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27話「夢からさめた夜」



「三佳」
 背後から自分の名を呼ぶ声がしたので、少女は振り返った。

 島田三佳はひとり、A.CO.の屋上にいた。風が強い。
 この建物で暮らし始めて2年経つ三佳は今年11歳になる。2年経つということについて、もし三佳本人に質問したら、「史緒の面倒を見始めて2年か」としみじみ溜め息を吐くだろう。そして引き合いに出された史緒はそれを聞いて、何か思うところがありながらも黙って苦笑するに違いない。
 後ろからやってきたのはその阿達史緒だ。史緒は今年18歳。三佳の同居人でありA.CO.の所長を務めている。屋上へ上がってきた史緒は、乾いた風に長い髪を流され、鬱陶しそうに頭を押さえていた。
「何やってるの?」
「花見」
 短く答えると、三佳はまた視線を戻す。
 近所の公園は、今、桜が満開だ。公園だけじゃない。この屋上から見える景色のあちらこちらに薄紅色の郡が見える。一年を通して、ここから見える景色が三佳は好きだった。
 今は4月。この桜が終われば新緑が繁り、梅雨がきて、夏がくる。三佳が初めてこの屋上に立ったのは6月だった。そろそろ季節がふた回りしたことになる。
「三佳って学者肌な割に、そういう風情的なもの、好きよね」
 史緒は三佳の隣に並んで、手摺りに肘をかけた。同じ風景を眺めても史緒はあまり興味が無さそうだ。三佳は思わず笑った。
「それはすべての学者に対する差別発言とみていいな?」
「そうは言ってないけど」
 と、口ごもる。
「で? 何か用か?」
「司が今から帰るって。事務所に連絡あったわ」
「ふぅん」
 三佳はちらりと腕時計に目をやった。史緒の前では気の無さそうな返事をしても、内心では待ち遠しいのだろう。その様子に史緒は苦笑する。
 七瀬司は今年19歳になる青年で、史緒と同じくA.CO.創設メンバーの一人だ。彼と三佳は、ウマが合うというか、性根が似ているというか、一緒にいることが多く、何か企んでそうという人聞きの悪い共通点もあった。
 三佳がこの屋上からの景色を気に入っているのは史緒も知っていた。近所の公園や、すぐ近くに望める東京タワー、神社、遠くのビル群などすべて。三佳は眠れない夜遅くにも、よくここへ上がってきているようなのだ。三佳の行動パターンは意外と単純で、この屋上か月曜館、バイト先か、もしくは七瀬司のところにいる。
「花見客がいるな」
 眼下の公園を見て三佳が言う。あまり広くない公園だが、その敷地内の3本の桜の下、青いビニールシートを敷いて宴を開いている団体があった。見たところ年配の男女で、散歩がてらという風体である。
「三佳も花見客の一人でしょ」
「私は酒飲んだり騒いだりしない」
「そういえば海外の新聞のコラムであったけど、何故日本人は桜の下で酒を飲むのか、ですって。確かに、純粋な植物鑑賞ではなく無駄に馬鹿騒ぎしているのは日本だけかもね」
 と、花見という風習を嘲笑うような口調で史緒は言う。三佳はそれについて肯定も否定もしないが、ひとこと言わせてもらおう。
「解答にはならないかもしれないが」と前置きして。「桜は精神安定剤になる。花粉の中に含まれるリンとイオウが、疲労の原因である体内のケロトキシンという物質を消滅させるからだ。これは化学的に証明されている。一応、桜の下に集いやすいということの説明にはなるだろ」
「相変わらず、詳しいわね」
 史緒は嘆息した。三佳が幼いながら化学の知識を持っていることは承知している。今更いちいち驚いたりはしない。

 2年前のある事件の後、史緒は事件の関係者である三佳を引き取ることを申し出た。当時、三佳の身柄は警察病院に一時収容という話があり、その後の処置については未定だったのだ。史緒は知り合いの刑事に頼み込んでさらにコネも使って、三佳を引き取った。その時、関谷篤志には反対されて一晩口論になったし、七瀬司は事情を知らなかった。
 時々、史緒は考える。三佳を引き取ったこと、本当にこれで良かったのか。
 三佳は近隣の小学校に籍を置いているものの、まったく足を向けてない状態だ。
「社会勉強は外でしてるし、学業は問題ない」と、三佳は言う。
「将来、私みたいになるわよ」と、史緒が言うと「史緒よりは世渡り上手になると思うな」と生意気なことを言った。
 三佳は自分の将来について何か考えているのだろうか。少なくとも史緒は三佳から聞いたことがない。そもそも三佳は自分のことについて史緒を相談相手にしたことはない。
(司に言えてるならいいんだけど)
 どうもあの2人は、他に敵無しのコンビを誇っているものの、2人ともお互いのことをあまり探ろうとしない傾向があるから。

 その三佳は飽きる様子もなく、公園の桜を眺めていた。
「まぁ、精神安定剤とかそれ以前に、民族的というか土地柄というか風習というか、日本人は大抵、桜が好きな人種だな」
 と、おおよそ化学者が絶対口にしないようなことを言う。好きという感情で片付く科学・化学はないだろう。学者肌で風情好きで、そして「好き」という感情で一つの事象を説明してしまう矛盾も三佳らしい。史緒は声を立てて笑ってしまった。が、それをすぐに収めた。
「私は桜の花は嫌い」
 何気なく発せられた台詞だったが、その言葉には重みがあった。
 三佳は史緒の横顔を見つめる。史緒は静かな表情で公園の桜を見つめていたが、三佳の視線を感じたのか、口端で笑い、表情をごまかした。
「…なんで?」
「嫌な思い出しかない」
 それ以上は聞けない雰囲気だった。でもそこまで答えるなんて、史緒にしてはサービス過剰だ。単に三佳の前で口を滑らせてしまったことの後始末にすぎないとしても。
「…祥子の引越し、どうなってるかな」
 三佳が話題を転じた。それについて史緒は冷静に答える。
「結構人手はかかってるから、順調じゃなきゃ困るわね。能力を疑うわ」
「けどチームワークがない」
「それは言えてる」
 今日は三高祥子の引越し実行日だった。関谷篤志、木崎健太郎、そして川口蘭がその手伝いに借り出されているため、現在、事務所には誰もいない。もともと祥子は学校からも事務所からも遠い所に住んでいたので、卒業を契機に事務所の近くに引っ越すことにしたのだ。ここから歩いて15分くらいらしい。
 この引越しを促した入院中の祥子の母親は、「史緒さん家の近くなら安心だわ」と微笑んだ。祥子は「私のほうが年上なんだけど」と、うなだれていた。
 その祥子が先月、史緒の性悪さに我慢しかねて事務所を飛び出した事件があった。結局は戻ってきたわけだが、戻ってきた後も以前と同じような喧嘩を続けていることに三佳は呆れる。
 そんな関係がずっと続くのだろうか、と考えた。
 風に吹かれる中、三佳は史緒の横顔を見上げた。
「史緒」
「なぁに?」
「西山の手記。渡してくれないか?」
 史緒の横顔に変化があった。
「───だめ」
「史緒っ」
「ごめんなさい」まっすぐに視線を向けた。「まだ、渡せない」
「…っ」
 三佳に睨まれても、史緒は目を逸らさなかった。
 少しの時間の膠着を解いたのは、ドアが開く音だった。
「いる? ふたりとも」
 七瀬司だった。事務所が空だったので、屋上を覗きに来たのだろう。
「司」
 三佳は手摺りから離れて司の元へと走った。
「遅れてごめん。行こうか」
「ああ」
 出かける約束でもしていたのだろうか。どちらにしても史緒は留守番だ。いってらっしゃい、と声をかけた。
 あ、そうだ。と三佳が呟いて振り返る。
「次は脅してやるから覚悟しとけ」
 と、先程の会話の続きを口にする。司に余計な気を回させないためか、その台詞からは史緒に対する刺は消えていた。
「へぇ、どんな脅し文句かしら。心当たりがありすぎて困るわ」
 余裕を見せ付けるために史緒はおどけて芝居がかった口を利く。しかし三佳は自分の持ち札に自信があった。
「夜遊びしてること篤志にバラす」
 史緒は途端に青くなった。
「ちょ…っ、三佳!」
「へーえ。史緒って夜遊びなんかしてるんだ」
 篤志にばらされるのも困るが、今、ここで司にばれた。三佳はわざとだ。
 知らん顔の三佳は司の隣に並び、2人は史緒に背を向ける。ドアの前で一度だけ振り返った。
「じゃあな。3時には戻る。引越し組への差し入れはその後でいいだろ」
「行ってきます。篤志には黙っておくから安心して」
 司のにこやかな捨て台詞は、三佳の脅し文句の後押しでしかない。
 ばたん。
「…勘弁してよ。2人とも」
 残された史緒はその場に崩れ落ちそうだった。一方。
 ザマミロ、と三佳は思ったが、例えその脅しを実行に移しても三佳の要求に史緒は屈しないだろう。
(まぁ、この脅しは別のネタで使えるかもしれないし)
 相手を負かすためのカードはいくつか持っておくものだ。






「!」
 暗闇の中で目を覚ますことにはもう慣れてしまった。
 マラソンをした後のような息の乱れと全身を冷やす汗。たまらなく不愉快でウンザリする。何よりも気持ち悪いのは、夢から覚めた直後の浮遊感。夢と現の間、地に足が着かない、胃が持ち上げられるような嘔吐感の一歩手前。
 浅い息を繰り返しながら、夢の内容を遠ざけるために現実感を掴もうとする。しかし部屋は暗く、天井を見ることもできなかった。まだ早朝にさえならない、深夜だった。
 深い闇が怖くなって、何でもいいから視界に入れたくて手のひらを体に引き寄せる。指先は凍るように冷たい。汗を掻いた額に前髪がはりついていて、右手の甲で乱暴に拭う。
 暗闇の中で島田三佳は半ば呆れたような溜め息を吐いた。
 無理矢理にでも溜め息をついたのは、夢の残り香を捨てて早く本来の自分を取り戻すためだ。
 夢の内容を忘れるなんて器用なことはできない。
 見る回数は確実に減っていた。けどゼロにはならない。この夢を見る原因さえ忘れられそうなのに、夢を見る度に、また思い出す。何回も何回も。忘れてはいけないのだと、まるで見えない誰かが背後から見張っているようだ。
(ばからし…)
 「見えない誰か」などいない。
 夢を見せているのは自分自身。忘れられない昔の出来事が、時々、この体の中で暴れ出すだけだ。
 夢になど見せなくても忘れないのに。
 言葉で表すならそれは決して幸せな夢じゃない。悲しい、苦しい、辛い…どれも一言で表すのは難しい。
 ただ、悪い夢。
 悪い夢を、見続けている。

「三佳」
 暗闇から声がかかる。
「…っ」
 眉間に皺を寄せ、三佳は驚きのあまり息を止めた。
 大きく吐き出してしまう溜め息を聞かれないように、口を両手で押さえる。
 深い深い自責の念に駆られた。
 その声は、同じような状況でよく聞く阿達史緒の声ではなかった。七瀬司の声だった。そしてここは自分の部屋じゃない。司の部屋だ。
 羞恥に似た感情が襲う。それととてもよく似ているけれど、後悔。どうやって取り繕うか考えなきゃいけない。そして何よりもまず呼吸を整えなきゃいけない。でもそれもうまくいかない。唾を飲み込んだ喉が、奇妙な音を立てただけだった。
「三佳」
 再度、暗闇から発せられる声。自分の名。
 夢の途中、恐らく声を上げただろう自らの口を、三佳は両手で押さえた。未だ呼吸は不規則で、顎は震え、歯が噛み合わない。
(落ち着け!)
 こんな自分を晒したくない。たかが悪い夢を見ただけで、こんなにまで動揺してしまう自分を情けなく思う。不本意だ。
 今夜、三佳は司のアパートにお泊まりしていた。そんなに珍しいことじゃない。月3回はしていること。司のベッドの隣に布団を敷いて、三佳は眠っていた。
 繰り返し見る夢。三佳が外に出てからの2年間だけで百回は下らない。繰り返し、繰り返し。
 目が覚めると大抵は同居人の阿達史緒が心配そうに覗き込んでいる。隣の部屋にいる史緒を起こしてしまうほどの大声を出しているのだろうか? 何か、口走っているのだろうか? それを訊くことは恐い。確認することなどできなかった。
 そしてそれを司の部屋でやってしまったのは今夜が初めてだった。大した失態だ。
「三佳、起きてる?」
「…ごめんっ」
 表情を悟られたくなくて、三佳はぐるりと寝返りをうって窓際の司に背を向けた。顔が見えるはずもないのに。暗闇のせいだけでなく、司には。
 その暗闇から、いつもの優しい穏やかな声が返った。
「何で謝るの?」
「…」
「目が覚めちゃったね。冷たいものでも飲まない?」ベッドが軋む音が聞こえた。「あ。上、通るよ。踏んづけたらごめん」
 苦笑混じりの、司の、いつも通りの声。
 司は三佳を問いただしたりしなかった。彼の眠りはいつも浅いほうだが、今、起こしてしまったのは、間違いなく三佳だろうに。
 司の足音が三佳の上を通り、台所へ向かうのが分かった。冷蔵庫を開ける音と、漏れる光。三佳は突然のその光を眩しく感じた。(冷蔵庫を開けると明るくなるって、司は知ってるのかな?)しばらくすると、氷の鳴るグラスを両手に司は戻って来た。暗闇の中をスタスタ歩く。司には夜も昼も関係ないのだった。
「───ごめん、起こしちゃって」
「気にしてないよ」
 と、やんわりと笑う。
 司はグラスを、ベッドの壁際、窓枠の上に置いた。そしてカーテンを引き、窓を開けた。レールがカラカラと音を立てた。その時、三佳の髪が揺れた。
「ああ。いい風が吹いてるね」
「…」
 本当に。春先の暖かい、乾いた気持ち良い風が吹いて、三佳の髪を揺らした。司は三佳に手を差し出した。
「目が覚めちゃったついでにちょっと話しよう。付き合ってよ」
 室内の照明はついてないけれど、目が慣れたせいか外からのわずかな明かりで司の表情を見ることができた。安心した。布団の上に座っていた三佳はゆっくり立ち上がり、ベッドにのぼって司の隣に座った。窓の外からは、遠く車の音と風が吹き込んでくる。窓枠には汗を掻いたグラスが2つ並ぶ。隣には司がいる。いつのまにか鼓動は収まっていた。


 司は三佳の様子には突っ込まず、本当にいつも2人がするような話題をいくつか口に出した。その中のひとつで、司はこんなことを話題に出した。
「昔、史緒が猫飼ってたって知ってた?」
「史緒がっ?」
「意外?」
「というか、史緒が小動物の世話をまともにできるとは思えない」
「僕が史緒と知り合ったときにはもういたから、7年以上は飼ってたんじゃないかな」
「猫?」
「ああ。最初は手のひらに乗るくらい小さかったけど、最後はでっかい年寄りになったよ」
「そうか、7年じゃな。名前とかあった?」
 三佳が尋ねると、思い出し笑いか司は口元を緩ませて、
「ネコ」と、一言。「…何だって?」「ネコ」
「史緒が付けたんだ」
 三佳は軽い目眩を覚えた。
「まぁ僕も最初は呆れたけど」「でも史緒らしい」「そうそう」
 史緒が愛玩動物を持っていたのには本当に驚きだ。所有物に名前を付けるのは、当人の個性が表れるものだが、この場合、表れすぎてて恐い。
 ふと、思いついて三佳は独り言を声にした。
「そういえば、クマにひつじって名前つけてるやつもいたしな」
「熊、飼ってたの?」
「…ぬいぐるみだ」
 司のジョークにも呆れた、というより不覚にも吹き出してしまった。
(───あぁ、そうか)
 この呟きは顔には出さない。
 クマのぬいぐるみに「ひつじ」という名をつけていた人物のことを何気なく思い出せる程、あの頃から時間が経ったという実感に三佳は感慨を覚えた。ひとつ、そんなことを思い出すと、連想ゲームのように少しの繋がりを持つ別の事柄を思い出して、三佳はクスリと笑った。これは素直に口にした。

「この間」
「うん?」
「健太郎とカード勝負したんだ」
「三佳が勝ったんだね」
「当然」
 司は勝負の結果を容易く見抜くことができた。三佳と健太郎、2人の腕前は知っているし、なにより、三佳は自分が負けた勝負について口にすることはしないだろうから。
 健太郎のほうは本人が思っているほどカードは強くない、と司は見ている。カードのような見えない駒が多い勘がもの言う勝負事より、どちらかというと布陣を敷くようなオセロやチェス、将棋や囲碁のほうが健太郎の頭の回転には合っているような気がする。
 本人に自覚が無いのは気の毒だが、気付くまでは健太郎が三佳に負け続けるところを静観しようと思った司だった。
「あれだけ負けといて、懲りないかな。いいかげん」
「ケンの場合、勝つことに拘ってないと思うけど。ま、意地にはなってるかな」
「損得が考えられない馬鹿なだけだ」
「価値観が違うってことだよ」

 そんな風に、司にやわらかく諭されるのは嫌いではない。三佳はそれ以上は毒づかず、さらにその後の健太郎とのやりとりを思い出して、黙り込んだ。
「負けたッ」
 カードを空に投げ出して、健太郎は手足も放り投げた。その正面に座っていた三佳は余裕の笑みで言う。
「自らの恥を大声で宣伝しなくても」
「おっまっえっなぁ!」
 そして健太郎は苦々しく言った。
「末恐ろしいなぁ、おまえ」
 三佳は怯む様子はない。笑ってさえ見せた。
「どうせ20を過ぎればただの凡人だ。それまで我慢してろ」
「10年も先の話じゃねーかっ!」
 ───「ひつじ」を、最後になって手放した人物を思い出すと、いつも考えることがある。
 そう、健太郎が言った通り。10年後。
 この体は、どこで何をしているだろう。


 つい先日のこと。三高祥子は高校を卒業して、A.CO.に留まることを決めた。それはA.CO.、延いては阿達史緒の将来性に賭けたということになるのではないか。祥子が自らの人生設計をどう組み立てているかは知らないが、少なくても数年はここで食っていくつもりで、その間はA.Co.の経営が行き詰まることはないと踏んだのだろう。(そこまで考えなかったかもしれないが)
 けど、三佳は違う。きっとこちらの道へ進む。
 そこへ辿り着くための勉強をする大学。また、その大学の入学試験をパスするための勉強も必要だ。
 A.Co.に留まるつもりはないと知られても、史緒は今まで通り三佳を置いてくれるだろうか。
 司とだって、いつまで一緒にいられるかわからない。
 どこで躓くだろう。周囲の同世代の子供達が経験している数多くのことを、三佳はしていない。きっとこける。どこかで。必ず。
 焦りを感じることは、ある。
 そして、突然、何もかも吐き出してしまいたくなる。
 こんな風に育った自分のこと。父のこと。ここへ来る前に居た場所のこと。今まで関わった人達のこと。
 でも。
 よく考えもせず他人に相談して、早急に答えを求めるような人間は嫌いだし、自分はそう在りたくないと思う。
 自分のことを打ち明けたとき、容易に肯定されるのも恐い。自分でさえ結論付けていないものを、簡単に答えないで欲しい。庇わないで欲しい。同情しないで欲しい。弱さを肯定しないで欲しい。それは絶対、自分を堕落させる。
 こんな風に思っているから、他人に何かを告白するのは、いつもとても難しい。
「三佳、今、欲しいものある?」
 と、司が尋ねてきた。
「欲しいもの?」
「そう」
 しばし悩む三佳。
「乾燥機」と、真剣な声で答えた。「これから梅雨になると、洗濯物を外に干せなくなるし、室内に干すと余計湿度が上がるし、カビと匂いも気になるし」
 それは最近の三佳の最大の悩みでもある。財布を握っているのは三佳だが、万単位の買い物決定権を持つのは史緒だ。史緒は二つ返事でOKを出すだろうけど、三佳の頭の中ではメリットとデメリットを乗せた秤が微妙な高低差で、なかなか踏み切ることができないでいる。
「…っ」
 それを聞いた司は小さく咳き込んだかと思うと、遠慮無く大笑いした。
「え、なんで」
「だって…」
 真夜中だということに気づいて司は声を抑えたが、込み上げる笑いは止まりそうもなかった。
「来月末、三佳の誕生日じゃない? プレゼント何にしようかと思って訊いたんだけど」
 と、苦しそうに言い終わった後、あはははっと体を折って笑う。三佳はハッとして、
「前言撤回!」
 と、叫んだ。
「司が選んだものがいいっ」
 三佳はかなり真剣にそう言ったのに、司はまだ笑いが収まらず返事ができない様子だ。それが少しだけ、三佳には不満だった。
 とりあえず、乾燥機は保留だ。


*  *  *


 司はベッドの上で壁に背を掛けて座る。顎をあげ、上を向くような姿勢で、昼間読んだ本(点字)や三佳から聞いた話を反芻していた。窓の外から聞こえる音はまだ朝ではないことを表している。見えなくてもわかる。まだ、朝は遠い。
 三佳は司の膝を枕にして眠っている。今度はうなされている様子もなく、穏やかな寝息だった。そっと頭を撫でる。起きる気配はない。司は自分が使っていた毛布を手繰り寄せ、三佳の体にかけた。
 さて、自分はこの体勢からどうやって眠りに入ろうか。真剣に考え始めた。






27話「夢からさめた夜」  END
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