31話/32話/33話
32話「風の中で 後編」


#31  1.病院
   2.阿達家I
   3.蓮家
#32  4.阿達家II
   5.阿達家III
   6.A.CO.





4.阿達家II
 香港で2年間を過ごした。
 後から思い返しても、人生のなかで一番、密度が濃い時期だったと思う。得たものは限りなく多く、手放したもの、諦めたものもあった。何より辛かったし、泣く程の努力ができた体験は貴重だ。
 そしておそらく、最も変化した時間。
 日本へ帰ってきたとき、僕は13歳だった。
 帰国後、一番最初に会いに行ったのは阿達政徳氏で、場所はアダチ本社ビル社長室。
 阿達がまとまった時間が取れなかった為に、社内での面会となった。僕は初めてこの部屋に入った。
「お久しぶりです、七瀬司です。また、お世話になります」
「随分……、成長したようだな。内も外も」
 という阿達の言。その声に微かな驚きが読みとれて、僕は大いに満足した。心の中だけで笑った。
 これがこの2年の成果だ。
 阿達政徳、57歳。アダチグループ総裁、事実上のトップ。おそらく、僕が見えなくなった事故の原因・状況・事後処理を最も把握しているうちの一人。驚異的に多忙な人だから滅多に会う機会は無い。けど、もし、2年前の事故について知りたくなった場合は、この人に尋ねるほか、無いと思う。
 この日、僕はおじさんとひとつの約束をさせられた。
 それは今後6年間という長い期間の自分を束縛させるものだった。僕の立場上それは当然のことと納得できたし、これからの行動の指針にもなる。僕にとってはある意味ありがたいものだ。
「いくつになった」
 語尾は下がっていたけどこれは質問だ。おじさんがこの質問の答えを本当に知らないのか、知っていてわざと答えさせようとしているのかを考える。きっと後者だ。
「13歳です」
「20歳になるまでは私が後見人になる」
「宜しくお願いします」
「必要なものがあれば和成に言え。学業や趣味なども、できる限り力になろう。遠慮している暇があれば、自分を高める方へ、労力を費やして欲しい。───これは2年前の事故の賠償ではないよ。優秀な人材を育てることへの投資だ」
 ただひとつ条件がある、とも。
「20歳までに、自分の進むべき道を選ぶこと。どんな仕事に就き、どうやって生活していくのか考えろ。そこまでの勉強、生活…前にも言った通り、そのための投資は惜しまない」
 遊ばせるつもりはない、ということか。
(どっちにしろ慈善事業だと思うけど)
 本心から、ありがたいことだとは思う。独りで生きられない、阿達の世話にならなければ僕には寝る場所も無いことは分かってる。こんな好条件で受け入れてくれることに、感謝しなければならない。僕には、他に受け入れてくれる身寄りも無いのだから。
「質問があります」
「なんだ」
「僕の両親が、どうしているか」
「!」
 それを聞いたおじさんが息を飲むのが聞こえた。回答に詰まるのがわかった。
(…すんなり答えてもらえるとは思ってなかったけど)
 しばらく待っても、おじさんは言葉を発するための息を吸わなかった。社長室の中の静かな空気は変わらなかった。
 質問を変えることにする。
「僕の両親がどうしているか、おじさんは知ってるんですか?」
 遠回しな表現にしてみた。
 するとおじさんは苦しそうな溜息を吐いて、
「知っている」
 と答えた。
「───じゃあ、いいです」
「司」
「すみません、忘れてください」
 僕は頭を下げて謝り、質問を取り下げた。おじさんは何か言いたそうだったけど、それを聞く気にはならない。
 両親のことを知りたいとは思わない。できるなら忘れたいと願う。
 なのに矛盾する質問を口にするなんて。
 それをおじさんに訊いてしまったのは、明らかに僕の弱さで、修行不足の現れだ。僕の師である流花さんや蓮老人がここにいたら、嫌みのひとつも言われてたと思う。
(帰国早々これじゃ、先が思いやられるなぁ)
 昔のことはできるだけ忘れて、新しい生活に馴染まなきゃいけないのに。
 僕はもう一度、阿達に謝罪の言葉を口にした。




*  *  *




 迎えに来てくれた一条和成に連れられて、約2年ぶりに阿達家に戻っても、あまり懐かしさを感じなかった。忘れずによく覚えていた、という意味ではない。あの頃は今のような感覚能力も無くて、目隠しをされて壁伝いに歩いていたようなものだから、家についての(例えば、間取りや家具の配置など)記憶はまったく残って無かった。たった一月しかいなかったせいもあるだろう。
 当時の自分の状況判断能力は当てにならない。すべて最初から覚え直しだ。
「まぁ! 司くん!? …ずいぶん立派になられて、ええ、おかえりなさい」
「こんにちは、マキさん。またお世話になります」
 阿達家の通いの家政婦、真木敬子。33歳。既婚。この家では和成より古株だというから、おそらく阿達の人間以外で、この家のことを最もよく知る人物。
 再会を喜ぶ振りをしつつ、情報を頭にたたき込む。これはもう。ほとんど無意識の作業。
 和成がマキに訊いた。「櫻は?」
「今日は戻らないと連絡ありました」「史緒は?」「お部屋に」
 一条和成は23歳。この家の居候(阿達との関係、立場など、僕は知らない)。大学生で、阿達家の長女・史緒の家庭教師だという。
「今、挨拶しとく?」和成が訊いてきた。史緒に会わせておこう、という思いらしい。
「…うん」
 少しだけ迷って、頷く。
 その迷う時間、返答のほんの少しの遅れを、蓮流花はとても嫌がる。その迷いを相手に悟られるなと教えられた。
(でも)
 迷うだけの理由があった。
「おまえのことも嫌いだ」
 2年前、史緒に言ったことがある。今思うと赤面モノの子供じみた八つ当たり。
 史緒と馴れ合うことは無いだろうけど、これから同じ屋根の下で暮らすわけだし、余計な確執は無いに超したことは無いし、謝れるものなら謝っておこう。少しの自尊心を犠牲にしてでも。

「史緒」
 2階、扉の前で和成が呼ぶと、部屋の中でキィ(椅子?)と小さく鳴った。少しの間。
 引きずるような足音がした。同時に、全く別のトトトッという軽いステップ。後者は4本足だということが聞いてとれる。
 ───今更ながら、流花がくれたこの能力は偉大だ。2年前この家にいた時は、足音さえ聞こえなかったというのに。
 ドアのすぐ向こうに足音がたどり着いても、まだ逡巡があるようで、また少しの間がある。
 このあまりにも無駄な時間に何も言わず付き合っている和成にも、少しだけ呆れた。
 やっと、微かにドアが開く音がした。
「…なに」
 ぼそっと、女の子の声。言葉を伝える気があるのか怪しいくらい小さな声だった。
 この声が阿達史緒、僕よりひとつ下で12歳。普通ならば中学に通うところだが、和成に勉強を教わっているという。
 そして足下から聞こえる軽いステップは「ネコ」だ。
「七瀬くんだよ。またここで暮らすから」
「よろしく」
 印象を悪くしない程度の笑顔を見せる。
 何を言われるかと構えていた、しかし返ってきたのは尻上がり調の呟きだった。
「ななせ…?」
 誰だっけ。
 と続きそうな響き。
(忘れられてたのか)
 拍子抜けだった。
 出国前の暴言をどう謝ろうかと、散々シミュレーションしてきたのに。



「でも、史緒さんは最近になって落ち着いてきましたよ。櫻さんの外出が増えたからだと思います」
 台所仕事をしながらマキが言った。その声は心なしか嬉しそうだった。彼女も、櫻と史緒の関係を案じている一人なのかもしれない。
 櫻は外出することが増えたというその言葉通り、帰国してから2週間、櫻と顔を合わせる機会は無かった。



 目の前に人の気配を感じて足を止めた。その気配を分析するより早く、足を止めた。
 そして耳を澄ます。呼吸を聞く。史緒、マキ、和成、…皆、違う。帰国してから聞いたものじゃない。
(まさか───)
「櫻?」
 フッ、と吐息が聞こえた。笑った。
「惜しい。あと一歩進んでたら、目蓋に刺さってたのに」
 低い割に滑舌の良い声。
「え」
「冗談」
 すぐに声が返る。一瞬で凍った体がゆっくりと溶け出した。「何が刺さるとこだったの?」
「知らないほうが恐怖心を煽る」
 その通りだった。恐怖心をやわらげる為に、僕は確認したのだ。
 そして恐怖心を煽る為に、彼は答えなかった。
 彼が阿達櫻。
 17歳。都内の高校に通っていると聞いた。阿達家の長男、史緒の兄。
「七瀬が戻ってるってマジだったんだ」
 高い位置から声が聞こえる。僕だけじゃなく彼も背が伸びていた。
「またここに住むわけ? へーぇ、図々しいと思わないかな、普通」
「…」
「親父も気色悪い同情はやめて、その辺の施設に投げときゃいいのに。外聞を気にしすぎだ」
 脳が締め付けられるような緊張感がある。心拍数が上がりそうになるのを必死で抑えた。
 ()せるような煙草の臭いがした。
「僕のこと、誰かから聞いてたの?」
 会話を無視して質問すると櫻は鼻白んだようだった。
「咲子」
 と短い答えが返る。
(サキコ…?)
「誰?」
「そのうち呼ばれるさ。向こうも七瀬に会いたがってる」面倒くさそうにかわす。「それにしても…」
 笑いを堪えきれないように吹き出した。
「結局、見えないままなんだ?」
 あはは、と大げさに声を立てて、櫻は笑った。
 櫻が笑い出す前に、少しの間があった。もしかしたら、僕の視力を何らかの行為で確認したのかもしれない。
「あのじーさんなら、どんな手でも使うと思ったけど、今度ばかりは金と人脈じゃ済まなかったわけか。いくら離婁(りろう)(めい)を仕込まれたとしても人生80年、先は長いぜ? ご愁傷様」
「……そんなことないよっ」
 ムキになってしまった。
 今更、見えないことを指摘されて心を痛めたりしないけど。
 胸に靄がかかったように気分が悪い。
 僕をからかうことに飽きたのか声がそっぽを向いた。
「まぁ、邪魔さえしなければ七瀬に用は無いよ」
 足音とともに声が遠ざかる。
「阿達の中で適当に遊んでろよ、死ぬまでさ」
「───」
 たったそれだけの台詞に、惜しみない悪意を感じた。
(なんで、こんな風に言われなきゃならないんだ)
 櫻も史緒も、あまり好きになれそうになかった。




 帰国して最初のうちは病院通いの日々が続いた。またかというか慣れたというか。
 2年前に入院していた病院と同じ所で、そこでも僕は2年の変貌ぶりを驚かれた。
 医師の勧めもあり養護学校へ通ったりもした。けどすぐに辞めた。障害者同士のコミュニケーション以外に得るものはない。それにこれは僕の差別意識かもしれないけど、障害者同士で馴れ合うのは嫌だった。


 ある日、和成に連れられて、知らない場所へ来た。
 建物の中へ入ると、静かな、長い廊下を歩いた。途中、何人かとすれ違ったけど、皆、心なしか足取りが重い。
 壁に染みついた薬の匂いがした。よく知っている空気だ。
 後から和成に聞いた話によると、ここは郊外の療養施設だということらしい。
「咲子さん、連れてきたよ」
 そのうちの一室に入るなり、和成は僕の肩を押し、前を歩かせた。
「司くん!?」
 部屋に響く高い声。予想してなかった大声に少しだけ驚いた。
 細い指先が僕の手に触れる。
「はじめまして、咲子です。櫻と史緒のお母さんで、政徳くんの奥さん。よろしくね」
 その女性はベッドの上で上体を起こし、僕に手を伸ばしていた。何か病気に罹っているのだろうけど、それを感じさせない明るいオーラ。細い指だけど、僕の手を握る手は確かな力があった。
「七瀬司です。あの…もしかして史緒はおばさん似?」
「ん? う〜ん、どうかなぁ。和くんはどう思う?」
「造形はあまり似てないでしょ。どちらかといえば櫻が咲子さんに似ていて、史緒はおじさん似じゃないかな」
「ですって。でもどうして?」
「声が似てるから」
「ホント? 嬉しい!」
「…」
 演技じゃない咲子のはしゃぎように言葉を失った。
 史緒はこんな明るい声で喋らない。でも似てると分かる。確かに母子なのだろう。
 ちょっと信じられない。
「あっと、あのね、私のことは“おばさん”じゃなくて、できれば名前で呼んでくれるかな」
「名前?」
「そう。咲子。綺麗な名前でしょう?」
 自分で言うか? でも全然嫌みじゃない。
「私ね、子供の頃から病気ばっかりで、友達っていなかったんだ。だから大きくなって結婚したら、子供を沢山産んで、友達みたいな関係になるのが夢だったの」
 …まるで子供のように。
 咲子は心を躍らせて語る。
 こんな「親」もいるんだと、素直に驚いた。
 確かに、櫻はこの人のことを「咲子」と呼んでいた。史緒の口からは聞いたことはないが、史緒も同様に名前で呼んでいるのかもしれない。
「施設にも沢山お友達がいるよ。政徳くんや櫻もたまに来てくれるし、マキちゃんも差し入れ持って来てくれるし、和くんも史緒を連れてきてくれる。蘭ちゃんも日本に来たときは必ず顔見せてくれるんだよ」
「……櫻も?」
「うん? そう。最近では一番の常連さん」
 くすくすと声を立てて笑う。
(櫻が?)
 声には出さないけど、彼の名を強調してしまう。
 櫻は母親に対してどういう態度を取っているのだろうか。まさかこの人に対しても酷い言葉をぶつけていたりするのか? でもそれなら咲子の明るい声の説明がつかない。櫻はこの人の前では変わるんだろうか。ちょっとそれは想像できない。
 史緒も。この人の前では和成のときと同様、普通に会話するのか? そして阿達のおじさんも。
 咲子に会うまでは分かっていたつもりだった阿達家の家族像。それが今日、途端に分からなくなった。
 阿達咲子という存在によって。
「司くんも友達になろう」
 その本人は、子供相手に諭すでもなく、真剣に提案する。
 穏やかに笑いながら。


*  *  *


 阿達家の自分の部屋で本を読んでいた。勿論、点字だ。(少し離れた場所に点字本を多く揃えている病院付属の図書館がある)
 日頃、病院へ行けば医者や看護婦、顔見知りの入院患者とそつなく世間話をしたりする僕だけど、阿達家ではそうじゃない。櫻もそうだが史緒とも、あまり関わろうとは思わない。2人の兄妹を比べると櫻のほうがマシだろうか、会話が成り立つという意味において。その櫻とさえすすんで話したいとは思えないので、家にいるときは僕も自分の部屋にいることが多かった。
 その本から顔を上げる。
 さっきから4度目のことだ。
 しおり代わりに、近くにあったカセットテープをページにはさみ、机の上に本を置いて立ち上がる。
(何のつもりだろう)
 さっきから、廊下を行ったり来たりする足音があった。気になって本に集中することができない。
 僕に対する嫌がらせか?
「史緒」
 少し強めの声でドアを開けると、足音がピタリとやみ、息を飲む音が聞こえた。
 足音で、既に史緒だと判っていた。
「どうかしたの?」
 わざと咎めるように言った。史緒は小さい声で「ぁ…、あの」と口にした。
 何か言いたそうだった。けれど「…なんでもない」としまう。
「ふぅん」
 僕はまたドアを閉めた。
「うろうろするな」と言ってやればよかった(そんなこと言える立場でもないんだけど)。だいたい、いつもは部屋から出てこないくせに、何をしていたんだろう。
「……」
(おかしいな)
 今、1階には櫻がいるはず。和成は出かけている。そんな時に史緒が廊下をうろつく理由があるだろうか。
 首を捻りながら机へ戻る。するとまた足音が聞こえ始めた。
(…っなんなんだ)
 憤り半分、疑問半分。
 やはり、櫻がいる1階へは降りられないのか、階段手前で少しの間があって、足音は戻ってきた。
 まるで何かを探しているようだ。
 一応、僕に気を遣ったのか、足音を立てないようにしている。けれどそれが余計に気になった。読書を再開できないことは確かだ。
 もう一度、ドアを開ける。
 ビクッと驚いた気配がして、史緒は消え入りそうな声で「…ごめんなさい」と呟いた。
 謝るくらいなら、と言いかけた、しかしその時、ピンときた。
 わかった。多分、史緒に部屋の外を歩かせる理由は、和成かコレしかない。
「もしかして、ネコがいないの?」
 尋ねると、
「…ッ」
 短く、息を吸う音が聞こえた。
 やっぱり、史緒の周囲からネコの気配が無い。
「ネコを探してるの?」
「…そ、そう」
 もう少し落ち着いて喋れないものだろうか。イライラしてくる。
「あの…、七瀬くんのところには、いない?」
 史緒が僕の名前を呼ぶのはこれが初めてだ。少し驚いた。
「こっちには来てないけど」
「そう…」
 僕のところにネコがいるとは、あまり期待していなかったらしい。
「じゃあやっぱり櫻が…」と独り言のように呟いた声は小さく、酷く歪んでいた。
「櫻?」
「あ……、たまに、あるの。こういう、こと」
「ふぅん」
(櫻にしては子供っぽいイタズラだな)
「あの…煩くしてごめんなさい。もう、部屋に戻るから」
 そんなこと言われても、事情を聞いておいて放っておくわけにはいかないし。(めんどくさ…)
「探さないの?」
「…夜になれば、戻ると思うし」
「櫻はいつもネコをどこへ?」
「…外、とか。ベランダとか」
 語尾が震えていた。(この程度のイタズラに何を怖がってるんだろう)
(そうか)
 単に、史緒はネコを手元に置いておかないと落ち着かないだけなのかも。
(…)ふと、史緒とは違うほうへ意識が向いた。(あれ?)
「───…ちょっと待って」
「え?」
 人差し指を鼻先に立てて(こういうジェスチャも流花に叩き込まれた)史緒を黙らせると、僕は足音を立てないようにゆっくりと階段を降りる。踊り場で一度立ち止まって確認。また階段を降りる。
 階段下には物置があった。脚立や工具など入っていて危険だからと、僕は入らないよう言われていた。その物置の扉の前に立ち、神経を集中させる。「……」そんなに気を張らなくても、それは聞こえた。
 史緒は踊り場まで降りてきていた。こちらの様子を窺っているようだ。
「いるよ、ここに」
 その史緒に向かって、奥の部屋の櫻に聞こえないように小さな声で言う。「え…?」史緒は意味が分からなかったようだ。
「ネコ」
 史緒は全く気付かなかったようだけど、微かに聞こえていた、鳴き声。
「…ほんと!?」
 史緒はすぐさま降りてきて、物置の扉を開けた。そして中へ入る。物置といっても結構広いみたい、史緒はどんどん奥へ足を踏み入れていた。「ネコ」史緒の声がする。次いで、ガチャガチャと金属が触れる音がする。物を動かしているのだろうか。
「ネコ?」
 にー、と鳴き声がした。
 史緒が息を吸った。
「ネコ…っ」
 心から安堵したような声で「よかった…」史緒は呟く。
 まるで排水溝に落とした鍵を拾い上げたときのような声だった。
「よかった…」
 何度も繰り返す。
「───」
 どうもその辺の心理はよく解らない。
(まさか櫻がイタズラでネコを傷つけると思ってるわけじゃないだろ)
 家内の監禁ならかわいいもんじゃないか。
(解らないなぁ)
 史緒は何をそんなに恐れているんだろう。
 ようやく物置から出てきた。ネコを抱いているらしい。史緒はそのまま小走りで2階へと逃げる。その後を追う。
 櫻には見つからなかったし、一段落というわけだ。
「!」
 史緒は部屋へ帰る途中、僕の部屋の前で止まった。そして振り返る。
「……あの」息を飲む。
「あ、ありがと!」
「───」
 僕は一瞬遅れて「…え!?」大きく聞き返してしまった。
 でもこれは疑問じゃない。自分の耳を疑っただけで。
 史緒はそのまま奥の部屋へ。ぱたん、とドアが閉じた。
 僕はしばらくその場に立ちつくしていた。
 お礼を言われただけでこんなに照れたのは初めてだった。お礼を言われるとは思ってなかった。







 病院の帰り道、鉄道の最寄り駅から阿達家へ向かうバスの中で櫻と一緒になった。
「よぉ、珍しいな」
 珍しい、というのは、道すがら会ったことを指していた。
 声をかけられるまで櫻だと気付かなかった。ディーゼルのエンジン音が煩いせいだ。
「おい、杖、邪魔」
 邪魔にならないように持つ習慣は身に付いているので、これは櫻のフェイクだと思う。無視するのも気まずいので杖を持ち替えると、どかっと隣に櫻が座った。通常無い接近に緊張した。
「混んでるのにな。障害者の隣は座りにくいもんかね」
「───」
 本気で心臓にナイフが刺さったのかと思った。
(どうしてこう、一番痛いところを突いてくるんだろう)
 自分を罵倒されたほうがマシだった。周囲の人間が気を遣っていると指摘されることに比べれば。
「…学校の帰り?」
「ああ」
 つまらなそうに返事をする。さっき僕に言ったことも気に留めてない。
「忙しそうだね」
 何か話しかけていないと沈黙に押し潰されそうだ。
「まー、そりゃあ、…部屋に閉じ篭もっているだけのお嬢さんに比べれば誰でもな」
 途端に毒が注がれる。薄く笑った。
「悪意はあれど攻撃せず。…アレは馬鹿だな」



 2人してバスを降りた。できれば遠慮したかったけど、帰る家は同じなので自然と並んで歩くことになる。
 バス停から阿達家までは5分ほど歩かなければならなかった。
 もうこの辺りは住宅街で、バスが遠ざかると車通りも無く人通りも少ない。無言で並んで歩いているのが気まずかった。
「知ってるんだね、史緒が櫻のこと嫌ってるって」
 口にしてしまって、(…やだな)後悔した。櫻がまともに返事するとは思えない。逆にどんな毒舌を返されるかと身構える。
 予想していた見下すような言葉は返ってこなかった。
 櫻はさらりと短く言った。
「それは俺のほう」
 興味無さそうに言う。まるで、片耳の話題に適当に返事をするように。
「え?」
 意味が解らず聞き返すと、口調はそのままにゆっくりと続けた。
「史緒は単に怯えてるだけ。そして俺は史緒のこと嫌い。ああいう弱い人間は侮蔑の対象」
「…え?」
 聞き返したけど、意味は伝わっていた。
 「嫌い」、と。僕に合わせたんだろうけど、櫻にはそぐわない語彙で。
 あまりにもあっさりと言う。それでも僕は立ち眩みするような衝撃を受けていた。
 櫻はいつも他人を見下しているような物言いをするから、好きとか嫌いとか、周囲の人間に対してそういう感情を持ってるとは思わなかった。
 櫻が気持ちを口にしたのも初めて聞いた。もしかしたら本心じゃないかもしれない、からかわれてるのかも。でも「侮蔑の対象」って。そこまで言うか? それに、
(史緒は櫻に対して怯えている…?)
 そう言われてみえば、確かにそうかもしれない。櫻から逃げるように生活して、部屋に篭もっている。
(どうして史緒は怯えてるんだろう?)
 訊いてみようとした矢先、クスリと笑う息が聞こえた。櫻だ。
「あいつは無能だよ」
「───」
 櫻はそう言い捨てて、笑みをしまい込んだ。
 阿達櫻、阿達史緒。この兄妹の関係が余計解らなくなってきた。和成は何か知ってるんだろうか。おじさんは?
 阿達咲子はこの兄妹をどう見てるんだろう。頻繁に見舞いに行っているという櫻、櫻と咲子はどんな風にどんな話をするんだろう。「七瀬さぁ」
「他人のことより自分の心配しろよ。お喋りに気を取られると現在地が判らなくなるんじゃないのか。俺が正しい場所へ向かっているとは限らないだろ」
 胸を射られてピタリと足を止めた。今まで考えていたことも拡散してしまった。
 3歩遅れて櫻も止まったようだ。
「…っ」
 その櫻に対して苛立ちを覚えた。もどかしかった。
(───どうしてわかるんだっ!?)
 いつかと同じ疑問。寒気を感じたのに、背中に汗を掻いていた。
 歩きながら会話をすると、頭の中に敷いてある地図座標の正確性が薄れる。それは櫻の言う通りだ。
(それだけじゃない!)
 その正確性を補うために、無意識で、同じ家へ帰る櫻を頼っていた───付いて行けば帰れると、地図トレースを甘くしていた───、櫻はすべて見抜いている。
 心臓がひやりとした。その想像力に。
 もし今、何気ない会話をしながら櫻が全く違う場所へ行っても、僕は気付かずにそのまま付いていってしまうだろう。自分の注意力の無さが恐ろしい。
「櫻」
「なに」
 寒気に我慢できなくなった。
「どうしてわかるの? 櫻は見えてるんでしょ? なのにどうして僕が見ているものが解るの? なんでいつもそんな…なんでも見抜いたような…」
 冷静さを失った。言葉をうまくまとめられない。
 櫻を怖いと感じるのは、彼の言葉が持つ刃だけが理由じゃない。もっと柔らかい、もっと浅いところでも。
 見抜かれている、と感じる。それが一番痛い。
 見抜いていて、それでも、酷い言葉を与えてくるのが痛い。
「ははは」いつもの薄ら笑いが聞こえた。「どうしてって聞かれてもな」
 櫻は、笑うのをやめた。
「見えないおまえには解らない。教えても無駄」
「!」
 そのセリフにさえ、深く不安になる。
 どんな努力をしても、見えないことが大きなハンデのような気がして。

 頭痛が酷くなった。
 櫻に言われたことに傷ついたからじゃない。だって気付いてしまった。
 櫻の言葉は、すべてが本心じゃない。
 櫻は単に、相手を傷つける為だけに言葉を選んだのだ。
 それだけなんだ。
 その人格と、さらにそれに気付いてしまった自分の思考回路に、気分が悪くなった。
 2年前は櫻の言動に素直に踊らされていた。けれど今は、わずかながら分析することができる。
 底が見えないのは相変わらずだけど。
 ───阿達櫻という人間は、他人に危機感を与えないと気が済まないのかもしれない。
(何故?)(わからない)
 からかうことが目的じゃない。かけてくる言葉はどれも本気じゃない。誰も目に止めてない。何を見てるんだろう。一点へ向かい歩いているのに、その途中の風景で見かける他人に、緊張や不安をちらつかせてその反応を見ないと気が済まない。まるでそんな風に思えた。






 こんな出来事があった。
 その夜は大きな台風が上陸していた。壁を軋ませる暴力的な風と、屋根に穴を開ける雨が、関東中を襲っているような、不安定な煩い夜だった。
 雷が鳴っていた。まだ、遠い。
 そして頭痛。
 蓮家に居たときからこれだけは直らなかった。(流花はそれを当然だと言ったけど)
 雷の音に掻き消され、他の物音が聞こえなくなる。それ以外、何も聞こえなくなる。途端に世界がわからなくなる。
 流花曰く。「継続して目が眩んでいるのと同じような状態かしら。見える人間にとっては」
 雷が酷いとき、動けなくなる。遠ざかるのを待つしかない。
 だからこの日も、僕は居間のソファに座って丸くなっていた。
 それはちょうど雷がひとつ、鳴ったときのこと。
 パチという音が鳴り、突然、蛍光灯がヴン鳴り始めた。
「わ…っ?」
 思わず声を上げてしまう。続いて、トトトトッ、小さな足音が近づいてきた。「え?」
 トン、と床を叩く音がして、膝の上に何か降ってきた。それは「にー」と鳴いた。
「え…、ネコ?」
 恐る恐る手で触ってみると、柔らかい毛並みが擦り寄ってくる。その確かな重さと温かさに、何故かほっとした。
(あ…)
「史緒?」
 居る、という確信。
 その通り背後に彼女はいた。さっきのパチという音は史緒が部屋の照明をつけた音だ。
 史緒は無言のまま歩を進めて、僕の向かいのソファに腰を降ろした。何も言わなかった。
「どうしたの?」
 ネコは僕の膝の上に座り尻尾を丸めていた。居座る体勢だ。
「…ネコが、降りてきた、から」
 と、史緒は小さく答えた。
(そうじゃなくて)
 ネコを連れてさっさと部屋へ戻ればいいのに。
 でも史緒は戻ろうとはせず、じっとソファに座っていた。
(何のつもりだろう)
 いつも部屋に閉じ篭もっているくせに。
 こんな風に史緒と向き合うのは初めてだった。でも史緒はやはり何も喋らず、気まずい沈黙が始まる。
 櫻がいるときのような感情の乱れが、今の史緒には無い。何を見てるんだろう。(何も見てないかも。もしかしたら寝てるのかも)それくらい、静かな呼吸。静かな、時計の音。
 多分、ここに櫻が現れたらそれは一変するんだろうな。
 櫻に怯えてる史緒と、今みたいに穏やかで静かな史緒。対極な2つの史緒しか僕は知らない。
 蓮蘭々とはどんな風に接するんだろう。おじさんや咲子、和成とは? そして片時も離れないでいるネコ。
 そのネコも今は僕の膝の上にいるけど。
 こんな風に生き物を触ったのは久しぶりで、その確かな温かさは不思議な感覚だった。
 ───いつの間にか雷の音が遠ざかっていた。
(いつのまに)つい10分前との落差に驚く。
(独りでいるときとこんなに違うんだ)
 膝の上のネコの温かさだけで、安心することができるなんて。ネコだけじゃない。
(……?)
 ふと、向かいに座る人物がここに居ることの理由を想像してみた。
(まさか)
 彼女に、他人が見えてるとは思えない。
「…史緒?」
 窺うように呼ぶと、
「ん?」
 小さい声だった。けれど確かに聞こえた。史緒の、短い返事があった。
「───…っ」
 それだけのことに妙に感心した。
 史緒は本当は返事をするのも億劫なのだろう。頷くとか、そういう仕草で意思表示したいのではないか。それでも声を出して返事をしたのは、相手が僕だからだ。そういう気の遣い方ができる人間だとは思ってなかった。
「酷い天気だね」
「……。ね」
 ワンテンポ遅れて返事がくる。
「なんかネコが、首の辺り引っ掻いてくるんだけど」
「…クセ」
「ふぅん」
 爪は出てないようで、痛いわけじゃないけど、さっきからポンポンと胸を叩かれている。(猫にも癖なんてあるんだ)
「和成さんって、今出かけてるの?」
「和くんは。学校」
「マキさんは来てないよね、櫻は?」
「───」
 途端に、史緒は黙り込んだ。呼吸が凍り付くのが伝わった。
「…ごめん」
 何故だか、謝ってしまう。
 大体、櫻がいるなら、史緒が階下へ降りてくるはずはないんだ。分かり切っていることを聞いてしまった。
 僕自身、少し喋りすぎていたようで、後悔した。そして気付いた。
 この天気から気を紛らわすために、僕は史緒に話しかけていたんだ。自分の未熟さに笑いが込み上げた。
 そのとき、廊下の向こうから玄関が開く音がした。一瞬だけ雨の音が大きくなって、また小さくなった。
 ガタンッ
 ソファから立ち上がった史緒、テーブルに足をぶつけたらしい。
 玄関から近づく足音に一気に緊張する。総毛立つように、全身身構えている。
「和成さんだよ、櫻じゃない」
 足音でわかっている。わざわざ教えてやったのに、
「…ゃ」
 史緒は僕の言葉を信じてない(というより聞いてない)ようで、逃げ腰、不器用な足取りでキッチンのほうへ避難してしまった。
(なんで分からないんだろ)
 こんな当たり前のような、足音の違いに。
 それに僕の言葉にまったく耳を貸さない史緒の行動にもちょっと不満だった。
 がらり。リビングの引き戸が開く。
「司? 珍しいね、電気つけて」
 和成が現れて声をかけた。
「ううん、史緒が…」「史緒?」
 説明しようとしたところで、
「和くん!?」
 史緒の声。さっきまでのおどおどした声でなく、はっきりと意志のある響きだった。
「ああ、いたのか。ただいま」
 パタパタと駆け寄る足音。「おかえりなさい」
 きっと史緒は和成に対しては、その目を見て話しているんだろうなと思った。
 僕と話してるときに目を見られても困るけど(意味無いし)、多分、その場合は史緒はこちらを見てない。
 櫻への恐怖、ネコとの静逸。もうひとつ、3つめの史緒を見た思いがした。
 なんというかやっぱり。
 史緒にとって一条和成は特別な存在なんだろう。



*  *  *



 阿達咲子の死に、僕は泣かなかった。
 何度か会って、その度に仲良くしてもらったのに。
 どうして泣かないんだろう、感覚を鋭くすると感情が鈍くなるのだろうか。それとも自分が思っているほど、咲子と打ち解けていなかったから? 他人と、どこか一線を引いている自分を自覚しているから?
 報せを聞いたときはむしろ驚いた。
 咲子が重い病気で入院しているのは知ってた。まさか本当に死ぬなんて夢にも思わなかったから、だから、驚いた。
 僕は泣かなかった。
 ただ、少し息苦しくなる。肺の中をつねられたような、胸の痛みだけを感じていた。



 1994年4月。
 その日はとても暖かくて、やわらかい風が吹いていた。汗ばむほどでもなく、おだやかな陽気で、髪の隙間を通り抜ける風が本当に気持ちよかった。多分、空は青い。
 沢山の人が集まっていた。
 空から顔を前に戻すと、鼻につく線香の匂い。雑踏のひといきれも濁り、途端に気分が悪くなった。
 仕方ないけれど、そちらへ歩き出す。
 通り過ぎる人達から二種類の会話が聞こえてくる。その違いで、咲子と仲良くしていた病院関係者か、おじさんの会社関係者かを区別することができた。
「天下のアダチ社長夫人が一度も公の場に出ることなく死ぬとはね。一部の経済誌はネタにするかな」
「経済界に限らず、大物が集うパーティは異性同伴が暗黙の原則。社長もよく我慢したよ」
「娘はアレだしな、息子はたまに見かけたけど」
「実際、社長夫人と面識あるヤツ、いるの?」
「無いけど、どこかの社長令嬢だって聞いたことある」
「なんだ、結局は閨閥(けいばつ)かよ」
 そんな会話が聞こえる。意味はよくわからなかったけど、咲子があまり良く思われてないのはわかった。
 そのとき、
「おい! 子供に聞かせる話じゃないだろう!」
 と、一喝する声があった。
 噂話をしていた人達とは明らかに違う年代、多分、50歳くらいだろう。そしてこの場合「子供」とは僕のことだ。
 一喝されたほうの面々は気まずそうに散っていった。
 男は軽く息を吐いた。
「こんにちは」
 先ほどの一喝とは違う、かすれた低い声。でも口調はしっかりとして、鋭さを感じさせた。
「君が七瀬司くん?」
「はい、そうです」
 名指しされたけれど、こちらは初対面だ。記憶違いはない。
「娘が世話になったそうだね、ありがとう」
「娘?」
「あの子は小さい頃から病気ばかりで学校へも行けなかったから、友達が欲しいというのが口癖だった。司くんも、あの子の友達になってくれたんだろう?」
「…。───ぁ」
 男性は、阿達咲子の父親だった。櫻や史緒の祖父にあたるはずだが、この人の存在を聞いたことは無いので、正直驚いた。
 年齢は、僕の読みが外れて60歳だという。阿達のおじさんのように、この人も会社を経営しているらしい。
「会社と言っても、名もない中小企業だよ」
 それは謙遜なのか劣等感なのか考える。どちらでも無い気がした。つまり事実。
「咲子が死んで、これでさらに阿達から足が遠のくな」
 と、咲子の父親は苦笑した。
「咲子は成人まで生きられないと言われていた。それが結婚までして、3人も子供を産んだ」
(3人…?)
「あの子は幸せだった。…阿達には感謝してるよ」
 その人は僕の前では最後まで態度を崩さなかった。もしかしたら阿達のように、今日までに気持ちを整理してきたのかもしれない。

「司。史緒を見なかったか?」
 阿達政徳が僕のところへ来て言った。彼は今日の喪主だ。
 史緒は朝から見てない。
「いいえ」
「そうか…」
 阿達はここ数日の疲労が明らかに表れている。立場上、会社の仕事も休むことができない。ここ数日は会社と家を行ったり来たりで、多分、寝てないはずだ。
「和成さんと一緒じゃないですか?」
「いや、和成は真木君の手伝いをしているから…」
「櫻は?」
「あいつは専務の相手をしている」
「そうですか…」
 史緒の居場所は本当に分からないけど、多分、史緒は今日一日現れないだろう。嫌なことからはとことん目を逸らす、彼女の悪いところだ。
 2日前、咲子は自分の最期におじさんしか呼ばなかった。終わった後に家に連絡が来て、櫻とマキと僕が病院へ向かった。史緒は「どうしても行きたくない」と声を荒げて拒否し続けたので、しょうがなく和成も残ったのだ。
「阿達くん」
 離れた所から声がかかった。女性にしては少し低い声、年は30代から40代あたり。
「……和代?」僅かに上ずったおじさんの声。
 呼びつけにしたのが意外だった。おじさんは本当に驚いているようで、何度か深い呼吸を繰り返し、息を整えていた。
「久しぶりだな」
「ホントにお久しぶり。あなたとは10年以上、会ってなかったわよね」
「咲子とは、会ってたんだろう?」
「もちろん、親友ですから」
 そこまで明るい声で言ってみせていた女性は、声を詰まらせた。「この度はご愁傷様です。…本当に」
「君もな」
「───ねぇ、お隣の子は? 櫻くん…じゃあ、ないわね。確か大学生だったから」
「ああ、ちょっと世話してる子だ」
「七瀬司です。はじめまして」
「はじめまして、こんにちは。関谷といいます。阿達くんと咲子とは古い友人なの」
 ああ、なるほど、と初めて納得できた。この関谷という女性と、咲子さんとおじさんは昔からの友達で、おじさんは仕事が忙しく会う機会が減ったが、咲子さんとは付き合いが続いていたのだろう。
「旦那はどうした」
 と、おじさんが尋ねる。
「後から来るわ。私は息子と一緒に」
「! …子供、いたのか?」
 虚を突かれたような声をあげた。その反応がおかしかったのか、和代は苦笑した。
「10年以上ぶりだもの、お互いの状況が変わるのは当然よぉ。ウチの子はもう高校生。───ぁ、いたいた。…篤志!」
 声を強めて、遠くへ声を投げる。その声に応えたのか、ややあって足音が近づいてきた。
 足音は背後から駆け寄り、脇を通り過ぎて、関谷和代の隣で止まる。なに? と小さく囁いた声が聞こえた。和代が答える。
「阿達くんよ。それに七瀬くんですって。挨拶なさい」
 足下の土が鳴り、こちらに向き直ったのがわかった。
 少しの沈黙の間に、何故だか、彼(?)は息を飲んだ。
 微かな緊張が伝わってきた。
(───…?)
 緊張?
 しかしそんな気配が嘘のように、次に発せられた声は、落ち着いた力強いものだった。
「はじめまして。関谷篤志です」






5.阿達家III
 関谷篤志はその後、阿達家に出入りするようになった。
 横浜在住で高校生ということだが、週末になると決まって顔を出す。篤志が家に出入りすることは阿達のおじさんも許可したらしい。その理由を和成さん経由で聞いた。関谷篤志は「阿達夫婦の旧友の息子」というだけでなく、実は阿達家の遠縁に当たるのだそうだ。なんでも篤志の父親と阿達のおじさんが従兄同士という関係らしい。
「親戚?」
 櫻は不審気な声を隠さない。
「よろしく」
 その櫻にまったく臆さない篤志。
 並んで声を聴くと分かる、2人とも背が高い。ほとんど同じくらいだろう。
 年齢は櫻のほうがふたつ上で、櫻は18歳、篤志は16歳だ。
「一条、本当なのか」
 櫻は篤志を無視して、僕の隣に立つ和成さんに言った。
「おじさんはそうだと言ってる」
「へーえ、それはそれはハジメマシテ」
 櫻が篤志を歓迎してないのは明白だった。
「で? 今頃現れてどういうつもり? 財産目当て?」
「さぁ」
「否定しないのか」せせら笑う。
「挑発にマジになってもね」篤志はさらりと言い返した。
「───」
 櫻は何も言い返さなかった。
 多分この時点で、櫻は篤志のことをからかうオモチャにはならないと判断したのだろう。
「まぁ、七瀬の遊び相手には丁度いいんじゃない?」
 と言い放ち部屋へ戻って行った。

「よろしく。司───でいい?」
「いいよ」
 人懐こいと馴れ馴れしいは紙一重だ。篤志の言動がどちらなのかの判断は保留。
「なんで阿達家に来たの?」
「まぁ、本音言うと、俺、一人っ子だから。年の近い親戚って興味あるんだ」
 櫻のときとは違い、篤志はすんなりと答えた。
「ここん家の兄妹の話はよく聞いてたから」
「誰に?」
「俺の母親。葬式の日、司も会ったろ」
「あぁ、咲子さんと友達だって言う…」
「そう。母さんもここの兄妹のことは咲子さんから“耳タコで聞かされた”って」
「篤志は、咲子さんと会ったことあるの?」
「話はよく聞いてたけど、実際に会ったことは無いな」
 咲子が篤志の母親に、自分の子供達のことをどう話していたかは興味ある。あの人のことだから親バカぶりな発言をしただろうけど、櫻や史緒について、果たしてどのように友人に語ったのか、想像は難しい。




 なんとなく僕は関谷篤志と連むことになった。
 篤志は頻繁に阿達家に訪れたけど、櫻や史緒は部屋から出てこなかったので必然的に僕が対応するはめなっただけのこと、とも言える。
 話してみると篤志は驚くほどの物知りで、飽きさせないくらい話題が豊富。でも煩いと思うことは無く、年齢の割に落ち着いた性格だった。
 人見知りしない性格で誰にでも気兼ねなく話掛けた。それこそ、櫻も例外でなく。
 どんどんどん!
 篤志は乱暴なくらいにノックをする。櫻の部屋だ。最初は無視している櫻もしつこく続くノックに、怒気を込めてドアを開ける。
「どういうつもりだ」
「挨拶くらいさせろよ」
「おまえ、もう来ンな。邪魔」
 声は荒げなかったものの、櫻の苛つきが伝わってきた。
 まぁ、その気持ちは分からなくもない。僕から見ても、篤志は櫻に干渉しすぎているように見える。煩がられても仕方ない。
 篤志が櫻と史緒の部屋を回るのはいつものことで(本当に毎回のことで)、櫻が苛立つのも無理はなかった。
「おまえに似た奴を知ってるよ」
 吐き捨てるように櫻が言った。
 興味深そうに篤志が相づちを打つ。「へぇ」
「俺が殺したけど」
 バンッと大きな音がした。どうやら櫻に閉め出しをくらったらしい。
 何事もなかったように戻ってくる篤志に、
「いい加減、懲りたら?」
「本人は楽しんでやってる」
「悪趣味だよ、それ」
「否定できないな」と苦笑した。
 例に漏れず篤志も、櫻に相当酷いことを言われていたのを耳にしたことがあったが、篤志は全く気にしていないようだった。
 嫌われてる相手にちょっかいを出すのは少なからず好意があるからなんだろうけど、その好意が櫻のどこに寄せられるものなのかさっぱりわからない。
 そんなことを思っていたところで、
「櫻のことは嫌いじゃないよ」
 と篤志は言った。
「───」
 何故か僕はその言葉に疑問を持った。
 あまり良くない意味の、胸騒ぎ。
 櫻のことを「嫌いじゃない」なんて奇特だと思ったわけじゃない。
 篤志は、嫌いとは言わなかった。気に入ったとも言ってない。
 嫌いじゃない、と。
 櫻と出会って1週間足らずの篤志が口にするには不似合いな表現だった。
 一度生まれた疑心は染みついた匂いのように、簡単には消えそうもなかった。

 篤志が訪れるようになって、家の中で一番の変化があったのは、櫻でも僕でも無く、史緒だ。
 最初、史緒は篤志のことをあまり歓迎してないようだった。彼女の場合は単に、家の中が騒々しくなるのが煩わしかったのだろう。
 しかし櫻の例と同じく、篤志は史緒の部屋へも押しかけており、そこで色々あったらしい。(その経緯は、僕はあまり詳しくない)結果、なんとひと月後には、篤志は史緒を外へ連れ出していた。それはかなり強引で、史緒本人は迷惑そうにしていたけれど。
 史緒と話す機会があって、どこへ行ったのか訊くと「図書館とか、コンビニとか」と小さく答えた。図書館とコンビニを同列にするあたり(篤志のセンスにも)笑ってしまうが、長い間、部屋に篭もっていた史緒にとっては全く知らない世界のはずだった。
 僕自身、大きな変化を歓迎できる性格ではないけれど、第三者のそれを静観するのは意外と楽しく、いい暇つぶしになっていた。







 夜、隣の部屋で大声が破裂した。
「もういらない、早く出ていって! 顔を見せないで、二度と来ないで!」
 さらに、いくつかの暴言が続く。壁一枚越しに、僕はそれを聞いた。
(誰?)この高い声は一人しかいない。
 史緒だ。
 でもにわかには信じられない、こんな耳が痛くなるほどの大声を史緒が口にするなんて。
 多分、一緒にいるのは和成だ。(史緒の部屋に出入りするのは彼しかいない)
 喧嘩? まさか。すぐに打ち消せるほど、おかしなシチュエーション。
 その史緒の部屋から和成が出てきた。廊下を通り過ぎる足音を聞いて、僕は部屋を出て和成を追った。
「僕はこの家を出ることになると思う。アダチに就職するんだ」
 一階まで降りたとき、和成が言った。
「え…?」
「最初から、おじさんとはそういう約束だったし」
 アダチに就職? …確かに考えられないことじゃないけど。
 僕が聞き返したいのは、前半の台詞だ。
 この家を出る?
「史緒は? どうするの?」
「元々、ここにいるのは僕が大学を卒業するまでって言われてたから。それに、最近は篤志くんや司がいるから大丈夫かなって」
(全然、大丈夫じゃないよ)
 このとき僕は本気で心配した。史緒の心配じゃない。和成が着いてない史緒の動向と、そんな史緒を含んだこの家の均衡が崩れることに。
 和成にとっては、子供を親離れさせるような心境なんだろうか? 肩の荷が降りたとでも思っているのだろうか。まさか清々したとでも?
 ああ、でも、それなら分かる。さっきの史緒の大声も。
 史緒にとって裏切り行為と同じだろうから。
 ガラリと居間の引き戸が開いて、
「よぉ、一条。痴話喧嘩なんかしてると、篤志に取られるぜ」
 と、櫻が言った。史緒の声が聞こえたのだろう。
「篤志くんなら安心だよ」
 ひやかしにも和成は淀みなく答える。櫻は鼻で笑った。
「どーだか」
 それだけ言うと櫻は戸を閉めて、そのまま玄関から外へ出て行っていまった。単に通りがかりだったようだ。
 和成がそっと溜め息をついた。


 その直後、1995年6月付けで、和成はアダチに入社した。阿達家を出て、都内のマンションで一人暮らしを始めた。
 一方、どうなることかと思っていた史緒は、閉じ篭もることも塞ぎ込むこともなく、意外なことに毎日外出するようになった。最初は、篤志が連れ出してるのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
 櫻を避けているのは相変わらずで、朝は櫻と時間をずらして出かけ、夕方に帰ってくる。史緒がいないので、僕はネコの面倒を見ることが多くなった。夜は以前と同じように自室に篭もっているが、以前と違うのは何やら物音をさせて歩き回っているところだ。
 そういえば史緒の足音が変わった。
 まず速度が違う。それに、以前は重い体を引きずるように足を引きずっていたのに、今は何を急いでるのと言いたくなるような、話しかける隙を与えないような雰囲気がある。
 精力的になったことは確かだ。
 和成がいなくなったことをきっかけに、良い方向へ変わったのだろうか。
 ───と、思ったのは楽観しすぎだったかもしれない。
「私、留学するから」
 すっぱりと史緒は言った。「は?」意味を噛み砕く前に、反射的に聞き返してしまった。
「ちょうど時期が合うし9月から。そのための準備も進めてるの」
 こんなにハキハキと喋る人間だっただろうか。耳を疑った。
 篤志が来るようになってから、史緒は変わったと思う。そしてまた、和成が離れたことで変化があった。
(でも)
 それは感心するような変化ではなく。
 史緒の言葉や態度には、和成の「裏切り」に対する怒気が強く感じられる。自分から離れ、嫌悪している父親の会社へ入ったこと、史緒はうまく納得できてないようだ。
(自棄になってるなぁ)
 指摘してやるほど、史緒の留学を止める理由もなく。
 それに今はまだ浮き足立っているような勢いがあるけど、そのうち熱が冷め和成とも和解するだろう。
 それから留学を選んだのはもしかしたら櫻から離れる意味もあるのかもしれない。和成が隣にいない状態で櫻と同じ家に住むのは怖かったのかもしれない。和成がいないこの家にいるのは怖かったのかもしれない。それくらい、史緒にとって和成の存在は大きな盾だった。
 和成はアダチに入社するために、この家で暮らしていたんだろうか。
 そういう下心があったとは、僕は思えないんだけど。



「史緒、留学するって!?」
 篤志は階段を昇ってくるなり史緒の部屋へ直行した。僕の部屋の前を通り過ぎる足音を聞いた。
「そうよ、あなたも文句言いに来たの?」
 苛ついたような声色を隠さずに史緒が答える。も、というのは、先日、史緒の留学話を聞いた和成が夜中に電話してきたからだ。反対してるわけでは無かったけど、あまり良く思ってないような態度だったらしい。ついでに阿達政徳からも一言二言あったようで、その辺り、史緒は少し神経質になっていた。
「いや…」篤志は口ごもる。
 なによ、と史緒は詰め寄るよる。
 篤志は笑った。
「がんばれよ」
「…」
 史緒は予想外の台詞にびっくりしたようで息を飲んだ。
 僕は2人のその会話を立ち聞きしていた。
 僕にとっても、篤志のその台詞は心底意外だった。篤志の狙いは史緒の傍にいることだと思っていたから。

 8月、史緒は本当にアメリカへ飛んだ。
 最後まで反対していたのは和成だった。






 史緒がアメリカへ発って一月後のこと。
 阿達家へ遊びに来た蓮蘭々が大声で叫んだ。
「あたしっ、篤志さんに惚れましたっ!」
「…は?」
 その台詞を受けた篤志は、突然現れた少女の勢いに呆気にとられている。
 僕は蘭の派手な告白に笑った。蘭の声が届いたのか、階下から櫻の笑い声まで聞こえる。
 蘭は誰のことも好きと公言してはばからないけど、誰かに「惚れた」というのは初めて聞いた。
 ───蘭には感謝するべきだろうか。
 その瞬間まで、僕は関谷篤志という人間に猜疑心を持っていたから。



 いつか、何か自分に不利なことをするんじゃないかと疑っていた。
 篤志の狙いはどこにあるのか、いつも見張っていた。何でもないような会話のときも、注意深く言葉を分析していた。
 人当たりの良い表情と疑り深さは師の教えだ。僕自身、これは自分の武器だと思っているので変えようとは思わない。
 単純に言うなら篤志はいいやつだ。気が利くし、それを相手に意識させない。頭が良く知識の共有も興味深い。
 ただ、信用は置けても、信頼を預けるのは容易くはないから。
 櫻じゃないけど、篤志が突然、阿達家に出入りするようになったのはどう考えても不自然だ。口にはしなかったけど、それは感じていた。この家とは親戚関係にあってもまったく親交のなかった関谷篤志が、咲子さんの葬儀で初めて顔を合わせ、それ以降、頻繁に出入りするようになった。特に何か特別なことをするわけでなく、史緒や櫻に声をかけて回り、僕の部屋に入り浸っている。
 何故、この家に近づくのだろう? 目的が分からない行動は不安材料として付きまとう。
 仲良くなるにつれ、(本当に信用していいのか)不安になる。

 蘭の告白はそれら不安の大半を吹き飛ばした。
 蘭の目に、絶大な信頼を預けていたことに、今、気が付いた。






 1996年10月。
 約1年の留学期間を経て、史緒が帰国した。

 彼女は変わっていた。
 一言で表すと、外面の社交性4割増。
 1年間も独り、海外生活していたのだから当然かな。その変化はきっと、良い方向だと思う。

 櫻は大学に寝泊まりすることが多く、家にはあまり寄りつかなくなっていた。

 篤志は久しぶりと思わせない頻度で阿達家に顔を出していて、

 僕はまだ不信感を抱きつつも、篤志と連んでいた。



 コンコン
 部屋のドアが鳴ったので「どうぞ」と声を返す。
 少しの間の後、ドアが開かれる音がした。
「七瀬くん? ただいま」
 史緒だ。(玄関を開けたときからその足音は捉えていた)見えるわけもないが僕は振り返って応えた。「おかえり」
「ネコ、こっち来てる?」「うん」
 ベッドの上に寝転がっていたネコが起き出して、史緒の方へ、トタタタと走った。
 ネコを抱き上げて史緒は、篤志にも声をかけた。
「いらっしゃい。相変わらず仲いいのね」
 篤志は午後からここに来ていた。午前中は学校で試験だったらしい。(彼は受験生だ)
「そっちはどこ行ってたんだ?」
「図書館」
「そんなに本読んでおもしろい?」
「ためになるわ。それに読書量じゃ篤志には負けるでしょ」
「俺はおもしろいから読んでる」
「…」
「…」
 不自然な沈黙を終了させるのは他者の一声しかない。
「2人とも、…無意味だと思わない?」物事の本質を議論する内容にしてはかなり。「低次元だよ」
「おーまーえーはー」
「七瀬くん…」
 座っている篤志とドアの前に立つ史緒、同時に苦い声が返った。そのタイミングの良さに思わず笑ってしまった。
「まあまあ。史緒、部屋に篭る前に、お茶でも飲んでいかない?」
 そう誘うと、少し悩む時間があって、
「…じゃ、ごちそうになろうかな」
 史緒は部屋に入ってきて、篤志の隣にちょこんと座る。
 こんな風に接するくらい、史緒は変わっていたし、僕らの関係も変わった。
 史緒は篤志と会って色んなモノに目を向けるようになった。和成と離れたことで独立したし、留学したことで社交性が高くなった。他人の変化をここまで鮮やかに見られるのは珍しい例だろう。
 帰国後、史緒はほとんど家にいないくらい外出ばかりしている。活動的なのはいいことだけど、今、史緒が落ち着いているように見えるのは櫻が近くにいないせいもあるに違いない。
「何、借りてきたんだ? …他人を言い負かす話術=H」篤志は史緒が借りてきたという本のタイトルを口にした、僕に聞かせるためだ。
「また、ずいぶんとかわいげのないものを…」
 篤志にそう表されても史緒はこともなげだ。
「どんなに自分の見解や信条を持っていても、それを言葉にできなければ意味がないでしょう? 例えば裁判だって真実を知っていても的確かつ理論的に喋れない証人は役に立たないわ。…私はそういう状況で冷静でいたいの」
「15歳でそれだけ喋れれば十分だよ」
 僕が呆れて見せると、篤志も「裁判で証人になる予定でもあるのか?」と冷やかした。
「そうじゃなくて、…臨機応変の、それぞれの場で有効な喋り方を身につけたいのよ」
 史緒は苦笑しながらも強い口調ではっきりと言った。
「史緒ってさー」篤志が言う。「なによ」
「必死っつーか、切羽詰まってるっつーか、焦って知識詰め込んでるって感じだよな」
 さらに続ける。
「もっとこう、純粋な知識欲や向学心のために行動できないわけ?」
「それは篤志の価値観でしょ」
 と、史緒が一蹴する。「どちらが良いか悪いかを画然させたいなんて、その議論のほうが低レベルと思うけど」
 しばらく痛い空気が流れて僕は溜息を吐いた。
(どうもこの2人は…)
 似た者同士というか。いや、単に2人とも頑固なだけだ。
 特に史緒は社交性と同時にある種のプライドが芽生えたような気がする。何故か篤志も史緒に関しては好戦的というか挑戦的というかよく絡むので、2人の間にいる僕は頭が痛い。
「史緒って何がしたいの?」と尋ねた。
「え?」
 篤志の肩を持つわけじゃないけど史緒を困らせてみたいのと本心を聞いてみたかったから。
「さっき言ってた“的確な話術を身につける”が最終目的だとしたら笑っちゃうけど」
 本を読み多くの知識を取り入れるのも、焦るように勉強するのも、何の目的もない人間が容易にできることじゃない。喋り云々だって、途中経過に過ぎないことだろうし。その先に、何か目指すものがあるはずだ。
「将来の夢ってことか? 是非聞かせてもらいたいけど」
「…っ」
 篤志にまで耳を傾けられ史緒は言葉に詰まった。
「2人に言う義務は無いでしょ」
 そう言って史緒は立ち上がる。声がうわずっているのは気を悪くしたのではなく照れ隠しだ。
「七瀬くん、ごちそうさま」
 史緒はそう言い残して部屋を出て行った。これから読書の為に自室に篭もるのだろう。








 1997年1月───
 僕は杖を突きながらゆっくりと前進した。
 一人でこんな鬱蒼とした林の中を歩いた経験は後にも先にも無い。植物の匂い、むわっとする不快な草いきれ。単に湿度が高いだけじゃない、雨の匂いがした。そしてそれらすべてを吹き飛ばしてしまうような、強く冷たい風が吹いていた。波の音が下から聞こえていた。
(そのうち雨になる)
 昼頃から気温が下がってる、湿度も高い。青空では決して無く、きっと黒灰色の雲が広がってるだろう。雨が降り出す前に早く戻らないと。
 足場も悪い。地面は平らだけど、一面、砂利敷き。一本道だけど、右へ左へとカーブする、蛇のような道のりだった。
 左右には常緑樹の林が広がっていると聞いたけど、何の木かは知らない。
 植物に囲まれ、人気が無く、本当に先へ進んでいいのか不安になった。
 潮の匂いが嗅覚を鈍らせていた。それから岩場に叩きつける痛々しい波の音。
 風が強くてうるさい。狭い空洞に吹き込んだときのように、空気を振動させる音がさっきから耳を痛めていた。
 心拍数を変動させないようにゆっくりと歩いていたけど、それでも息が上がっていた。不安定な足場や土地鑑の無い場所に、いつも以上に気を遣っているせいだろう。
(…どっちかでも見つけたかな)
 先へ走っていった篤志のことを思う。
 胸騒ぎがする。この天気のせいだけでなく。
 篤志も何か感じているはずだ。だから僕を置いて、先へ行った。
(だって、あの2人が一緒にいるなんてこと、あるはずないんだ)
 こんなことになるなら来るんじゃなかった。
(あの2人が別行動なら問題ないけど)
 この林道を戻ると阿達家の別荘がある。そこではマキが待ってるはずだ。
 早く帰りたかった。
 このあてど無い胸騒ぎを止めて楽になりたかった。
「それ以上来るな! 風が強い」
 篤志の声。位置は遠い、多分、篤志から僕は見えないだろう。
 でも、大体の方角はわかった。
 風が強いことが、どうして前進を禁止することに繋がるのか。しかし篤志の声は危険性を表していたので素直に従った。
 ややあって、
「司、あと10メートル直進」
 声が近くなった。台詞からも、篤志から見える位置にいることが窺える。「障害物はないから、速く」
 注文通り、10メートル前進したところで、篤志が手を取った。
「…うわ」
 思わず声を漏らしてしまったのは、真横から強風が吹いたからだ。それは林が途切れたことを意味する。足音の反響音も返らなくなった。広い空間に出たと分かった。
 篤志は強い声で訊いた。
「方向感覚はまだあるか?」「大丈夫」緊急性を察して短く答える。
「ここから20メートル先、崖になってる」「! …わかった」
 篤志は僕に、別の手を握らせた。細い。そして冷たかった。
「史緒…?」(いたのか)
「こいつ見ててくれ。絶対、離れるなよ!」
 強く言い残すと、篤志は僕が今来た道を走って行ってしまった。
 彼らしくない、何をそんなに慌てているのだろう。
 一方、篤志が探し出した史緒。握っている手をたどると彼女は地面に座り込んでいた。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
 手を握ったまま、その場に座る。
 史緒は何も答えなかった。ただ、その呼吸だけが聞こえた。不定期に、肩で息をしているのがわかった。
(…櫻は一緒じゃなかったんだ)
 少しだけ安心した。
 手首を掴まれているのが煩わしいのか、史緒は乱暴に腕を振る。その程度の力で振り払えるわけないのに。
 離さないでいると諦めたのか大人しくなった。
 どんっ
「…いっ」
 史緒が抱きついてきた…というより、胸に頭突きされた。かなり痛かった。
「───」
 何か言った。
 それは聞こえたけど、意味がわからない。
「史緒?」訊いても、史緒は同じ言葉を繰り返さなかった。
「………わ…たし」
 僕の胸で、小さな声が大きく震えた。(泣いてる…?)
 抑えて喋ろうとする呼吸が、笑っているようにも聞こえた。
「櫻を、ころしちゃった」





6.A.CO.
 3ヶ月後、1997年4月───

 屋上に出ると風が吹いていた。
 暖かく気持ちの良い春の風。花粉も飛んでいるだろうけど、幸いにも花粉症ではないのでとくに気にならない。
 乾いたコンクリートの上に座り、壁に背をかけて上向く。手足を投げ出してみたりする。
 心地良かった。大きなものの中にいる、自分という小さな個体を感じる。ただそれだけのことが、良い気分にさせた。
 これから長く居座ることになる場所の近くにこういう所があることは幸運と言えるだろう。入り浸ることになりそうだ。
 コンクリートを伝って近づく足音がする。階段を上る音。足音は一人分。
 該当する人物は二人いるけど、この場合は体重で区別することができた。
 足音が速い。もしかしたら僕を呼びに来たのかもしれない。
 がちゃり、とドアが開く音がした。
「七瀬くん、こんな所にいたの?」
 阿達史緒が現れる。少し息が上がっていた。運動不足を指摘したいけど、改善させたいと真剣に思ってないし、例え言ったとしても彼女が改善に努力するとは思えない。つまり言うだけ無駄だ。
「いい天気だね」「え?」
 見えない僕のこんな台詞を聞いて、史緒は一瞬きょとんとした様だった。
 その間の長さで、彼女が僕の視力について未だ、大して理解していないことがわかる。まぁ、理解されるほど、付き合いが深いわけじゃない。
 少しして穏やかな笑いが返った。「そうね」
「風が強いけど。……すごい音だ」
 ちょうど、また、風が吹いて、史緒は小さな声を立てた。風に足を取られたのか、数歩、立ち位置がずれる。
史緒は風に煽られたことを不快に感じたようで、髪と服を叩いて埃を払った。その風も、僕には心地良いと感じるけれど。
(本当、こういうところで史緒とは気が合わないな)苦笑してしまう。
「…まさか七瀬くんも来てくれるとは思わなかった」と史緒が言った。
 A.Co.まで僕が付いて来たことだ。
「どうして?」
「七瀬くんとは…そんなに仲良くなかったし」
「僕も史緒と仲良くした記憶はないけど」
「…」
 不自然な間があった。頭の中を、史緒との思い出がいくつか通り過ぎる。多分、史緒も同じように思い返したに違いない。次に僕らは同時に笑い出した。史緒も、小さく笑っていた。
 仲が良いなんて、本当にとんでもない。
 恐らく、僕らはお互いが、一緒にいたくない人間ベスト3に入る。
 理由は同じ。相手が、一番嫌な時代の自分を知っているからだ。
 僕は香港へ行く前の時間。史緒は篤志に会う前の閉じ篭もっていた時間。
 できれば忘れたい過去の自分を知られているのは気まずい。さらにあの頃から変化した自分を見られるのは気恥ずかしい。だから本当なら、史緒とはあまり一緒にいたくない。
「…あのさ、史緒」「なに?」
「名字で呼ぶのやめてくれる?」
 両親のことを意識させられるから、とは言えない。
「えっと…じゃあ、何て呼べばいい?」「呼びつけでいいよ」
「…」
 史緒は困ったように黙り込んだ。今更、気恥ずかしい気持ちはわかる。
 そのとき、またドアが開いた。
 篤志だ。
「こら、2人とも。サボるな〜」
「篤志」
「今日中に事務所整えるって言ってただろ」
「ごめん、すぐ行くよ」
「司、アパートの契約書、おじさんから返ってきてたぞ」
「ありがと」
「結局、父さんが保証人になったのね!?」
「怒らないでよ、事実、後見人なんだし」
「だって…」
「史緒、桐生院さんから速達来てた」
「えっ、どこ?」
「山積み段ボールの上。…ともかく、まずは片づけてから! 営業は来週からだろ!」






32話「風の中で2」  END
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