19話/20話/21話
20話「ran1」


 私立京理学園中等部、学生寄宿施設麻宮寮。
 中等部本校舎に隣接するその施設は、その面積の半分を木造3階建ての建物で占められており、ここには中等部の学生が全員、寝泊まりしている。京理学園は女子校であり、故に寮内にいる人間も全員女子である。高等部の校舎はすぐ隣にあり、離れた場所に寮もあるが、高等部は強制ではない。
 それはともかく、この施設の面積の残り半分には広く芝が植えられ、幅1メートルほどのアスファルトの道が敷地内を一周していた。その端々には樹木が生い茂っており、まるで公園のようになっている。
 学校と共にこの寮も年季が入っていて、建物は木造で、節々で生じる支障には少なからずの苦情は上がっているが、この贅沢な環境と、この景観を損なわない佇まいに納得してしまう生徒も数少なくなかった。

 その日。
 202号室の住人の一人である萩原絹枝は怒りに耐え切れなくなり、むくり、とベッドから起き出した。その際、横目で時計を確認する。
 朝、6時。
 線対称に部屋を独占する同居人が、今は不在なのは分かっている。
 分かっているからこそ、絹枝は怒りを湛えたまま、勢い良く窓を開けたのだ。
「らーんっ!」
 運動部仕込みの大声で、絹枝は窓のすぐ下の通りに向かって叫んだ。
 群緑の景観の中に、その声はよく響いた。
 窓の下。芝庭の中を通る道の一端に。
 そこには、朝も早くから一人の女子生徒が立っていた。
 ショートパンツにローラーブレードを履いて、膝と手首にサポーターを付けている。もうこの通りを何周したのだろうか、汗を掻き呼吸を弾ませていた。
 それからいつも通り、写真部の彼女は首からカメラを下げていた。
 絹枝の声に気付くと、川口蘭は絹枝を見上げ、両手を上げて全開の笑顔を見せた。
「おっはよー、萩ちゃん。今日もいー天気ー」
 一方、絹枝は不機嫌さを露にし、蘭に声をぶつけた。
「蘭っ、朝っぱらからローラーの音、響かせるのやめてよっ。昨日は皆、夜更かししてるんだから静かに寝かせて」
「どうしてー? 就寝時間は11時だよー」
 と、蘭はとぼけた声を返す。いや、とぼけた声でも本人はいたって本気だ。確かに蘭は、昨夜、11時前に床に就いていた。川口蘭と同室の絹枝はそれを証明できる。しかしそれに故に、絹枝はひくっと口元を歪ませた。
「今日から期末考査じゃーっ!」



 この学園は開校が明治で、歴史と伝統と風格というものがある。が、特別それらが重んじられているわけではない。
 近隣に名門の名を轟かせている一方、帰国子女や外国人留学生を多く受け入れることでも有名で、そのあたりの、理事長の柔軟な考え方も評価されていた。時代とともに校則も改変され、昔の重苦しさは残っていない。けれど、中等部が全寮制であることや、入学金など金銭面において保護者にかなりの負担が掛かることを考えれば、この学校が「お嬢様学校」であることに変わりはなかった。
「萩原ー、朝のやつ、あんたの声のほうが大きいって」
「あははっ、言えてるー」
 朝の食堂はいつも以上に混雑していた。テスト中は、部活の早朝練習や補習が無いので、全員が同じ時間になるからだ。
 朝食を乗せたトレイを持った隣室2人組が絹枝と蘭の隣に座った。蘭の向かいには絹枝が座っている。
「おはよー、マリちゃん、ケイちゃん」
「おはよ、蘭」
 パチンと箸を割って、サラダに手を付けてから、マリは絹枝に言った。
「蘭には何言っても無駄でしょ」
「あんた達がそうやって甘やかすからだよ。一人くらいはっきり言わなきゃ」
「私は別に構わないな。蘭も絹枝も、いい目覚ましになるもの」
「マリ〜」
 蘭を無視して展開されるそんな会話に、さすがに蘭は頬を脹らませて意見した。
「でも萩ちゃん、朝早くって言うけど、6時なんて皆起きてる時間じゃない?」
「蘭〜っ、勘弁してよ、もぉ」
 と、泣きそうな声で言ったのはケイだった。
「今ってテスト中だよ? 皆、夜遅いんだから、そんな時間に起きてる人なんていないよ」
「え? そういうものなのかなぁ」
「そういうもんなのっ!」
 それを聞いていたマリは苦笑しながら言った。
「そういえば、蘭ってあんまり勉強してないよね」
「え? ちゃんと授業聞いてるよ? あたし」
「マリが言ってるのは授業以外でってことさ。…そうだね、蘭って寮ではあんまり勉強してないかな」
 と、絹枝。同室の誼で、この証言は正確さを保証している。
「あたし、できるだけ勉強に…というか、学校のことに時間を取られないようにしてるの。そのぶん、授業中、真剣に聞いてるっていうのは、ある、かな」
「そういえば蘭って、放課後はすぐ消えるし、土日もよく出かけてるよね」
「学生の本分は勉強だあっ」
「でも蘭って、成績良いよ。授業聞いてるだけで、そんなにできるもん?」
 そう尋ねられて、蘭は頷いた。
「暗記系は得意だよ。それに、あたしの場合、英語は勉強する必要ないし」
「あぅ、そっか」
「留学生の強みかぁ」
「でもそのかわり、古文・漢文・現国は苦手」
「古文・漢文なんて、日本人でも苦手だよぉっ」
 ケイの嘆き声に、一同は笑った。
「まあ、ね。でももう3月だし、これが終われば晴れて高等部。寮と学校の往復だけなんていう空しい生活も終わるし、部活も派手になるし、校舎もキレイだし、修学旅行も海外だし…って、あは、蘭には海外は関係ないか」
 ね? と、同意を求められた蘭は、しかし返事を返すことができなかった。
 気まずそうに視線を逸らし、笑みをしまいこんだ蘭。
「蘭?」
「あのねっ」
 気まずそうな顔のまま、蘭は顔を上げた。
「あたし、高校は、外、出るの」
 蘭は小さく、できるだけさり気なく、その言葉を口にしたが、やはり友人たちはそれを流してはくれなかった。
 え? と。3人とも、蘭に視線を集めた。辛いけど、蘭はそれを受け止めるしかなかった。
「…え?」
「嘘っ、なんでっ? なにそれっ」
「聞いてないよ蘭っ」
 3人はそれぞれ立ち上がった。
 蘭はそれらの視線を受け、茶化さずに、真正面に言った。
「…ごめんなさい。何か、言い難くて。推薦受けて、内定ももう貰ってるの」
「ごめんなさいじゃないよっ、それどころじゃないっ」
 マリとケイが騒ぐなか、
「蘭…」
 絹枝が静かに言う。
「───どうして、黙ってたの?」
「萩ちゃん…」
 そのとき。
「えーっ、蘭先輩卒業しちゃうのぉっ?」
「うそぉ、なにそれっ!」
 一気に人が集まり、蘭は絹枝と喋るどころじゃなくなった。
 朝の食堂の風景はいつもと一味違い、ちょっとした騒動になった。




「失礼しまーす」
 期末考査初日が終わり、蘭は昼過ぎに写真部の部室を訪れた。
 テスト期間中は部活動は基本的に停止になるが、今日、蘭が足を運んだのは同じ部の同級生から言伝をもらったからだ。
 この学校では部活動は中等部高等部合同で行われているので、たとえ蘭が3年生だとしても部内にはまだ先輩がいる。
「加也先輩、お呼びですか?」
 部室内は静まり返っていた。証明もついてないし、人気もない。蘭は首を傾げて、もう一歩前に出た。すると。
「川口ー? ごめん、ちょっと待ってて」
 くぐもった声が遠くで聞こえた。
 蘭はすぐにぴんときて、室内に入り、両手でドアを締め、部屋の奥を覗き込む。奥にはもう一つの部屋へ続く扉があって、「暗室」というプレートが掛かっている。さらにその下には「使用中! 開けんじゃねーっ」という紙が貼ってあった。
 部内では暗室作業をする際、使用中を意味する言葉と、入室を禁止する言葉を書いた紙を貼っておく習慣がある。表現は人それぞれ。
 蘭は張り紙を見て了解し、大きめの声を出して返した。
「暗室ですか? ではこちらで待ってまーす」
 蘭は室内を見渡し、奥の壁に貼ってある先輩たちの写真を見つけた。それらはピン一つで留まっているものもあれば、様々なサイズのパネルに仕上がっているものもある。それらはみんな、部員が撮影し、現像したものだ。
 写真の感動は、「現実の美しさ」と、それから「歴史」にあると思う。
 校内の長い廊下や噴水、部員の食事風景、皆がおどけているものもあり、何となく微笑ましい。ただ、それらの中に蘭の姿はなかった。
 がちゃり、と、ドアが開く音と共に、背後から声がかかった。
「お待たせ」
「お疲れ様です」
 部内では暗室作業を終わらせた者に、「お疲れ様」と声をかける習慣がある。
 加也は高等部の2年生で、この部の副部長を努めている。さばさばした性格で「かっこいい」という形容が似合うこともあり後輩からのウケも良かった。
 暗室からハンカチで手を拭きながら出てきて、室内を横切り、椅子の上に置いてあった荷物に手を出した。
「川口、外、出るんだってね」
 荷物を漁りながら、何気に言う。蘭は苦笑した。
「もう、伝わっちゃいました?」
「あんた人気者だもん。中等部の連中、大騒ぎよ」
「それは、…。光栄ですね」
 実際、びっくりしていた。朝、中等部の寮での蘭のちょっとした発言が、校舎が違う高等部の先輩まで伝わっているなんて。
「結局、最後まで現像覚えなかったね。その前に、川口はほとんど幽霊だったし」
 幽霊とは、もちろん幽霊部員のことだ。確かに、蘭は入部してから数えるほどしかここへ来たことはなかった。蘭は現像技術を覚えるどころか、暗室にも入ったことがない。
「すみませぇん」
「責めてるんじゃないって。現在を未来に遺そうって思うヤツは、ここにいる資格あるよ」
 そう言うと、加也はぴらり、と鞄の中から取り出したものを蘭に差し出した。
「はい。これ。私からの餞」
「?」
 それはどうやらチケットのようだ。2枚ある。
「なんですか?」
「上野で新見賢三の写真展あるよ。川口、好きだったよね」
「えーっ!! だって、このヒト、そういう表だったことしなかったのに…」
「好きなら雑誌くらいチェックしな」
 新見賢三は蘭のお気に入りの写真家である。風景写真───特に、都会の街中の風景が多い。あまり派手な活動はなく、賞への出展で見かけるくらいで、この間やっと写真集が出版されたばかりだ。歳は20代半ばとあったが、きっと、澄んで落ち着いた眼を持つ人なのだろう。と、蘭は思っている。
「え? ええぇ? いただいていいんですかっ? 加也先輩っ」
「私はそういう街中写真は趣味じゃないから。あげる」
 蘭は破顔してチケットを胸に抱き締めた。
「ありがとうございますっ」
 思いっきり頭を下げてから、蘭は、「あ」と思い出した。
「加也先輩の趣味は確か白旗志郎ですよね」
「そ。登山写真」
 こちらは著名な、山をテーマに撮る写真家である。この手の写真を撮るのは写真家であると同時に登山家である場合が多い。
「川口が何を目指してるかは知らないけど、ま、がんばんな」
 加也はもしかしたら、幽霊部員だった川口蘭を、少しでも気に入ってくれていたのかもしれない。
 蘭は最後に加也と握手を交わして、部室を後にした。







 一年前───。
 三高祥子(当時17歳)は放課後A.CO.の事務所へと向かう途中だった。
 A.CO.所長・阿達史緒と契約させられてから約一ヶ月。
 生まれてこの方ここまで嫌悪を抱いたことがあるだろうかと思うほどの人間だ。他のメンバーとも、人付き合いに慣れてないせいで会話にイチイチ疲労を感じずにはいられない祥子は、事務所が見えるところまで来ても、重い足を中々振り切れなかった。いつものことだけど。
 阿達史緒は一ヶ月付き合っても良いところなど見えてこないくらいの性悪。島田三佳は意外な分野に知識があることには驚いたけど喋る言葉にはいちいち刺があるし。七瀬司は人の良さそうな顔して実は意地が悪い、人の心内を読むし、苦手だ。関谷篤志はあのメンバーの中では比較的まともで普通に話せるけど、史緒に依存しすぎてる感があるかな、と祥子は思っている。
(やめようかなー…)
 既に何百回何千回と繰り返した溜め息を、ここでまた、一回。
 そんなにメンバーの悪態を列ねても、また、ここへ足を向けてしまう自分は何だろう。
 と、こんなことを考えるのもいい加減何百回目なので、祥子はまた溜め息をついた。
「あのぉ、ちょっと失礼します」
 背後から呼びかけられ、はい、と祥子は振り返った。
 そこには中学生くらいの女の子が立っていた。髪を両耳の上でおだんごにして、花柄のワンピース。何よりその笑顔が目を惹いた。内心の高揚感がそのまま溢れ出ているような、真っ直ぐ、素直な表情。祥子は一瞬見惚れた。
「道をお尋ねしたいんですけど、よろしいですか?」
「あ…、ええ」
「良かった〜。これ…住所は分かるんですけど」
 と、助かったぁという表情を正直に表に出して、少女は一枚の紙片を差し出した。
「地図、送ってくれないんですもん。たどり着けるはずないですよねっ」
 次に怒った顔を見せる。この住所を教えてくれた人物に当てているつもりだろうが、全く関係の無い祥子の前でころころと表情が動くのを、何となく微笑ましく思った。
「───?」
 祥子は少女の差し出したメモを見て、目を見張った。
 二行に分けて書かれている住所は、最近やっと、祥子が暗記したものだった。
 それはA.CO.の住所だった。
(何だってこんな子が、あんな所に…)
 祥子は目の前に立つ少女の顔を見る。
「?」
 その視線を受けて、少女は笑った。
「ここ、知ってるわ」
「えっ、本当ですか? 良かったぁ」
「依頼か何か?」
「え?」
 少女はきょとんとした。そして
「…あっ、そっか。お仕事の事務所なんですよね」
 何だと思っていたのだろう。
 少女は姿勢を正して言った。
「いえ、あたしは昔からの友達に会いに行くんです」
 にっこりと、笑ってた。
 祥子は少女の人格を尊重せずに思いっきり訊き返してしまった。
「はぁ?」
「ええ。ですから友達に」
「え…、だって。…え? 友達?」
 祥子は自分が混乱していることに気付く。少女は清々しい程の笑顔を見せてくれている。
 しかし。
「…え? …友達って───…誰の?」
「?」
 祥子の言葉の意味が分からなかったのか(そりゃ分からないだろ)、少女は笑顔のまま、首を傾げていた。







 川口蘭は写真部の部室を出た後、急いで電車に乗り込み、A.CO.事務所近くの月曜館へ来ていた。
 期末考査初日だというのに寄り道である。しかしそんなことは、蘭が問題にするものでは決して無い。
 朝の食堂での騒動もあり、寮に帰りにくいという理由も、ある。
「へー。早坂橋高校。レベル高いところだ」
 目の前に座るのは三高祥子(18歳)。A.CO.の仲間であり、蘭のお茶友達でもある。祥子も都内の高校生だが最近は制服を着ているところを見ない。蘭と同じく卒業目前で、家庭学習期間だからだと教えられたが蘭にはよく分からなかった。
 蘭が入学する高校のパンフレットをテーブルの上に広げ、2人はそれぞれお気に入りの紅茶を飲んでいた。
「あたし、法律の勉強をしたいんです。今の学校で不足というわけじゃないんですけど、大学入試とか考えると少しでも有利なほうがいいかなと思って」
 先週送られてきた入学案内を誰かに見せるのは初めてのことだった。蘭にしては珍しく少々緊張気味な表情で喋る。
「…あっ、あたしが法学部目指してるってこと、史緒さんたちには内緒にしてくださいね。祥子さんにしか言ってないんですから」
 人差し指を口元に当てて上目遣いで頭を下げる。蘭のその仕種に祥子は微笑んで、もちろん、と答えた。
「住むところ、どうするの?」
「この高校にも学生寮があるんです」
「じゃあ、引越し? 私、手伝うよ」
「わぁ、ありがとうございますっ」
「篤志も手伝わせる?」
「それも狙ってたんですけど、出る寮も入る寮も男子禁制…業者の方以外立ち入り禁止なんですよー。残念」
 蘭が頬を脹らませるのを見て、祥子は笑った。蘭も笑った。
 祥子はいつも優しい。
 蘭のワガママにいつも付き合ってくれるし、ヒトの気持ちを察することができるのは優しい人間だと思う。街中で困っているヒトに手を貸すこともあるし、一方、間違っていることをはっきり否定する性格は蘭が尊敬するところでもある。
 以前、それを祥子に正直に言ってみたところ。
「やさしい? 私が?」
 と、ものすごく驚いて、その後、照れた様子で言った。
「蘭の影響だよ、きっと」
 と、嬉しくなるようなことを言った。
 蘭は祥子も好きだ。
「祥子さんっ。お願いがありますっ」
 突然の蘭の力強い言葉に、祥子は顔を上げる。
「なに?」
「あたしとデートしていただけませんかっ」
「…は?」
 一年近く付き合いがあるとはいえ、何を言い出すか分からない突飛さが、やはり蘭にはある。
 蘭は鞄の中をひっくり返し、学校で先輩から貰ったチケットをぴらりと2枚取り出した。
「こういうのがあるんです」
「ふーん…写真展?」
 チケットの一枚を手に取り、祥子は写真展詳細を眺めた。蘭はどきどきしながらその様子を見て待つ。
 祥子はチケットを戻して頷いた。
「いいよ。私で良ければお供しマス」
「本当?」
 半ば悲鳴のように、蘭ははしゃぎ声を響かせた。
「篤志、誘わなくていいの?」
「コレの感動は、祥子さんと共有したいんですっ」
 蘭は祥子を睨み付けるように言った。
 気を遣ってくれるのは嬉しいけど、ちゃんと解って欲しい。
 あなたも、大切で、大好きな人間だということ。
 特に祥子はそういう意識が稀薄だ。蘭といるときに篤志の名前を出すのは、自分に自信が無いからではないだろうか。今、会話を楽しむ相手は本当に自分で良いのか、蘭の反応を窺っているのではないだろうか。
 蘭の睨みの迫力が足りなかったのか、祥子は気にせず話を続けた。
「蘭って、結構、写真撮ってるよね。前に…えーと、半年くらい前? 事務所でも撮ってたし」
 それから事務所周辺の景色も撮っているのを見たことがある。
「はいっ。また撮りますよ」
「…あ、でも現像したものって見たことないなぁ」
「すみません。現像はしてあるんですけど、ずっとしまってあるんです」
「どうして?」
 何の為に撮っているのだろう。
「えー…と」
 珍しく蘭は言葉に詰まった。
「あたしが撮った写真を見せたい人は、今はまだ見ることができないからです」
「?」
「もう何年も前のことですけど、あたし達を囲む風景や、あたし達の成長を見てもらいたいなって、思ったんです。そしたら居ても立ってもいられなくて、カメラ始めてました…───ごめんなさい、話、ズレましたね」
 蘭は苦笑して、仕切り直すきっかけのつもりか紅茶を一口、口に含んだ。
「あたしが写真を撮るのは、ただ一人の人間に見せたいからです」







 再び、一年前───。
 扉を開けるなり、少女は祥子が(まさか…)と思っていた疑惑を証明する言葉を口にした。
「史緒さーん。こんにちはっ」
 両手を大きく広げ大声で挨拶した。少女の背後にいた祥子は目を丸くする。
(史緒の、…友達っ?)
 信じ難いことだった。絶対に釣り合わない。どういう友達?
 祥子は心の中で、自分がこんなにも動揺していることの理由付けを必死で考えるが、的を射た理由は出てこなかった。
 ただ、何に動揺したのかは分かる。少女が史緒の友達ということもそうだが、それより、少女の口から、親しみを込めて史緒の名前が出たことにだ。
 この動揺の理由は分からない。分からない、が。
(…くやしいとか、思ってないよね?)
 それはすぐに打ち消した。その思い付きを取り上げて考えるのは、怖い。
 一方、室内にいた阿達史緒は、少女の登場に軽く視線を上げただけだった。
「よくここまで来れたわね、篤志を迎えに行かせようと思ってたのに」
 とんとん、と書類をまとめながら言う。
「そんな嬉しいこと考えてたなら教えてくださいよぉ。遠慮なく電話したのにな。…あ、こちらの方に、道を教えていただいたんです。本当にありがとうございましたっ」
 祥子は突然話題を振られてびっくりした。
「偶然ね」
 史緒は少女の後ろに祥子が来ているのに気付いていたので驚くことはしない。それより少女のほうが驚いているようだった。史緒と祥子の顔を見比べて言う。
「え? お知り合いなんですか?」
「───え? 蘭、来てるの?」
 祥子の背後───廊下から、七瀬司が現われた。隣の部屋から出て来たところのようだ。
「わぁ。司さん、こんにちはっ」
 少女(蘭、と呼ばれた)は、ぴょんと跳ねるように司に駆け寄る。
「思ったより早かったね。史緒に呼ばれたんだろ?」
「えへへ。およばれしました」
「司ー、ドア開けてくれー」
 この声は関谷篤志だ。隣の部屋の中にいるらしい。
「ちょっと待っててー」
 司が方向を変え、ドアのほうへ歩こうとしたとき、蘭は小声でそれを制した。それだけで司は蘭の意図を察し、足を止め、背を壁に預け口元に笑みを浮かべた。成り行きを楽しむ体勢だ。
 蘭はそろりと足を忍ばせて廊下を進む。隣の部屋の前まで辿り着くと、そっと、ドアノブに手を添えた。
 そっと息を吐く。そして吸う。蘭はにやっと笑い、ノブを回した。
 ガチャリ。
「篤志さあぁぁぁん、お久しぶりでーっす」
「え? あ? …うわっ」
 バサバサバサと篤志は両手に持っていた書類をぶちまけてしまった。蘭が体当たりのごとく抱きついたのも、原因の一つである。その衝撃がもろに腹に入り、篤志がぐはっと声を洩らした。
「…蘭っ? おまえどうしてここにっ」
「あれ、史緒さんから聞いてません?」
「聞いてないっ! 史緒っ」
 蘭の腕を振りほどきながら、篤志は史緒の名を叫んだ。史緒は廊下に首を出した。
「ちゃんと言ったじゃない。一人増えるよって」
「それだけでわかるかっ」
「司は分かってたよね?」
「まあね」
 含み笑いをする2人。しかし意図的に固有名詞を出さなかったことは明白だ。こういう結果を面白がる為に。

(…この子が来たことで雰囲気が変わった)
 突然の新顔、「蘭」の登場に一番驚いているのは三高祥子だった。自分より年下と思われる、破天荒で掛け値なしに明るい少女。
 ここにいる人達とは無縁かと思われるタイプなのに。
 それに、蘭は史緒だけでなく、司と篤志の「友達」でもあるのだろう。もしかしたら島田三佳のことも知っているかもしれない。
「蘭」
 祥子の不信の目に気づき、史緒は蘭を手招きした。すると蘭はするりと篤志から離れ、史緒のもとへと駆け寄った。
 史緒は祥子に言った。
「今日からメンバーになるから。紹介するわ…」
 史緒の言葉を踏んで、少女は自己紹介をする。
「川口蘭、今年15歳でーす。よろしく、祥子さん」
 かわぐちらん。それが少女の名前だ。何の躊躇も警戒もない笑顔を、祥子にも向けてくる。
 蘭は手を差出し握手を求めた。
「…」
 祥子はかなり躊躇したが、蘭のその手に、触れた。
(この子…)
 祥子は思わず蘭の顔を見た。蘭は真っすぐ目を合わせてにっこりと笑った。
「田舎から出て来たばっかりで、こちらの勝手がよく分かりません。もしかしたらご迷惑おかけするかもしれないですけど、宜しくお願いしますっ」
 祥子はその明るい勢いに圧され、握手を終えた手を引っ込めた。
 ───蘭のその台詞には明らかな嘘があることを、祥子以外の全員は気が付いた。(嘘、ではないかもしれない。彼女の家の所在地は確かに都会ではないので)史緒以外には予期しない嘘だったが、誰も何も言わなかった。もし、三佳がここにいたら、三佳もその嘘に気付いただろうし、そして同じく何も言わなかっただろう。
 蘭は突然、辺りを見渡してから、
「今日三佳さんいないんですねー。残念」
 と、残念そうに、言う。
「アルバイトに行ってる。明日は来るよ」
 口を尖らせた蘭に司が答える。くるくると表情が変わる蘭は、次に先程散乱させた書類をそろえている篤志に近付いた。
「あ、手伝います」
 その場にしゃがみ込み、器用に書類を拾い始めた。
「それにしてもおまえン家のじーさん、こっちに来ることよく許したな」
「そりゃあ、私の篤志さんへの思いを知ってますから。あの人は」
「はいはい」
 蘭の力説に篤志は脱力した。
 そして。
 祥子は蘭が笑うのを見た。
 篤志の顔を見上げて、目を細めて本当に、本当に嬉しそうに微笑むのを、見た。篤志の隣りにいること、泣きたくなるほどのその幸せを噛み締めるような、笑顔を見た。
(……)
「あの子、篤志のこと好きなんだ」
 二人が隣りの部屋に資料を置きに行ったときに祥子は呟いた。
 司がクスクス声をたてて顔をあげる。
「わかった?」
「…あれじゃあ私じゃなくてもわかるわ」
「もう3年になるよ。一目惚れだってさ」
(やっぱり…違う)
 祥子はそう思う。
 あの子は史緒たちとは違う。愛想笑いじゃなく、本気で祥子に笑いかけた。感情の起伏、行動の素直さ。篤志を好きなこと…すべて本物だ。一点の曇りも無く。
 きれいなこころ。
「…」
(あんな人間も、いるんだ)
 祥子は、ただそのことに驚いていた。








 麻宮寮202号室。
「ただいま帰りましたー」
 蘭は自分の部屋へ戻るとき、いつもこう言う。
 月曜館で祥子と別れた後、A.CO.の事務所で史緒と世間話をして、それでも門限までには時間があったので本屋やコンビニに寄ったりして帰ってきた。
「───萩ちゃん?」
 同室の絹枝が、ベッドの上で枕を抱き、蘭を睨み付けていた。じとっ、と迫力ある視線に、蘭はぎこちなく笑いつつもたじろいだ。
「萩…」
「蘭。私、朝のことまだ怒ってるんだからね」
「…」
 どうして黙ってたの?
 そう。一際低い声で言ったのは絹枝だった。
(…───)
 分かっていた。絹枝がこんな風に、問い詰めてくること。
 それから避けるために、門限ギリギリまで帰ってこなかったのも事実だ。
 自分がここから去ること、それを黙っていたこと。自分が悪いのはよく分かってる。それだけじゃない。
 絹枝の思いも、蘭は分かっているつもりだ。
 真顔になって、頭を下げた。
「───ごめんなさい。萩ちゃん」
「やめてよ、そんな風に謝るのっ。簡単に許したくないんだからっ」
 絹枝の声は大きくはなかったが、千切れそうな悲痛さが伝わって、蘭は背後のドアに背を預けた。
 蘭は一度浅く呼吸をしてから、笑った。
「…やだ、萩ちゃん。そんなに怒らないでよ、卒業するって言っても、あたしは都内在住だよ? すぐに会えるじゃない」
「そんな風に笑うのもやめてっ!」
「…っ」
 蘭は反射的に口元に手を当てた。確かに笑っていた。自然に───無意識に。
「蘭は、いつも笑ってて、勉強も運動もできて、皆と仲良くて…。後輩からも慕われてて、相談に乗ってくれたりするけど、…でも蘭自身が、何かを相談してくれたってこと、ある? 悩みを打ち明けてくれたりしたことってある? 何か…───」
 絹枝は震える声を押し留めようと、一度、深呼吸した。
「何か、蘭にとって、私たちとの学校生活って、あんまり重要じゃないみたい。放課後はすぐ帰っちゃうし、土日も付き合い悪いし、外の…サークルみたいなのに入ってるって聞いたけど、こっちの生活よりそんなに大事なのっ?」
 蘭は咄嗟に目をつむった。
 答えにくいことを尋問されたからじゃない。痛かったから。
 そんな風に友達を責めること、責めるほうも辛いことを、蘭は知っている。
 絹枝にそんな風に言わせてしまったことに、ものすごく罪悪感を感じた。
「ねぇ、萩ちゃん。…どっちが大切かって訊かれたら、外のほうが大切って答えることしかあたしはできない。そう答えることに後ろめたさもないし、弁解もしないわ」
 まっすぐ絹枝を見つめ、蘭は言う。
「───でも勘違いしないで欲しいの。あたし、萩ちゃんのこと好きだよ? …好きなものが沢山あるの。大好きな人たちがたくさんいるの。たくさんの人たちがあたしのことを愛してくれてることも知ってる。だから、あたしはいつも笑っていられるの。自分は幸せだって知ってるから、あたしは笑うことができるの」
 たくさんの人たちがあたしを支えてくれている。それを自覚している。
 それに感謝している。
 それはあたしの、限りないちからとなる。
「でもそれらすべてと、常に一緒に居られるわけじゃない。…切り捨てるんじゃないわ。あたしは選ぶことしかできない。いつもいつも、あたしは選び続けてるの」
 ぴんぽーん。
「…っ」
 館内放送の合図だ。完全に不意を突かれて、蘭と絹枝は驚いた。
『202号室の川口さん。電話が入ってます。至急、管理室横まで来て下さい』
 事務のおばさんの声が高く響く。
 2人はしばらく見つめ合っていた。お互いの出方を探るように。
 絹枝は表情の無い表情で、蘭に視線を固定させていた。
 蘭は沈黙が辛くなって、軽く息をついた。 
「話の途中にごめんなさい。…行ってくる」
 すると絹枝が言う。
「───いいよっ、この話題はもうやめよ?」
「萩ちゃん?」
「…ははっ、ごめん。私、機嫌悪かったみたい…蘭に喧嘩売ったりして。本当に、ごめん」
 絹枝はわざとらしく笑った。蘭は首を激しく振る。
「そんなこと…っ」
「いいの。蘭は蘭のやりたい事の為に卒業するのに、私がとやかく言えるわけないし。…まぁ、それを今日まで黙ってたっていうのは、やっぱりムカつくけどね」
 ふーっ、と大きな溜め息をつく。
「外のサークルで何やってるか知らないけど、私は蘭を応援することしかできないもん」
「萩ちゃん…」
「ほーら。早く行きなよ、電話の人、怒っちゃうよ」
「あ…うん」
「───ありがと。蘭の本音、聞かせてくれて」



「もしもし、川口です」
「なぁに? 折角、この私が電話してるのに、元気無いじゃない」
「───流花ちゃんっ!?」
 蘭は飛び上がった。思いもよらない人物からの電話に驚いて、何故だろう、涙が滲んだ。
 沈んでいた気持ちが一気に浮上した。いつも以上にテンションが高くなる。
「やだっ、久しぶりぃっ。本当に久しぶりじゃない〜っ。元気? 今、どこぉ?」
「実家よ。戻って来てるの」
「旦那様は?」
「今回は留守番させてる。…こっちは元気よ。そっちは?」
「何言ってるのぉ、元気だよぉ〜っ」
「史緒に苛められてたりしてない?」
「あははっ。史緒さんはそんなことしないもん」
「分からないわよ、あいつ、意地悪いし」
「もー、流花ちゃんてば」
「そうそう。来月、だったかしら? 史緒ん家の法事あったでしょう? 数年ぶりに顔、出そうかと思って」
「えっ、じゃあ、こっちに来るの?」
「ええ」
「お仕事忙しいんじゃない?」
「時間取れそうなの。…それに」
 久しぶりに私の教え子にも会いたいしね。…流花はそう、付け足した。



 10分程で流花との電話を終わらせ、蘭が部屋に帰ると絹枝はもう寝ていた。
 壁側に体を倒し、毛布を巻き込むようにして。
 部屋の明りは点いたままだった。蘭に気を遣ってくれたのだろう。
「萩ちゃん…?」
 反応は無かった。
 ありがと、蘭の本音、聞かせてくれて。
 そう、絹枝は言った。
(こっちこそ、ありがとうだよ)
 本音を、聞いてくれて。
 ───あたしは皆が思ってるほど、強くはないよ。ひとつ以上の自分の場所で、うまく立ち回ることができないんだもん。
 蘭は苦笑した。でも、泣きたくなった。
 A.CO.と同じく、学校だって自分が選んだ場所のはずなのに。
(蘭にとって、私たちとの学校生活って、あんまり重要じゃないみたい)
 重要だよ。優しい友達がいっぱいいるもの。
 でも、そんな風に思わせてしまうほど、自分はうまく立ち回れなかった。
 ひとつ以上の場所にいられないなら、ひとつに絞ればいい。ひとつ以外を捨てればいい。
 蘭にとってその「ひとつ」は悩む必要も無く明らかで、そう、阿達史緒がいる場所だ。
 それが分かっているのに、それでも、学校生活を捨てることができなかった。
 ひとつ以上の場所で生活していたのに、努力が足りなかったのだ。
 蘭は絹枝の寝顔を覗き込んだ。目を閉じて、微かな呼吸が聞こえる。
(…)
 ありがとう。叱ってくれて。気付かずに済ませたくなかった事実に、気付かせてくれて。
 蘭は上半身を屈めて、絹枝の頬に、キスした。すると。
「ぎゃーっ!」
 がばっ、と。絹枝は悲鳴を上げて飛び起きた。
 ありゃ、と蘭は合わせて視線を上げる。
 絹枝は頬に手を当てて、顔を赤くして、ふるふると震えていた。
「な…、何すんだ、蘭っ」
「あははっ、あれ、起きてたのぉ?」
 わざとらしい蘭の台詞に、絹枝はもう片方の手で拳を握り締めた。
「おまえとゆー奴は…っ」
 毛布を剥いで、戦闘態勢にはいる。
「蘭っ!」
「あははっ」
 蘭は部屋の中を器用に逃げ回った。
「おやすみのキスでーす」







 突き抜けるように青い青い空の、暖かい日だった。
「蘭。もしかして、不機嫌?」
 4月。
 タクシーで現地につくと、蘭は目ざとく関谷篤志と七瀬司の姿を見付け、法事の参集までの余った時間、竹林の木陰で雑談をしていた。
 黒服ばかり着た人間が集まる場所など、何度来ても慣れるはずがない。そのせいで蘭はいつもより無口になっていたけれど、司に指摘された事実にはそれ以外の理由もあった。
「はい」
 と、素直に答える。
 篤志と司は黒いスーツを着ていて、蘭もボレロつきの黒いワンピースを着ている。このような場所で不謹慎かもしれないが蘭はしっかりと篤志の隣をキープしていた。
「蘭でも不機嫌なことってあるんだな」
 その篤志の発言にも、蘭は多少むっとした。いつもならあまり気にしなかっただろうが、今は司に指摘された通り、自分が不機嫌になっているせいだろう。
 その理由を、蘭は口にする。
「だって流花ちゃんたら、こっちに来るって言って、結局ダメになったの、これで2度目ですよ? 会えるの楽しみにしてたのに。偶に帰っても、いつもどこか飛び回ってるし、もぉ」
 当日になってのドタキャンに、文句を言うこともできなくて、蘭は無口で、不機嫌になっていた。(法事という席にやっぱり不謹慎かもしれないが)久しぶりに会えるのを、本当に本当に、楽しみにしていたのだ。
「流花…って、確か2番目の?」
 篤志は小声で、司に訊いた。司は頷いて、
「そう。僕の先生でもある」
 と、答えた。次に司は宥めるように蘭に言った。
「でも、まぁ。流花さん、仕事忙しいし」
「お仕事が忙しいのは分かってます! …でも、もぉ半年近く会ってないんですよぉ。───淋しいんです。あたし」
 微かに声を震わせ、蘭はうつむいた。
 すると、こん、と頭を叩かれた。
 顔を上げると、今度はぽんぽんと軽く叩かれた。
「向こうも淋しいんだ。お互い様だろ」
 篤志だった。
「待ち人が来なかったからって文句言うな。蘭のほうから、会いに行ってもいいだろ?」
「篤志さあぁあんっ」
「うわっ。───おまえ、その抱き付きグセどうにかしろっ」
 やっぱり好きだなぁと思う。
 大好き。泣きたいくらい、好き。
 その優しさも厳しさも。一途さも。
(あたし、篤志さんに惚れましたっ!)
 一目惚れも嘘じゃない。だって、あたしは、本当に一目で分かったもの。
 出会えた。愛しいと思える存在に。
 世界で一番、好き。


「あ、それは嘘。俺もそれくらいは分かるよ」
 と。以前、篤志は蘭の何百回目かの告白(?)をあっさりと否定したことがあった。
「篤志さん?」
 蘭としては、毎回真剣な告白(?)を簡単に否定されたものだから、怒るより先にびっくりした。
「ど、どうして嘘なんて思うんですかっ」
 蘭が詰寄ると、篤志は5秒程悩んでから、
「じゃあ、もし。史緒と俺が同時にいなくなったら、蘭はどっちを捜す?」
 と、切り返した。
「え?」
 ここで史緒の名前が出てくるとは思わなかった。蘭が呆けてる間に、篤志は続きを口にした。
「史緒だろ」
 篤志は静かに笑った。
 蘭は目を丸くした。
(史緒さん───?)
 蘭は篤志に否定されたことより、篤志からそんな風に史緒の名前が出てきたことに驚いていた。
 胸から込み上げる喜びがあった。口元が自然に緩んでしまう。
 だって、そんな風に思われてたなんて。
 篤志が蘭を理解している証拠だ。
 すごくすごく嬉しくなって、浮かれてしまうのを隠すために、蘭はわざと高い声を出した。
「それって焼もちですか、篤志さんっ」
「違うっ」
 篤志の手を離れて、蘭は一度自分を落ち着かせた。ゆっくりと息を吸い、篤志に微笑んだ。
「───だめですよ、篤志さん。そんな喩じゃ、私の気持ちを否定できません」


「あたしは篤志さんを捜します。───でも、史緒さんも捜すと思う。だって、篤志さんも史緒さんを捜すはずですから」
「?」
 史緒と篤志が居なくなるなんて、そんなこと考えたくない。
 でももし、本当にそんなことが起きたら、きっとじっとしていられない。捜さなきゃいけない。そんな逸る気持ちが、きっとあたしを駆り立てる。
 そう。あの時のように。
「…もしあたしが史緒さんを先に見つけたら、あたしは史緒さんの近くに居ながら、篤志さんを捜します。篤志さんが戻る場所は、そこなんですから、離れてしまったら意味ないですもの。…ねぇ、逆にあたしが篤志さんを先に見つけたら───…一緒に史緒さんを捜しに行きましょう?」
 篤志は蘭を見つめ、黙り込んでしまった。蘭の言葉の意味を理解したようだった。
 蘭は目を細めて笑う。
「あたし達2人とも、史緒さんのこと好きなんですよ。だから史緒さんを抜きにして、あたし達2人の関係を語ることはできないんです。そうでしょう?」




*  *  *




 あまり気持ちの良くない声が、小さく聞こえてくるのはしょうがないのかもしれない。
 今日の、この顔合わせでは。
(───誰だ? あそこで騒いでるガキ共は)
 どこからか聞こえてくる、噂話。場にそぐわない若人3人に好奇心を抱いた者がいるのだろう。
(知らんのか? あの背の高いのが関谷篤志。社長の跡取り第一候補だ)
(親戚というだけで社長令嬢の婚約者に収まった若造か)
(隣にいるのは蓮家の末娘。…日本に来ているというのは本当だったんだな)
(蓮家はアダチと違い、子供が多い割に、いざこざも無くすんなりと跡取りが決まったそうじゃないか。皮肉なものだ)
(もう一人…。あれは七瀬…司、だな)
(七瀬…っ? 8年前の事件の…あの子供か、あんなに大きくなったか)
 アダチのトップである阿達政徳のかつての妻・阿達咲子の法事とあればアダチの幹部が来ているのはごく当然のことと言える。それに、今日ここに集まっている人間は50人近くいる。その中に噂好きの人間がいても不思議ではないだろう。
 篤志と蘭と司はそれを聞いていた。
 3人3様であるが、面白くないのは3人同じだ。
「おい、放っておけ」
「何で僕に言うの、篤志」
 司の問いに篤志は答えなかったが、ああいう連中に皮肉の一つでも返しそうな気性を持っているから、篤志は司を止めたのだ。
 司は昔のこと…特に8年前のことを、赤の他人に言われるのが何より嫌いだ。
 篤志が司や史緒と出会ったのは、つい5年前のこと。8年前の事件を直接知っているわけではないが、一条和成から一通りのことは聞かされていた。司や史緒はそれについて口にすることは一度もなかった。
「そうだっ」
 と、突然、蘭が叫んだ。
「あたしと篤志さんが結婚すればいいと思いませんっ? ウチとアダチがくっつけばすごいニュースじゃないですかぁ」
 篤志は手を額に添えて呆れたようで、司は一瞬の間のあと笑い出した。
「蘭…。篤志だけじゃアダチは関係ないよ」
 そういう問題か? と篤志が突っ込む。蘭はそれでもめげずに、
「あ、そっか。じゃあ、史緒さんもいれて3人で結婚しましょおっ! すごく良いアイディアじゃないですか!」
「…あのな」
 蘭は両手を胸の前で組み、飛び跳ねている。本当に、良いアイディアと思っているあたり、ある意味では大物と言えるかもしれない。
「それから祥子さんとぉ、健さんとぉ、もちろん司さんもっ! そうすると三佳さんもですよねっ」
 そんな風にはしゃいでいる蘭を見て、司も先程の噂話への憤りも忘れることができた。
 篤志は、はぁ、と息をついて、首の後ろをがりがりと掻く。そして呆れたような声で。
「…それって、いつものメンバーが集まっただけだろ」
「そうとも言いまーす」
 両手を広げて大きな声で、蘭は思いきり笑った。







20話「ran1」  END
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