の近く)に飛びついたことが挙げられる。一方、このバイトを持ちかけてきた阿達咲子には恩があったので断われなかったという事情もある。というより、恩返しのチャンスに自ら飛びついたのだ。 子供の面倒を見るということが生易しいこととは思ってなかったが(女の子だっていうし)、実際会ってみると予想以上に手強い子供だと悟り目眩がした。 阿達史緒は7歳の女の子で、本来は義務教育が始まる年代のはずだが学校へは行っていない。何か事情があるのだろうか。会ってみて了解した。事情を聞くまでもなかった。 挨拶をしたとき。口端で笑うこともなく、視線を合わせようともしない。手持ちぶさたな指先が細かく震え続けていて、どこか不安げな表情をひくつかせていた。常に挙動不審で、すぐに自室へ引き篭もってしまった。 (この子はどこかおかしいのか) そう思えるほど血走った両眼が中空をさまよっていた。 兄の阿達櫻は13歳。彼は中学生とは思えないほど落ち着いていて、弁が立ち、大人びていた。アダチの後継者というから、それなりの教育を受けているせいもあるだろう。 2人を紹介してくれたのは真木敬子という通いの家政婦だ。「史緒さんも以前はああじゃなかったんですけど」と影ある笑いを落としていた。 「史緒!?」 ドアを叩く。返事が無いのでそのまま踏み込んだ。 「ひ…っ」 暗い部屋の奥から奇声が発せられた。シャッターも閉めているらしく外からの灯りも無い。暗闇の中から史緒の呼吸が聞こえた。和成まで息苦しくなりそうな嗚咽混じりの呼吸だった。 スイッチで照明を点ける。 「…っぁ…」 史緒はベッドの上で、枕を抱いて小さな体を壁に張り付かせていた。まるで溺れかけた後のように口を開けて必死で息をしていた。大きく見開いた両眼が和成を捉えた。 「夢でも見たの?」 近づくと、 「…き…ゃ!」 逃げるように史緒は壁伝いに部屋の隅へ転げた。頭を抱え、嘘みたいに震えていた。 (怯えてる…?) 和成からできるだけ逃げようと壁に体を押しつける。その様子が明らかに尋常ではなかったので、和成は駆け寄って史緒の腕を取った。 「…ひ」 「史緒?」 「やだ───ッ、はなして…はなしてぇ!」 爆発したように叫んで、手を振り払い、和成を近づけさせまいとする。 (何なんだ、この子) (子供ってこんなもんだっけか?) 「どうしたの? 大丈夫だよ?」 それでも史緒は逃げることを諦めなかった。手を掴まれたままでも顔を背け、腰が抜けたような足取りで部屋の隅へ向かう。 (あーもう面倒くさい) 「史緒っ」「!」 小さな体を強く抱きしめると史緒は和成の腕の中で暴れた。「…っ」 痛くないわけないけど所詮は子供の力だ。それでも押さえつけていると、危害は無いと判ったのか史緒は次第に大人しくなり、少し警戒しながらも和成の腕に体重を預けた。 こんな小さい子を抱っこしたのは久しぶりだった。 「ぅ───…」 和成の肩に顔を埋め、声を抑えて泣く。 「怖い夢だったの?」 そう尋ねると、史緒は頭を横に振る。 返る言葉は無かった。 やっと落ち着いた部屋を見回して和成は溜息を吐く。 (やれやれ…) (咲子さんも大変な仕事くれたもんだ) 安請け合いしたことは後悔しないけれど。 もう寝たのかと思うほど史緒が静かになったとき、小さな、掠れた声が聞こえた。 「……どうして…? 櫻…ッ」 (え───?) 語意を聞き返すことは、このときはできなかった。 ▲02.櫻 史緒が怯えているものの正体は何となく解ってきた。 史緒は部屋に閉じ篭もり廊下に出るのもためらう。外に連れ出すときは、玄関を出てしまえば楽なのだが、やはり廊下にでるまでが一苦労だった。 「何をそんなに怖がってるの?」 そう訊いても、史緒は固く目をつむり頭を横に振るだけだ。 史緒は何か恐いものがあり、そのせいで部屋に引き篭もっている。いつも緊張していて挙動不審で、絶え間なく神経を削っているように見えた。それを解消してあげられれば史緒も学校へ通うのだろうけど。 ある日のこと。 ドンッ、と廊下で史緒とぶつかった。 「…え? 史緒? ごめん、大丈夫?」 史緒が走っていたのでかなり勢いがあり、体格差でもちろん史緒がよろける。その身体を支えつつ史緒の顔を覗き込むと、 「───……っ」 何かに怯えた瞳と真っ直ぐ目が合った。「史緒?」 「…」 和成を見つめたまま訴えるように口を開く、それは声にならない。史緒はそれを伝えられないもどかしさに一瞬くやしそうな顔をして、それを諦めた。 「史緒っ!」 和成から離れて、2階へと駆けていった。 (史緒?) 遠くでドアが閉まる音を聞いた。 和成が視線を戻すと、そこに櫻がいた。 「───…」 「何か言いたそうだな」 見透かすような瞳に見上げられ、和成はたじろいだ。実際、櫻は他人を冷ややかに観察しながらも鋭い活眼がそこにはある。 「事情がわかんねぇから面白くねぇだろ?」 訊いたら答えてやるよ、という誘いが見えて和成は不愉快だったがそれは顔に出さなかった。 「史緒は、櫻を嫌ってるよね」 「あっはは、その台詞でおまえの程度が知れるよ。咲子の紹介っていうからもう少し手応えあるかと思ったけど、どうして低レベルだな」 薄笑いを浮かべ、史緒がいる2階へ軽蔑するような視線を送った。 「嫌うって感情は呆れるほど幼稚だよ。排他的で非生産、史緒はまさにそれだ。せめて憎しみから復讐くらいしてもらいたいな」 「復讐…?」 そこでまた、櫻は笑う。 「俺も史緒のこと“嫌い”なんだ。見るとムカつくから、できればそのまま引き篭もっててほしいよ」 「一体、何したんだ」 「人聞き悪りぃな。何もしてねーよ」 肩をすくめて喉の奥で笑った。 「あいつには、な」 ▲03.ネコ 梅雨時で、その日は雨が降っていた。 和成は大学からの帰り、駅から家へ、傘をさして歩いていた。 その途中。 雨で霞んでいて最初は分からなかった。 道端に座り込む小さな白い影があった。(なんだ…?)民家が途切れた道路の隅、道路に背を向けて座る人影。霞んだ景色のなかで雨宿りするでもなくただ膝を抱えてその場にいた。 その、なんとなく見覚えのある後ろ姿に和成の表情は大きくゆがむ。 (まさか) 「史緒…?」 呼びかけてもぴくりともしない。 長い黒髪は雨を滴らせてその下の服と肌を冷やしていた。和成は青くなる。「史緒!」 そこで初めて反応して振り返る。そこに佇んでいたのは史緒だった。急いで傘を向けた。 「…和くん?」 「滅多に家から出ないのに……傘もささないで何やってんだ!」 大声を出しても史緒は表情を変えない。 「…ねこ」 と、小さく呟いた。 「ねこ?」 史緒は視線を戻しただけでそれ以上喋らなかったので、和成もその視線を追う。 史緒が座る先に雨でしなびた段ボールがあり、(黒い……なんだコレ?)その段ボールの中に手のひら大の丸い黒い物体が入っていた。よく見るとそれは毛が生えている。さらに目を近づけるとそれは微かに動いた。 (…猫!?) 捨て猫だろう。段ボールの中には小さな黒い猫がいた。微かに動くものの鳴く声は無し。かなり弱っているようだ。 史緒はこの雨の中、ずっとここにいたのだろうか。 褒められたことではないが、その間、史緒が何を考えていたのかは興味深い。 (史緒をひっぱって帰るのは簡単だけど…納得しないだろうな) 一度溜め息を吐いてから、和成は上着を脱いで史緒の頭にかぶせた。その頭をぽんと叩くと史緒の隣に座り言った。 「この猫を見てたの? ここで」 「……うん」 「どうして?」 「───…ぇ?」 訊かれた意味が分からない、と史緒は視線を返す。和成は優しく笑った。 「どうして、見てたの?」 「……」 どうして猫を見てたのか。自分の行動の理由が分からなかったらしく、史緒はしばらく考え込む。 当然だ。人間はいつでも理由有りで行動しているとは限らない。 「……寒そうで」 自信無さそうに口にする。 「うん」 「…動けないみたいなの」 「うん」 「…元気に、ならないかなぁ…」語尾が震えた。「って…思って」 「うん」 「…でもなにもできなくて」 「うん」 「自分が、…馬鹿みたい」 「いきなり話が飛んだよ。どうして馬鹿みたい?」 いじわるとも思える和成の質問に史緒は口ごもる。 「…願っても、何もしない」 「どうして何もしないの? どうすれば猫が元気になるか分からない?」 「ちがう…っ」突然声を荒げて和成を見上げる。「毛布と食べ物を持ってきて満足すればいいの? その今だけの私の気まぐれに猫は喜ぶの? それとも私の我が侭で猫を連れて家へ帰ればいい? そうすれば、あったかいしごはんもあげられるわ、それはわかってるの! ───でも、櫻がいるもの!!」 「…」 和成は目の前の子供が───というより史緒が、ここまではっきりと自分の気持ちを理解しそれを言葉に表せる能力があることに驚いた。しかしそれよりも、 「…櫻?」 櫻が、なに? そう聞くより早く史緒は言葉を継いだ。 「お人形やぬいぐるみとは違う、もし壊されたら…連れて帰ったことを後悔する! ───それを考えると…動けないの」 捨て猫に対する同情。助けるためにどうすればいいかの思考力。連れて帰るとどうなるかの想像力。 (思ってたよりこの子は頭がいい) 和成は少し驚いた。 史緒がこんな風に意味のある言葉で雄弁なのは珍しい。怯えるか泣き叫ぶ声しか和成は聞いてない。 部屋に引き篭もり自分の世界に閉じ篭もっているような子でも、弱者への思いやりがあること、少し嬉しかった。 「史緒が守ればいいよ」 「…まもる?」 「離れたくないという気持ちを我慢すること無い。もちろん責任も伴うけど、一緒にいたいと思ったならそうすればいい。もし、相手を傷つけてしまうような環境にあるなら、守ってあげればいい」 「私が?」 「そう」 「できるかなぁ…」 「できないなら、猫はこのままにしておこう。自分で面倒見れないなら、拾ってきちゃだめだよ」 「……」 「ただこの猫は、ここにいたらあと1日も経たずに死ぬけど」 「───っ」 途端に史緒は表情を崩し息を飲んだ。 その反応を見て和成は少し驚く。この子はこの歳で死という概念を理解している。 「どうする?」 「…」 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」 「え?」 「何かを守るのは簡単じゃない。でも自分を守るときより、ずっと強くなれる」 ▲04.司 七瀬司もかなり問題ありそうな子供だった。 (まったく、おじさんは次から次へと無理難題ふっかけるんだから) 何も会社の問題までこっちに振ることないのに───まさかそれを口にできるはずもなく。 病院内で叫ぶ暴れるの問題児だと聞いていたのに、和成が迎えに行ったとき、司はベッドの上で大人しく佇んでいた。 「おとうさん、何したの…?」 司を連れ帰った日の夜、史緒が泣きそうな声で言った。隣部屋の住人になった司には聞こえない声で。 「おじさんは何もしてないよ」 「でも、おとうさんの会社でのことなんでしょ?」 「史緒」 「あの子、頭に包帯を巻いてた。ひどい怪我なの?」 「……怪我したのは頭じゃない、目だよ。見えなくなったらしい」 「ひどい…」 このときから史緒は父親の会社に嫌悪感を持つようになった。善くない傾向だ。宥めようとしたが、一度導き出した答えを覆させるのは容易ではない。 「史緒も櫻も好きじゃない」 と、司がこぼしたことがある。 櫻はともかく史緒は司をほとんど無視していたのでこれはとばっちりだろう。 櫻と司の間で何度か不穏なやりとりがあったようだ。しかし一月も経つ頃、司はここでの生活に、戸惑いながらも慣れてきた様子だった。 そして全く関係ないけど同じ頃、史緒は何故かよく居眠りをするようになった。 流石に自室の外でということはなかったが(櫻がいるので)、勉強中や食事中にまで、うとうとすることがあった。 そっと声をかけるとすぐにハッとして、何でもないと和成に笑いかける。 眠気を我慢できなかったのか、ベッドの上で横になっているときもあった。そのとき、史緒の傍らにはネコが、まるで史緒を守るかのように座っていた。その光景が少し微笑ましかった。 ベッドの端に座って、和成は史緒の頭を撫でる。起きる気配はない。その傍らのネコを撫でると、ネコはくすぐったそうに擦り寄ってきた。 (そういえば最近、夜中に叫ばなくなったな) 和成がここへ来た頃は恒例だった真夜中の史緒の悲鳴。ここ数日ぷつりと無くなっていた。 (前に比べれば笑うことも増えたし) (俺やネコがいることで安定してるなら、いい傾向かな) 史緒は微かな寝息を立てて昼寝をしていた。 ▲05.煙草 (恐いのはそのままでいいから) (この恐さが薄れなくてもいいから) (おねがい) (───その理由を早く忘れたいの) 史緒の足はその場に凍り付いた。 いつも、こう。 櫻を目の前にすると。 史緒はネコをぎゅっと抱きしめた。それだけでほんの少し安心することができた。 けど足が動かない。櫻を目の前にして史緒は立ちすくむ。手を伸ばせば届きそうな距離に櫻が立っている。自然、上から見下ろされて史緒は首を竦めた。 櫻は、開いた本のページを顎先に添えて、冷たい視線で史緒を見下ろしていた。その、見透かすような目を史緒はまともに見返すことができない。ネコを胸に抱き直し、うつむく。 櫻がそのまま過ぎ去ってくれることを願った。 しかしその願いも空しく、 「最近、夜中に馬鹿みたいな大声を聞かずに済んで清々してるけど」 「…」 「いつまで保つかな」 と、薄ら笑いを見せる。 (あぁ、見抜かれている) 史緒は固く目を閉じた。 もうそんなことに驚いたりしない。彼は本当に何もかもをよく視ているから。 無反応でいると、櫻は胸ポケットから煙草を取り出して慣れた手付きで火をつけた。 途端に煙の匂いが広がり史緒は顔を背けた。 「俺が邪魔なら俺を殺せば?」 「───」 弾かれたように、櫻に視線を戻す。 いつものように不敵に口端が笑っていた。でも目はいつもと違う。射るように史緒を睨む。 「できないならおまえが死ね」 (…) 一瞬。 それが真実であるような錯覚に陥る。 「何か言えよ」 「…」 「意地でも喋らないつもりか」 その声に少し怒気が含まれたかと思うと、 音もなく櫻の手が伸びた。 「!」 史緒は身構えた。何よりもネコをかばった。櫻の意図がわからなかった。煙草を持つ指が近づく。手が肩に触れた。逃げられない。 ジュッ 乾いた音がした。 耳元で。 音を聞いた。 ざわっと内臓が総毛立つ。 一瞬で身体から温度が消えた。 「───ッ!!」 史緒の腕からネコが降りた。すとん、と軽い音をたてた。 「…っ、ぁ…!」 有機物が焼けたときの独特な異臭。その匂いに、史緒の身体はよろけた。 平衡感覚を保てず、壁に背を打った。(寒い───) そしてまた、櫻の手が近づいたときはもう遅かった。 もう一度、櫻は史緒の首筋に煙草を押し付けた。 「…ぃ」 唇を噛み締める。(痛い)と、やっと痛みを感じた。 剣山で刺すような痛みに、体中が冷たくなった。体中から熱が奪われたよう。 「へぇ。これでも声を出さないとはご立派」 (………っ) 意識が遠のきかける。足の力が無くなり、史緒は床に崩れ落ちた。 遠くで和成の悲鳴を聞いた。足音が近づく。(───大声ださないで!)声にはできなかった。 「史緒っ」 和成が駆け寄り、史緒を抱き起こす。その首の跡をみとめると、 「なんてことするんだっ」 と叫んだ。 「別に。口が利けないのか確認しただけさ」 「櫻っ!」 と、もう一度叫びかけたとき、 「きゃあ、史緒さん!」 遅れてマキが廊下に飛び出してきた。 白けたのか櫻はつまらなそうに肩を竦めて息を吐く。 「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」 「なにを…」和成が言いかけると、櫻は屈んで史緒の顔を覗き込んだ。 ひっ、と史緒は床の上で身を丸くした。 「今、ここにいる3人の中で、おまえの心情を理解しているのは俺だけだ。…やっかいなものだな」 語尾は笑いを含んでいた。調子に乗ったのか、櫻はさらに続けた。 「ついでだから教えておくけど、蓮家の末娘がよく顔を出すのはおまえの為じゃない。俺と同じ、目的の為におまえを利用しているだけだ。───…そうだな、そういう意味でおまえに死なれちゃ困るよ。前言撤回しよう」 櫻は立ち上がり、史緒を一瞥した後、 「死にはしねーよ、放っとけ」 そう和成に言うと、櫻はいつもの歩調で自室へ戻って行った。 和成は一瞬、櫻を追って彼を殴りそうな怒気に襲われたが、寸でのところで我に返る。今はそれどころではない。 震える声でマキが言った。 「あの…救急車を呼びます」 「やめて!」 鋭く放たれたのは史緒の声だ。 「…史緒?」 首を激しく横に振る。 「いらない」 「え?」 「静かにして」 * * * その後、史緒は熱を出して数日間寝込んだ。 結局、史緒が最後まで拒んだので病院へは行かず、首の火傷は濡らしたタオルで冷やし続けるという古典療法しかできなかった。 首筋には痛々しい丸い火傷がある。 (痕が残るな…) (女の子なのに、こんな怪我させるなんて) 櫻への苛立ち、それから史緒を助けられなかった後悔があった。 和成は今度ばかりはこの2人の兄妹について阿達政徳と咲子に一言言わせてもらおうと心に決めていた。 「…和くん?」 いつの間に目が覚めたのか、ベッドの中から史緒の声がした。 「ん?」 「蓮家のおじ様にお願いできないかなぁ…」 「なにを?」 訊き返すと、史緒はふいと壁の方へ顔を向け、言った。 「七瀬くんのこと」 「え?」 「ここじゃかわいそう」 「───…」 和成は胸の圧迫に息を飲む。 全身が熱くなって、その熱は急速に足下へ落ちていった。そして足下だけが熱くなった。 逆に冷たくなった頭が痛くなる、そのまま気を失わせないように手のひらを額に当てた。 胸の圧迫は、深い自責の念。 わかってしまった。 ───色々なことが、いっぺんに。 「あまり騒がないほうがこいつの為だと思うけど」 櫻の言葉の意味も。 (いまさら…) 遅すぎる。 (史緒も櫻も、子供だと思って侮っていたのかもしれない) あのとき史緒が声をあげなかったのは、2階に七瀬司がいたからだ。 ただでさえ神経を磨り減らして神経質になっている彼を、これ以上、不安にさせないように。 不穏な音で怯えさせないように。 ───もうひとつ。 史緒が夜、悲鳴をあげなくなったのは司が来てからだ。よく居眠りをするようになったのも同じ頃。 恐らく夜はあまり寝ていないのだろう。夢に魘された自らの声で、司を起こしてしまわないように。独り、部屋の中で朝を待ったのだろう。 (俺という支えを得て感情が安定したんだろう───なんて、とんだ思い上がりだ!) 櫻は解っていた。 司に気を遣う史緒を嘲笑うように見ていた。 「これでも声をあげないなんて、ご立派」 試さずにはいられなかったような口ぶりに本気で吐き気を覚えた。 櫻の変質なところは、他人の痛みを想像できるのに、それを踏まえてなお他人を傷つけることができるところだ。 ▲06.咲子 阿達咲子はくったくなく声を上げて笑う人だった。 生まれつき病弱であったにも関わらず、いつも笑顔で、少女のような仕種、彼女の目でしか見つけられない素敵なことを毎日見つけてはそれを口にせずにはいられない、そんな性格だった。 阿達家の末子、史緒を産んですぐに療養施設に引き篭もった。というよりほとんど強制送還だと、咲子は苦笑する。 初めて史緒を連れて2人病室に訪れたとき、咲子は上体を起こした姿勢で、 「お久しぶりだね。史緒」 惜しみない笑顔を向ける。 「ずいぶん来てくれなかったでしょ? だから和くんに迎えに行ってもらったんだよ?」 「ちょっと、それ聞いてないですよ」和成が苦笑する。「素直にそう言ってくれればもっと早く連れてきたのに」 「無理に連れてきても意味ないもん。史緒があたしに会いたいと思ってくれなきゃ。ね?」 史緒はぎこちなく、でも本心から微笑んだ。 「ごぶさた、してました」 「うん。来てくれて嬉しいよ、ありがとう」 心から愛しそうに史緒の頭を撫でた。史緒は戸惑っていたがすぐにその手に身体を預けた。 「ネコも初めまして」咲子は史緒の腕の中にいるネコの手を取る。「史緒のお母さんです。よろしくね」 み? とネコが鳴く。 「…」 史緒は歯を見せて笑った。 * * * ある日、和成が咲子の病室を訪れたとき、入れ違いで櫻が出てきた。 学校の帰りらしく制服姿で学生鞄を持っていた。後ろ手で、がんっ、と乱暴に病室のドアを閉めた。そのまま蹴飛ばすんじゃないかと思うほどの勢いだった。 「…櫻?」 突進してくる櫻は呼びかけが聞こえたらしく視線を上げる。しかしすぐに逸らした。舌打ちが聞こえた。無視するつもりらしく、スピードを緩めずに和成の横を過ぎる。その横顔は酷く青かった。 「おい、具合悪いのか?」 「…っ」 息を吸う音が聞こえた。 櫻は足を止め振り返り、和成が持っていた花束を無造作に掴んで思い切り床に投げつけた。 花弁が舞い散り、2人の足下を花の色に染めた。 ダンッ、大きな音を立て、櫻は花を踏みにじった。そして、 「───…ぁの、狸が…ッ」 唾を吐くように言い捨てた。病室の中にいる咲子にも聞こえただろう。 「櫻…?」 その行為を諫めるべきだったが、和成はその後の櫻の声に驚いていた。抑えきれない屈辱と憤りを噛んだような声だった。多分、そんな風に声を漏らしてしまうこと自体、屈辱だったのだろう、櫻は踵を返し、駈けて行ってしまった。 和成は呆然として、その後ろ姿を見送った。 (狸…?) (誰が?) 「いらっしゃい、和くん」 咲子はいつも通りの笑顔で和成を迎えた。窓際のベッドで上体を起こし、お気に入りだという水色のカーディガンを肩に掛けていた。 「こんにちは、咲子さん」 「わ。どうしたの、お花」 ぐちゃぐちゃになった花束を指さす。 「そこで落としちゃって…。ごめん、せっかくおじさんからのお見舞いなのに」 「気にしないで」優しく笑った。「本当はもう、お花はいらないの」 いつものように咲子は手招きして和成に椅子を勧めた。 「政徳くんはあたしの一番欲しいものをくれた、だからもう何もいらないの」 「…一番欲しいもの、ってなに?」 「ふふふ」もうそれを手に入れていることの満足感からか、咲子は満面の笑みを浮かべた。 「子供達よ」 咲子が答えたものは、和成が想像したどれとも違うものだった。 「和くん」 「ん?」 咲子は顔を逸らして、小さく言った。 「…お花ごめんね、櫻のこと悪く思わないで」 「───」 (やっぱり聞こえてたのか)とぼけた振りして咲子も意外と腹黒い。 狸が。と、廊下で会った櫻は口にしていた。花を踏みにじるほどに感情を乱す櫻と、咲子の間にどんなやりとりがあったのか。 視線を戻した咲子の笑顔には隙が無く聞き返す余地を与えない強さがあった。 「和くんは大学を卒業したら政徳クンの会社に入るのよね」 何事もなかったかのように話題を転じる咲子、ふぅと溜息をついて和成は答える。 「試験をパスすればね」 「史緒は怒ると思うな。司くんの件で政徳クンのこと嫌ってるから」 「覚悟しておきますよ」 「ねぇ───和くん」 「はい」 「子供たちのこと…ううん、史緒のことお願いね」 わざわざ言い直した咲子の言葉に和成は首を傾げた。何となく面白かったので冷やかして返す。 「櫻はいいんですか?」 咲子は真顔で答えた。 「櫻のことも心配だけど、あの子は大丈夫」 「どうしてそう思うんです?」 「さっきね、なぞなぞを出したから」 「なぞなぞ?」 「うふふ、そうよ、なぞなぞ」 両手の指をあご先に合わせて咲子は無邪気に笑った。 「櫻はそのなぞなぞが『ある』か『ない』かで悩んでたの。頭の良い子だわ、薄々勘づいてたみたい。それってスリリングよね、そのなぞなぞが『ある』なら、その答えを探さなきゃいけない、反面、『ない』なら答えは探すだけ無駄なの。どんなことでも『ある』より『ない』を証明するほうがずっと難しい。答えを探し始めることが有用なのか無駄なのか、それを考えると動き出せないでいるのね」 だからね、と咲子は続ける。 「だからさっき、“あるよ”って教えてあげたの」 にっこりと幼い笑顔を和成に見せた。 「今までは『ある』か『ない』かで悩んでたことが、そのなぞなぞを『解く』に変わったのね。これから大変だわ、あの子」 無邪気に笑う咲子に、和成は呆れたような吐息を返した。 「……意味不明なんだけど」 注意深く耳を傾けていたが咲子の独白の意味を理解することはできなかった。 「ごめん。───でもね、櫻はその答えをどうしても知りたいの。それを見つけるまで、迷ったり不安になるだろうけど、苦しくても、でもあの子はきっと諦められない。だからそのなぞなぞを諦めない限り、前へ歩こうとする意志も手放すことができないの」 くす、と咲子は口端で笑う。 「櫻を歩かせる為に、そのなぞなぞを用意したのよ? 狡いわね、あたし…───っ!」 突然、咲子は目を細め顔をしかめた。和成は咄嗟に腰を上げた。 「大丈夫? 苦しいの?」 差し伸べようとする手を、咲子は遮った。 「違う…」首を横に振る。「違うの、───違う…。和くん」「はい?」 「…っ」 息を吸う顔が歪んだ。 「あたし、酷いことをしてる」 「咲子さん?」 「酷いことをしてると解っていても、黙ったまま死ぬわ。今、こんな風に和くんに吐き出しているのは…ほんと狡い、…あたしは、懺悔してるつもりなんだわ」 和成から視線を外して遠い目で窓の外を見る。そこに何かあるわけじゃなかった。和成に聞き返しさせないための間をつくる仕草だ。けれどそこに見える眩しいほどの緑が咲子を引きつけた。その下を、子供たちが笑いながら駈けて行った。 咲子の目に涙が滲む。 「あの子は可哀そう…っ」 「あの子?」 「櫻」 と、短く息子の名を口にした。 「あの子をあんな風にしたのはあたしのせいだから」 「…」 「あたしは、あの子の為にできることはしたつもり。大丈夫、あの子は自分で歩けるわ。───だから、史緒をお願い」 祈るように、膝の上で両手を組む。 「次に史緒を守ってくれる人が現れるから、それまでは、お願い」 それは少し遠い未来、娘が出会うであろう恋人もしくは伴侶に願いを託すような台詞に聞こえなくもない。しかし。 (“史緒を守ってくれる人が現れるから”───?) 「まるで決まってるような言い方だね」 和成が言うと、咲子ははにかむように笑った。 「だって、約束だもの」 史緒が「咲子さんに会いたい」とせがむので、その度に和成は史緒を咲子の療養所へ連れて行った。 大抵は咲子は2人を快く迎え入れた。感情の抑揚が弱い娘にそれを正すことはせず、絶えず明るい笑顔を向け、楽しい話を聞かせた。史緒は時折はにかむように笑った。 しかし面会を断られる日もあった。 「急な検査が入って…」 と、看護婦は申し訳なさそうに説明した。そんな日は2人はそのまま家へ帰るのだった。 ───しかし和成は知っている。 咲子の容体は子供達が思っているよりずっと悪いのだ。 少し朦朧とする時があるのが怖いと、咲子は困ったように笑った。 熱が38℃を下回らないのだという。高熱で涙がおさまらなかった。それでも笑っていた。 吐血が止まらない。流動食しか食べられない。拳を握る力もない。 頭痛は、ガンガンと鳴り響く痛みではなく、 「なんかね、空っぽになっていく感じ。頭が干からびていくような痛みなの」 呼吸が苦しいらしい。呼吸器は嫌いだと言ったけど、それがあれば咳はおさまるらしい。 ───子供達と面会する日は、奇跡的に体調が安定している日なのだ。 ▲07.白い罠 白い、病室の中で。 「何か企んでるだろ」 「すごい! どうしてわかったのぉ? 政徳クン」 「そりゃあ、長い付き合いだからな」 「あたしね、陰謀してるの。それを抱えたまま死ぬわ。それって面白い。残された人達が、あたしの罠にはまるのよ。あたしは見届けることができないけど、あたしの分身がちゃんと、それを収めてくれる」 「君は昔からイタズラ好きだったな、和代によく怒られていた」 「政徳クンはいつも笑って許してくれてたよね。和代ちゃんに甘やかしすぎって言われて」 「分身というのは和代のことか?」 「ぶぶー。はずれ」 「じゃあ…」 「ヒミツよ」 「…罠にはめられるのは、もっとずっと、先にしてもらいたいな」 「ごめんね」 「咲子」 「ごめんね。───…ねぇ」 「ん?」 「どうしてあたしと結婚してくれたの?」 「…」 「パパの会社との閨閥だなんて言わないでね。パパの会社は政徳クンの会社とは比べようもないほど小さいもの」 「そうでもない」 「ある。政徳クンにプロポーズされたって言ったら、パパ、恐れ多い、断れって言ったのよ? 失礼な話だけど」 「ははは」 「…でもパパが心配してたこと、今なら分かるの。あたし、政徳クンにとって良いお嫁さんじゃなかったと思うわ。お仕事の同伴もできなかったし、お帰りなさいもお疲れ様も言えなかった。仕事が好きな政徳クンが好きよ? でもあたしは、足手まといにしかならないみたい」 「そうでもない」 「どうしてあたしと結婚してくれたの?」 「…そうだな。君を愛していた」 「ありがとう。あたしも。好きよ、愛してるわ。───最後のおねがい。指輪をちょうだい? 政徳クンが14年間つけていたやつ。土の下まで持っていきたいの」 「…」 「おねがい」 「それは」 「おねがい」 「……酷いな。僕には何を残してくれるんだ?」 「子供達がいるわ、3人も」 「咲子───?」 「政徳クンの指輪はあたしと一緒に眠るけど、あたしの指輪、隠したわ。タイムカプセルみたいに、ずっと後になって政徳クンのところへ行くから、忘れないで。楽しみにしててね」 ▲08.桜 夜に、電話が鳴った。 それが何を告げるかは、皆、分かっていた。 「……やだ」 「史緒」 「いや! 行きたくない!」 頑なに拒む史緒に和成は声を荒げた。 「今、行かなきゃもう会えないんだぞ?」 「行ったって会えない!!」 「───」 腹の底から吐き出す声。史緒のこんな大声を初めて聞いた。 本人も、慣れない声を出したせいか、すぐに咳き込んだ。そのままベッドに倒れ込む。 「───史緒…」 腕を取ると、史緒はそれを振り払おうと暴れた。 「はなして…っ、行きたくない行きたくない行きたくない…絶対いや!」 史緒は毛布にくるまってベッドから離れない。 ひとりにするわけにもいかないので和成も家に残り、櫻、司、マキが病院へ向かった。 マキは車の免許を持っていたが見るからに動転していたので櫻がタクシーを呼んだ。その櫻はマキを宥めるように穏やかに話しかけていた。 病院からの電話を切った直後、 「最期までクチ割らなかったな」 という櫻の低い呟きを、和成は聞いた。 櫻と司とマキが出かけてしまうと、家の中はしんと静まり返った。 和成はタクシーを見送った後、深い溜息を吐く。なま暖かかったはずの夜風が一瞬だけ震えるほど冷たく感じた。その冷たさに身体の芯が震えた。 (阿達咲子が死んだ───) それは血の繋がらない他人である和成であっても、容易く受け入れられることではない。 覚悟はしていた。咲子の容体は解っていた。 「…」 込み上げてきた感情は悔しさに似ていた。声を漏らしそうになって、咄嗟に唇を噛み締めた。 今は、それだけで堪えることができた。 「───はぁ」 深呼吸は数回。和成は自分を落ち着かせた。 (泣くなぁ、これは) でも今は取り乱して泣くわけにはいかない。 彼女が残したものが、ここにはある。 「史緒? 入るよ?」 ベッドの上ではまだ毛布が丸くなっていた。照明は無く、外からの薄明かりが部屋の中を寂しく照らす。静かで、痛いくらい音が無かった。 足を踏み入れて和成はベッドの端に座る。丸まった毛布を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「……和くん」 毛布の中からか細い声が返った。どうやら少しは落ち着いたらしい。 「ん?」 「外、桜が咲いてる?」 史緒はそんなことを口にした。 「桜? そうだね、もう春だ」 そう答えると、史緒は身体にぎゅっと毛布を巻き込んだ。 「……また」 「え?」 「…っ」 史緒の呼吸が悲鳴をあげた。 「また……桜が咲いてる…っ」 小さな千切れた声は憎しみを表していた。 「史緒?」 「───桜の花は嫌い」 ▲09.篤志 咲子の葬儀の日、葬儀場の入り口のテントの下でマキを手伝い弔問客の対応に右往左往しているときのことだった。 少し離れた場所から和成のほうを見ているひとりの青年がいた。 背が高く長い髪を束ねた青年は喪服を着ており弔問客のひとりだと判る。和成と目が合うと青年は近寄ってきて、和成の目の前に立つ。 「あんたが、一条さん?」 と名指しすると、青年はまるで値踏みするように和成を一通り眺めた。 「…どちらさまですか」 不躾な態度に気を悪くした和成だが、弔問客の大半は阿達政徳の会社関係だ。こちらが失礼な態度を取るわけにはいかない。 「あんたはもう手を引いていい」 「───…?」 意味がわからず和成が眉をひそめると、青年は口端を引いて愛想笑いを見せた。 「親戚の関谷篤志です。よろしく」 握手を求められたので和成は手を出した。が。 どうやら関谷篤志は自分のことをあまり良く思ってないようだ、と思った。 (初対面なのに) 握手を済ませると関谷篤志は記帳した。 勿論、「関谷篤志」と。 関谷篤志が親戚というのは嘘じゃないらしい。阿達政徳が認めたからだ。 「と言っても、あの夫婦に子供がいるとは今まで知らなかったよ」との言。 その後、阿達政徳は関谷篤志の身辺を調べさせた。身元を疑ったわけじゃない、阿達家に出入りしていいかと問い合わせてきた篤志の経歴を知るためだ。 その報告書は和成も目を通している。 「なかなか優秀な人間のようだ。関谷も鼻が高いだろう」 「関谷?」 「篤志の父親は私の従弟だ。少々変わった男でね、子供が欲しいというのが口癖だった」 「昔から付き合いがあったんですか?」 「いや、ほとんど無い。…学生の頃、私の友人と関谷が付き合い始めて、その頃少し話をしたくらいだ」 「おじさんの友人?」 「その報告書にも載ってる。今川和代…結婚して関谷和代か。咲子の親友でもある」 そこで沈黙があった。亡くなったばかりの妻の名を出すのは思いの外、堪えたのかもしれない。 阿達政徳の許可が降りて、関谷篤志は阿達家に出入りするようになった。 これが予想外の台風の目で、櫻が音を上げるまで櫻に構ったり(語弊有り)、引き篭もりの史緒を強引に連れ回したりと、いろいろと賑やかになっているらしい。 と、後になって司から聞いた。 この頃の和成は大学の卒業を控え何かと忙しかったのであまり家にはいなかったのだ。 初めて篤志にあったときの「手を引いていい」発言を問いただすことも忘れてしまっていた。 あるとき司が言った。 「篤志と櫻って、似てない?」 「はぁ!?」 即答するならば「全然似てない」と和成は答えただろう。 背丈は同じくらいだが、櫻は病的に痩せているので頑丈そうな篤志と似ているとはかなり言い辛い。面立ちはというと、篤志は長髪で櫻は眼鏡をかけているので印象は全く違う。それ以前に、司が外見を判断するわけない。 ならば内面的観点だとすると、 「全然似てない…と思う」 結局、同じ答えになった。 「うん、そう返されるだろうなとは思った」 「司はどういうところがそう思うわけ?」 「…具体的に挙げられるほどまとまってないんだけど」 と、ばつが悪そうに前置きしてから、 「不気味なくらい他人のことをよく見てる」それから「多分、同じものだ」と、付け足した。 「気が利くってこと?」 「それって、善い意味っぽいよね」 和成は吹き出した。 「善い意味じゃないんだ?」 「…うん。いや、気が利くと言えばそれはそうなんだけど、でもそれは結果であって……」 そこで司は言葉に詰まってしまう。 「ごめん、やっぱりまとまらないや」 と、苦笑した。 ▲10.別離 「もういらない、早く出ていって! 顔を見せないで、二度と来ないで!」 和成が家を出てアダチに就職することを知らせたときのことだ。 身体が震えるほどの怒気を以て、史緒は仁王立ちで和成を睨んだ。 その両眼にはわずかに涙が滲んでいた。 両のこぶしを震わせ、唇を噛み締めても、それでも毅然として視線を逸らさなかった。 「───…どうして? お父さんの所へ行くの…」 「…ごめん」 ▲Epilogue 結局、東京駅改札口まで和成に送られて史緒は切符を買った。切符代は半ば強引に和成が出した。 「じゃあ、また。司さんたちによろしく」 「送ってくれてありがとう。さよなら」 軽く手を振って別れる。和成は少し早足になってオフィスへと戻って行った。雨が降り出すのと梶のカミナリ、どちらかを恐れたのだろう。 改札を通ろうとしていた史緒は足を止めて、振り返り、もう一度和成の後ろ姿を見送った。 「………」 (───…悔しい)と思いながら、史緒の頬が赤く染まる。 和成の姿はもう見えなくなった。 史緒はポケットに忍ばせていたイヤリングを取り出し、両耳に付け直す。たった数時間前までの感触を思い出し安心する。 史緒はいつも長い髪を下ろしているので他人が気付くことは少ないが、いつもこの赤い石のイヤリングはそこにあった。 和成に会うときはいつも外していること、悔しいと思いつつまた耳にすること、どうしても手放せない気持ち。 史緒はそれらの意味を深く考えることができないでいた。 一年半前の、年の暮れ───12月29日。 当時、史緒は三高祥子を捜している真っ最中で、御園真琴から引き継いだ数千にのぼる女子高生の資料を不眠不休で調べていた時期のことだ。 夜遅く、史緒が自室へ戻ると、暗い部屋の奥に赤く点滅する小さな光があった。 (留守電…?) 珍しいことだ。仕事以外で伝言を残していくような人物に心当たりは無い。 史緒は電気を付けて、そのままベッドに腰を下ろした。据え置きの電話の点滅するボタンを軽く押す。 「伝言ハ、2、件デス」 機械的な女声が発せられた。 (2件…?) ぷち、と切り替わる音がして、 「くぉら〜! せっかく電話かけたのに留守ってどーゆーことよ〜?」 突き抜けるような大声が響いた。史緒は一瞬目を見開いて、次に苦笑した。 「ハッピーバースディ! あ〜んど ハッピーニューイヤー! あたし、3日まではカレシのとこだから! ケータイ鳴らすような野暮はやめてね。じゃ、藤子ちゃんでした、ばいばい」 その勢いある短い伝言に、史緒はとうとう声を立てて笑ってしまった。しかし隣の部屋には島田三佳がいる。史緒は口元を押さえながらも、込み上げてくる笑いを完全に収めることはできなかった。 ぷち。 「一条です」 (───…!) * 史緒は息を整えることさえ忘れて、駅前のファミレスに入った。この時間、待ち合わせに使えるような店で開いているのはここくらいだから、彼もここなら長居できると思い選んだのだろう。 「11時まで待ってます」 と、留守電に残されていた。もう11時半を過ぎてる。 でも彼はいる。史緒は確信していた。 根拠の無い確信だけで、史緒はここまで走ってきた。気付けば、コートを羽織ってくることさえ失念していた。真冬の深夜だ。凍えるような冷気が史緒の肩を包んだ。 (何やってるんだろ、私) 史緒は狭い店の中を一瞥すると、ある一点で目を細めた。 (───ほら、いた) 文庫本に目を落としていた和成はページの照度が落ちたことに気付いて顔を上げた。そこに立つ史緒の姿をみとめると困ったように笑う。 「伝言、最後まで聞きました? 連絡いただければそちらへ行くと言ったのに」 本を閉じて傍らに置く。突っ立ったままの史緒に椅子を勧めた。 「走ってきたんですか?」 史緒の呼吸は乱れ肩が上下していた。「え…?」史緒はそのことに今気付いたのか、手を胸にあてて数回呼吸を繰り返した。 「あの…」 「はい?」 「…」 史緒はやっと和成の前に腰を落ち着けた。 「あの、……ぇ、どうしたの? 今日…」 未だ状況がよく解ってない史緒は挙動不審気味に和成に尋ねた。 「16歳の誕生日おめでとう」 「───」 真っ直ぐな視線で笑顔を向けられて、史緒は咄嗟に言葉を返せなかった。 それから、和成は小さな箱を差し出した。 中身は赤い石のイヤリング。紫に近い赤で、透き通るようでは無く、吸い込まれるような赤色だった。 「……ぁ、…ありがとうございます」 「どういたしまして」 「でも私、耳を出すような髪型はしないんだけど」 「ええ、存じてます」 事も無げに言う。「でもたまにはいいでしょう?」 史緒は思わず笑ってしまった。和成に見られまいと口元を覆うが、胸から込み上げる少しの幸福感を抑えることができなかった。 「…ありがとうございます」 こうして史緒の耳には赤い石が置かれた。 |
34話「傷」 END |
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