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21話「ran2」


 その瞳は確かに見開いていた。あたしの目の前で。



 いつも調子の良いドアは、その日に限って蝶番が音を立てた。
 酷く耳障りで、あたしは眼を細める。
 ドアを開けて、…そうだ───そのとき、あたしは息を飲んだ。
 それを、確かに覚えてる。
 その部屋はよく知ってる部屋だったのに、知らない光景がそこにはあった。
 昼間なのに、薄暗い部屋。カーテンが引かれた部屋。窓も閉ったまま。
 カーテンからもれる僅かな日の光だけが、物の位置を教えてくれていた。
 あたしはすぐに部屋のなかへ足を踏み入れることができなかった。
 床の上は散乱していた。
 陶器の置き物や人形、ぬいぐるみ、本などが無残なかたちで配置されている。この部屋のなかに台風が訪れたのではないかと思うほどの、惨状。
 ただ、静かだった。
 何も聞こえなかった。
 風の音、車の音。小鳥の鳴き声さえも。

 ベッドの上に誰かいる。
 横になっている、小さな影。
 その影だけで、それが誰なのか、わかった。
 小さなからだ。毛布を体に巻き付け丸くなっている。
 長い黒髪が、白いシーツのうえに流れていた。
 小さな手のひらはシーツの上で、かたく、かたく握られていた。
 微かにも動かずに、そのちからを弱めることもないまま。
 暗闇のなかでも確認できた。その瞳は見開かれていた。
 それとわかるほど、大きく見開かれていた。
 瞬きもなく、見開かれていた。
 充血したその瞳が示すものは何もなかった。驚愕や恐怖、そういった感情のようなものも、瞳の延長線上にも何もなかった。
 そう。目の前にいるあたしさえ、その瞳には映っていなかった。
(…っ)
 あたしは恐くなった。
 だって、今まで、同じものを見て、同じように感じて、笑い合ったともだちの、その眼に、何も映っていないなんて。
 目の下には信じられないほど大きな暈。ボサボサの髪が、憔悴しきった顔を隠していた。
 でもその両眼だけは見開かれていた。
 近寄ると本当に小さく、擦れた呼吸がきこえた。
 無性に息苦しくなる、あたし。
 我慢できなかった。
 こんな沈黙があることを、生まれて初めて知った。
 恐くなった。だから名前を呼んだ。
 返事があることを祈って。
 彼女の、いつもの。明るい声の。明るい笑顔の。
 あたしは、名前を呼んだ。
「────…しお、さん」






 それは、蓮蘭々が、後に運命の相手と定める関谷篤志と出会うよりずっと以前のことだった。
 七瀬司とも知り合っていなかった。司を紹介してくれた一条和成さえまだ現われていなかった。
 そんな昔のことだった。

 だからその訃報を知らされた時、蘭々は悲しむより先に、異国の友人の元へ飛んだ。いなくなったのは蘭々の大好きなひとだったけど、同じように故人のことを大好きだったその友人を思って飛行機に飛び乗った。
 だって彼女の周りには、彼女のちからになる人が誰もいなかった。
 まだ、誰もいなかった。
 ───阿達亨を除いて。
 亡くなったのは彼女の兄。阿達亨。
 蘭々も、そして友人の阿達史緒も、彼を慕っていた。亨が死んだと聞いて、蘭々は咄嗟に史緒のことを思った。きっと悲しんでいるだろう。他の誰でもない、阿達亨が亡くなったのだから。自棄になってはいないか、深く沈んでいないか、そして胸が潰れる程のその悲しみを誰にも言えないでいるのではないか。
 蘭々は生まれて初めて、胸が騒ぐ、という感覚を知った。
 史緒の父親・阿達政徳は日本でも指折りの大会社の社長だ。蘭々は数えるくらいにしか会ったことがない。それは実子である史緒も同じだと言う。
 母親・咲子はあの家では暮らしていない。生まれつき病弱で、どこかで療養しているとか、…蘭々はよく知らない。史緒も数回しか会ったことない、と言っていた。
 亨の双子の兄・櫻。彼は、苦手意識の対象でしかなかった。その性格自体がよく分からない。
 何だろう、形容し難いけれど…櫻は別の世界を見ている───蘭々はそう思っていた。
 同じものを、同じように感じない人。
 明るく優しかった亨とは対照的で、櫻はいつも他人を見下しているような、そんな瞳をしていた。




 1988年4月───。
 空港から出ると、その空の青さに気持ちが沈んだ。
 いつもなら気分が良くなるところだけれど、今日という日は別だ。願わくは、こんな日は二度と来ないように。
 付き人と一緒に空港からタクシーに乗り込んだ。
 阿達家に着くなり蘭々は飛び降り、茶色のドアに駆け寄る。ドアを開けようとしたが、ノブに手が届かなかった。以前、訪れたときと同じ風景なのに、大きなドアが蘭々の来訪を拒絶しているように感じられた。
 無性に苛立って小さな手でドアを乱暴に叩く。大した音にはならなかった。
「はやくあけてっ!」
 叫んでいた。その日本語が正しかったかは分からない。蘭々が日頃使う言語は英語と中国語なので、今叫んだ言葉が日本語として正確に発音されたか自信はなかった。
 もう一度、ドアを叩いた。
「あけてよっ」
 泣きそうになる。早く史緒に会わなければいけない。蘭々はそう思った。
(しおさん…っ!)
 やっと後ろから来た付き人より早く、扉は内側から開けられた。
「蘭さんっ?」
 出て来たのは中年の女性、この家のおてつだいさん。顔は知っていた。名はマキといった。心配なのか、安心したのか分からないような表情で彼女を迎えた。
「遠いところようこそお出でくださいました…」
 幼い蘭々でも、この家で不幸があったのは承知している。ただ、このような時に言うべき言葉は知らなかった。だから何も言葉を返せなかった。
「しおさんは?」
 マキは気まずそうに視線を泳がせた。
「あの、史緒さんは、今はまともにお話できない状態です。…なので」
「どこにいるのっ?」
 蘭々の怒鳴り声に、マキは言葉を飲んだ。5歳の子供の迫力に圧されたのだ。
「…ご自分の部屋に、いらっしゃいます。でも…」
 蘭々は最後まで聞かなかった。2階、史緒の部屋へと向かう。
 この家の2階には部屋が4つある。割り振りは、櫻、亨、史緒と、もう一つは空き部屋だった。ゲストルームは1階にあるが、蘭々がこの家に泊まる時は史緒の部屋に泊まっていた。
 櫻は留守のようだった。蘭々は何も言わず、史緒の部屋を開けた。そして驚いた。
「しおさん…?」



 反応はなかった。
 史緒は起きて、蘭々の前で眼を開けているのに、返事もなかった。
 背筋が凍った。
(聞こえないの? しおさん)
 ひどく、恐くなった。
「しおさん…っ!」
 叫んでいた。
 そのあと、呼吸が乱れている自分に気付いた。
 大声を出したこと、それに、暑くもないのに、あたしは汗をかいていた。
 返事はなかった。
「…っ」
 蘭はいままでにないくらい、乱暴に、史緒の肩を押した。
「しおさぁん…っ!!」
 それは小さな手の、些細なちからでしかなかったはずだけど。

 史緒の肩がびくっと動いた。
 何も見ていなかったはずの瞳が、わずかに左右する。
 大きく開かれた瞳はさらにしっかりと開かれ、そして蘭々を見止めた。
 黒い瞳と、目が合った。
 見る間に表情が生まれる。懐かしい、彼女の顔になる。
「…」
 口元が微かに動いた。息を吸う音が、ひゅう、と鳴った。
「───…らん」
 喉も、口の中もカラカラに渇いているような声が小さく響いた。半径10cmしか聞こえないのではないだろうかと思うくらい、小さい声だった。
 この部屋に久しぶりに、音が発生した瞬間だった。
 みるみるうちに史緒の黒い両目に涙が浮かび、それは顔を横切ってシーツに吸い込まれた。
「蘭…」
 目をつむって、顔に皺を寄せる。史緒は鳴咽をあげた。声を殺していた。
 史緒は泣いていた。
 何故だろう、ほっとした。
 だって、表情もなく、何も見ていないような状態よりは、良かったから。
 もう、部屋の暗さなんて気にならなくなっていた。
「───、櫻、が…」
 と、史緒は鳴咽の間に言った。
「え? さくらさん?」
 突然、何のことだろう?
 泣きじゃくる史緒の顔を覗き込む。
「…櫻の、せい」
 史緒はそう言った。次に叫んだ。
「櫻のせいだぁ…っ」
 その声には明らかな感情が込められていた。
(しおさん…?)
 多分、その感情の名は、「敵意」、ではないだろうか。
 史緒は胸がいっぱいになったのか、もうそれ以上は言葉にならない。こめかみを拳で押さえて、強く、頭をシーツに沈めさせた。
「どうして笑うの…───」
 呼吸が一瞬止まった。
 血が
 そう、呟いたあと。
 史緒は悲鳴をあげた。
 そして声をあげて泣いた。すべて吐き出すように。



 でもその涙は悲しみじゃない。蘭々はそう思う。
(…何かあった?)
 史緒は、亨が事故に合ったその現場にいた、というのは後になってマキに聞いた。
 何があったの?
 櫻さんがどうかしたのかしら
 何に怯えている?
 ───何を、見たの?
 蘭々は訊くことができなかった。きっと史緒は誰にも言わない。
 でも、それは。史緒を捕らえて離さない過去となり、精神的外傷となる。
 真実を知るのは同じく現場に居たという櫻と、亡くなった亨だけ。




 その後、蘭々の父親も来日し、阿達亨の葬儀が行われた。
 桜の花が舞う、春の日のことだった。
 史緒は部屋にこもったまま出てこなかった。
 母親の咲子は、この時、療養先から失踪していた。(1週間後に帰ってきた。理由について彼女は死ぬまで喋らなかった)
 結局、葬儀には父親と、櫻が参列した。
 葬儀の途中、蘭々は少しだけ櫻と話すことができた。
 その時の内容を、他人に語ることは、まだできない。



「あたし、ここにいる」
 その週の最後の日、蘭々は父親や他に来日した兄姉に向かってはっきりと言った。
 ちょうど、帰り支度を済ませホテルを引き払い、阿達家にいる蘭々を向かえに来た家族の前でのことだった。
「蘭々?」
 皆、驚いた。
「しおさんの傍にいる。あたし、そうしたいの。父さま、いいでしょう?」
 蘭々は必死で説得しようとする。言葉を知らない幼い娘からの一生懸命な訴えに、蘭の父親は思いとは裏腹にすぐに言葉を返せなかった。それは兄姉たちも同様のようだった。
「だめ」
 その場に響いたのは、他でもない史緒の声だった。戸口のところに立ち、蘭を睨んでいた。先程の蘭の主張を聞いていたようだ。史緒は相変わらず顔色が悪いものの、洋服に着替え、久しぶりに部屋から出てきていた。
「史緒さんっ?」
 驚く蘭の声を無視して、史緒は蘭の家族たちに向き直り挨拶した。
「おひさしぶりです、おじさま。わざわざこちらにおいでくださったのに、あいさつがおくれてもうしわけありません」
 史緒は我慢していたのだろうが、語尾が震えていた。それからすぐに視線を落とした。蘭はその意味に気付いた。
 史緒自身、自覚しているわけではないだろうが、このとき史緒は生まれて初めて、他人と目を合わせることに気まずさを感じたのだ。目を合わせることで、自分のなかの感情を読まれることを恐れたのだ。今までにない感情が、自分のなかに生まれたことを感じ取っていたのだ。
「───蘭。おじさまを困らせないで。私は平気」
 そんな台詞を言われたからって、蘭々は引けるはずない。
 それから何時間も、蘭々は史緒を説得しようとしたけど、最後には史緒は自室に閉じこもってしまい、出てこなかった。
 蘭々は、最後に史緒の部屋のドアを小さな手で叩いて言う。精一杯の、捨て台詞。たとえ一方的なものでも、蘭々は言わずにはいられなかった。
「しおさん、あたしに居て欲しくなったらすぐ言って。あたし、飛んでくるから。お願いだから我慢しないで。約束して、しおさん」
 しつこく、史緒がうんというまで、蘭々はその言葉を繰り返していた。



 1988年4月。阿達史緒は7歳、蓮蘭々は5歳。
 それから一月に一度、蘭々は史緒のもとを訪ねることになった。少しの落ち着きを取り戻したものの、史緒は信じられないくらい無口になっていた。相手の目を真っ直ぐ見れなくなっていた。それから、顔だけで笑うということを、彼女は覚えたようだった。
 何度目かに再会したとき、史緒は黒猫のネコを抱いて、一条和成───和くんが隣に立っていた。そのとき蘭々はこれでもかというほどの安心感を覚えた。単純に胸がすっとするような、幸福感を感じることができた。史緒は静かに笑っていた。
 それともう一つ。亨の死を境に、史緒の母親である咲子が阿達家で暮らすようになった。
 突然、間近で接するようになった母親の存在に、史緒は戸惑っていたようだった。でも史緒より先に咲子と仲良くなった蘭々や和成を通じて、史緒も、心を開いていった。
 1991年、8歳の蘭々は、11歳の七瀬司と知り合った。
 さらに4年後1995年。12歳になる年、東京の阿達家、七瀬司の部屋で、蓮蘭々は17歳の関谷篤志と運命的に(と、蘭々は言う)出会った。
 1997年6月30日。史緒から、9歳の島田三佳を紹介された。

 その間に、咲子は病死し、櫻は事故で亡くなった。それらの一件をまっすぐ受け止めるのに、蘭々も、そして史緒も少し時間が必要だったけれど、その悲しみに深く囚われるようなことはなかった。
 史緒はもう一人じゃなかった。




 10年後───1998年3月。
 蓮蘭々は香港の自分の部屋で、日本から届いたエアメールに目を通していた。文面は日本語で書かれてあり、一枚の写真が同封してあった。
 写真は明らかな隠し撮りで、対象人物は日本の高校生の女の子らしい。髪は肩までのウェーブで、セーラー服と呼ばれる日本の学校の制服を着ている。蘭々は数秒でその人物を頭の中にインプットした。
 そしてすぐ、蘭々は日本にいる七瀬司に電話をかけてみた。現在の日本時間は夜の9時。この時間なら彼も家に帰っているだろう。
「史緒さんから手紙いただきました。一通りの事情は書いてありましたけど、誰なんですか? このひと」
『珍しく史緒が気に入ってる人間。でも向こうからは激しく嫌われてるよ』
 さらりと面白そうに司は言った。
「新しく加わった人なんですか?」
 昨年、史緒が何らかの事業を始めたことは知っていた。司は、そうだ、と答えた。


 幼い日と同じ決断を。
 まったく同じ気持ちというわけではないけれど、源となるこの気持ちはずっと胸のなかにあった。
 躊躇無く口にした。躊躇など、する必要もないのだから。

「父さま。史緒さんが呼んでるの。あたし、行かなきゃいけない」
 それは本当に心の底から湧き出る自らの意志。



 川口蘭が日本に着いて初めての夜。

 夜遅く、史緒は川口蘭の泊まるホテルを訪れた。
 蘭は史緒を招き入れ、窓際のテーブルに添えられている椅子に、史緒を座らせた。自分も冷蔵庫からワインとグラスを取り出し、合い向かいに座る。
「乾杯しましょ、史緒さん」
 史緒の来訪を喜んだ蘭は、にこにこしながら、
「今夜は無礼講です」
 と、日本人でもなかなか遣わない言葉を口にした。
 グラスに注がれるのは赤い水。グラスのひとつは史緒の前へ。もうひとつは自分の席に。
 それから蘭は部屋の照明を落とした。外からの人工的な灯りだけでも、お互いの顔を見ることはできたから。
 蘭がやっと椅子に落ち着くと、史緒は微かに笑った。
 でもすぐに顔を伏せた。こんな風に内側から湧き出てくる笑顔は、おおよそ自分らしくない、感情的な本物の表情だから。
 それを抑えてから、顔を上げた。
「───久しぶりね。こんなのも」
「3回目、でしたっけ。史緒さんが留学から帰ってきたときと、…ネコが死んだときと」
 嬉しいときも、悲しいときも。こんな風に向かい合った。
 共有した時間が長い、一番古いともだち。
「何に乾杯する?」
「それはもちろん、あたしたちの再会に、です」
 蘭が力強く言うと、史緒も嘆息して、2人、グラスを鳴らした。
 飲んでしまうのがもったいない程の、透きとおる深い赤色。窓の外の光を収束させ、テーブルの上に赤い波の影をつくっていた。
 ひとくち、口に含んでグラスをテーブルに戻すと史緒が言った。
「あらためて───ようこそ。A.CO.へ」
 所長らしい表情を見せながらも、喜びを抑えているのがわかる史緒の表情を見て、蘭も笑った。
 嬉しかった。
 目の前で史緒が笑っていること。すぐ近くに、篤志や司がいること。新しい仲間がいること。
 こうして、史緒と語り合っていること。
 この瞬間を、大切に感じた。
「ところで、何? 川口って」
 と、史緒が苦笑混じりに訊く。
 昼間、蘭がA.CO.の事務所を訪れたとき、三高祥子に向かって蘭は「川口蘭です」と自己紹介した。その名を聞くのは、史緒をはじめ篤志と司も初めてだった。
 蘭は舌を出し、肩をすくめ、笑った。
「えへ。びっくりしました? 日本名のほうが都合が良いと思って」
「都合って…、あぁ、こっちでの学校決まってるんだっけ? その名前で手続きしたの?」
「ええ。全寮制の、父さまが知ってるトコなんですって。4月から3年生に編入するんです」
 それから蘭は少しだけ声を落として、
「…それに、祥子さんにもそう名乗るほうがいいのかなって、思ったんです。…史緒さん手紙に書いてたでしょ? 偶然を装って、出会って欲しいって」
 2人は黙って視線を合わせた。蘭は苦笑しながら言っていたが、やがてそれすらもしまってしまった。
 先に目を逸らしたのは、史緒のほうだった。
 史緒は何も言わなかった。ただこれは、肯定の沈黙だった。さらに、
「どこからでてきたの? 川口って」
 と、全く別の話題を口にする。
「もぉ、そうやってごまかすクセ、相変わらずですねぇっ」
 蘭も、いい加減、史緒とは長い付き合いだ。彼女の良い部分だけを知っているわけではない。
「あのね、史緒さん」
 蘭の改まった声に、史緒は顔を上げた。
「ん?」
 蘭は心なしか頬を赤くさせ、高揚したように息を弾ませ、けれどそれを必死で抑えようとして、言った。
「川口って、あたしの母さまの名字なんですって」
「───」
 史緒は目をみはる
 蘭は笑っていた。内面から込み上げる幸せを抑えきれない表情。
 たくさんの気持ちがあって、あふれるほどの喜びがあって、いっぱいありすぎて、外に出しきれない、はにかんだ顔。

 ……いつからか、蘭はそれを口にしなくなっていた。
 蘭の父親・蓮瑛林が、愛娘からの執拗な問い掛けにも決して答えなかったことを。
 たったひとつの、素朴な疑問を。
 史緒は初めて蘭と会った頃、蘭はまだそれを口にしていた。口癖のように、口にしていた。
 いつからだろう。いつからか、蘭はそれを口にしなくなった。
 諦めたわけでは、決してない。
 蘭は変わらず笑っていたけれど、その胸のなかにはずっと、残っていたはず。
 たったひとつの、素朴な疑問を。
(ねぇ、史緒さん)
(あたしの母さまって、どんな人かしら)
 ───史緒は息を飲んだ。
「おじさま…、教えてくれたんだ」
「そうなんです。…あ、教えてくれたのは名前だけですけど。でも、それでも、すごくすごく嬉しくて、…嬉しくて、こんなに幸せでいいのかーって思うくらいですっ」
 目の前でテンション高くはしゃいでいる蘭。史緒は声をたてて笑った。眩しいくらい元気で真っ直ぐな蘭に、史緒はいつも助けられてきた。
「…ごめんね」
「えっ?」
「祥子に向かって、嘘つかせてしまったみたいで」
 昼間の件だ。蘭は、なんだ、と笑って答えた。
「別に気にしてません、それに後で本当のこと、ちゃんと言うつもりです。───…でも、…そうですね。史緒さんが気に病むことはないです。あたし、嘘吐きだし」
 答えて、苦笑した。
「蘭?」
 何言ってるの、と。史緒は笑おうとした。
 けれど蘭は真顔で言う。
「あたし、平気で嘘つきますよ。…取り返しのつかない嘘も、言ったことがあります」
「───でも、罪でない嘘もあるわ」
 史緒はそんなことを言った。
 すぐに弁護してくれる。…でもそれは、この告白の意味を理解していない証拠だ。蘭は苦笑する。
 否定して欲しいわけじゃない。
 ただ、記憶のなかに留めておいた記憶を、自分の感性がどんなふうに形にするのか、自分自身聞いてみたかったというのは、ある。
「…そうですね」
 蘭はそう笑うことで、この場を収めようとした。
 これも、嘘だ。

 遠い昔。嘘をついた。
 相手は、蘭が苦手なヒト。
 目の前のともだちにも、あの嘘を懺悔することは、今はまだできない。
 今は、まだ。





「本当にいいの? 蘭」
 帰りがけ。
 振り返り、少し悩んでから、史緒は口にした。
 単語が本当に少ない台詞だったが、蘭には伝わった。蘭は頷いた。
「ええ。何か不都合あります?」
「だって、私は蘭を利用しようとしてるのよ?」
 史緒の台詞に、蘭は笑ってしまった。史緒は真剣な顔で言ったけど、だってやっぱり、おかしかったから。
 きっと史緒は、蘭を呼び寄せる手紙を書くのに何日も悩んだのだろう。自分の都合のためだけに、古くからの友人を祖国から離れさせてしまうことに。
 史緒がそんな葛藤に苦しんだことは、容易に想像できてしまう。あまりにも簡単すぎてつまらないくらいだ。
 蘭は日本へ行くことを決めた。史緒の近くに居ることは昔から望んでいたことだったし、そこには友人の七瀬司と島田三佳と、大好きな関谷篤志がいる。そして史緒が気に入っているという三高祥子にも、蘭は興味があった。
「蘭? 聞いてる?」
 史緒が顔を覗き込んでくる。
 蘭は歯を見せて笑った。
「───…ありがとう史緒さん。約束を覚えていてくれて」

 呼んでくれてありがとう。
 あたしを必要としてくれてありがとう。
 覚えていてくれてありがとう。
 幼い日の、約束を。







21話「ran2」  END
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