29話/30話/31話
30話「青い空と嵐の夜」



「こんにちわぁ」
 A.CO.の事務所に一人の女性が現れた。
 その高い声はわざとらしいほど舌足らずな口調で、その時事務所にいた2人にあまり良い印象は与えなかった。サングラスを掛けフルメイクを施した顔、グロスが光る唇は不敵に微笑んでいる。歳は推測20代後半。ソバージュの黒髪は腰位置まで。ボディラインを強調する朱色のワンピースを着て、同じ色のピンヒールは高さ8センチ。梔子を水で溶いたような淡い黄色の春コートを肩に引っ掛けていた。
 事務所にいたのは阿達史緒と島田三佳だった。朝8時50分のことである。
 きっかり5秒間、2人は突然の来客に言葉を失っていた。5秒後に正気に戻ったかというとそうではなくて、
「ちょっと! ここはお客にアイサツもしないわけ!?」
 来客のほうが痺れを切らし、ずかずかと大股で入室してきたのだった。ピンヒールの踵は危なげもない。そのまま史緒が座る机の前まで来ると、コートを持ったままの左手で、ばんっと机を叩き、史緒と対峙した。
 右手でサングラスを上げ、笑う。
「久しぶり。相変わらず生意気そうな顔ねぇ」
「───」
 史緒は微かに眉をしかめた後、深々と溜め息を吐いた。
「お久しぶりです。私の顔が生意気そうなのは生まれつきですから」
「それって責任転嫁よ? 阿達夫妻は美男に美女だったじゃない。先天の血のせいにするなんてレベル低さの露呈、自己認識の欠落、現実逃避よ。あんたの顔が生意気そうなのは、あんたが成長過程で培ってきた性格の悪さが滲出してるの。素直に認めなさい」
 あまり理論的とは言えない台詞だが、反論を許さない命令口調。隙の無い台詞回しに圧倒され、思わず頷いてしまいそうにもなるが、史緒はきっぱりと言い返した。
「では、生まれつきという発言を取り下げます。生意気に見えるのはあなたの偏見で、私怨があるからでしょう」
「あらまぁ、結局は他人のせいにするんじゃないのさー。代わり映えの無い思考回路だこと。ちょっとは成長したら?」
「あなたに不愉快な発言をされたこと、蘭に報告させてもらいます」
「問題を自分で解決できない所長じゃあ、A.CO.も長くないわね」
 史緒に真正面から毒づく人間も珍しいが、まともに言い返す史緒も珍しい。いつもなら無視するところだ。
 突然の来客が誰かは知らないが、語彙が豊富になっただけの子供の喧嘩が繰り広げられている隙に、三佳は紅茶をいれてきて、応接用のテーブルの上においた。ついでに史緒にコーヒーをいれてきた。
 ぱっと来客がその身をひるがえす。
「もしかしてこの子が三佳ちゃん?」
 史緒は溜め息を吐いてから答えた。
「そうです」
 客が自分の名前を知っていることに三佳は驚いた。誰だ?
「返還パーティ以来、我が家の噂の的よ。あなたが司の彼女かー。あのとき、私一人会えなくて残念だったわー」
「あの」
「三佳。この人は蓮流花さん。蓮家の長女、蘭のお姉さんよ」
「え」
「よろしく、三佳ちゃん」
 強引に握手させられた。
「31歳」
「強調するなよ」
 史緒の呟きに流花は噛み付いた。
 蓮流花。三佳はその名前を知っていた。「流花さんは僕の先生でもあるんだ。厳しい人で、昔はよく泣かされたものだよ」と司から聞いたことがある。具体的に何の先生だったのかは知らないが、三佳はもっと年配であるイメージを持っていた。
「私のことも、少しは知ってるかな?」
 流花は三佳の前に座り込み、顔を覗き込んできた。三佳は気を取り直して挨拶をする。
「はじめまして、島田三佳です。噂は色々と聞いてます」
「蓮流花よ。礼儀正しい子は好きだわ。史緒とは大違い。お守りは大変でしょ?」
「ええ」
「流花さん、いちいち引き合いに出すのはやめてください。三佳も、そこで肯定しないで」
「あら、言論の自由を奪う気? 私に対しても三佳ちゃんに対しても、あなたにそんな権利があるのかしら」
 またも不敵に笑いながら史緒と口論が始まる。
 それを見ていた三佳は流花について何となくわかったことがあった。
 流花はきっと、日本語を喋ることを面白がっているのだろう。違和感のない流暢な発音だが普段は口にしない言語を。
 感情から言語への変換。自国語では早すぎて全く意識しないが、他言語への変換の、頭の中の回路の少しのぎこちなさがちょっと面白い、という気持ちは分かる気がする。法学部の学生は専門用語をやたら遣いたがる、と聞いたことがある。あれと同じような気持ち。あまり良くない意味で言われていたが、その気持ちは分かるような気がするのだ。
「蘭と会わなくていいんですか? 早く行ったらどうです」
「勿論、会いに行くわよ。用事をすませてからね」
「用事? まだ何か?」
 史緒の眉間が歪む。
「私の一番優秀な生徒と、蘭が夢中になってるっていう男を見にね」
 それを聞いて史緒はまた溜め息をつき、椅子に座り直した。
「…その2人でしたら、丁度、後ろに揃ってますよ」
 朝8時58分。七瀬司と関谷篤志がドアの前に並んで立っていた。




「司、久しぶり」
 流花は真っ直ぐ進むと、司の首に両腕を回してぎゅっと抱き寄せた。司のほうが背が高いので自然と前かがみになる。司の肩にぶら下がるように流花は力を込めた。「背も伸びたわね。そうね、男の子だものね」
「こんにちは。流花さん」
 流花に抱き寄せられても少しの動揺も見せずに司は挨拶を返した。その様子に流花は微笑む。
「───ちゃんと私の言ったこと、守ってるみたいね。いい子いい子」
 抱き付いている片腕で司の頭を撫でた。そして体から離れ、司の顔をまじまじと見つめた。
「あら、いい男に育ったじゃない。結婚早まったかしら」
「流花さんのところ新婚でしょ? 旦那さんにチクるよ」
「こんな美人に迫られてるのに言いたいことはそれだけっ? ちょっとは照れなさい」
「見れたらちゃんと照れたよ」
「性格もとびっきりの美人よ。わかってるでしょうけど」
 気のせいか凄みを帯びた流花の声色に司は言葉を無くした。不用意なことを口走ってしまうことを恐れたのだ。
 流花は司から離れ、今度は隣にいる篤志の顔を覗き込む。
「で。あなたが、『アツシサン』か」
「関谷篤志です」
 篤志は軽く頭を下げた。
「蓮流花。知ってるかもしれないけど蘭の姉よ」
「どうも」
「───…」
 流花は大きな目を開き瞬きせずに篤志を見つめた。
「…?」その視線にたじろぐ篤志。史緒と三佳と司はその不自然な間に首を傾げた。10秒程経過した。
 鋭さは無いがどこか深いところを見透かすような流花の視線に、篤志は居心地の悪さを味わった。
「…ふぅん。蘭の好きな人か」
 やっと流花は声を発し、無言の金縛りが解けた篤志はそっと嘆息した。
 それにしても。
 以前に面識のある他の兄姉もそうだが、何故彼らは篤志の意向を尋ねないのだろう。末妹の恋心さえあれば相手の気持ちはお構いなしということか? 穿った物言いであるが、あの兄姉ならあり得なくはない。篤志は心中で苦笑した。
「なんで長髪なの?」
「不精です」
 流花の質問に篤志が答えると、流花は鼻白んだように目を細め、ぷいと横を向いた。
「まぁいいわ。───史緒…じゃなくて三佳ちゃん。ちょっと司を借りてくわね」
 流花は史緒改め三佳に言い、司にも軽く声を掛けてさっさと退室した。
 少し遅れて司も「ちょっと行ってくる」と言葉を残し、流花の後を追った。

「私は蓮家の兄姉たちに、あまり良く思われてないのよ。流花さんはまだマシなほう」
 2人が出て行った後、史緒は気にしている様子もなく淡々と口にした。三佳のための補足説明だ。
「どうして?」
「蘭を香港から連れ出した張本人だから」
 厳密には、蘭は史緒や篤志の傍に居たいが為に家を出たのだが、蓮家の兄姉たちからすれば同じことである。
「篤志も、初対面であまり良い印象を与えなかったみたいだな」
「蘭の好きな人じゃ仕方ないわね。あの兄姉の、蘭の溺愛ぶりは普通じゃないもの」
 三佳と史緒は篤志のほうへからかうような視線を向けた。
「俺はなんか、あの兄姉苦手だよ。初対面のとき、皆、睨んでくるから」
 篤志はばつが悪そうに苦笑した。



*  *  *



「煙草吸ってもいい?」
 A.CO.の近くにある公園に入ると、流花は大きく伸びをした。いい天気だ。伸びついでに流花は背骨を少し鳴らした。
 白い杖をつき、流花の後ろを歩いていた司は肩をすくめて頷いた。
「どうぞ」
 すると流花はブランコに腰を降ろし、無造作に足を組む。慣れた手付きで煙草を取り出し火を点けると、4秒かけて最初の一服を吐き出した。司は匂いを感じた。どうやら流花が常用している銘柄は昔から変わっていないらしい。
「史緒の前じゃ、吸えないからね」
 と、流花は苦笑する。
「相変わらず禁煙なんでしょ?」
「うん」
 キィとブランコが鳴った。
「阿達兄妹って大きな影響を周囲に与えてるのねー。生前の櫻は、司や蘭も含め特に史緒の畏怖の対象だったわけだし、死後も史緒を通して沢山の人に影響してる。結構キツいのよーあれだけ潔癖な嫌煙家の近くにいるのって。…でもそれでも、あなたたちは史緒の近くに集まるんだね」
 流花にしてみると、それはとても奇妙な現象に見える。史緒はとりたてて人格者なわけじゃないし、明確な目的を持ち仲間を引っ張っていくリーダーシップの持ち主でもない。
 蘭も含めて、何故史緒の周りには人が集まるのだろう。
(あーんな、我が侭小娘に右往左往なんて、私はごめんだけど)
 と、憎まれ口を叩いてみても、流花は別に史緒を嫌いなわけじゃない。
 史緒の幼い頃のことは蘭と同じくらいよく知っているし、同じくらい、その変化に驚いてるのだから。
「流花さんも、櫻のこと、よく知ってるんですね」
 流花はさらりとその名前を口にしたが、その名は史緒の前では禁句だ。その問いについて煙を吐いた流花はサバサバした口調で答える。
「知ってるわよー。昔はちょくちょく香港に来てたもの。初めて会ったとき、あいつは11歳、子供の頃からあの特異さは際立ってたわ。比較対象がいたから、なおさらね」
「比較対象?」
「…なんでもない」
 流花は遠い目をして言葉を濁した。
 ハンドバッグから携帯灰皿を取り出し煙草を揉み消した。その動作は話題を切り替えるためでもあった。
「いつまで史緒と一緒にいる気?」
 そう言うと流花は2本目の煙草に火を点ける。司は返答に少し迷い、曖昧な答えをした。
「とりあえず必要とされるうちは」
「そんな消極的じゃなくても生きられるように育てたつもりだけど」
「消極的じゃないつもりだよ。自分では」
 苦笑する。できれば話題を変えたいところだが、流花はさらに質問をぶつけてきた。
「アダチの近くにいたいの?」
「…」
「まだ許せないのね?」
「別に阿達は恨んでない。むしろ感謝してる」
「私が言ってるのはあなたのご両親のことよ」
 口調が重くなっていた司が完全に沈黙した。それくらい流花の質問は容赦の無いものだった。黙り込んだ司に、流花は厳しく言った。
「教えたでしょう? 答えたくないときは」
「沈黙するな。言葉で躱せ=v
「その通り」
 流花の声がやわらかくなったのを聞いて、司はほっと一息ついた。質問攻めは終わったという合図だ。
「返還の直後に実家に帰ったら、三佳ちゃんのことが噂になってたわ。蘭とか晋一兄さまとかね。あの司が隣に居させる女の子…それも史緒じゃなくて、小さな子供だって言うじゃない? びっくりしたわよ」
「変?」
「ていうか、意外。あなたの隣に立つのはあなたが信頼した杖しか無いと思ってたから。それが子供だっていうことに驚いたの。盲導犬さえ、最後まで信用できなくて拒否したあなたなのに」
「犬と一緒にしないでよ」司は苦笑した。「それに、ただの子供だったら僕だって一緒にいたりしない」
 そう言い切る司の横顔を盗み見て、流花は「ふーん」と冷やかしの眼差しを向けた。
「司もほんとに変わったねー。私と会った頃は文句ばっかりで生意気なクソガキだったけど」
「…それ、本当に会ったばかりの話じゃないか」
 昔の話はそれくらいにして欲しい、と司は言いたい。
「あのね」と、流花は声を改めて言った。「私が手掛けた患者の中で一番優秀だったのは日本の七瀬司よ」
 それを聞いて司も改まって静かな声で答える。
「光栄です」
「私はあなたに強くなることばかり教えたけど、たまには弱音も吐きなさい。史緒とか蘭とか、三佳ちゃんとかにね」






「今の、無し!」
 事務所の屋上、突き抜ける青空の下。三佳が司に突っかかっていた。
 コンクリートの上にビニールシートを敷き、その上で2人は向かい合い座っている。
 それからシートの上には、まず簡単な料理が乗ったいくつかの皿。三佳が作ったものと買ってきたものが半々くらいの割合で置かれている。そしてワイングラスがふたつ、でも注がれているのは玄米茶。さらに司のバイオリンと、今2人の間に置かれているのは赤茶ツートーンのチェス盤が置かれていた。
 早い話、屋上でランチをしているわけだ。初夏の乾いた風はそよ風より弱いくらいで、外で過ごすには最適の陽気である。
「司、今、わざと負けただろ」
 赤色のクイーンの駒を右手に三佳は司を睨み付けた。
 その睨みが効くはずのない司だが、強い声に圧され乾いた笑いを返す。
「そんなことしないよ」
「いいや、今のは絶対わざとだ。司相手に、ここで詰み取れるはずない」
 今までの流れを確認するように、三佳は手持ちのクイーンを盤上で空振りさせた。やっぱりおかしい。さらに、これは本日3度目の試合で、三佳は既に2敗していたのでとくにそう思う。
 不正を断言された司は、
「わざとじゃないって」
 と笑いながら弁解する。
 司は盤上の自分の駒を回収する。───トランプなどでは、自分の周回でも三佳にカードを動かしてもらうが、チェスのように手触りで駒の区別がつくようなゲームは司は自分ですることができた。
「ほんと、チェスはどちらかというと苦手なんだよ」
 そう言うと、司は茶色のポーンの駒を指で撫でた。2敗していてそんなことを言われては立つ瀬が無いが、三佳は尋ねる。
「苦手って…他のゲームと何が違う?」
「不均衡なところ」
 茶色の駒を陣地に並べ終わると、司はチェス盤の隣、その場にごろんと寝転がった。皿とグラスは少し離して置いてあるので気を遣う必要は無い。司は青空は見ることはできないけれど、その気温と湿度で快晴なのだろうと分かる。
 三佳もそれに倣い、仰向けになった。ちょうど司と頭のてっぺんを合わせる位置になる。地面は固いが三佳は大きな空を正面に見て、大きく深呼吸をした。
 気持ちの良い風が吹いて、少しだけその贅沢な状況を味わう。
「どういう意味? 不均衡なところって」
 少しの間の後、三佳はそのままの体勢で訊いた。
 う〜ん、という少し悩む声が頭上から聞こえる。
「例えばさ」
 にょき、と天に司の右腕が生えた。その指先が、空に四角を描く。
「将棋の盤面は9×9で奇数だろ」
「ああ」
「王を中心に線対称で布陣を組めるところなんかは戦争を起源とするゲームとして分かり易いと思わない? それらに比べるとチェスの8×8ってバランス悪い気がして頭の中でうまく組めないんだ。最初の型も王同士が向き合わないし」
 と司は説明した。
 技の向き不向きではなく、わりと感覚的な理由が三佳には意外だった。このような頭脳戦ゲームに対し、司の頭の中ではそういう原理やイメージを掴む為の機能も重要だということだろう。
「オセロは偶数……でもあれは2つの陣取りモノだから赴きが違うか」三佳が言った。「同じ陣取りモノなら、確か囲碁は19で奇数だな」
「オセロと囲碁って、黒が先番だよね。チェスは白だけど」
「クイーンが最強っていうのもおもしろい」
「チェス≠チてフランス語でどういう意味か知ってる?」「知らない」
「敗北=Bだってさ」「…負けるためのゲームなんだな」「そうかもね」
 そんな風に2人は寝転がったまま、しばらくチェスの話題で盛り上がった。
 結局、3回目の勝負の勝敗はあやふやになったままだった。



 今日は5月31日月曜日。三佳の11歳の誕生日である。
 史緒と篤志は事務所で仕事中だが、こちらの2人は今日は完全休業。屋上でのんびりしているというわけだった。
 三佳は自分が生まれた日を意識したことはあまりなかった。それどころか、実は去年まで知らなかったのだ。
知っていたところで使う知識では無いし(現に、使ったことはなかった)、年くらいなら自分の年齢を数える目安にはなるけれど。それを言うなら血液型のほうがよほど必要な知識だ。輸血をしなければならないような状況に陥った時に役立つ。
 去年になって、史緒に調べてもらい、三佳は初めて自分が生まれた日を知った。司はそのとき「来年は誕生会やろうか」と言って、1年先の約束の日が今日というわけだった。最初は誕生日を祝うことを理解できなかった三佳だが、今日という日が来て、おめでとうと言われるとやはり嬉しくなった。
 昨夜、同居人の阿達史緒から「プレゼント」を渡された。「篤志と連名でね。誕生日おめでとう」大きな包みを開封してみると、中身はチェス盤だった。チェスは盤も駒も白黒が普通だが、それは赤茶の市松模様でどこかクラシカルな雰囲気。
 三佳はお礼を言った後に、内心で感心した。史緒にしては気が利いている。
 三佳がチェスを対戦するような相手はいるわけだから。
 しかし篤志も連名と言っていたから、こういう事に対する史緒のセンスの評価はまだ保留にしておく。
 はたと三佳は自分がチェスのルールを知らないことに気がついた。明日───つまり今日、司と対戦する為に史緒を引き止め、夜遅くまで付き合わせて彼女を寝不足にさせた三佳だ。
「三佳?」
「…眠くなってきた。暖かくて」
 司は仰向けのまま楽器を構え、かなり適当にクラシックを1フレーズ弾いた。ゆっくりで穏やかな曲だった。
「何の曲?」
「ブラームスの子守り歌」
「あはは」
 空を向いたままの格好で素直に笑ってしまった。司は続けて、眠りを誘うような曲を小さい音で弾き始めた。三佳は180度体を回してうつ伏せになり、司のほうを見て感心したように言う。
「よくそんなに器用に指が動くな」
「まぁ、僕にとっては日本語を喋るのと同じだから」
 と、司は仰向けの演奏を続けながら答えた。
「どういう意味?」
「読み書きは僕にはちょっとできないけど、思考と同じ速さで表現できるものって言語だと思わない? 僕は言葉と同じように、音を聴いて理解して口にすることもできる。それこそ、日本語で会話するのと同じ反射でね。───僕に楽器を教えてくれた人なんか、最初に世界共通語を教えてやる≠チて言ってたし」
「確かに、楽譜はほとんど世界共通だな」
「意外とあるよね、そういうの」「エスペラント語とか?」「ははっ。少なくとも僕はそれ、理解できないよ」「じゃあ、手話」
「そういう文化的交友的なものじゃなくてもさ、例えば三佳の分野なら化学式もそうだろ? 記号は文字よりも単純だからそういう世界共通語は理系には多いね」
「数学なんか、思いっきり記号の世界だな」「そうそう」
 そして2人は今度は記号の話で盛り上がる。
 先ほどのチェスの話もそうだが、思考の方向が似ている為に興味の対象に共通点があり、他人には通じないようなフィーリングを共有しているからこそ2人の関係がある。
 似た者同士という言葉では、表現できないほどの。





*  *  *





「ちーっす」
 木崎健太郎はA.CO.の事務所のドアを開けた。
 そこには史緒と篤志がいた。健太郎は肩からバッグを下ろしながら言う。
「今、屋上さぁ」
「行くと邪魔物になるぞ」と、事務仕事をしていた篤志が笑う。
「いや、さっき覗いて来たんだけど、なにあれ。ママゴトでもしてんの?」
「今日は三佳の誕生日なのよ」と、史緒。
「へぇ、そりゃまた。でもあの2人、頭付き合わせて居眠りしてたぜ。とりあえず放って来たけど」
 健太郎の台詞に史緒は苦い顔で溜め息を吐き、篤志はそれを宥めるように苦笑した。
「今日は良い天気だし、風邪ひく前に起こしに行くさ」







 恐いのは、静寂と騒音。

 激しい頭痛に襲われる。
 とくにこんな夜。豪雨と雷鳴。他には何も聞こえない。

 うるさすぎて、何も聞こえない。
 それでもこの耳は情報を取り入れようとする。そうしないと前に進めないから。足を踏み出せないから。その感覚こそがすべてだから。
 音という情報が途絶えると、この世界から締め出されてしまうから。
 だからこんなときでさえも、身の回りの音を拾おうとする。
 例えるなら、大合唱が響くホールのなか、たった一人の呟きを聞き取ろうと努力するように。
 集中力と聴覚が取り入れる膨大な情報量に、処理能力の限界が頭痛を起こさせる。神経疲労だ。
 豪雨と雷鳴は彼の世界をこんなにも小さくする。
 何があっても耳を塞いではいけない。聞いていなければ。周囲の音を聞かないと、この暗闇に飲み込まれてしまう。 
 こんな天気でもなければ。
 部屋の前の通路を歩く足音を聞き流し、木々のざわめきと、遠くの車の音を耳にする。人の話声が聞こえる。電化製品の微音。家鳴りと床が軋む音。
 聞こえないはずないのに。こんな天気でもなければ。
(頭が痛い)
 汗ばむ額を抑えて、そんなつまらないことを思う。
 七瀬司はベッドの傍らで、膝を折り、頭をかかえてただ待った。
 轟く雲と頭痛が去るのを、ひたすら待ち続けていた。

 恐いのは、静寂と騒音───。
 何の情報も無い静寂。
 全て情報を掻き消す騒音。


 ピンポーン
 雨と風の騒音を二分する人工的な音が鼓膜を通して感覚に入り込んだ。
 何の音かなどと悩む必要は無い。この部屋のドアホンの音だ。
「…っ」
 司は強い苛立ちの表情を見せた。大きく舌打ちする。
 立ち上がり、乱暴な足取りで部屋を横切る。玄関へ向けて足を進めた。
 鍵を回しドアを押した。
 バンッ
「史緒! 来なくていいって言ってるだろッ」
 らしくなく、司は声を張り上げた。
 普段ならこんな風に感情を乱すことはしない。ほら、鼓動が上がってしまった。時間感覚が分からなくなってしまう。
 携帯電話の時報に頼るときもあるが、司は大体自分の鼓動で時間を計っている。そして歩幅で距離を測る。自分の身長や体重、腕の長さ、手のひらの大きさ───自分の体が司の物差しだ。
 時間や距離感覚が狂わないように常に落ち着いていろと、できる限り走るな、むやみに感情を荒げるなと、教えられてきた。
 だから、こんな風に感情を乱すなんてごくたまにしかない。
 声を荒げてしまった後、微かに、息を呑む音が聞こえた。
「…?」予測していた反応と違う。
(史緒じゃない…?)
 そこで初めて司は焦った。史緒を名指ししてしまったけれど、他にも沢山可能性があったはずだ。郵便配達人や同じアパートの住人、勧誘など。
「───誰?」
 ひそめた声で、司は敬語を忘れたことにさえ気付かなかった。
 僅かな間があって、「…私」と呟く声。
「!」
 その声色ではなくその声が発せられた高さから、司は誰がそこにいるのか察した。
「三佳!?」
 途端に、司は感覚が戻ってくるのを感じた。三佳の呼吸や、遠くの車の音、電車の音…情報が流れ込んでくる。風や雨の音もボリュームが下がり、遠く聞くことができた。
「ごめん…史緒が、司の部屋に行けって言うから」
「史緒が?」
「ああ」
 遠慮がちに三佳が答える。史緒に言われて来たものの、司にとってまずいことだったのかと不安になっているようだ。
 司の中では史緒に対する憤りが生まれていたが、それはすぐにしぼんだ。目の前にいるのは三佳だ。八つ当たりなどしたくない。
「こっちこそ、ごめん。怒鳴ったりして」
「都合悪いなら帰るけど」
「え。一緒にいてくれるとありがたいんだけど」
 司が真顔で言った。それが咄嗟の言葉なのかウケ狙いかは分からないが本気の言葉だということを知り、三佳は安心したように笑う。
「おじゃまします」
「どうぞ」
 司も笑った。


*  *  *


「髪、濡れてるよ」
 傘ささないで来たの? と司が苦笑した。タオルを持ってくるとそのまま三佳の頭にのせ、わしゃわしゃと掻き混ぜる。三佳はされるがままにじっとしていた。小さな水滴が散って、床に落ちた。
 5分前、事務所で窓の外を見ていた史緒が突然言った。頼むから司のところへ行って欲しいと。その言葉は訴えかけるような重みがあって、三佳は口答えひとつせずに出かける準備を始めた。といっても司のもとへ行くのに、文句などないが。
「司」
「ん?」
「何かあった?」
 半瞬の間の後、「何もないよ」と司は静かに微笑んだ。「本当に」
「ならいい」
 タオルの中で三佳が答えると、司は三佳の頭からタオルを下ろした。三佳が顔を上げると、司は真顔で「あのね」と話しかけてきた。
「多分、三佳は8対1.5対0.5くらい」
 と、言った。
 普通、比率は自然数でしか表さない。この場合、1対1を区別したかったのだろうと三佳は理解したが、司の言いたいことはさっぱりわからなかった。
「なにが?」
 と尋ねる。司はすぐに答えた。
「状況把握に使われる感覚のうち、視覚・聴覚・嗅覚の割合。健常者は聴覚と嗅覚の差がもうちょっと顕著なんだけど、三佳は意外と鼻が効くから」
 視覚が8、聴覚が1.5、嗅覚が0.5。本当はさらに、味覚・皮膚感覚・運動感覚・平衡感覚・内臓感覚があるのだが、前の3つに比べれば微少なものだ。
「僕は0対8対2ってとこ」
「…」
 司は明るくさえ見せる表情で淡々と語る。2人とも突っ立ったままだったが、そのまま一歩も動かなかった。外では相変わらず雷が鳴り雨が地を叩いていた。
「聴覚を奪われたら僕は動けなくなる」
 まっすぐに、三佳に向かい、言う。
「だからこういう日はダメなんだ。史緒はそれを知ってるから、こういう天候の日に僕の様子を見に来ることがあって…。───確かに、ひと一人隣にいれば雨風の音なんか気にならなくなるんだけど、甘やかされてるようで嫌なんだ」
 史緒と司はもう8年の付き合いになる。司のそういう弱い部分を史緒が知らないはずがなかった。このような理由もあり、最初に史緒は司との同居を提案していたが司がそれを断わった。彼のプライドがそうさせるのだろうということも、史緒は知っていた。
「今まで三佳には気付かれないようにしてた。情けない僕を見られるのが嫌だったんだ」
「…」
 三佳も。司が弱音を吐くのを初めて聞いたような気がする。今、そのことに対する少しの驚きがある。
 いつも見せてくれている表情がすべてではないと、勿論、わかっていたはずなのに。
 外ではまだ嵐が吹き荒れている。
「今も…感覚、辛い?」
 司はやわらかい笑みを見せ、三佳の肩に手を回した。
「今は大丈夫。三佳がいるからね」

 先程と同じようにベッドを背もたれに司が床に座ると、三佳もそれに倣って隣に腰を下ろした。
 司は言葉少なく、三佳の手を握り、膝に顔を落としていた。風雨の音を振り切る為に、三佳の呼吸を聞くことに集中しているのだが、三佳はそこまでは気付かない。
 同じような嵐の轟音が鳴っているはずなのに、今は遠く聞こえる。時計の音がすぐそこにあり、家電の微音が聞こえる。数分のうちに司はいつもの感覚を取り戻していた。自分の部屋の広さが把握でき、どこに何があるか、頭の中で配置することができる。もう大丈夫だ。頭痛も遠ざかっているのが分かった。
 その間ずっと、三佳は何も喋らなかった。気を遣ってくれているのだと、司は今気がついた。
「三佳」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そしてまた沈黙。
 先に口を開いたのは司のほうだった。
「祥子の卒業式の日、史緒が言ってたこと覚えてる?」
「どれのこと?」
「昔、悪口言われたことあるって」
「ああ、祥子以外からも嫌いだって言われたっていう…」
 祥子の卒業式はもう3ヶ月前のことだが、三佳は覚えていた。
 史緒は幼い頃に言われた悪口を今でも覚えているという。執念深いということだ。
「それ言ったの、僕だよ」
「えぇッ!?」
 あまりの衝撃に倒れるように後ろに手を着いた三佳。司は真顔で訊いてくる。
「驚いた?」
「そりゃあ…」
 驚かずにいられるか、と三佳は驚きのあまり口にできなかった。
 司と史緒の付き合いが長いのは知っている。その長い間、どんな風に過ごしてきたかなんて知らない。
 しかし、司は当人を前にして悪態を吐くような性格ではない。それだけは自信をもって言える。そう、例え心の中でどんなに蔑んで見下して卑しんでいても。
 と、三佳はずいぶんなことに確信づいてみたものの、ふと、思った。
 確かに、司のことについてそう言い切れるものの、それらすべて「三佳の知る限りは」という冠詞が付くのだ。
「少し、昔の話をしてもいい?」
「───…いいけど、司は」「うん、三佳に聞いてもらいたくなった」
「目が見えなくなってすぐに阿達家に引き取られた…っていうのは、確か言ったことがあったと思うけど、それと同じ頃だよ」
 司の横顔が、遠く懐かしむような表情を見せていた。
「その頃の僕は本当に荒れててね。五感のひとつを奪われただけで心身共にズタズタ。いや、これはホントに。しょっちゅうどこかにぶつかって怪我だらけだし、ストレスは溜まるしさ」
 明るい声で司は自分の過去を喋る。無理はしてないようだが、雰囲気を暗くしないようにと気を遣っているようだ。
「当時、僕は今の三佳と同い年だけど、もしあの頃の僕が三佳と出会ったら、きっと拙い言葉で酷いことを言った」と、語る。「あの頃、僕に味方はいなかった。…というより、僕が誰も信じてなかったんだ」
「眼科医、外科医、精神科医に掛かってたけど医者だって信用はできなくて、僕は周囲に酷いことばかり言ってた。威嚇…みたいなものかな。人の気配が近づくのが本当に恐かった。敵か味方かわからないんだ」
 司はそこでふと、遠くを見るように顔を上げた。そして唇だけで笑う。「…そうだね、あの時はまるで」
「どこから何がくるか解らない、暗闇にいるようだったよ」
「───」
 三佳は息を飲み、目を見開いた。
「なんて…、そのままか」そう、司は笑ったけれど。
 暗闇にいるようだ、と。
 三佳はその台詞に背筋が寒くなるのを感じた。例えば史緒や篤志が同じように言っても、こんな風に感じなかっただろう。───目の見えない司にそんな風に言わせるなんて。
 彼はどんな危機感や孤危感をもって、今、ここに座っているのだろう。
 そう考えたら、三佳は恐くなった。
 知っていたけれど。司が気を休められるのはこの部屋の中だけだと。表には出さない無意識の緊張があることや、他人の感情を読む努力をしていること、知っていたけれど。
「三佳」
 ハッと我に返る。司がこちらを向いて笑っていた。
「今は暗闇じゃないよ。僕は別の目で世界を見てる。そういう訓練をしてきたんだ」



「あの頃、阿達の家には…10歳の史緒と、大学生だった和成さんと、通いの家政婦さん、もうひとり、…なんというか、いじめっ子がいてさ」
「いじめっ子?」
 三佳が聞き返すと、司はにやっと笑って大きく頷いた。「いじめっ子」
「…ははは、すごい、ぴったりかもその表現。目の見えない僕はよく標的になってたよ。史緒は史緒でその子から逃げるように部屋に閉じこもってたし」
 そこまで言ってから司は「…と、ごめん、これはオフレコ」と苦笑した。自分のことだけでなく、史緒のことまで口走ってしまったことに後悔したのだ。
「いじめっ子からの仕打ちにストレスを溜めていた僕はつい史緒に八つ当たりしたわけ。おまえのことも嫌いだってね。結局その後も和解しないままだった。ひとつき経った頃、僕は香港へ移ったし、史緒とはそれきり顔を合わせなかったから。
 香港へは目の治療の為に行ったんだけど、その間ずっと蓮家のお世話になってたんだ。蘭とはそのときに知り合った。流花さんは医師だったし、他の兄姉たちにも色々と教えてもらえたよ。楽器やゲームとか、ちょっとした護身術みたいなのも」
「流花さんって眼科医なのか?」
「いや、行動心理学の先生。ちょっと畑違いだけど多才な人なんだ。時間や距離の計り方とか、音だけから状況を判断する術とか、対人対応とか教えてもらってたよ。
 僕は自分が他の視覚障害者とは一線を画す能力を持っていることに自覚があるけど、それは香港にいた2年の間、療養ではなく訓練をされていたからだ」
 司は自分の能力に自信を持っている。過信や慢心で無く、常に自分のちからと等価なものだ。自分の能力を測る訓練さえやってきた。司の日常の行動はこの自信に支えられているといっても良い。
「たまに自分の境遇に驚くことがあるよ。日本と香港に、大きな後ろ盾を持っていることにさ」
 司は笑いながら言ったが、それは本当に大きすぎる後ろ盾だった。両方とも知らない者のほうが少ない名である。
「……」
 三佳は以前から不思議に思っていた疑問を、司に訊いてよいものか悩んでいた。
 97年の返還パーティのとき、蓮家兄姉と司がどういう繋がりで仲が良いのかわからなかったけれど、それは今の司の告白で説明された。
 司と蓮家の繋がりはわかった。けれど。
 司と阿達家の繋がりは、一体、どういうことなのだろう。
 微妙な質問のような気がして、三佳はそれを口にすることができなかった。
「史緒は、僕に負い目があるんだ」と、突然、司が言った。
「…負い目?」
「そう。史緒には全然関係ないのに、史緒が勝手に背負ってる負い目」






 その日、三佳が峰倉薬業の出入り口から外に出ると史緒が待っていた。
 別に珍しいことではない。三佳がここでアルバイトを始めた頃は、峰倉に三佳の様子を聞くために週に一度は訪れていたし、史緒自身の仕事で近くまで来ることがよくあるからだ。
 三佳が出てきたことに気付くと史緒は「通り掛かったから」と、言った。
 三和土をくぐりながら、三佳はからかうように返した。
「夜遊び仲間と昼間っから遊んでるのかと思った」
「…何度も言ってるけど、それ、篤志には言わないでよ? それに夜遊びって言い方、語弊があるからやめて」
 史緒に睨まれても三佳は余裕の表情だ。もちろん、弱みを握っているのは三佳のほうだから。
「じゃあ、何やってるんだ」
 史緒の夜遊びについて、三佳がこの質問をしたのはこれが初めてだった。
「………」
 もちろん三佳は、史緒が答えられないと知っていたけれど。
 長い沈黙の後、史緒はごまかすように「人と会ってるだけよ」と苦し紛れの言いわけをした。
「そういうのを夜遊びって言うんだろーが」
 さらに三佳がいじわる心で問いつめたとき。
「おー阿達じゃねぇか」
 と、三佳の後ろから別の声がかかった。
 峰倉薬業の社長、峰倉徳丸である。「来てたならアイサツくらいしろ」と、入り口から顔を出した。
 ボサボサの髪に皺の濃い(良く言えば彫りの深い)顔、そしていつもながら強い薬品臭を漂わせている。峰倉は嫌いではないがその匂いが史緒は少し苦手だ。しかし今回ばかりは、話題を変える天の助けとばかりに史緒はにこやかに挨拶をした。
「こんにちは、峰倉さん」
 峰倉は三佳にも声をかける。
「よ。お疲れさん」
 せっかくいいところだったのに、と三佳が言おうとしたところ。ガラリと引き戸が開き、出入り口からさらに中年男性が出てきた。入り口を塞いでいた3人が邪魔なので、一度足を止める。三佳たちはすぐに道を開けた。
 その男性に峰倉が声をかける。
「まいどー。注文したやつは来週だから」
 客なのか、と史緒は思った。
 その男はちらりと視線を向け軽く会釈しただけで、3人の傍らを通り過ぎていった。両手には大きな紙袋。やはり薬品類が入っているのだろう。年齢は50歳くらいでどこか陰気な印象を受ける。それにしても愛想の無い客だ。
 何となく3人の目があって、それぞれ苦笑した。
 んじゃ俺も、と峰倉は踵を返す。
「じゃあな、島田。来週もよろしく」
「お先です」
「阿達の面倒見るのも楽じゃないだろうけどがんばれよ」
「もう慣れた」
「あのね…」
 史緒の嘆息混じりの呟きを無視して峰倉は店の中へと戻っていった。
「ちょっと三佳、普段、私のこと何て言ってるの?」
「聞かないほうがいいと思うけど」
 峰倉の口が悪いのは知っていたし、三佳の毒舌も毎日のように聞いてる。自分のいないところでこの2人に何を言われているか、史緒は途端に嫌な気分になった。
「史緒、置いてくぞ」
 先を行く三佳が呼ぶ。
 史緒は深く溜め息を吐いて、いつもの足取りで歩を進め始めた。


「阿達…史緒っ!?」
 張り上げる低い声があった。
 峰倉薬業を出てすぐのこと。街中の往来で、背後から。
「───?」
 三佳は目を丸くした。足を止め、史緒のほうを見ると、史緒も同じように虚をつかれたような面持ちで足を止めていた。歩道を歩く他の通行人も、その大声に振り返っていた。
 史緒と三佳はゆっくりと振り返る。張り上げられた言葉と同じ名前を持つ史緒の表情は驚きより怒りのほうが色濃く表れている。往来で自分の名前を叫ばれただけでなく、呼びつけにされたわけだ。いい気分がしないのは当然だろう。
 そしてそこには意外な人物が立っていた。
 先ほど峰倉薬業から出てきた愛想の悪い客である。何故か驚いたように目を見開き、真っ直ぐに史緒を見つめていた。両脇には峰倉薬業で購入したと思われる荷物を抱えたまま。店を出たときは反対方向へ歩いて行ったので、わざわざ追いかけて来たのだろうか。
(誰?)
 三佳にとっては、最近よく見かける客のひとりだ。峰倉薬業で買い物をするには危険物取り扱い資格免許の提示と所属する団体の在籍証明が絶対なので身元は確かだろう。ただ、客の個人情報はアルバイトである三佳には教えてもらえないので、三佳は客のひとりという認識しかなかった。
 史緒も、その人物が何者なのか知らないようだった。訝しげな目でその男を見つめている。
 50代とおぼしき中年男性。くたびれたスラックスに紺色のTシャツ。無精髭に眼鏡。痩せこけて皺だらけの顔に目だけが生気に溢れていて何やら病的な雰囲気があった。
 男は史緒に近づいて言う。
「あんたっ、阿達史緒…───失礼、アダチのお嬢さんだろっ?」
「───」
 父親の会社関係だと解した史緒は、わずかに顎を持ち上げ据えた瞳で男を見つめ返した。
 隣にいた三佳は額を押さえ、何者か知らない男に同情した。史緒が敵対モードに入ったことに気付いたからだ。
「どちら様ですか」
 ゆっくりと丁寧に吐き出された言葉には明らかに刺がある。その見えない刺に刺されそうな気がして、三佳は史緒から少し離れた。
 しかしその空気が読めない中年男は史緒の問いかけに齧り付くように答えた。
「蔵波周平だ」
「存じません」史緒は嘲笑するような視線を投げた。「父の会社のことなら、本人に直訴してくださいませんか。尤も、父はあなたの話を聞くほど暇ではないでしょうけど」
「違う、あんたに用があるんだ」
「私はあなたのことを知りません。話を聞く必要もないと思いますので、失礼します」
 史緒は三佳を促して踵を返した。「おい」さらに男は声をかけてくる。史緒はそれを無視して早足で歩く。三佳も小走りでそれを負った。
「待ってくれ、あの子が社長の娘といるって噂を聞いたんだ!」
 自意識過剰かもしれないが、三佳は一瞬、自分のことかもしれないと思った。しかしそれは違うとすぐに気付く。三佳は「アダチの社長の娘」ではなく、2年前の事件に関わった「A.CO.の所長」に引き取られたからだ。
 ぴたりと、史緒は足を止めた。三佳が見ると、史緒は驚きの表情で大きく目を見開いていた。心当たりがあったのだろうか。
「───…クラナミ?」そう、口の中で呟いた。三佳はそれを聞いた。「まさか…」
 そしてかぶりを振って振り返る。「蔵波周平…!?」
 史緒のその声は微かに震えていた。
 男の口元が嬉しそうに緩んだ。息を弾ませてさらに駆け寄ってくる。
「そうだ、…あの子」
「待ってッ! 何も言わないで!」
 史緒は厳しい声で制止した。隣にいた三佳が思わずびっくりするほど、鋭い声だった。
 史緒は引き締めた唇を微かに奮わせて、倦ねるような表情で男と対峙する。その視線を反らさずに、史緒は三佳に声をかけた。
「───先に帰ってて」
 否定を許さない響きに三佳は頷くしかない。
「ああ。…大丈夫なのか?」
「心配ないわ。私もすぐ帰るから」
 聞かれたくない話なのだとわかり、三佳は大人しくその場を去ることにする。
 不穏な雰囲気で見つめ合う2人を気にしながらも、三佳はひとりで駅のほうへ歩き始めた。



 史緒は今、まったく想定しなかった事態───想像もしなかった人物に対面し、正直、動揺していた。
 蔵波と面識は無い。初対面だ。
 でもその名前は知っている。8年前に、一応の情報として聞いた名前。それから一度も耳にしていなかったので、思い出すのに時間が要った。
 会いたくもない人物だ。
「社長の娘が俺を知ってるとは思わなかった」
 と、蔵波は笑って見せた。その笑いは嫌みが込められている気がして史緒の癇に障った。
「…知らないと分かってて呼び止めたんですか」
「衝動さ」
「何故、私が阿達だと?」
「社長の娘の名前は覚えてたんだ、変わった名前だから。さっき、峰倉薬業の社長とバイトの子があんたの名前を呼んでただろ」
 まず、何より先に、史緒は「あんた」と呼ばれるのが気に入らなかった。父親と同年代の人間に礼儀が無いのは情けないと冷笑するのを通り越して憤りさえ覚える。峰倉のほうがよほど常識的だ。
「あの子があんたと居るっていうのは本当なのか」
「誰のことでしょう?」
 史緒は完璧なポーカーフェイスで答える。しかし誰のことかは分かっていた。
 史緒の嫌悪感がまったく伝わらないのか、蔵波は真顔で返した。
「8年前、七瀬夫妻の子供が怪我しただろう。あの子だ」
 頭が、痛くなった。



「あの事故で病院へ運ばれた後のことは誰も知らないんだ。あんたの所にいるのか?」
 熱っぽく喋り、「あの子」の居場所を執拗に確認してくる蔵波の意図が見えて、史緒は頭が痛くなった。涙が出るような苦い空気を味わった。
「…8年前の事故については当事者全員、口外無用の誓約書にサインしているはずですが」
「構うもんか、俺はもう処分を受けた」
「あなたねぇ!」
 史緒が声を荒げても蔵波は気にもせず喋り続ける。
「頼む、あの子に会わせてくれ」
「できません!」
 予測できていた要求を、史緒は切って捨てた。
「何故」
「彼は、今普通に生活しています。思い出させたくありません」
「俺は加害者だ。謝罪くらいさせてくれてもいいだろう」
「彼はあなたのことを恨んではいません。そっとしておいてあげてください」
「確か怪我したのは頭だったな、酷かったのか? どんな怪我だったんだ?」
「え───…?」
 蔵波のその質問を聞いて、史緒はゆっくりと頭が冷めるのを感じた。
 少しの絶望と大きな失望が胸に込み上げて胸が鈍く痛んだ。
(ああ、この人は───)
 知らないのだ。いや、さっき、そう言っていたけれど。
 史緒は眉をしかめ、大きな溜め息を吐く。
 知らないなんて。
 誰も知らないなんて。
 …それはそうなんだけど。
 アダチの筆頭にして史緒の父親である阿達政徳が、当事者全員の口を噤ませ、彼を匿い、その権力をもって事故を揉み消したのだから。知るはずはないのだけど。当事者さえ、彼の「今」を、知りようがないのだけど。
 あの事故の後、彼がどうなったのか。
(知らないなんて───…)
 史緒は天を仰いだ。
 そして思う。それならばあの事故は一体何を残した? 教訓も反省もなく、ただ、流されてしまった。彼が負った傷には、どんな意味があったのだろう。
「…あなたの謝意は、伝えておきますから」
「謝りたいということに何の不都合があるんだ、構わないだろう」
「…」
 史緒は蔵波の意図が読めて、そのあまりの浅ましさに顔をしかめずにはいられなかった。
 蔵波はただあの事故の被害者が今どんな姿なのか見たいだけなのだ。そんな浅い好奇心で、会いたいなどと言っているのだ。
 痛々しくて、史緒はもう我慢できなかった。
「ただ謝りたいというのは、あなたのエゴです。ここは引いて下さい。…失礼します」
「おい…っ」
 史緒は蔵波に背を向けて駆けだした。蔵波は荷物を抱えているために追ってこれないようだ。
 いつもの史緒なら逆に、口だけで相手を追い返すことができた。蔵波を相手に勝手が違ったのは原因が2つある。
 ひとつめは、蔵波が予想外の強敵であったこと。
 ふたつめは、ずっと昔の出来事。拭いきれない負い目を表面に浮き彫りにされたこと。





 駅へと足を速めていた史緒はふと足を止めた。
 視界の左端に見覚えのある背格好の人影が映ったからだ。
 その人影は店先に置かれている鉢植えの影に隠れるように身を潜めていた。「…」史緒はピタリと足を止め目を見開き、振り返った。
「三佳!?」
 ビクッとその肩が揺れる。先に帰ったはずの三佳は、申し訳なさそうな表情でゆっくりと顔を向けた。
 史緒は語気を強めて三佳に詰め寄った。「まさか聞いてたの?」
「…つい」
 三佳は叱られることを覚悟して上目遣いで史緒を見上げた。しかし史緒は呼吸を荒げた自らの口を右手で隠すようにして、視線を反らし、何か考え込んでいるようだった。指先の動きで苛立ちを感じていることが伝わってきた。
 三佳はおそるおそる史緒に尋ねた。
「今のまさか……───司のこと?」
 史緒と蔵波の会話を三佳は立ち聞きしていた。話のすべてが聞こえたわけではないが、「七瀬」という単語を蔵波は口にした。
「そうよ」
 横を向いたまま、史緒は短く答えた。
 史緒は三佳に事情を話すべきか決めかねていた。司の過去に関わるアダチの事情を自分の口から三佳に伝えてよいものだろうかと。司は三佳に打ち明けたことはないのだろうか。でも司のほうも、アダチに関わることだから簡単には口にしないはずだ。でもこの先ずっと、三佳が知らないままで良いはずは無いと思う。
 史緒は大きく肩で息を吸って、ゆっくりと息を吐いた。そして三佳のほうに顔を向けた。
「…そうね。司は絶対に言わないだろうし」史緒は自らを責めるような失笑をした。
「あ、三佳に言いたくないんじゃなくて、私に気を遣ってるのよ。勘違いしないで」そう念を押すと、三佳の背中を促した
「行きましょう。電車の中で話すから」



「司が失明したのは、アダチのせいよ」
「───」
「アダチの事業部門のひとつに機械化学の工場があるの。小規模で、でも先端技術の開発部門。普通、どの企業も開発部門は金食い虫なのよね。商用目的の生産性を持たないし、日頃の研究が将来利益に結びつく保証は無いわけだから。でもその工場…通称一研≠ヘ、20以上ある事業部門のなかで、経常利益9位。…まぁ、優秀かどうかは、私にはわからないけど」
「8年前、一研の開発主流だった工業用レーザー試験の最中に事故があったらしいわ。重傷者を出した事故だったけど、その事故は表沙汰にはならなかったの」
「どうして?」
「父が揉み消したのよ。企業にとって特に人身事故の不祥事は大きなイメージダウンだわ。人の口に戸は立てられないっていうけど、その一件についてはきれいに片づいたようで8年経った今も工場から外には出てないわ。
 私は父を酷く嫌悪した。怪我人を出しておきながら保身の為に証拠隠滅…。汚いと思った」
 史緒がこんな風に自分の心情を語るのは珍しい。
「でも今思うと、父の判断は正しかったのかもしれないって思うわ」
「え…」
「その事故の唯一の負傷者は工場の研究員ではなく、たまたま見学に来ていた研究員の子供───11の男の子だったの。もし事故がニュースになっていたら、その子供は世間の目に曝されて余計な同情をかっていたかもしれないし。…───わかった?」
 史緒は三佳の顔を覗き込んでくる。
「その事故の唯一の負傷者、それが七瀬司よ」宣言するような響き。さらに史緒は続ける。「司はその事故で視力を失った。司が失明したのは、アダチのせいなの」
 そう言って顔をそむける。横顔は嫌気が差したように眉をしかめ、ひきしめた口元が微かに震えていた。





*  *  *





 史緒は電話を取るのに2時間悩んだ。ひとり部屋の中で。
 2時間も何を悩んだかというと、自分が今知りたい情報を得るにはある人に訊くのが手っ取り早くて、そのある人に電話をかけたいけれど実はかけづらい相手で、そこまでして知りたい情報かというと考え込んでしまう内容で。
 結局、史緒は2時間後に電話をかけた。相手は一条和成だ。
「あなたから電話してくるときは、大抵、何か頼みごとがあるときですよね」
 と、開口一番にそんなことを言われた。日頃の態度からすれば都合の良い女と思われてもしょうがない。反論する気力も無く史緒は黙り込む。何にせよ、一条の言葉は図星だ。
「どうぞ。何でも協力しますよ」
 一条が結局そう言ってくれることを知っているので、つい史緒も甘えてしまうのだけど。
「蔵波周平が今何をしているか知りたいの。8年前、一研の職員だったはずよ」
 史緒が用件を切り出すと、一条は声を改めて言った。「そんな名前の人もいましたね」
 受話器の向こうから紙をめくるような音が聞こえた。次にパソコンのキーボードを叩くような音。史緒は慌てて、
「あの、急いでるわけじゃないので…」「すぐ調べられますよ。少々お待ちください」
 8年前に在籍していたアダチの社員について何故すぐに調べられるのだろう、と史緒は思った。現役社員だって万は下らないはずなのに、ただの一社員を。
 社長秘書という肩書きにどれだけの権力が与えられるかは知らないが、社員名簿を管理するのは決して秘書課では無い。一条がどこから情報を得ているかは史緒には全くわからなかった。
 少しして作業を続けながら一条が言った。
「この人物について、何かありましたか」
 その質問に史緒は答えなかった。また、一条が回答を期待してないことを知っていた。
 少しの沈黙が生まれたけれど気まずくはない。史緒にとっては司より付き合いが長い相手、お互いの出方が何となく分かってしまう。
「…その人は、まだアダチにいますね」
「まさか。あれだけの事件が起きてて処分無しじゃ済まないでしょう?」
「あの事故ではセンター長が辞職、部長クラス5人が停職・減給・戒告されています。蔵波は直接の関係者ではありましたが当時は主任…、左遷で済んだのでしょう。現在は、八王子にある工場の管理部に配属されています。役職は無し。この先も出世は無いでしょうね」
「年齢は?」
「56歳。管理部の定年まではあと4年です。身辺調査をすることも可能ですが、それはそちらのほうが本業でしょう?」
「…」
 史緒は一条に伝わらないように溜め息をついて、右手で前髪を乱暴に掻き上げた。
 今日の昼間、蔵波に会ったことを司に言うべきか史緒は悩んでいた。史緒は2人を引き合わせたくない。でもそれは史緒の独断で、司はもしかしたらそれを望むかもしれない。でも蔵波に謝らせたいとは思ってないだろう。三佳には口止めしてないが多分喋らないはずだ。
 とりあえず蔵波が現在どんな生活をしているか調べようとしたのだが。
「…やっぱり、関わらないほうがいいか」
 無意識にひとりごちていた。
 害は無さそうだが、わざわざ波風を立てる必要も無い。何よりも史緒はあの男とはもう関わりたくない。
「何です?」
「いえ、何でも」







30話「青い空と嵐の夜」  END
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