21話/22話/23話
22話「有意義な日」


 1999年も早一月と半分が過ぎた。
 10年以上前から使われてきた世紀末という言葉も、あと2年の命。そうしたらこの言葉は何の意味もないし、何も遺さない。つまり死語と成り果てる。でもまぁ、10年以上も現役だった流行り言葉なんてそう無いだろうし、貴重な言葉なのかもね。…でも、待って? あと2年経ったら、その時代のことを何て呼び表すのかしら。20世紀とか言うのかな。100年も経てば、22世紀になるというのに。
 1999年って言ったら、ノストラダムスの予言なんてのもある。でも知ってた? ノストラダムスの予言で大騒ぎしてるのって、日本くらいなんだって。実際、アメリカじゃ、一部のカルトさんしか知らないしね。そういうものを誇張して考えるっていうのは、日本人には日常に不安を感じているヒトが多いってことかな。それとも、幸でも不幸でも、劇的な時代を生きたいという願望を持つ人が多いのかしら。平和な時代に生きることを退屈に思う人もいるんじゃないかな。ぬるま湯に浸かりきってる自分に、不安を感じてるヒトが、沢山、いるんじゃないかしら。…やだ、これじゃ堂々巡りじゃない。



「あ…。東京タワー」
 大塚真奈美は車の後部座席から窓の外を眺めていた。
 後ろに流れて行く景色は別に面白くもないが懐かしさはある。懐かしい、日本の風景だ。
 窓枠に片肘をついて、とくに感慨もなくぼーっとしていた。軽く吹き出したのは、自然にこぼれた自分の呟きさえ、平和ボケしていることに呆れたからだ。
 スーツなんて、本当にたまにしか着ない。大体何で、こんな機能的でないものを、大概の社会人は毎日着ているのだろう? それとも機能的だと思ってないのは自分だけか?
 それでもスカートがタイトミニなのは、自分の信条。茶色がかったウェーブパーマと、鮮やかなオレンジ色のマニキュアと、合わせてオレンジベースのメイクも同上。今日のクリーム色のスーツは安っぽくてあまり好きじゃないけど、この靴に合うスーツが他に無いので、不本意だけど許してる。妥協は好きじゃないのよ、本当は。
「ここは浜松町ですからね。すぐ近くですよ」
 先程の真奈美の呟きを耳にしていたのか、この車の運転手をつとめる吉川は、前を見ながら声をかけてきた。車は丁度、信号で止まったところだった。
「日本に帰ってきたな、って気がするわぁー」
「後で行ってみますか? こちらには数日滞在予定なんでしょ?」
 デートの誘いかしら? と、思うほど真奈美もおめでたくはない。
 この吉川という男、年齢は25歳というが、なかなか苛めやすい性格だということを、真奈美は見抜いていた。初対面は1時間程前だが、会話のなかで色々突ついてみて、その反応がいちいちその傾向を表していた。嫌いじゃないタイプだ。
 真奈美は今年23歳になる。外見だけならもっと若く見えることに自信はあるが、今日はスーツなのでイイトコ職探しの大学生だろう。
 その、小娘の私に、年上の男が車で迎えに来てさ、アゴで使ってるなんて、いい身分だよねぇ?
 自慢気に言いながらも失笑してしまう。…この感情の名前も知ってる。テキストに載ってたもの。
「───今、行きたいなぁ」
 突然、真奈美はわざと大きな声で言った。窓の外を見ながら。
 この姿を、吉川がミラーで見たのが分かった。
「…は?」
 と、ハンドル操作を忘れずも、歪んだ声を返してくれた。型通りの反応は嬉しいものだ。
 真奈美は運転席の背もたれに手を回して甘えた声を出した。
「い、ま。───ね? 吉川くん」
「だっ、だめですよっ。これから講演会があるでしょう?」
「ちょっとくらい遅れたっていいじゃない」
「だめですっ、僕が叱られますっ、教授たちに念押されてるんですからっ」
 真奈美が日本にいる間のマネージャー、という彼の立場を分かっているつもりでも、真奈美はむっとした。
 いつも以上に残酷な真奈美さんが胸に降り立つのを感じる。
「───ああ、そぉ」
 低い声でそう呟いて、真奈美は今度は吉川の首を締めるように腕を回した。
「車止めないとキスするわよ」
 即座に車は急停止した。



 真奈美は軽くスキップをしながら、アスファルトの歩道に降りた。
 伸びをする。すると袖がつっぱって、スーツの息苦しさを改めて感じた。
「ちょ、ちょっと大塚さんっ!」
 律義に車を端につけハザードを点滅させ、吉川が追ってきた。彼もスーツを着ているが、かなり着古した感がある。
「さーて。こんな街中を歩くのも久しぶりだわぁ」
 わざとらしく真奈美は言って、吉川から逃げるように歩き始めた。大通りから一歩入った静かな道で、高い建物もなく、東京タワーがよく見えた。吉川はすぐに追いついたが、真奈美が一向に足を止める気配がないので口で説得するしかない。
「大塚さんっ! ほんとにマズいですよっ。また後でつれてきてあげますから」
「今日行きたいのよ。私、3日間しか日本にいられないのよ? その間、こんな天気の良い日は他にないかもしれないじゃない」
「講演会も今日と明日しかないんですぅ〜」
「んー、まぁ何て言うか、その講演会もギャラ安いしね。はははっ」
「頼みますよぉ、大塚さーん」
 ビシッと、説得力のある言葉で叱責されれば、真奈美は嫌々ながらも従っただろう。けれどそんなスマートさより、吉川のような自分の立場に同情させるような口振りのほうが好みではある。相手の良心に賭けるほうが、よりスリリングだから。結局、それって、甘えてるってことなんだけど、嫌いじゃないのよ。
「あら、こんなところに喫茶店がある。ねぇ、ちょっと入ってみない?」
 住宅街と呼ぶか商店街と呼ぶか微妙な道通りの洒落た佇まいの店に、真奈美は足を止める。
「大塚さん!」
 勿論、真奈美は吉川の訴えを無視して、ベルつきのドアをひいた。
 ちりりん
「いらっしゃいませ」
 なかなかステキな青年が渋い声で挨拶をした。青年、と称したがそれは真奈美の希望的贔屓目で、実際は青年か中年か、微妙な年齢だった。
「こんにちはーっ、いいお天気ですね。2人なんですけど、席、空いてますか?」
 明るすぎる真奈美の問い掛けに動じる様子はなく、青年はさわやかに、
「こちらの席へどうぞ」
 と、物腰静かに店内へと2人を案内した。真奈美は頷きながらも、(やるわね、このマスター)などと思っていた。
 仲間内や恩師に言わせれば、真奈美は性格が悪い、ということになる。でもその性格の悪さが、他人から嫌われる要因にならない、とも。
 真奈美はその人その人によって、一番やっかいな性格を演じることができる。
 演じたいのだ。
 困らせてあげる、たじろがせてあげる。私はそれを観察するだけ。
 動揺したときこそ、本当のその人がよく見えるから。
 何気ない表情、瞬きの数、眉のひそめ方、指先の癖、足の揃え方。身だしなみの気の遣い方、粗雑さ、歩き方座り方。
 気付いてないでしょう? そんな風に見られてるなんて。
 表面の笑い方。内面の笑い方。
 研究対象はヒト。日常のことなの。
「大塚さーん。僕の立場も考えてくださいよぉ。心理学者なんでしょお?」
 吉川がまだ泣き言を言ってる。読みに反して諦めは悪いのかもしれない。(おかしいなぁ)
 そこで真奈美は初めて振り返ってやった。
「ほらほら、店の中では静かに。大人しく観念したら? 奢るわよ?」
 窓際の席に腰を下ろす。少しばかりパニックを起こした後、吉川は結局、向かいの席に座った。
「お茶したら、大学のほうへ向かってくださいね、いいですねっ」
 と、強い押しを見せた。真奈美は「はいはい」と笑って見せる。
 仕方ない、こちらも公費で来日しているわけだし、東京タワーはまた今度かなぁ。とほほ。
 真奈美は窓の外の景色を見た。アスファルトの乾いた地面に人通りは少ない。今日は土曜日であるにもかかわらず、だ。日本の休日ってどんなだったっけ? そんなことを思う。
 次に店内へと視線を向けた。明るすぎない店内は落ち着いた色調で、BGMは流れているけど静かな雰囲気だった。客は真奈美たちの他は、カウンターで読書中の老人と、奥でたむろしている5、6人の若者だけ。
 真奈美は自然と、その若者の集団に目をやった。男女入り混じって、仲良さそうに談笑している。一部、仲悪そうだけど、それはそれ。気を許し合った仲間なのだろう。
 そういう風景を見て、少しだけ羨ましく思ったりするのは、自分が年をとったせいだろうか。青春してるねぇ、と内心で冷やかしているのも、…同上。
「何、見てるんですか? 大塚さん」
「ん? ちょっと、向こうのワカゾーたちをね」
「自分だって若いじゃないですか」
「あら、吉川くん、お世辞も言えたのね」
 吉川は何か言いかけたが、そのまま言葉を飲み込んでしまった。表情からすると、もしかしたらお世辞じゃなかったのかもしれない。無神経なことを言ってしまったかな?
 それでも特にフォローはせず、真奈美は再び視線を店内奥の若者パーティへと移した。
(それにしてもおもしろいなぁ)
 男の子が3人、年齢は10代後半から20代前半だろう。おもしろいのは皆それぞれタイプが違うことだ。女の子は4人。ひとりは小学生だった。
 一際、真奈美の目を惹いた子がいた。女の子。ミドルティーン。
 その、どこに惹かれたのか、真奈美はすぐに分からなかった。
 パーティの中、中心となる席に座っているけど、会話の中心ではない。何を話しているのか聞こえはしないが、それは判った。ほとんど喋っていないからだ。大人しく他の人達の会話に耳を傾けている。時折、かたちばかりの相づち。目立たないけどさり気ない動作。周囲に気付かれないよう、動く視線。
 それを見て、真奈美は軽く目を見張った。
(…なに、あの子ぉ)
 真奈美はびっくりした。
 同類に会えばすぐに分かる、という自負はあった。まさしく今がそれだ。
 他の人間の一挙手一投足、表情、仕種を───見ていた。周囲に気付かれないまま。
 彼女は、「観察」する目を持っていた。
 その目は見ている。何気ない表情、瞬きの数、眉のひそめ方、指先の癖、足の揃え方。身だしなみの気の遣い方、粗雑さ、歩き方座り方…。
 真奈美と同じ、すでに癖になっている瞳。
 多分、彼女は真奈美と同じ。言葉で相手をコントロールする術を持ってる。計算高く、つまらない知識をいっぱい持ってる。そしてそのつまらないことを、自分の生き様に反映させようとしている。
 そんな、人間。
 まさか十代の女の子に、同類を見つけられるとは思わなかった。
 片肘ついて、「観察」してしまう。
 さり気ないけど、意識されたタイミングでの発言。
 仲間の反応をひとつも見過ごさない視線の配り方。
(…あ)
 それから、真奈美は見てしまった。
 彼女の、周囲に気付かれないように、静かに表した、無意識下の内面の笑顔。
 一瞬でしまわれてしまった笑顔───だけど、その表情が表していた思いまで、真奈美は見た。
 ぎこちない表情だったのはきっと彼女が笑うことに慣れていないからで、すぐに表情が戻ったのは、自分の本心を見せたくないからだ。
 でも確かに彼女は笑った。
 多分、きっと、その瞬間の、真奈美以外見ることのなかったその笑顔。それを見た後、ふと真奈美は自分自身に失笑する。
 私ほど、性悪じゃない、か。
 先程まで穿った見方をしていた自分に、反省する。
(ごめんね)
 勝手に同類視してしまったことに、真奈美は心の中で謝った。
 そのとき、ふと、突然、真奈美の胸のなかに、懐かしい風景が思い浮かんだ。
「────えっ」
 びっくりした。突然浮んだ、その思い出に。もうさっぱりと忘れかけていたことに。
 あ。と、すぐに思い付く。
似ている、気がしたんだ。
 彼女が、昔の知り合いに。
(あーびっくりした、何で突然思い出したのかと思っちゃった)
 真奈美はすっきりして深々と息を吐いた。
 似ている人物を見た。それは確かな原因だから。
 原因や要因のない既視感なんて、気持ち悪いだけだ。どこかに必ず原因はあるはずだから。
 真奈美はそれをはっきりさせずにはいられない。
 ちらり、と。また彼女のほうへと目をやる。
(でも…)
 昔の知り合いに、確かに彼女は似ているけれど、別人だと言い切ることができる。
 だって、「あの子」はあんな笑い方する子じゃなかった。
 あんな風に、仲間といることに幸せを感じて笑うような子じゃなかった。
 同一人物だったら、それはそれで楽しい。確かに年齢も合う。何が「あの子」を変化させたのだろう、と。何が、変えてくれたのだろう、と、興味深いかもしれない。
 そんな劇的な再会を期待しないでもないけど、それを願うほど、真奈美もお気楽じゃない。
「あー、もう、やめやめっ」
 自分の空想を取り払うように独りごちて、真奈美はお茶を口に含んだ。
 そのとき、若者パーティの中の一人が、他の誰かの名前を呼ぶのが聞こえてきた。
「!」
 その名前が、彼女のものとは限らない。───でも、こんな偶然も、あるのかもしれない。
「───…うそぉ…っ」
 次の瞬間、真奈美は叫んでいた。


*  *  *

 2月半ばの土曜日。
 A.CO.のメンバーは月曜館で定例ミーティングを行っていた。
 ミーティングといっても、所長である阿達史緒からの業務連絡はあっというまに終わった。特記事項としては、史緒はこれから依頼人に会う約束があるとのこと。その後を任せる関谷篤志にいくつか言伝をしていた。それ以外には大体いつもと同じで急用もない。今は恒例の雑談の会となっていた。
「そっか。蘭と祥子、今年卒業だっけ」
 と、木崎健太郎は会話の途中で思い出したように言った。史緒と当人たちを除くメンバー、関谷篤志、七瀬司、島田三佳は健太郎と同じようにそのことを忘れていたようで、ああそうか、と頷いた。
「そうでーっす。あたし、高校生になるんですよぉ」
 自分のことがネタに挙がり、川口蘭は手を叩いてはしゃいだ。三高祥子も軽く頷く。健太郎は蘭の台詞に反応し、
「どこのガッコ? ああ、蘭って付属中だったっけ」
 と質問になりきらない質問をする。
 川口蘭は全寮制の私立女子中学に在籍していた。健太郎の記憶通り確かに同系列の高校もある。
 しかし蘭はおだんご頭を横に振った。
「いえいえ。外の高校です。入試だってちゃんと受けましたもん」
「どこ?」
「早坂橋です。お茶の水にあるんですよ」
「げっ。レベル高いじゃん」
 と、健太郎は少なからず驚いた。学校の名前を聞いてレベルがわかるのは現役高校生の健太郎と祥子くらいだろう。祥子はすでに蘭の進学先を知っていたのか、驚いた様子はなかった。
「祥子のほうは? 進学するのか?」
「しない。健太郎は───…あ、まだ2年だっけ」
「そういうこと」
 来学期も健太郎は高校生だ。3年生になる。
「そーすると、残る学生組はオレと蘭だけかぁ」
 この集団、平均年齢が低い割に学生少ないなぁ、としみじみ息をついた。
「え?」と、司が首をかしげた。「あと2人いるよ」
「三佳だろ?」
 健太郎はすぐに言い返した。
「でも、こいつ学校行ってるの見たことねーもん」
「こいつ呼ばわりされる言われはない」
 最年少の三佳は苦々しい声を健太郎にぶつけた。島田三佳は今年11歳になる。近隣の小学校に在籍しているが、その手続きの時しか足を向けた覚えはなかった。
「あと1人」
 司が笑って促す。
「へ? 司は学校行ってないって、前に言ってたよな? 史緒は行く暇なんて無いだろうし」
 健太郎はう〜むと考え込んだ。消去法でいくと悩む必要もないのだが。
 健太郎がその回答へ行き着く前に、蘭が、
「篤志さん、大学生ですよぉ」
 と、のんびりした声で言った。健太郎は目を見開いた。そして篤志のほうへ振り返る。当の篤志は気まずそうに視線を外し、表情をゆがませていた。
「うそっ、篤志って大学生だったのっ?」
「…まーな」
 視線を外したまま、低い声で答える。
「とうとう留年したけどな」
 と、三佳。やかましいっ、と篤志につっこまれる。司も史緒も笑っていた。
 健太郎の驚きはまだ収まらなかった。
「まじぃ? 祥子、知ってた?」
「そりゃあ、あんたより1年長くここにいるんだから…」
 知らないわけないでしょ。祥子は健太郎の驚き様に呆れて肩をすくめた。
 健太郎は次に篤志のダブりについてしつこく尋ねた。そんな風にしばらく学校ネタで場が盛り上がる。
 会話が一区切りしたとき、今まで聞き側に回っていた史緒が口を開いた。コーヒーカップを両手でくるみ、もてあそびながら。
「そういえば、祥子」
「なによ」
 自然、祥子は仏頂面を向ける。
「確かA.CO.に入ったばかりの頃こんなこと言ってたよね。卒業したら就職してこんなところやめてやるって。───就職できたのかしら?」
「…っ」
 突然、昔のことを持ち出されて、祥子は焦った。嫌味としか思えない言葉をしれっと発言した史緒を思いっきり睨み付ける。
「えぇっ!? 祥子さんやめちゃうんですかぁっ?」
 と、史緒の台詞を真に受けたのは、もちろん蘭だけで、
「あっはっは、おまえ、そんなこと言ったんだ」
 吹き出して笑い飛ばしたのは健太郎。
「不景気で就職難だし」
 と、司。
「無理無理。誰の下でも働ける性格じゃないだろ」
 これは三佳。
「どんな職に就くかは興味あるな。ほんと」
 篤志までも。
 蘭からは心配そうな視線を向けられ、他の4人からは遊ばれているような視線を向けられ、祥子は、照れ混じりの敗北感を味わった。それぞれに言い返したいことがあるがいちいち答えていられないので、代表として史緒に文句を言うことにする。
「史緒っ、あんたねぇっ」
 史緒に食って掛かる。史緒はそれを無視してコーヒーを飲んでいた。
 そのときのことだった。
「───しぃちゃんっ!!?」
 店内に悲鳴が響いた。
 それは言葉通り、店中に響いたし、A.CO.の面々もびっくりして、一斉に音源へと目をやった。ただ一人、阿達史緒を除いて。
 叫んだのはA.CO.のメンバーでは、勿論、ない。しかし誰なのかはすぐにわかった。
 その声を発したと思われる人物が、窓際の席から立ち上がり、こちらを見ていたからだ。
 スーツ姿の女性が、目を大きく開き、口を開いて、こちらを凝視していたからだ。
 祥子たちもその女性を凝視してしまった。
「……しぃちゃん=c?」
 メンバーの誰かが呟いた。そしてそれぞれは顔を合わせる。
「なにそれ」

 ───その出来事に唯一行動の見られなかった史緒だが、平然としていたわけではない。
 史緒はコーヒーカップを口につけたとき、その叫び声を聞いた。耳にした。
 ひっかかるものを感じた。コーヒーを飲みこむことを忘れ、無意識のうちに、頭の中で検索が始まる。
 しぃちゃん。
 その単語は、確かに、聞いたことがある。
「…ゴホッ」
 喉が鳴った音に、皆が振り返った。史緒はそれを抑えようとしたけど遅かった。
 コーヒーが気管に流れ込み、史緒は激しくむせた。
「史緒さんっ? 大丈夫っ?」
 蘭が素早く近寄り、背中を擦ってくれた。史緒はハンカチを口に当てて、咳を止めようとするがうまくいかない。胸が焼ける苦しさに滲む涙を我慢できなかった。
「どうしたの突然」
 これは祥子の声。心配しているわけではなく、驚いているのだ。
 しかし驚いているのはこっちだ。
 史緒はこの状況にどう対応するかに頭を回さなければいけないのに、それに集中することができなかった。どうして。
 どうしてあの人がここに?
 咳はまだ収まらなかった。蘭が何か声をかけてくれているけど、それも聞こえない。
「───うっそ、本当にしぃちゃんだぁ」
 すぐそばで、あの人の声が聞こえた。みんなが戸惑っているのが分かる。
(───っ)
 史緒は咳を、飲み込んだ。ハンカチで口元を拭いて、顔を上げる。
 忘れかけていた懐かしい顔が、人懐っこい表情で笑っていた。
「久しぶりだねぇ。元気でやってるー?」
「…真奈美さん」
 真奈美は史緒が自分の名前を憶えていることに驚いたようだった。
「うそっ、史緒の知り合い?」
「ていうか、しぃちゃんってなに…?」
 祥子と健太郎はそれぞれ思っていることを正直に口にした。それに応えて真奈美はにっこり笑う。
「しぃちゃんは、史緒の愛称よ」
「真奈美さん」
 史緒は強く、その名を呼ぶ。あまり余計なことは言って欲しくないのだが。
「やん、まなちゃんって呼んでって言ってるじゃなーい」
「私も、その呼び方やめてくださいって何度も言ってるじゃないですか」
「なによー、かわいいのに」
「…帰って来てたんですね」
「ついさっきね。またすぐ戻るわ。…それよりっ! やだー、やっぱり敬語なのね。なんか変なカンジ、英語で喋ってるときとニュアンス違うー」
 ひとり興奮してはしゃいでいる真奈美に視線が集まった。そのことにようやく気づき、あら、と真奈美は居住まいを直す。
 史緒も篤志たちから同じような視線を送られ、一瞬迷ったが、やはりこの状況でしなければならないことはひとつだ。
 こほん、と空咳をひとつ。史緒はまず真奈美に向かって言った。
「真奈美さん。彼らは私の仕事仲間なんです」
「えぇっ!?」
 真奈美は大袈裟に顔をゆがませて、体全体で驚いたことを表現した。でも史緒はそれを無視して、次に真奈美を示して言う。
「こちらは大塚真奈美さん。私の昔の…知り合い」
 語尾が小さくあいまいな言い方だったので、真奈美は強引に史緒の紹介に付け足しを加えた。
「はじめまして。史緒とは留学してたときの同郷仲間なの」
 と言うと、一同の間にざわめきが伝わった。
「史緒って留学なんかしてたのっ?」
 祥子が驚きの声を…何故か史緒ではなく篤志に向けて言った。史緒本人に聞いてもまともな答えは返ってこないと踏んだのかもしれない。それはある意味正しい。
「あ、ああ。3年くらい前だな」
 篤志まで真奈美の登場に驚いている動揺が見てとれた。史緒はすかさず口をはさんだ。
「単なる語学留学よ、それも1年間だけ」
「14歳…だったっけ? かわいげのない子供だったのよー」
 真奈美の台詞。史緒はハラハラしながら聞いていた。昔の自分のことを語られるのはあまり嬉しくない。
 そのとき、真奈美の発言を妨げる助け船があった。篤志だ。
「史緒、時間」
 と、短く控えめに言う。あっ、と史緒は腕時計に視線を落とした。この後依頼人と会う約束があった。
「すみません真奈美さん。私は仕事があるので失礼します」
「あ、そうなの」
 真奈美はあっさりとそれを了解した。
「じゃあ、名刺ちょうだい。どうせあんたからは、連絡なんてくれないだろうから」
 史緒は自分の名刺を真奈美に渡した。簡単に渡したのには理由がある。連絡先を教えたからと言って真奈美が頻繁に連絡をするような人物ではないと知っているからだ。そうでなければ仕事関連以外に名刺をばらまくことはしない。真奈美は史緒の名刺を一瞥して軽く口笛を吹いた。コメントはなかった。
「じゃあ、篤志。あとよろしく」
「ああ」
 史緒はハッと気付いた。自分が去ることの危険性を。
 この後この場所に残る真奈美がどんなネタを暴露するかなんて想像もつかない。真奈美のほうを見ると、彼女はニヤニヤとあまり良くない笑いをしている。
 史緒は真奈美に近付くと、小声で念を押した。
「くれぐれも余計なこと言わないでくださいね」
 真奈美は面白そうに目を細めて、
「はいはい」
 と笑い、去って行く史緒に手を振った。(私が大人しく黙ってるわけないでしょー)と内心で思いながら。



 吉川に少し時間をもらって、真奈美はこちらのテーブルにおじゃましていた。さきほどまで史緒が座っていたところに遠慮無く陣取らせてもらう。真奈美は一同、6人をぐるりと見渡してから驚嘆の声で言った。
「まさか、あの子が誰かと一緒に仕事するなんて思わなかったわ。だって、絶対、自分の仕事は一から十まで自分でこなすタイプよ。リンゲルマン効果を重んじるっていうより、単に他人に頼ることができないの」
「リンゲル…効果? ってなに?」
 すかさず健太郎が尋ねる。会話のなかで解らないものを放っておけないタチなのだ。
 真奈美はわざとすぐには答えず、他の誰かからの説明を待った。視線を交わすなかで、どうやら篤志と三佳が知っているようだということがわかった。三佳は説明するのも面倒くさそうだったので、篤志が発言する。
「作業をひとりで行うより集団で行う場合のほうが、ひとりあたりの作業量が低下する現象のこと。社会的手抜き≠ニも言う」
 職を分け与える。それで能率が低下しようと、そのような手抜きがなければ社会は成り立たないということだ。
「あ、私的にはね、社会に必要な非効率的手法≠セと思ってる。でもね、必要だとわかっていても、あの子はひとりで作業するタイプだと思ってた。だから驚いたの」
「しぃちゃんて…」
 むぅ、と眉をしかめる蘭の呟きに、
「あぁ、それは。単に私が〜ちゃん≠チていう呼称にこだわりがあっただけ」
 真奈美は笑って答えた。
「別に言語学が専門ってわけでもないんだけどね。日本語って、動詞が主語や目的語の後にくるオブジェクト指向でしょう? それに表音文字と表意文字を組み合わせるシステムとか、世界的に見てもすごく優れた言語だと思うの。表音文字だけとか表意文字だけっていう言語と比較したら、その表現力の差は歴然だよね。おしむらくは、発音が単純だから同音異義語が多すぎることだけど。その日本語で特に特異だなぁって思うのがちゃん=B敬称じゃないけど、すべての年齢層に付けられて、性別関係なくて、親しみを込めた冠詞じゃない? しぃちゃんは嫌がったけど、数少ない同郷仲間だったし、そう呼んでいたわけ」
 A.CO.の6人のなかで何人がこの説明を追えていただろうか。哲学、とまでは呼ばないだろうが、どうやら独特な考え方をする人間らしい。確実に、そして共通に伝わったことといえば、大塚真奈美が変わり者だということだけだった。
 真奈美は史緒のことを口にした。
「さっき言ってた語学留学っていうのは嘘よ。果てしなく無口だったから、私も最初は言葉が分からないのかなーって思ってたんだけど、あの子、私たちの陰口、全部理解してたもの」
 クスクスと思い出し笑いをする。
「え? じゃあ何の留学だったの?」
 と、祥子。その疑問に答えたのは司だった。
「経済学…だったよね? 篤志」
「表向きの理由は」
 篤志もはっきりしない答え方をした。
「表向き? なにそれ」
 祥子が訝る。
「親に金出させるための理由。俺も実際、史緒がむこうで何してたかなんて知らないんだ」
「僕も篤志も、その頃はお互い仲が良かったわけじゃないしね」
 今の関係を仲が良いと表現するかは疑問だが、と三佳はつっこもうとしたけど話の腰を折ることになるのでやめた。
 真奈美は人差し指をぴんと立てて、それだっとでも言うように口を開いた。
「そうそう、確かに経済学部に在籍してたみたい。うちには聴講生としてたまに顔を見せてたくらいだし。テストは受けてたな。成績は散々だったけど」
「え、それは意外。史緒って意地でもいい点取りそうなのに」
 祥子の発言に真奈美は大きく頷く。
「あは、そういう性格よね。───でも史緒はだめだった。だって感情が無いんだもの」
 あっけらかんと笑いながら真奈美は言ったが、この台詞に一同はしんとした。
 感情がないんだもの。
「どういう意味?」
 誰かの呟きに真奈美は二の腕を揉んだ。さて、どう言ったものか。
「───これは悪口だけど、あの子、どこか欠落してると思わない? 少なくとも留学中のしぃちゃんに対して私はそう思ってた」
 と、息をつく。
 心理学ほど、無意味な学問はない、と真奈美は思っている。それでも無駄ではないからこの分野に足を着けているのだが。
 心理学っていうのは一言で言うと精神が肉体に与える影響を考える♀w問だ。しかしそれも統計学に偏って、ときには笑っちゃうほど理数的。一般に言うところの人間的≠ネ、人の心の奥深く、知らなくていいことを追求する。
 人の感情にいちいち理由なんか無くてもいいのに。
 でも、見えないものを探ろうとするのが、人間ってもんだから。真奈美はそう思っている。
「美しいものを見たときに泣きたくなる、胸が痛くなる気持ちって解かるでしょう? 朝焼けや夕暮れ、満天の星空を見たときとか。どうして胸が痛くなるのか、それは一言で言えば感動してるからなんだけど、感動っていうのは興奮、感情が揺さぶられるからであって、その揺さぶりが痛みとして捉えられているからなんだよね。他にも、別れが何故悲しいのか、譲れないものを主張するときの高潮、それと同居する不安。───そういった感情を、しぃちゃんは知らなかったの」
 全員が真奈美に注目していた。
「当時14歳、そりゃ、まだ子供だったけど、明らかに異常だったわ。…私はしぃちゃんがどんな風に過ごしてきたかなんて想像もつかないけど、知らないのか、それとも忘れてしまったのか、…何があったのか。当時の私にはそんな異様さばかり目についてた。
 ある教授がこう教えたの。『心理学とは、人の心の隙間に優しく入り込むようなものだ』って。はっきり言って私は笑っちゃったけどね。しぃちゃんがその先生のカウンセリングを受けたときがあったの。そしたらよ? あの子何て言ったと思う?」
 ずずいと体を乗り出させ真奈美は一同を見渡した。
 あれは忘れもしない。真奈美は当時、教授の背後から阿達史緒を見ていたのだから。
『心理学とは、人の心の隙間に優しく入り込むようなものです』
 そう言った教授の背を見て、真奈美は鼻で笑った。誰にも気づかれなかった。
 そしてその言葉を向けられた史緒本人はこう答えた。真顔だった。
『では、このカウンセリングは無意味です』
『私は、隙間があるような広い心を、持っていないので』
「───子供の理論よ。でもだからこそ、子供が真顔でそんな台詞を吐くのに寒気がした。…この事は学科の語り種になってるわ」
 あの子が笑っているところなんて見たことなかった。
 何かを必死で抱えているように見えた。
 自ら心を狭くしてしまうような、どんな経験をしてきたのか。
「ね。史緒、イイ顔で笑うようになったと思わない? 私、最初見たとき分からなかったもの。あなたたちのおかげかな」
 その真奈美の台詞にA.Co.の6人は顔を見合わせた。それぞれが別の反応を見せる表情を表す。
 それを見て真奈美はおもしろそうに笑っていた。





 アメリカへ渡ったとき、私は19歳だった。
 大学を休学して日本を飛び出した理由は…まあ色々ある。
 あの頃は本当に色々なことがあって、突然、何もかもいらなくなった。家族のこと、恋人のこと、友人のこと。それらすべて、無性に捨てたくなって、すべて失いたくなって、出発日を誰にも告げないまま飛行機に乗ってた。
 今思い返すと、馬鹿みたいって思うけど、若かったんだ。私。
 アメリカの大学では、持ち前の社交性と培った言語力で友達もすぐにできた。日本に居た頃は不器用さばかり目立った私だけど、実は要領がいいのかもって気付いたのはこの頃。課題は毎日、分厚い本1冊。講義では容赦なく置いていかれるし、些細ないざこざは沢山あった。だけど、気の良い先生と友達に囲まれて、優秀な成績を修めることができた。
 逃げるようにここへ来たけど、勉強だけはしっかりしようって誓ってた。自分ひとりの足で立つには、何かひとつのことを修めなきゃいけないって、いつも思ってた。
 その意志をもって私は成し遂げてきたし、将来の目的を決め迷いなく突き進んでいた。

 「あの子」の噂を聞いたのは、半年も経った頃。
 小さな日本人の聴講生がいる、と。───それだけなら何も珍しくないけど(何せ、学年に2、3人は天才少年少女がいる)、どうやら性格のほうが問題だったみたい。
 私は別に興味無かったんだけど、ある友達の口から「日本人ってみんなああなの?」と言われてから、日本のイメージ悪くしてる奴は誰だぁって奮起して、堂々と会いに行った。
 いつも同じ席に座っていると聞いていたのですぐにわかった。
 東洋人が幼く見られるのは常だけど、それは噂の子にも当てはまったみたい。噂で聞いてたよりは大人だった。といっても、多分14、15歳といったところ。黒髪を背中までのばして、地見めな洋服を着ていた。印象的だったのは、その瞳。いつも何かを睨んでいるような厳しい目つき、周囲の人間は眼中にないような排他的な雰囲気だった。
「ねぇ。ちょっと話さない? 同郷の誼、仲良くしようよ」
「私はここへ学問をしに来てるんであって、あなたと仲良くなる必要性は感じないわ」
 阿達史緒が、日本の大企業の社長令嬢であることや、留学の直前に母親を亡くしていることなどは後の噂で知った。
 私といえば、そんな噂とは関係なく史緒のことは気に入らなかったから、暇さえあれば「しぃちゃん」と連呼して史緒にまとわりついていた。まぁ、軽い嫌がらせだ。ほとんどは無視されてたけど。
 経済学部の生徒達の間でも阿達史緒は有名人だったらしく、賛否両論な噂が流れてきた。経済学部の留学生でありながらMBA(経営管理学修士号)を目指しているわけではなく短期在籍だということ。親切心から話し掛けたクラスメイトが無視されたので言葉が通じないのかと思っていたら、講師相手に流暢な英語で弁舌していたらしい。うちの学科のテストでは散々だったけど、どうやら本籍のほうは優秀だったみたい。
 一年後、史緒は日本に帰って行った。
 挨拶にも来やがらなかった。
 私はといえば、そのまま順調に卒業して、関連機関で助手を務めている。給料はぺーぺー、扱いは下っ端だけど、それなりに遣り甲斐を感じてる。不満はない。
 あるとき、休学していた日本の大学からお呼びがかかった。このまま在学期間終わらせる気なら講演でもしろーって。忙しいからパスって断わってたんだけど、少しばかりの恩もあるし、スケジュールの調整つけてこうして凱旋を果たしたというワケ。
 そして3日間の日程をこなして、帰路───成田空港に立っている。




 大塚真奈美は待ち合い用ソファに座り、エントランスを行き交う人間を眺めていた。
 そんなに混んではいない。シーズンオフだし、ちょうどパック旅行の団体が捌けたところだから。
 それでもエントランスから入ってくるのは、カートと旅行カバンを転がしてくる家族や若人パーティ。みんな笑顔で、どこかテンションが高い。これから踏みしめる異国の土に、心が満たされることを期待しているからだ。
 ふと、真奈美は思った。
(そうよね、人間ってやつは、何をすれば満たされるのか、大抵知ってるよね)
 ───あの子は知らなかった。真奈美はそう断言する。
 自分に欠落しているものは何か。欲しているものは何か。望んでいるものは何か。善悪を問わないストレートな欲望。そしてそれらを満足するにはどうすれば良いか。
 あの子は知らなかった。欠落している自覚さえなかった。
 知らないんだ。
 淋しいという孤独。悲しみの涙。思い通りにならない憤り、切なさ。甘酸っぱい喜び、笑いあえる楽しさ。
 うちの学科の授業は、あの子にはちんぷんかんぷんだったろう。理解できずにいたに違いない。
(知らないんだ…)
 そう思ったらたまらなく哀れに思えた。
 日本へ帰ったあの子は、何かと出会えただろうか。

 思索にふけっていた真奈美はふと気配を感じて顔を上げた。目を細めて笑う。
「───…やっぱり、来た」
 やわらかく呟く。
 目の前には阿達史緒が立っていた。薄地のコートを着てショルダーバッグを抱えている。空港内の喧燥を背景に、変わらずの無表情でたたずんでいる。きっと内心は不本意だ。真奈美は笑った。
「彼らにせっつかれて来たんでしょ?」
「…そうやって、他人を操作するの、悪趣味ですよ」
 嫌悪ではなく呆れて、史緒は息をついた。
「何言ってんの。あんただって私と同じ人種じゃない」
 2日前、真奈美は阿達史緒と再会をはたした。本当に偶然。突然に。
 仲間と一緒にいた。史緒は笑っていた。
 史緒本人は中座したものの、真奈美はその仲間たちと少しの時間話すことができた。彼らとの別れ際、真奈美は言葉を残してきた。自分が2日後の午前の飛行機で日本を発つこと、史緒ともう少し話をしたかったなぁなど。さりげなく念入りに、あからさまにならない程度にしつこく。
 そして真奈美の予想通り、今日、史緒はここへ現われた。真奈美の予想通りに、親切でお人好しな彼らが史緒を説得してくれた証拠だろう。
 史緒が座ろうとしないので、真奈美は隣りに座るようにすすめた。
「ねぇ。ちょっと話さない?」
「乗り遅れますよ」
「そう邪険にしないでよ。出発まで2時間あるの」
「…」
 何でこんな早くから空港で時間を潰してるんだ、と史緒は言いたかったに違いない。答えは史緒を待ち伏せしていたからだが、史緒が訊いてくれなかったので真奈美は答える機会がなかった。
 史緒は無言で真奈美の隣に腰を下ろした。その横顔を覗き込んで、
「それにしても、ほんと、史緒は変わったね」
「自覚はあります」
 即答を返してきた。真奈美が言いたいことは判っていたようだ。
「へぇ。じゃあ、変化の原因もわかってる?」
「ある程度は」
「ふーん」
 えらい成長ぶりだ。さらに自分の変化、自覚、原因、すべて分析しているのはさすがと言っておこう。
 真奈美は少し言葉に迷って、言う。
「私、史緒のこと買い被ってたな」
「?」
 史緒は顔をあげて、真奈美のほうを向いた。それに視線を合わせて、
「史緒にはアンガージュマンがあるのかと思ってた」
 と言った。
「自己拘束?」
 史緒は少しの興味をもって尋ねた。
 engagementとは、責任をもって、ある存在に自らの存在を賭けること。誓約、契約という意味もある。サルトルの思想では「社会的政治参加」という意味もあるがこの場合は、別。さらに日本語の「婚約指輪」は、英語では「engagement ring」という。「engage ring」は誤り。
 真奈美は笑う。
「今回の翻訳は約束≠ニしておこうかな。こういうのって日本語訳にするのは難しいね」
 You have engagement. I thought.
 はっきりとした目的を持っているのだと思ってた。いまは何を犠牲にしても最後には手に入れる、自分への誓い。約束。そんなものを、史緒は持っているのだと思っていた。だから、周囲を省みず、盲目的に勉学に励み、自分を高めているように見えた。そんな生き方をしているのだと思っていた。
「───…でも、違うよね。今も、昔も、目指すものがあるわけじゃない」
「…」
「昔のしぃちゃんは何も持ってなかっただけ。今は、ただ、現在を、守っていきたいだけ」
 彼らと共にいる場所を守ろうとしているだけ。
「───」
 史緒はうつむいて、何も答えなかった。他人でしかない真奈美の説教など耳に入れてないのかもしれない。それでもいい。言わせて欲しい。
 史緒に再会して、彼女の変貌ぶりにそれは驚いた。でも真奈美はさらに、現在の阿達史緒についてもある種の懸念を感じていた。
「今の生活を守っていきたいって思ってる? 恐いね、そういうのは。…大変だと思うな」
 相変わらずうつむいたまま。でも膝の上で組まれた両手に変化があった。それを横目で見て、続ける。
「前へ進む勢いがないまま、何かを守っていくのは辛いんじゃない? 外乱に対しても、弱くなると思う。もっとずっと未来にある何かを目指さないと、不安に時間を潰されることになる」
 守っていくだけというのは、不安になるものだから。
 具体的な目標を持つことは大切だけど、抽象的な目標を持つことも、真奈美は大切だと思う。完全な終わりが来ないように。何の目的もない生活なんて絶えられないだろうから。
 他人に諭すなんて自分らしくないけど、3年前とは別人のような史緒に───あの頃は言っても理解されなかったであろうことが、今は伝わりそうな気がして。らしくもなく、必死になってしまう。
「もっと望んでもいいんだって、思わない?」
「真奈美さん」
 史緒は顔を上げて真奈美の声を遮った。静かな声だった。
 史緒はちゃんと、真奈美の言葉を聞いていたようだった。真奈美を黙らせたいと思ったわけでもない。史緒は感情の読めない表情で真奈美に話しかけた。
「私に変化があったって、真奈美さんおっしゃってましたけど、それは誉め言葉ですか、それとも非難ですか」
 真奈美は史緒の表情を見た。真顔だった。
 史緒のその質問は心底真剣なものだった。
「───…」
 真奈美は嬉しいような悲しいような、複雑な気分になる。
(そうか…。決められないよね)
 どちらが人間として良い方向なのかなんて、どちらが正しいかなんて、…そうだ、そんな答えはない。だから単なる個人の意見として判断するしかない。
「…誉め言葉よ。一応」
「私は判らないんです。この変化が良いことなのか悪いことなのか」
 あるとき、昔の自分が背負っていたものを自分自身で消した。そうしたらいつのまにか周囲に人が増えていた。そして昔の自分には戻れなくなっていた。今を大切だと思うけど、あの頃ひとりで必死に抱えていたものもやはり同じように大切だと思うのだ。
「選択の幅が広がっただけ、自分の世界が広がったと思えばいいよ」
 真奈美はそんなことを言った。
「自分で判らないときは、周りの人たちに訊いてもいいんじゃない? どっちの自分が必要とされているか、望まれているか」
「…そんな他人任せは嫌です」
「理想通りじゃないほうがスマートなこともあるの」
 反論を許さない強さで、真奈美は押し切った。
 それからね、と別の話題を口にする。
「昔、私が史緒につきまとってた頃、実は友達と賭けてたんだ」
「賭け…?」
「アダチシオを笑わせられるかって。でもだめだった。私じゃ役不足。───でもおととい、史緒が笑ってるの見たよ」
 真奈美は史緒の顔をのぞき込む。もちろん史緒は笑ってはいなかったけど。
 ちなみにこれも誉め言葉よ、と前置きしていから、
「よかったね」
 と、真奈美は笑顔を見せた。


 多分、もう阿達史緒と会うことはないような気がする。
 私は懐かしさだけで他人と会おうなんて気にならないし、史緒は史緒で…理由は挙げられないけど、私に連絡などよこさないだろう。その証拠に、史緒が最後に少しだけ本音を口にした。それは2度と会うことがないと踏んだからだ。
 そんな風に会おうという気にならないのは、きっと私たち2人の間には与え合えるものが何も無いからだ。それを悲しいとは思わない。そんな人間もいて、そんな関係もある、という現実を受け止めることが、私の強みになるだろう。
 今回の帰国はそう考えると、退屈な講演会だけに終わらず充実した日々を過ごしたのかもしれない。
 帰り、空港に着いたときに吉川の連絡先は強引に奪い取ったし、阿達史緒とは再会できたし。
 飛行機を降りるともう、そこにはいつもの日常が待っている。
 でも今回のような非日常が、日常の色を変える。それを改めて認識する。
 そんな、有意義な日だった。







22話「有意義な日」  END
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