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26話「CapeTree」


 12月15日だった。時間は23時15分。
 古いアパートの部屋にインターフォンの音が響いた。(誰だよ、こんな時間に)とありきたりなことを思いながら玄関へ向かう。ドアを開けると、ぐあぁと叫びたくなるような冷たい風が入ってきた。せっかく、部屋が暖まっていたのに台無しだ。
「あん?」
 どういうわけかそこには、頭1つぶん俺より背が低い子供が、下を向いて突っ立っていた。男だ。
 この季節に上着もなくセーター一枚。ジーンズに古びた運動靴。手荷物は何もなし。少年の背後、辺りは当然真っ暗で、静まりかえっている。そんな時間帯にこのお子様は一体どのようなご用件があると仰るのか。
(何だ? このガキ)
 物乞いなら他でやってくれ。
 少年からの用件なり挨拶なりを待っていると、少年は勢い良く顔を上げて、にかっと笑ってみせた。
「泊めてくんない?」
「!」
(あ───)

 弟だった。




 その後、部屋に来ていた女を帰すのに要した時間15分。アンド、タクシー代。(またフラれるかなぁ)大した問題ではないが。
「おまえはとにかく風呂入れ!」
 弟を風呂に放り投げる。後から着替えとタオルもブチ込んでおいた。
 次に、関東最北端、群馬の実家に電話をかける。
「もしもし、母さん? ヤツ、こっちに来てるんだけど。───いいよ、理由はだいたい分かってる。…あー、いいって! 母さんは気にしなくていいよっ。とにかく今日はこっち泊めるから! ああ、うん。明日には帰すよ、じゃあ」
 投げ遣りな口調で一方的に結論づけた。
 弟がここへ来た理由でありながら、それを自覚していない両親と長話しをするのはあまりにも不毛だ。俺自身の精神衛生の為にも、電話はすぐに切り上げた。

 俺は東京で一人暮らし。就職上京で社会人生活2年目。
 今、風呂に入っている弟は、地元群馬で中学3年生。
 俺ら兄弟は、10近く年が離れていることもあり、喧嘩も無く仲良く育った。模範的な優等生でも代表的な劣等生でもなくごく普通の若者だった俺だが、面倒見の良い兄だったことは自他共に太鼓判を押すところだ。
「女のヒト、帰っちゃったけど良かったの?」
「おまえは気にしなくていいの」風呂から出て来た弟は、頭にタオルを乗せたまま顔を見せた。「髪、ちゃんとふけ。今、茶ぁ入れるから、ここ座ってろ」
 台所へ向かおうと立ち上がり弟とすれ違ったとき、「?」俺は何やら不思議な違和感を感じた。
「なに、もしかして…背ェ伸びた?」
 前に会ったのは夏だったはず。そのときに比べて視線の高低差が縮まったような気がする。それに筋肉がついて体つきがたくましくなったように見える。
「今、165てん6。兄貴、追い越すの目標だもん、俺」
 にやりとかわいくない笑みを見せて弟は胸を張った。その表情は心配していたより元気そうで、俺は内心でほっとした。
「おーお。せいぜい悪あがきしろよ。でもな? 例え身長抜かれても、俺のように心が広くかつモテるイイ男になるには、あと10年修行が必要だぜ」
「兄貴、外ヅラだけは異様にいいもんな。ほんと。呆れるほど」
「寒空の下に放り出してもいいんだぞ」
「ごめんなさい。もう言いません」
 とりあえず俺は日本茶をいれてやった。
「せめて上着くらい着てこいよ。風邪ひくだろ」
「いきおいで電車飛び乗ってきたから」
 おどけたのか茶が熱いのか、弟は舌を出して笑う。俺は胸から大量の息を吐いた。
「───父さんと母さん、相変わらずか?」
「まぁね」
(あー、もぅ)
 鬱になる。
 うちの両親はすこぶる仲が悪い。いつも喧嘩ばかり。喧嘩するほど…と茶化せるような2人じゃない。父は母をなじり、母は父をなじる。傷の付け合い。飽きもせず毎日、口汚ない罵り合い。たまに母は顔に青アザを作っているが、それでも見苦しい言い争いは子供を無視して繰り返された。
 しかし父は父、母は母だ。見捨てるわけにはいかない。2人の言い争いに巻き込まれそうになったことは多々あったが、2人を立て、俺は中立を守っていた。息子を味方にしようとするそれぞれの醜悪なアプローチはすべて無視。俺には弟を守る役目があった。
 両親のそんな喧嘩を目の当たりにするのは本当に辛い。目と耳と胸が痛くなる。ギスギスした雰囲気の家に濁った空気が流れる。吐き気がするほどだ。
 同じ家の中にいる息子2人は互いに寄り添って生きてきた。
 「自他共に太鼓判な面倒見の良い兄」が育てた「弟」は、育てた俺が言うのもなんだが、グレることもなく結構いい奴に育った。自分の家庭環境を逃避することなく理解し、それを外に見せない、持ち出さない強さがある。(まぁ、俺がそう躾たのだが)根は明るいようで、家の外ではよく笑い、誰にでも屈託無く話し掛ける。ただ、家の中ではいつも無口で、耳を塞いでいた。

 俺は就職を理由に家から出た。当時、中学1年生だった弟にとって、俺が拠り所なのはわかっていたのに。あの家の中で我慢している自分が馬鹿馬鹿しくなり、逃げ出すための就職。残された弟がどんな毎日を過ごしているか、それを考えると胸が痛かった。
 盆と暮れに帰省しても、弟は愚痴ひとつこぼさず、俺を歓迎してくれた。出来た弟だと思わんか? 本当に。まったく。
 今日だって理由は口にしないけれど、電車に飛び乗ってきたというのは両親のいつもの喧嘩が原因だろう。弟が俺の部屋を訪れたのは今日が初めてだ。今までキレることもなかったこいつの忍耐力には尊敬さえ覚える。
 忍耐? いや、弱音を吐けないだけか。
「おまえ、受験生だろ。明日、学校は?」
「期末は終わったから、休んでも問題なし」
「志望校、決めたんか?」
「M高」
「お。レベル高いじゃん」
「それは兄貴の時代の話。今はそうでもないって」
 どちらにせよ、受験生がこんな所で遊んでる場合じゃないのはわかる。もっとも、実家の両親は、弟が受験生だということを意識していないだろうけど。
「それ飲んだら今日は寝ろ。明日、仕事終わったら夕食奢るから、そのときゆっくり話そうぜ。9時頃、駅まで送るから、ちゃんと帰れよ」
「───」
「どした?」
「帰りたくない」
 その気持ちはよくわかる。この弟にここまで言わせる家庭環境と思うと滅入る。
 溜め息。しかしすぐに気を取り直す。
 弟の頭を掴んで、容赦無くかき回した。
「とにかく今日は寝る! 明日にする! おまえも今日は何も考えんなっ」
 ここに来てまで考え込んでしまうようでは、ここへ来た意味が無い。
 どうにかしてやりたい。
 そう思っても、結局何もできない俺だ。




*  *  *




 翌朝。
「これ、いじってていいぞ」
 仕事に出る前、俺は弟に向かって、デスクトップのパソコンを指差した。
「パソコン。使ったことあるか?」
「授業で絵ェ描いたくらい」
「上等。なら、基本操作はわかるな。本棚に解説本や説明書もあるから、読みながらでも遊んでろ」
「どんなことできんの?」
「使い方は当人次第。コレ、パソコンの鉄則」
 そう言い捨てて、俺は仕事場へ向かった。
 夕方、帰ってきた俺は「う」と言葉を詰まらせた。パソコンにかじり付いている弟に「そこから始めるかい」とツッコミたかった。
 モニタを覗き込むと、インターネットブラウザとtelnetが立ち上がっていた。これは2つの通信方式でネットワークに接続していると思えば良い。前者は最近普及したインターネットのhttpプロトコル、後者は黒い画面にコマンドを打ち込むタイプで、今時の一般ユーザーはあまり使わないtelnetプロトコル。と、まぁ、しかしこんな説明は蛇足中の蛇足だ。
 どうやら弟はアプリケーションソフトより、パソコンの通信に興味を持ったようだった。
「おい、変なことしてないだろうな? pingコマンド打っただけで攻撃し返してくる馬鹿も世の中にはいるんだぜ」
「多分、大丈夫。本の例題通りに、そこらのサーバに向けただけから」
 俺は絶句した。たった一日でいっぱしの口効きやがる。
 でも弟は楽しそうだ。俺とは違いアウトドアな奴かと思っていたが、それは勘違いか?
「何の本見てるんだ?」
「んー、これ」
 モニタから目を離すのも惜しいのか、抱え込んでいた本の背表紙だけをこちらに向ける。
 タイトルは「セキュリティと通信の初歩」。
 俺は苦笑した。
「ハッカーでも目指すか?」
「なにそれ」
「いや…うん」
「最初に取った本がこれだったんだ」
 その一冊が方向を決めたわけだ。他にも初心者向けの本は沢山あるのになぁ。
 しばらく後ろで観察していると、この弟はなかなか飲み込みが早いと気づいた。本を読みながらでキー入力も遅いが、手順は正確で理屈も分かっているように見える。
「…中々やるじゃん」
 素直に感嘆する。
「ねぇ。おれ、コレやってみたい。プログラミング」
 それは俺の本業だ。
(何か、妙な方向になってきたな)
 弟には暇つぶし用にパソコンを貸しただけなのだが。弟はまるで自分にぴったりのオモチャを与えられたかのようにのめり込んでいる。早く先が知りたくてワクワクする、知識を得ることが楽しくてしょうがない、…そんな気持ちは知っている。覚えがある。
「本気でやるなら教えてやる」
「マジでっ?」
「途中でやめるって言ったら、罰金な」
「のった!」
 パンッと2人の手が鳴って、久しぶりに兄弟の息を感じた。
「プログラム言語はいくつもあるんだ。多分、C言語に落ち着くだろうけど、初心者はBASICが無難かな。この本読んでみ」
 ちなみにウィンドウズはC言語で書かれている。さらに超蛇足だが、C言語はコンピュータ言語の略ではなく、B言語の次という意味でCなのだそうだ。
 いくつかの心得と、いくつかのアドバイスをしているうちに、俺もすっかりのめりこんでしまった。
 気付くと時間は夜11時を過ぎており、俺はまた実家に電話をするハメになった。
「ごめん。もう一泊させるから…」
 自分でも呆れる。

 何泊かさせている(オイオイ)うちに冬休みに入ったらしく、結局、ここで弟と年を越した。
 弟は驚くほどの速さで知識を飲み込んでいく。俺は教えられることは何でも教えた。しかし弟が受験生だということもちゃんと思い出し、途中、警告もしたが弟は知らん顔だ。3ヶ月後、激しい後悔に襲われなければいいが。
 1月6日。新学期前夜。
「半月も居座っちゃってごめん。でも楽しかった」
「そりゃ良かった。また、いつでも来いよ」
「うん」
「受験もがんばれよ」
「ぐあ、それは言わないお約束」
 笑いながら、駅で弟と別れた。
 電車に向かって手を振るのは少し気恥ずかしい。でも弟への喝を込めて、俺は最後まで手を振っていた。
 弟も歯を見せた笑顔で、Vサインを返していた。
 両親のことが少なからずストレスになっているだろうけど、それが少しでも解消できたなら俺としても嬉しい。
 俺は逃げてしまったあの家で、弟は少なくてもあと3年間は過ごすわけか。
(───すげー…疲れそう)
 大丈夫か? アイツ。
 と、ちょっと心配になる。
(高校卒業したら、こっち来ないかな。そしたら俺も面白い)
 まぁ、ヤツのすぐ次の試練は高校受験だ。両親のことなど気にせずにがんばって欲しい。








 1週間後。
 玄関を開けると、弟が立っていた。褒めるべきかどうか、今度は上着を着ている。
 けど、今日は笑ってなかった。
「泊めてくんない?」
 その表情には明らかな影。無理矢理笑おうとするのが分かって、俺は歯を食いしばった。
「───っ」
 ブチ切れたね。
(ああ、もうダメか)と思うと同時に(ふざけんな)と思った。ハッカを口にした後のような空気が胸にいっぱいになる。
 次の行動は感情任せだ。俺は弟に返事はせず、部屋の中に戻った。電話を取る。短縮ナンバーは00。
 3回のコールの後、俺は涙が出る程の声量で怒鳴った。
「いい加減にしろ!。もういいッ、健太郎は俺が育てる!」
 受話器を投げ捨て、振り返ると今度は弟に怒鳴った。
「おまえは今から受験校探せ。この圏内で! ネットでも結構でてるからっ。足も使え! 下見でも何でも行ってこい!」
「は…? 兄貴?」
「もう家のことで我慢なんかするなっ。ここで暮らせ! おまえがよくても俺が嫌だ!」
 受験という人生の岐路に立つ子供に、それ以外の心労を本人達が与えるなんて、ふざけるなだ。
 これは怒りじゃない。
 子供のことを考えられない両親に怒ってるんじゃない。
 ただ、情けないのだ。涙する程に。
 自分を育ててくれた親を蔑むなんて、誰だって嫌だ。できるなら尊敬させて欲しい。素直に感謝をしたい。
 そういう気持ちを裏切られるのは本当に辛いから。
 そういう場所に、弟を置いておきたくなかった。
「おまえが一人前になるまで俺が育ててやるッ。おまえはおまえがやりたいことで一人前になってみせろ。わかったな!」
 弟は面食らった表情で声が出せないようだが、目と口を開けて笑って見せた。よしっ、と俺はガッツポーズを取る。
 今夜、また、実家に電話しよう。多分、電話にでた父親は、俺の台詞を本気で捉えてないだろうし、説明が必要だ。それに落ち着いたら実家へ顔を見せに行こう。話し合いが必要だろう。
 弟の学校関係の手続きや受験準備。忙しくなるな。それに。
 冬休みの続きで、弟には教えたいことが沢山あるんだ。
「おい、健太郎ー。メシ、食いに行くぞー」
 まずは腹ごしらえだ。







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