22話/23話/24話 |
23話「そこにいる条件」 |
阿達史緒がA.CO.の事務所へ帰ってきたとき、ちょうど運送会社の配達員が建物から出てくるところだった。 配達員はいつもの顔だったので、史緒は「ご苦労様です」と軽く頭を下げた。配達員のほうも史緒の顔を覚えていたらしく体育会系の挨拶を大声でして、小走りのまま路肩に止めていたトラックに乗り込み、エンジンをかけて駅のほうへと走り去っていった。荷物は何だろう、と史緒は想像した。小荷物が届くような予定はなかったはずだ。多分、三佳が受け取っているだろうけど。 建物を入ってすぐの階段を上り、2階へと上がる。A.CO.の事務所はこの建物の2階にある。 階段を上りきり、2階の廊下へ足を踏み入れると、そこには島田三佳と大きなダンボール箱がいた。大きい、と言ってもダンボール箱はせいぜい50cm立方といったところ。対比物が10歳の少女だから余計大きく見えたのだ。 「なぁに? それ」 「帰ってたのか。早かったな」 「ええ。…ところでそれ、三佳宛て?」 「そう。昨日、峰倉さんのところでいろいろと譲ってもらえたから、こっちに送っておいたんだ」 ふぅん、と史緒は気のない返事をした。 島田三佳は峰倉薬業という薬品卸売店でアルバイトをしている。学校にも行かないで、と一般には思われるかもしれないが、三佳と同居する史緒はそんな風に考えたことはないし、口出ししたこともない。 史緒が何も言わないので、三佳は自分のことは自分で考える。何か言われても自分で考える。 自分に足りない知識があることは十分痛感している。でもそれは小学校に通わなくても得ることはできるし、今のアルバイト生活は重要な社会勉強になっているので三佳はこの生活に満足しているのだった。 三佳がダンボール箱を担ごうとしたとき、史緒はストップをかけた。 「待って。それ、上に運ぶの?」 「ああ」 「ちょっと待ってて、私も手伝うから」 史緒はそう言って、事務所のほうへ足を運んだ。手荷物を置いてくるためだ。 「別にいらない。大きさの割に、軽いんだ、これは」 「いいから。待ってて、いいわね?」 史緒はしつこく念を押すと、後ろ髪ひかれるように振りかえりつつ、事務所の扉の向こうへ消えた。 三高祥子はA.CO.の事務所でソファに座り、コーヒーカップを両手で包み込んで一息ついていた。 応接用のソファの中央に座り、背もたれに体重をかける。そんな少しの贅沢を味わって、ついでに今日はコーヒーも好みの味にいれられて、気分は上々だ。 今、事務所には祥子一人しかいない。事務所の留守を預かっていた島田三佳は運送屋が来たので荷物を受けに廊下へ出ているし、ああ、その運送屋ももう帰ったようだ。祥子自身は、現在、高校3年の家庭学習期間中で、学校へ行く事由はほとんどない。卒業式を待つだけの身である。今日は川口蘭と待ち合わせで、今、ここでこうしている。その蘭は、中学の卒業式が終わり、今は引越しの準備をしているとのこと。引越しは祥子も手伝う予定でいた。 事務所のドンである阿達史緒は仕事で外出中だと三佳が言っていた。七瀬司は一人で出かけているという。祥子はよく知らないが、意外と彼の行動範囲は広い。 木崎健太郎は現役高校生。今日は学校だ。(サボっていなければ) 関谷篤志も今日は仕事らしい。ただ、史緒とは別行動のようだ。 ガチャリ、とドアが開いた。入ってきたのは阿達史緒だった。 「あら、祥子、いたの? ただいま」 史緒はちらりと祥子に目を向けただけで、まっすぐ自分の席へ向かった。 「おかえり」 「暇そうね。仕事したいならいくらでもあるわよ」 コートを脱ぎながらそんなことを言う。祥子は素直に言い返した。 「あんたと顔合わせない仕事なら、ちょうだい」 「見繕っとく」 史緒は軽く笑いながら、コートとバッグを椅子に置いてすぐに来た道を戻って事務所から出て行った。ドアの向こうで三佳を呼ぶ声がした。 祥子は一人になった事務所でふぅと息をつく。 『卒業したら就職してこんなところやめてやる≠チて言ってたけど、───就職できたのかしら?』 少し前に、史緒に言われた言葉を思い出した。 確かに、祥子がA.CO.に入ったばかりのころ、史緒にそのように発言した覚えがある。あの頃は今以上に阿達史緒に嫌悪感を抱いていて、無理矢理、契約させられたことも手伝って(正確には祥子が賭けに負けたせいだが)辞めたいという思いが積もり積もっていたからだ。この場所に長くいることは自分の精神衛生上、絶対に良くないと祥子は自信を持っていた。 史緒は顔を合わせれば憎まれ口ばっかりだし、島田三佳と七瀬司は何考えてるのかわからないし、関谷篤志は比較的喋りやすいけど前述したような訳わからない連中を平気で叱れるような性格だし。 実際、不思議だと思う。1年以上経つ今も、自分がA.CO.にいること。 でも理由ははっきりと分かってる。それは川口蘭がいたからだ。 川口蘭がA.CO.に加わったのは、祥子がここへ来て一月後のことだった。ここでの生活にいい加減、我慢ならなくなっていた頃だ。蘭は史緒たちとは昔からの友人と言った。それを信じさせないほどの彼女の明るさと、素直さ、それらを惜しみなくぶつけるように臆することなく祥子に接してくる人懐っこさ。祥子はすぐに蘭に惹かれていった。 蘭を通して、他のメンバーの見え方も変わってきた。何が大切で何が許せないのか。落ち着いて接すればその人が見えてくる。もちろん、阿達史緒も例外ではない。だから祥子の史緒に対する評価も変わってきていて、「絶対、関わりたくない」が、今では「あまり、関わりたくない」になった。…これは大きな違いだ。 そんなこんなで祥子も高校を卒業する時期になってしまった。A.CO.に居座ると決めたからには仕事も増えるだろうし、史緒と顔を合わせる時間も増えるだろうし、色々な意味で覚悟しなければならないのかもしれない。 長い人生、「学生生活」という初期段階を終え、これからは「社会人」となる。 その長い期間を、いつまでここで過ごすのか、予測もつかないけれど。 ガシャーンッ 「!」 突然、大きな破壊音が聞こえて祥子は飛び上がった。 廊下の方からだ。 ドアの外には、今、三佳と史緒がいる。祥子はこの一瞬の間で脳神経が痛くなるくらいに様々なことを考え、想像した。でもほとんどは忘れてしまった。 結局、それらの思考は何の役にも立たず、何らかの結論が出る前に祥子はソファから立ちあがっていた。 「何があったのっ!?」 祥子は事務所から飛び出した。 惨、状───。 祥子が階段下へ駆け寄ると、そこには史緒と三佳が抱き合うように重なって、床に倒れていた。 その周囲には白い発泡スチロールの破片やしわくちゃの新聞紙がぶちまかれている。それから怪しげな小瓶がいくつか、学校の化学室でしか見る機会がないシャーレや名前を知らない器具も放り投げられ、一方で透明な液体が床に線を引いていた。 そして、それらが入っていたと思われる大きなダンボール箱が口を開けて少し離れたところで横になっていた。 すぐに想像はついた。ダンボール箱を持ったまま、階段から落ちたのだろう。 「史緒っ、三佳っ」 すぐに起き上がらない2人に、祥子は叫んだ。 さらに祥子は理解した。抱き合うように倒れていたのは、史緒が三佳の頭を守るように両手で抱えていたからだ。三佳を守る代わりに、史緒の頭部は無防備で、長い髪が床の上に流れていた。その上にも、発泡スチロールや新聞の梱包材が落ちていた。 (まさか落ちてきた三佳を受け止めたのだろうか…) 祥子が10秒悩んで、救急車を呼ぼう、という結論に至ったとき。 「…っ」 史緒の腕の中から、三佳が頭を上げた。咄嗟に祥子は手を差し出した。 「三佳…っ、大丈夫?」 三佳は祥子の手を借りて、頭を押さえながら上体をあげた。視界がはっきりしないのか、瞬きを繰り返しながらも答えた。 「…なんとか」 「救急車呼ぼうか?」 「そんな大事じゃない…。5段目から落ちただけだ」 まだ立ち上がれないようだが、三佳は床の上で息をつく。梱包材だらけの周囲を見渡して苦笑しながら、「しくじったな」と呟いた。 そして次に史緒が起き上がった。 ぐいっと頭を上げて、半ば倒れ込むように三佳の双肩をガシッと掴む。 「───三佳…っ、怪我はっ!?」 すごい剣幕で詰寄った。 射るような瞳に間近から直視され、三佳は声を失う。いつもの史緒からは考えられないその激しいまでの勢いに三佳と祥子は驚いた。三佳は数回、唇を空振りさせてから、 「ない」 と、呟いた。 「…そう」 と、史緒の表情が緩んだのは束の間。 史緒は音を立てて一瞬で息を吸うと思い切り大声で叫んだ。 「馬鹿っ!」 怒鳴られると予測できなかった三佳の肩がびくっと揺れた。祥子も耳が痛くなるのを感じた。 「気をつけてっていつも言ってるじゃないっ! 危険物を扱ってる自覚くらいあるでしょうっ? ───待ってろって言ったのに、言うこと聞かないんだからっ。他人の助け手を断わるなら責任もって安全に運びなさいよ、自分のちからくらい自覚してよ、一人前だとでも思ってるのっ? こんなことになるなら、危険物持ち込み禁止にするから!」 三佳は声もなく、史緒の怒鳴り声をぶつけられていた。視線を落とすこともできなかった。 最初はらしくなく大声を出す史緒に驚いていた祥子だが、その辛辣な発言に少しずつ冷めて、反感を覚えた。 「───ちょっと。それ言い過ぎじゃない?」 と、床の上に座る2人に口を挟む。 「三佳に怪我はなかったんだし、今回はここを掃除すればいいだけの話よ。それに三佳の趣味についてとやかく言うのはお門違いでしょ」 確かに三佳の失態かもしれないけれど、史緒の発言は明らかに言いすぎの感がある。 今回のことで、この先三佳は気をつけるようになるだろうし、2人とも怪我が無いなら良しとすればいい。 史緒は三佳の肩から手を離して立ち上がった。スカートの裾を払う。 歩を進めて、祥子の目の前に立った。 冷めて、上目遣いに据えた瞳と目が合う。祥子はたじろいだ。…阿達史緒のこんな感情的な目を見るのは初めてかもしれない。 「じゃあ、祥子のときはそういうことに注意して声をかけてあげる。それでいいでしょう?」 挑発的な口調で、史緒は祥子に言った。いつもの皮肉ではない、明らかな嫌味。 祥子はカッとした。 「な…っ、…そんなときがあっても助けてもらわなくて結構よっ」 「三佳、そこ片づけておいて」 祥子を完全無視して、史緒はふぃと顔を反らせた。そのまま事務所のほうへと向かう。 「ちょっと、史緒…」 その時だった。 「なにこれーっ、どうしたんですかぁっ!」 場にそぐわないすっとんきょうな高い声が響いた。川口蘭だ。 「何かあったのか?」 関谷篤志もいた。この2人の登場に史緒は表情を曇らせたが誰も見ていなかった。 祥子が三佳を気遣って深刻にならない程度に状況説明をした。その間、三佳は床の上に座り込んだままうつむいて動かなかったし、史緒は事務所のドアに肩を預け、それを聞いていた。 「えー、じゃあ、あたし、片づけ手伝いますよ」 「いい。私がやるから、放っておいてくれ」 蘭の申し出に三佳は短く断わった。祥子もその心痛がわかるので、でも、としぶる蘭を押し留めた。 その後ろで、史緒はそっと事務所のドアを開けた。 早く、座りたかった。 「───…おい、史緒」 と、篤志が呼びかける。 「…っ」 舌打ちが聞こえてきそうな表情、史緒は顔をしかめた。こぶしでドアを叩いた。 気付かれたくなかった。 「どうしたんだ、…足。怪我でもしたのか?」 「篤志…っ」 史緒は苛く苦々しい声を出した。どうしてわかってしまうのだろう。この相手には。 それより驚いたのは祥子と三佳だ。 「え…、史緒? まさか怪我したのっ?」 「何でもないわ、騒がないで」 そう言った史緒の表情からは、先程三佳に向けていた刺々しさが消えていた。 「ちょっと捻っただけよ、痛みも大したことないわ」 史緒は足を痛めたことを肯定した。祥子は驚いた。先程、史緒は立ち上がって、祥子に近付いて、それからドアのところまで歩いていった。その間、何の異変も感じなかったのに。…それにそうだ。痛いという思いさえ、祥子は感じられなかった。ただ史緒からは刺々しい苛立ちのようなものが伝わってきただけだった。祥子の能力にも引っ掛からなかったのに、篤志は一目で史緒の不調を見抜いてしまった。 その篤志は祥子たちの後ろを横切って、ドアの向こうへ消えようとする史緒の腕を掴んだ。 「史緒」 「…ちょっと、篤志」 「病院行くぞ。黙ってるってことは、結構ひどいんだろ」 有無を言わせない篤志の迫力に史緒はすぐに言葉を返せなかった。 篤志は史緒の腕をひっぱり、ずるずると廊下へ引きずり出した。 「待って。ちゃんと病院へは行くから、篤志は残って」 「司には連絡した。すぐ来るよ」 「…」 三佳を一人にできない、という史緒の思いを篤志は見抜いていたようだ。 (侮れない…) 史緒は、…わかっていたけど、何度も実感したことだけど、今更だけど、篤志のことをそう思った。 史緒は観念したように、素直に篤志の腕に支えられて歩き始めた。その歩調はいつもと変わりなかったが、今度は顔の表情で無理しているのがわかる。歩き方を崩さないのは見栄を張っているのだ。 篤志が言う。 「蘭、史緒の上着取ってきてくれないか」 「はい」 蘭は事務所の中へ向かう。 史緒は祥子に言った。 「悪いけど、司が来るまでここにいて」 「わかってるわよ、それくらい」 祥子はぶっきらぼうに答える。史緒が怪我している手前、ストレートに強く言い返せない。 三佳が、声を発した。 「史緒…」 小さな声だった。 史緒は三佳に笑顔を向けた。 「大丈夫。すぐに帰るわ。…怒鳴って、ごめんなさい」 ぽん、と三佳の頭に手を置く。 蘭からコートを受け取ると、篤志と史緒は一階へと降りて行き、外でタクシーに乗り込んだ。 * * * 10分ほどで七瀬司が事務所へやってきた。 とにかく早く来い、と篤志に呼び出されていた彼はタクシーを使って帰ってきた。すぐ近くの医療施設に顔を出していたらしいが、そこからでも、自分の足で帰るのは得策ではないと司は判っていた。司は自分の鼓動で時間を、歩幅で距離を測っている。下手に急げば目的地へ辿り着くことができない。 祥子が司にひととおり状況説明をして、蘭と祥子は一緒に事務所を後にした。三佳のことは心配だったけど、下手に蘭たちがいるより司と2人だけのほうが三佳は落ち着くだろうと思った。 そういうわけで、祥子と蘭は並んで駅へ向かう。その途中のことだった。 「───三佳って…史緒にとって何なのかな」 と、祥子は独り言のように呟いた。その呟きの内容を理解しかねて、蘭は首を傾げる。 「一緒に住んでるし、特別なのかと思って」 あんな風に、史緒が三佳を助けたのは、祥子には意外だった。助けないほうが史緒らしい、って言ってるんじゃない。ただ、咄嗟のときに体が動くのは、理屈じゃないから。条件反射的に反応できるのは、日頃から何らかの心持ちをしているからではないだろうか。 蘭は、祥子の発言に思うところがあった。少しの時間でたくさんのコトを考える。う〜ん、と頭を悩ませる。言うべきか、言わざるべきか。 「確かに…、篤志さんの反対を押しきって、史緒さんは三佳さんを引き取ったって聞いてますけど…」 と、結局、控えめに言った。 「ふーん…」 そっけない声を返す祥子。何やら考えている様子。 蘭はその横顔を見て不服そうな顔をした。一瞬、迷ったが、やはり自分の言いたいことは言わせてもらうことにする。史緒は怒るかもしれないけれど。 「あのっ」 「ん?」 考え中であるにもかかわらずすぐに顔を向けてくれた。そんな祥子だから、ちゃんと理解して欲しいと思う。 「祥子さん誤解してます」 蘭は足を止めて、まっすぐに祥子を見据えて言った。 「今日のこと…、三佳さんじゃなく祥子さんでも、史緒さんは同じように助けたと思います」 「まさか」 祥子があまりにも早く、しかも笑いながら答えるので蘭は悲しくなった。ずずぅん、と胸に重りが積まれた気持ち。胃の口が締められたような鈍い痛み。 「ホントですよぉ、もぉ…」蘭はこぶしを構えて祥子に力説する。「だって史緒さん、ものすごいワガママなんですからっ」 「…は?」 突然、話が飛んだ気がする。蘭はおかまいなしに続けた。 「史緒さんは、気に入った人間しか近くに置きません」 ほんと、ワガママなんです、と付け加える。それは言い切ることができる、真実。 「A.CO.のヒトたち、皆さん、全員、そうです。史緒さんは気に入らないヒトと一緒にいられるほど、寛容じゃないんです」 「気に入った人間」という集合枠、円がそこにある。それより外側はすべて「興味のない人間」。それが阿達史緒の世界だ。(以前ひとりだけ、どちらにも属さない人間がいたがそれは大きな例外だ) その「気に入った人間」枠には、ほんの数人しかいない。 地平線より向こう、続く大地の上のほとんどが「大好きな人間」でその中の一部が「大大大好きな人間」という世界を持つ蘭とは大きく違う。 そんな蘭でも、史緒を取り巻く環境をよく理解している。 「───…気に入った、人間?」 祥子は自分を指差して、「冗談でしょ」とぎこちなく苦笑した。いつもの仲の悪さを思えばそれも当然だ。 蘭はムキになって言い返した。 「この間、お会いした大塚さんが言ってたでしょう? 昔の史緒さんは孤立してて、誰ともお話しなかったって。あたしが知る昔の史緒さんも、そういう人でした。…史緒さん、変わったんです…っ。祥子さんや、三佳さんに会ってから」 気に入った人間。興味のない人間。 昔は本当に、そんな単純な図式しか史緒の中にはなかった。 A.CO.設立後はもう少し複雑になったようだけど、それはアメリカ留学で経済学を修めてきたから? 愛想を振り撒かなければならない他人。単純に気に入らない人間。それでも付き合わなければならない関係。社会に出ればそういったものが必然となるので、史緒は経済学を学ぶにあたり、世界観を矯正しなければと努力したのかもしれない。 仲間が増えたことでもっと複雑になった。仲間が増えるたび、史緒が自分の世界観を構築し直した過程を思うと蘭は胸が熱くなる。嬉しかった。 でも、基本的な図式に変化はない。 気に入った人間。興味のない人間。 人嫌いだった史緒が共に過ごすようになったヒト。それ意外の人間。はっきり言って単純なのだ。 「どうして史緒さんが気に入った人間しか傍に置かないのか、祥子さん、わかります?」 * * * 引きずられるように病院へ連れて行かれると、意外にも早く診察室へ招かれた。 小さい病院のせいもあるだろうが、篤志の受付への態度が急患扱いにされた理由だろうか。慌ててはいなかったが迫力はあったと思う。大したことないのに大袈裟なのだ。数人の待ち患者のなかで史緒は肩身が狭かった。 そして憤りにも似た溜め息をつく。 さっき。篤志が事務所へ帰ってきたとき、史緒は内心で焦った。付き合いの長さで蘭や司に劣るものの、史緒の振る舞いの変化に篤志はとにかく目ざとい。うんざりするほど目ざとい。史緒本人でさえ気付いていない体調不良なども何故か気がつく。初めて会ったときから本当に不思議だった。篤志よりずっと付き合いの長い一条和成が「まるでお母さん≠ナすね」と笑ったことがある。その当時、史緒はまだ笑うことができなかった。ただその台詞の面白さに目を丸くしただけだ。 篤志に隠し事はできない。どんなにうまく隠してもこの足の痛みは篤志に気付かれるだろうと思っていた。でも。 でもそれをそのまま口にするほど無神経ではないと思っていたのに。(もし祥子が聞いたら「あんたに無神経なんて言われたらおしまいだ」とでも言うかもしれない) 三佳や祥子の前であんな風に暴露するなんて。史緒が憤っている理由はそれだった。 診察は15分程度で終わり、足首に湿布を貼られその上から大袈裟に包帯を巻かれた。靴が履けなかった。 「あの、もう少し簡単になりませんか?」 と、一応要望を出してみると、人の良さそうな老人の医師はあっさり快諾してくれた。包帯をほどき、薄地で固めのサポーターをつける。ずいぶんと軽くなった。足首の固定が心もとないが史緒には充分だった。 診察室の外で篤志は待っていた。 「大丈夫か?」 史緒がドアから出てくると椅子から立ちあがり、歩み寄る。 何ともない。そう言おうと思ったが、史緒の背後から低い穏やかな声が篤志に告げた。 「捻挫です。骨に異常はありませんが、思いっきり捻ってますのでしばらくは安静に」 さきほどの老医師だった。史緒が振りかえると相変わらず人の良さそうな顔で医師は立っていた。老医師は史緒の視線に気付くと目を向けてにっこりと笑う。 「お嬢さん。心配してくれる人に痛みを隠すのは失礼です」 今度は小さい声だった。苦い説教だ。医師は軽くウィンクしてみせた。 「湿布と痛み止め出しておきます。お大事に」 「…お世話になりました」 丁寧に頭を下げながらも、刺々しい声にならないよう最大限に努力した。内心を声に表してしまうのは感情をコントロールできていない証拠だ。史緒は自分のそれを許すことができないでいた。沽券に関わる。 薬をもらった後、少し休んで行こうと提案したのは篤志だった。史緒としても、この足ですぐに歩き出すのは辛かったので、その提案はありがたかった。───と思ったのは大きな間違いだと、すぐに察した。ソファに腰を降ろす動作で、篤志が怒っていることに気付いたからだ。それは当たっていた。 「…もう少し他人の気持ちを考えろ。痛いときは痛いって言え。あれじゃ三佳が気の毒だ」 厳しい顔と声でそう言われ、史緒は少々むっとした。「怪我した私が怒られるの?」と言い返そうとしたが、よくよく考えてみるとそれは皮肉でも嫌みでもない。単にここで起こっている現象であり事実でしかないので、史緒は口にはしなかった。 すぐに痛みを訴えれば、三佳になら応急処置くらいできた。篤志の言いたいことも判るが、外圧的でもそうでなくても、痛覚も口にしないのが史緒の性格だと、付き合いが長いのだからそろそろ気付いて欲しい。 「あんまり無茶するなよ」 先程よりいくぶんやわらかい声がかかる。史緒は今度は素直にそれを聞いた。 「…今日のは見逃してよ」と失笑混じりに呟く。「私は、自分が痛いのは嫌だから」 篤志は意外そうな視線を史緒に向けた。何言ってんだ、とでも言いたいかのように。 「痛くしてるじゃないか」 「そうじゃなくて、ね」 返答を予測していた史緒はすぐに切り返す。 「もし三佳が怪我でもしたら、私、すごく痛い思いをする気がするの」 どうしてそのとき動けなかったのか、何故それだけの冷静さと行動力を今までの生活の中で培ってこれなかったのか。きっと、果てしない後悔に襲われる。 篤志は、どうして史緒がその先まで考えられないのかと、苛立つ。 「同じ理由で、今回は三佳が痛い思いをしてるって、判ってるか?」 「構わない。自分勝手なのは承知してるの。改善するつもりはないわ」 「そう割り切るのは別にいいけどなぁ、でも───三佳のこと、おまえは知ってるはずだろ?」 「───」 ハッとした。うつむき、口を閉ざす。皆まで言わなくても、篤志と同じ昔を史緒は思い返したようだった。そして三佳も。 あまり思い返したくはない過去を、思い出させてしまった。 「自分勝手ってのはそういうもんだ、覚えとけ」 吐き捨てるような篤志の台詞に、史緒は何も言い返せなかった。 * * * 「掃除、終わった」 ドアの音とともに三佳が事務所へ入ってくる。階段下にぶちまけた薬品と割れたガラス瓶などをひとりで始末してきた。司はそういう作業は手伝えないので、大人しく事務所で待つ。もとより、三佳は手伝われることを望まなかったのだけど。 シャツの袖をめくり、水で洗った両手が赤くなっている。薬品を処理した後、消毒してお湯で手を洗い、最後に水で流した。それらの作業に20分ほどかかった。 ソファに座っていた司は三佳が立つ方へ手を差し伸べた。 「おつかれさま」 三佳はとぼとぼ歩いて、司の隣りに座る。落ち込んでいるようだ。視線を落とし、何も言わなかった。司は三佳の肩に手を置いた。三佳はその腕に頭を預けた。 「史緒に何か言われた?」 「…怒鳴られた」 「それくらい、心配したってことだよ」 わかってる、と。答えたかったのに、喉の奥が乾いて声にならなかった。 だって本当に解っていたんだ。 史緒の気性、性格。A.CO.のなかで誰より史緒の私生活を見ている、一緒に暮らしているんだから。 「…っ」 声につまる。それを我慢すると呼吸が乱れた。 その呼吸を聞かれたくなくて、三佳は司の腕から頭を浮かせ、そのまま倒れ込んで司の膝に顔をうずめた。握り締めた自分の手が、小刻みに震えていた。 司は膝の上にのる三佳の頭をぽんぽんと撫でた。 「史緒は気に入った人間をとことん守る性格だから」 守りたい人間しか、傍に置かないから。 そんな風に自己中心的に史緒は人を集める。 一緒に居たいと願った人を守れなかったとき、史緒のプライドは酷く傷つくだろう。 「だから僕たちも、自分自身を大切にしなきゃいけない。…わかるだろう?」 司の優しい声に、三佳はぎゅっと目をつむる。今、頭のなかに溢れている記憶を追い出そうとする。でもそれはひどく難しかった。追い出そうとしても、余計、思考に侵食してくる。煙を払うため振った手に、煙が触れるように。 「───…」 一瞬、弱音を吐きそうになった。でも声にならない。まだ自分の口から言葉を紡ぐことができない。 三佳は、自分が司の近くに居られるのは、三佳が司の過去を知らないからだと思っている。三佳は司の過去を知らない。そしてまた、司も三佳の過去を知らない。知られたくないと思う。 (わかってる…) わかってる。史緒のことじゃなく、司の言ったことでもない。 ヒトを傷つけるのは、本当に怖いコトだから。 * * * 川口蘭は、中学校の卒業式を終えて引越しを始めていた。 私立京理学園中等部、学生寄宿施設麻宮寮。編入生だったためにそこで暮らした時間はたった1年間だが、いざ去るとなるとやはり感慨深いものがある。ルームメイトの萩原絹枝や元クラスメイト達が荷物まとめを手伝ってくれて、予想より早く、撤退する準備が整った。 蘭が寮を出る前夜、十数人の仲間たちが食べ物飲み物を持って蘭の部屋に集まった。お別れ会と称して朝まで大騒ぎ。そしてその様子は朝になって管理人から教師陣に通報された。管理人にバレた理由は、多数の生徒が夜10時の点呼に不在だったからだ。それでもあんな大騒ぎを朝まで放っておいてくれたのは管理人の情けだろう。 罰として、蘭を含む計18名は朝8時から1時間、食堂で正座させられた。後輩達の物珍しそうな視線を受けつつも、正座している生徒達はみんな嬉々として、中学生活最後の罰則を楽しんでいた。 誰かが正座したまま歌い出した。それはこの学校の校歌で、また別の誰かが歌い始めて、やがて大合唱になった。蘭も大声で歌った。少しだけ泣けた。 ここから去るのは自分だけだ。淋しさと切なさと、新たな生活への不安。 でもこの道を選んだのは自分自身だから、弱音を吐くわけにはいかない。 だけど結局、堪えきれずに蘭は泣き出して、1年間付き合ってきた友人達に、心からのお礼を何度も繰り返した。 その日のうちに、蘭の荷物は引っ越し屋に運び出された。 「本は? 出しちゃってもいい?」 三角巾をつけた三高祥子が振り返る。「お願いしまーす」と蘭は答えた。そしてフローリングの床の上に立ち、室内を見渡した。ダンボールの山がいくつもできている。そのことに溜め息をつく蘭ではないが、祥子が来てくれなかったら大変なことになっていただろう。 今日は祥子が荷物ほどきの手伝いに来てくれているのだ。 蘭は学校法人早坂橋高等学校の寮へ引っ越しをした。 寮、と言っても普通のアパートで、どうやら学校が不動産屋と契約し、物件を斡旋しているというものらしかった。中学の寮よりはA.CO.の事務所に近くなる。新しい散歩道を開拓しなければ、と蘭は今から楽しそうだ。 「ねー、蘭」 膝をついて本を本棚へ移しながら、祥子が話し掛けた。 「何ですかぁ」 蘭も、細かいものをひとつひとつ箱から出しつつ、答えた。 「前に、史緒には好きな人がいるって言ってたでしょ?」 「はい」 祥子の何気ない問い掛けとしては想像もつかないことだったが蘭は全く気にしていない様子。いつもと同じ相打ちを打った。 「それって、篤志のこと?」 「違いますよー」 やんわりと即答されたことが不服で、祥子は手を止めて蘭のほうを見た。蘭が慌てることを期待していたのだ。 「でも怪しくない?」 そこで蘭も振り返る。祥子に視線を向けた。 「あたしも昔は心配だったんですよ。もしかして史緒さん、篤志さんのこと好きなんですか、って」 「それで? どうしたの?」 興味津々で祥子が尋ねると、蘭はあっさりと答えた。 「史緒さんに直接伺いました」 その行動の素直さも蘭らしくて、昔(どれくらい昔かは知らないが)からこういう性格だったのだとうかがえる。祥子はくすっと笑った。 「なんて答えた?」 「それ以前にあたしの質問が理解されてもらえなかったようです」 たはは、と蘭は苦笑した。 あれはいつだったろうか。 蘭が篤志と出会ったのは蘭が12歳のときで、もう4年も前のことだ。そのとき史緒は留学中だった。だから当時は、史緒と篤志がどんな仲で、どんな会話をするのかなんて知らなかった。実際はもっと他人行儀な風だったが、顔を合わせれば史緒は普通に挨拶していた。蘭はそのことに大変驚いた。当時の史緒が普通に挨拶するなんて考えられないことだ。 だからたったそれだけのことで、蘭は史緒に向かってこう言った。 『もしかして史緒さん、篤志さんのこと好きなんですかっ?』 そのとき史緒と蘭、2人だけだった。ただ隣りに篤志と司がいても、蘭は気兼ねなく同じように尋ねただろう。 『好きか好きじゃないかに分類しなきゃいけないなら、どっちでもない』 しらっと史緒は真顔でそんな風に答える。蘭はうなだれた。 『もぉ、史緒さん。あたし、真面目に訊いてるんです』 『私も、真面目に答えてるんだけど…』 『じゃあ、篤志さんのこと、どう思ってます?』 『どう…って、背が高いな、とか』 『あの、そういうことでもなくてでですね…。印象とか性格とか…』 『印象っていったら、初対面のときは親戚なんていたんだ≠チて思ったけど。他には七瀬くんが少し明るくなったのは篤志のせいかな、とか。あとは、そうね───…』そこで史緒は軽く笑ったようだった。お母さんみたいかな、と言って笑った。 「史緒さん、恋したことないんじゃないかしらって、思ってしまうこともあるんですけど、ね」 祥子に昔話をした後、一人で微笑む。 現在の史緒も、恋愛する余裕なんて無いように見える。そういう幸せを感じたことないんじゃないかと思ってしまう。ずっとずっとずっと前、蘭と史緒の好きな人が同じだった頃に、そういう感情を置いてきてしまったのではないかと思ってしまう。 でも違う。一時期の史緒は───黒猫を抱いていた頃の史緒は、うつむいたままでも、許せない人間がすぐ傍にいたままでも、恋をしていた。例え史緒がその感情の名前を知らなくても、きっと、そう。そうなんだ。 「じゃあ、誰よー」 降参、と祥子は白旗をあげる。 「祥子さん、知らないと思いますよ。それに史緒さん自身、自覚がないみたいですし」 それから蘭は力んで、頬を膨らました。 「あたし、すごく期待してたのに、拍子抜けです」 「あはは」祥子は声をたてて笑う。「でも、そういう話を聞くと、蘭も史緒とは結構付き合い長いのよね」 と、何気なく言った。 ぎくり、と蘭は内心で思った。 「え…あ、はい。そうですね」 珍しく蘭は言葉につまる。 祥子はそれだけ言うとまた手元の作業に集中し始めた。発展させたい話題でもなかったようだ。蘭は胸をなで下ろした。 いつか祥子に聞いてもらおうと思っていて未だ言えていないことが、蘭にはあった。 それは別に隠すようなことじゃないし、隠したいことでもない。単に話す機会がなかっただけだ。 蘭は祥子に、自分の本名も言ってない。蘭の国籍も、多分祥子は勘違いしている。それ以外にも、史緒とどれくらい昔から知り合いだったかとか、篤志と司とはどんな風に出会ったかとか。前に好きだった人のこと、大切な家族のこと。 蘭にとって祥子は史緒たちと同じ、無くてはならない人だ。本当のことは知ってもらいたい。 ああ、でも、言い出せないでいるのはきっと、A.CO.での人間関係が変わってしまう恐れがあるからだろう。蘭は史緒の昔のことはよく知っている。でもそれを祥子に知られてしまったら、今のままではいられない気がする。そんな予感がする。 「蘭」 びくっと、蘭は祥子の呼びかけに飛び上がった。考え事をしていたためだ。 「はいっ、何ですかっ」 祥子は本棚の本を指差して言った。 「なんか…洋書がいっぱいあるんだけど、蘭が読んでるの?」 すごいね、というニュアンスを含めた祥子の台詞。 本棚の中身はハードカバーの書籍や新書、単行本などが収められている。ぱっと見、実用書やドキュメンタリーが多いようだ。それらの中には英文のものが沢山あった。祥子はそれらをぐるっと見渡した。 「う…っ、はい…あたしが読んでます」 「法律の勉強したいって言ってたけど、英語ができなきゃだめなの? ごめん、私、疎いんだけど」 と、控えめに祥子が言うのを聞いて、蘭はキレた。 ぐっと両手を握る。膝を立て、床を蹴って、 「───…祥子さぁんっ!! ごめんなさい…っ」 祥子に思い切り抱き付いた。「え」祥子は床の上で正座した姿勢で蘭のタックルをくらったのでバランスを失う。危うく倒れそうになったがどうにか体勢を立て直すことができた。蘭は祥子の首根っこにしがみついたままだった。 「蘭! 危ないよっ」 「ごめんなさい、ごめんなさい」 祥子の言うことを聞かず蘭は何故か謝罪の言葉を連呼している。祥子は半ば呆れて嘆息した。 「…なに? 突然」 「あたし…あたしっ、祥子さんにずっと言わないでいたことがあったんですぅ」 と、蘭は叫ぶ。 (言わないでいたこと…?) 何のこと? と祥子は考える。でもさっぱりわからない。 がばっ、と蘭は顔をあげて、 「あたし、日本人じゃないんですっ」 と言った。もちろん、蘭にとってこれは事実で真剣で大真面目なので蘭は真顔だ。しかし祥子は口端をゆがませて、 「───は?」 と、呟く。冗談にしか聞こえない台詞に首を傾げる。でも蘭がこんな冗談を言うとは思えない。え、じゃあ、本当? …突然の告白がうまく思考に到達していない。でも蘭は必死になって続けた。祥子の反応には目を向けてないらしい。どんどん話を続けた。 「今までうやむやにしてたんですけど、あたしの実家は中国の特別行政区、つまり香港なんです。ご存知の通り、ちょっと前まではイギリス領でした、だから、英語はほとんど母国語なんです」 「───へ?」 ようやく意味が掴めてきて、祥子は目を丸くした。 「あの、ごめんなさい。隠してたわけじゃないんです…、───ただ、ちょっと、言いにくくて」 少しだけ落ち着いた蘭がそう繋ぐ。 (香港…?) 祥子は世界地図を思い浮かべた。しかしそれではレンジが広すぎるということで、次に天気予報などで見られる日本を中心としたアジア地図を思い浮かべた。香港は確かあの辺だったな、と考えた。祥子は地理はあまり得意ではない。───ああ、そうだ。確か1997年7月1日に「香港返還」ということで何かとニュースになった。その頃の学校のテストでも出た。 確かに、祥子は蘭のことを日本人だと思い込んでいた。いや、大抵の知人のことを「日本人」だと意識したことはない。それはあまりにも当たり前のことであって、再確認する必要もないことだからだ。自己紹介のときに国籍を言う習慣がないのと同じだ。蘭についても、そう。日本人だと意識したことはない。でも、「日本人ではない」と言われて、とても驚いている自分がいた。 言葉をくれないでいる祥子の顔を、蘭は覗き込んだ。 「ごめんなさい、祥子さん。怒りました?」 「え?…ううん」 祥子は我に返って蘭に笑いかけた。 「そんなことはないけど…───えっ、本当に香港の人なんだ? …うん、びっくりしたよ〜」 まだ混乱しているせいで、うまくまとまらない返答をする。蘭は安心したように溜め息をついて、いつもの笑顔を見せた。 「よかった〜」 祥子も笑ってみせた。蘭のことを話してもらえて嬉しかった。 「あたしの家族の写真を見ていただきたいんですけど、まだ箱の中なんです〜」 「うん。後で見せてよ」 「はいっ」 力強く、蘭は頷く。それから祥子は、少し疑問に思ったことを口にした。 「あ、ねぇ。史緒が昔からの友達っていうのは…?」 「ええ、友達ですよ。あたしの父と、史緒さんのお父様がお友達で、あたしは小さい頃から日本にはよく遊びに来ていたんです」 「篤志に一目ぼれっていうのも?」 「篤志さんとは史緒さんのご実家でお会いしたんです。その頃、史緒さんは留学中でしたけど」 「待って。司とも知り合いだったよね」 「司さんは…、事情があって一時期、香港のあたしの家で滞在したいたんです。だから、あたしの家族と一番仲がいいのって、実は司さんなんです」 新たな人間関係を教えてもらって、祥子は興味深く頷いた。 (…あれ?) 「じゃあ───…、蘭が日本へ来た理由は?」 「え? そ、それは…っ! 篤志さんたちの近くに居たいから、です」 蘭らしくなく、少しだけムキになって答えた。 「…」 祥子は考え込む。 蘭がA.CO.にやってきたのは祥子より後だ。祥子より一月ほど後だった。初めて会ったとき、確かに蘭は他の4人と既に知り合いのようだった。昔からの友達だと言っていた。 上京したと言っていた。それは嘘ではない。しかし厳密に言うと中国から来日したということだ。蘭は東京で暮らし始めた。都内の学校に編入して、通い始めた。中学3年の4月、中途半端な時期の編入だった。 その頃祥子は史緒との生活に嫌気がさしていて、我慢も限界にきていたころだった。そんなときに破天荒に明るい蘭がやってきた。祥子は、本当に、蘭に救われたと思う。蘭がいたから、A.CO.を辞めずにいられたと思う。蘭がいなかったら、自分は今、ここにはいなかっただろう。 「ねぇ…、蘭?」 なんだろう。何か、ひっかかる。 ちょっと、変な感じがする。 「どうして、もっと早くなかったの?」 蘭はその行動力を持っていながら、篤志と一緒にいたいなら、どうしてもっと早く、日本へ来ていなかったのだろう。…どうして? ねぇ、なんか、 「どうして、あの時期にここへ来たの…?」 ───…タイミング良すぎない…? 「祥子さん…っ」 蘭は悲痛な声をあげた。 蘭は動揺のあまり、持っていた木箱を手から離してしまった。落とした。 木箱の中身は封筒がぎっしりつまっていた。フローリングの床に封筒が散らばる。自然、祥子はそれらに目をやった。 何十とある封筒はすべて同じ模様、赤と青の斜線の縁取りで、つまりエアメールだった。一辺が切り取られていることから、それが過去にやりとりされた手紙であることが判る。多分、百は越える数の封筒が足元を埋め尽くす。 封筒のひとつから、一枚の写真が滑り落ちた。蘭の足元に。 それは三高祥子の写真だった。アングルから、それが隠し撮りされたものだということが窺える。 「なに、これ…」 祥子が呟いた。 蘭は口元を押さえて息を吸い込んだ。苦い空気が肺を満たした。 それは、祥子にも伝わった。 『あたしがA.CO.に入った本当の理由を知ったら、…祥子さん、怒るでしょうね。きっと』 過去そんなことを、史緒に言ったことがある。 そのとき、史緒は何と答えていたっけ…。 蘭はすぐに思い出せないでいた。 つづく |
23話「そこにいる条件」 END |
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