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24話「水の中の月 前編」


 1999年3月。

 朝。
 A.CO.の事務所に初めにやってくるのは、意外に思われるかもしれないが最年少の島田三佳である。
 欠伸をしながら専用のコーヒーカップと新聞を持ち込む。カーテンと窓を開けて、新聞に目を通す間に一通りの換気を済ませる。気になるようなら簡単に掃除もした。
 この建物の4階に住まう彼女は、起きてから身支度を整えると、朝食を作る。同居人と朝食を食べて、後片付けをして、事務所にやってくる。それが大体8時半のこと。
 三佳が新聞の一面記事を読み終わった頃、2人目が事務所にやってくる。
「3月になっても、まだまだ寒いわね」
 A.CO.の所長であり、三佳の同居人、阿達史緒。ファイリングされた書類とバックアップ用MO一枚を脇に抱えて入ってきた。
「風邪なんかひくなよ。看病が面倒だ」
「お互いさま」
 史緒は専用の机の前に座るとパソコンの電源を入れる。そして今日一日の予定を確認すると、大まかな段取りを組む。そのメモを取りながら、手を休めずに史緒は声をかけた。
「三佳は今日バイトあるんだっけ?」
「ない」
「じゃあ、今日はみんな結構ヒマかな。私は午後出かけるけど、留守番頼める? あと桐生院さんから連絡あったら、対応お願い」
「ああ」
 いつもの事だから、三佳は素っ気無く言葉を返す。三佳が目を通している新聞は、3面目に突入していた。
 普通、新聞を熟読するには中学卒業程度の漢字読解力が必要である。島田三佳は今年で11歳。小学5年生になるが、新聞は勿論、ある分野の専門書を読みこなす頭脳が備わっていた。
 この2人が一緒に暮らし始めてそろそろ2年になる。
「三佳。司の予定、何か聞いてる?」
 七瀬司も事務所のメンバーのひとり。彼は個人主義的なところがあって、自分の行動をいちいち報告しない。スケジュールを知らせるのを仕事だと割り切らせても目立った改善はなかった。三佳と行動するようになって少しは落ち着いたようだが、先に仕事を伝えておかないと突然ふらりと出かけてしまうことがよくある。
「町田へ行くって言ってた」
「そう」
 その場所が示すものを史緒はよく知っていたので軽く流した。三佳も、ある程度は知っているのでそれ以上の説明はしなかった。
 関谷篤志は今日は大学の進級パーティに呼び出されたと言っていた。(篤志は留年したわけだから仲間からの嫌がらせだ)川口蘭は先日中学の卒業式を終えて、今日は入学する高校の寮へ引越し。三高祥子がその手伝いに行っているらしい。木崎健太郎は学校。
 史緒はいつも通り、事務書類の処理に取り掛かる。時々、依頼人や関係機関との電話対応、クレームにおわれることもある。三佳はたいてい本を読んでいるか、自分の仕事をするか、史緒の仕事も手伝ったりした。
 本日は快晴。窓の外は青空が広がっている。気持ち良い天気だが、放射冷却により体感気温はかなり低い。それでも、街路樹の枝先が膨らみを見せ、春が来ていることが感じさせる。
 そんな、穏やかな日のことだった。

 昼時のこと。
 それはたった一本の電話で引き起こされた。
 事件と呼ぶには内輪ごとすぎたが、騒動の始まりは間違いなく、この一本の電話だった。
 電話が鳴った。史緒はパソコンに視線を固定させたまま、慣れた動作で腕を伸ばす。
「はい、A.CO.です…」
 と、言いかけたところ、
「史緒さぁあんっ!!」
 受話器の向こう側から泣き叫ぶような声。
 誰か、はすぐに判った。聞き慣れた声だ。しかし、その人物がこんな悲鳴を出すなんて滅多にない。
 痛々しい声は緊急性を訴えていた。
 史緒はすぐに有事だと察した。
「蘭? どうしたの?」
 史緒は椅子から立ち上がり、すぐに動ける体勢に入る。何事かと三佳も目を見張った。
 電話の声は川口蘭だ。いつも破天荒に明るい彼女が、息を荒くして、泣いているような声で、何事か口走っている。うろたえている。動転している。
「どうしよぉ…あたし…。史緒さん…あたし、大変なこと」
「落ち着いて! 何があったの?」
 史緒は蘭の置かれている状況を察知しようとした。蘭は今日、引越しをしていたのではなかったか。一体、何があったというのだ。
「史緒さん、ごめんなさい…っ、あたし、こんな事になるなんて思わなくて」
「蘭! 落ち着いて説明してっ」
「あの」蘭は叫んだ。「───祥子さんがそちらに向かってます!」
 受話器から漏れた悲痛な叫び声は三佳にも聞こえたようで、史緒と三佳は目を合わせた。
 お互い妙に冷めた目の複雑な表情になる。
「───…は?」
 蘭の意味不明の説明に史緒の緊張していた体から一気に力が抜けた。
(祥子が事務所へ来る…?)
 だからなんだ、と突っ込みたかった。
 祥子は蘭の引越しの手伝いをしていたはずだ。蘭のところから事務所へ向かっているのは状況的に別段おかしくは無い。祥子のその行動の意図は判らないが、蘭は一体何を慌てているのだろう?
 史緒は状況を整理するために一度深呼吸した。しかし、状況を整理するだけの情報が何も無いので整理のしようがない。史緒はこぶしを額に当てた。考え込んだときの癖だ。
「あのね、蘭…」
 と、言いかけたところ、蘭のほうも少しだけ落ち着いた声を返してきた。
「あたしが…、日本へ来た理由を訊かれて…あたし正直に答えました、史緒さんや篤志さんに会うためだって。だってそれが、本当だもの…、それが本心だもん! でもそのとき、史緒さんがあたしにくれた手紙…、日本へ来る前にくれた手紙の、祥子さんの写真を祥子さんに見られちゃって、…尋ねられたから、あたし答えるしかなくて…っ」
「───」
 要領を悪い蘭の説明からでも、史緒は正確に現状を理解した。そして蘭の話の続きを、史緒は見抜くことができた。
「史緒さんにお呼ばれいただいた手紙ですって答えちゃって───」
 蘭が祥子相手に巧い嘘をつけるとは史緒は思ってない。蘭を責めることはできない。
 祥子は、一年前に史緒が何をしたのか気付いただろう。
 それを知った結果、祥子がどんな感情を表すか、容易く想像できる。
 どんな行動を取るか、何となく想像できる。
「祥子さん…、『私を手懐けるために蘭を利用した』って、すごく怒ってるんです…、そちらへ向かってます、…史緒さん、どぉしよう…」
 こんな日が来るとは思っていた。
 史緒はわかっていた。祥子のその台詞は、正しいことを。
〈だって、私は蘭を利用しようとしてるのよ?〉
 一年前、他でもない蘭本人にそう言ったのは自分自身だ。
 祥子がどんな気持ちでここへやってくるか、わかる。そう、いつか、こうなることが判っていた。それなのに史緒は何の善後策も用意していなかった。自分らしくない不精さだと思う。
 史緒はわざとゆっくり息を吸った。
「蘭、状況は判ったわ。あなたは自分の部屋で待機よ」
「そんな…っ」
 蘭の言い分には耳を貸さず、史緒は一方的に電話を切った。そしてすぐに言う。意識的に少し、やわらかい声で。
「三佳、できれば席外してくれない?」
 これからどうなるかなんて、史緒自身、想像もできなかった。


 祥子がノックもしないで事務所のドアを開けたとき、史緒はいつも通りパソコンに向かっていた。
 史緒は事務作業の際にのみ使用する眼鏡を掛けていた。襟を折り返す白いセーターを着ていた。長いストレートの黒髪を肩におろしていた。その髪に隠れているけど、両耳に赤いイヤリングが付いているはずだ。背筋を伸ばした姿勢でキーボードとマウスを操作していて、どんなときも隅々まで神経の行き届いたような崩れない表情。史緒はドアの開く音でその顔を上げると、
「おはよう」
 と、祥子に声をかけた。
 祥子は挨拶を返さなかった。
 ドアを背に立つ祥子の、その延長線上に史緒が座っている。
 教室ほどの広さを持つ事務所には他に誰もいなかった。
 室内の三方にある本棚、書類棚。給湯室へ続くドアと、ベランダへ出られる引き戸。
 中央のソファとテーブル。今は誰もいない。
 まるで初めてここに立つような知らない空気を、祥子は感じた。
 数え切れないくらい、この部屋には来たはずなのに。
 この部屋の中は何か変わったのだろうか。
 それとも、自分の中の何かが変わったのだろうか…。
 つと。
 祥子は無言で歩を進めた。応接用ソファとテーブルの間をくぐり、真っ直ぐに。
 机の前まで歩み寄り、史緒の目の前に立つ。
 意外にも史緒は事務作業に戻らず、祥子の方へ気を向けていた。
 無表情で感情を見せない顔が、祥子を見上げていた。
 その瞳を遠慮無く見下ろした。
「───ねぇ」祥子は言った。「正直に答えて」
 否定を許さない響き。
 史緒は軽く息をつくと、度無しの眼鏡を外した。
「了解」
 と、短く答える。
 それだけで祥子は、既に蘭が、何かしら史緒へ伝えたのだと察した。
 祥子が何しに来たのか、史緒は知っているのだ。
 そうでもなければ、史緒が祥子の言葉を躱さずに受け止めるはず、ないから。
 祥子は今、自分がこの怒りを外へ表していないことにひどく驚いている。
 荒れ狂うような激昂が、今、ここにある。胸の中にある。
 痛い程、胸が騒いでいる。
 痛い、という感覚は不思議だ。痛みは内臓器官の位置を教えてくれる。
 胃の位置、腸の位置、声帯の位置、そして心の位置。
 今日、祥子は自分がA.CO.に居る理由を知った。
 祥子が今日までA.CO.に居られたのは、川口蘭の存在が在ったからだと思っていた。
 性格と根性の悪い阿達史緒、彼女と一緒にいるのが耐えられなくなった頃、蘭と出会った。
 この事務所へやってきた。明るい笑顔を見せて。
 その明るさや、真っ直ぐな笑顔、ひたむきさ、何より祥子を慕ってくれていた。祥子も蘭に惹かれていった。
 でも、川口蘭の登場は阿達史緒が仕組んだものだということを、今日、知った。
 一年前、祥子がA.CO.を辞めたいと思っていた、あの時期に、蘭がここへ来たのは偶然じゃない。
 その結論に至ったときに吐きそうになったのは、決して気のせいじゃない。
「蘭の実家ってどこ?」
「香港」史緒は約束通り正直に答えた。「言っておくけど、それを隠してた覚えはないわよ」
 あなたが勘違いしていただけ、非難される謂れはない、とでも言うような据えた目で、史緒は首を傾けた。
「史緒は蘭と、いつから知り合いだったの?」
「もう10年以上前ね。私が6歳の頃だったから」
「…蘭は香港でしょう? どんな付き合いしてたの?」
「主に手紙ね。文通。それに蘭はよく日本に遊びに来てたの」
「そのときに、蘭は篤志と会ったのね…」
「そうらしいわね。その時、私は日本に居なかったけど」
「篤志と出会ってからも、蘭は香港で暮らしてて、日本へはたまに来る程度だったんでしょう?」
「ええ」
「一年前、蘭がA.CO.へ来たのは篤志の近くにいたいからだって言ってた。それならどうしてもっと早くに、日本へ来なかったんだと思う? どうしてあんな中途半端な時期に来たの?」
 その質問に史緒は答えなかった。ただその表情は、無表情との微妙な境目にある、笑み、に見えた。
 笑っているように見えた。
 祥子は胸を押さえて、込み上げるものを抑えた。
「一年前、蘭をここへ呼んだのは、───…史緒?」
「ええ」
 即答だった。
「私を辞めさせないため…?」
「ええ」
 即答だった。
「私を留まらせるために、蘭を利用したの…?」
「───そうよ」
 口端を持ち上げて、史緒は微笑した。
 祥子は凍りつく。何故、そこで笑う?
 苦しくなって、拳で胸を押さえた。息苦しかった。それが胸をいっぱいにする憤りのせであることはわかっていた。
「…ひどい」
 消えそうなほど小さく吐いた声。
 その声は史緒に届いただろうか。
 祥子は蘭のことを考える。
 ここへ来る前、蘭はどんな場所で、どんな人々に囲まれ、どんな生活をしていたんだろう。
 家族が多いって、聞いたことがある。
 そのときの嬉しそうな表情から、蘭が家族をとても大切にしていることが伺える。きっと友達もたくさんいただろう。学校や毎日歩いていた街、十年以上住んでいた家。
 どんな風景を愛し、どんな人々と触れ合ってきたのだろう。
 それらすべてと別れてまで、蘭は日本へ来た。
 それらすべてを手放してまで、蘭は。
 史緒のため? 冗談じゃない。
(蘭もどうかしてるっ)
 祥子が心の中でそんな風に叫んだときのことだった。 
「どうしてひどいの?」史緒が平然と言った。
「…なんですって?」
「蘭は以前から日本へ来たがっていたから都合が良かったし、祥子はその力を使える場所を探していた、でも勢いで辞めてしまえるくらいにあなたは感情的だったから、ここに落ち着くための存在が必要だったでしょう? それを用意してあげただけ」
「ふざけるな…っ!」
 祥子は胸が張り裂けるのがわかった。爆発して、吐き出した。
「そういう考え方するあんたにもぉ、正直、むかつく。本当にどうしてそう無神経なのっ、誰もが史緒の言う通りになると思ってる? 思い通りに動かせると思ってる? 自分の思った通りになって嬉しい? それで満足なの? それが望んだことなの?」
「変なこと言わないで。思い通りになれば嬉しいし、満足よ。望んだことだわ。当たり前でしょ?」
 史緒があまりにも事も無げに言うので、祥子は言葉を本当に失った。
 伝わらない、と。コミュニケーションの限界を思い知ったとき、人は伝えようとする初志さえ失う。
 スッ、と、頭が冷めて、冴えていくのが判った。
「史緒」
「なぁに?」
「最低」
 ぽつり、と呟いた。口にしたことで改めて実感する。それを噛み締めるように祥子はもう一度繰り返した。
「本当に最低よ…っ!」
 どうしてだろう。一度爆発した胸の熱が収まっていく。
 理由もわからないまま、ある言葉が頭に浮んだ。
(もうだめだ)
 何がだめなのか、漠然としている。


「ねぇ、いつか言ってたわね。本当に憎い相手がいるかって」
「ええ。よく覚えてるわね」
 一月程前、史緒は言ったことがある。
〈祥子は、誰かを憎んだことがある?〉と。〈それに近い感情は、あんたに対して抱いているかもね〉と祥子は答えた。史緒は無視して続けた。
〈本当に許せない、近づくだけで吐き気がして、心臓を握られるような嫌悪感。それから、少しの殺意…〉
 殺意。
 それを聞いたとき、祥子は漠然と理解した。
 史緒には過去、そのような対象となる人間がいたのだ。今は近くにいない誰か。
〈史緒さんは、気に入った人間しか近くに置きません〉
 つい先日、蘭はそう言った。でも。
(違うよ、蘭)
 史緒は誰にも執着してない。誰にも気を許してない。
 今は嫌いな人間がいない。それは本当かもしれない。でもだからこそ、好きな人もいない。
 そうでなければ、利用してる、なんて言えないでしょっ?
 史緒のこと嫌いだった。それは史緒本人や他の仲間にも公言してきたこと。
 でも、今は違う。
「…私は」祥子は声にする。史緒に聞かせるため。
「憎いとか嫌悪感とか、史緒のこと、そう思えない」
「───…」
 予想外の台詞に史緒は驚いたようだった。微かに眉を動かした。
 史緒の表情を動かすことに成功したからと言って、祥子は喜んだりしない。
 もう、だめだから。諦めたから。
「そんな対象にさえ、ならない」
 蘭を利用したことは酷いと思うけど、もう、いい。
 諦めたから。

「…さっき、思い通りになれば嬉しいって言ったけど、史緒の思いってなに? 私には史緒が何したいのかわかんない。どんなポリシー持って、何を目指してるのか。そういうの、話してくれる気もないんでしょ? あんたはいっつも、本気じゃないもの。本気を出さない。───そういうところが嫌い。でも、憎くはないわ」
 穏やか、という表現させ許されるような表情で、祥子は笑った。そんな笑顔を見て、史緒は言葉を失う。
「そんな感情を持てるほど、私、史緒のこと知らない。史緒だって、私のこと信用してない、一年前も今も何も変わってない」
 祥子は最後の呼吸をした。
「もう、一緒にいられない。もう、ここには来ない。…辞める」
 それだけ言うと祥子は史緒を視界から消すために踵を返す。
 振り返らないまま、部屋を後にした。
 ばたん、と静かにドアが閉まった。
 しかしすぐに、もう一度ドアが開いて、廊下で立ち聞きしていたと思われる三佳が顔を覗かせた。
「どうするんだ?」
 声を荒げはしなかったが、内心の動揺がうかがえる様子だった。彼女にしては珍しい。
 史緒は三佳の呼びかけは無視して、溜め息をひとつ。椅子に座り、処理の途中だった書類を机で叩いてまとめた。
 机の3段目の引き出しを開けて、A4サイズの封筒を取り出すとその書類を入れる。両面テープの封をして割印をひとつ押した。それを机の上に置き、今度は壁際の棚に向かって、台帳を取り出し封筒の内容と日付を記入する。
 それをパタンと閉じると、史緒は台帳を戻しながら、三佳に声をかけた。
「三佳」
「何だ」
「朝、言った通り、私、そろそろ出かけるから留守お願い」
「───」
「帰りは遅くなるから、夕食はいらない」
「史緒…っ、祥子のこと」
「三佳が気にする必要はないわ」
 史緒は三佳と視線を合わせなかった。
「私の問題よ。これは」


*  *  *


 蘭は史緒の言いつけを無視してA.CO.に向かっていた。
 祥子に遅れること15分。そのたった15分は、手後れになるには十分な時間だった。
 蘭が月曜館の前を走って通り過ぎたとき、A.CO.の建物から祥子が出てくるのが見えた。
「祥子さん…っ」
 その呼びかけで祥子は顔を上げる。しかし無表情のまま、歩く速度を上げた。そのまま早歩きで蘭の横を音もなく通りすぎた。無視した。
 蘭はめげずにその姿を追う。
「祥子さ…」
「ごめん、蘭。今は何言われても素直に聞けそうもない」
 祥子の横顔が応える。
「祥子さん、どうして怒ってるんですか、あたし、何か…」
「蘭に怒ってるわけじゃないの。───史緒よ」
「どうして史緒さんに怒るの? 史緒さんは悪くないです、あたしが、来たかったから、日本へ来たんです」
 見向きもしないで去る祥子を必死で追いかけて、蘭は訴える。
「あたしは、小さい頃からずっと、史緒さんと一緒に居たいって思ってたんです。史緒さんに必要とされる日を待ってた。祥子さんが、その理由をくれたんです。だから」
「蘭。あなたも多少問題あるけど、史緒が蘭を利用したってことには変わりないじゃない、同じことでしょうっ?」
「だって祥子さんは知らないもの、以前の、史緒さんのこと…っ」
「ええ、知らないわ。…知りたくもないっ」
 もう喋りたくもないというように、祥子はさらに歩く速度を上げた。蘭は追うことを諦め足を止める。祥子を説得できる言葉は思い当たらなかった。
 祥子の後ろ姿を見送らなければならないこの今が、背筋が凍るくらい怖かった。
 怖いほど、悲しかった。
「───…っ」
 蘭はこぶしを胸にあて、自分が泣いてしまう前に叫んだ。「やめないで祥子さんっ!」
 8歩先を歩いていた祥子が振り返る。
「無理よッ!」
 その間、2秒。
 純粋な怒りを含んだ声。すぐに踵を返し、祥子は駅へと足早に去っていった。もう二度と振り返らなかった。
「祥子さん…」
 蘭は力なく呟く。
 ───祥子はここを出て、どこへ向かうのだろうか。

*  *  *

 その日、留年が決定している篤志は、悪友たちの進級パーティに呼び付けられていた。とても分かり易い嫌味だが、こういう名目でもないと関谷篤志を大学へ呼び出すことは困難だ。なので、同級生達はこの機会をここぞとばかりに遠慮無く利用する。篤志は顔見せ程度のつもりで呼び出しに応じたのだが、解放されたのは夜の9時だった。
 そして夜の9時。
 浜松町のアパートへ帰り着いた篤志が、カンカンと音を立てて階段を昇ると、自分の部屋の前に立つ人影が見えた。一番奥のドア、そこに背を預けうつむいている。暗闇の中でも、髪の長い女だということは判った。
 身構えたのは一瞬だけで、その人影の正体に気付くと篤志は眉をひそめた。
(いつから待ってるんだ?)
 春先とは言え、この時間は息が白くなるほど寒い。こんな所でじっとしてるなど愚かな行為だ。篤志の帰りを待つなら、留守電に伝言して月曜館や事務所にいても同じことだろうに。
 速度を変えずに近付くと、篤志の足音で、人影は顔を上げた。阿達史緒だった。
「おかえりなさい」
 と、感情の読めない顔で言う。仕事で出かけていたのだろうか、スーツ姿で、薄地のコート姿だった。
 いつから待っていた? という疑問を口にしても、史緒は「ついさっきよ」と答えるに決まってる。だから篤志は尋ねなかった。代わりに、
「若い女が夜遅くに男の部屋に来るもんじゃない」
 と、説教した。
 史緒は微かに笑う。
「いいじゃない別に。どうせ将来、結婚するかもしれないんだし」
 その笑みは卑屈に見えた。
 篤志は怒りを込めて低い声で言う。
「───殴るぞ」
 史緒は目を細めて穏やかに笑った。
「いいよ」
 篤志はゆっくり息を吸って、肺一杯の溜め息をついた。
「何があった?」



 近所に住んでるとは言え、篤志のアパートに足を踏み入れたのは数える程しかない。篤志は他人を部屋に入れたがらないからだ。横浜にある篤志の実家でもそう。極端に嫌がるわけではなく、避けている、という様子。
 今日は珍しく、部屋に招き入れてもらえた。さっき篤志は「夜遅くに部屋に来るな」と叱ったけど、史緒は知っている。もし万が一、いや、百万が一、篤志と史緒が結婚することはあっても、同じ確率で篤志が史緒に手を出すことはないだろう。
 篤志はまだ奥の部屋から出てこない。テーブルの前で正座する史緒は室内を見渡した。すぐに本棚が目に入る。史緒は一時期貪るように本を濫読したことがあったが、篤志も相当の読書家だ。ただ史緒のような詰め込み屋ではなく、単純に面白いと感じ、脳と感性の刺激にしているようである。ジャンルには節操が無いようで、フィクションから古典、教養からファンタジーまであり、他にも大学関係の文献や、やはりあった「関谷高雄」の本。でもこんな風に、本棚の内容を見られることを篤志は嫌うだろう、とそこはかとなく思う。
 本棚の一画に、小さな観葉植物が4つ並んでいた。それから両親の写真。大きなカレンダーが貼ってあり、今日の日付には「B棟118集合。10時」と走り書きされていた。
「何、きょろきょろしてるんだ」
 と、襖が開いて篤志が入ってきた。湯飲みを2つときゅうすを両手に持っていて、それをテーブルの上に置くと手際良くいれる。そのあまりにも自然な動作に史緒は感心した。
「ほんと、篤志って昔から色々なことできたよね」
「茶、いれるくらいで何言ってんだ」
 と、篤志は軽く吹き出す。ほれ、と湯飲みをひとつ史緒の前へ置いた。史緒は礼を言って受け取る。てのひらにジンと熱さが伝わった。篤志も自分でいれたお茶を無言で一口飲む。湯飲みをテーブルに置いてから、
「───で? 何があったって?」
 と訊いた。
 史緒は湯飲みが熱くて、まだそれを口につけられずにいた。少しの間両手で包んで、それでもまだ熱くて、結局、史緒はすぐに飲むのを諦めた。同じくテーブルの上に戻す。
「…祥子にね、嫌われちゃったわ」
 視線を落としたまま呟いた。
「今回は本当にだめだと思う。…帰って、こないと思う」
 今日の昼間、祥子は事務所を出て行った。もうここへは来ない、と。そう言っていた。
 それに似たようなことはこれまで数多くあったけど、今日のは明らかに違う。違う。
 篤志は、(いつものこと)とは思わなかった。史緒のその告白だけで状況を知り、理解した。深刻に受け止めながらも、わざと軽く返す。
「どうせまた、挑発するようなこと言ったんだろ」
 史緒は口端だけで笑った。
「私は私らしいことしか言ってない」

「この1年で祥子は変わったわ」と、遠い目をする。
「大声を出すようになったし、会話の駆け引きやコミュニケーション…、人込みも以前より敬遠しなくなってるみたい。…そうよね、1年もあれば、誰でも変わるわね」
 と、まるで新しい発見をしたように言う。
 1年前の祥子は必要以上に周囲の視線を気にしていて、気の毒なくらいビクビクしていた。それが今では、休日には蘭と出かけたり、史緒と対等に口喧嘩をしたりする。確かに祥子は変わった。
「A.CO.じゃなくても生活していけるなら…。───祥子が辞めたいと言うなら、辞めてもいいと思ってた」
 別に祥子を社会に適応させる為に雇ってたわけじゃない。そんなボランティア、誰もしない。
 でも、A.CO.に居るのが辛くて、外で新たな世界を知りたいと本人が願うなら、それと止める権利など、勿論史緒は持ってない。
 篤志はうつむいて喋る史緒を眺め、静かに言った。
「引き止めたいなら手を貸すぞ」
 史緒は苦笑して、首を横に振る。
「…まさか。引き止めたいなんて、思ってないわ。───…ただ、少し意外なの」
「なにが?」
 史緒はゆっくりと胸に手をやる。掴む。昼間から消えない、鈍い圧迫感。
 原因は祥子だ。それは解ってる。
 祥子が背を向けたときから、両の肺に置かれた小さな分銅。こそばゆく、手では外せない枷。時間とともに、呼吸をする度に、少しずつ重くなっているような気がする。
「こんなにショックを受けるなんて思わなかったの」
 確かに祥子との関係は「仲の良い」ものではなかった。でも祥子が祥子のちからを有効利用できること、それに蘭も加わって、均衡が取れていると思っていた。
 はっきり言うと、祥子はA.Co.を辞めることができないと思っていた。
 今日の昼間も、史緒はそう思っていた。───祥子が背を向けるまで。
 一方で、祥子が自ら辞めたいというなら、了解するつもりでいたことも事実だ。
 計算外だったのは、この胸の痛みだけで。
「だいたい、おまえは自分を買いかぶりすぎなんだよ。どんなに強がっても、所詮は十代の小娘なんだから」
 呆れたような素振りを見せながらも、篤志は史緒の発言に耳を疑うほど驚いていた。
 祥子が出て行くことがショックだと言う。その感情が、意外だと言う。
 司にも聞かせてやりたい。
 史緒が、自分の意向に沿わない感情の発生に気付き、驚いて、それを口にするなんて。
 とことん、自分については鈍感なやつだ、と思う。変わったのは祥子だけじゃない。祥子と出会って、この1年間で驚くほどの変化があったのは、史緒も同じだというのに。
「で? どうするんだ」
「どうもしない」
 はっきりとそう言うと、史緒はすっかり冷めてしまった緑茶を一気に飲んだ。
「祥子のことはいいの。違う生活を、あの子が選んだだけだわ。ごめんなさい。結局、私、愚痴をこぼしに来ただけみたい」
「まぁ、いいさ」
「…可哀相なのは蘭ね。気落ちしてるようなら、慰めてあげて」
 それきり、史緒は祥子のことを口にしなかった。



*  *  *




 夕食の後、司がコーヒーを2人ぶんいれた。
 コポコポと液体が落ち、いい香りが芳ってくるまで、三佳はテーブルに頬杖ついて、シンクに立つ司の後ろ姿を見ていた。
 コーヒーに含まれるカフェインは感覚を鈍らせてしまう作用があるが、司は好んでよく飲む。視覚能力を他の感覚で補い、常にそれらをフルで働かせているはずの彼は、「コーヒー飲んでるほうがアンテナ広がるんだ」という表現をした。
「三佳、帰らなくていいの?」
 その、司の背中が尋ねた。
「史緒の八つ当たりを受けるのは馬鹿らしいな」
 三佳は嘆息混じりで答えた。多分、史緒はあからさまに感情を見せないだろうけど、苛立ちや張り詰めた空気は自然に伝わるものだ。
 コトンと目の前にコーヒーカップが置かれた。
「泊まっていけば? 僕は別に構わないよ」
「そうする」
 もうひとつのカップを持って、司が向かいに座った。司の部屋のテーブルには椅子が2脚しかない。
 三佳は、夕方史緒が出かけた後、史緒に言われた通り定時までは留守番をして、その後司が帰ってくるのを待っていた。そして今は司の部屋でくつろいでいる。夕食は三佳が作って、食後のコーヒーは司がいれた。
 三佳はいただきます、と言って、カップに口をつけた。
「司の見解は?」
 夕食の間、三佳は昼間起きたことを司に聞かせていた。史緒と蘭の関係など、三佳以上に情報を持っているはずの司なら深く分析した意見が出てくると思ったのだ。
 司はさらりと答えた。
「祥子がこのまま出て行くって言っても僕は止めないけど、史緒は困るだろうね」
 色々な意味で、と付け加える。
 多分、A.CO.の中で祥子以外の全員が、阿達史緒には三高祥子という安定剤が必要だと理解している。
 恐らく史緒本人も気付いているだろう。
 理性を保ち暴走させないように、些細なことで感情的にならないように。それには気取ってみせたり、見栄を張ったりする普段の心がけが重要になる。
 史緒が祥子を挑発するのは、祥子に心を読ませないようにするだけでなく、自分自身にも平静を保たせる意味があるのだ。
「でも、…そうだね。史緒は謝らないよ」
 それについては三佳も同意見だった。
「甘えてるんだ、あいつは」
 史緒は祥子を必要としているくせに、祥子を留まらせるために謝ることさえできない。何らかの策を練って祥子の意志を動かせると自分を過信しているのだろう。ヒト一人の意志を曲げられると、大それたことを考えているに違いない。
 ヒト一人の、意志を曲げられるなどと。
 ご苦労なことだ。頭ひとつ下げるほうが、よほど楽なのに。その楽なことを、彼女のプライドがさせないのだろうけど。
 でも、祥子には祥子のプライドがある。史緒はそのことを知るべきだ。
「きっと今の祥子には何を言っても無駄だろうね。一旦、冷めるのを待ったら?」
 のんきにも司はそう提案した。
「う〜ん…」
「なに、三佳。口出すつもり?」
「どうしようかな、とは、思ってる」
「珍しいね」
「まったくだ」
 司の言葉に三佳は素直に肯定した。
「祥子に考えさせる材料くらいは与えてやろうと思って」
 そんなこと言っても、本当は三佳だって司と同じ。祥子が祥子の意志でA.CO.を辞めるというならそれを止めるつもりはない。
 それもこれも、無自覚で鉄壁のプライドを持つ、阿達史緒のためだ。
 本当に自分らしくないな。三佳は苦笑した。







 最後の登校日は、卒業式の10日前だった。
 今日この日が終われば、あとは卒業式を最後にこの場所には近寄らなくて済む。卒業式を終えたらここには二度と来ない。三高祥子はそう誓っていた。
 都立佐城高等学校。
 担任の話を聞くだけの登校日が終わり、号令が済むと、教室の中は騒がしくなった。椅子を引く音に続いて始まる雑談。遊びに行く相談や、卒業後のそれぞれの進路、その不安や期待について。卒業間近に必ずあるサイン帳の回覧。このサイン帳について、祥子も数人に頼まれたがすべて断わった。この学校にいた3年間、クラスメイトの好意を無視してまで孤立を保っていた祥子に記帳を求める人は何を考えているのだろう。祥子としては、全く関わりのなかった他人に自分の住所や生年月日など個人情報を漏らすのはためらわれたし、何よりこの学校生活の時間を何かに残すのが嫌だった。
 祥子は3年3組の教室を出た。この3年間そうだったように、誰にも挨拶をせずに教室を後にする。残る1日、卒業式も、きっと同じように過ぎる。祥子の高校生活はそうやって終わるだろう。
 卒業した後は、生活の中心がA.CO.になる予定だった。生活のためにそれが一番良いことだし、そういう覚悟を固めつつあった。
 しかし先日、A.CO.の事実上のトップである阿達史緒に辞める宣言をした祥子だった。これは退職届を投げつけたようなものである。
 その後、史緒は何も言ってきてない。退職届けを受理したとも何とも。
 でも祥子はわかる。史緒は絶対、引き止めたりしない。祥子も、引き止めて欲しいなんて思ってない。後悔、してない。
 卒業後の経済設計を建て直さなければならないが、不安より大きなやる気が祥子にはあった。人間、土壇場に立てば胆が据わるものだ。A.CO.を辞める以上、外で働かなければならないのは必至だ。当然、有利な就職はできないだろうが、アルバイトでもパートでもいい。今からでも就職先を探す気でいた。人間関係についてはやはり最後まで気になるところだが、やらなければ生きていけない。最悪、クビになっても構わないくらいの覚悟で臨んでいかなければ。
 …そんな、自棄気味なやる気が祥子にはあった。

 そんなやる気を持って勇み足で、校門を出たときのことだった。
 何故だか。
「おーっす、祥子」
 指二本で敬礼の真似事をする。学生服姿の木崎健太郎が校門に背をかけて立っていた。
 学生服に編み込みの白いマフラー。派手なステッカーが貼られている学生カバンを脇に抱えている。佐城高ではほとんどの生徒が私服登校なので、校門前の健太郎のそのいでたちは異様に目立っていた。幾人かの生徒が振り返っていく。
 名指しされた祥子は足を止め、眉を歪めた。
「健太郎…?」
 祥子は驚くより先に目を疑っていた。この場所で、会うことが無いはずの人間だ。しかし校門のところで手を振っているのは確かに木崎健太郎だった。
「な…、こんなトコで何してんのよ」
 戸惑いながらも言った。
 2人の間を佐城高の学生が通りすぎて行く。
「何って、祥子に用があったんだよ」
「だからって…、わざわざここに来ることないでしょ?」
 祥子は周囲の視線を気にしながら声を抑えて言う。そんな祥子の態度を理解しながらも、健太郎は飄々とした態度でいつものように馴れ馴れしい口の利き方をした。
「だって、おまえ、事務所に来ねーじゃん。自宅の住所は知ってっけど、そっちに乗り込むよりは幾分常識的かと思って」
「…家に来たら警察呼ぶからね」
「おまえな…」
 祥子の発言は本気だ。その素気無い物言いに健太郎はうなだれた。しかしすぐに気を取り直して顔を上げると、
「とうとう、辞める宣言したって?」
 と、からかうような仕種で聞いてきた。
 健太郎にその気はないのだろうが、とうとう、という言葉が事態を軽視されているような気がした。
「そうよ。わざわざそんなことを訊きにここまで来たの?」
「ふ〜ん。いつもの喧嘩と同じ、ってわけじゃないんだな」
 軽く肩を竦める。
「史緒が謝るのを期待してるならやめとけよ。それがわかるくらいの付き合いはあっただろ」
 祥子はムッとした。
 史緒との付き合いは祥子のほうが1年も長い。健太郎にそんな風に言われたくはなかった。
「あんたに何がわかるの?」
 健太郎は(比較的)いい奴だが、日和見すぎるところがあると思う。社交的で、人当たりが良くて、───そうだ、祥子は健太郎が何かに腹を立てているところなど見たことがなかった。ひとつの意見に対し、同意できない場合は遠慮なく自分の見解をぶつけてくるがその様子は至って冷静だ。最終的な判断はその場の責任者に任せ、決定後は文句ひとつ言わず協力することができる。
 史緒は今まで一人で行っていた情報管理の業務を、割とあっさり健太郎に引き継いだ。篤志の話によると、しばらくは史緒が監査する予定だったらしい。健太郎の能力をかったのだろう、という話も聞いた。
 その健太郎が祥子に言う。
「おまえ、自分の能力を過信しすぎじゃねぇ?」
「どういう意味よ」
「史緒のこと、見えてないと思うぜ?」
「性格悪くて何考えてるか分からないっていうのは初めから知ってた。蘭を利用してた…っ、最低なやつだって、それ以外に何かあるの?」
「あいつは利用されてるなんて思ってねーよ」
「そういう性格なの、気づかないのよ」
「───それって、蘭にも失礼だろ? 蘭は史緒に信頼を持ってる。あいつの見る目を疑うのか?」
「……っ」
 祥子は口を閉ざした。
(…そうだ)
 蘭は初めからすべて知っていた。祥子をA.CO.に留まらせるために、日本へ呼ばれたこと。史緒に利用されてること。それでも、家族や友人や街を捨てて、日本へ来たこと。
 蘭の、あの盲目的な史緒への好意は、一体どんな過去によるものなんだろう。
 言葉を返せない祥子を見て、健太郎は溜め息をひとつ。
 視線を逸らし、右手でポリポリと頭を掻きながら呟く。
「祥子のちから、信用できねーからなぁ」
「ちょ…っ」
 祥子は顔を上げる。それは聞き捨てならない。
「私のことそんな風に見てたのっ?」
 健太郎の腕を掴んだ。その台詞は我慢できなかった。
 A.CO.で、このちからで稼いでいたというプライドがある。健太郎の台詞は祥子の存在を否定しているのと同じだ。それに、このちからを否定されるのは、今も昔も、祥子が一番怖れていることなのだ。
 泣きそうな顔に怒鳴られて、健太郎は動揺した。
「わりぃ、言葉が足りなかった」
 と、素直に謝る。彼のこういうところは真似できない。
「正確に言うと、祥子本人のことについて、祥子の能力はあんまり役に立たないぞ、と。───おまえが第三者を視た結果なら信じるよ。ただ、身近な人間が相手だと、おまえ、感情的になりすぎなんだ」
「感情的になるから何だっていうの? 今回のことは冷静になれってほうが無理よっ」
「結果、判断力が鈍る」
「余計なお世話。───言いたいことはそれだけ?」
「ああ」
 祥子に睨まれても健太郎はマイペースだ。祥子は視線を逸らした。
「じゃあ、早く帰って。…ついでに、事務所のパソコンから、私の連絡先、削除しといてよ。もう関係ないんだからいいでしょ?」
「そんな勝手なことできるか。史緒に直接言えって」
 と、笑みを含んで言う。
 史緒に言いたくないから、あんたに頼んでるのよ。
 と、言いかける。しかし、もちろん健太郎だって、そんなこと判っているのだ。
「ところで祥子」
 急に真面目な顔付きになって、健太郎は言った。
「…なによ」
 その視線に毒気を抜かれ、祥子も口調を改めた。すると健太郎は視線を左右させた。
「おまえと喋ってるだけでギャラリーしょわなきゃいけないのは何故なんだ?」
「───っ」
 祥子は口を歪ませて辺りに目をやった。
 今、初めて、自分達が注目を集めていることに気付いたのだ。
 ここは佐城高正門前。午前中2時間で用は済んだ3年生の下校ラッシュである。
 数十人もの生徒が校門から出てくる。普通ならそのまま駅の方へ流れていくのに、生徒達の大半は、校門前で立ち止まる2人の男女に気付き、目をやっていた。わざわざ足を止め、眺めている者もいる。立ち止まらないまでも、名残惜しそうに視線を残していく者、目を見開き驚きの表情で連れと噂話する者など、ちょっとした騒動だ。もう少しで人垣ができそうなくらい。
 その視線の先には、佐城高3年3組の三高祥子がいる。
 三高祥子はこの学校でちょっとした有名人だった。
 理由はいくつかある。まず彼女には目立つ理由があった。指定の制服はあるものの私服可なこの学校で、彼女はいつも制服姿だった。本人に自覚があるかは判らないが、かなり目立っていた。さらに三高祥子は3年間誰ともつるまずいつも一人だった。教室にいても一人席に座り、寝ているか外を見ているかしていた。ただ「大人しい」という言葉で片付かないのは、その態度が妙に堂々としているからでもある。
 誰も寄せ付けない言動と態度で陰口を叩かれることもあったようだが本人は気にしていないようだ。それから見目の良い顔立ちに惹かれ告白しかけた男子生徒が何人かいるらしい。実際、告白を実行した正確な人数は明らかになっていないが一人ではないらしい。
 2年生のときには佐城高新聞部主催全校アンケートにおいて“この人のデータが知りたい!”部門で校内第2位だった。その後、三高祥子のクラスメイトである新聞部の部長が粘り強い交渉をしたらしいが、結局、彼女の紙面インタビューは実現しなかった。
 それらを含め良くも悪くも三高祥子は有名人だった。
 その三高祥子が、卒業を目前にした今日、他校の男子生徒と絡んでいるのだ。これほど珍しいものはない。しかも何やら不穏な空気なので、痴話ケンカか?と興味深い見世物になっていた。

「……っ」
 祥子は複数の生徒に囲まれてすっかり動揺してしまっていた。
 数々の視線が突き刺さって、祥子はカッと顔が熱くなるのを感じた。体が強張っている。ぎこちなく、キョロキョロと周囲を見渡した。ギャラリーの中にはクラスメイトも数人見受けられた。もの珍しそうにこちらに視線を向けている。
「なに、おまえ。人気者なの?」
 平然としている健太郎の全く解ってない台詞に、祥子は言い返した。
「あんたの格好が目立ってるだけよ」
 苦しい言い訳をしてから、はっと祥子は口をふさいだ。
 校内では一応、無口で通っている祥子だ。他の顔を周囲に見せるのは気恥ずかしかった。
 健太郎は自分の格好を見て首を傾げている。健太郎が慌てる事態、というのもあまり見たことがないが、その余裕な態度には少しの尊敬さえ抱いた。
「…この状況でよく平然としていられるわねぇ」
 皮肉も含んだ恨めしそうな声で言うと、健太郎はさらりと答える。
「基本的に目立つのは嫌いじゃない」
「…」
 祥子は絶句した。その感覚はとても理解できそうにない。
「あれー? 健じゃん」
 祥子の背後から声がした。目の前の健太郎がその声に反応する。
「おー! タローちゃん」声を張り上げて、祥子の背後へ手を振る。「オフでは久しぶりだなっ」
 つられて祥子も振り返った。
「ウチのガッコで何やってんだ。ヒト集めて…」
 振り返った祥子は男子生徒と目があった。お互い、一瞬、空気が止まる。口を大きく開いて息を吸う音が聞こえた。
「うおっ! なに、三高祥子じゃん、健っ、おまえら、知り合いなのっ?」
 祥子に人差し指を向けて男子生徒は叫んだ。健太郎と祥子を交互に見て、それから周囲の人垣にも視線を走らせながら。
「そっか。タローちゃん、祥子と同じ学校だったんだ」
 快活に声を掛け合う2人に挟まれて、祥子は呆然とした。
 登場した男子生徒───大河原太郎は2年のときからのクラスメイトだ。彼が新聞部の名物部長であったことも知ってる。
 周囲とあまり関わってこなかった祥子が、彼の所属部を知っているのには理由があって、2年の夏休み前、新聞部のアンケートに答えるよう、しつこく追いかけられたという記憶があるからだ。夏休みへと逃げ切り、祥子は安心していた。でも夏休みに突入した矢先、クラスに大きな衝撃を与えるある事件があって、
それどころじゃなくなった。
 それ以降、大して関わりのなかった大河原と、木崎健太郎が、今、目の前にいる。
 祥子と知り合いであることをお互い驚いたりしている。
「ちょっと待ってよ!」
 それを一番驚いているのは祥子だというのに。
 そういえば似ているタイプの2人の間に割り込む。大河原は三高祥子の大声にびっくりしているし、健太郎は「なんだよ」と煩わしそう言ってくる。
「2人とも知り合いなの?」
「知り合いも知り合い。ま、流行で言うところの、メル友ってヤツ?」
 と、健太郎が言うと、
「その表現、誤解生みそうだからやめろ」
 と、大河原は苦笑した。
「ちゃんと説明して」
「その前に、祥子とタローちゃんはどういう関係なんだ?」
「クラスメイトだよ」
 大河原が答えた。
「へー、世の中狭いのな」
「健太郎っ」
「はいはい。祥子も知ってんだろ? タローちゃん、新聞部部長」
「元、だけどな」
「で、俺はパソコン研究部所属なわけだ」
「最近、幽霊だって噂」
 イチイチ、大河原がつっこむので健太郎は面白そうに笑った。どうも祥子はそういうノリについていけない。それどころか話が進まないのでイライラする。
 健太郎と大河原が揃って顔を向けた。
「どの学校にも、一人は情報屋と呼ばれる奴が居るもんだ。他地域に、これくらいのネットワークがなきゃ、名乗る資格ないね」
 と、誇らしげに言う。
「───…」
 祥子は目を見張った。
 目の前にいる2人のうち1人、大河原は2年間同じ教室にいたクラスメイトだ。祥子の学校での無愛想な生活をよく知っている代わりに、祥子のプライベートはほとんど知らないだろう。
 もう1人、木崎健太郎とは2ヶ月前に知り合ったばかりだ。逆にこちらは祥子の学校での生活を知らない。
 そんな2人が、知り合いだったということに祥子は驚いた。健太郎と会う前から、…いや、祥子がA.CO.に入る前からのこの2人の付き合いを想像すると、健太郎の言う通り世の中の狭さを実感せざるを得ない。
「で? そっちは?」大河原が口を挟む。「まさか付き合ってんの?」
「誰がこんな気ぃ強い女と」
「…誰がこんなパソコンオタクと」
 と、言い返してからハッとして、祥子は口を手で押さえた。大河原が視線を向けたからだ。
 自分の不用意だが、学校での祥子しか知らない大河原に、いつもと違う面を見せるのは恥ずかしい。
(…それに)
 さっきも言ったが、大河原は新聞部の「名物」(元)部長だ。彼が見聞きしたことは、彼がその気になったら、やがて全校生徒が知ることになる。
 現役を引退したとはいえ、新聞部内の大河原の影響力は健在だった。卒業式まであと少しだが、彼が元部長の権限を発動し、流れていた祥子のアンケート企画を再燃させないとも限らない。それは絶対に避けたかった。
「三高…って、気ぃ強いの?」
「太郎ちゃん、同じクラスなんだろ?」
「確かに同じクラスだけど…」
「けど?」
「三高ってどーなの? 2年間同じクラスだったけど、誰かとつるむなんて全然…───まぁ、無かったし、さっき大声出してるの、俺、初めて聞いた」
 大河原の認識は正しい。言葉に詰まったところで、彼が何を思い出したのかも、祥子には判る。
「なんだ。おまえ、猫かぶってるんだ」
 そしてまた、健太郎の認識も正しい。
 相反するような2例だが、包む環境が違ければ祥子の態度が変わるのは当然だ。
 また、双方の周囲からの認識を修正する必要もない。
 何故なら両方とも、祥子が離れる環境だから。学校は卒業で、A.CO.は辞める。
 次に祥子が浸る新しい環境で、祥子がどんな態度をとるかはその時になってみなければ判らないし、決まらないのだ。
 がしっ、と。祥子は健太郎の腕を掴む。
「さよなら、大河原くん」
 短く呟いて、踵を返す。健太郎の腕をひいたまま、歩き出した。
 おい、こら、と健太郎は文句を吐いたが無視した。
「健、メールよこせよな!」
「おっけー」
 と、呑気に手を振ったりしている。
「大河原くんに余計なこと、言わないでよね」
「何だよ、余計なことって」
 わざと、健太郎は聞き返してきた。答えられないのも癪なので、祥子は考えた。けど、だめだった。多分、健太郎が大河原に与える祥子の情報すべてが、余計なことなのだろうけど。友人同士である彼らにそれを要求するのは傲慢でしかない。
「何で猫かぶりしてんだ? らしくねーじゃん」
「…昔はそれが地だったの」
「じゃあ、いつからだよ」
 ───三高祥子が変わったのは。




*  *  *





「祥子? 何の用だ」
 島田三佳が持つ携帯電話にかけたところ、開口一番、不機嫌そうな声が返ってきた。
 思い返してみればこの一年以上、三佳のケータイにかけたことが無かった。番号は知っていたがかける機会がなかった。A.CO.関連というと、まず蘭、それに事務所のナンバー、篤志には一回くらいあったかもしれない。大体、祥子が携帯電話を持ち始めたのはA.CO.に入った時だ。
 A.CO.を辞めるとなれば、もう必要なくなるものだろう。
 三佳の不機嫌な声の後ろで、小さく、他の声がした。どうやら三佳は七瀬司と一緒に居るらしい。
(最後まであの2人の関係はよくわからなかったな)
 と、勿論心の中だけで思って、祥子は三佳に本題を告げた。
「事務所の3階に私の私物、色々置いてあったと思うの。悪いけどウチに送ってくれない?」
 私物とは、主に服で、スーツや靴、アクセサリーなどである。他にもカップや歯ブラシ、細かい物。辞めるのだからそれら個人のものは撤収するべきだろう。
「断わる。面倒くさい。おまえが取りに来い」
 と、三佳は簡潔にはっきりと即答した。
(どいつもこいつも〜)
 出向くのが嫌だから頼んでるのに。しかし、もちろん三佳だって、そんなこと判っているのだ。
「こっちに来たくないのは、史緒に会いたくないからだろ?」
「…そうよ」
「明日の朝なら史緒は事務所にいない。4階の部屋にまとめて置いておくから、勝手に取って行け」


 ───そんな取り付けをしたのが昨日の晩。
 そして翌朝の9時。
 祥子は5日ぶりにA.CO.の建物の前に立っていた。
 驚いたことに、A.CO.に入所してから、5日足を向けないなんて、本当に数えるくらいしかなかった。今回、その事実を発見して祥子は驚いた。嫌々言っていたくせに、足繁く通っていたということだ。これは一体どういうことだろう。祥子は真剣に考える。
 目の前に立つ、A.CO.の5階建ての建物を改めて見上げる。
 祥子は乾いた喉で唾を飲んだ。
(本当に本当に、ここに来るのはこれが最後よっ)
 つい、何かに向けて宣言してしまう。半ばムキになってる。
 そして、入り口のドアを開けた。
 2階へと続く階段を昇る。ここへは一年通っていたが、入ったことのない部屋もいくつかある。
 A.CO.の建物は1階が駐車スペースと物置で、2階が事務所になっている。3階はほとんど使われてないらしい。4階は史緒と三佳の居住空間、5階は三佳が使ってるらしい。屋上もある。
 たまに、着替えや物置として3階の部屋を使わせてもらっていたが、4階より上には、祥子はほとんど足を踏み入れたことがなかった。
 途中、2階の事務所へ寄ると、ドアに鍵がかかっていた。確かに、史緒は出かけているらしい。それに三佳も。普段ならこの時間は2人のうちどちらかがいるはずなのに。
 アポ無しの依頼人が来ない時間じゃない。不在時の張り紙もないし、何かあったんだろうか…。
 と、そこまで考えてから祥子は首を左右に振った。(私には関係ないでしょっ)
 人間、すぐには生活習慣を変えられないのだと実感する。
 時間は9時を少し回ったところ。どちらにしろ、そろそろ篤志か司がやってくる。早いとこ、用事を済ませ、さっさと退散することにしよう。祥子は上階へと向かった。
 4階のみ、階段とフロアを隔てる扉がある。他の階は階段踊り場から通路が伸びていて各部屋への扉があるのに対し、4階だけは踊り場の壁にすぐに扉がつけられているのだ。ここを居住空間にする為に後から扉がつけられたのか、それとも前の持ち主が都合上取り付けたのかは知らない。ただ、祥子はこの扉に足を踏み入れたことはなかった。
(三佳は確か、4階に置いておくって言ってた)
 しかし、何故3階にあった荷物をわざわざ4階にまとめておくのか。今更ながら疑問に思ったが、三佳なりの都合があったのかもしれない。
 祥子はそっと、ノブを回し、扉を引いた。
「……」
 そこには他のフロアと同じように、階段と平行になる通路(廊下?)があった。間取りも大体同じようだ。しかし一番手前の部屋は、通路側の壁が無く、見たところその空間はリビングの役割を担っているように見える。テーブルやテレビがある。テーブルの上には新聞が置かれていた。背を向けているソファがひとつ。誰の趣味かは知らないがソファの色は黄色だった。木造構造ではないせいもあるだろうが全体的に白が基調で、ソファ以外は地味なカラー。広くはないが、物が少ないのでそれを感じさせない。奥にはキッチンがある。食器棚や冷蔵庫が見えた。通路の奥には、いくつかのドア。史緒たちの私室なのかもしれない。
 祥子は少しの時間、その空間を眺めてしまった。阿達史緒と島田三佳、彼女らが同居し、ここで生活をしていることを改めて実感したからだ。どんな様子で、どんな会話をするのかとか、想像しようとしたけどうまくいかない。大体、史緒の私生活なんて思い浮かべることさえできなかった。
 寝て、起きて、ご飯を食べる。そんな一番基本的な日常のことさえ想見できなくて…。
(そうだっ。荷物、荷物…)
 祥子は我に返って、ドアの中へ、足を踏み込んだ。
 当然、いつもはこのドアの鍵は掛かっているはずだ。今日は三佳が開けておいてくれたのだろう。
 リビングへ入った祥子は意味も無いのに足を忍ばせた。ゆっくり、歩を進める。
 難なく荷物は見つかった。リビングのソファの横、床の上に見覚えのあるボストンバッグが置かれていた。英国旗と星条旗が混ざった節操のない柄。蘭と買い物へ出かけた時に祥子が買ったものだった。
 とりあえず荷物をまとめてくれた三佳に感謝。
 ふと、前触れもなく、奥のキッチンに覗く冷蔵庫が目に入った。そこにはゴミ捨て日と分別方法の行政広告紙が貼ってあった。
(……)
 その非常に生活感溢れる光景に、思わず祥子は笑いそうになってしまった。あぁ、普通に生活してるんだなぁと思ってしまった。瞬間。
「───っ!」
 祥子は飛び上がった。
 誰もいないはずの部屋。
 すぐそこの、リビングの黄色いソファ、何か動いてる。気配がした。
(なに…?)
 不安感を覚える。心霊現象を信じているわけではないが、それを体験したらきっとこんな感覚なのだろう。
 一歩だけ。恐る恐る足を前に出す。
 祥子はソファの上の気配の正体を理解した。
 叫びそうになるのを抑えた。抑えなければならなかった。何故なら。
 阿達史緒が寝ていたのだ。
 肘掛けを枕に、白い毛布にくるまって。
 着替えてもいないようで普段着のまま、微かな寝息をたてていた。
 思わず呼吸を止めてしまっていた祥子は、できるだけ音をたてないよう、ゆっくりと息をした。そして心の中で唸った。
(三佳〜っ)
 史緒はいないって言ったくせに。
 予定が変わった? 三佳が出かけた後、朝早くに帰ってきたとか? どうしてこの時間に事務所にいないの? 何で寝てるの?
 祥子は混乱した。
 それにしても、もう朝の9時だ。この時間に寝ているなんて、一体史緒は何時間眠るつもりなのだろう。
 いや、何時に眠りについたのだろうか。
(っていうか、こんなところで寝るな)
 心臓がバスドラムのように体を叩いている。もう見ることも無いと別れを告げて数日後に、こうしてお目にかかってしまうとは、何ともバツが悪い。
 祥子はソファで寝ている史緒の顔を覗き込んだ。
 やはり憎たらしく思う。数日前と同じ怒りが込み上げてくる。
 でも、別のことを思う。
(…1年一緒にいたけど、寝顔なんて初めて見た)
 辞める宣言をしたのがもう何ヶ月も前のことのようだ。つい数日前なのに。
 史緒は無防備な顔で、寝息を立てている。毛布ひとつにくるまり、横向きで丸くなっている。息苦しいからか、襟が開いていた。あまり大きくないこのソファに、数時間寝ているなら寝相は良いほうなのだろう。…行儀は悪いが。
 忘れているわけではないが、ここで寝ている人物は、日本有数大手企業の社長令嬢だ。一体、どんな育ち方をしたんだろう。明らかに自分と違うのは判るが、標準の社長令嬢とも違うのではないだろうか。
 それ以前に、何故、社長令嬢がこんな所にいるの? A.CO.のオーナーが桐生院という女性だということは知ってる。でも、それは史緒の実家とは無関係らしい。
 史緒は多くを語らない。祥子が知らないことは、確かに沢山ある。
〈あの子、イイ顔で笑うようになったと思わない? あなたたちのおかげかな〉
〈史緒さんは気に入った人間しか、傍に置きません〉
〈じゃあ、いつからだよ。おまえが変わったのは〉
 過去、耳にしたいくつかの言葉を思い出す。
(…なによ)
 今までなかった逡巡が、胸に染みるのがわかった。
 そして史緒を見る。ソファの背に手をかけて、覗き込んだ。

 ごんっ。
 頭を横殴りする衝撃があった。
 容赦無く、鈍く、頭を打たれたような感覚。
(え───…)
 現実に、物理的に外的な攻撃があったわけじゃない。体の中、頭の芯が痛みを感じたのだ。
 次に祥子は血の気が一気に退いていくのを感じた。貧血になって倒れるかと思った。
 自分が見たものが何なのか、すぐに判らなかった。
 すぐに判らなかったから、それに惹きつけられた。
 ソファの上、丸まって眠る史緒。
 見たことのない、無防備な寝顔。
 長い黒髪が肩を流れる。その隙間から覗く、白いうなじ。
 襟元がゆるめられていて、わずかに見える、折れそうな鎖骨。
 はじめはホクロかと思った。それにしては大きい。
 白い肌に浮き出た、黒い丸がふたつ、並んでいた
(なに…?)
 1センチメートルもない、小さな丸い痕。
 思わず目をひそめて覗き込んでしまう。
「───…ゃ」
 咄嗟に両手で口を押さえた。
 叫んでしまいそうだったから。
 祥子は体が一瞬で熱くなり、汗が噴き出るのを感じた。
 史緒の首筋にある黒い丸はケロイド状になっていた。
 火傷だ。
 黒い痕のなかに肉の筋も見える。
 頭が痛かった。
 これは異質なものを見た、畏怖だ。
 口を押さえ頬に触れる両手が、そこだけ地震が訪れたように激しく揺れた。
「……っ」
 その超局地的地震の恐怖に思考が巻き込まれて息ができなくなった。
 頭の中心からガンガンと低く鈍い音が響いてくる。
 心臓がゆっくりプレスされるみたい、そんなギリギリの恐怖。怖い。苦しい。
 だって想像してしまった。
 「誰か」がわざと、史緒のからだに傷をつけた。
 この痕は煙草だ。
 事故じゃない、こんな残りかた。意図的に、「誰か」が。
 どうして? 何があった?
 いつ頃のこと? 篤志たちは知ってるんだろうか? 蘭は?
 煙草…?
 祥子は頭のなかで、映像でそれを想像してしまった。遮るために目を閉じても無駄だった。想像は生々しく頭の中で展開される。
 まだ幼い史緒。その、細い首に近付く煙草。煙草を持つ指先───その先にある顔には顔のパーツがない。
(やめて…っ)
 想像のなかの「誰か」に訴える。
 触れた瞬間の肌が焦げる音、匂い。歪む表情、───悲鳴。
 そんなものまで想像してしまって、祥子は気分が悪くなった。何故だか寒くなった。
 「誰か」は、史緒にとってどんな関係の人なのか。
 「誰か」は、どんな気持ちで史緒を傷つけたのか。
 史緒は、どんな思いだったのか。
 傷はもう、消えることはない







 遠く。
 ドアが締まる音を聞いた気がした。
 夢かもしれなかった。でも史緒は普段夢など見ない。
 三佳が出て行ったのかも(入ってきた?)、と考えた。空気が動いてちょっと寒い。でも毛布は暖かい。
 ドアの音を聞いて(夢?)からちょうど10分間惰眠を貪って、史緒はソファの上で目を覚ました。
「………?」
 起き上がると背筋が痛かった。ソファの上、無理な姿勢で寝たためだろう。
 史緒は上体を上げただけで、すぐに動き出さなかった。
 見慣れた居間は静かだった。同居人の島田三佳がいる気配はない。
 どうしてこんなところで寝てるんだっけ? ───ああ、昨日は徹夜で、寝たのは朝の4時だった。健太郎に送ってもらったデータの分析結果をまとめ上げたのかその時間。どうにか階段を上ってきて、ここで力尽きたのだった。
 あと10メートルも歩けば自分の部屋なのに居間のソファで寝たのは、朝起きてきた三佳に起こしてもらうためだ。三佳は絶対、「ちゃんと部屋で寝ろ」と怒るに決まってるから。そうしたら朝食を摂って、事務所で書類を見直して発送する予定でいた。
 時計を見ると9時半だった。「うそ」史緒は呟いた。7時には三佳に起こされると予測していたのに。
 思いの外、睡眠時間が摂れたはずなのに史緒の寝覚めは悪かった。頭が重い。(ドアの音を聞いた)右腕が痺れてる。右を下にして寝ていたせいだ。(…三佳?)
(───だめだ、頭が働かない)
 顔洗ってこよう。史緒は立ち上がり、洗面所に向かった。
 ドアが開く音がした。
「…なんだ。起きてたのか」
 同居人である島田三佳が入ってきた。外出用の上着を着ていた。右手にはコンビニの袋がぶら下がっていた。史緒は首を傾げる。
「三佳…。でかけてたの? …さっき、ここにいなかった?」
「───」
 三佳は未だ起ききれていない様子の史緒を見た。ボタンが外されている首元を一瞥してからすぐに視線を移す。
「さぁ、知らないな」
 と、素っ気無く言う。
「それより、そろそろ司と篤志が来るぞ。さっさと着替えて、朝食片づけろ」




つづく
24話「水の中の月 前編」  END
23話/24話/25話