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25話「水の中の月 後編」


『おまえのことも嫌いだ』
 昔。幼い頃。
 目の前でそう言われたことがある。
 揺るぎの無い声。
 言葉だけじゃない、体全身で表した剥き出しの敵意。
 あからさまな迷いのない意志表現。
 不思議に思った。あの子とは言葉を交わしたことさえ、ほとんど無かったから。
 当時の私には誰かとつるむという思想も常識も無かったから、いつも一人で居た。ほとんど声を出さなかった。同じ家に住む兄と顔を合わせたくなくて、いつも部屋に篭っていた。
 だからあの子とすれ違ったことも、数えるほどしかない。
 だから、「嫌い」という、特別な感情を向けられるなんて思ってもみなかった。
『そう』
 と、私は答えたと思う。
 黒猫を抱く腕に、力を込めて。






 史緒は先程までベッド代りにしていた黄色いソファに座り直し、うつむき、頭が眠気から覚めるまでの心地よい時間を漂っていた。
 体に巻きつけた毛布を剥がせないでいるのは室内が寒いからだ。着ている服が昨日のままなのは、着替えもせずに寝てしまったから。
 三佳はついさっき帰ってきて、今はキッチンで何やら物音をたてている。その音はとても遠くで聞こえていた。
「……」
 夢に見ていたわけではない。でも史緒は今、昔のことを思い出していた。
 おまえのことも嫌いだ
 そう、言われたときのことを。
 あの子がどんな表情でその言葉を吐いたのか、今も思い出せる。
 声に迷いは無かったけど、震える腕と膝。
 おまえのことも嫌いだ。
 そう言われたとき。…あのときの気持ちを、何と言うのだろう?
 肺が固まって、ぎこちない伸縮を繰り返しているような息苦しさ。喉の奥にポケットができて、そこに唾が溜まっていくような気持ち悪さ。ネコを抱き締めたときの安心感。
 史緒は寝起きで乱れている髪を右手で抄いた。その一房を指先に絡ませて、ずいぶんと伸びた黒髪を見つめる。
(どうして突然昔のことを思い出したのかしら?)
 その答えはすぐに分かった。
 三高祥子の顔が脳裏を過ぎる。史緒に面と向かって「嫌い」と言った2人目の人物。
 祥子に嫌われるのは全く構わなかった。それは計算上のことでもあったから。
 そして数日前、祥子は耐えられなくなったのか出て行ってしまった。
 きっと戻らない。
 昔、あの子も、史緒の前から去っていった。
「史緒っ! 早く起きろ、朝ごはん」
 キッチンから三佳の声が掛かった。
 テーブルに置いてあった料理を温めてくれたらしい。いい匂いがした。史緒は軽く頭を振って、ゆっくり立ち上がった。
「…食べる」
「食べるのは当たり前。早く食え」
「はーい…」
 働ききらない頭をどうにか支えて、史緒はソファから立ち上がる。
 そのとき襟元のボタンがいくつか外れていることに気がついた。寝る前に息苦しいので自分で外したのを覚えている。史緒はそれをきっちり掛け直した。またすぐに着替えると判っていても。




*  *  *

 東京都O区。
 工業団地の片隅にその企業は自社ビルを持つ。
 鰍i.S.S.
 中堅の機械メーカーで、主に開発技術の提携・サポートを行う。取引先の中には名の知れた企業も多く、最先端技術の開発にも参入し業績と実績を伸ばしていた。
 戦後の日本を支えた町工場がそのまま成長した形であり、表舞台に出ることはないが、今も日本の技術を支える数ある軸のひとつだ。
 そのエントランスホール、大きな自動ドアを、三高祥子はくぐった。
 すると、受付の女性がすぐに反応し、椅子から腰を浮かせ、手を組み丁寧に頭を下げた。
「三高さん、こんにちは。いつもお世話になっております」
 その際、祥子の服装をちらりと横目で見る。オフィシャルでない洋装を意外に思ったのだろう。悪気は無いようだが、祥子は少しだけ居心地の悪さを味わった。
(やっぱりスーツで来たほうが良かったかな)
 淡いオレンジのワンピースにジーンズのジャケット。場にそぐわない祥子の格好は必要以上に目立ち、エントランスを行き交うスーツ姿の人々から少しの注目を集めていた。
 それでも気を取り直して、祥子は受付嬢に向かう。
「新居社長と面会したいんですが」
 と申し出ると、受付嬢は「え?」とわずかに目を見開いた。
「申し訳ございませんが、社長は現在会議中でして席を空けることができません。失礼ですが、お約束時間を確認させていただいてよろしいでしょうか…」
 恐縮する受付嬢に祥子は慌てて手を振る。どうやらいつもの仕事だと勘違いされたようだ。
「あ、いいんです。今日はアポ取ってないので、ここで、待たせてもらいたいんです」
 祥子の言葉に、受付嬢は安心したように微笑んだ。
「では応接室へご案内致します」
「いえ、あの…仕事ではないので…。新居社長にお時間いただけるか、聞いてもらえます?」
「承りました。社長へはすぐに通知させていただきますが、会議の終了予定は1時間後です。ご都合よろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「では、お好きな席でお待ちください。ただいまお飲み物をお持ち致します」
 会話の一段落に、祥子は溜め息をついた。



「いっつもそんな服着て、暑くない?」
「露出度高いよりはマシだと思うけど」
 夏にそんな会話をしたことがあった。
 8月の終わり、残暑が厳しい頃。30℃を越す連日の真夏日に茹だっていた頃。そんな日でも、史緒はシルバーリングを喉まで上げるファスナーの、襟足の高い服を着ていた。もちろん半袖だったが、長い髪を下ろしていることもあり首まわりが暑そうだった。
 暑さ故、八つ当たり気味の祥子の台詞に、史緒はしらっと答えた。いつもと同じように、素っ気無い受け答え。史緒は何事もなかったかのように仕事に戻り、祥子は史緒への八つ当たりに自己嫌悪した。その会話はそこで終わって、それきりだった。
 史緒はいつも、襟足の高い服を着ている。
 それに祥子は、史緒が髪を上げているのを見たことが無い。
 ───史緒は煙草が嫌いだ。
「禁煙2ヶ月め…」
 と、木崎健太郎(未成年)が嬉しいのか辛いのか判らない発言をしたのはついこの間のこと。
 A.CO.に入る際に、2つの規定があった。
 ひとつは、無断でメンバーのプライベートを探らないこと。
 もうひとつは、禁煙。

 ───…ああ、やっぱり。
 何故だか祥子は、ひどく納得してしまった。
 誰にでも傷はあるもの。
 心や精神の古傷、癒せずに時間だけが過ぎてしまったもの。手放せない溝。薄く消えない痣。忘れていたつもりでも、ときどき訪れる、痛み。その度に必死で忘れようとする記憶。
 たまに、目に見える傷を持つ人もいる。
 初めて史緒と会ったときから、彼女の無表情さが嫌いでたまらなかった。何を言っても傷つかない無神経さが嫌いだった。
 痛みを持たないから通じないのかと思ってた。
 伝えられないもどかしさにイライラしていた。でも違った。
 やっぱり、史緒も傷ついてたんだ。傷ついて、ここまで来た。
 当たり前だけど。傷ついてないなんて思ってないけど。
 体に残る傷痕。
 哀れんでるんじゃない。同情してるんじゃないの。
 ただ、祥子が想像もしなかった痛みを、史緒は知ってるということ。
 そんな当たり前のことに、気付いたというだけのこと。
(史緒のこと、教えてくれる人に会いたい)
 蘭には頼りたくない。誰を訪ねればいい?
 篤志や司じゃなくて、もっと遠くにいる、でも懇意な人間。
 誰?
(───誰?)
「祥子」
 名前を呼ばれてはっとした。顔をあげる。
 ロビーを横切り、近寄る人影がある。白髪で痩せ型、スーツ姿の老人。杖をついているが不安定さはなく、ゆっくりと歩いてくる。
 新居誠志郎、63歳。この会社の代表取締役社長である。
 祥子はソファから立ちあがり、頭を下げた。
「すみません、突然に。…あの、聞きたいことがあって」
 無礼は承知している。現在、夜8時。新居はまだ働いている時間だと知っているけど。
 新居は仕事には厳しい。過去、少なからず怒鳴られたことがある。(しかし、新居の専属運転手の証言によると、祥子は甘やかされている部類に入るらしい)
 だから今日は叱られることを覚悟で祥子はここまで来た。しかし。
「いいよ。こちらも話があったんだ」
 と、新居は祥子の向かいに腰掛けた。隣りに杖を立てかけ、祥子にも座るように示すと、新居は足を組んで一度嘆息した。
 すぐさま受付の女性が日本茶を持ってきた。新居は軽く頷きそれを礼とした。
 それを一口、口に含むと、
「A.CO.辞めたって?」
 と、唐突に何気なしに言う。
 は? と祥子は眉をひそめた。
「誰に聞いたんですか」
 ちょっと…いやかなり、情報が早すぎるのではないか?
 そして新居はあっさり答えた。
「阿達だよ。5日前」
 ぴく、と祥子の顔がひきつる。一瞬で、史緒への怒りが再来した。こぶしを握り締める。
 5日前と言ったら、祥子がA.CO.を飛び出した日だ。その日のうちに史緒は新居へ連絡を入れたことになる。
(ちょっとそれって早すぎない? そりゃ、一方的に辞めるなんて言ったのは私だけど、史緒は私に謝ろうとか少しも考えなかったってこと? 史緒が謝ったら私が考え直すとか思わなかったの?)
 と、祥子は勝手なことを考えた。
「こらこら」新居は祥子の怒りを見て取り、諭した。「本当なら、辞める前に祥子が私へ挨拶に来るべきところだ。阿達を恨むのは筋違いだよ」
 うっ、と祥子は喉を詰まらせる。
「今日、その挨拶に来てくれたのなら嬉しいが、別件なんだろう?」
「…すみません」
 祥子は身を小さくさせた。
 新居の言ったことは正しくて、常識でさえある。祥子は自分の非常識さに自己嫌悪し、史緒のフォローに感心した。
「阿達のところ辞めるなら、うちにおいで」
「は?」
「高校は卒業だろう? 祥子にその気があるなら雇うよ」
 突然の申し出に祥子はパニックして、慌てて新居の言葉を遮った。
「あの…、私、今日はそういう話をしに来たわけじゃ…」
「今日でも後でもいい。現実問題は避けて考えられない」
「───」
 現実問題。確かに、感情論を抜いて考えればそこに詰まれるのは金銭的な問題が多くを占める。祥子には生活費の宛てが無いわけだから、こんな風に迷っている場合では無いのだ。本当は。
「仕事の駒として、祥子は戦力になる。それ以上の仕事は要求しないし、その報酬以外に私が与えられるものは何もない。阿達からもらっていたのは報酬だけかい? ───よく考えなさい」
 低い声でゆっくりと語られる新居の言葉は、自然にすんなりと祥子の胸に届く。だからすぐに解ってしまった。新居の、言いたいこと。
 すんなりと胸に届いたけれど、素直に受け止めることができず、祥子は失笑した。
「新居さんも…、結局、史緒を庇うんですか」
 かなり卑屈な言い方になってしまった。もう言葉になってしまったから取り消しはできない。
「そうじゃないよ。阿達が君の譲れないものを傷つけたなら、阿達が謝るべきだ」
 新居は穏やかに言う。
「手順を間違えるな。傷つけられたからといってその場所を離れてしまったら、祥子はもっとたくさんのものを失う。より良い関係になりたいなら、阿達を謝らせるほうへ努力しなさい。阿達のほうも祥子と出会って成長してるはずだ」
「…いい関係になんて、なりたくありません」
「それは嘘だ」
「───」
 祥子の不安定な発言は一言で撃沈されてしまった。
 祥子は言葉を失う。
 新居の言う通り、A.CO.に居たメリットは賃金だけじゃない。言葉で表せるもの、表せないもの、沢山あったと思う。いくつかの喧嘩もあったし、楽しいこともあった。何よりA.CO.のメンバーは全員、祥子の能力を受け入れている。そしてその環境が、たった1年で祥子を大きく変えた。
 どうしても気に入らないことは意見してきたし、譲れないことは納得するまで言い合ってきた。
 今まで、こんな風に自分を置ける場所があっただろうか。
 初めて、仲間と呼べる人達と出会った。
 たまに、皆の普段見せない面を知ると辛くもあったし、一方で嬉しくもあった。感情を表に見せるのは付き合いが長い証拠だ。あの史緒だって一面しか見せないわけじゃない。彼女の気まぐれな優しさに、たじろいだりもした。
(───あれ)
 そこまで考えて、祥子はある予感に思い立った。
「…新居さん」
「ん?」
「さっき、うちにおいで≠チて、言いましたよね」
「ああ」
「もしかしてそれ、史緒が言い出したんじゃありませんか? ───史緒が、新居さんにお願いしたんじゃないですか?」
 声が震えた。言っている途中で、自分の言葉に確信が湧いてきて、自然と語尾が強くなった。
 根拠はなかった。
 ただ、史緒はやりそう、と思い立っただけだ。それだけなのに、この確信めいた自信はなんだろう。
「察しがいいね」
 新居は祥子を誉めた。
「はっきり言ってくださいっ」
「口止めされてるから、イエスとは答えられないんだ」
 ガタンッ
 祥子はソファから立ち上がっていた。
「───馬鹿みたい…っ」
 震える声で祥子は吐き捨てた。新居の前だったが別に構わなかった。
「誰が? 私がかい?」
 新居は優しい声で尋ねる。
「史緒です…っ」
 本当に、馬鹿みたいだ。
 史緒も。そして私も。
 史緒は祥子が事務所を飛び出した後、新居のところに手を回していた。祥子がA.CO.を辞めても経済的に困ることが無いように。祥子がこのちからの使い道を失うことが無いように。
 いつもと同じ、裏で手を回していた。
(何なのよ、もう…!)
 目の前に史緒が居たら、殴っていたかもしれない。史緒への怒りを込めて。
 だって私は言葉を知らない。
(言ったって通じないのよっ! 史緒にはっ!)
 ───どんな言葉をぶつけても、きっと史緒には半分も伝わらない。理解してもらえない。そんな気がする。
 いつもそれが歯痒かった。
 解ってもらえない歯痒さが、史緒への憤りとなっていた。
 ねぇ、どうして解らない?
 私はあんたの性格の悪さをよく知ってる。───でもそれを責めてるんじゃない。
 史緒の性格の悪さを責めてるんじゃない。
 わかる? それを責めてるんじゃないの。
(どうして史緒は、他人を信用できないんだろう)
 思い通りにしたいとき、誰も知らないところで動いて、裏で画策しなければやれないんだろう。
 どうして他人を頼れないんだろう。どうして直接伝えられないんだろう。
 史緒の願いを聞いて、史緒のために動いてくれる人もいるのに。
「で、祥子は何が聞きたいって?」
「───」
 新居が優しく尋ねた。
 祥子は顔を上げ、情けない顔を新居に見せる。小さく、呟いた。
「史緒が何考えてるのか、わからないんです」
 実は今日、史緒のことを訊きに新居の所へ来たけど、具体的な質問は何一つ用意していなかった。
 そして今、口にしてみて、ああ自分の訊きたかったのはこれなんだと、初めて理解した。
「何を目的にメンバー集めて、あんな仕事してるのか…史緒が目指すもの、私、知らないんです」
 他の連中は知ってるんだろうか。だから、あの場所に集っているんだろうか。私だけ知らないから、史緒のことを素直に嫌えるんだろうか。
 知ってれば、許容範囲が広がる。挑発するような言葉にいちいち反応して心を痛めずに済むのに。許してあげられるのに。
 知ってれば、史緒の言動も少しは理解できるのに。
「残念ながら、私はその質問に答えられないね」
「それも、口止めされてるの?」
「知らないんだよ、単純に」新居は肩を竦めてみせた。「忘れてないだろうが、私と阿達は単なる取引き相手だ。だから───そうだね、経営者としての阿達のことなら、少しは教えてあげられる」
 祥子は興味深そうに、背筋を伸ばし新居を見た。
「例えば、祥子の失態は上司である阿達のせいになる。それは考えたことがあるか?」
 新居は返事を待たなかった。「それが阿達の立場だ」
「阿達はあの若さで君達の事務所を支えているけど、今までもちろん波風が無かったわけじゃない。多分、君達にそういう面を見せてないだろうが、阿達がA.CO.を設立してからの2年間、危うい取引もあったし、少なからず信用を下げたこともある。
 阿達はそれを最小限に抑えてきた。起こり得るトラブル、派生するエラー、発生するQコスト、工程遅れ、すべて事前にシミュレートして、各項目に対応できる対策を用意しておく。それを自らに課して、実行してきた。───阿達は決して天才じゃない。誰も見ていないところで最大の努力を惜しまない、ただの見栄っ張りだ。わかるかい?」
 祥子は首を横に振ることさえできなかった。新居は二言で言う。
「あのプライドが、すべてを支えている」
 A.CO.の営業、三佳と暮らしてること。あのメンバーで仕事ができること。仕事が成り立つこと。
 皆が、あの場所にいられること。
 史緒の背負うものを初めて実感して、祥子は不安になった。
「わ…わかりません。…そうまでして、史緒が目指すものは何?」
 忘れてるわけじゃない。阿達史緒は今、17歳の未成年なのだ。
 祥子の心中も構わず、突然、新居はくすくすと思い出し笑いをした。
「史緒のこと知ってる人間なら、一人、紹介できるけど。会ってみるかい?」
「え?」
「今、呼ぶから、そいつに同じ質問をしてみるといい」
 と、言うが早いか、新居は懐から携帯電話を取り出し、ボタンを操作を始めている。
「あの…、新居さん?」
 祥子の呼びかけを無視して、目の前で新居は電話を掛け始めた。
「───もしもし、新居だ。…あぁ、久しぶり。ところで、今すぐこっちに来れないか? 紹介したい人間がいる」
 と、久しぶりに話す人物に向かって、おそらく最短で本題を切り出した。
「仕事? 梶に押し付けておけばいいだろう」
 などと言っている。自分の仕事にはとにかく厳しい新居がこんな風に言うなんて、祥子は少々驚いた。
 そして新居はわざとはっきりと、こんなことを言った。
「阿達史緒関連だ、まさか断わらないだろ?」
 相手の人物が何か言っているのが祥子にも聞こえた。
「今、丸の内にいるなら1時間あれば来れるな? じゃあ」
 と、一方的に電話を切ったようだ。
「…新居さん?」
 電話を切ると同時に立ち上がった新居に、祥子は慌てて声をかけた。
「私は一度仕事に戻る。彼が来たら紹介くらいはするから、祥子も適当に暇を潰していなさい」
(彼?)
「誰なんですか?」
「すべて答えるとは限らないが、阿達のことをよく知っている人物であることは確かだ」
 そう言うと新居は杖を持ち、エレベーターの方へ歩き出してしまった。
 残された祥子は予期せぬ展開に戸惑うばかりで、その背中に声をかけることもできない。
 この場合は苦情を言うべきなのか、礼を言うべきなのか。
 一体、どちらだろう。





*  *  *





 呼び出したのは篤志のほうだった。
 蘭としては、それは飛び上がるくらい喜ばしいことなのだが、今日は気分が沈んでいる。
 祥子と最後に会ってから、もう1週間経つ。
「最近、事務所の方へ来ないな」
 と、篤志が優しく語り掛けた。
 2人がいるのは、蘭のアパートの最寄り駅の中にあるレストランである。篤志が気を遣って出向いてくれたのは嬉しいが、蘭はこの辺りの散策があまり進んでいない為、気の利いた店に案内することができなかった。
「祥子について行って辞めることでも考えてるのか?」
「何てこと言うんですか!」
 蘭は大声を出した。篤志はそれを冷静に受け止める。
「冗談じゃありません…っ、───史緒さんの所を離れるなら、日本にいる意味ないです…っ」
 擦れた声で蘭は吐き捨てた。泣いてしまいそうだった。
「祥子さんのことについて、いろいろと喋ってしまいそうだから…。自重してるんです」
 祥子のことについて、史緒を責めることはできない。でもやっぱり祥子には戻って来て欲しい。
 史緒は祥子を必要としているだろうか。…必要としてるに決まってる。ただ、引き止めることができないだけだ。
(諦めないで、史緒さん)
 気遣わないで、追いかけて、その背中を掴まえてほしい。
 欲しいものは欲しいと言って。…そういう意味で史緒は臆病だ。
 どうしていつも、喉に蓋をしてしまうのだろう。
「A.CO.の中で、史緒さんと一番お付き合いが長いのはあたしですけど」苦々しい口調で言う。「でもあたし、史緒さんのこと、知らないことだらけなんですっ」
 ずっとずっと昔からわからないでいること、本当に沢山ある。
 亨さんが死んだ後の史緒さんの変化は何? 笑わなくなって、いつも部屋に閉じこもってた。和くんがいなかったら、きっともっと酷いことになってた。
 史緒さんが櫻さんを嫌うようになったのも同じ頃からだった。確かに櫻さんはちょっと他の人とは違ってて、あたしも苦手だったけど、史緒さんのあの、嫌悪をはるかに通りこしたような態度はどこから来るものなのだろう。恨み…恐怖? そんな風に、あたしには見えた。
 あと。いつからかしら。史緒さんが隣で寝てくれなくなった。一緒にお風呂に入ってくれなくなった。(これはあたしの甘えだけど)亨さんが死んでからじゃないわ、もっと、後だったような気がする。
「…史緒さんは、一人で抱えているものが多すぎます。───昔から一緒にいたのに、史緒さん独りで苦しんでることがあるなんて、あたし、嫌。何か…! 少しでも、…助けになりたいんです」
 訴えるような蘭の言葉を、篤志は黙って聞いていた。
「もうっ、どうして和くんは史緒さんから離れたのかしら。あたし、和くんだったら史緒さんあげてもよかったのにぃ」
 こぶしを握った蘭の力説に、カクン、と篤志はうなだれた。
「…おい」
「なんですかっ?」
 つっこみのつもりだったのに蘭は馬鹿正直に勢い良く訊き返してきた。
「……別にあの2人、付き合ってたとか言うわけじゃないんだろ?」
 うまい場繋ぎ言葉を選べなくて、篤志は自分でも馬鹿らしいと思う質問をした。
「そうなればステキなんですけど。どっちもそういうことに興味無いみたいだから」
 不満そうに、蘭は口を尖らせた。





*  *  *





 適当に暇を潰していろと新居は言ったけど、祥子はそういったことが苦手だった。新居の会社の中をうろつきまわるわけにもいかないし、暗い夜道を散歩するのも気が引ける。結局、そわそわしながらソファに座っているだけで時間をやり過ごした。
(こういうの、蘭と篤志は得意なのよね…)
 得意、というより、アレだ。
 こういう状況を楽しめる性格。
 蘭と篤志は例え1時間待たされても苦痛を感じないだろう。人間観察が楽しいらしく、飽きもせず周囲の風景を見ている。祥子ならイライラしてしまうところを、あの2人は嬉々として時間を過ごすに違いない。
(健太郎は大抵、持参してるし)
 彼はどこへ行くにも、何かしら暇つぶしの道具を持って出かける。主にパソコン関係の雑誌だが、たまにオートバイのカタログや数字系のパズル本を持っている。
(三佳と司は思考遊び…)
 別々に行動するほうが少ない2人だが、この2人は一緒にいても言葉数が少ないときがある。無言の相席のときに、何考えてるの? と訊いたら、三佳は「このコーヒーに何を注入したら無害のまま青くできるか」と答えた。司の回答は「東京タワーから発せられる電波は、最低いくつの中継局を介せば地球を一周できるか」。これは意味不明なことを言って祥子をからかっているのだ。しかし、そうかというと、ある時など2人でしりとりをしているのを聞いたことがある。祥子はその思考回転にとても付いて行けそうにない。
(史緒は…)
 そこで祥子は悩んでしまった。史緒はどのタイプになるのか、咄嗟に思い付かなかったのだ。思考遊びタイプに当てはめてしまいがちだが、史緒はそういう無駄な…というか、実務実益に伴なわないことはしない気がする。
 う〜ん、とそんなことを考えていたら40分時間が過ぎた。
「失礼」
 と、後ろから声をかけられた。「え?」と祥子は振り返る。
「新居社長と面会中なのは貴女だと伺ったのですが、同席よろしいですか?」
 そこに立っていたのは20代後半と思われる青年だった。
 すらりとした長身に(と言っても篤志よりは低い)濃紺のスーツ、黒の革靴、ネクタイも落ち着いた色で。黒髪短髪、前髪を下ろしている。
「え、…ぁ、はい」
「ありがとうございます」
 返事をすると、青年は祥子に笑顔を向けて下座に腰を降ろした。新居社長が来ることをわかっているのだろう。
(この人が…、新居さんが呼び出した人?)
 若いのに穏やかな雰囲気。でも、場慣れしていると言うか何と言うか、姿勢を崩さない、隙を見せない人だ。
(そして、史緒をよく知っている人…?)
 思わず祥子はその横顔をまじまじと見てしまった。その視線に気付き、青年は祥子に顔を向けた。
 一瞬、目が合う。
「ああ、…三高祥子さんですね」
 と、青年は合点がいったように、ぽん、と手を叩いた。祥子は虚を突かれた。
「はぁ!?」
 どうしてこちらの名前を知っているのだろう。祥子はすっとんきょうな声を上げてしまった。
「はじめまして。一条和成といいます」
 と、そこで初めて、青年の名を知ることができた。名前を聞いても、祥子の記憶に当てはまるものはない。見覚えもない。いやいや、はじめまして、ということは、やはり面識は無いのだろう。
 そのとき、杖の音を響かせて新居誠志郎が現れた。
「やあ、来たね。久しぶり」
 と、青年───一条和成に話し掛ける。一条は即座に立ち上がり、深く頭を下げた。
「お久しぶりです。突然のお呼び出し、感激で涙が出ますよ」
(……)
 この台詞は祥子にも解った。
「皮肉は後で受け付ける。紹介が先だ」
 新居は軽く流した。
 祥子はさらに解らなくなる。この2人はどういう関係なのだろう。
「祥子、こちらは一条和成。アダチグループ総帥の第二秘書だ」
「…は?」
 祥子はまず「アダチグループ」という言葉を理解するのに時間が要った。テレビでたまに耳にすることがある。企業の名前だ、と気付くと、次は「アダチグループ」と「阿達史緒」をつなげるのに、さらに時間が必要になった。…史緒が社長令嬢であることは解っていたつもりだったのに。
 アダチグループ総帥は史緒の父親で、すると一条和成は史緒の父親の秘書ということになる。秘書、というものが具体的にどういった役割を持つのか祥子には想像できなかった。
「一条、彼女は…」
「存じてますよ。三高祥子さん。A.CO.の一人ですね」
 と、一条は新居の言葉を継いだ。新居はニヤリと笑うと冷やかすように言う。
「さすが、阿達のことになると抜け目が無いね」
「誤解を招きそうですから、その発言は撤回してください」
 微かな笑みで言うが、目は笑ってない。険悪になるほどではないが、一条和成はどうやら穏やかなだけではないようだ。新居は嘆息する。
「祥子」
「は…はい」
「一条は昔、阿達の教育係をしていたんだ」
 ぱちくり、と祥子はまばたきをする。教育係? その単語の意味も理解しかねるが、祥子は咄嗟に思いついたことを、そのままはっきりと口にしていた。
「えっ、じゃあ、史緒のあの性格の悪さはあなたのせいなんですかっ」
「───」
 今度は一条が目を丸くする。新居は口端で微少する。少しの沈黙が生まれる。
(あ…)
 祥子はハッと我に返って、災いの元となりそうな口を両手で押さえた。後悔先に立たず。
「す…すみません」
 しかし、一条は視線を反らしたかと思うと、口元を押さえ、くすくすと笑い出した。
 はじめは肩と息だけで笑っていたが、堪えられなかったのか、一条は声を上げて笑い出した。
「あははは、はははは。…それは、司さんや篤志くんからでは聞けない言葉ですね」
 一条が笑ったことにも驚いたが、司と篤志の名前が出たことにも驚いた。司と篤志、そして史緒が、A.CO.設立以前からの知り合いだということは聞いてる。篤志は史緒の遠縁だということも聞いたことがある。しかしだからといって彼らと一条和成がどう繋がってくるのか、祥子は解らないでいた。
「一条」
「はい」
「彼女は今、A.CO.を辞めようかどうかで悩んでいる。その判断材料として阿達のことを訊きたいそうだ。許す範囲で答えてやってくれないか」
「…了解しました」
 その後、どこで話をするかという相談になり、和成が知っている店を紹介すると申し出た。しかし説明を聞いてると高級レストランかバーにでも連れて行かれそうな雰囲気だったので、祥子は丁重かつ迅速に断わった。結局、新居の案で、祥子の家まで一条の車で送ってもらい、その道中に話をすることに決まった。
 新居と別れる際、祥子は改まってもう一つだけ、新居に質問をした。
「新居さんって…史緒とどういう関係なんですか?」
 ただの取引相手ではない、他にもっと別の関係があると祥子は気付いていた。
「いい質問だ」
 ぴん、と人差し指を立たせ、新居は笑う。
 祥子が自分の進路を決めたとき教えるよ、と新居は笑った。
 それが祥子には歯痒い。
(知らないことばかりなんだ、私は)





 新居の会社を出たとき、すでに9時を回っていた。暗く人気の無い工業団地を抜けて、和成が運転する車は大通りへと入る。助手席に座る三高祥子は、はじめのうち身を固くさせていたが、この頃には緊張がほぐれたようだった。
 この時間帯なら車通りはまだ多い。祥子の家までは(祥子の住所も、実は暗記している)1時間はかかるだろう。和成は車内のデジタル時計をちらりと一瞥した。
「最初に断っておきますが」和成は口にする。「質問の内容によっては黙秘しますよ」
 対外用の柔らかい口調で、きつく響かないように言う。
「はい」
 全部答えてもらえるとは思ってない、とでも言いたいような態度で祥子は答えた。
 和成は口元で笑う。
 阿達史緒が経営するA.Co.に、所員が6人いるのは知っている。和成はそれら全員の調査資料を持っていた。メンバーのうち3人は和成もよく知る人物。川口蘭、関谷篤志、七瀬司だ。彼らに続く古参メンバーの島田三佳にも、かなり前になるが一度会ったことがある。最近、新しく加わったという男子高校生は最近やっと資料を手にした。そして三高祥子。
 彼女が今、同じ車に乗っていることの巡り合わせに、和成は笑ったのだ。
「史緒の教育係って…、いつからですか?」
 と、遠慮がちに祥子が尋ねる。これは史緒についての質問ではなく、和成への質問なので、黙秘するかどうか考える必要はなかった。
「史緒さんが7歳の時なので…もう10年ですね。蘭さんは既に阿達家に出入りしていましたが、司さんと篤志はまだ居ませんでした」
「史緒には、具体的には何を教えてたんですか?」
「……。史緒さんが留学してたというのは聞いてますか?」
「ええ」
「それ以外で、史緒さんが学校へ通ったことは一度もありません。ですから、文字の読み書きや外国語、九九から微積、地理歴史や一般教養を私がお教えしました。…そうですね、人間関係を教えたことはありませんでしたから、そういう面で性格が悪い≠ニ評されても仕方ないところがあるんだと思います」
「…」
 でも、と和成は苦笑する。
「以前の史緒さんを知る人なら、私を誉めてくれると思いますよ。手が付けられないくらいの問題児を、あそこまで更正させたんですから」
 わざと誤解をまねくような言い方をしてみた。冗談めかした口調で言ったのでそれは祥子にも伝わり、興味を持たせたようだった。祥子は和成に顔を向けた。和成は運転中なので前を向いたまま、横目でそれを見止めた。
「あの、史緒って、どんな子供だったんですか?」
 どんな子供だったと想像しただろう。実際を見てきた和成は、実際以外の史緒の幼少時代を想像することができない。
 和成は史緒のことをべらべら喋る気はさらさら無い。しかし史緒について「性格が悪い」と言った祥子に、そう言わせるまでに史緒と打ち解けた彼女に、自分が知っている史緒を伝えたいと思った。
「さっきも言いましたが、私が初めてお会いした史緒さんは7歳でした。その時の第一印象はこうでしたよ」
「この子はどこかおかしいんじゃないか」
「…え?」
「いつも何かに怯えているような挙動で、少しの物音にも敏感に反応して、無口。1日中、部屋に篭っていて、たまに爆発したように泣いて。…月に一度、遊びに来る蘭さんにはぎこちない笑いを見せていましたが」
「───」
「典型的なヒステリー症状ですね」
 しかし史緒のそれは生まれつきではない。
 和成が阿達家へ来る少し前に、史緒の兄である阿達亨が亡くなっていることは知ってる。(それだけだろうか?)和成は詳細を知らない。
「…そんな史緒さんをどうにかしろ、と、史緒さんの父親が私を雇ったわけです」
 ちょうど信号で止まったので、和成は祥子に微笑みかけた。祥子は膝の上で組んだ両手に目を伏せて、黙っている。もしかしたら史緒の過去がショックだったのかもしれない。さすがに今日会ったばかりの10代女性の思考は読めないので、和成は祥子の心中を追うのを諦めた。
 今日、祥子と会ったことによる一番の収穫は、史緒の身近に史緒を「嫌い」と言う人間が居ると知ったことだ。そう言いながらも近くにいる仲間を、史緒は持っている。
「あの」
 祥子の視線が動く。車は動き始め、和成は再び思考の数パーセントを運転に傾ける。
「史緒って…、小さい頃、親子仲、悪かった、とか、あります?」
「難しい質問ですね。ご存知の通り、史緒さんの父親はアダチの社長です。月一に会うか会わないかという状態でしたから、仲が良い悪いという以前の問題です。母親とも、悪くはありませんでした」
 冷静にそう答えながらも、和成は微かな警戒心を抱く。わざと話題を反らせるような、遠回しな質問。
 祥子は一体、何を訊きたいのだろう?
「じゃあ…、史緒の身近で、煙草を吸う人、いました?」
(…あぁ)
 和成は祥子の意図を理解した。
「アレを見たんですね?」
「やっぱり、知ってるんですね?」
「それは勿論。私の目の前で起きたことでしたから」
「一体誰が…」
「それは黙秘です」
「…」
「でも、今、史緒さんの周囲にはいません」
「…蘭たちも知ってるの?」
「蘭さんは多分知らないでしょう。それを気付かせる史緒さんではありません。そして司さん、篤志くんも知らないと思います。…ああ、でも、もしかしたら三佳さんはご存知かもしれませんね。史緒さんと一緒に暮らしているんですから」
 祥子にはそう答えたが、和成にはある確信がある。
 それは、蘭や司はともかく、篤志は史緒の火傷を知らないと断言できることだ。
(篤志が火傷を見たら、篤志は間違いなく自分を殴りに来るだろう)
 和成は篤志と仲が良いわけではない。どちらかと言えば、悪いほうだ。それに、史緒、蘭、司に比べれば付き合いも短い。───それでも、そう言い切れるだけの確信があった。
「あまり気にしないほうがいいですよ。現に当人は、今では全く気にしてません」
「でも隠してるわ」
「同情を買いたくないだけです」
 まるでたたみ込むように和成が返答するので、再び祥子は黙り込んでしまった。少し大人げなかったか、と和成は思う。初対面の女性に対して少々乱暴な受け答えだったかもしれない。普段は秘書という職業柄、あまり感情を表情に出さないのだが、どうやら調子が狂ってしまっている気がする。話題の内容が阿達史緒についてだからかもしれない。
「史緒は、何を目指してるんでしょうか…」
 祥子は次の質問を訊いてきた。「何を目的にA.CO.をつくって、人を集めているのか、…私、わからないんです」
「そうですね、史緒さんがそういったものを口にしたのは聞いたことがありません。でも、A.CO.設立以前、史緒さんが阿達の家を出る前。史緒さんの目的は、アダチから逃れることでした」
「どうして?」
「2年前、アダチグループの継承権を持つ方が、事故で亡くなりましてね。次候補…つまり史緒さんにお鉢が回ってきました。…長い話なので手短にまとめると、楽しくも無い継承騒動に篤志くんが巻き込まれ、それに猛烈に腹を立てた史緒さんが、篤志くんと司さんを連れて家を出た。直後、A.CO.を設立、今に至る、というわけです。
 そこで、史緒さんのアダチから逃れるという目的は達成させられたわけです。…いえ、実際はまだ解決していないので逃げ続けているわけですが、でも一段落したと言ってもいいでしょう」
「…じゃあ、今の目的は」
 祥子の台詞は質問ではなく、自身に投げかける疑問のようにも響いた。
 和成は答えない。
 三高さんの将来の目標は何ですか? 和成はそう尋ねたかったがやめた。やめた理由は、初対面の女性に説教する気になれなかったからだ。
 誰もが確固たる目的を持っているわけではない。史緒が何か、大きなものを目指していると思っているなら、それは祥子の買いかぶりだ。
 史緒が何を目的としているか。それは祥子や他の仲間達は知る必要は無い。ただ史緒がそれに対し、もがき、努力するだけのこと。
 祥子が判断すべきことは、史緒のことなどでは無く、祥子が望むものがA.CO.にあるかどうか。それだけだろうに。
「…」
 祥子からの質問も途切れたので、和成は昔の史緒について少し話をした。当たり障りの無いことばかりだったが、祥子はそれを興味深く聞いて、笑ったり驚いたりしていた。
 最後に車から降りる際、祥子は尋ねた。
「ひとつだけ」
「はい」
「史緒に火傷させた人…、史緒はその人のことを嫌いだったんですか?」
 その問いに和成は苦笑する。遠い昔を思い出して。
「…他人を憎むというのは、ああいうことを言うんでしょうね」
 小さなからだが含んでいた憎悪は、もう欠片も無い。それを消し去ってくれたのは、後に史緒が欲し、手にした仲間達だ。和成には、できなかったことだ。
 そして和成は祥子に笑顔を見せた。
「史緒さんに会いましたら宜しくお伝えください」




*  *  *


 朝にふと思い出したことは、なかなか忘れることができなかった。
 夜、自室のベッドの上に寝転んで、史緒はまた昔のことを考えていた。
〈おまえのことも嫌いだ〉
 今も耳に残る言葉。
 たったあれだけの台詞に不安になるなんて、私も子供だったということだろう。
 あの子───彼の精神がギリギリまで追いつめられていることは伝わっていた。膨れ上がるストレスに潰されそうになっていたことも知ってる。彼も私と同じ、「あの人」に追いつめられていた。
 彼は言わずにはいられなかったんだ。
 自分の苛立ちを言葉にせずにはいられなかった。肺に溜まるくすんだ酸素を吐かずにはいられなかった。感情を外にぶつけなければ、彼は立っていられなかったんだ。
 そんな息の仕方もあるのだと、ある意味感心した。
 自分にとっては、黒猫を抱くことがそうであったように。
(祥子にとって私はそういう対象に成り得たかしら?)
 と、考える。
 好きでも嫌いでもいい。執着する対象がいれば生きる意志が生まれる。それの為に生きられる。
 この1年、祥子が私に嫌悪感を抱いていたことは、彼女の何らかのバネになっているはずだ。
 …昔の私はネコがいたから、独りで立っていられた。誰にも弱音を吐かずにいられたんだ。
 ネコが死んだ後、色々あって実家を出るとき、篤志と司に一緒に来て欲しいと頭を下げた。あんな風に他人を頼るのは初めてだった。
 例えば篤志が、A.CO.を離れたいと言ったら、私は引き止めるだろうか。
 一緒にいて欲しいと、頭を下げるだろうか。
(興味深いわ)
 そのとき自分はどんな行動を取るのだろう。
 ───もしかしたら私は自惚れてるのかもしれない。
 篤志と司はここから離れていかないと、過信してるのかもしれない。
 今までたくさん無茶言ってきたけど、それでも、篤志と司の望む生活がここにあるんだと思ってた。あの2人が何を考え、どんな未来を目指してるかは知らない。でも彼らは自らの意志で、ここに居てくれてるのかと思ってた。
 三佳も。蘭や健太郎も。そして…。
 史緒は仰向けのまま目を閉じた。
(…)
 時々、自分の目的は何だったかと考える。
 忘れてない。いつもこの胸にあるのに。
 心配になるのは、この目的があまりにも些細なことだからだ。
〈私には史緒がなにしたいのかわかんない。どんなポリシー持って、何を目指してるのか。そういうの、話してくれる気もないんでしょ?〉
 先日、祥子に言われたことを思い出した。
 祥子じゃなくても、誰にも話したことはないの。これは。
〈あんたはいっつも、本気じゃないもの〉
 そして祥子は、背中を見せた。
 周りに見せないくらい、私は本気なのよ。
(…私は、ただ)
 もう何も───…。
 なにも。
「───っ」
 感情に任せて右手のこぶしで壁を叩く。…のを、直前で留まることができた。壁の向こうは三佳の部屋だ。
 でもそうするとこの苛立ちの捌け口が無くて、結局、史緒は乱暴に倒れ込んだ。
(子供なのよ! 私は)
 祥子を追いもせず、こんな風に考え込むなんて。
 目的なんて無いのも同じ。ただ子供のような我が侭を、馬鹿みたいに振り回しているだけ。子供のような我が侭に、全精神とプライドを掛けているだけだ。そしてそれにメンバー全員を巻き込んでいるだけだ。
 この手が傷つくのは構わない。諦める終わりは無い。手を伸ばし続けるだけ。───でも。
 …最近になって、気付いたことがある。
 力ずくでは手に入らないものが、ある。

 おまえのことも嫌いだ
 ───あの時。
 もしかしたら私は、…傷ついていたのかもしれない。
 今、初めて、その結論に至った。
 比喩じゃない。本当に痛いのに、そんな単純な痛みに気付かなかった。
 傷ついていた。
 じゃあ、今は…?
 祥子は離れてしまった。
 この胸は、痛いだろうか。






 都立佐城高等学校、卒業式───。

 校風が自由な為、普段、私服登校が多い生徒達もこの日ばかりは全員制服着用になる。見慣れたはずの風景が、少し新鮮に感じるのは、そのせいだ。黒の学生服と、紺のセーラー服。3年生が体育館へ移動する時間、廊下は黒と紺の生徒達で埋まり、長い列ができていた。
 高校生活最後の日、皆どこか明るいのは気が昂ぶっているからで、まだ式の前だし、別れの悲しみをうまく表に出せないからだ。写真を撮り合ったり、小突いたり肩を叩くというようなスキンシップも、その反動だと言える。
 大河原太郎はそんな光景のなかをとくに感慨もなく歩いていたとき、後ろから声をかけられた。
「大河原くん」
「おう」
 と、気軽に振り返ってから、大河原は目を見開いた。自分を呼び止めたのが三高祥子だったからだ。彼女とは2年間同じクラスだったが、これが初めての経験だった。
「ちょっと、いい?」
 と、遠慮がちに首を傾げるので、大河原はにやりと笑うと、わずかに腰を屈めおどけて言った。
「では体育館までご一緒しましょうか、姫」
 本当は手を差し出したかったが、祥子は対応に困ってしまうだろう。(ジョークが通じなそう)進行方向を手で示すに留める。
 三高祥子と廊下を歩くのも、ちょっと良い気分かもしれない。



「あの後、健太郎から何か訊いた?」
 と、大河原に尋ねた。
 祥子にとって、この廊下を誰かと並んで歩くなんて初めてのことである。周囲の目を気にして緊張してしまうのは、自意識過剰だろうか。
「あー…」
 大河原は気持ち上を向いて、言葉を選ぶために少し間を置いた。
「三高が健とどんな付き合いかは知らないけど」と、言う。「あいつのことは信用してもいーぜ? 自分が持ってる情報、安く売る奴じゃねーから」
 笑ってはいるが真剣な表情を祥子に向けた。
 祥子はその言葉を理解するのに少しだけ時間が要った。大河原の発言は決して素直ではないが、つまりは祥子が懸念しているような心配はない、ということだ。
 でも大河原と健太郎の付き合いは祥子の知らないところで続くだろうし、その際に共通の知人である祥子の話題が出ないとも限らない。その話題を禁止できないこともわかってる。でもひとつだけ。
 口止めしておきたいことがあった。
「2年の夏のことは、言わないで欲しいの」
「───」
 息を止めたのがわかった。
「…やっぱり、気にしてたんだ?」
 隣りを歩く大河原に顔を覗き込まれ、祥子は目を伏せた。
 すぐに理解してくれてよかった。なんだっけ、などと尋ねられていたら、祥子のほうが返答に詰まっただろう。その名を口にすることはまだできないから。
 大河原は深く息を吸うと、窓の外に目をやり、言った。
「俺、報道志望なんだけど、あのときのことは話題にできないな、情けないけど」
「大河原くん…」
「クラスの中には、直前に仲良くしてた三高について変な噂してる奴らもいるけど、あんまり気にすんな。あいつが三高のこと気に入ってたのは知ってるから」
「…」
 祥子は大河原の言葉を耳に入れないように気を払った。彼女のことを思い出したくなかった。
 そのとき。
「ずるーいっ、タロちゃん! なに、三高さんと喋ってるのっ」
 どーん、と大河原の背中に突進してきた集団があった。
 見ると、クラスメイトの女子数名が大河原と祥子を睨んでいる。
「ちょっと、秘密の話を」
 と、大河原は笑ってみせた。
「なにそれっ」
「ちょっとぉ、それより言うことがあったでしょ」
「あ、そーか。…三高さん!」
 突然、名を呼ばれてびっくりする。
「え…っ、ぁ…はい」
 動揺しているのが丸わかりな返事をした。
 目の前のクラスメイトは、いくつか言葉に迷って、結局照れくさいような表情で目を逸らして言う。
「明日ね、有志で結歌のお墓参りに行こうと思ってるの。……三高さんも、行かない?」
 意外な申し出に祥子は瞬きを忘れた。大河原は目を伏せた。
 他の人はそういう行動を思い付くんだという新鮮な驚きと、どうして私を誘うんだろうという疑問とが行き交いする。
 答えは決まってる。
「まだ、行く気持ちにはなれない。…ごめんなさい」
 でも、誘ってくれたこと、素直に嬉しい。
 祥子が苦い笑顔を見せると、クラスメイトは堪り兼ねたように叫んだ。
「同窓会するからっ! 来てねっ!」
「ありがとう」
 明確な返事はせずに、祥子はお礼だけを言った。
(ほんとに、ありがとう)
 自分の胸に留まり続けるこの記憶は、もう時間との戦いになる。どこまで続くのか、いつ終わるのか、自分にもわからない。でもきっと、それが終わるまで同窓会へも行くなんてできない。だから返事ができなかった。
 祥子のお礼の言葉が意外だったのか、女生徒は目を丸くして、次に照れたように笑った。
「じゃ、抜け駆けしてたタロちゃんは置いて、私たちと一緒に行こ?」
「あ、こら、おまえらー」
「なによ、秘密の話とやらは終わったんでしょ?」
 そんな風に、祥子は強引に腕を引かれて、体育館まで向かうことになった。

 …本当に些細なことだけど。
 他人と語れること。
 笑い合えること。
 涙を見せられること。
 わかり合えること。
 そんな幸せを、私は知ってしまった。
〈昔の史緒さんは孤立してて、誰ともお話しない人でした〉
〈史緒さん、変わったんです…っ。祥子さんや、三佳さんに会ってから〉
〈あのプライドが、すべてを支えている〉
〈そうまでして、史緒が目指すものは何?〉
 ゆっくりと息を吐いて、ゆっくりと息を吸う。
(史緒が今、あの場所を守っているのは、その為なんだ)
(同じ幸せを、史緒も感じているんだ)
 …ああ、そうか。
(史緒も、…蘭の優しさに甘えていただけなんだ)
 そこまで考えるともうどうしようもなくて、祥子は式中、一人、静かに泣いた。

 私を初めて受け入れてくれたのは、2年の夏、一人のクラスメイト。
 次は半年後、街中で思わず声をかけてしまった他人。そしてその仲間たち。
 それから一年、ほとんど一緒にいた。そんな風に誰かと付き合っていたなんて、生まれてから18年、初めてのことだった。
 笑い合えたこと。涙を見せられたこと。伝えられない悔しさに、あんなにまで怒りをぶつけたこと。
 初めてだった。
(…言うだけ言っておこう)
 卒業式終わったら、すぐに。
 史緒のところへ行って、ちゃんと言わなきゃ。自分の気持ち。
 A.CO.に戻れなくても。もう一緒に居られなくても。
 同じ幸せを感じているのに、それなのに無神経で鈍感で他人の気持ちを計れないあの馬鹿に、解らせてやりたくて。本当にもう、殴ってでも伝えたくて。
 伝えたくて。
「あの…、三高先輩っ!」
 卒業式も恙無く終わり、卒業生は退場、廊下で解散になったときのことだった。
「え…?」
 呼ばれ慣れない呼称で呼び止められ、祥子は無意識に振り返る。
 そこには2人の女生徒が並んで立っていた。2人、突つき合いながら、うずうずしていて落ち着きが無い。
「…えっと、…なに?」
 戸惑いながら祥子が尋ねると、片方の女生徒が思い切ったように言った。
「校門のところに、花が来てます」





*  *  *





 2年生の女子生徒二名は異様に舞い上がっていた。「三高先輩と喋っちゃったー」などと言っていたが、その浮かれ様の意味が祥子には分からない。校内において自分が有名人だったことに自覚がないからだ。
「校門のところに、花が来てます」
 それを聞いたとき、祥子の頭の中で真っ先に思い浮かんだ人物がいた。(ばかっ、そんなはずないのに)そう否定しても、咄嗟に浮んだのだからしょうがない。自分のなかのどんな材料を使っても、その人物が思い浮かぶはず無いと思うのに。
 祥子は走り出していた。
 混雑している廊下、その人波を縫って走る。急ぐあまり、昇降口では今日が最後の日だというのに、上履きを下駄箱に戻してしまった。それに気付かないまま、祥子は外へ飛び出した。
 急に視界が広がり青い空が頭上に見えた。ここを出る時に空を見るのは祥子の癖になっていた。今日が最後。もう、ここへは来ない。
 さようなら。
 何かに向かって、祥子は強く、強く心の中で呟く。
 心地良い風が吹いた。それに駆り立てられるように、祥子は再び走り出す。
 花が来てます───
 待っているのは、誰?
 独りになってしまったと思ってた。
 でも今日、花を持って現れたというあなたは、誰?
 期待はしたくない。辛いから。
 祥子は息を削りながら校庭を横切って、門が見える位置に辿り着く。そこで初めて速度を緩め、祥子は苦手科目の点数を見るような思いで覚悟を決めて、顔を上げた。
 該当する人物を探すためにしばらく視線が左右する。でもそんなに時間はかからなかった。
 大きな花束はピンク色の花だった。花の名前はこの位置からでは判らない。例え近くにいても、植物に造詣の浅い(、、)祥子が知っている花とは限らないが。
 その花束を持ち、校門に背をかけている人影があった。───真っ直ぐに視線を上げて、穏やかな表情で、行き交う生徒達を眺めている。
 周囲には帰り際の生徒たちがいて、別れを惜しむ人達の光景があちこちにあって、花束を持っている人もところかしこに見受けられる。それなのに、祥子との間にある存在をすべて無視させて、その人物は祥子の視界に飛び込んできた。
「───…っ」
 祥子は途端に息苦しくなるのを感じた。
 今の状況に置かれて、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか迷った。そんな迷いは、きっと自分が混乱しているせいだ。そして今の自分の正直な気持ちを、祥子は測ることができなかった。
 どうしてここにいるの?
 なにしに来たの?
 私に何を言う気?
 ───それは怖くもある。
 向こうからやってくるなんて、予想外だ。いや、予想外という言葉では済まないくらい、奇行というか慮外というか。
(何考えてるの…?)
 そんな風に真剣に思った一方で、門に立つ人影は、最初に祥子が思い浮かべた人物と実は同じだ。このパラドックスは解明できない。
 辞める宣言をしたときは、もう会うことは無いと思ってた。でもその数日後、祥子は彼女の傷を見てしまった。その後、新居誠志郎や一条和成に会って、彼女の過去を聞いて、彼女の背負っているものを聞いて。
(私は───…)
 門前に立つ人物は祥子に気付いて、顔を向けた。
 軽く、手を振った。
「……」
 祥子は混乱したまま、ゆっくりと歩み寄る。
 立ち止まってから、自然と彼女の首筋に目をやってしまって、祥子は慌てて視線を逸らした。彼女はいつも通り、襟足の高い服を着て、長い黒髪が肩に落ちていた。
「三高祥子って知ってる? って訊いたら、大はしゃぎで呼んできます≠セって」
 彼女───阿達史緒は、世間話をするような何気なさと気軽さで、…実際、世間話を口にした。
「後輩? 人気者なのね」
 久しぶりに聞く史緒の声は本当にいつも通りで、祥子は憎たらしささえ覚えた。自分はこんなにも、動揺しているというのに。
 すぃ、と史緒は祥子に花束を向ける。「卒業おめでとう」
 自然に、史緒は言った。
「───」
 水を打ったように、胸が静かになった。何もかも忘れて、素直に、たった今発せられた史緒の言葉を受け取ることができた。
 ピンクのチューリップの花束。…そういえば、花束を貰ったのは生まれて初めてだ。
 祥子が花束を受け取ったのを確認して史緒は手を引っ込めて、
「生きている人間に花を贈るなんて、生まれて初めてだわ」
 と、溜め息をついて言う。真顔で史緒が言うので、祥子は笑ってしまった。
「…縁起でもない台詞」
「そうかしら?」
 さらに真顔で、肩をすくめて言う。
 その後、会話が途切れた。祥子はその沈黙を気まずく感じたが、史緒のほうは学校という場所が珍しいようで、通り行く生徒達を目で追っていた。
(そういえば史緒って、学校行ったことないんだっけ…)
 一条和成が言っていたことを思い出す。史緒の視線につられて、祥子も学校の建物へ目をやった。
 校舎から吐き出されてくる生徒達の顔を、祥子はほとんど知らない。卒業生に限っても、祥子の頭の中で名前と顔が一致するのは本当にごく一部だ。この場所へ、3年間も通っていたというのに。
 いつのまにか史緒の視線が祥子に向いていた。
「戻って来て欲しいの」
 史緒はごまかさなかったし、照れ隠しもしなかった。
 本当に真剣に、真摯な表情で深い声を発した。
 祥子が何か反応を返す前に、史緒は続ける。
「蘭を利用してたのは本当。悪いとは思ってる。───でもその件については謝りたくないの」
「…ちょっと!」
 身勝手な発言に祥子は声を荒げた。しかし史緒は視線を反らさずに、続けて言った。
「その負い目を背負ったままでも、私は、今のメンバーでやっていきたいの」
 ───息を吸う。
 自分の言語理解力の無さに呆れる。
 史緒の言葉を理解するのに、本当に、本当に時間が必要だった。
 じんわりと、体中に伝わるのがわかった。
「───…っ」
 祥子は笑いそうになった口元を隠す。
 だって嬉しかった。
 初めて、伝わった、と思った。
 史緒の裏のない素直な行動がこんなにも嬉しいのは、史緒のいつもの言動があまりにもひねくれているからだ。
(そうよ、ひねくれてるのよ、あんたは)
 嬉しくて泣きそうになった。目頭が熱くなって唇が微かに震える。それなのに史緒は無表情のままで、それが悔しくて、祥子は声を抑えて、ゆっくりと息を吸った。
「やっぱり取り消してよ」
 と、力を込めて言う。
「え?」
 そこで初めて史緒は表情を崩して、祥子の意味不明の台詞について訊き返してきた。
「蘭を利用してるって言ったこと」
 祥子は照れ臭くて顔を反らしそうになったが、強引に史緒のほうへ顔を固定する。
 ついさっき、式中に思い立ったことがあった。
 史緒のほうから来てくれたからって、あやふやにしてはいけない。
 ちゃんと口に出して言わなきゃいけない。…自分の、気持ち。
 すぅ、と息を吸う。
「蘭を口実にしなくても、私は、ここにいるから」
 史緒は目を細めて微笑んだ。
「じゃあ、撤回するわ」



「ほら」
 史緒に促され顔を上げる。
「来たわ。暇人たちが」
 史緒の視線の先をたどると、通りの向こうから歩いてくる集団が見えた。
「あ…」
 見知った連中。A.CO.の面々だった。
 川口蘭、木崎健太郎、島田三佳、七瀬司、関谷篤志。
 まず蘭がこちらに気付いて、大きく両手を振った。酷い別れ方をしたままだった蘭の、元気な姿を見て祥子はほっとした。まず、蘭に謝らなきゃいけない。祥子は手を振り返した。
「行きましょう」
 史緒が先を歩く。
「あ、待って、史緒」
 咄嗟に、祥子は史緒の肩を掴んだ。祥子も歩き出す。肩を掴んだまま、追い越すとき、祥子は史緒の耳元で囁いた。
「和くんがよろしく≠チて」
 史緒の足が止まった。
「───…っ」
 ぎこちなく首が動きゆっくりと振り返る。その表情は完全に意を突かれていて、目を見開き、驚きの表情を見せていた。
 祥子はにやりと笑う。
 はっと我に返った史緒は、表情を隠すように口元を押さえた。
 とりあえず、祥子は史緒の意表を突けたことで満足だ。
「確かに伝えたからね」
 わざとらしくそう言うと、史緒を置いて走り出す。
「…っ! 祥子っ、なにやったのっ?」
 背後で史緒の叫び声が聞こえた。その声には、意識しない表情を見せてしまった悔しさが含まれていた。
 祥子はこの些細な勝利に微笑んだ。



「えっ、祥子さん戻って来てくれるんですかっ」
 泣き出しそうな声で、蘭は喜びの悲鳴をあげた。
「うん」
 少しだけ照れながら、蘭に笑いかける。
 はしゃぐ蘭の肩越しに、史緒が穏やかに笑っているのが見えた。
 それが少しだけ悔しくて、祥子は史緒を睨む。
 花束を顔に近づけるといい香りがした。植物の匂いなんて久しぶりかもしれない。
 史緒が向こうで笑っているのが、やっぱり少しだけ悔しくて、祥子は素直じゃない台詞を口にする。
「花に釣られたのよ」





*  *  *





「結果は、史緒が謝る。…意外な結果だけど大穴ってわけじゃないんだよな」
 健太郎が手帳をめくりながら唸った。
「おまえは負けたんだから、大穴も何も関係ないだろ」
「三佳だって、今回は負けだろーがっ」
 険悪になるのは、今回の賭けにおいてこの2人が「負け組」だからだ。
 一方、篤志と司は適度な配当で利益を上げている。蘭は今回の賭けには参加しなかったので欄外。
「今回の騒動はあたしにも責任があります。とても参加なんてできません」
 との言。
 そして今回の賭けのネタは「祥子が辞めるかどうか」では無かった。「どちらが折れるか」だった。──祥子がA.CO.を辞めるという結末は有り得ない、と、全員が一致したのだ。
「…ちょっと待ちなさい、アンタ達」
 一連の会話を聞いて、祥子は低い声を出した。
「いい加減、慣れたら?」
 こういう連中だってことは知ってるでしょ? と史緒が後ろから言う。
「賭けのネタにされたこと怒ってるんじゃないわよ! ───健太郎っ!」
「はい…ッ」
 突然の名指しにびっくりして、そんな返事をしてしまう。振り返ると祥子が恐ろしい形相で睨んでいた。
「あんたは、私が謝るほうに賭けたのよね」
「…あぁ」
 健太郎は祥子の言いたいことを悟り、弱気になって学生鞄で顔を隠した。
「先週、学校へ来て色々言って行ったけど、それは私が謝るように働きかける為だったんでしょ」
「いや、あれは本気本気、…えと、そりゃ少しはそういう意味もあったけど…」
 語尾が小さくなる。
「三佳! あんたもよ」
 ぎくっ、と三佳の表情が揺れる。
「え? 三佳、何かしたの?」
 と司が尋ねるが、三佳は「何でもない」と突っぱねた。
 あの、4階迷い込み事件は、後々考えると都合が良すぎる。史緒のスケジュールを先読みして、三佳が企てたに違いない。(まぁ、実際、それが祥子を考え直させる効果となったのだが)
 勿論、その内容を口にすることなどしないが、三佳に文句くらい言わせてもらおう。
「───篤志と司は、私が折れるほうに賭けたわけね?」
 と、史緒が2人に訊いた。背後では祥子が、健太郎と三佳に何やら喚いていて、蘭がそれを落ち着かせている。
「うん。今回は、付き合いの長さが結果に出たね」
「おまえが選んだ駒を簡単に捨てるわけ無いしな」
 と、司と篤志は当然のように言う。きっと、賭けるときも悩まなかったに違いない。
 健太郎と三佳には気の毒だが、篤志と司の言う通りだ。
 史緒自身、今回の自分の行動について予測できなかったのだから。
「もぉ、それにしても史緒さんのこと嫌い、なんて言うの、祥子さんくらいですよねっ」
 と、蘭が怒っているのか面白がっているのか判断できない勢いで言った。祥子は気まずそうに視線を逸らし、健太郎と篤志は声を立てて笑って、三佳は肩をすくめた。
 史緒はにっこり笑って、蘭の言葉を否定した。
「あら、祥子だけって、わけじゃないのよ」
 え、と蘭が大袈裟に驚く。
「他にもいるんですかっ?」
「ええ。目の前で断言されたわ」
 大昔のことだけど、という史緒の付け足しを蘭は聞いていなかった。
「どこの誰ですかっ? あたし、お会いしたいです!」
 と、怒りを込めて言う。一方、健太郎は史緒の付け足しをしっかり聞いていたようで、
「大昔の悪口覚えてる…って、執念だな、それ」
 と、冷やかすように言う。
「私も気をつけよ」
 と、三佳。
 史緒はそれぞれの反応を面白がっていた。



「ごめん、やっぱり先行ってて」
 と、本日の主役である祥子が言い出した。
「どした?」
「ちょっと寄りたい所があって」
「どこですかぁ?」
「報告がてら、…母の病院」
「あっ、あたしもご一緒したいです! 祥子さんのお母様にお会いしたーい!」
「それなら俺もー。どんな人か見たい」
「じゃあ、揃って行くか? 今まで挨拶もしてなかったし」
「そうだね。三佳は?」
「異論は無い」
 祥子が、「え、ちょっと」と言っている間に話は決まり、結局、全員で祥子の母親のお見舞いに出かけることになった。
「史緒は?」
 と、振られて史緒は首を傾げた。
「…大勢で行ったら迷惑じゃない? 病院だし」
「だいじょーぶですよー。静かにしまーす」
 と、一番はしゃぎ出しそうな蘭が言う。
 結局、史緒は呆れたように溜め息をついて、一番後ろから、皆の後をついて行った。
 空は青く晴れていた。
 こんな大勢で押しかけたら三高和子は驚くだろうか。それとも喜ぶだろうか。
 きっと両方だ。
 その反応を予測し、史緒は口端で笑う。
(…ああ、それに)
 こんな風に7人揃って外を歩くなんて初めてかもしれない。
 それが何故か楽しくて、史緒はひとり笑いながら、6人全員の背中を見て、その後を追った。




 七瀬司はつないでいる三佳の手を軽く引いた。
「なに?」
 と低い位置から声が返る。司は少しだけ腰を屈めて、三佳の顔の高さに向かって小さく囁いた。
「ごめん、ちょっと先行ってて」
 ああ、と、気を遣ってくれたのか小さく短い返事が返った。そして手をほどく。
 三佳の手が消えると、途端に感覚が不安定になった。この慣れない場所で司の頼りは左手の杖だけだ。自然、歩く速度も極端に遅くなる。
 しかし司は目当ての人物が自分より後ろを歩いていると知っていた。
 追いつくその足音を聴く。
 足音が隣りに来たとき、司は呼びかけをした。
「史緒」
 すぐに返事があった。
「なに? 手、貸す?」
「いや。肩借りてもいい?」
「どうぞ」
「どうも」
 史緒の肩の高さは知ってる。司は遠慮がちに、その肩に手をかけた。
 そのまま数歩歩く。史緒が歩く速度を合わせてくれていることがわかった。
 そしてまた数歩。
 このまま無言なのも気まずいので、司はやはり訊くことにした。
「───覚えてたんだな」
「忘れてると思ってた?」
「できれば早く忘れてくれない?」
「お生憎さま。私、自分に対する悪口陰口は一生忘れない性格だから」







25話「水の中の月 後編」  END
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