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29話「Stratosphere」 |
───…音。 ふと、少女の両眼の焦点が合った。 ピントを合わせる時間は必要無かった。ふっと視界が拓けたようだった。 少女の視床下部は、両眼が捕え急速に流れ込んできた情報を処理し始めたのだ。脳の奥に心地良い疲労を感じ、少女はそれを自覚した。 両腕が背中側に沈む重力を感じて、仰向けに寝ているのだと理解した。ベッドの上だとわかった。 初めに目に留めたものは天井の照明具、その垂れ紐だった。 薄暗い視界。照明は灯っていない。それなのに垂れ紐が確認できるくらいだから、どこかで別の照明が点いているのだろう。少女は漠然とそう思った。ただ視界に入る唯一のそれを、少女は見つめていた。それは数秒だったかもしれない、それとも数分、数時間だったかもしれない。何も動かない空間は時間の流れを感じさせなかった。 少し頭を動かせば、他にも何かあるのだろうが、少女は動かなかった。動かそうとも思わなかった。 動けなかった。まるで人形に自分の精神が宿っているような感覚だった。手足を動かすための神経を失くしてしまったようだ。 天井から垂れている紐は遠近感をうまく感じさせず、手を伸ばしたら届きそうだった。 そのとき、はじめて自分の身体を感じた。 「………」 次に少女が目にしたものは、自分の右手だった。 まず、垂れ紐に伸ばそうとする、右手の甲が見えた。 小さく、白い手だった。 自分の手はこんなだっただろうか。思い出そうとしたが、何を思い出せばいいのか分からなくなった。 手の平を向ける。ちゃんと自分の意志通りに握るこぶしに、現実感が戻る。 (どこ? ここ) そう考えたのは、思考が働き始めた証拠だ。 頭を動かすと、自分が寝ているシーツが白色だということを認識した。身につけている服も白い。 さらに視線を巡らせる。 壁の一部分に布が掛かっていた。それはクリーム色だった。 何故、布の向こう側が明るいのだろう。壁に蛍光灯でも貼り付いているのだろうか。 でもそれは、電気の明かりとは違い、もっと柔らかい光に思えた。 その光の名前を、知らないはずなのに、知っている気がした。 柔らかいのに、こんなにも明るい、光。 天井に取り付けられている照明など必要ないような明るい窓。 部屋の中の白さに影響されて、頭の中も真っ白になっている感覚。 と、そのとき。 ぴくん。三半規管が引っ張られたように、耳の奥が熱くなった。 数秒、その熱を味わってから、少女は理解した。 (……何かきこえる) 音がする。足音とかガラスがぶつかる音とか、そんなノイズではない。 初めてきく音だ。 上体を上げると、体が鉛のように重かった。節々の鈍い痛みがあった。 それでも少女はどうにかベッドから下りる。しかし足に力が入らず、ぺたんと両手を床に着いてしまった。 「…っ」 ベッドに掴まりながらすぐに立ち上がる。 何かに導かれるように、少女は重い足を前に出す。裸足で、冷たい床の上を歩き出す。 自分がどこへ向かおうとしているかなど解りはしなかった。 ただその音に、駆り立てられるように。 出入り口と思わしきドアを開けると、部屋の外はもっと明るかった。こんな眩しい照明があるなんて知らなかった。 (どうして…?) そう疑問に思いはしたが、少女の向かう先を知らせる耳が、今は感覚の絶対優先だ。 光刺す明るい廊下を、少女はまた歩き始めた。すぐに開けっ放しのドアがあって、それをくぐる。 左へ続く廊下と、上へ上がる階段があった。 しばらく迷った末、階段を上り始める。 すぐに息が上がってきた。汗を掻き、肺が悲鳴をあげる。 少女は片手で胸を押さえ、もう片方の手で壁にもたれながら、上へ、上へと上り続けた。 階段は長く続いていた。踊り場に着いても、目指すものはまだ上にあった。 (何をしてるんだ…私は) そう考えた。それに答える声はない。 階段は長く続いていた。その間、沢山のことを考えたはずなのに、自分の今、この状況を説明することはできなかった。 ただ、目指していた。耳にした音を。 目の前に黒い大きな扉が現れた。 音は扉の向こうから聴こえる。 視線より少し高いところにノブがあって、少女はそれを持ち、回した。 重い扉を押し開ける。 音を立てずに、扉は開かれた。 「───…」 開けきらないうちに、少女は風を感じた。 ふわっと、乾いた風に背を押され、扉の向こう側へ足を踏み入れた。 そして前髪が揺れた。 強い、風が吹いた。 髪を揺らし、季節の風が頬を擦りぬける。 高い高い空、頭の上を、雲が流れて行った。 空の色は紫に近い深い青。でも遠くの空は赤い。雲までも、赤く染まる。 「───…」 少女は呼吸を忘れて、そこに立ち尽くした。 無限の空間で取り残されたように、立ち尽くしていた。 どこまでも続く、鮮やかに色づく空。遠い景色。隔たりの無い空間。「外」の匂いがする。 建物が並ぶ街。人々が住まう世界。人工物の隙間、落ちてゆく、赤い赤い夕日。 眩しい光が、遠くのビルの形を鮮やかに浮かび上がらせていた。 二次元の色じゃない、光の素粒子。 強い風を感じた。暖かい風に吹かれた髪が頬に触れる。服の裾がなびく。 ただ、風が強くて。 足をふらつかせるほどの風に、胸が熱くなる。 少女は5年間、空を見なかった太陽を見なかった風を感じなかった。 初めて、世界を目にした瞬間だった。 地平線が見えるような広い広いドームの真ん中に一人立っているようで、少しの不安と孤独を感じた。 手の届かない空だけ残して、強い風の中に取り残されたようだった。 この大きな世界に、なんて小さな体。 視界を埋める景色に飲まれて足が震えた。足の感覚さえ無くなってきた。 今、ここで、この足で、5年間、狭い世界しか知らずにいたこの体が、ちゃんと立てている? 苦しいほどの不安に泣きそうになった。淋しさを感じていた。 そのときのことだった。 「!」 追いかけてきた音が再び耳に聴こえた。 そこには一人の青年が、手摺りに腰掛けていた。左手には木色の奇妙な曲線の箱を抱え、右手の弓が軽やかに動いている。 少女はそれがバイオリンという楽器で、音を奏でるものだということを知らなかった。しかし青年がその音を生み出していることだけはわかった。 夕日に照らされてひとり、音と戯れるその姿はきれいだった。 ふと、音が止む。 楽器を下ろし、青年が少女のほうへ顔を向けた。 「史緒?」 その目は間違いなく、こちらを向いているのに。 後ろにシオという人物でもいるのかと、少女は思わず振り向いてしまった。 「篤志? ───誰?」 答えが返らないことに少しの警戒心を向けられた。 「…っ」言葉が喉まで出かけた。 にもかかわらず、それは声にはならなかった。 喉が動かなかった。 もどかしい。声の出し方を忘れてしまっているようだ。 でも。 例え思い通りに声が出たとしても、少女は何を言っただろう。少女自身、それはわからなかったに違いない。 この「外」の風景の中、夕暮れの赤い光が街を染める景色の中、はじめて出会った人にどんなことを言えばいいのかわからなかった。 「…もしかして史緒が言ってた女の子?」 その言葉は疑問ではなく確認だった。警戒は解かれ、おだやかな笑顔が、少女に向けられる。 青年は弓と楽器をまとめて左手に持ちかえると、右手を少女に向けて差し出した。 「悪いけど、目が見えないんだ。ここにきて名前を教えてくれないかな」 笑顔で、そんなことを言う。 少女はその手をとるために、ゆっくりと足を踏み出した。ふらふらと、危なっかしい足取りで。 8歩と半分の距離を15秒かけて歩き、やっと2人の手が触れた。瞬間、少女の膝から力が抜け、バランスを崩した。 青年は「おっと」と軽い仕草でそれを支えた。思いのほか、強い力だった。 膝をつき、すぐそばで声が発せられる。 「僕は七瀬司。君は?」 「……」 少女の視界がぼやけた。涙があふれ、流れたのがわかった。 「三佳」 そう声にした自分の言葉に、さらに激しく感情を揺さぶられた。 胸が熱くなり、叫んでしまいそうだった。 自分が自分の名前を忘れていなかったことに、酷く感動した。この5年、口にすることも呼ばれることもなかったのに。 父親がつけてくれた名前を、少女は忘れていなかった。 「───…島田、三佳」 長い間、語ることのなかった自分の本名。 「三佳?」 青年の声が自分の名前を口にする。少女はそれを耳にした。 低すぎない、心地よい声だった。 「…ぅ」 たまらなくなって、少女は大声で泣き出した。 熱い想いが溢れ出して、体が軽くなるような気がした。 高く広い空は、その想いすべて、包んでくれそうな気がした。 「これって…アレだな」 その様子を出入り口のところで見ていた篤志は何とも言えない複雑な表情で言う。 「待って。私も同じことを思った」 篤志の隣で見ていた史緒が言う。 「 2人の声と、笑いが重なった。 その視線の先には、泣きやまずにいる島田三佳と、それをどうにか宥めようと珍しく慌てふためく七瀬司がいた。 |
29話「Stratosphere」 END |
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