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28話「StandingBird」
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 2年前───1997年6月末。

 峰倉徳丸は来客中であるにも関わらずパソコン作業に集中していた。つまり、その程度の客だ。
 日光が入らないようにカーテンを閉めきった部屋は薄暗く、どこか陰気臭い。壁側の棚には褐色の遮光瓶が埋め尽くされているし(一気に床に叩き倒したくなるような棚だ)、部屋中に妙な異臭が漂っている。そんな風景の中に、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。
「島田さぁ」
 と、手をとめずに背後に立つ来客に声をかけた。
「好きな男いるだろ?」
 峰倉の発言としてはかなり異色だ。阿達史緒は素直に驚いて、壁に預けていた背を浮かせた。
「そう…ですね。ここへは顔出したことありません?」「ねぇよ」「でも、好きっていうのかしら、あれは」
「この間、うちのにネクタイの結び方なんて教わってたぞ。それに料理とか」
 料理に関しては、史緒は大いなる恩恵に与っているのでコメントは避ける。すると峰倉は今度はわざわざ振り返ってから言った。
「同居人が家事一般何もできないから、とも言ってたな」
「私が押し付けてるわけじゃないですよ」
「島田ができない人間を放っておける性格じゃないのは、俺もわかってきた」
「…」
 史緒は微妙に口元を歪ませただけで何も言い返さなかった。
 峰倉徳丸は43歳。東京都秋葉原電気街の片隅にある峰倉薬業汲フ代表取締役社長である。峰倉薬業は薬品全般の卸売業者で、従業員数は峰倉の配偶者も含め5名。と、現在アルバイトが一人。主な仕入先は国内外の各製薬会社、主な取引先は病院、研究所、薬局、学校など。
 史緒は週一でここへ訪れ、島田三佳の様子を峰倉から聞くのが習慣になっていた。
 島田三佳は1ヶ月前、史緒が引き取った9歳の少女だ。三佳は週4日、午後のみ、峰倉薬業でアルバイトをしている。
「あそこから外へ出て気付いたんだろうな。この偏った知識だけじゃ生きていけねぇことにさ。ほんとに、何でもかんでも覚えたがって聞いてくる。まぁこっちとしても、乾いたスポンジに水をやるのはおもしろいよ。素材がいいならなおさら。」
 それから三佳は他に、社会不適応者のための更正プログラムも受けている。外界のことを何も知らない人間には必要な処置なのだと警察は言う。
「でも一般常識を得たいだけなら、峰倉さんの所へ通う理由は無いんじゃないかしら」
「コレが島田の道だからだろが、わかってねぇな。あんなことがあっても、島田はこの知識を手放したくないんだ」
「峰倉さん」
「島田の前じゃ言わねぇよ」史緒の強い声をかわして、峰倉はパソコンに視線を戻した。
「来週、香港行くって?」
「ええ」
「イギリス領のうちに観光か?」
「いいえ。返還後のパーティに招待されてるんです」
「島田も?」
「ええ」
「あれからまだ1ヶ月だ。よくパスポート取れたな…というより、よく警察が許したな。金の力かコネの力か」
 峰倉は失笑する。史緒は説明が面倒なので、
「両方です」と、かわした。
「どっちもあんたの力じゃ通用しないな」
 これは皮肉だろう。史緒は怒りを抑えて、
「ノーコメントです」と、無視した。





 その車には4人の人物が乗っていた。
 ひとりは当然、運転手。某会社社長のお抱えで、15年のキャリアを持つ。制服と帽子、白い手袋をはめた手でハンドルを握っている。主である社長とその秘書を、今朝から数えて3番目の目的地から4番目の目的地へ送る途中だった。
 運転席のすぐ後ろには、潟Aダチの代表取締役社長・阿達政徳。アダチグループは戦後急成長した会社で、株式を分けたいくつかの会社からなる。その経営範囲は電機・貿易・銀行と多岐にわたり、今日では日本の産業を支える柱のうちのひとつだ。そのトップに立つ阿達政徳は一代で成功を収めた功績者として経済誌などにも顔が載る有名人だった。
 左隣には彼の第一秘書である梶正樹。阿達政徳と同年で、阿達が社長を務めたのと同じ年月だけ秘書を務めている。次の目的地の事前資料を渡し、車内での打ち合わせも終わらせると、梶は余計な雑談はせず背筋を正して前を向いていた。
 最後に、助手席に座るのは第二秘書の一条和成。彼の立場はアダチグループ本社秘書課内においてかなり特殊で、今日みたいに社長に着いて歩くこともあれば、そうでないときもあった。
 後部席で行われていた打ち合わせに耳を傾けつつ、一条は膝の上のノートパソコンを操作しながらそれが終わるのを待っていた。
「社長、いくつか連絡が入ってます」
 一条がそう言うと、阿達政徳は低く深い声で「ああ」とだけ答えた。
「2点あります。ひとつめは本社秘書室から。入江産業の会長がアポを取りたいそうです。こちらの都合に合わせると言ってます」
「梶」
「来月の7日、16時からなら少し時間がありますが」
「いいだろう」
「では、そのように伝えておきます。───ふたつめは、本社の海外開発部部長…海藤さんですね。予算案が上がったので至急、承認が欲しいとのことですが」
「梶にメールするように言え。暗号化するのも忘れないように」
「了解しました。現在入っている連絡は以上です」
 一条はすぐにパソコンからメールを打った。30秒で2つの宛先にメールを終わらせると、軽く息をつき、前方に目をやった。しばらくして、一条はあるものに目をとめた。
「社長」
「なんだ」
「左の歩道」
 車はちょうど信号待ちで速度を落とした。一条が目をとめたのは、歩道を歩くふたつの人影だった。
「司さんです。珍しいことに史緒さん以外の、女性同伴ですね」



*  *  *


「らん?」
 島田三佳は買い物袋を片手に首を傾げた。もう片方の手は隣を歩く七瀬司とつないでいる。
 ふたりは街中の歩道をゆっくりと歩いていた。三佳の買い物の帰りで、司は付き添いだ。三佳と行動するようになってからよく外出するようになった。司は自分の行動の変化を自覚している。今日は慣れない道の歩行なので、サングラスを掛け、白い杖を突いて歩く。
 会話の端に口にしたある人物の名前について、司は補足した。
「そう。僕らを招待した子。ほら、三佳にも招待状来てただろ?」
「もらったけど…、一度も面識ないぞ。何者なんだ?」
 10日前、三佳のもとに招待状が届いた。来週───7月1日に行われるパーティの招待だ。同様のものが、司と、阿達史緒、関谷篤志のところにも届いている。
 差出人は「蓮蘭々」。
 三佳は一度も会ったことがない。その名前から日本人ではないということと、性別は女という推測はできたが。
「僕にとっては…う〜ん、友人であり恩人ってとこ。それから、史緒の昔馴染み」
「…史緒の昔馴染み?」
 三佳は眉間に皺を寄せて司の台詞を繰り返した。
 史緒は三佳の同居人だ。同居を始めてまだ一月、史緒の性格を把握したとは、例え見栄を張っても言えない。しかし、その性格の一端に触れただけの三佳でも、史緒の昔馴染みなる人物がいることは意外に思えた。
「っていうより、素直に友達って言えばいいかな」
「史緒の友達〜?」
 今度ははっきりと訝しい思いが込められた声だった。
「史緒とは全然違うタイプだよ。すごく、明るい子。三佳も気に入ると思うな」
「待って。あまり先入観を与えないでくれ、混乱してきた」
「じゃあ、追い討ちをかけるけど」と、司は楽しそうに言う。
「彼女、篤志のことが好きなんだ」
 三佳は短い悲鳴をあげた。

「雲が」
 高い建物が途切れて視界が拓けたとき、三佳は無意識に空を仰いだ。
 そして言葉を発しかけて、止めた。
 雲が面白い形になっていることを指摘したかったのだが、ここで司にそれを言っても、司は見ることができない。司とまだ付き合いが浅い三佳は、この発言は失礼になるかもと思って言葉を止めた。
 しかし、三佳のそれらの心情を、司はすべて見抜いていた。
「雲がなに? 教えてよ」
 と、やわらかく言う。なんとなく、三佳は嬉しくなった。
 嬉しくなったと同時に考え込んだ。「雲がおもしろい形をしている」と言ったところで、どうおもしろいのか、司には全く伝わらないだろう。
 三佳はもう一度、空を仰いだ。青い空に、白い積雲が細長くいくつかに分かれ横切っている。それをどう伝えればよいだろうか。「雲が」「うん?」
「肋骨みたいだ」
「ぶっ」
 突然、司は咳き込んだ。「あははははっ」と腹を抱えて笑い出す。
「司?」
「いや…ほんと、連想ゲームは感性が表れるよね…。肋骨? 史緒だってそんなこと言わないよ」
「笑いすぎだ!」
「ごめんごめん。悪気はなし」
 台詞の端々で笑いを噛み殺しながら、司は苦しそうに、やっぱり笑っていた。
 彼のこういう突発的な笑い声を聞いたのは2回目で、意外と笑い上戸なのかもしれない。───と、思ったことを史緒に言ったら酷く驚いていた。両眼を見開き、大袈裟なほどに。
 「それはないと思う」と断言したものの、信じられないといった表情で史緒は首を捻っていた。

 ふと、司が顔を上げた。
「───」
「司?」「シッ」
 静かに、という仕草をする。彼が感覚を研いでいるのがわかったので三佳は大人しく黙った。そして司が注意を向けている方向へ、三佳は目を向けた。
 車道脇、歩道との間に黒い車が停まっていた。そしてその車の隣に立つ、スーツ姿の2人の男がこちらを見ていた。司が注意を向けているのも、その男たちだ。
(知り合い…?)
 三佳は交互に目を向けて、その表情を探った。
 ひとりは50代くらいの壮年男性。身長は司と同じくらいで痩せても太ってもいない。顔の皺は濃く、その年季を思わせるが、目の鋭さが現役の会社人間であることを示していた。さして体格が良いわけでもないのに貫禄を感じさせる人物だ。
 もうひとりは30歳前後。隣の人物より少しだけ背が高く、黒い髪を撫でつけ、一歩後ろで付き従っている。
 車の中には、運転手と、もうひとり後部席に人影が見えた。
 2人の男がこちらに近寄ってきたとき、司は彼らにも届く声量で
「おじさん…?」
 と言った。呼びかけではなく疑問型であったが、その声色には確信が含まれていた。
 それを聞いた壮年男性のほうが僅かに表情を崩して言う。
「相変わらずだな」
 低く深い声だった。笑ったのか呆れたのか、判別が難しい表情だ。
 さらに司は後ろの人物にも声をかけた。
「和成さんも、お久しぶりです」
「こんにちは」
 ───ああ、と今更ながら三佳は驚いた。司は足音(気配?)を聞いただけで、彼ら2人を名指ししたのだ。それを冷静に受け止めているあたり、彼らは司のことを良く知る人物なのかもしれない。
「移動中ですか?」
 司が尋ねる。
「ああ。君らの姿を見つけたもんでな。…この子だろう? 史緒が引き取ったというのは」
「紹介が遅れてすみません」
 三佳の肩に手を添えて、司は彼らに言った。
「島田、三佳さんです。ご存じの通り、今は史緒と一緒に暮らしています」次に三佳に言う。「三佳、こちらは阿達政徳氏。史緒のお父さん、僕がとてもお世話になっている人だよ。それから一条和成さん。おじさんの秘書の人」
 ということは、この阿達氏がアダチグループの社長か、と三佳は理解した。大変な大物を前にしているはずなのに落ち着いているのは、社長という肩書きより史緒の父親という肩書きのほうが興味を惹いたからだ。
「はじめまして、島田三佳です。史緒さんには大変お世話になっております」
 滅多に口にしない敬語で、三佳は深々と頭を下げた。史緒の父親とその秘書、彼らと直接の関わりは無いが、世話になっているという司の手前、三佳は大人しく挨拶をした。
 その挨拶に阿達政徳は目を見開き少しだけ驚いて、次に微笑んだ。
「中々、聡明なお嬢さんのようだ。こちらこそ、娘が世話になっているようで…迷惑を掛けてなければ良いが」
 阿達氏のその父親らしい発言は少々意外だった。史緒があまり良く思ってない(と思われる)父親がこんな人だったとは。
 一通りの挨拶を済ませた後、阿達氏は司に言った。
「司、何歳になった?」
「17です」
「忘れてないだろうな」
「ええ、勿論」
 含みを持たせたわかりにくい問いかけに、司は無表情で即答した。その様子に阿達政徳は鼻白んだようで、目を細め冷たくも見える表情を向けた後、ふいと顔をそらした。
「…和成」
「はい」
「5分で戻れ」
 短くそう言った後、最後に三佳に向かって、
「では島田さん、失礼します」
 と言い残すと、阿達政徳は車のほうへ戻って行った。
 後部席に座りドアが閉まるのを確認した後、残された一条が口調を明るく改めて言う。
「…どうやら、社長は三佳さんを気に入られたようですね」
「だね」
 と司も同意する。
「は?」
 三佳は2人の発言の意味がわからなかった。答えたのは司だ。
「子供相手にまともに挨拶する人じゃないよ。仕事の移動中にわざわざ車から降りて声を掛けてきたのもらしくない。僕らを見つけたのだって和成さんだろうし」
「あたりです」
 下手をすると不敬になりそうな司の台詞を一条は笑顔で受けた。
 それならば何故、仕事の移動中という貴重な時間に、阿達政徳は一条をここに残したのだろう。まるで一条を、司と忌憚ない会話をさせるためかのように。
 一条が言う。
「どうですか、史緒さんは」
「え?」
「三佳。和成さんは昔、史緒の家庭教師をしてたんだ。というより、この人が史緒を育てたと言っても過言じゃないよ」
「過言でしょう、それは」
 司の紹介に一条は苦笑した。
「…どういう育て方したんだ?」
 と、三佳はつい真顔で口走ってしまった。びっくりした一条に司が「素はこういう喋りなんだ」と説明した。嫌な顔を見せなかったので続けることにする。
「私が見た限りじゃ、炊事洗濯掃除、どれもまともにできないぞ」
「今じゃ、三佳が史緒の面倒見てるんだよね」
「そのとおり」
 三佳の苦言と司の合いの手を目の当たりにして、一条は吹き出して破顔した。
「史緒さんの育て方について、一部甘いところがあったのは認めます」
「でも僕から見ても、うまくやってるように見えるよ」
 と、司。
「あなたのようにしっかりした人が史緒さんと一緒に居てくれて安心です」
 一条のその誉め言葉を、三佳は素直に受け止めることができた。
 何故だろう。嬉しかった。








 目覚めた日の夕暮れが綺麗すぎて、声をあげて泣いた。
 5年ぶりの陽の光が痛いほど体を刺したこと。手の届かない天井。この身をおきざりにした、流れゆく雲。
 のまれそうな赤い空を、きっと忘れない。



 そして。
 目覚めた日の夜───。

 私たちは2人して薄暗い廊下を歩いていた。
 部屋にいるよう言われていたけれど、七瀬司がそっと呼びに来てくれたのだ。「おいで」と手を差し伸べて。
 盲目のはずの彼に手をひかれ、ひとつ階下に降りると灯りが漏れるドアがあって、その中から微かな話し声が聞こえた。
 司が足を止めて、小声で言った。
「史緒───…って、誰のことかわかる?」
「ああ」
「彼女、ここに住んでるんだけど、どうやら君を引き取るつもりらしいよ。篤志はそれを反対してて、珍しく口論してるんだ。でも僕は、当事者である君を抜きにそんな話を進めるのは不毛だと思って」
 と、私を呼びにきた理由を説明した。
「あの2人と違って、僕は三佳の事情はほとんど知らないんだけど」と失笑する。「このままだと三佳は警察病院に連れて行かれる。ほとぼりが冷めた頃、どこかの施設に落ち着くことになると思う。…僕の言ってること、わかる?」
 私は小さく頷いた。
 頷いてから、ハッとして、「ああ」と言い直した。彼には音声でないと伝わらないのだ。
「どちらにしても、最後には2人とも君の意向を尊重してくれると思う。まぁ、まずはそれぞれの言い分を聞いてみてよ」
 司はいたずらっぽく笑い、灯りが漏れるドアのそばに座り込んだ。気付かれないように、立ち聞きしようというのだ。私は彼に倣い、隣に座ることにする。

「簡単に言うけどな、おまえみたいな未成年が子供を引き取って育てるなんて、どれくらい大変かわかってるのか?」
「大変なのはわかってる! 篤志だって、あの子の事情わかってるはずでしょう? …放っておけないわ、私は」
「同情ならやめとけ。三佳を放っておけないのはわかる。けど、おまえと暮らすことは反対だ。きっとお互いのためにならない」

 廊下に座ったまま、部屋の中のやりとりの声だけを聞く。その言い合いは真剣で厳しいものだったけど、当事者であるはずの私は他人事のようにそれを聞いていた。隣に座る司が、一連の会話を面白がっているように見えて、私がそれに気を取られていたからだ。
「…なに笑ってるんだ?」
「面白いからだよ」
「どこが?」
「史緒と篤志が言い争ってるなんて、めったに見られないから」
「あの2人、どういう関係なんだ?」
「ただの仕事仲間に見えない?」
「見えないね」
 自信満々に答えると、司は笑って、質問に答えてはくれなかった。

「よく考えろ。他人とずっと一緒にいられるのか? 昼も夜も、ひとりになる時間が無くてもやっていけるのか? 俺から見れば、三佳よりおまえのほうが危なっかしい」
「…」
「それにこの3ヶ月、食生活だってまともにできてないじゃないか。そんなおまえが、子供の面倒みられるわけないだろ!」

 かちん。
「───司っ」
「なに?」
「私がここにいても迷惑じゃないか?」
 訊く相手が違うんじゃない?と笑われそうな気がしたが重要な質問だった。
 司は驚いた顔をして少し言葉に迷っていた。
 (よかった)いい加減な言葉を即答されるよりずっといい。
 司は答える。
「楽しくなると思うよ」

 扉を開け放つ。史緒と篤志はその音に驚いて、睨むような目でこちらを振り返った。
「三佳…っ」
 史緒は驚いて口元を押さえる。篤志も、一連のやりとりを聞かれていたことにばつが悪いのか、気まずい表情をした。
 篤志の台詞にはむかついたけど、篤志に対して悪い印象はない。やつは私を追い出したいんじゃなくて、史緒を心配してるだけだと、会話からうかがえたから。
 その篤志に、言わせてもらう。
「私は」ついでに睨みも効かせて。「世話してもらわなきゃ何もできないような子供じゃない!」
 でも何でもできるわけじゃない。自分自身に言い返されて一瞬弱気になったが顔には出さない。
 今までやってきたことだって無駄じゃない。───あんな結果を招いてしまったけど、でも無駄じゃない。そう思いたい。
 立ち直れ。自分の居場所は自分で掴まなきゃいけない。
「自分のことは自分でできる!」
 言い切ってみせた。
「そんなに言うなら、おまえが心配してる史緒の面倒くらい、私がみてやってもいいぞ! それなら篤志も安心できるだろ」
 しーん。
 場が静まり、かなり長い沈黙があった。
「…は?」
「ちょっと三佳! どういう意味っ?」
 自分の台詞のおかしさはわかっていた。篤志と史緒の反応は予測通りのものだ。
 でも体が熱かった。手足が震えていた。この性格が彼らに受け入れてもらえるか賭だった。
 立ち直れ。そのためには動き出さなきゃいけない。いつまでも寝ていられない。
 私は目覚めて、新しい世界を目にしたんだから。
「僕は賛成」
 司が姿を見せて、その言葉に篤志が驚きの声をあげた。
「司!?」
「史緒ひとりでここに住まわせるのは心配だって、篤志も言ってたじゃないか。確かに史緒は生活能力無いけど、三佳が一緒なら、少なくとも食事を疎かにすることはないんじゃない? それくらいの責任は持つだろうし」
「そりゃそうだが…。まさか司が賛成するとは思わなかったな」
 と、篤志は肩をすくめる。そして司が答える。
「うん、まぁ。つまるところ、僕は三佳のこと気に入ったから」
「えーっ!!」
 篤志と史緒は同時に叫んで、私は彼らのそのリアクションに驚いた。
 当の司はひとり飄々としている。
 さきほどまで言い合っていた篤志と史緒は、目を合わせたかと思うと、今度は肩を会わせ、何やら相談を始めた。
 状況についていけなくなって呆然としている私に、司が声をかけた。
「よろしく。三佳」
 どういう表情をすればいいのか、私は戸惑った。
 この3人の中に入っていいのか、少しだけ悩んだ。
 でもやっぱり素直に嬉しくて、彼は見えないとわかっていても、私は司に笑顔を向けた。

 この3人がやってることは少しづつ分かってきた。
 訪れる来客。依頼。報告。組合。オーナーなる人物の影。同じような仲間がいること。便利屋まがいの興信所、と史緒は言ったが、その胡散臭さから、興信所まがいの便利屋のほうが表現が近いのでは? と意見すると史緒は否定しなかった。
 私は最初のうち病院とアルバイト先に通い詰めで、彼らの仕事と関わることはなかった。来客のいないときは事務所に入れてもらえたので3人の仕事ぶりを観察することはできた。
 史緒は所長を名乗り、外交もするようだ。年齢の割に学校へは通ってないようで、外出時以外はほとんど事務所で机に向かっている。篤志は大学生だと聞いた。けれどほとんど毎日事務所へ来ていることから、学業がどういう状況にあるかは言うまでもない。多分、私生活のなかで一番行動範囲が広いのは司で、何カ所か通っている場所があるらしい。
 この3人がどういう関係で、どういう経緯でこのような仕事をしているのかは本当に謎だ。
「史緒のお父さんは、アダチグループの社長なんだ」
 と、教えられたとき私は適当な相槌を打っただけだった。
 しかし数日後、テレビというものを見ているときに「もしかしてただごとじゃないのかも」と気付く。
 テレビCMで何度も耳にする企業なのだ。
 司曰く。
「そうそれ。ついでに篤志は史緒の婚約者だよ」
「…冗談」
「じゃなくて、ほんと。と言っても史緒のお父さんの独断だけで、当人2人にまったくその気はないけど」
「そんな話、部外者に言っていいのか?」
「別に隠すような話じゃないよ。今年の初めに史緒のお父さんが正式に発表したことだから、アダチの幹部なら誰でも知ってる」



 一月経った頃、史緒の父親と対面する機会があった。一条和成にも。
 別れ際、一条氏に言われた台詞が、何故か嬉しかったこと。これは司にも黙っていよう。



「史緒とはうまくいってるみたいだね」
 司がそんなことを言った。それには大きな反感を覚えた。
「…うまく?」
 不機嫌な苛立ちを隠せない声は、当然司にも伝わっただろう。
「冗談じゃない」
 思わずテーブルを叩いてしまった。
「何なんだあいつは。眠らないし食べないし、生きてく気あるのか?」
「史緒は昔からそういう生活してたよ」
「あいつ、まだ16だろ? 成長期も脱してないのに。自分を生かす為の食生活ができないなんて本物の馬鹿だ」
 まだるっこしいので、史緒に無理矢理食わせるために、峰倉さんのところで料理を教えてもらった。
 慣れてくれば料理は調剤と同じだ。栄養学も薬理学と似通うものがある。
 嫌ではない…どちらかといえば性に合ってるからいいものの。
 まさか本当に史緒の面倒をみることになるとは思わなかった。



 なんだかよくわからないうちに香港に連れていかれた。
 植民地や返還の意味もわからないまま正装させられて、沢山の人がいる広場へ連れて行かれた。
 まず、様々な人種がそこに集まっていることに驚いた。そして本当にこういう生活階級がいるのだと驚いた。パーティは立食形式で、料理の乗せられたテーブルの間を、シャンパングラスを持ち着飾った人達が行き交う。所々で交わされる挨拶や管楽器の生演奏が耳をいっぱいにした。
 史緒と篤志は別行動ということで、三佳は司に着いて歩く。その途中、司は数人に声を掛けられては親しそうに挨拶を交わした。その挨拶はほとんど英語であり、たまに三佳の知らない言語もあった。とにかく顔見知りが多いようだ。
 その中の一人。
「三佳。彼女が蘭だよ」
 蓮蘭々。史緒の友人であり、司の恩人であり、篤志のことが好きな奇特な人物だという。そしてこのパーティの主催者、蓮瑛林の13人いる子供達の末娘。
 彼女はおだんご頭に赤い刺繍の入った膝丈のドレスを着ていて、にっこり笑うと行儀良くお辞儀した。
「はじめましてっ、蘭です。どうぞよろしくおねがいしますっ」
 挨拶した言葉は日本語であり、底なしに明るい声だった。
「島田…三佳です」
 その明るさに面食らった。
「お噂は伺ってます。三佳さんって、史緒さんと暮らしてるんでしょ? うらやましーッ、あたし、今度、遊びに行きますから!」
「蘭、史緒と篤志には会った?」
 と、司が尋ねた。
「はい! また後で合流する約束なんです」
 と、嬉々として答える。どうやら篤志のことが好きというのは本当のようだ。
 その蘭が、少しだけ声を抑えて司に言った。
「阿達のおじさまと和くん、もちろん父さまが招待してましたけど、喪中のため≠チていうお返事があったみたいなんです。ごめんなさい、あたし、よく考えずに招待状を送ってしまったけど、ご迷惑でした?」
「いや。僕らは気にしてないよ」
「良かったぁ。あたし、今日こそ、父さまに篤志さんを紹介したいと思ってたんです! 司さんも、父さまに会ってやってくださいね。兄さまや姉さまも楽しみにしてたみたいです。三佳さんも、あたしの家族と会ってくださったら嬉しいです」
「流花さんと晋一さん、来てるの?」
「晋一兄さまは居ますよ。たぶん、挨拶回りしてるでしょうから、今は忙しいかもです。流花ちゃんは今日も仕事ですって! 今は東欧を飛び回ってるって! こんな日くらい帰ってきてもいいのにぃ」
 ぷん、と蘭は素直に怒った表情を見せる。表情をくるくる変える蘭が、史緒の友人というのはやっぱり不思議な気がした。
 司がこちらを向いて言った。
「晋一さんは蓮家の長男なんだ。今、36歳かな。この家の跡取り。流花さんは長女で29歳。流花さんは僕の先生でもあるんだ。厳しい人で、昔はよく泣かされたものだよ」
 と、司は到底想像できないようなことを言った。



「風呂で寝こけるなッ!」
 浴室効果も手伝って、私の怒鳴り声は壁に反響し、わんわんと響いた。
「…え? なにッ?」
 史緒は目が覚めた直後に溺れかけた。バシャバシャと冷めた湯を掻いて、どうにか湯船の縁に掴まる。史緒が風呂場に入って40分。おかしいと思い、様子を見に来たらこれだ。
「おーまーえーはーっ」
「三佳…? え? なに?」
 まだ覚めきってないのか、キョロキョロと辺りを見回す。
 私は本気で憤りを覚えた。史緒のこういう自分の体や健康に無頓着なところ、本当に腹が立つ。
 史緒はタオルで髪をあげていて、肩が冷めた湯と空気に触れていたので余計寒そうに見えた。ようやく状況を理解しかけた史緒がひとつくしゃみをした。
「早く出ろっ。風邪なんかひいたら承知しないからな!」
「…はーい」
 史緒はばつが悪そうに肩をすくめた。
 そのとき、史緒の首筋に、小さな丸い、黒いものがあるのに気付いた。
 それが火傷の痕だと気付くまで3秒必要だった。
「それ…」
 訊くつもりはなかった。それでも無意識に口走ってしまった。「ん?」史緒は聞き返してきたけど、すぐに私の視線に気付いたようで、
「ああ、ごめん。気持ち悪いもの見せて」
 と、右手で火傷を隠した。その様子は、傷を見られた嫌悪も気まずさも無く、まるで肩に落ちた髪の毛に気付いたようなさりげなさしかなかった。史緒の淡泊な反応も意外で、私は少しの間、史緒を凝視してしまった。
「ところで三佳。早く上がりたいんだけど」
 追い出されるように浴室と脱衣所を後にして、引き戸を閉める。そこでようやく風呂から上がる水音がして、史緒が脱衣所へ戻ったことがうかがえた。
「…煙草?」
 戸の廊下側から尋ねる。
「そう。もう10年くらい前。意外と消えないのね、こういうのって」
 史緒は苦笑さえ交えて答えた。髪を拭いているせいか、声がくぐもっていた。
「…火傷は皮膚が再生しにくいんだ」
「ふーん」
 史緒は感心したような声を返した。
 その火傷について、あまり気にしていないのだろうか。いつもは服と髪で隠しているくせに。
「それくらいなら簡単な手術で消せるんじゃないか?」
「昔もそう言われたんだけど。表に晒すところじゃないし、私も気にしてるわけじゃないし」
 それに、と付け加える。
「当時は消したくないって思ってたのよね」



 半年後。1998年1月───。
「見つけたわ、この子よ」
 史緒が月曜館へ駆け込んできたその瞬間、私は篤志に千円支払うことが確定した。
 それもこれも、史緒が街中で一度すれ違っただけの人間を、2ヶ月もかけて見つけ出してきたせいだ。
 呆れた。
 A.Co.メンバー5人目。セーラー服姿で事務所にやってきた女子高生、三高祥子。
 史緒はらしくなく、祥子に対してストレートに突っかかる。祥子は祥子で、売られた喧嘩を素直に買うもんだから騒々しいことこの上ない。
 段々と、史緒の挑発に祥子が落ち着いて対応できるようになって、気の利いた皮肉を返してくるようになった。史緒の狙いはこれだったのかと理解した。ただ祥子の本人はまだ、史緒の言動に腹を立てたり苛ついたり恨み言を吐いていたけれど。



 2ヶ月後。1998年3月───。
 蓮蘭々…もとい川口蘭がA.CO.に呼ばれた。
 未だにA.CO.に馴染もうとしない三高祥子を懐柔させるためだ。誰も何も言わなかったけれど、それくらいの史緒の狙いなら読める。これで総勢6人になった。
 あの蘭がよく家族と離れ日本へ来れたものだと驚きもしたが、その事情を三高祥子が知った時の修羅場はさぞ悲惨だろう、と呆れもした。
 史緒が他人の心情が読めない馬鹿だと知っていた。この時ばかりは蘭に対して呆れたのだ。
「あたし、家族は大切だけど、同じくらい史緒さんのことも好きなんです」
 史緒と蘭はかなり古くからの知り合いらしい。この2人の関係も謎だ。
「それにホラ、史緒さんが同年代の同性を近くに置きたいなんて、前代未聞じゃないですか? どんな方なのか興味あったし、お手伝いできるならすごく嬉しいですし、篤志さんとも一緒にいられるし」
 蘭は胸の前で指を組み、祈るように言った。
「本当に嬉しいんです」


 1年後。1999年1月───。
「ああ、史緒をナンパしてた奴」
 こういうことを黙ってるのは史緒に対して親切だと思った。だからわざと口にした。
 案の定、メンバー達は大騒ぎしてくれて、後に史緒が質問攻めにあったので、私としては満足。
 7人目はどこにでもいそうな男子高校生、木崎健太郎。
 こいつは、以前、史緒をナンパした経歴を持つ、かなりイジメ甲斐のある奴。しかしすぐに、意外にも結構しっかりしてること、頭の回転が速いこと、などが見えてきたので、アソビ甲斐のある奴に訂正。
 さらにA.CO.が所属するTIAにハッキング行為を行った過去を持ち、TIA内では要注意人物扱いされているにも関わらず、本人にまったく自覚がない能天気な性格。かなり浮くだろうなと予測していたが、思いの外、史緒も気に入っているようで、すんなりと馴染んでいった。



 段々、妙なパーティになってくる。そう思わずにはいられない。
 それを良いか悪いか評価はできないけど、順当にうるさくなってきているのは確かだ。
 それに伴い、史緒が以前より笑うようになった。
 ───そう考えたとき、愕然とした。
 「過保護なんじゃないか?」と篤志に言ったことがある。
 史緒が笑うようになった、などと考えるなんて、私も同じじゃないか。

 司と篤志、そして史緒。3人の考察。
 史緒の嫌いなものは煙草、実家、そして桜。
 煙草はやっぱりあの火傷が嫌いな理由だろうか。後の会話で、火傷について篤志と司は知らないことがわかったので、私もあまり話題にはしなかったけど。
 実家は後継問題が煩わしいのだろう。桜は「嫌な思い出しかない」と言っていた。
 その他では、祥子に対して憎まれ役を買って出ていたかと思えば、裏腹に人の心情にひどく鈍感なところがあったりする。生活能力皆無という欠点も指摘したいが、史緒本人はそれを気にしていないので弱点にはならない。あの歳で一事務所を支えられる処理能力があり、時々毒舌も吐くが外交手腕もそれなりに様になってる。
 篤志と司。篤志は史緒の相談役…というより口出し役で、仕事面でも生活面でも気に入らなければ遠慮無く意見をぶつけてくる。司は他2人が対立したときの決定票を持つ。
 ただ共通して、彼らは史緒が笑う度に安心したような表情を見せる。
 そのことに気付いてから、彼らの表情を確認する癖がついてしまった。
 結論。
 彼らは何を恐れているのだろう───。
 史緒が爆弾でも抱えているように見えるのか?
 いつ爆発するかわからない史緒を、彼らは見守っている。そんな風に思える。


「三佳が史緒と居てくれてるから安心してんだよ、俺らも」
 そう言ったのは驚いたことに篤志だった。



「史緒は気に入った人間をとことん守る性格だから。だから僕たちも、自分自身を大切にしなきゃいけない。わかるだろう?」
 これは司。



 そして私は夢を見続けている。
「三佳っ!」
 大抵、史緒に起こされる。
 目が覚めると部屋は暗くて、史緒が入ってきたときに開けっ放しにしたであろうドアから、廊下の照明がまぶしく入ってくる。私を覗き込む史緒の表情は逆光のためによく見えない。
 夏でも冬でも、夢からさめたとき私は汗を掻いていて、そして寒さを感じている。
(ああ、またか)
 そう思う。
 夢の内容はいつも同じ。呆れることに覚める場面まで同じだ。
 そして史緒も同じ。私がうなされていた夢については何も言わない。
「三佳」
「…なんだ」
 どうにか声を返すと、史緒は安心させるような笑顔を見せて言った。
「コーヒー飲まない? 私がいれるから」
 大声で起こしにきた理由としてはかなり強引で、私は思わず吹き出してしまった。
「史緒がいれるとムラがあるから嫌だ。───私がいれる」
「そう? じゃ、私のも」
 そんな会話をしているときでさえも、史緒は震える私の手を、強く握っていてくれた。








 A.CO.が設立して3ヶ月が経った頃のこと。
 当時、設立時からのメンバーの増減は無く、初期メンバーのまま3人で活動していた。
 所長の阿達史緒。このとき彼女は若すぎる自分の年齢を偽って営業していた。この頃、直接依頼される仕事はほとんど無く、オーナーである桐生院由眞から仕事を卸してもらっている状況だった。もともと弱音を吐く性格ではないが慣れない接客や足で稼ぐ仕事に振り回されていた史緒、彼女を支えたのは他2人の所員だった。
 関谷篤志はそのとき19歳。史緒のはとこで、横浜にある実家から都内の大学に通っていたが、事務所近くのアパートに引っ越した。親戚ではあるが、史緒が篤志と知り合ったのは2年前。付き合いの日はまだ浅いが、史緒に対して遠慮無くずかずかと物申せる数少ない存在のひとりだ。
 七瀬司は16歳。全盲である彼は、当初、史緒と同居する予定だったが、それを断わって近所で一人暮らしをしている。それ以前はというと、ある事情から司は史緒の実家に引き取られており、篤志よりは史緒と付き合いが長い。目が不自由故の感覚の鋭さと聴覚に優れていて、それが仕事に生かされることもあった。




 一通の手紙から、その事件は始まった。

 と、言っても、いわゆる内部告発的なその手紙の内容を七瀬司は知らなかったし、事件の全貌を知ることもなかった。彼にとっては、A.CO.が手掛けた数ある仕事の中のひとつに過ぎず、特に興味を持つものでもなかったのだ。
 その手紙が事務所へ送られてきたという日、司は昔から世話になっている町田の病院へ顔を出していた。定期検診のためだ。補足すると、視力の検診ではなく、瞼や眉間の皮膚が他の部位に会わせて正常に成長しているかどうかの検査だった。司の視力が失われたのは外的な衝撃、それも少々特殊なケースで、顔の上半分に酷い傷をおった。眼球機能の回復は絶望的、外側の傷は違和感なく治ったものの、これは皮膚移植だ。成長期の司の体に問題なく適合しているかの定期検診だった。
 さて、言うまでもないことだが、病院内は携帯電話の使用は厳禁である。携帯電話が最寄りの基地局と絶えずやりとりしている電波が、医療機器に障害を与えるからだ。
 だから司はポケットの中の携帯電話の電源を切っていた。
 篤志から何度も連絡があったことを知ったのは、病院を出て5分経ったときのことだった。

「司っ! 今どこにいる?」
「まだ町田。これから電車に乗ることろ。…何かあった?」
 電話の向こうで、篤志は車に乗っているようだった。少し慌てた様子でありながら筋の通った口調だったので、自分で運転しているわけではなく、多分タクシーだろう。
 篤志は長い説明を始めた。
 A.Co.の事務所に直接の依頼が手紙できたこと。
 時を同じくして桐生院から電話があり、緊急の仕事が舞い込んだこと。
 付き合わせてみると、その2つの依頼に関連性が認められ、裏付けも取れたこと。
 これから桐生院の所へ向かい、打ち合わせの後、現場へ向かうということ。史緒も一緒だということ。
「もしかしたら数日留守にするかもしれない」
 何やら大変なことになっているようだ。更なる説明を求めても、篤志の邪魔になることがわかったので司は短く切り上げるようにした。
「僕の役割りは留守番でいいの?」
「頼む」
 今回のような外に出る仕事に司は同行できない。足手まといになるのは明白。
 しかしそれを歯がゆくは思わない。自分にできることと、3人の中での役回りは理解しているつもりだ。
「とりあえず連絡は定期的にいれるから」
「わかった」
「あと、史緒が…。えーと、依頼の手紙が机の上に出しっぱなしだから、ちゃんと保管しといてくれ、だとさ」
「それも了解」
 そこで電話は切られた。



 事務所に帰りついて、司はまず机の上にあるはずの依頼の手紙を探した。
 手探りで漁るとそれはすぐに司の手に触れた。
 それは依頼の「手紙」というより「メモ」だった。
 一枚の紙切れ。
 他数枚は机の下に落ちているのかと探してしまったほどだ。
 紙一枚。それに何が書かれているのか、もちろん司に見ることはできない。篤志と史緒が慌てて出かけるような内容が書かれているはずだけれど。
 司はその紙を指2本で弄びながらソファに座り込んだ。
(…?)
 そしてあることに気付いた。司は紙を鼻先に近づけると匂いを嗅ぐ。
「薬…?」
 その紙には薬品臭が染みついていた。これには篤志と史緒は気が付かなかっただろう。

 その紙切れには右下に小さく印刷文字があり、「峰倉薬業求vと記されていたことを司は知らない。
 そして中央には、乱雑な文字で大きく、「薫を助けてくれ」と書かれていたことを、司は知らなかった。

*  *  *



 2人が帰ってきたのは1週間後だった。
「少しの間、女の子を預かることになったから」
 と言ったのは史緒。
 それが今回の依頼と関係があるのか、それとも全くの別件なのか、説明も何もなかった。
「まさか史緒が面倒みるの?」
 司の冷やかしを史緒は無視した。
「しばらくは、医者が通ってくるわ」
「どこか悪いの? その子」
「あまり出歩ける状態でないのは確かね」

 数日後───。

「ただいま。様子はどうだ?」
 篤志はドアを開けるなり、そう史緒に尋ねた。椅子に座っていた史緒はおかえりと答えてから、
「変わらず、よ。医者は、来週まで変化が無いなら入院させたほうがいいって、おっしゃってたわ」
 篤志の質問は、3階で寝ているはずの少女について尋ねたものだ。史緒にもそれは伝わり、肩をすくめて答えた。
 数日前、連れて帰ってきた少女は未だベッドから立ち上がることができずにいた。
 立ち上がるどころか食事をすることもできなかった。喋らず、反応を返さない放心状態が続いていた。ただ目を見開き、無表情で天井を見つめている。時々、目を閉じていることから、医者は「少しは眠れているんだろう」と安心したような吐息をついていた。
「でもあの肌の白さは異常じゃない?」
「そりゃ、あの年齢の子供が5年も太陽光を受けなかったらああもなるさ。それに、俺と知り合った頃のおまえも似たようなもんだったぞ」
「そんな昔のこと、引き合いに出さないで」
 史緒は苦笑した。
「司にはどこまで話したんだ?」
「裏事情に興味は無いから、別に聞きたくないって」
「あいつも相変わらずだな、浜松町に来て3ヶ月経つけど」
「相変わらずって?」
「多分、無意識だろうけど、必要以上に深く関わらないようにしてる」
「篤志はけっこう司と仲良いじゃない」
「それを言うなら、史緒のほうが司と付き合い長いだろ」
「…」
 このままでは責任転嫁に似た不毛な押し付け合いが続きそうだったので、2人はこの沈黙をもって会話を切り上げることにした。その区切りにのって、篤志は持って帰ってきた茶封筒を史緒の目の前に落とす。
「今日の収穫物」
「ありがと」
 史緒はさっそく封筒の中から書類を取りだし、ぺらぺらとめくりはじめた。その書類について、篤志が説明を付け加える。
「日薬連の名簿。住所から戸籍が取れると思う。失踪宣言が出されていたとしても、まだ5年だから、失効はされてないはずだ」
「…これね。島田…芳野?」疑問型で口にしてから史緒は困惑した表情で顔を上げた。「これ名前?」
「俺も同じこと思った」篤志は苦笑する。
「確認もしてきた。島田芳野、薬理学者だそうだ。本人は誠実で穏やかな性格───出世は望めないタイプか、でも優秀で信頼できる人だったから、周囲からは好かれていて、名前で呼ばれてたらしい」
「本籍は茨城県…。本人から名前は聞けそうにないし、やっぱり戸籍を取りに行くしかないわね」
「いいよ、それは俺が行く」
 篤志は応接用のソファにドサッと腰を下ろした。
「けど、警察は何やってんだ?」
 あの少女の身元を調べることなど、警察だって簡単に調べられるはずだ。それにこんな一市民の家に預からせておいて放っておいているのもおかしい。あれだけの事件の関係者に監視も付けないなんて。───A.CO.が信用されているわけでは、絶対無いだろうし。
 史緒は名簿をめくりながら淡々と答えた。
「研究施設の立ち入り捜査と関係者の事情聴取、それに出資会社の内情調査…。忙しくてこちらに来る余裕もないのよ」
「あの子だって重要参考人だろ」
「あんな状態だもの、半日で諦めたみたい。他の関係者の事情聴取は順調みたいだし、そっちに時間をかけてるわ」

 ふと、篤志は机の隣に白い杖が立てかけられているのを目にした。
「…なんだ、司、来てるのか」
 姿が見えないので、またどこかへ出かけているのかと思っていたけど。
 史緒は書類から目を離さないまま、右手の人差し指を天井に向けて言った。
「屋上」







28話「StandingBird」  END
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