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33話「島田三佳誘拐事件」


 茹だる蒸し暑さはもう少し先のことで、雨が降ったり止んだり、けれどその空に確実に夏の青さが見え隠れするような7月中旬のことだった。
 A.Co.の事務所ではいつものように阿達史緒が机に向かいデスクワークをしていた。彼女の最近の悩みといえば、メンバーの学生組が夏休みに入ったらしく朝から晩まで事務所に入り浸っていることだ。彼らと顔を合わせることが嫌なのではなく、人が多いと集中することができず、史緒は自分の仕事効率が下がっていることを自覚していた。関谷篤志が言うには、それは「修行不足だ」という。
 事務所の電話が鳴った。
 篤志が取ろうとしたが、史緒はそれを遮った。発信者が仕事とはあまり関係の無い峰倉薬業だったからだ。
「はい、阿達です」
 峰倉薬業の社長、峰倉徳丸とは気の知れた仲。史緒は社名を省略して名乗る。
「あー、俺だけど」
「どうも。どうかしました?」
 いつもなら「俺さんという方は存じ上げませんけど?」と応えるところだが、史緒は峰倉の声にいつもと違う真剣みを感じた。
「島田、来てないんだけど」
 想像もしなかった台詞に史緒は虚を突かれた。
 事務所のメンバーの一人、島田三佳は峰倉薬業のアルバイトを兼業している。
 史緒は眉をひそめて左手首の時計に目をやる。時間は10時半を少し過ぎていた。
「三佳はいつも通り家を出ましたけど…」
「そうなのか? ケータイに掛けても繋がらないし、そっちの仕事で急な案件でも起きたのかと思って。でも連絡よこさねぇヤツじゃねーぞ」
「ですよね…、こちらで捜してみます。連絡ありがとうございました」
「俺もちょっと近場を当たってみるよ」
「あ、いえ。峰倉さんの手を煩わせたりしたら私が三佳に怒られます。…ええ、じゃあ」
 挨拶を簡単に済ませて史緒は首を傾げながら電話を切った。
 電話のやりとりを聞いていた篤志は訝しげに問う。
「どうした?」
「峰倉さん、三佳がまだ来てないって」
「は? 8時には出たろう?」
「ええ。だから、おかしいなって」
 もう2時間半も経過している。普通なら1時間もかからない場所だ。事情があって寄り道しているなら、峰倉の言う通り連絡を怠る三佳ではない。
 ガチャリ、と事務所のドアが鳴った。
「おはよう」と、短く挨拶して入ってきたのは七瀬司、事務所メンバーの一人だ。
 盲人用の白い杖を入り口の所にかけると、危なげなく歩を進める。
 普段から三佳と行動することが多い彼なら何か知ってるかと思い、史緒は聞いた。
「司。三佳の今日の予定、何か聞いてる?」
「三佳? 今日はバイトだろ」
「そうよね…」
「なにかあったの?」
「峰倉さんから連絡があって、三佳がまだ来てないって。───…電話してみるわ」
 史緒は倒れ込むように椅子に座り直してから、机の上の電話に手を伸ばした。短縮番号は03だ。電源が切られていたり圏外では無いらしくすぐに繋がった。
 篤志と司がその様子を見守る中、史緒は受話器から5回目の呼出音を聴く。確か三佳はコール10回で留守電転送していたはずだ。
(まさか本当に何か…)
 あったのだろうか。
 史緒が不安を感じ始めたとき、9回目のコールでそれは途切れた。
「三佳?」
 安心するとともに名前を呼ぶ。
 しかし、返る声はなかった。
「もしもし?」
「…阿達のお嬢さんかい?」
 男の声だった。
「…っ」
 史緒は一瞬で有事を察し、その聞き覚えのある声、その人物を知ると愕然とした。
 この声は蔵波周平だ。
「なんであなたが───」
 史緒が声を荒げると即座に篤志が反応して腰を浮かせた。司はソファから動かなかった。

「やーぁ、連絡待ってたよ。こっちからかけようと思っても、この子のケータイ、メモリがロックされててさぁ。さっき峰倉からも掛かってきたけど無視しとけばそっちに回るかと思って」
 軽薄とも取れる声で蔵波はぺらぺらとよく喋った。意味の無い言葉に史緒は苛立ち、冷静さを失っていた。
「三佳は!? どうしたの?」
「隣にいるよ。心配しなくても何もしてないから」
「どういうつもり? 何の目的があって…」
「俺の要望は前に言ったはずだ」
「…え?」
「七瀬夫妻の息子を連れて来い」
「!」
「お嬢さんと一緒にいると噂で聞いてる。この子も知っているような感じだ。結構身近にいるんじゃないのか?」
「…ッ」
 チラリ、と目をやると司は無表情で足を組んでソファに座っていた。本棚のほうに顔を向けていてこちらを向いてはいなかった。その表情は読めない。
 蔵波は司を「七瀬夫妻の息子」を呼び出して何をする気だろう? つい先日会ったときは「8年前の事故のことを謝りたい」などと言っていた。でも多分、司はそんなこと望んでない。史緒も、できれば会わせたくない。
 まさか8年前の事故の関係者が今頃になってこんな風に現れるとは思わなかった。
 史緒は盛大な溜息を吐く。
「解ってると思いますけど、これは犯罪ですよ」
「お嬢さんが事を大きくしたいなら、そうなるかな。でも、そんな、大げさなものじゃない」
「こっちは大事です!」
「少し落ち着いたら?」
(だめだ)と史緒は怒りさえ覚えた。蔵波には何を言っても通じないような気がする。
「三佳に代わってください」
「いいだろう」
 少しの間と、遠く声のやりとりが聞こえてから、
「…史緒?」
 やっとその声を聴くことができた。間違いなく、島田三佳だ。
「三佳!」
「面目ない」
 むちゃくちゃ不本意そうな声が重々しく響いた。その様子が心配したほどダメージを受けてないようで史緒はほっとする。軽く息を吐いて、背をそらすと椅子をキィと鳴らした。一拍おいて、わざと鷹揚な口調で言った。
「人質だもの。扱いは丁重でしょうね」
「最悪ではないな。良くもないが。───安心してくれ、車に軟禁されている他は不愉快な扱いは無いから」
 その言葉をまるっきり信じることはできない。いくら三佳でも、かなりの精神的ダメージは受けているだろう。彼女の性格から、ここで心配されることのほうが心苦しく感じるに違いない。だからいつも通り健気に振る舞っていることが容易に想像できる。
 だから史緒は余計なことは言わず、ひとつだけ確認した。
「───大丈夫なのね?」
「ああ」
 落ち着いた声が返る。史緒はまた溜息をついた。
「仕事があるから、私は行かないわよ」
「期待してないよ」
「悪いけど、もう少し待ってて」
「了解」
 その後、史緒は居場所を聞いて受話器を置いた。
(なんて言おう…)
「司…」
 史緒が何か言う前に、司はすっとソファから立ち上がった。
「いいよ、僕が行く」
 泰然と言い放つ司。史緒は目を見開いた。
「え、聞こえてたの?」
 そんな素振り見せなかったのに。
 司は史緒を無視して、冷静に出かける支度を始めた。そのまま出て行きそうになる司を篤志は呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待て。俺は事情がわからん、まさか誘拐沙汰なのか?」
「犯人に自覚は無いようだけどね」
 答えたのは史緒だ。
「一体、何が目的なんだよ…───」
「史緒。誰? その男」
 ひとつ、司が尋ねた。
「蔵波周平。8年前の事故当時、一研の主任だった男よ」
「知らない」
「最近、峰倉さんのところに出入りしてるみたい。ついこの間、三佳と一緒にいるときに偶然会ったの。司に謝りたいなんて言ってたけど、あれは責任を感じてる様子じゃなかったわ。…悪い言い方だけど、好奇心よ」
「ふーん」
 読めない表情で短く答えた司。しかしその無表情に史緒は空恐ろしいものを感じて顔を引きつらせた。
「篤志、一緒に行って」
「別に一人で平気だよ」と、司。
「いいから!」
 その気配を察した篤志は頷く。「わかった」
 篤志もバタバタと出かける支度を始める。
「司、くれぐれも…やりすぎないでね」
「え? 何か言った?」
 わざとらしい演技だ。電話の向こうの声を聴き取れる司が史緒の言葉を聞き逃すはずがない。
 司はドアの横に立てかけておいた杖を握ると「いってきます」と声をかけて出て行った。篤志がその後を追った。





 ちょうどその頃、A.Co.メンバーである三高祥子と川口蘭が駅から事務所へ向かっているところだった。
「あ、篤志さん。と、司さん」
 目ざとく思い人を発見した蘭は、今まさにタクシーに乗り込もうとしていた2人を指さした。
 蘭は普段は制服で事務所を訪れているが夏休みに入ったのでノースリーブのトップに膝丈のジーンズパンツの私服姿だった。
「なんだぁ。出かけちゃうのかぁ」
 素直な不満を口にする。
 隣の三高祥子は夏らしい花柄のワンピースを着ていた。
「ほんとだ。あの2人が一緒っていうのも珍し…───」
 何故かそこで祥子は息を止めた。目を大きく開いて、タクシーのドアが閉まるのを見た。
 蘭は祥子の様子には気付かずに、目の前を通り過ぎるタクシーに大きく手を振る。蘭と祥子の姿に気付いた篤志が軽く手を振り返していた。そんな些細なことにも、蘭は心から嬉しそうに喜んだ。
 祥子はタクシーが消えるまで口を開くことができなかった。
「ねぇ、…蘭」「はい?」
「今の…───司だった?」
「え? そうですよぉ。祥子さんも見たでしょ?」
「うん…そうだけど。でも…」
(…あんな司、はじめてだ)
 祥子はさっきの気配を思い出して身震いした。
 篤志のとなりに座っていた司の素振りにとくに変わったところは見られなかった。でも祥子だけは判る。
(何をあんなに、怒ってたんだろう───)




*  *  *




 史緒が初めて頭を下げた。もう2年も前のことだ。
「いいよ。行くよ」
 と、篤志は二つ返事だった。司は篤志の返答に別に驚かなかった。篤志ならそうするだろうと───史緒に付いて彼女を助けるだろうと、容易に想像できた。そのときの史緒の「家を出て自活する」という無茶な宣言にも(何せ、史緒は当時15歳だった)、「一緒に来て欲しい」という一方的な懇願もすべて受け止めて。
 でも司は違う。史緒を助ける義理も無いし、阿達の恩恵を棄ててなお危ない橋を渡るのもごめんだ。
 それでも最終的に2人に付いて阿達家を出たのは、咲子さんも和成さんも櫻もネコも居なくなったあの家に独り残ることは気が引けたからだ。
 史緒と篤志にすべてを任せられるような信頼があったわけじゃない。

「おい、何考えてる?」
 タクシーの後部席、何やら思索に耽っている司の顔を、篤志は覗き込んだ。
「ん? …あぁ、───どうしてやろうかなぁって」
 平然と司は口にする。これがにっこり笑って答えていたらまだ苦笑のし甲斐があったが、あまりにも何気なく司が答えたので篤志は笑えなかった。寒気さえした。
「腹立ててる?」
「そりゃもちろん、激怒中」
「…」
 篤志は今更ながら、史緒が「一緒に行け」と言った意味を理解できた気がした。
 司は感情を荒げないように訓練してきている。感情の起伏が感覚を鈍らせるからだ。それ故に普段はおっとりとさえしているように見える。篤志は司とは5年の付き合いになり、司の喜怒哀楽はそれなりに見てきているつもりだが、やっかいなのは司の場合、本当にぶち切れるまでわからないということだ。
 今回の誘拐犯が危害を加えようとしたら篤志は応戦できるが、どちらかというと司が何をやらかすかというほうが心配だった。
 篤志は司が誘拐犯に対して「どう」できるかは知らない。まさか盲目の身で殴り飛ばすことはできないだろう。どちらかというと、史緒や司は社会的制裁を下すことで相手を痛めつけるような気はするのだが。
 司の平静ぶりに篤志は青ざめた。
「…あんまり、やりすぎるなよ」
「どうして? 向こうは犯罪者だし、遠慮することない」
「いいから、おまえまで捕まるようなマネはやめろ」
「相手による」
 と言い捨てると、司は胸ポケットからサングラスを取り出して慣れた手付きで鼻に掛けた。司がサングラスを掛けるのは、自分が障害者であることを周囲に主張するときだ。それが意外に思えて篤志はおやと首を傾げる。
 司はサングラス越しに、見えないはずの窓の外へ顔を向けていた。
「…初めて会った頃のこと、覚えてるか?」
「なに? 突然」
「あの頃、俺らよく連んでたけど、司は俺のことやたら警戒してたよな」
 そこで初めて司は表情を崩した。苦笑したのだ。
「…なんだ、気付いてたの」
「警戒が取れたのは結構後になってから。まぁ、しょーがねーかとは思ってたけど」
「ははは。篤志、不審人物だって自覚あったんだ?」
「おまえが懐疑的すぎるだけだろ」
「あぁ、それは仕方ないよね」
 さも当然だと言わんばかりに頷く。そんな司の横顔を見て篤志は溜息を吐く。
「だから三佳が来たとき、俺と史緒は驚いたんだよ」
 司に自覚があるか知らないが、篤志が見てきた中でそれは三佳だけだった。
 あのとき、『三佳のこと気に入ったから』と。
 そんなこと、辞令や気まぐれで言う人間じゃないことくらいは、史緒も篤志も解っているのだった。




*  *  *




「ケータイ!」
 何故か未だその男の手のひらの中にあるものを指して三佳は噛み付くように吠える。
「さっさと返せ」
 三佳は車の助手席に、ドアに張り付くように座っていた。できるだけ、運転席の男から離れるために。
 場所は海沿いにある、とある企業の社員用巨大駐車場。収容車数は百台強。いつもは夏をさらに暑苦しくさせるくらいに色とりどりの車がひしめき合っているだろうが、今は見事なほどに見晴らしが良い。この車を除き一台として鉄の塊はなく、無駄と思える空間がそこには広がっていた。守衛室も無いほとんど野晒しの駐車場は当然通り掛かる人影もない。
「キミ、若いのにメモリロックの習慣あるなんて、用心深いんだな」
 事の深刻さを理解しない蔵波の神経には、出会って2時間しか経過してない三佳も充分すぎる疲労を覚えていた。
「…史緒が言った通り、これは犯罪だぞ」
 無駄だと解っていたが三佳は牽制を試みる。
「七瀬が来ればすぐ帰れるよ」
「大体、何で“七瀬”に会いたいなんて思うんだ。もう何年も前のことなんだろう?」
「阿達の娘に会って思い出したんだよ、一緒にいることは噂で知ってたから。七瀬の事故はね、そりゃすごい騒ぎだったんだけど、あやふやなまま口封じされてそれだけ。事故のとき酷い怪我をして病院に担ぎ込まれた後のことは誰も知らない。加害者側の人間としてはその子が元気でやっているか、知りたいと思うのが人情だよ」
「さぁな」
「七瀬夫妻は共働きだったし、普段構えない子供に職場を見せたいってーのは気持ち解るけど、それがあんなことになっちゃうんだもんなぁ。世の中何が起こるか分からんね」
 ぺらぺらとよく動く口から語られる言葉、三佳は耳を塞ぎたかったがあからさまな態度を見せるのも嫌だった。
「アダチ一研は工業用研磨機のレーザーの開発をしてたんだ。大きい工場だし、勿論、安全面にも充分配慮している、それでも起きた事故だ。…レーザーの傷ってのはちょっと厄介でね、電気による裂傷は細胞の死滅と同意で皮膚は再生しない。紫外線照射による色素沈着で発ガン性を持つ場合もある」
「───」
「まぁ、最悪なのは眼障害だけどね。生体への透過力は少ないレーザーが、最も体内深部を傷つけられるのは眼底だ…おっと、君にはちょっと難しかったかな」
 自分から勝手に喋っておきながら蔵波は肩をすくませて三佳に笑いかけた。その話の中でも、蔵波の声や表情からは心痛や悔恨は感じられなかった。
「黙ってくれないか」
 強い声で言うと、三佳は蔵波から顔を逸らし窓の外を見た。
(この男は何も知らないんだ…)
 司が負った障害も、その後のことも、なにも。
(───どうしよう…)
 三佳は額に手を添えて激しく自己嫌悪していた。今、立っていたら崩れ落ちてしまうくらい、どん底だった。
(私としたことがこんなヤツにあっさり攫われるなんて)
 プライドが酷く傷ついた。普段、高く掲げているだけにダメージは大きい。落ち込んでいる暇は無いと判っているのに、三佳は回復しそうも無い疲労感に襲われていた。
 そしてさらに、三佳を苦しめるものがある。
(怒ってるかもしれない)
 それを思うと途端に不安になる。
(多分私は…恐れているんだろう)
 彼は蔵波に会いたいとは思ってないだろう。近寄りたくもないかもしれない。それなのに、こんな風に自分のせいで会わざるを得ない状況を招いてしまった。
(…どうしよう)
(怒ってるかな)
 もしそうだとしても、それを態度に表す性格じゃない。その感情の変化に、もし自分が気付けなかったらと思うと怖い。
(どうしよう)
 こんな足手まといじゃ、隣にいられない。
 こんなただの子供じゃ、信頼をくれないかもしれない。
 見限られるかもしれない。
 そう考えたら泣きたくなった。
 彼の相棒たり得たのは、性格的な相性を除けばこの利発さと歳不相応な判断力、思考力が、彼の助けになりなにより不利益を生まないからだ。
 打算的であることが悪いとは思わない。三佳は彼のそういう計算高くどこか冷めた目で他人と接するところが好きだ。だからこそ、打算した末に、それでも隣に居させてくれることを自惚れてもいいのだと思っていたのに。
「急に静かになったけど、どうかした?」
「どうもしない! 退屈で眠くなっただけだ!」
「そりゃすまない。あぁ、そういえば君のことも少し調べたよ」
「…え?」
「島田博士の愛娘だってね」
(───…)
 吐きかけていた息が止まった。

 単純に驚いたんだと思う。
 一瞬、頭が真っ白になって、次に吐き気が込み上げた。
「俺は元は電子屋で今の職場は畑違いなんだけど、閑職の管理部で噂には事欠かない。2年前のこともよく知ってる。当時、業界五指に入る大手がまるまる潰れたんだ、その後の市場争いは見物だったよ」
「…っ」
 三佳は口元を押さえているために耳を塞ぐことはできなかった。
 「2年前のこと」というのは三佳がA.Co.に来る直前にあったことだ。
「島田ご息女の噂もあったけど結局表には出てきずまい…。それがまさか、峰倉みたいな小さな卸屋にいるなんてな」
「…うるさい」
「矢矧義経の最後は意外だったけど、君のお父さんの事件も掘り返されたし」
「黙れッ!」
 狭い車の中に千切れた声が響く。助手席で三佳は強く頭を抱えた。
「───…っ」
 呼吸が乱れ歯を食いしばる。
「具合でも悪いのかい?」
「……だまれ」
「年上の人間にそういう言葉遣いは感心しないな。島田芳野や矢矧義経はそういう躾を君に」
「やめろッ…たかが報道された程度の知識で軽々しく名前を口にするな!」
(悔しい)
 それ以上、声を出せなかった。歯を食いしばらなくてはならなかった。
 鼻先が冷えて目頭が熱くなる。(泣くな!)こんなヤツの前で。
 蔵波が口にした二つの名前は勿論よく知っている。
 どちらも、好きとか嫌いとかそんな単純な感情では表せない人間で、三佳を含めた3人の関係を想うと胸が切り裂けそうになり空気が苦くなる。
 昔のことを引きずり悩む自分が嫌で確執を解こうとした、でも一人じゃ、見えていなかった事実ばかり浮き彫りになって何も解らなくなる。
 夢だけが繰り返される。
 史緒と篤志は、蔵波の言う「2年前のこと」を知っている。でも2人ともそれについて口にしたことは無い。史緒は、「2年前のこと」で魘されている三佳を見ても、尋ねないでいてくれる。
 そして恐らく最も三佳を理解してくれている人物も、現在の三佳だけを見てくれる。
 もしかして甘やかされてきたのだろうか。こんな風に他人の口から語られることが辛いなんて今まで知らなかった。
(……)
 そのとき、三佳の視界の端に人影が映った。その人物の特徴を識別するより早く、三佳の目から安堵の涙がこぼれた。
(来てくれた)
 その人物を確認するより早く、三佳は口にしていた。「…つかさっ」
「来たかっ」
 蔵波は意外な機敏さで反応し、視線を三佳に合わせる。息を弾ませて、獲物を見つけたかのように目を輝かせて、今、タクシーから降りた二つの人影を見た。







 だだっ広いコンクリの駐車場、大通りのほうから歩いてくる二つの影。
 三佳は車から降りたとき初めて、篤志も来ていることに気付いた。
 司はサングラスをかけて白い杖を持って篤志の前を速度を緩めずに歩いてくる。10メートル前まで来たとき、篤志が声をかけて、そこで司は足を止めた。
(あ)
 三佳は自分の落ち度に気付いた。いつもの自分なら無意識のうちにやっていたことだ。足音や声を聞かせるなりして、こちらとの距離を教えなければならなかったのに。
(しっかりしろ)
 思いの外動揺していることに気付く。
 蔵波は運転席側から降り、車の前に立った。離れたところに立つ2人を見比べる。「どっちが七瀬くん?」視線は向けなかったが声の大きさからこれは三佳への質問だろう。
 でも、司には聞こえたはずだ。
「はじめまして。七瀬司です」
 カツンと杖を付く音。3歩、前に出る。
「…?」
 蔵波は眉をひそめた。
 目の前に立つ青年───七瀬司(8年前は11歳、年格好は合う)は若者らしからぬ野暮ったい眼鏡をかけて、何故か持っている右手の杖は白い。
「まさか…見えないのか?」
 司はその問いを無視した。
「三佳!」
「ぅわ、はい!」
 突然大声で呼ばれて三佳は上ずった声を返す。
「知らない人にはついていくなって、教わらなかったの?」
 苦笑混じりの穏やかなよく通る声。からかうような台詞でもその表情は優しく笑っていた。
「……っ」それは本当にいつも通りの彼の言葉で三佳は思わずほころんでしまう唇を噛み締めた。(あ…っと)笑ってる場合じゃない、声を返さなきゃいけない。
 司との距離は遠い。そこへ、落ち着いた声を返すには呼吸を整えなければならなかった。
「人間誰でも間違いはある!」
「あはは。三佳らしくないなぁ」
「買い被りはときに信頼関係を崩すぞ」
「教わらなかったんじゃないかなぁ」蔵波が口を挟んだ。「この子はずっと穴蔵生活だったんだし」
 浮上しかけていた気持ちに影が落ちる。
「…やめ」
 三佳が叫びかけたとき、少しの事情を知っている篤志が動いた、しかしそれより早く司が口にする。
「三佳、おいで」
 穏やかではあるが有無を言わせない強い声。三佳は蔵波を蹴飛ばしてやりたかったがその余力はなかった。司の、その差し伸べられた手の方へ足を向ける。たかが10メートル。その距離がとても長く感じた。
 空を歩くようなあてど無い足取りでどうにか辿り着くと、司は差し伸べていた手を引くと、三佳の頭にポンと置いた。
「篤志と、いて」
「え」
 司は一言残すと蔵波のほうへ歩き始めた。「司? …わっ」
 突然、足から力が抜けた。篤志が三佳を抱え上げたのだ。
「おろせ!」
「暴れんな、大人しくしてろ」
 片手で荷物のように担がれて、三佳は慣れない高すぎる視点に目眩を覚えた。「お〜ろ〜せ〜」「大人しくしろっつーの」
 でも実際、降ろされたとしたら三佳は自分の足では立てなかっただろう。膝が笑っていた。張り続けていた緊張が司を見たときから一気に解けて、圧しかかる疲労感に襲われていた。
「何、泣かされてんだ。おまえらしくない」
 三佳の顔を覗き込んだ篤志が言う。
「ば…っ、泣いてなんかない!」
「はいはい」
 三佳は咄嗟に司のほうを見た。蔵波のほうへ歩いていく、どうやら聞かれなかったようで安心する。
 しかし司の耳に入らなかったはずはなく、何より篤志はそれが狙いでわざと口にしたのだ。







 司は蔵波の3歩前で止まった。最初の会話で距離は掴めている。
「は…はは、本当に見えないのか?」
 蔵波は調子が外れた声で言った。笑っているようにも聞こえた。
「ええ、おかげさまで」
「全然? 少しも見えない?」
「そうです」
「あの、事故のせいで?」
「そうです」
「アダチの社長は知ってるのか?」
「勿論。社長はずっと、僕の後見人をしてくれています」
 それを聞くと蔵波は少し驚いた顔を見せ、次ににやりと顔を歪ませた。
「…あぁ、あの夫妻、まだ見つかってないのか」
「そうです」
「まっさかあの夫婦が逃げるなんて大それたことするなんてなぁ」
「…」
「同じ工場に勤める研究員で職場結婚。ま、下っ端だったけど、真面目で仕事好き。どっちかってーと気が弱くて意見を主張できない人種だと思ってたけど、人間分からないものだな。…そうそう、俺、キミにも会ってるよ、あの事故の日にさ。お母さんのほうに連れてこられてたろ? で、課内の人間にも可愛がられてた。キミは父親似だって連中から指摘されてお父さんは」
「蔵波さん」
「あ?」
「僕の顔を見て気が済みましたか」
「棘のある言い方だな。…そうだな、あの事故の関係者の一人として謝罪するよ」





「…」
 篤志は司の足取りに気を止めた。
 一見そうは見えないが司は少しずつ、蔵波との距離を詰めている。
 会話をしながらも、地面に足を擦るようにして気付かれないように。
「…何か狙ってるな」
 司は暇無く蔵波との言葉のやりとりを続けていた。(わざとだろう)
 おそらく司は、蔵波に喋らせることで間合いを取っているのだろう。
「え? どっちが?」
 三佳が聞いてきたが無視した。目を離すわけにはいかなかった。
 篤志はもう司の狙いが読めていた。
(位置的にもう少し…)そう思っても、司がどこまで正確に距離を測れるかは知らない。
 すると。
 司は一歩を踏み出すと同時に右手の杖を手の中で滑らせ、振り上げた。
 手首を使って逆手に持ち替えると、肩を逸らし振りかぶって、勢いよく杖を叩きつけた。
「ガ……ぁッ」
 杖の先は蔵波の胸を撃った。
 鈍く硬い音がした。

「──────…ッ!!」
 三佳は息を吸いながら悲鳴をあげた。見てしまったと解っていても、一瞬、視線を逸らさずにいられなかった。胸の痛みを想像して苦しくなる、思わず篤志の肩にしがみついた。
 篤志は僅かに眉をしかめた他は、三佳に比べればずっと冷静だった。司が杖を振り上げた時点で止めに入ることもできたが三佳を抱えているので危険なマネは避けた。どちらにしろ、さっきの司の俊敏さには間に合わなかっただろう。
「あれはヒビ入ったな…」
 篤志が痛々しそうな表情で呟く。もちろん、同情はしてない。
「───…」
 三佳は歯を食いしばったまましばらく声が出せなかった。
 恐る恐る視線を戻すと、司の背中の向こう側で蔵波が胸を押さえてうずくまっているのが見えた。篤志の言う通り肋骨をやられたのかもしれない、肩で浅く呼吸を繰り返していた。
 30秒後、咳とともに「…ぃきなり何を」という途切れ途切れの声が聞こえた。蔵波は顔を上げると司を睨みつけた。
「訴えるぞッ」
「どうぞ」司は肩をすくめ、言い放つ。「拉致監禁も軽い罪じゃない」
 蔵波は何か反論しかけたが司はそれを無視するために言葉を続けた。
「傷害のほうが重いけど僕は未成年で障害者だし、それに過失を主張します」
「目撃者がいる」
 蔵波が自信たっぷりに言うと、司はくすと笑って、篤志のほうを振り返った。
「誰か、見てた?」
「わりぃ、よそ見してた」
 さらりと篤志が答える。
 司は蔵波に向かって。「だ、そうです」
 蔵波は顔全体を歪ませて何か叫んだが三佳には聞き取れなかった。司はしばらく蔵波の発言を大人しく聞いていたがそれにも飽きると、3歩下がって杖の構えを解いた。蔵波はまだ立ち上がることができない。
「8年前の事件について、僕は誰も恨んでいません。けど、今日のことは許さない。謝って欲しくもない。…───2度とその声を僕に聞かせないでください」
 と、静かに、けれど強い声で言った。それを最後に踵を返しかけて、さらに一言。「ああ、それから。三佳のバイト先にも二度と顔を出せないよう、手を回させてもらいます」



「やりすぎた覚えはないよ」
 戻ってきた司は篤志に言った。
「わかってる」
 何を言っても無駄だと悟り、篤志は抱えていた三佳をゆっくり降ろした。
 すぐに司に駆け寄ると思っていたが意外にも三佳は一歩も動かずに、気まずそうに司の顔を窺っていた。
 ともかく、あとは2人の問題だ。───そう見切りを付けた篤志は司に声をかける。
「俺は先に事務所へ帰るよ。史緒が待ってるだろうし。峰倉さんにも連絡しておく」
「よろしく」
 そして司は、まだ一歩も動けないでいる三佳に強い声で呼びかけた。
「三佳、行くよ」
「え、…あ、あぁ」
 司が歩き出し、それに三佳が続いた。

 三佳と司が並んで歩いていくのを確認した篤志は、ひとつ息を吐くと蔵波に近づいて膝を落とした。
「大丈夫ですか?」
 やっと正常な呼吸を取り戻した蔵波は胸を押さえたまま吐き捨てる。
「なんなんだ…ッ、おまえら! 俺が何したってンだ…ッ」
「三佳を連れ去るんじゃなくて、直接、七瀬司に当たってれば痛い目に遭わなくて済んだと思いますよ。まぁ手間を省いた代償とでも思って受け取っておいてください」
「はぁ? なに言ってんだッ。…ったく、覚えてろ!」
「下手なマネはしないほうがいい。定年間近のあんたの職を無くさせるくらいはできる」
「馬鹿言えッ」
「あいつの後ろにアダチの社長が付いてるのは知ってるだろ?」
「───」
 蔵波が黙り込んだのを確認して篤志はにっこり笑った。
「救急車、呼んでおきましょうか?」
「…ちッ」
 蔵波は視線を逸らして舌打ちした。救急車はいらないと篤志は判断して立ち上がる。
 もうこの男に用はなかった。




(まさかこんなことする馬鹿がいるとはね)
 司は苛立ちで歪みそうになる表情を正すのに必死だった。三佳は後ろから付いてきていたけどその足を待てなかったのはこの顔を見られたくなかったからだ。
 昔のことを掘り返されるのは今も苦手だ。精算済みのはずの記憶も、時折、暴れ出すことがある。だからと言ってそれに自分以外の誰かを巻き込むことを、司は許してない。
 無関係な人間の安い同情は滑稽なだけだが、蔵波のような関係者がそれをするのは純粋な怒りを覚える。実際その気持ちに従い、素直にはり倒してきたわけだからこれ以上尾を引きたくない。司はそろそろ気持ちを抑えるよう、自分に暗示をかけた。
「ねぇ、三佳」
「…え! なに?」
 突然話しかけられて驚いたのか三佳の高い声が返る。
「どこか座れるところない? ちょっと疲れた」
 辺りは団地が並ぶ住宅街で、通りの中に入ると小さな公園が点在していた。そのうちのひとつに入り、司はベンチに腰を降ろした。
 遠くに子供のはしゃぎ声が聞こえる。休日ということもあって、かなり賑やかだった。日差しが熱く、でも気持ちよい風が吹いていて司はやっといつもの自分になりつつあることを実感していた。
「三佳?」
 隣に座ろうとせず、司の前に立ち動かないでいる。そのことを訝しみ名前を呼ぶと、かすれた呼吸があって、その後にやっと声が返った。
「………ごめんなさい」
「は?」
 突然の謝罪よりもその声に驚いた。重く消え入りそうな、今にも泣き出しそうな声に司は慌てた。
「え…三佳? どうして謝るの?」
「私のせいであの男と顔合わせることになって…ごめん…っ」
「───」
 司は目を見開いた。その言い分は思いもしないことだった。
 三佳のせいじゃない、司はそう言いかけたがそれでは三佳の謝罪が無駄になる。
「気にしてないよ」
「でも…」「こっちこそ、不愉快な思いさせてごめん」
 どう考えても今回の件で謝らなければならないのは司のほうだ。三佳はただ巻き込まれたに過ぎない。普段はそんな自虐的な思考展開しない性格のはずなのに、三佳はずっとそのことを気にしていたらしい。
 呼吸が震えている三佳を前に、司はもう一度、ごめんと謝った。

「あのね」
 三佳が落ち着くのを待って司は話しかけた。
「はっきり言ってなかったと思うけど、僕の両親は8年前から行方不明なんだ」
「行方、不明…?」
 現実ではあまり耳慣れない単語に三佳は眉を顰める。
「うん、見えなくなってから一度も会ってない」
「…どうして」
「事故の責任を取るのが怖くなって逃げたんだろう、っていうのが、関係者の中では一番有力な説かな」
「そんな」
「うん…」そこで司は笑った。「でもそれに近い事情はあったと思うんだ」
 アダチの中でたかが一研究員だった父母が、工場の存続を危うくさせるような事故の責任を問われてどんな心境だったか。勿論、事故の直接の原因とは関係無い、それは当人も関係者も阿達政徳も解っていることだ。ただ、唯一の負傷者が彼らの子供で、職場に子供を連れてきていたことを酷く糾弾されたであろうことは想像に難くない。
 それに耐えられなかったことを責める権利は、一応、司にはある。
「最初はずいぶん恨んだ。意地でも探し出して殴ろうとも思ったし」
「なぐ…」
「それが人生の目的だったこともあった」
 真顔でごまかしもせずまっすぐに言う。
「今も…?」
「勿論、殴るよ」躊躇はない。「でも…」
 司はその両手を握り合わせ、力を込めた。深く息を吐いてしまう前にゆっくりと口にした。
「会いたいとは思ってないんだ」
 穏やかな笑顔を三佳に向けた。
(───多分、会うことは無い)
 両親のことについて、阿達や蓮家が調べなかったはずがない。なのに蓮大人や流花はその話題に触れたことはない。阿達政徳も口を閉ざしている。司が問いつめたとき、阿達は両親の行方を「知っている」と答えた、でも具体的なことは何も教えてくれない。
 その意味を考えたとき、苦しくはなかった。
 むしろほっとした。締め付けられていた身体が急に軽くなった、そんな気分だった。楽になり、喜びのあまり指先が震えるほどに。
 諦めていいんだ、と。





「三佳、手」
「ん?」
 促されるまま、差し出された手のひらに三佳は手を重ねると、その手を司がぎゅっと掴んだ。
「はぁ〜…」
 と盛大な溜息を吐く。
「え? …え?」
 頭を抱える司にどう返していいか分からず三佳は慌てる。司はもう一度大きな溜息を吐いて、疲れた声で言った。
「今回はほんと、どうしようかと思った…」
 三佳は目を丸くした。
「何もなくて良かった」
「…心配してたのか?」
「さぁ、どうかな」
 心配されて喜ぶような人間じゃないことは解っている。
 あからさま不服そうな口調の三佳に、司はごまかすように笑った。しかしそれはすぐに収まった。
 ぎゅ、と三佳の手を包む司の指に力が入る。「司?」
 すると突然、三佳の手に柔らかい髪が触れた。
 握った手の上に司は額を落とした。ベンチに座ったまま屈んだ姿勢に、三佳は普段見ることがない司の頭の上を見て照れ臭く思った。
「今日みたいなことで確認するのは情けないけど、………三佳に何かあったら困るよ」
 うつむいたまま低い声で言う。
「困る…って。それ、史緒並の語彙センス」
「うん、でも。そう思うから」
 そう言って、司はさらに手に力を込めた。
「同感」
 浅く息を吸って三佳は短く答えた。声が詰まって、短くしか答えられなかった。



 信頼している人間がいるか、と訊かれたら僕はちょっと悩む。
 真っ先に思い浮かんだのは蓮流花だった。みっともないところを見られたり弱さを吐いたりもした。それでも、厳しさと思いやりをくれる人だ。
 蓮蘭々(川口蘭)もそう。幼い頃、突然異国に放り出された僕に、彼女の存在がどれだけ支えになったことだろう。ただ、今の僕は、蘭の言葉を信じるだろうけど、彼女に弱いところを見せたりはしない。
 関谷篤志。彼の場合はちょっと難しい。出会った最初の頃、僕はとにかく彼に対する猜疑心を棄てることができなかった。その理由を一度蘭にこぼしたことがある。そのとき蘭が言った言葉はこうだ。「篤志さんは決して史緒さんを裏切りません。それだけはわかります」
 その阿達史緒。こっちは少し単純。これはかなり昔から気付いていたことだが、彼女は一度心を許した人間を手放すことができない。その執着心は過保護的でさえある。多分、その人間から裏切られるとか想像もしてないだろう…いや、裏切られてもいいと思ってるかもしれない。
 決して口にしない本心を言うと、三高祥子と一緒にいるのは苦手だ。勿論、嫌いなわけじゃない。仲間として認めている数少ない人物ではある。でも。───他人の感情を見透かすような能力。どうして史緒は平気なんだろう、祥子の力は彼を思い出さずにいられないのに。
 一番付き合いが短い木崎健太郎。やっぱり信頼というのとはかなり違うけど、でもそれに近い感情はある。多分、事務所の人間の中で精神状態が一番安定している。何らかの問題が起きてもその状況を楽しめる強さがある。そういう意味で安心して向き合っていられる人物。
 そして。
(島田三佳は…)




*  *  *




 つい先日、司の師である蓮流花が来日した。
 いつものように史緒に憎まれ口を叩いて、初対面の三佳に挨拶をして、妹の蘭が片思い中という篤志を値踏みした後、司を外へ連れ出した。
「私はあなたに強くなることばかり教えたけど、たまには弱音も吐きなさい。史緒とか蘭とか、三佳ちゃんとかにね」
 そう言って笑った。
「そんなこと言うためだけに日本へ来たんですか」
 実際、流花が言う台詞としてはつまらないものだと思った。
「かわいくないわね」
「そうしつけたのは流花さんでしょ」
 責任転嫁だと言い返されるかと思いきや、流花は少し黙って、その次にずばりと言った。
「目を、治したいと思う?」
「───」
 思いも寄らない質問に虚を突かれた。数えて数秒、声が出なかった。
 黙るな、と小突かれると思い咄嗟に構えたが流花の鉄拳は飛んでこない。そんな風に呑気に考えられたのは、流花の発した言葉があまりにも現実離れしていたからだ。
 気を悪くはしなかった。でも、もし流花以外の人間に言われたなら、こんな胸が引っかかるような気持ちにはならなかっただろう。
 流花が言うのか? それを。
「…怒った?」
「いえ」
「父様が医者を探してるの」
「!」
「欧米を当たってるみたい。あなたに黙ってるのは、余計な期待をさせたくないからよ。だけど、こうして私があなたに話してるのは、父様とは意見が違うからなの」
「どんな風に?」
「私の買い被りであって欲しくないけど、…先の判らない希望に縋って現在を疎かにするあなたじゃないわね。これ、日本語では『捕らぬ狸の皮算用』でいいのかしら?」
「違うと思います。…ちょっと、それ酷くないですか? 僕だって普通の人間なんだから、期待もするしその結果を夢見たりもするよ」司は苦笑した。
「社会は障害者に決して優しくはないけど、不自由を感じないように教えてきたはずよ。見えないことで今の生活に不満があるなら香港に戻りなさい、鍛え直してあげる」
「遠慮します」
「医学の勝利を私は信じてる。───勘違いしないでね。司の目が見えるようになればいいなんて思ってない、それを願い口にしていいのは当人だけだわ。…私は純粋に、医学の進歩を信じて止まないだけ。ヒトは時間と知恵とを引き替えにどんな問題も解決できる生物のはずよ。例え何十年、何百年掛かってもね」
「流花さんのそういうところ、好きですよ」
「あら、ありがと」
「でも流花さんらしくないな。結局、大老とは違う意見って何なんですか」
「…もし医者が見つかって、あなたが光を望んだなら、───長い間、日本を離れることになるわ。多分、何年も」
「───」
「私が言いたいこと、わかるわね? そういうことも含めて、あなたにはよく考える時間が必要だと思ったの。もしこれが余計なお世話だったらごめんなさい。でも、制限時間付きの難問を突きつけられたとき、誤断をして欲しくはないから。…答えを急いたこと、後悔して欲しくないから…私はこうして、数年か数十年か先にあなたに与えられるかもしれない問題を教えてみたのよ」






 僕は三佳のこと、好きだよ。
 ───そんな風に一方的に気持ちを押しつけるのは傲慢なことだとわかっている。けれど。
「同感」
 そう言って欲しかったわけじゃないんだ。

 誰かに必要とされる気持ちは、いずれ自分の行動を制限する源になる。
 自分が相手を強く想っていればいるだけ、尚更。







33話「島田三佳誘拐事件」  END
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