30話/31話/32話 |
31話「風の中で 前編」 |
「ね? こっちへ歩いてみて。大丈夫だから」 そんな言葉がとても無神経に聞こえる。 僕は暗い場所にいた。聞こえる音はどれも欲しいものじゃない。 その声はお父さんお母さんじゃない。 学校の友達や先生じゃない。近所のおばさんや駄菓子屋のじぃちゃんでもない。 見たこともない、どんな顔かも知らない他人が暗闇の中からおいでと言う。 少しの先も見えなくて、足すら見えないこの状況で歩いてみろと言う。 大丈夫だからと。 ───馬鹿なんじゃないだろうか。 と、真剣に思った。 ここには足場も無いのに。今、立つのは足の裏の面積しか無い、高く高く建つコンクリかもしれないのに。それもすぐに折れてしまうような脆いものかもしれないのに。 その言葉は一歩を踏み出す勇気さえ与えない。 一歩先に深い崖は無いとどうして思える? 思えないだろ? 僕自身が足元を確認できない状況で、他人の言葉に従うなんてできない。 唆されてると思うのが普通だろ? 特別、疑り深いわけじゃない。絶対に違う。 ただ恐い。 恐い。 「司くん…」 「うるさいッ! そんな言葉、信じられるかっ」 その声はお父さんお母さんじゃないのに。 その事故が起きたのは1991年。 七瀬司は11歳だった。 |
▲1.病院 最後に見た、一瞬の光は忘れない。 次に目が覚めると夜だった。───何故って、明るくないからだ。 何も見えないくらい、真っ暗だった。っていうか何も見えなかった。でもこういうときは、大抵一分も経てば目が慣れて、薄暗い中によく知っている白い天井が見えてくる。…あ、そうか、夜中に目が覚めたんだ。 人の気配があった。暗い中、何やら囁き合っている。 「お母さん?」という呟きを飲み込んだのは、聞こえてくる声が家族のものではなかったから。会話の内容は、わらない。 どうして知らない人が僕の部屋にいるんだろう? おかしく思って一気に目が覚めた。不安になった。 それに変な匂いがする。なにか、匂いの元があるという風じゃなくて、壁や空気に染みついているような、そんな匂いだった。 毛布の手触りも違う。パジャマの感触も。…もしかしたら違う部屋にいるのかも。 僕はベッドの上で寝ていた。これは暗くてもわかる。 少し頭を動かすと、枕も違うことがわかった。 「七瀬司くん。気がついたかい?」 耳のすぐ近くで低い声。その突然さに、自分でも驚くほど、とてもびっくりした。 「お父さん?」ほっとした。 「違うよ、私は医者だ。ここは病院だよ」 よく聴くと全然声が違う。恥ずかしい。 「病院?」 「東京の町田というところだ。司くんの家からは少し離れてるね」 「町田…? 知らない。…なんで? 病院?」 「───頭を触ってごらん」 頭? そういえば起きてからずっと頭痛があった。じんじんと鳴って、頭が締め付けられている感覚。 そっと手を持ち上げて額に触ると、予想外、何か布のようなものに触れた。 「あまり強く触らないで。包帯が巻いてある。…司くんは、…目を怪我したんだ、覚えてる?」 覚えてない、という返答がすぐに思い浮かんだ。質問の意味がわからないまま思い浮かんだ。無責任な回答になる。今、この頭は何も考えられてない。それだけは分かった。 僕は全く見当違いな呟きを漏らした。 「…包帯?」 医師と名乗るその男は、その後、要領を得ない不透明な説明を言葉に詰まりながら僕に聞かせた。 後から思うとそれはかなり不十分な内容だったけど、僕に説明する役を拝命させられた医師には少しだけ同情する。何も知らない子供に、事実を、どの程度、どの言葉で伝えるべきか、深く悩んだだろうから。 僕は両親の働く職場に遊びに行っていたこと(これは何となく思い出せた)。 そこで予想外の事故があり(予想内の事故なんてあってたまるか)、僕は頭部に怪我を負ったこと。 その後、病院へ運ばれたこと。手術されたこと。 事故後、1週間経っているということ。 「包帯を巻いている頭の上半分…主に目の周りには、酷い傷がある。幾度かの手術が必要になるね、少しずつ治していこう。 それから───…」 医師の、喉が鳴る音が聞こえた気がした。 とても言い難そうに、医師は理解し難いことを言った。 遠く、子供の笑い声が高く響いた。 「え?」 意味が分からなかったので訊き返すと、長い溜息が聞こえた。空気が重くなる。 君の目は壊れちゃって、視力を戻すのは難しいんだ。 ───と、小さく、医師は事実を声にした。 さっき、一瞬だけ、とても耳が澄んだような気がしたのに、今度は何も聞こえなくなった。 包帯で締め付けられている頭が、自分の鼓動を聴かせた。一定周期の血流を意識することができる。 そう、血の流れを感じたのは頸部ではなく頭部だった。 それはとても熱く、そして煩かった。まるで、寝る前のひととき、暗闇の中の時計の音のように。 視力が戻らないということが、実際問題どういうことなのか想像できなかった。 そういえば視力ってなんだっけ? わからないことだらけ。 だからそのことには言及せず、僕は一番気になっていることを訊いた。 「お父さんとお母さんは…?」 少しの間があった。それはとても長く感じた。 「…ごめん、ここにはいない」 「どうしてっ!?」 「落ち着いて…、ちょっと用事があって、こちらには来られないみたいなんだ。事故の片付けとか…、かな。でもきっと、とても心配してる。心細いだろうけど、気を落とさないで。用事が済んだらここへやってくる、きっと駆け込んでくるよ」 最初は暗闇との戦い。 朝も昼も夜も、いつも、どこでも、ほんの少しの明かりさえ見えない。 音だけの世界。 朝が来たことさえ、光ではなく鳥の羽ばたきで気付く。もしくは「おはよう司くん」他人に起こされて気づく。暗いところで「おはよう」だなんて、と笑った。しかしそれは一瞬の間だった。 朝が明るくないなんて。それに気付いたとき、やっと直面している現実が見えた気がして胸を潰されるような大きなショックがあった。 見えないとわかっているはずなのに、毎朝、そのショックを味わった。本当に毎朝だ。 包帯を取り替えるとき、久しぶりに目に風が触れた。そのときも、やはり何も見えなかった。失望による衝撃があり、この胸に浅はかな希望を持っていたことを知る。そんな自分に嫌気がさした。 近付く衣擦れに怯えた。障害物を恐れ、自然と前かがみになる歩き方。不愉快な薬の臭い。 雑踏のざわめきが気になってしょうがない。普通なら雑音と同じ、意味なんて考えない声のはずなのに。言葉が聞き取れない声に無意識に耳を澄ましてしまう。 無限に、どこまでも耳を澄ます。両の耳が、頭を貫通しそうなくらい、耳を澄ました。 すると、頭の芯に疲労を感じて、1日寝込んでしまった。 きっと僕の耳が頭の中で繋がってしまったせいだ。 「この部屋から時計無くして。───すごく、うるさい」診察中の医者の腕時計にさえ、苛立ちを感じた。 病室から一歩も外へ出ない日が続いた。 やってくるのは医者と看護婦だけ。やっぱり両親は来ない。 どうして来てくれないんだろう。 ああもしかしたら、僕と同じようにお父さんたちも怪我をしたのかもしれない。別の場所で同じように、入院しているのかもしれない。 そう思いついたら少しだけ、この爆発しそうな不満を落ち着かせることができた。 光。 明かりがないだけじゃない。音だけというのがどこまでも不安を掻き立てる。 不安。 言葉が信じられない。言葉だけじゃ信じられない。見たい。 疑心暗鬼になっていることにさえ気付かない。 乱暴になる言動。八つ当たり。 この、触れない目隠しを取ろうとして何度も空振りした。そのせいで眉間や目蓋に引っ掻き傷ができた。 頭が痛いのは気のせいじゃない。 耳だけで取り入れる情報量、取り入れる為の集中力による疲労がその原因だ。と医者は言う。 けどそんな理屈は何にもならない。 どうして、見せてもらえないんだろう。この暗闇を見続けなければならないんだろう。 たまに、泣きたくなる感情を自覚する。 でも泣くことはできなかった。僕は男だから。 部屋の中に誰かいるかもしれないから。 距離が分らないんだ、ということに気付いた。 突然近くで人の声がして飛び上がることが何度もあった。前後左右、上下からも。近くに人がいるということに気付かない。注意深く耳を傾けるようにすると、また頭痛がして、やはり寝込むことがあった。 廊下に響く足音に身構えてしまう。何事もなく部屋の前を通りすぎていくと心からほっとした。 医者と話しているとき、周囲への注意が薄くなる。そのことに気を取られると今度は会話の内容が頭に入らなくなった。 どうしろというんだ。 まぶたを開けても閉じても何も変わらないって、どういうことだろう。 目ってなんだ? 本当にここに、眼球は入っている? 包帯をはずされたとき、指の腹でそっと、眼球を触ってみた。 カラをむいたゆで卵に似ていた。 手をかざしても、手が見えない。握っても見えない。振っても見えない。目の前にあるはずなのに。まぶたの中にあるのは何? きっと卵のように白いだけの、役に立たない球体が入っているに違いない。 そもそも本当に手はそこにあるのだろうか。目の、前に。 ───「前」ってどっちのこと? 突然、その疑問が生まれて、また頭痛がした。 左右は? 上は? 下は? 天地がひっくりかえったような感覚を覚え、吐き気が込み上げる。 どこへ足を踏み出せばいい? そう考えると一歩も歩けなくなった。 本当に一歩も歩けなくなって、その日は医者に抱きかかえられて病室のベッドへと戻った。 医者に抱きかかえられているときでさえ、この体は極度に緊張していた。…医者を信用して体を預けることができなかった。 感情が荒んでいくのがよくわかった。 医師や看護婦に酷い言葉を吐いて、後になって目眩がするほどの自己嫌悪に悩まされたりもした。(目が見えなくても目眩があるのだろうか? この表現の正確性は不明だ) 僕の言葉が周囲を傷つけていることは分かっていた。でも止めることはできない。そうしなければ息ができなかった。そうしなければ、圧迫されるような胸の苦しみを和らげることができなかった。 突発的に右手を壁に叩きつけることがよくあった。理由は前と同じで、胸の苦みが弱まるからだ。もちろん右手は痛くなるわけだが、そちらのほうがマシだった。何故、右手なのかというと、病室ではベッドの右側が壁だったし、廊下では右側の壁を伝って歩いていたから。 繰り返される手術で頭の怪我は回復に向かっている、そう医師から教えられたが、鈍い頭痛は依然消えていない。それは精神的なものだと言われた。それならどうして精神を治してくれないのか。頭部から脳だけを取り出して湯船で洗って、不純物を取り除きたくなるような痛みだった。 ───この頃、両親に関する噂を立ち聞きした。 「七瀬の行方は追うな、って上役に言われたけど、どういう意味? やっぱ逃げたん?」 「奥さんのほうも顔見せないって。…夫婦揃って頼りないところあったけど、まさかなぁ。子供があんななってんのに」 「口外無用の誓約書はともかく、あの夫婦を探すなって…。上は何か知ってんだろーなぁ」 その噂を僕なりに解釈するのに3日かかった。 その3日間は、暴言も吐かず、壁を叩かず、ひたすら考えていた。その静けさに周囲は気味悪がっていた。 お父さんとお母さんはどこにいるのか。 悲観的な沈重、それを打ち消す強い期待。その期待に、さらに期待していることに気づいた後の虚しさ。 体の中で思いは浮き沈み、どちらか一方に落ち着いても、また暴れ出す。頭痛と戦い、人の気配に怯えながら。 医者は「ご両親は用事が済んだらここに来る」と言った。その時を大人しく待てばいい。でも、2人と同じ職場の人たちは、行方を知らないと言う。どうして連絡ひとつ寄こさないのか。 2人がここにいないことが、その答えではないか。 「…ッ」 空気の不味さに耐えられなくて、右手を壁に叩き付けた。 それが3日後のこと。 全身が震え上がる程、膝を落としてしまう程苦しくて、何度も、壁を叩いた。潰れてもいい、この手を叩き壊しても構わない。痛い。 痛かったけど、そうすることで苦しみの上昇が和らいだ。 医者が飛んできて僕の手を掴んだ。 医者に怒鳴られるまで、右手の関節から血が流れていることに気づかなかった。 目が見えないとはそういうことか、と思った。 その後も何週間か、浮き沈みの激しい日が続いた。 近くの病室の入院患者たちは気味悪がって近寄ってこなかったし、僕も出歩くことはしなかった。医者や看護婦とだけ言葉を交わす日々。 薬の匂いはもうしない。慣れたのだろう。 時計の音だけを聞く時間が増えた。その間、何も考えない時間は無かったはずなのに、思考は堂々巡りをさらに繰り返し、発展しない思考を無駄に働かせていた。 ひとつ。周囲に酷く当たることがふつと無くなった。 諦めたから。 「七瀬…司くん?」 人の気配。 初めて聞く声。(といっても、そう言いきれる自信はない) 男の声、僕より背が高い。 「誰?」 「ええと…アダチっていう会社、知ってる?」 「うちの親が働いてた」 「そう。今日はそこの阿達社長の代理で来た…」男は苦笑らしき声をもらす。「一条和成です」 はじめまして、と付け加えた。こちらが挨拶を返さないのも構わず、すぐに言葉を繋げる。 「迎えに来たよ。君は今日から、阿達社長の家で暮らすんだ」 |
▲2.阿達家I 「長男の櫻と、長女の史緒」 15歳と10歳。 和成さんの声を、僕はただ黙って聞いているしかなかった。その、阿達社長の子供だという2人を前にして。 よろしく、と男の声(長男? 櫻?)が返った。 その声がどんな風に響いたかは覚えてない。 女の声(史緒?)は返らない。 どこかで、猫の鳴き声がした。 「僕は大学生だよ」と、和成さんは言う。「居候させてもらってるんだ。今年で21だから、本当はもう堂々と居座れない立場なんだけど」 彼がどんな理由でこの家に居候しているのか、それを疑問に尋ねるくらいの興味はなかった。 「後で直接話があると思うけど」さらに話を続ける。「君が20歳になるまで、阿達社長───阿達政徳氏が君の後見人になる」 「後見人って?」 「簡単に言えば…親代わり、かな」 「僕の親はお父さんとお母さんだ」 「う〜ん、もっと簡単に、生活を助けてくれる人…くらいで考えるとちょうどいいかもしれない」 余計なお世話だと思う。 でもこんな体でひとりで生活はできない、と漠然と思い知らされている。いろいろと諦めなきゃいけないことがあると思うと腹が立ってきた。 他に、この家には雇いの家政婦さんが通っていること、実は社長夫人もいるが別の場所で暮らしていることを聞いた。 この家の間取りをひとつひとつ丁寧に教えてくれたのも和成さんだ。社長宅という割に想像していたより広くはなかった。中流の一戸建てみたいなものだと思う。家族3人でアパート暮らしをしていた頃に比べれば勿論広いけど、この家の部屋数などはごく普通だと思う。 櫻と和成さんの部屋は1階、史緒の部屋は2階にあった。 「司くんの部屋は2階でいい? 階段とかに慣れろって医者が言ってたよ」 「え」 と、小さく、しかし強い声。僕じゃない。女の子の声。 その、文字通り一言の発言は批判的に聞こえた。…気のせいだろうか。 「…史緒」 和成さんが苦笑する。ああ、さっきの声が史緒なんだ。 「和くんが。上に来て」 注意しなければ聞こえないくらい小さな声だった。声帯を通らずに息だけで発音しているような声で、史緒は途切れ途切れに喋る。 「手間だよ。時間もかかるし」 と、和成さんが史緒を宥めた。 「でも…、───」 続く言葉は無い。その後、史緒は喋らなかった。 僕はというと、史緒の言葉はとても不愉快だった。 歓迎されてるとは思ってないけど、あんな風に避けられては気分が悪い。 阿達史緒に対する第一印象はこんな感じだった。 何日もかけてやっと、壁を伝って、家の中を自由に行き来できるようになった。 阿達家に来ても、毎日、病院へ通う生活で、その間にも何度か手術があった。包帯はまだ取れない。 その間、阿達家のことも少しずつ分かってきた。 まず史緒。驚いたことに彼女は学校へ通ってない。それどころか一歩も外へ出ず、いつも部屋に閉じこもっていた。隣の部屋なのに、物音ひとつしないくらい静かだった。居間を通りかかるときもあるが、足音しか聞こえないので、誰だか分からない。とりあえず僕は、足音だけの場合は史緒なのだと判断することにした。 史緒と和成さんが一緒にいるところを通り掛かったことがある。そのとき史緒は口数が少ないながらも、ちゃんと会話が成立していて少し驚いた。僕はそのときはじめてまともに史緒の声を聞いた。(なんだ、普通に喋れるんじゃないか) その和成さんは大学生で、普通に通っている様子。家にいるときは、史緒に勉強を教えているようだった。 「おはようございます、司さん」 ダイニングに入ると、マキさんが明るい声をかけて、僕の席まで手を引いてくれた。 マキさんは通いの家政婦さんで、31歳の普通のおばさんだ。朝早くから夕方までこの家にいる。 日曜の今日も、朝ごはんを作ってくれていた。「食べるときは、ネコは床にやってください」というマキさんの声を聞いて(あ、史緒もいるんだ。めずらし)いつもは起きてこないくせに。逆に、朝ごはんは一緒になる櫻が、今はいないようだ。 すぐ後ろの引き戸が開いた。和成さんは出かけているので、今、ここにいない人物、櫻が来たのだろう。 ガタンッと大きな音が響いた。「史緒さん…っ」マキさんの声。少しの間の後、パタパタと足音がして、それが僕の隣を通り過ぎた。(史緒…?) そのまま史緒はダイニングを出て、廊下を走り抜け、階段を上り、自分の部屋へ戻ってしまったようだ。 突然のことに僕はわけがわからなかった。 おはようマキさん、と櫻が何事もなかったかのように言う。 「お、おはようございます。…珍しいですね、櫻さんがお休みの日に早起きするなんて」 マキさんは苦笑混じりに答える。櫻は無言で自分の席に座った。 「史緒さんは櫻さんのことが苦手なんです」 と、後になってマキさんがこっそり教えてくれた。僕は一人っ子なので兄妹仲が普通はどういうものなのか、よくわからない。 阿達櫻について考えるのは少し難しい。 目に包帯巻いててよく平気で歩いてるなぁ、…あぁ、包帯外しても、目隠しされてるんだっけ と、言われたことがある。 櫻は感心したように言った後、からかうように声をたてて笑った。悪びれる様子も無い、他人の失敗の揚げ足を取り純粋に面白がるような笑いだった。見えなくなってから、そういう人間に会うのは初めてだ。ああ、でも、クラスに一人はそういうやつがいたかもしれない。 櫻は高校生で、毎朝同じ時間に家を出るので、史緒と違い、学校へ普通に通ってるようだ。櫻が玄関を出る音がすると、2階でドアが開いて史緒が降りてくる、それが毎朝のパターン。史緒はきっと櫻がいなくなるのを待っているんだろう。 史緒は日曜は早く起きてくる。日曜だけは櫻は朝遅いから。櫻が気まぐれに早く起きてくると、前のようなことが起こった。 櫻は煙草の匂いがするので、近づくとすぐ分かる。 七瀬、光が怖いんだろ と、言われたことがある。 そのとき、僕の心臓は一気に縮み上がった。鳥肌が立った。初めて櫻を怖いと感じた。 ───最近、夢を見ていた。目が見えなくなる前、最後に見たフラッシュ。視界が真っ白になり、赤くなって、真っ暗になった。そんな夢を繰り返し見ていた。櫻に見透かされたのかと思ってぞっとした。 見たいという欲求は今もある。 だけど最後の光を思い出すたびに、背筋が温度を失くして、息ができなくなった。咄嗟に目を瞑り、手のひらで目を塞ぐ。見えないことに安心して、やっと息をすることができる。 「どうして分かったの?」と尋ね返すと、櫻はそれには答えず、僕の耳元でこう囁いた。 体験できないものが怖い? それって独り相撲。妄想。悲惨だね。 ちりっ、と胸に火花が散った。怒りじゃない、これは危険信号。 櫻の言葉はいつも痛かった。僕は昔から、例えば足のバランスを崩したり自転車で転びそうになるとき、瞬間的に頭が痛くなることがあったけど、櫻の言葉はそれと同じ痛みだ。 痛みは一瞬で退いて、少しの疲労がつづく。 櫻が他人をからかうことを楽しんでいるかというとそうではなくて、僕に話しかけてくるのは、多分、暇つぶし。時々、足をひっかけられたり、階段の途中で突然肩を掴まれたり(びっくりして落ちそうになる)、そういう物理的な攻撃もあるけど、多分、それも暇つぶしでしかなくて。 それにも飽きると、居るのか居ないのか分からないくらい静かになって、自室で本を読んでいたりする。 多分、史緒も、櫻のそういう所が嫌で逃げてるんだと勝手に思った。 史緒が徹底的に櫻を避けてるので、あの2人が会話するところを見たことはない。 多分、これは晴眼者にも言えることだと思うけど、階段を上り下りするとき、自然に数を数える。とくに下り。この家の階段は14段あって、上るより下りるほうが僕は時間がかかる。手すりにつかまり、一段一段数えながら下りる。 下りる途中、櫻に話しかけられることが何回かあった。階下の廊下から。自然に身構えるけど、大抵何でもない、内容のない会話。話が終わると櫻の毒に当てられなかったことにほっとする。再び下りようとするとき、ふと数を忘れていることに気づく。あと何段あるか分からない、恐る恐る、段差を確認しながら下りるはめになり、倍以上の時間がかかった。そんな些細なことだけど。 櫻の呼びかけがわざとだと気づいたとき、背筋が寒くなった。 軽い嫌がらせなのは分かってる。でも櫻の想像力にぞっとした。何で分かるんだろう? 話しかけることで僕が歩けなくなること、どうして見える櫻が見抜いたんだろう? 櫻の言動はそういう、心を見透かされているような緊張をいつも与えていた。 昼間は気づかないうちに、感覚が櫻を探していた。 ろくに眠れない日々が続いた。 病院にいた頃とはまた違う様に、神経を張りつめていた。無意識のうちに感覚を尖らせていた。しばらく収まっていた頭痛が再発して、ストレスが鬱積していくのがわかった。 無意識のうちに、感覚が櫻を探していた。当然の防衛反応。 かたん 「───…っ」 小さな物音にさえ敏感に反応して振り返る。(振り返っても何も見えないと分かっているのに) 何も起こらなかった。 廊下の先、人が立っている。何も喋らない。「誰?」威嚇するように返答を強要すると、にゃあ、と小さく猫の鳴き声がした。 「史緒?」 返る声はない。でもそれこそが彼女である証拠だ。 返る声はない。そしてこの場を去らず、ただ立っているだけで沈黙している史緒。 言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに。 けど、分かってる。史緒は言いたいことなど無いんだ。ただ同居人が視界に入って来るだけで。 外を歩いているときに感じる、この頭の包帯に対する好奇心や同情は史緒からは感じられない。興味も関心も無いならさっさと立ち去ればいいのに。でも何故か史緒と2人だけになると、奇妙な沈黙があった。 (ああ、本当にイライラする) 目が見えなくなったことで、僕に何か変化があったのかな。…以前は、周囲の人間にこんな風に腹を立てるなんてことなかった。 櫻にはいつも、掴み所がない緊張をゆっくりと圧し当てられているような気分にされる。でも史緒に比べたらまだ意思疎通が可能なほうだ。史緒は本当に何も喋らないので不安を与えてくる。それは櫻の言葉と同じくらい不快なものだった。 「…っ」言わずにはいられなかった。「おまえのことも嫌いだ」 「そう」 しっとり小さな、特に感情が入ってない声。そのまま足音がいくつか響き、それは階段を昇る音に変わる。しばらくして2階でドアが閉まった。 「…っ」 腹の辺りから熱が込み上げて、頭がカッとした。しかしそれは一瞬のもので、すぐに熱は退いていった。舌打ちした。 史緒は僕のことなんて興味無いんだ。 きっと視界に入ってない。僕は目の前に立つ人間すべてに対していつも気を張りつめているのに、彼女は誰も見ていないのだ。見えるという計り知れない恩恵を知らずに、ただ時間を過ごしている。 説教する気はない。ただ、この家でストレスを感じているのは僕だけだと気づくと、悔しさと虚しさが一緒になって、どうしようもない疲労を身に受けた。 * * * 阿達家で暮らし始めて日付を数えて30日後。(このときの僕に日付感覚は無い。後になって聞いた) 香港へ行こう、と和成が言った。 和成が史緒から離れるはずない。───その思いは正しくて、無駄な勘違いをしなくて済んだ。行くのは僕ひとりだ。 目の治療のため、という名目らしい。 そのときはホンコンという場所がどこなのか分からなかった。 ただこの頃、目が見えないということに加え、櫻や史緒との生活に倒れるほどの疲労を感じていたので、環境が変わると聞いて正直ほっとした。 そこが外国で、海の向こう側だと知らされたときも、阿達家にいるよりはマシだろうという気持ちのほうが大きかった。 たらいまわしにされたのだな、と漠然と理解した。 しかし、香港へ行く旨を櫻に伝えたとき、 「…史緒か」と、櫻はつまらなそうに、それだけ呟いた。 意味がわからなかった。 史緒と話す機会はなかった。 初めて空港に来た。 とにかくうるさい、というのが一番の印象。聞いたことがないくらいの足音の数、人の気配、喧噪。一番、大きく聞こえる話し声でさえ内容は聞き取れなかった。ただ人の「声」が360度回りから、流れ込んでくるだけだ。 思わず耳を塞いだ。すると今度は、地下でモーターが唸っているような、低い地鳴りが聞こえた。気のせい?耳から手を離すと、それは聞こえなくなった。また、人の「声」が流れ込んできた。 今日、ここに、香港からの迎えが来るらしい。少し早く着いてしまった為に、する事もなく、僕たちは椅子に腰掛けていた。 隣には僕をここまで連れてきた和成さんがいる。(この人も大変だな) 彼は阿達家の居候というが、もしかしたらその立場のせいで、阿達のおじさんに頼まれると断われないのかも。大学生だと聞いたけど史緒の教育係だし、あの兄妹の間をうまく取り計らっているし、マキさんの手伝いもする。それに、そうだ、僕を病院まで迎えに来たのもこの人だし、こうして送りに来たりもする、多忙な人だ。 でも僕の面倒を見させるのは今日までだから、負い目を感じたりはしない。 ここはまだ日本。 何となく、それを確認した。これから僕は飛行機に乗って、香港へ行く。 不思議と気持ちは落ち着いていた。…というより、何も感じてなかった。麻痺していたのかもしれない。日本を離れることにも、寂しいとか、思うことはなかった。 ただ、僕の頭には相変わらず包帯が巻かれている。それだけが苛立ちの理由だ。 鬱陶しかった。この包帯を外しても、決して光を見ることはできない、そう分かっていても。 ときどき頭痛がするのはこの包帯のせいかもしれないと思うほど。 それに周囲からの視線。僕が見えない、僕を見る他人の視線も気になる。頭に包帯を巻いている僕を、絶対、変な風に見てるに違いないんだから。 医者は「本当は、もう外しても平気なんだけどね。ただ、外すと、もっと見られることになるよ」と、静かに言った。「どっちがいい?」と意地悪く付け足す。 醜い傷を晒すなら包帯のほうがマシ、と答えたから、この状況に至るわけだけど。 「大丈夫、香港の医者がきれいに治してくれるよ」 そんなものは慰めにならないのに。 「和くん!」 突然、跳ねるように弾んだ、透き通る高い声が聞こえた。少し離れたところから。 周囲の喧噪がピタリと止んだ気がした。それくらい、きわだった声。 麻痺していたはずの心臓が跳ね上がった。僕は見えもしないのに、思わず、辺りを見回すように首を左右に振った。 次に、その声はすぐ近くから聞こえた。 「こんにちはっ」 「…っ」 びっくりするような大きな声。女の子…多分、年下だろう。 さらに驚くことに、その声に和成さんが答えた。 「やぁ蘭ちゃん」しゃがんだようだ。「こんにちは。…まさか一人で来たの?」 「いーえ。流花ちゃんのトコの、林先生が一緒です。───こちらの方が、史緒さんが言ってた方ですか?」 (史緒が…?) 和成さんの手が僕の肩に触れた。 「そう。七瀬司くん」 突然、紹介されたこと、焦る。 まさか、この子が香港からの迎え? 息を吸う音が聞こえた。 「はじめましてっ。蓮蘭々です」 「───…!」 思わず息をのんだ。 (すごい…) その声だけで、目の前の女の子が、まっすぐにこちらを見て、まっすぐに笑っていることがわかった。 声だけでわかるくらい、その声は迷いや曖昧さが無い明確な感情を伝えてきた。見えなくなって、初めての体験。 この子が感じている素直すぎる高揚感がそのまま風になって、それを真正面から受けたような感覚。その風を受けて僕の前髪が揺れたような錯覚さえ味わう。 ああ、初めて会う人間だ。あたりまえの事を思った。 「あのね、あたし、史緒さんの友達です」 (史緒の…?) うまく言葉にならないが、このときの僕は複雑な気持ちだった。 「えへへ、和くんも友達よねっ」 「そうだね」 「ねぇ、史緒さんは?」 「ごめん、今日は来てないんだ」 「えーっ」 不服そうな声をあげる蘭。「日本に来たのに史緒さんに会えないなんて〜」 どうやら蘭は史緒を慕っているらしい。 そうこうしているうちに、林という人物が現れた。20代の男性で、カタコトの日本語を喋る。蘭が言っていた通り「流花女史の助手です」とシャレのような文章を言いにくそうに口にし、和成さんと少しの間やりとりしていた。 林さんは僕の手を取ると「さぁ、行きましょう」と促す。 「元気で」 和成さんは最後に、そう言った。 見えないはずなのに僕は振り返った。多分、和成さんは僕を見送っていただろう。 |
▲3.蓮家 「お帰りなさい、蘭」 その声は特別大きくはなかったけど、力強く硬質な響きかたをした。女の人の声。それが第一印象。 「ただいまっ」 僕ら3人のうち、蘭が答える。 「林、ご苦労様」 また、さっきの声。 「どうも」 今度は林さんが答える。 「で、君が七瀬司くんか」 「…!」 その声に指名されてどきっとした。答えないでいると、パンッ(多分、手叩き)と音がした。 「ほら! 挨拶!」 途端に不機嫌な声。それに押されるように、 「え…あ、…はじめまして」 と、しどろもどろ口にすると、 「よーし。日本の学校でも教わったでしょ? 挨拶は元気良く、しっかりとね」 と、不機嫌だったはずの声は最初に戻った声で微笑んだ(そんな気がした)。 「はじめまして。蓮流花よ」 例え日本語でも呼びつけにしたらはっ倒すからね、と微笑んだままの口調で付け加えた。 香港に着いたと教えられても、全然、実感がわかなかった。蘭と林さんに騙されてるんじゃないかと思ったほどだ。 空港に着いてすぐに車に乗せられたせいもある。車の揺れは日本と同じだし、空気も匂いも大して変わってないし、何より蘭と林さんは日本語を話す。ただ、車の運転手に、蘭はあの明るい声で、僕の知らない言葉を淀みなく投げかけていた。違和感があったのはそれだけだ。 家に着いたと声を掛けられて、車を降りたとき、出迎えの挨拶をした流花さんも日本語を口にした。それに対する蘭と林さんも日本語で応えた。ほんとはここ、日本なんじゃないの? と、よっぽど蘭に訊きそうになったが、それで恥を掻くのもごめんだ。 「君は今日から、ここに住むのよ」 「え?」 話し掛けてきたのは流花さんだ。意味を理解するより先に問い返してしまった。5秒かかって何となく理解すると、「どうして?」と、さらに聞き返した。 「あら、史緒から何も聞いてない? 変ね」 「…なんで史緒? 和成さんじゃなくて?」 この違和感は3度目だ。最初は櫻、次は蘭。その2人に比べれば流花さんの発言はかなり直接的な言い回しだったように思う。何故みんな、史緒が仕切ったような言い方をするのだろう。 「カズナリ…? あぁ、史緒の面倒見てる奴、か。私は面識無いんだけど、どんな奴? 男前?」 多分、もう少し後の僕なら、この台詞にカチンときていただろう。この時は流花さんの台詞をすぐに理解できなくて言葉を返せなかった。 「…」 黙っていると流花は、重みをつけた口調で言う。 「もちろん、ルックスを訊いてるんじゃないからね?」 「───」 「コラ、黙らない。日本でも言うでしょう? 目は口ほどにモノを言う。目で喋れないなら、ちゃんと口で喋らなきゃ。相手が不安になるわ」 (その理屈はムチャクチャだ)「病院に行くんじゃないの?」 「医者はここに呼ぶわ」さらりと流花が言う。(は?)「…ちょっと顔、触らせてね」 両耳を塞がれた。 突然の触感に驚いたけど、流花さんが両手で僕の頭に、包帯の上から触れたのだとすぐに気づく。そのまま軽くひねられた。 「外側はあと一回の手術できれいになるらしいじゃない。一月後にはきれいになるわね。その後は私の出番」 「え?」 また問い返すと、流花さんは困ったように笑って、軽く息を吐く。ふと、その手が離れる。 「もぅ、本当に何も聞いてないのねぇ」さらに声を強くして「ま、いいわ、後で説明する。ひとつだけ言っておくけど、ここでの暮らし、楽じゃないわよ。覚悟して。…蘭、家の中を案内してあげて」 「はぁい」 「家の中のこと、よく覚えておくのよ。今度、ひとりでおつかいに行かせるから」 行きましょう! と蘭が言い、僕の手を引く。 蘭に引きずられて、流花さんの前を通り過ぎた。 また、訳が分からない状況に立たされたわけだ。 この家はとにかく広かった。 蘭の手に引かれて壁を伝いながら歩いたけど、直線距離だけでもかなりあったと思う。 最初に長い廊下があった。足音の響き方が違う、天井が高いのかもしれない。 何人かとすれ違う。蘭はまたも大きな声で、挨拶のような、僕の知らない言葉を喋った。それが2,3人続いたとき、訊いてみた。 「何て言ってるの?」 「あ、ごめんなさい。さっきのは、司さんの紹介は今夜します、って」 「ちょっと待って。ここって何人いる?」 「さぁ…、何人くらいでしょーか…」 「は?」 「あたし達家族の他に住んでるのは、日によって変わりますけど、20人くらいだと思います。ミスタ・ロッジスと、お医者様と、看護婦の方と、警備の方もいるし、あと林さんも」 言葉もない。 「あの、蘭の家族って?」 「あたし、13兄妹の末っ子なんです。流花ちゃんは2番目」 「!!」 「お父さまと、お母さま達」 「……。達…?」 「7人いるの、皆、ステキな方」 「7人!?」 「あれ、えっと、何か変でした?」 「…」 その後も蘭が案内したのは、中庭、図書室、家族の部屋、食堂など、およそ一般家庭ではあり得ないくらいの距離を移動をした。まるで学校のようだ。 「この先は父さまのお部屋。今はお仕事がたくさんみたい、司さんには後で挨拶に行くって仰っていたわ。普段は一番手前の部屋にいらっしゃるのだけど、それより奥はあたし達は入っちゃいけないの」 「───」 蘭たちの父親。…どんな人だろう。 「そしてここが司さんの部屋です」 また少し歩いた場所にある部屋のドアを、蘭が開けたようだ。 「おかえりなさい」 林さんが待っていた。 「じゃあ、蘭さん。司くんと少し話をさせてください」 「は〜い。じゃあ、また、夕食に呼びに来ます」 司さんまたね、と言い残して、蘭は部屋から出て行った。 林さんは僕を近くの椅子に座らせると、自分も正面の椅子に座った。 「改めてよろしく。司がここにいる間、僕が君の面倒を見る」 「…あ、よろしくお願いします」 「まずは流花女史からの伝言。この家の中で日本語が使えるのは、蓮大人と流花女史と蘭さんだけだ。あと、ワタシね。えーと…、他の人間とコミュニケーションを取りたかったらここの言葉を覚えること、だって」 「えっ!?」 大袈裟に驚くと(心中は決して大袈裟ではないのだが)林さんは声を立てて笑う。 「広東語と英語ができれば会話には困らないよ。街中にでるようだったら、北京語もできるとパーフェクトだけどね。大丈夫、どれかひとつ覚えれば文法は似てるから」 その他に、林さんは僕に杖を渡した。 取っ手は無く、ただの棒。細い。色は白らしい。 「この杖を持つ意味は3つある。ひとつは足下の段差やぬかるみを知るアンテナの役目、ふたつ目は障害物から身体を守るバンパーの役目、みっつ目は周囲に注意をうながす目印としての役目」 体の重心を支えるためのものじゃない、と林さんは強調した。 どうもよくわからない。 どうして僕は蓮家に来させられたんだろう。 「…僕はここで何をすればいいの?」 「できるだけみんなと同じように暮らせるようにする訓練をするんだ」 つまり、病院でやると思っていたリハビリを、この家でするのだと、僕は理解した。 何となくだけど目的が見えて、少しだけ安心した。 はじめの数日は、ほとんど蘭と一緒だった。 蓮家での生活習慣を教わったり、出会う人達に紹介してもらったり、それなりに忙しく過ごした。林さんも時々一緒で、僕の面倒を見てくれていた。 蓮蘭々は僕より3歳年下。今年8歳になるらしい。 今のところ僕の生活の中で、一番、話がし易い存在だ。蘭の活発な声や明るい性格に接すると気持ちが軽くなり、一緒にいると漠然とした不安を忘れることができた。分からないことは、蘭になら遠慮無く訊けたし、蘭も僕のことを常に気に掛けてくれていた。 蓮家の末っ子である蘭はその気性から、やっぱり周囲から好かれているように見える。僕は蓮家の兄姉のうち、まだ半分くらいしか会ってないけど(なんせ13人もいる。名前と順番を覚えるだけで一苦労)、さらに蘭と流花さん以外の人達の言葉は僕には分からないのだけど、それが伝わってきた。同じ兄妹でもここまで違うものか、と阿達家の2人を思い浮かべもしたけど、その比較は悪口になるだろうから、蘭には言わないでおく。 その代わり、僕は思いだしたことを言った。 「そういえば櫻が…」 「はい?」 「伝言を頼まれたんだけど」 「櫻さん? あたしに?」 「多分」 香港へ行くことを櫻に伝えたとき、櫻はこんなことを言った。 蓮家の末娘に伝えろ。 (って言ったら、蘭のことだよな…) 「なんですか?」 「『探しものは見つかったか?』」 櫻の台詞をそのまま言ってみると、蘭は目を丸くして、少し間があってから、くすくすと笑い出した。そして、 「まだです」 と、答えた。実は蘭の返答に対する、櫻のコメントも用意されていた。 「うん、多分、そう答えるだろうとも言ってた、な」 海を越えての伝言に使われるのは別に構わないけど、櫻と蘭の間でこんな密談があるなんて意外だった。 「えへへ。これは秘密なんですけど、櫻さんとあたし、同じ探しものをしてるんです。見つかった? っていうのは、もう挨拶代わり。…櫻さんがそう言ってたということは、まだ櫻さんも見つけてないっていうことですよね。残念なような安心なような、変な気分です」 あ、秘密ですよ。と、蘭は念を押した。 こっちこそ変な気分だ。 確かに蘭は誰とでも分け隔て無く接し、話をするけど、それはあの櫻でも例外ではないということだろうか。 「蘭って、櫻のこと平気なの?」 「平気って?」 と、問い返されてしまい、言い淀む。 「えっと…、僕はあまり好きじゃない」 「あたしも、櫻さんのことちょっと苦手です」と、苦笑して「だって櫻さん、史緒さんのこといじめるんですもの」 「蘭は、史緒のことは好きなんだ?」 「大好きです。司さんは?」 「───…」 このときは深く考えず、僕は自分の発言の責任を以て、史緒本人に向けた意味をそのまま繰り返した。 「嫌い」 「まず、これだけは覚えなさい」 最初の「授業」で、一番に、流花はこう言った。 「今から教える現実を受け入れなさい。理解するのは後で構わないわ。でもいつも自分に言い聞かせなさい。これは真実で、大前提なの」ひとつひとつ区切りながら。「君は障害者になったの」 「………」 「そして大概の社会は障害者に優しくないわ」 ここには自分ひとりしかいないはずなのに、流花はまるで、教師が教室全体に響かせるような、そんな声を出す。 「周囲に頼らなければ生きていけないの。わかる?」 「…っ」 ぎょっとした。流花の声がすぐ近くから聞こえたからだ。 「よく聞いて? 決して優しくない世界に頼らなければ生きていけないの。それはとても厳しいものだわ。もし、誰かが司を騙そうと嘘をついたら、君は見抜けるかしら。馬鹿げた優しさに揺れずにいられるかしら。対人じゃなくてもそうね、足下に大きな石があったら転ばずにいられる? 知らない町に置き去りにされて、家に帰れるかしら? ───忘れないで。君が生きていく世界は本当に、優しくないから」 一気に言葉をぶつけてくる流花、そのうちの半分も意味が分からなかったけれど、最後の言葉だけは自分を脅すための大袈裟なものだろうと思った。 「で、でも…、今までは普通に暮らしてきたし…」 「そうね」耳元で聞こえる優しい声。「友達と遊んだりした? 親切な人たちもいたでしょう」 「うん」 「同じものを見て、同じように感じて、そうやって仲良く遊んできたよね。一緒に学校へ行ったり校庭で遊んだり、テレビ番組の話で盛り上がったり? そんな風に、『今までは普通に暮らしてきた』のね。楽しかったね。これからもそうなの?」 「────」 「これからもそうなの? 同じように普通に暮らしていくつもりなのね? 司はそう思うのね?」 「……」 バンッと何かを叩く音がした。それだけで心臓が跳ね上がった。 「最初に言ったはずよ」と、流花は言い捨てる。 「君は障害者になったの。もう忘れたの!? 今までとは違うの、同じようには生きられないの! 見えていた頃の栄光は教訓にこそすれ縋ってはだめ」 流花の言葉に心が揺れた。根拠の知れない不安が押し寄せる。 「もしかして、まだ、分かってない? 自分がどんな状況か分かってない? 周囲の人たちに違和感を感じない? 今までの君はあっち側にいたの、でも今は違うでしょう? よく考えて、今の自分を受け入れなさい。自棄にならないで、新しい自分をちゃんと見なさい!」 「いっぺんに言わないで! 分かんないよ!」 思わず叫んでいた。はっきり言って流花の喋っていることは意味が分からない。意味が分からないのに、何故か追いつめられているような気分になった。とりあえず何を置いてもまず、流花が優しくない。 大きなため息が聞こえた。 「…次の授業は2週間後にするわ。それまでさっき私が言ったこと、よく考えて」 その声からは隠せない苛立ちが伝わって、それに僕は傷ついた。居心地の悪い重苦しさを味わった。 「返事」 「…はい」 ここでの暮らし、楽じゃないわよ。 今更ながら、初日に流花から言われた言葉を思い返していた。 「最近、蘭、見ないね」 何度目かの流花の授業の合間、僕は気になっていることを訊いてみた。 流花の足音が止まり、少しの間がある。「そうね」 「蘭にはしばらくこっちに来ないように言ってあるの」 突き放されたような言い方。 「どうして?」 「甘えちゃうから」 「…誰が? 誰に?」 「司が。蘭に」 「…なにそれ」 少しの苛立ちを覚えた。「蘭は関係ないじゃん」 流花さんにそんなことする権利ないよ。 「あのね」ため息を吐く。 「何度も言ってるけど、常に冷静でいなさい。司はちょっとカッと成り易すぎよ」 「それは流花さんのせいだよ」「他人のせいにしない」「…っ」 一言で黙らせられた。 多分、僕は間違ったことは言ってないはずなのに。 「感情を荒げないで。聞こえるはずのものが聞こえなくなるわ。…怒るなって、言ってるんじゃない。その感情をわざわざ表に出すことに労力を使わないでってこと。喜怒哀楽を感じるのは大切だけど、それだけで気持ちをいっぱいにしないで、外からの情報を逃しちゃだめ。目は能動的に物事を捕らえることができるけど、耳や鼻は受動的…つまり相手が発してくれない限りそれをキャッチすることができない。だからいつも注意して、アンテナを広げておかないとね。わかる?」 「…よくわからない」 「わかりません、って簡単に言ってしまうのは、わかるつもりがありません、って意味よ。あなたの体のことなの、もう少し親身になって考えてみて」 「だってこれは僕のせいじゃないッ!」 僕の顔───目があるはずの位置を指さす。 「こんな怪我したのも、そのせいでここにいるのも、こんなことしてるのも、全部、僕のせいじゃないじゃないか」 一気に叫んでしまうと息が上がった。しばらく肩が上下する。 「じゃあ、誰のせい?」流花はさらりと尋ねた。 「…っ!」 ハッとした。 思わず口を塞ぐ。その指が震えた。 思ったことをそのまま口にしてしまったけど。そうだ、僕は、 (一体、誰のせいだと思っていたんだろう───) 考えるまでもなく、両親の顔が頭に浮かんだ。(違う)必死で否定する。(違う!) そう思ってしまうのは汚い。自分のそんな感情を認めたくない。 確かに、お父さんとお母さんは僕を置いていってしまった。だからといって、何でもかんでも2人のせいにしてしまうのは卑怯だ。 どこかに原因があるという考え方は、もしかして間違ってる? 僕のせいじゃないのは分かってる。ただ、その原因のせいにしたいとは思う。 どうして? 何かのせいにすれば、気が楽になるから。 ほんとに? 楽になるはず。 楽になりたい、この息苦しさから。 その上、自分が嫌なヤツに成り下がってしまったら、本当に最低だ。 誰かに呼ばれた。 「───…」 鳥肌が立った。その声を耳にしたときに。 聞いたことが無いような、太く低い声。大きな声ではないのに、腹の底に響く。 振り向けなかった。どっちにしろ見られないのはわかってる、でも意識している漠然としたものに背を向けているときの緊張には耐えられない、だから見られなくても振り返るのだ。 でもこのときは振り向けなかった。 声だけで、この肌に感じるその存在感。それが僕の名を口にした。 寒くもないのに、喉が震え上がった。 「司」 低い声は、さらにゆっくりと言葉にする。一音ずつの切り替わりが遅い。つかさ。その3文字の発音だけで2秒は掛かった。こんなにゆっくり喋る人は初めてだ。 名乗られなくてもわかってしまった。(どうしてわかったんだろう?)はじめて会ったのに。 蓮瑛琳だ。 だから尋ねなかった。 「おいで。散歩に行こう」 5秒かけて言う。 今度の声はさっきに比べて柔らかい。漠然としたプレッシャーは消えていた。 おじさんの手は冷たかった。 僕の手から熱が伝わり、すぐに分からなくなってしまったけど。 おじさんは喋るのと同様、歩くのもゆっくりだった。 玄関へ向かう、長い廊下を歩く。あまりにもゆっくりなので、普通に、隣を歩くことができた。 カツン、カツンと足音が遠く響く。(……)何て言うか、痛い沈黙ではないけど、微妙に気まずい静けさだ。 何か話しかけたほうがいいだろうか。でも何を話せばいいかわからない。 今、こうして手をつないで並んで歩いているけど、完全に手を預けたわけじゃない。少しの緊張がある。もし何か少しでも予測外な物音でもしたら、きっと僕は、手を振り払って身構えただろう。 でも、今、聞こえるのは足音だけで、他に誰の気配も無かったし、雨や風の音も聞こえなかった。 外に出た。 足音の反響音が変わる。風を感じた。さっきとは別の静けさになる。 以前、蘭とここを通ったときのことを思い出す。芝敷きの庭に、アスファルトの道が続いていると蘭は教えてくれた。そのアスファルトの道を、やっぱり並んで歩く。 おじさんは何も喋らなかった。 (…) どうして散歩に行こうなんて言い出したんだろう。何か僕に用があったんだろうか。流花さんを困らせていることを諫めに? そういえば今更だけどこの人、流花さんや蘭の父親なんだ。 (どんな人なんだろう) 蓮家13兄妹は、長男の晋一さん、長女の流花さん、皆、年齢は僅差で、一人離れて末っ子の蘭がいた。彼らの母親は7人いる。もう、誰が誰の母親か覚えるのも一苦労だけど、本人たちはそんなことは別にどうでもいいようだ。全員が彼女らの子供であり、逆もまた同じだという。 広い家。蓮家の家族以外の人たちも沢山いる。彼らは、皆、陽気で親切。多分(言葉は林さんが訳してくれてるので直接的なニュアンスは分からない)。 この家の主がこの蓮瑛琳だ。 大きな仕事をしているって聞いた。阿達のおじさんのように、会社の社長とか、そういうものかもしれない。 (どうして僕をここにいさせてくれるんだろう) 阿達のおじさんとどういう関係なんだろう。 櫻と史緒のことも知ってるのかな。 (どうして僕はここにいるんだろう) 退屈になるくらい、平坦な道が続いていた。終わりが無いんじゃないかとさえ思った。 おじさんは何も喋らなかったし、途中、誰にも行き会わなかった(数十人はこの屋敷にいるはずなのに)。僕らの足音はまるでメトロノームのように単調に一定に響いた。背中がむずむずしてきた。 (…) とうとうこの沈黙に耐えられなくなって僕は尋ねた。 「どこへ行くの?」 蓮老人は答える。「道のりを楽しむのが散歩だ。到着点に意味は無い」 そんなことを聞きたいんじゃないのに。 「…何で僕を連れ出したの?」「散歩をするためさ」 「どうして散歩するの?」「外に出ると気持ちがいいからだ。司はどうだい?」「…思わない」 「ねぇ、林さんは?」「さぁ。どこかには居るだろう」 「歩くの遅いね」「わたしは年寄りだ。気遣っておくれ」 「蘭と最近、会った?」「あの子はいつも会いにきてくれるよ」 ああ、それは何となく簡単に想像できた。会いたいのに、多忙なため会うことができない父親。蘭なら何の勢いもいらずに、走って、会いにいってしまうだろう。 さらに僕はどうでもいいことをおじさんに話し続けた。沈黙よりは楽な気分だった。 おじさんはそれを聞き、丁寧に相づちを返してくれていた。 「ねぇ、もうどれくらい歩いた?」「距離か? 時間か?」「どっちも」 「急ぐような用事があったのか?」「ないけど」「では何故訊く」「なんとなく」 ───そういえば何でそんなことが気になったんだろう。 一旦、会話が途切れると、おじさんは話しかけてこなかった。 さっきから質問を投げ続けていたのは僕のほうで、おじさんはそれに答えてくれていただけだ。ちょっと煩わしく思われたかもしれない。 そう思って、また少し黙っていると、今度はおじさんから話しかけてきた。 「何歩、歩いたか数えてみなさい」 歩数? 「それから後で林に、一歩が何センチか計ってもらうといい」 「…掛けると距離が出る」「そうだ。頭がいいな」 そっと、頭を撫でられた。髪の毛の上からだったのに、その手のひらの熱がじんと伝わってきた。 温かかった。 (…。それくらい常識だよ) 頭に伝わる熱を感じると、つないでいるほうの手も同じように温かく感じた。 おじさんの手はつるつるでしわしわだった。駄菓子屋のじぃちゃんと同じ手。蓮老人は何歳なんだろう、じぃちゃんと同じくらいか? (1、2、3…) やってみることにした。歩数を数え始める。 僕らはゆっくり歩いていたので、その早さで数えるのは簡単なはずだった。 ところが順調に数えていたはずなのに、 (一歩が30センチとして、3歩で約1メートル…30歩で30メートル…)別のことを考え始めてしまい、 「あっ! 数えるの忘れてた!」 と、我に返った。 「焦らなくていい」 おじさんはそう言ったけど、もう一度同じ失敗をしたときは、さすがにちょっと恥ずかしかった。 「最初はそういうものだ。繰り返せば意識しなくてもできるようになる」 その後、しばらく歩数を数えるのに夢中になった。 簡単なことのはずなのに、何回やっても500までは数えられなかった。 途中、数えてない自分に気づいて「あ」とか「う」とか僕は声をあげて、また1から数え始める。やっぱり100を超えたあたりで、「数えること」が思考から剥がれてしまうような感じがする。無意識に別のことを考えてしまっている。それと逆に、何も考えない状態になってるときもある。ぼーっとしてるだけかも。そしてまた我に返る。 数も数えられないと思われるのは癪なので何度も繰り返した。 「…あっ、また」 「焦らなくていいよ」 1、2、3… 右足が奇数。左足が偶数。3桁になると数えにくくなって、一歩の早さに着いていけなくなった。 (…あれ) ふと、懐かしいもの感じた。 (そういえば、これ。…通学路でやってた) 家から学校への道のり、決められた通学路。帰りは寄り道しながら帰るので、たいていは朝の登校時間。 家から学校までの排水溝コンクリートはいくつ並べられてるかとか。 家から学校まで何歩で行けるかとか。 友達と一緒に。ふざけて邪魔し合ったり、遅刻間際に走りながら。信号待ちの間に次の数を忘れてしまったり、テレビやゲームの話に夢中になったり───。 「……」 少しだけ涙が滲んだ。そんなに遠くないはずの日常を思い出して。 まるで遠い昔の出来事のだようだけど、確かに現実だった。 (…そういえばあの頃も、一度も成功したことが無かったような気がする) 何分も数を数えるのはもしかしたら難しい事なのかもしれない。あの頃もそう。そんなことやってられない程、僕らはお喋りや遊ぶことに忙しかった。 「───…あれ?」 そんなことを思い出していたら、また数えるのを忘れた。最初からやりなおしだ。 おじさんが微かに笑った。 1、2、3… どのくらいの時間が経ったか分からない。 歩いているうちに汗を掻いてきて、息が上がってきた。 鼓動が聞こえた。自分の心音。 おじさんと僕の足音の、微妙なずれ。不定期なリズム。 少しずつ無口になる。我に返ったときの呻き声さえ忘れる。 風の音や葉擦れ。 小さな砂利を踏みしめる音。 草の匂い。 自然と、顔を上げた。 風が吹いた。 それは不思議な感覚だった。 耳のシャッターが突然開かれたような鮮明な音。 体に染みこんでくるような植物の匂い。 包まれている。 360度を感じた。神経や感覚が働きだし、何故だか額が痛くなる。心地よい痛みだった。 …腕が温かい。 (あぁ) (今日は天気がいいんだ) 無意識に仰ぐ。 もちろん何も見えない。でも、顔に熱を感じた。包まれるような柔らかい熱。 太陽が出ている。 わかる。きっと空は青い。その青さを忘れずに覚えてた。 鼓動がゆっくりと走り出す。だから熱い。 風が吹いただけで感動するなんて。 無意識に立ち止まっていたので、つないでいた手が引っ張られた。「司?」 今、きっととても広い場所で、僕らは突っ立っている。そう、広い場所に。 とても広い場所に。 「…もう見えないの?」 小さく呟いていた。 「難しいな」 驚いたことに、あれだけの言葉で伝わったらしい。言い直そうとしていたのに。 「悲しい?」 「違う」 この気持ちは絶望じゃない。悲しみでもない。 以前の僕が当然のように見ていたものが今は見られない。あの頃は当たり前のように見ていた。「見ている」ことさえ意識してなかった。見ているくせに見えてないもの、きっと沢山あった。 「…悔しいんだ」 もう遅い。今、そしてこれからも。 もう見せてもらえない。 ふわっと新しいあたたかい風が吹いた。 苦笑した。 どうしてこれしきのことで胸があったかくなるんだろう。大丈夫だと思えるんだろう。 本当に不思議だった。 「もう少し先で一休みしよう」「うん」 また歩き出す。 しかしすぐに立ち止まった。 「───ねぇ」 「なんだい?」 振り返る。一点に集中する。 「誰かいる」 おじさんも振り返ったらしい、僅かに手が引かれた。「…おや」と呟いた。 「きゃあ、見つかっちゃいましたーっ!」 「!」 離れた所から高い声が響いた。 「え…っ、蘭?」 思いもよらない、久しぶりに聞いた声。 「なんで分かったんですかー、あたし、すごくすごく注意してたのにぃ」 小さい足音が駆け寄ってきた。ブレーキをかけずにおじさんに体当たりしたようだ。 「父さま、流花ちゃんには秘密にして! ね!?」 「どうして」 「しばらく司さんと会っちゃいけないって、言われてたの」 「ははは、いいよ、わかった」 「司さんがこっち向いたとき、ほんとに飛び上がっちゃいました。なんで分かったのぉ?」 「そうだね。司、どうして分かった?」 2人がこっちを向いた気がした。突然、質問されても、僕に答えはなかった。 「え、どうしてって……、何となく」 (あ、足音かな?) 後から気づいた。 「ずるーい、それじゃ答えになってませーん」 * * * 日差しの暑さが少し和らいだ。「今、日陰に入ったよ」とおじさんに教えられ、(ああ、そうか)と納得した。 おじさんは大きな木の陰に僕と蘭を座らせて、その間に腰を下ろした。 地面は短い草が生えてる。なんか…、久しぶりに植物に触った気がする。 小さく雨が降る音がした。でもそれは雨じゃなくて、樹木の葉と葉が風に揺れる音だった。 蘭が喋らなくなったと思ったら、「眠ってる」とおじさんが囁いた。声を抑えて笑った。 「今、何時くらい?」 「3時を回った。…昼間のな」 「それくらい分かるよ」 「どうして?」 「え?」 「どうして昼間だとわかった?」「……」 聞き返されるとは思わなかった。 確かに僕には夜中の3時も日中の3時も、同じように真っ暗だ。だから自分で昼と夜の区別をするにはそれ以外の要因が必要になる。 「…えっと、おじさんや蘭が外に出てるし、さっきお昼ご飯を食べたし」 「それだけ?」 「え…、だって、昼間は昼間だよ」 「どうして?」 しばらく考えて、息を吸った。…ちゃんと分かってる。 今が昼間だって分かってる。何故なら。 「───…暖かい。太陽が出てるのが分かる」 声が震えた。 ああ、言葉にするってすごい。 昼間だってことは当然のように分かってた。思いこんでた。暖かさも感じていた。 言葉にすることで、それらがすべて繋がった。 その小さな感動に驚いた。 「両親のこと、辛いかい?」 「……そんなの、わかんない」 「考えてみなさい」 「わからないものはッ、……わからないよ」 あやうく大声で叫ぶところだった。蘭が寝ていることを思い出し、どうにかそれを留める。 よく考えなさい。流花はよくそう言う。 でも、よく考えてしまうのは怖い。気づかずにいれば良かったことさえも見えてきそうな気がして。 特に両親のこと。 僕を捨てた理由。…胸がムカムカしてきた。 おじさんが僕の頭を撫でた。 「日本が懐かしいかい?」 「べつに」 「友達はいっぱいいた?」 「ふつう」 「目が見えなくなっても、一緒にいてくれるような人はいた?」 「…お父さんとお母さんがそうだと思ってたッ」 小さく吐き捨てた。爆発したような感情。 声を小さくしたのは、寝ている蘭に気を遣ったせいもあるし、それに、この小さな口から出すにはこの気持ちは大きすぎる。暴れ出す激情に体がいっぱいだった。すべて吐き出せなくて苦しかった。 どうなっても、一緒にいてくれると思ってた。…ううん、そんなこと考えもしなかったけど、無意識に思ってた。 両親は僕に対して、勿論、義務もあるだろうし、それに、愛情もあったと思う。 それなのに何で置いていったの? 責任取るのが嫌になったの? 面倒見るのが嫌になったの? これ以上深く考えるのは、本当に本当に本当にこわい。 よく考えてしまうのはこわいんだ。 「司」強い声で言う。「他人の噂は信じるものじゃない」 「でも誰も本当のことを教えてくれないじゃないか、だからいろんなことを考えちゃうんだ」 「どうして他人からの言葉を欲しがるんだ? そのうちのどれかひとつでも真実だと信じているのかい?」 「…っ」 「世の中は善人ばかりじゃない。無責任な噂はもとより、嘘を吐く者、騙そうとする者もいる。他人を信じるな。本当のことを知りたいなら、自分で考えて、自分なりの答えを出すしかない。───両親との別れにはいずれ、司は司なりの解釈をし、結論を見出すだろう」 「誰の言葉も信じないで平気なの?」 「まさか」 「だって…」 そう言ったじゃん。 「この先、今は想像もできないような他人と出会う。その中には、信じる信じないという言葉すら必要ない関係になる他人もいるかもしれない。」 「───」 「…今は流花が教えることをよく聞いておきなさい」 おじさんはそう付け足すと、会話を終わらせた。 「さぁ、司も少しおやすみ」肩を引かれ、ころんと寝かせられた。膝の枕に。 「目が覚めたら違う世界が見える」 「見えないよ」「見える」 草の匂いがした。 「……」 暖かい空気のなかにいる。蘭の寝息が聞こえる。 汗ばんだ額に風が通り抜けた。 今、ここに限りない空間があって、手の届かない青空が頭上に広がっていること。 確かに感じていた。 目が覚めても、やっぱり何も見えなかった。当たり前だけど。 でも蓮老人の言葉の意味を、長い時間をかけて、流花さんの授業を受けながら、僕は理解していった。 「なんで阿達のおじさんと蓮家の人たちは、僕の世話、見てくれるの?」 流花さんに訊いてみた。 「阿達のおじ様はやっぱり責任を取ってるつもりなんじゃない?」 と、流花さんは答える。 それは僕にも何となくわかる。 「私たちは…そうねぇ。最初はやっぱり、頼まれたからね」 「誰に?」 「私は、父様に頼まれたわ。こういう男の子がいるから面倒見てくれって」 「おじさんは?」 「蘭に頼まれたみたい」 「…蘭は?」 「少しは自分で考えなさい」流花は苦笑した。 「でもね、阿達のおじ様も父様も、自分の能力を知り向上心がある人間がお好きなの。その点で、お二人は似たもの同士だわ。つまり、あのお二人に気に入られてるのよ、司は」 そういうものだろうか。 よく分からなかった。 それでも泣くことがあった。 情けないけど、流花さんの厳しさに。 それから何もかもうまくできない自分に。流花に反論する言葉を知らない自分に、泣けた。 「あのね」ぽんと頭を撫でられる。「関係ないけど、ひとつ話をするわ」 「この経験が自分を支えている≠チていうのは、誰もが持ってるものなの。良い思い出か悪い思い出かは人それぞれだけど、でも、皆、持ってるものなの。 時々、自分を支えているはずの記憶が重くなって…辛くなるときがあるわね。心の内にずっと抱えていた想い、吐き出せたらきっと軽くなる、誰かに聞いてもらえたらきっと楽になる。───でも、吐き出すのは怖い。今まで自分を支えてきたものが確実にひとつ消えるわけだから。楽になるけど弱くなってしまうから。だからいつも、誰かに何かを打ち明けるのはとても勇気がいることなの。 だけど同時に、ひとつ、強くなる。想いを打ち明けられることができると自分が選び、そして聞いてくれた相手の存在が、その信頼が、きっと新たに自分を支えてくれる。強くしてくれるわ」 「…よくわからないんだけど。何の話?」 「今、司が感じている苦しさや辛さが、将来の支えになるはず、っていう話よ」 流花さんは真面目な声で言う。 「それから、司は将来、信頼できる誰かと出会えて、その誰かに、今感じている泣き言を聞いてもらうことになるかも、っていう話」 「泣き言なんか言わないよ。恥ずかしいな」 「さぁ、どうかな」 「言わないって」 ムキになって答えると、流花さんはクスクスと笑った。 つづく |
31話「風の中で 前編」 END |
30話/31話/32話 |